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山名教之

索引 山名教之

山名 教之(やまな のりゆき)は室町時代の守護大名。伯耆・備前守護。 山名熙之の子として生まれる。幼名は鶴房、のち室町幕府第6代将軍足利義教より偏諱を受けて教之と名乗る。 父・熙之が家督を継承しなかった(継ぐことなく早世したか)ため、祖父の山名氏之から直接家督を譲られ、幼くして伯耆守護の座に就く。家督の譲渡時期は不明だが、応永34年(1426年)5月には「山名鶴房」として文献に現れ、永享10年(1438年)8月には兵部少輔として見える。それ以降、40年余りに渡って伯耆国に君臨、国人衆を支配体制に組み込み、強固な地盤を築いた。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱において同族の山名持豊(宗全)・山名教清と共に赤松満祐の領国に攻め入り、満祐の首を挙げた功績で教之は恩賞として備前が与えられ、伯耆・備前2か国の守護となった。享徳2年(1453年)頃に長男の豊之に家督を譲り、応仁の乱で宗全に従い西軍の部将として戦ったが、赤松政則に備前を奪われた。また、文明3年(1471年)に豊之が伯耆で殺害されている。 文明5年(1473年)死去。次男の豊氏は同族の因幡守護山名熈幸の養子になっていたため、3男の之弘が伯耆守護職を継いだが、文明8年(1476年)に赤松政則の支持を得た4男の元之が伯耆守護となり、山名政豊の支援を受けた孫の政之と争った。.

48 関係: 室町幕府室町時代家督守護守護大名小鴨之基山名宗全山名小太郎山名之弘山名元之山名熈幸山名熙之山名豊之山名豊氏山名氏山名氏之山名政之山名政豊山名教清幼名享徳伯耆国征夷大将軍応仁の乱応永嘉吉嘉吉の乱備前国兵部省因幡国国人相模国足利義教船岡山城赤松満祐赤松政則永享文明 (日本)1426年1438年1441年1453年1471年1473年1476年1月13日 (旧暦)2月10日

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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小鴨之基

小鴨 之基(おがも ゆきもと、? - 応仁2年9月7日(1468年9月23日))は、室町時代の伯耆国の国人。官位は安芸守、備前守護代を務めた。.

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山名宗全

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区 山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。.

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山名小太郎

山名 小太郎(やまな こたろう、生没年不詳)は、室町時代の武将。実名は不詳。山名教之の5男で豊之、豊氏、之弘、元之の弟。 文明11年(1479年)、兄の元之と甥の政之が伯耆守護職を巡って対立し、内紛が生じると元之党に属して守護側と戦った。しかし文明13年(1481年)8月に敗れて美作に逃亡、赤松氏の保護を受けた。延徳元年(1489年)、赤松氏の支援を受けた小太郎は甥で元之の子新九郎を擁立し、再度伯耆へ侵入したが、政之の弟の尚之と戦って敗れ、同国由良庄より逃亡した。その後の消息は不明(異説あり、後述)。 一説によれば小太郎は延徳元年正月、由良庄からの逃亡途中に現在の関金町付近で討死したといわれる(参考・『塩冶高貞と南條氏追録』)。赤松氏の支援を受けた小太郎が逃亡先に美作を選び、逃亡路として関金の奥にある犬挟峠を通ろうとしたことは想像に難くなく、十分に有り得る説であるが、根拠となる参考文献が示されていない。そのため、本項では参考までに留めることにする。.

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山名之弘

山名 之弘(やまな ゆきひろ、生没年不詳)は、室町時代の武将、守護大名。伯耆守護。山名教之の3男で豊之、豊氏の弟、元之、小太郎の兄。子に澄之。官位は右馬頭。 文明3年(1471年)9月に伯耆守護だった長兄の豊之が殺害され、文明5年(1473年)に父と本家当主の山名宗全が相次いで病没、一気に山名氏が混乱していく中、伯耆守護職を継承した。同5年9月19日には伯耆下向に先立って近江坂本に滞在、11月21日には伯耆・円福寺等の諸役を免除、禁制を掲げた。 之弘は伯耆守護として美作における赤松政則の旧領回復を防ぐ立場にいたが、之弘自身は赤松氏ら東軍の影響を強く受けており、山名家中からは正統な家督とは認められなかった。そのため、之弘の在職はわずか3年程で終わり、弟の元之に守護職を譲った。以後の消息は不明。.

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山名元之

山名 元之(やまな もとゆき、生没年不詳)は、室町時代の守護大名。伯耆守護。山名教之の4男、豊之、豊氏、之弘の弟、小太郎の兄。子に新九郎。通称は九郎(五郎とも)、官位は兵部少輔。子に新九郎。 寛正8年(1465年)9月には「山名九郎」として見え、文明8年(1476年)頃からは伯耆守護だった兄之弘に代わって家督を継承、赤松政則の支援を受けて伯耆守護職に就任した。しかし、元之は山名氏と対立する赤松氏の影響を強く受けていたため、家督相続と守護就任には山名家中から強い反発が起こり、文明11年(1479年)には守護職を巡って甥の政之と対立し、内乱となった。 本家の当主山名政豊の支援を受けた政之に対して、元之は弟の小太郎や南条氏ら国人勢力と結び対抗したが、文明13年(1481年)8月には耐え切れず円山城より河村郡竹田谷に退き、赤松氏の領国美作へ逃れた。この戦いで南条下総入道、赤松氏家臣の中村五郎左衛門らが討死し、同年9月には西伯耆の法勝寺城などで抵抗していた元之党の残党も一掃され、一連の反乱は元之の敗北に終わった。美作逃亡後の消息は不明だが、息子の新九郎が登場する延徳元年(1489年)正月までの間に没したものと推察される。.

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山名熈幸

山名 熈幸(やまな ひろゆき)は、室町時代の因幡守護。.

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山名熙之

山名 熙之(やまなひろゆき、生没年不詳)は、室町時代の人物。父は山名氏之、子に教之、官位は大膳大夫。 諱の「熙」の字は、父・氏之の従弟・義兄弟にあたる山名宗家当主・山名時熙の偏諱を受けたものと思われる。熙之は山名氏之の子息で本来ならば、伯耆守護を継承する立場にいたが、氏之は熙之ではなく、孫つまり熙之の子息である教之(当時はまだ幼く鶴房と名乗っていた)に家督を譲った。そのため、熙之は表舞台に出ることもなく没した。事実、熙之名義の発給文書は今のところ確認されておらず、熙之の人生は謎に包まれている。『光源院文書』所収「伯州山名代々次第」の注記には「霊光(氏之)息、無治世、自霊光禅栖(教之)へ家督」と記されている。没年・享年は共に不明、法名は「慈光院殿明遠瑞賢居士」。 ひろゆき Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.

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山名豊之

山名 豊之(やまな とよゆき)は、室町時代の守護大名。伯耆守護。.

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山名豊氏

山名 豊氏(やまな とようじ)は室町時代の因幡守護。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名氏之

山名 氏之(やまな うじゆき)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。伯耆守護。父は山名師義、兄に義幸、弟に義熙、満幸。子に熙之。養父(叔父)に山名時義、義兄弟(従弟)に時熙。通称は隠岐二郎、官位は右馬頭、隠岐守、大膳大夫。 康応元年/元中6年(1389年)に惣領だった叔父時義が亡くなると伯耆の守護職を継承した。しかし翌明徳元年/元中7年(1390年)、山名家中の家督争いに介入した3代将軍足利義満によって氏之・時熙兄弟に討伐令が下ると、氏之は弟の満幸によって本拠地の伯耆に攻め込まれ没落、備後へ逃れ伯耆は満幸に奪われた。更に翌年の明徳2年/元中8年(1391年)、京都へ密かに戻った氏之らは清水寺にて義満と対面し赦免され、明徳の乱で叔父の氏清が戦死、満幸が没落すると再び伯耆守護職に就任した。 明徳4年(1393年)1月4日に伯耆守護職に就いた氏之は以後応永年間末期まで約30年間在職した。この間に発給された文書の多くは今もなお現存しており、氏之は守護代に佐々木信濃入道や田原清高などを任命して分国の統治を行った。晩年の氏之は法名の「源賛」を名乗るようになり、応永31年(1424年)10月23日に久米郡定光寺に「伯耆国久米郡在庁富成跡」を寄進したのを最後に没したものと見られる。ちなみに子の熙之には家督を譲らず、孫の教之に直接譲ったことが明らかになっている。 氏之はよく「氏幸」とも表記されることがあるが、当時の文書や史料には「氏之」と記されている。例として挙げるならば応永4年(1397年)の『三宝院文書』所収「山名氏之遵行状」などがあり、時代は下るが天文18年(1549年)の成立とされる『光源院文書』の「伯州山名代々次第」にも「大膳大夫氏之」と記されている。加えて氏之以降の伯耆山名一族が「之」を通し字としていることも踏まえると「氏之」の表記の方が本来の姿に近いものと思われる。.

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山名政之

山名 政之(やまな まさゆき、生没年不詳)は、室町時代の伯耆守護。父は山名豊之、弟に山名尚之、官職は刑部少輔。.

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山名政豊

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。.

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山名教清

山名 教清(やまな のりきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名義清(よしきよ)の子で、山名義理の孫に当たる。子に政清。官位は修理大夫、法名は浄勝。 元服時に室町幕府第6代将軍・足利義教より偏諱を受けて教清と名乗る。永享元年(1429年)から石見の守護に任じられていたが、永享9年(1437年)に同族の山名熙貴に交代させられた。嘉吉元年(1441年)に将軍・義教と熙貴が共に赤松満祐の部下の者に殺害されると(嘉吉の乱)、同族の山名持豊(宗全)・山名教之と共に満祐討伐軍に加わり、恩賞として満祐の領土美作と熙貴の領土石見を獲得した。以後の消息は不明で、子の政清が美作守護職を受け継いでいる。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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伯耆国

伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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兵部省

兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.

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因幡国

因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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船岡山城

船岡山城(ふなおかやまじょう)は京都市北区にある中世の日本の城(山城)跡。別名、船崗山城、山名城とも呼ばれている。.

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赤松満祐

赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.

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赤松政則

赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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1426年

記載なし。

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1438年

記載なし。

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1441年

記載なし。

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1453年

記載なし。

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1471年

記載なし。

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1473年

記載なし。

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1476年

記載なし。

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1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

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2月10日

2月10日(にがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から41日目にあたり、年末まであと324日(閏年では325日)ある。.

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