13 関係: 天皇陵、家老、宇都宮藩、尊王攘夷、万里小路博房、幕末、元治、藩、江戸幕府、戸田忠至、戸田忠恕、明治、文久。
天皇陵
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.
家老
家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.
宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
尊王攘夷
尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.
万里小路博房
万里小路 博房(までのこうじ ひろふさ、文政7年6月25日(1824年7月21日) - 明治17年(1884年)2月22日)は、江戸時代後期の公卿、明治時代の政治家。.
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幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
元治
元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
戸田忠至
戸田 忠至(とだ ただゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての武士、大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。.
戸田忠恕
戸田 忠恕(とだ ただゆき、ただくみ、ただひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。下野国宇都宮藩第6代藩主。戸田氏25世孫にして田原戸田家14代当主。田原戸田家の嫡流。宇都宮藩戸田家12代。4代藩主戸田忠温の六男で5代藩主戸田忠明の弟。正室は戸田光則(松平光則)の娘。養子に忠友。 安政3年(1856年)、兄・忠明の死で跡を継ぎ、従五位下越前守に任官した。幼少だったために家老の間瀬和三郎(後の戸田忠至)や県勇記の補佐を受け、忠至の活躍もあって歴代天皇陵修理を建議して山陵奉行の任務に当たり、主に家老2人が中心となって京都、大和、河内、近江各地の山陵を調査し、修理にあたった。 忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)に天狗党の乱が起きた折、筑波山に出撃した宇都宮藩兵が幕府の命令が下る前に帰陣してしまったことや、元々藩内に藩主一門の戸田光形を始めとする宇都宮天狗党なる攘夷勢力を抱えていたことなどもあり、反勢力に関しては既に処分済みではあったものの幕府の怒りを買うこととなり、再出陣を願い出たが、領国7万7000石のうち2万7000石を減じて5万石とし、忠恕は隠居謹慎の上養嗣子の忠友に家督を譲り、田原戸田家は陸奥棚倉藩に転封とする命が下されることとなった。しかし、県と岡田真吾が山稜補修で親交のあった正親町三条実愛と忠至に温情を請い、その力によってこの処分は延期、中止された。 慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍に与し、大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府軍により攻められ宇都宮城は落城したが、新政府軍の加勢を得て宇都宮城を再び奪回(宇都宮城の戦い)。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず同年5月、22歳の若さで病死した。墓は田原戸田家菩提寺である宇都宮の英厳寺。戒名は霊光院殿神岳忠烈大居士。没後、従三位を贈位された。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
文久
文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.