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尾張藩

索引 尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

351 関係: 加茂郡加茂郡 (三河国)執権厚見郡お亀の方側室千村良重南紀派可児郡参勤交代名古屋名古屋城名古屋市名古屋県各務郡吉田生風庵多芸郡夢想流大坂の陣大道寺氏大道寺政繁大高城大野郡大政奉還天保天竜川天領天明奥殿藩定府宝暦宝暦治水事件家政安八郡安芸国安政安政の大獄寺部城寛延寛文寛政小御所会議小田原城小折城尾張徳川家尾張国山県郡 (岐阜県)山村良安山村良啓山村良勝...山村良豊岐阜県川辺郡不破郡師崎中島郡 (岐阜県)中島郡 (愛知県)丹羽郡三宅康直三河国一揆一条不二流一条兼香一橋徳川家一橋派平岩親吉幕末久々利城交代寄合享保二条宗基広島藩井伊直弼今尾藩今尾陣屋廃藩置県伊達郡伊那郡会津藩伝馬宿入用弘化征夷大将軍御三卿御連枝御附家老徳川吉宗徳川吉通徳川家宣徳川家康徳川家光徳川家継徳川家斉徳川宗勝徳川宗睦徳川宗春徳川将軍家徳川五郎太徳川御三家徳川光友徳川綱誠徳川継友徳川義宜徳川義直徳川茂徳徳川治行徳川斉匡徳川斉荘徳川斉温徳川斉朝徳川慶勝徳川慶臧後北条氏忍藩信濃国土岐郡土岐氏北見国北条高時北条氏北条時行ヒノキ嘉永和新心流円明流内分分知八神城公武合体元和 (日本)元禄元文勝海舟犬山城犬山藩知多半島知多郡石川光忠石川章長石川正光石川氏石河忠喜石河光籌石河光當石河光豊石河光茂石河光晃石河正章石津郡石清水八幡宮福島県福島関所福島正則福沢流稲葉騒動竹腰友正竹腰勝起竹腰睦群竹腰正定竹腰正富竹腰正信竹腰正武竹腰正映竹腰正旧竹腰正晴笠松県筑摩郡篠島紀州徳川家紀州藩網走郡織田信忠織田信長織田貞幹美濃国羽栗郡猪谷流生駒吉乃生駒宗勝生駒利勝生駒利豊生駒致長生駒氏田中不二麿甲府藩甲斐国相給鎌倉幕府遠江国荒川義広青松葉事件預地領知朱印状額田県親藩駒塚村高須藩議定貫流鳥羽・伏見の戦い鸚鵡籠中記近江国阿部正勝阿部氏 (徳川譜代)赤目城関ヶ原の戦い間宮氏藩の一覧藩校藩札葉栗郡蒲生郡肥田氏金沢大学長州征討陣屋陸奥国暗殺柳生の大太刀恵那郡松平友著松平定敬松平家忠 (東条松平家)松平容保松平乗穏松平忠吉松平義孝松平義居松平義建松平義当松平義和松平義勇松平義端松平義真松平義生松平義行松平義裕松平義昌松平義方松平義敏松平武成桜田門外の変桑名藩梁川藩横井時泰正徳 (日本)武儀郡毛利広義毛利広盛毛利氏 (源氏)江戸江戸藩邸江戸時代の三貨制度池田郡洋学校渡辺定綱渡辺宣綱渡辺守綱渡辺寧綱渡辺久綱渡辺在綱渡辺綱渡辺綱保渡辺綱光渡辺綱倫渡辺綱聡渡辺綱通渡辺直綱 (尾張藩士)渡辺規綱渡辺重綱渡辺治綱清洲城清洲越し清洲藩源義家源義隆滝川一益滝川忠征滝川氏木全忠澄木曽谷木曽郡木曾氏本巣郡成瀬正泰成瀬正成成瀬氏明倫堂明治明治維新春日井郡海西郡 (愛知県)海東郡海津郡浜田藩新陰流方県郡斜里郡文久文政日守流日間賀島日本語摂津国愛知県愛知県立明和高等学校愛知県立旭丘高等学校愛知郡 (愛知県)慶安慶応慶長1600年1607年1610年1611年1616年1619年1625年1650年1671年1693年1694年1699年1711年1713年1730年1732年1735年1738年1739年1749年1750年1761年1783年1799年1800年1827年1839年1845年1849年1858年1863年1864年1868年1869年1870年1871年1898年1990年1997年1998年7月14日 (旧暦) インデックスを展開 (301 もっと) »

加茂郡

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加茂郡 (三河国)

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執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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厚見郡

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お亀の方

清涼院蔵) お亀の方(おかめのかた、天正元年(1573年) - 寛永19年9月16日(1642年10月9日))は、徳川家康の側室。石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘。.

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側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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千村良重

千村 良重(ちむら よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。.

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南紀派

南紀派(なんきは)とは、江戸時代後期に13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派。.

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可児郡

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参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.

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名古屋

名古屋(なごや、Nagoya).

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名古屋城

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。.

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名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

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名古屋県

名古屋県(なごやけん)は現在の愛知県にあった県。以下の2次にわたって存在した。.

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各務郡

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吉田生風庵

吉田生風庵(よしだしょうふうあん)は、表千家で代々宗匠を務める名古屋の茶家。吉田家の庵号は生風庵という。.

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多芸郡

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夢想流

夢想流(むそうりゅう)とは、上泉秀信(上泉権右衛門)が開いた居合流派。上泉流、無楽流上泉派、家流ともいう。 上泉秀信は上泉信綱の孫であったとされるが、父である上泉秀胤が新陰流剣術を学ばせず、長野無楽斎から無楽流居合を学ばせたと伝えられる。 やがて秀信は、尾張藩の剣術師範となっていた柳生利厳(柳生兵庫介)のもとを訪れ、そこで利厳の高弟・高田為長(高田三之丞)と試合をした。結果は、1本目のみ高田が勝ったが、2本目以降は上泉が勝った。 これにより、柳生家の門弟や尾張藩の多くの者が入門したという。 秀信は、晩年、もはや居合を遣えなくなったと悟り、弟子が「是入」と号して、隠居した。そして居合を遣えない以上、刀を帯びていても無駄という考えから、隠居後は全く刀を持たなかったという。 秀信の弟子の中で最も傑出していたとされる若林尚好が当流を継承した。若林尚好は藩主・徳川光友にも指南し、以後、尾張藩では当流の師範が代々置かれた。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大道寺氏

大道寺氏(だいどうじし)は、日本の氏族の一つ。 現在の京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥と思われる。大導寺家は京都千本釈迦堂へ移住したとされている。 室町時代中期に大道寺太郎が伊勢盛時(後の北条早雲)らと伊豆国へ下向し、伊勢氏が戦国大名北条氏になるとその重臣として仕えた。.

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大道寺政繁

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。父は大道寺重興。 大道寺氏代々の通称である「孫九郎」を名乗る。通称は大道寺駿河守。.

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大高城

大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。.

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大野郡

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大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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天竜川

諏訪湖より流れ出た天竜川(長野県岡谷市) 天竜川(てんりゅうがわ)は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川のひとつ。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5,090km2(日本全国12位)。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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奥殿藩

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた藩。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。 大給藩としての立藩より幕末まで石高(1万6000石)は変わらず、一貫して松平家(大給松平家)が支配した。.

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定府

定府(じょうふ)とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態を示す。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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宝暦治水事件

宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。.

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家政

家政(かせい)とは、.

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安八郡

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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安政の大獄

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。 江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。。.

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寺部城

寺部城(てらべじょう)は、現在の愛知県豊田市寺部町にあった日本の城(平城)。.

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寛延

寛延(かんえん)は日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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小御所会議

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都・小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定(ぎじょう)・参与)が行った最初の会議である。大政奉還した徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。.

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小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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小折城

小折城(こおりじょう)は、現在の愛知県江南市に存在した日本の城(平城)。        .

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尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張中納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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山県郡 (岐阜県)

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山村良安

山村 良安(やまむら たかやす)は、江戸時代初期の武将・旗本。木曽代官。 文禄元年(1592年)、山村良勝の長男として誕生。 慶長13年(1608年)、父・良勝が隠居すると家督を継ぐ。大坂冬の陣には徳川義直に従い天王寺口を守備した。慶長15年(1610年)妻籠宿で六斎市(各月3日、8日、13日、18日、23日、28日)を立てることを許可する。 元和元年(1615年)、木曾が尾張藩の所領となると徳川義直に仕え木曾の代官に任じられた。元和4年(1618年)江戸にて出仕中に死去。享年27。 家督は再び父・良勝が継ぎ、義直に再出仕している。その後の家督は弟・良豊が継いだ。.

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山村良啓

山村 良啓(やまむら たかひら、正徳元年(1711年) - 天明6年(1786年)12月)は江戸時代の尾張藩士。第8代木曽代官・福島関守などを歴任した。「士侗」の字で呼称されることもある。子に良恭、良由(蘇門と号す)がいる。養女のとや(香詮院)は徳川宗武の側室となり、松平定信を生んだ。.

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山村良勝

山村 良勝(やまむら よしかつ/たかかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。木曽氏、徳川氏の家臣。信濃国妻籠城主。.

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山村良豊

山村 良豊(やまむら たかとよ)は、江戸時代前期の武士・旗本。木曽代官・福島関守。 慶長11年(1606年)、山村良勝の次男として誕生。 慶長19年(1614年)、父・良勝と共に京で徳川家康に拝謁した。寛永6年(1629年)、父の隠居を受けて家督を継ぐ。家臣を派遣して南部駒の牝馬30頭を購入し、木曽馬の改良をはかった。 延宝8年(1680年)、死去。享年75。家督は長男・良忠が継いだ。.

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岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.

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川辺郡

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不破郡

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師崎

師崎(もろざき)は、愛知県知多郡南知多町の大字。郵便番号は470-3503。.

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中島郡 (岐阜県)

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中島郡 (愛知県)

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丹羽郡

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三宅康直

三宅 康直(みやけ やすなお、文化8年7月24日(1811年9月11日)- 明治26年(1893年)8月9日)は、江戸時代後期の大名。三河国田原藩の第11代藩主。田原藩三宅家14代。 播磨国姫路藩藩主・酒井忠実の六男。母は忠実の側室・於満寿。正室は西尾忠善の娘、継室は本庄宗秀の養女(本庄道貫の娘)。子に酒井忠顕(長男)、酒井忠敬(三男)、竹腰正旧(四男)、娘(酒井忠彰正室)、娘(三宅康保正室)、娘(水野忠幹継々室)ら。官位は従四位、土佐守。号は王春、巴翁。幼名は稲若。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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一揆

一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutschの訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。.

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一条不二流

一条不二流(いちじょうふじりゅう)とは、江戸時代、尾張藩の佐々木大学高正(家次ともいう)が創始した捕手術、柔術の流派。捕手術、強法(骨法)、三道具術からなる。一乗不二法とも呼ばれる。 佐々木高正は、北窓流を学んで佐々木流を開いたほか、隠し武器を用いて当身の威力を増すことを考案し、これを骨法または強法と称し、強法(骨法)の流派の一条不二流も開いた。 佐々木流、一条不二流ともに尾張藩で伝承された。.

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一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

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一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

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一橋派

一橋派(ひとつばしは)は、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、御三卿の一つである一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推した一派。.

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平岩親吉

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久々利城

久々利城(くくりじょう)とは現在の岐阜県可児市に存在した日本の城(山城)である。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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二条宗基

二条 宗基(にじょう むねもと、享保12年5月20日(1727年7月8日) - 宝暦4年1月18日(1754年2月9日))は江戸時代の公卿。父は九条幸教。養父は二条宗熙。母は徳川三千君(尾張藩四代藩主徳川吉通の長女)。子に二条重良、二条治孝、五千姫(基子。本願寺文如室)がいる。号は後敬心院。元文4年(1739年)正月、将軍家より諱を得るという二条家の伝統に則り、養父同様、将軍徳川吉宗から偏諱(「宗」の字)を授かる。昭和天皇は宗基の来孫に当たる。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.

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今尾藩

今尾藩(いまおはん)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市平田町今尾)に存在した藩。藩庁は今尾陣屋に置かれた。.

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今尾陣屋

今尾陣屋(いまおじんや)は岐阜県海津市平田町今尾(美濃国安八郡)にあった尾張藩附家老を務めた竹腰(たけのこし)氏の陣屋である。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊達郡

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伊那郡

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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伝馬宿入用

伝馬宿入用(てんましゅくにゅうよう)とは、江戸幕府が直轄領(天領)に対して賦課した付加税で高掛三役の1つ。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.

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御連枝

御連枝(ごれんし)は、貴人の兄弟を指した敬称。根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。歴史的には以下の意味を持つ。 広義には、天皇家・将軍家・大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、当主の兄弟のうち仏門に入らずに特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家・御両典・御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することもあり得る存在として知られた。 狭義には、江戸時代に御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家を指して特にこう呼ぶことがあった。.

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御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川吉通

徳川 吉通(とくがわ よしみち)は、尾張藩の第4代藩主。.

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徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家継

徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。 第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川宗勝

徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)は、尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。 川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男。母は側室湯本氏(繁、円珠院)。尾張徳川家第4・6・7代当主である吉通・継友・宗春兄弟の従弟に当たる。正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。.

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徳川宗睦

徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし、1733年10月27日(享保18年9月20日)- 1800年1月14日(寛政11年12月20日))は、尾張藩の第9代藩主。尾張藩中興の名君と称された。.

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徳川宗春

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。 尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。 歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川五郎太

徳川 五郎太(とくがわ ごろうた、正徳元年1月9日(1711年2月25日) - 正徳3年10月18日(1713年12月5日))は、尾張藩の第5代藩主。第4代藩主徳川吉通の長男。母は吉通の正室である九条輔実の娘・瑞祥院輔子。輔子の実母益子内親王は後西天皇の息女。吉通の父の第3代藩主徳川綱誠は、第2代藩主徳川光友と3代将軍徳川家光の長女の霊仙院千代の嫡男である。つまり、五郎太は尾張徳川家・徳川将軍家と皇室・五摂家の血を引いていた。 父・吉通が25歳の若さで死去したために跡を継いだが、相続から2ヶ月ほど後に数え3歳で死去した。家督は叔父の継友が継いだ。 官位は生前にはなく、1713年(正徳3年)11月3日、贈従三位参議。法名は贈三品宰相眞巌院源譽法仙性蓬大居士。墓所は名古屋市東区筒井の徳興山建中寺にあったが、第二次世界大戦の空襲で破却されてしまい、現在は位牌が祀られるのみである。.

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徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

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徳川光友

徳川 光友(とくがわ みつとも)は、江戸時代前期の大名。尾張藩2代藩主。新陰流第6世。初名は光義(みつよし)で、こちらを名乗った期間の方が長い。.

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徳川綱誠

徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ/つななり、承応元年8月2日(1652年9月4日) - 元禄12年6月5日(1699年7月1日))は、尾張藩の第3代藩主。新陰流第7世。元服後の初名は徳川綱義(つなよし)。号は誠公。字は子明。官位は正三位、権中納言。 第2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男(正室の子であるため長男とされた)。母は徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)。幼名は五郎太。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉からは甥であり、又従兄弟でもある。正室は広幡忠幸の娘・新君(にいぎみ)。側室13名。40人の子女(22男18女)をもうけるも、正室との間に子はできず、また、その大半は夭折した。 子に徳川吉通(十男)、徳川継友(十一男)、松平義孝(十五男)、松平通温(十八男、喜之進・安房守)、徳川宗春(十九男)、松姫(十七女、前田吉徳正室)、喜知姫(叔父徳川綱吉養女)らがいる子女の出生順や数は系図によって多少異なる。胎死や流産で名前が付けられる前に死んだ子供がいるからである。。.

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徳川継友

徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、江戸時代中期の第6代尾張藩主である。.

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徳川義宜

徳川 義宜(とくがわ よしのり、1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。.

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徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

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徳川茂徳

徳川 茂徳(とくがわ もちなが)は、幕末の高須藩の第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。 高須藩時代は松平 義比(まつだいら よしちか)、尾張藩時代は徳川茂徳、一橋家時代は徳川 茂栄(とくがわ もちはる)を名乗った。.

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徳川治行

徳川 治行(とくがわ はるゆき)は、美濃高須藩の第5代藩主で、後に尾張徳川家世子となる。高須藩時代の名乗りは松平 義柄(まつだいら よしえ)。.

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徳川斉匡

徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主。 一橋徳川家2代当主徳川治済の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。.

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徳川斉荘

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、江戸時代の大名。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。.

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徳川斉温

徳川 斉温(とくがわ なりはる、文政2年5月29日(1819年7月20日) - 天保10年3月20日(1839年5月3日))は、尾張藩11代藩主。従二位権大納言。 11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。正室は田安斉匡の娘で従姉妹にあたる愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣とともに講義を聞くほど学問好きであった。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。.

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徳川斉朝

徳川 斉朝(とくがわ なりとも、1793年9月27日(寛政5年8月23日)- 1850年5月11日(嘉永3年3月30日))は、尾張藩の第10代藩主。第11代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。母は二条治孝の娘・乗蓮院。正室は家斉の長女で従姉にあたる淑姫。官位は従二位・権大納言。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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徳川慶臧

徳川 慶臧(とくがわ よしつぐ)は、江戸時代の尾張藩の第13代藩主。田安徳川家第3代当主徳川斉匡の10男。官位は従三位権中納言。紀州藩主徳川斉彊の養女(尾張藩第12代藩主徳川斉荘の娘)と婚約していた。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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忍藩

忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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土岐郡

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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北見国

北見国(きたみのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。「北見」の名は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつをとって松浦武四郎が命名したもの。道北から道東にかけて位置し、領域は現在の北海道オホーツク総合振興局管内及び宗谷総合振興局管内のうち幌延町と豊富町をのぞいた部分にあたる。設置当初は釧路国の網尻郡(現在のオホーツク総合振興局管内のうち美幌町と津別町にあたる部分と大空町の一部)は含まれなかった。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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ヒノキ

ヒノキ(檜、桧、学名:)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。人工林として多く植栽されている。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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和新心流

和新心流(やわらしんしんりゅう)は、関口流とも呼ばれ、関口弥伍右衛門氏成(せきぐちやごえもんうじなり)を流祖とする居合の流派である。江戸時代の伝書などには、柔新心流と表記する文献もある。.

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円明流

円明流(えんみょうりゅう・えんめいりゅう)は宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派。二天一流と異なり投剣(脇差や短刀を投げる手裏剣術)などの剣術以外の武術も多岐に含んでいた。 幕末まで、尾張藩、岡崎藩、龍野藩などで伝えられた。 鳥取藩で伝承された武蔵円明流と、本項の円明流とは技法や形が大きく異なっていたことが、伝書等の比較で判明している。.

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内分分知

内分分知(ないぶんぶんち)は、江戸時代における武家(特に大名、旗本)の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態をいう。新田分知は内分分知の形態の一つである。.

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八神城

八神城(やかみじょう)は、現在の岐阜県羽島市桑原町八神にあった日本の城である。県史跡。.

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公武合体

公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。対義語は尊皇攘夷である。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。.

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犬山城

山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にあった日本の城である。現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されている。.

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犬山藩

山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、藩として認められていなかった)。居城は犬山城(白帝城)であり、現在の愛知県犬山市犬山北古券を支配した。.

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知多半島

知多半島の位置。スペースシャトル 知多半島(左)、渥美半島(下)、三河湾(間)のランドサット。スペースシャトル 知多半島(ちたはんとう)は、愛知県西部、名古屋市や豊明市、刈谷市の南に突き出した半島。西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾に挟まれている。南は伊良湖水道を経て太平洋に通じている。.

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知多郡

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石川光忠

石川 光忠(いしかわ みつただ)は、尾張藩家臣、石川(石河)家初代当主。.

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石川章長

石川 章長(いしこ あきなが)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第3代当主。.

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石川正光

石川 正光(いしこ まさみつ)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第2代当主。.

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石川氏

石川氏(いしかわし)とは、石川を苗字とする一族のことである。 主に、次の5系統の石川氏が存在する。.

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石河忠喜

石河 忠喜(いしこ ただよし)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第5代当主。.

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石河光籌

石河 光籌(いしこ みつかず)は、尾張藩家老、美濃駒塚領主、石河家第7代当主。.

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石河光當

石河 光當(いしこ みつなお)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第6代当主。.

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石河光豊

石河 光豊(いしこ みつとよ)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第8代当主。.

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石河光茂

石河 光茂(いしこ みつしげ)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第9代当主。.

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石河光晃

石河 光晃(いしこ みつあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第10代当主。.

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石河正章

石河 正章(いしこ まさあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第4代当主。名字を石川から石河に改めた。.

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石津郡

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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福島県

福島県(ふくしまけん)は、日本の都道府県の一つ。県庁所在地は福島市。 東北地方の南部(南東北)に位置し、東北で宮城県に次ぐ2番目の人口と県内総生産を擁する。面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位、都道府県別の人口は全国21位、人口密度は全国40位である(いずれも2015年10月1日時点の国勢調査および全国都道府県市区町村別面積調による)。 市町村別では概ね、日本海側に面積の4割弱と人口の15%弱が、太平洋側に面積の6割強と人口の85%以上が分布する。.

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福島関所

木曾街道六拾九次 福島(歌川広重画) 福島関所(ふくしませきしょ)は、中山道にあった関所の一つ。諸国関所一覧表によると、福島(福島関所)は、所在地が信濃国筑摩郡で、管理者が山村甚兵衛家、管理者身分が尾張藩代官であった。また、関所の最重とされ、東海道の今切関所、箱根関所と同等の扱いであった渡辺(1992)、266頁。。現在は長野県木曾郡木曽町福島。関所は、宿場の北入口にあった。.

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福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

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福沢流

福沢流(ふくざわりゅう)は、福沢良秀(福沢千右衛門)が開いた槍術流派。軍用槍と称す。尾張藩御流儀であった。 福沢良秀の先祖・原良秀が、伊東流槍術開祖の伊東祐忠より槍術の奥義を授かり、これを家伝として伝えていたという。浪人であった福沢良秀は尾張で槍術を教えていたが、1694年(元禄7年)、尾張徳川家に仕官した。 その後、同じ尾張藩士で円明流の剣術家であった福富親茂が考案した軍用槍を学び、家伝の槍術に加えた。 尾張藩では藩主を警護する者にこの流派を学ばせたため、尾張藩の御流儀となり、福沢家は尾張藩の槍術師範家の一つとなった。 Category:槍術 Category:尾張藩.

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稲葉騒動

葉騒動(いなばそうどう)とは、明治2年(1869年)12月に、西尾張地域一帯(稲沢・一宮・津島の133村)で起こった大規模な農民一揆である。発端が、美濃路の稲葉宿であったことから、稲葉騒動と呼ばれた。.

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竹腰友正

竹腰 友正(たけのこし ともまさ、延宝元年(1673年) - 宝永3年4月19日(1706年5月30日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第3代当主。官位は従五位下、筑後守。2代当主・竹腰正晴の長男。 延宝5年(1677年)1月19日、父・正晴が死去したため、同年2月10日に5歳で跡を継いだ。正晴の従兄弟にあたる尾張藩主の徳川光友より偏諱を賜って友正と名乗る。元禄2年(1689年)に初めて将軍の徳川綱吉に拝謁、12月に従五位下筑後守に叙任、友正には嗣子がなかったために従兄弟の正映を養子とした 。宝永3年(1706年)4月19日に死去し、跡を養子の正映が継いだ。法号は友正院殿賢誉皓哲居士。墓所は愛知県名古屋市の相応寺。.

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竹腰勝起

竹腰 勝起(たけのこし かつおき、元文3年9月6日(1738年10月18日)- 寛政元年8月19日(1789年10月7日))は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第6代当主。 尾張藩主徳川宗勝の五男。母は妙観院。初名は勝紀(かつのり)。正室は脇坂安興の娘。子に竹腰睦群(長男)、井上正紀(次男)。官位は従五位下、山城守。 藩主の子として生まれたが竹腰正武の養子となり、宝暦4年(1754年)4月に将軍の徳川家重に初めて拝謁し、12月には従五位下壱岐守に叙任。先代の正武が宝暦9年(1759年)12月8日に死去したため、同年12月28日に3万石の跡を継ぎ、山城守に転任。明和2年(1765年)4月に徳川家康の150年忌のため、尾張藩主徳川宗睦の名代として日光山に参詣 。天明4年(1748年)8月、美濃国で3,000石を預けられる。天明5年(1785年)3月1日、長男の睦群に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)8月19日に死去した。法号は映徳院殿朝散大夫諦誉豊堂聴音大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.

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竹腰睦群

竹腰 睦群(たけのこし むつむら宗睦(むねちか/むねよし)より1字を与えられているため、本来は「ちかむら」、「よしむら」が正しい読みと思われる。、明和6年(1769年)- 文化元年10月26日(1804年11月27日))は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第7代当主。 第6代当主竹腰勝起の長男。正室は脇坂安親の娘。子は竹腰正定(長男)。官位は山城守。伯父で尾張藩主の徳川宗睦より偏諱を賜って睦群と名乗る。 天明5年(1785年)3月、将軍の徳川家治に初御目見得した。寛政元年(1789年)10月に家督を相続した。11月、勝起の代に預けられていた美濃の3,000石についてお伺いを立てたところ、五ヵ年間の預け置きが命じられた。しかし、寛政2年(1780年)3月病弱のために充分な管理ができないとの理由で預け地は回収された。同5月、病気療養のために尾張に帰った。 文化元年(1804年)10月26日に36歳で病没し、跡を長男の正定が継いだ。法号は徳樹院殿栄誉天恵悠久大居士。墓所は愛知県名古屋市の相応寺。 藩主宗睦が死去すると、家臣ながら、尾張藩において徳川義直の男系血筋の唯一の生き残りとなる。.

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竹腰正定

竹腰 正定(たけのこし まささだ(まさやす)、寛政3年(1791年) - 嘉永5年12月9日(1853年1月18日))は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第8代当主。 第7代当主・睦群の長男。正室は三日市藩主・柳沢里之の娘。子は正富(長男)、娘(井上正域正室)、娘(安部信古正室)。官位は従五位下、山城守。 文化元年(1804年)10月26日、睦群の死去により、同年12月16日に14歳で跡を継ぐ。文化4年(1833年)10月、将軍の徳川家慶に初御目見得し、12月に従五位下山城守に叙任。文化10年4月には尾張藩主・徳川斉朝の名代で江戸へ上る。天保8年(1837年)11月21日、病気のために家督を長男の正富に譲って隠居し出雲守に改め晴山と号した。嘉永5年(1852年)12月9日に62歳で死去した。法号は正定院殿朝散大夫聚徳晴山日円大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.

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竹腰正富

竹腰 正富(たけのこし まさとみ、文政元年6月30日(1818年8月1日)- 明治17年(1884年)7月24日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第9代当主。 第8代当主正定の長男。子はなく尾張藩において徳川義直の血筋の生き残りであったこの系統も正富の代で途絶えることとなった。養子として竹腰正厚、竹腰正旧を迎える。官位は従五位下兵部少輔。名は正諟、正美とも。幼名は鉄太郎、万丸。号は篷月(ほうげつ)。生年は文政2年(1819年)とも。 天保3年(1832年)11月、将軍の徳川家斉に初御目見得し、12月27日に従五位下壱岐守に叙任。後に山城守、兵部少輔に改める。天保8年(1837年)11月21日、父正定が隠居したため跡を継いだ。 尾張徳川家の後継者問題については、将軍家から養子を迎えるなど、成瀬正住ととも幕府寄りな立場をとった。幕末期の藩政のなかでは「ふいご党」に近く、安政の大獄で尾張藩14代藩主徳川慶勝が隠居すると、正富は15代藩主徳川茂徳の下で藩政を取り仕切った。 文久2年(1862年)9月10日、幕府から隠居を命じられた。それにともない、養子正旧に家督を譲った。さらに、同年9月14日、幕府から領地に戻ること、そして差控を命じられた。前藩主徳川慶勝の政治的な復権にともなう措置であった。 慶応4年(1868年)4月、旧幕府支持の態度により新政府から蟄居を命じられた。明治2年(1869年)3月10日、罪を赦された。ただし、藩政にたずさわことは禁止された。 明治17年(1884年)7月24日に死去した。法号は正五位竹腰正美君神儀。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。 詩文、和歌、書道、茶道にも通じていた。.

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竹腰正信

竹腰 正信(たけのこし まさのぶ、天正19年1月21日(1591年2月14日) - 正保2年4月30日(1645年5月25日))は、江戸時代初期の武将。山城守。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。美濃国今尾藩初代当主。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。 竹腰正時の長男で、母は志水宗清の娘(お亀の方)。正室は大久保忠隣の養女(孫)の春。子女は、竹腰成方(長男)、竹腰正晴(次男)、竹腰正辰(三男)、石川正光継室。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。 文禄3年(1594年)に実母・お亀の方が徳川家康の側室となり、翌文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に甲斐国に5,000石を与えられる。家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政・平岩親吉に代わって22歳の若さで執政に任じられ、名古屋城の普請を監督。翌年には将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜ったほか、元和5年(1619年)には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。.

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竹腰正武

竹腰 正武(たけのこし まさたけ)は、尾張藩の御附家老、美濃今尾領の第5代領主。石川章長の四男。 尾張藩附家老の竹腰家とは別家の竹腰正辰家の養子となり正辰家を相続していたが、本家の正映が宝永6年(1709年)1月18日に死去したため、同年3月22日に跡を継いだ。 宝永7年(1710年)3月、将軍・家宣に初めて拝謁、12月に従五位下山城守に叙任、元文4年(1739年)4月に藩主・宗勝に従って尾張に帰藩、延享2年(1745年)には将軍代替わりに宗勝の名代として江戸に上った。 宝暦9年(1759年)12月8日に死去。 正武の長男・正方は家督相続前の元文5年(1740年)に29歳で死去、寛保元年(1741年)に養子として正喜(植村家包の弟)を迎えたが宝暦3年(1753年)に34歳で病没、結局尾張藩主・徳川宗勝の五男・勝起が養子となって竹腰家の家督を継いだ。.

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竹腰正映

竹腰 正映(たけのこし まさてる、元禄2年(1689年)- 宝永6年1月18日(1709年2月27日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第4代当主。初代当主・竹腰正信の三男竹腰正辰の長男。官位は従五位下、山城守。 正辰は別家を立てていたが、元禄11年(1698年)に正映を本家友正の養子に出した(代わりに正辰家は石河正武を養子に迎えた)。宝永3年(1706年)4月19日に附家老竹腰家の先代で従兄の友正が死去したため、同年5月25日に正映が3万石の家督を継いだ。9月には将軍の徳川綱吉に初御目見得となり、12月には従五位下山城守に叙任した。 宝永6年(1709年)1月18日に21歳で死去し、跡を養子の正武が継いだ。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.

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竹腰正旧

竹腰 正旧(たけのこし まさもと、旧字体:正舊、嘉永4年2月2日(1851年3月4日) - 明治43年(1910年)8月22日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主。 三河国田原藩主三宅康直の四男。正室は中勘弥の養女。長男が竹腰正己。官位は従五位下、伊予守。.

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竹腰正晴

竹腰 正晴(たけのこし まさはる、寛永11年(1634年)- 延宝5年1月19日(1677年2月20日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第2代当主。 初代当主・竹腰正信の次男。正室は能見松平英親の養女(一柳直興の娘)。子は竹腰友正(長男)。官位は従五位下、山城守。 父・正信が正保2年(1645年)4月30日に死去し、嫡男であった兄の成方が出家し家督を譲られたため、同年5月26日に跡を継いだ。このとき、弟の正辰に6,000石を分与している。 慶安2年(1649年)5月、将軍の徳川家光に初めて拝謁する。承応2年(1653年)1月、従五位下山城守に叙任、4月に家光の年忌で日光山に藩主光友の名代として参詣、寛文2年(1662年)10月に暇を貰って尾張に帰るが、寛文11年4月には再び光友の名代で日光山に登った。 延宝5年(1677年)1月19日に死去し、跡を5歳の長男の友正が継いだ。墓所は愛知県名古屋市の相応寺。法号は正晴院殿曽誉景諦居士。.

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笠松県

松県(かさまつけん)は、1868年(慶応4年)に美濃国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の岐阜県南部に広く分布している。.

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筑摩郡

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篠島

島(しのじま)は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれるゼンリン (1997)、132頁。2015年(平成27年)の国勢調査における人口は1,653人、世帯数は622世帯である(2013年6月26日時点のアーカイブ)南知多町、2012年。日間賀島・佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。古くから伊勢神宮との関係が深く、三節祭には干鯛(おんべ鯛)の神饌が行なわれる。.

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紀州徳川家

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家、紀伊中納言家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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網走郡

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織田信忠

織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。岐阜城主。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田貞幹

織田 貞幹(おだ さだもと)は、尾張藩家老。織田信長九男・信貞の子孫。尾州有楽流茶人。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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羽栗郡

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猪谷流

猪谷流(いがいりゅう)は、猪谷和充が開いた剣術流派。居合や縄術も伝えていた。 尾張藩士・猪谷和充は、父の猪谷和時(柳生厳包の弟子)より新陰流を学び、尾張藩で盛んであった制剛流と円明流も学んで、3流を合わせて猪谷流を開いた。 猪谷家は尾張藩の剣術師範家の一つとなり、明治初期の尾張廃藩時の猪谷忠蔵(1877年(明治10年)没)まで、猪谷流を教授した。 Category:剣術流派 Category:居合 Category:尾張藩.

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生駒吉乃

生駒 吉乃(いこま きつの、享禄元年(1528年)? - 永禄9年5月13日(1566年5月31日))は、戦国時代の女性。織田信長の側室で、信忠・信雄・徳姫(見星院)の母。法名は久菴桂昌大禅定尼。名は『前野家文書』で吉乃(吉野)と創作されるが実名ではない。.

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生駒宗勝

生駒 宗勝(いこま むねかつ)は、江戸時代の尾張藩士、第7代尾張生駒家当主。生駒利勝の次男。.

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生駒利勝

生駒 利勝(いこま としかつ)は、江戸時代の尾張藩士、第6代尾張生駒家当主。.

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生駒利豊

生駒 利豊(いこま としとよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。小折城主。生駒家長の四男。生駒家第5代。因幡守。露月。.

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生駒致長

生駒 致長(いこま むねなが)は、江戸時代の尾張藩士、第8代尾張生駒家当主。.

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生駒氏

生駒氏(いこまし)は、戦国時代の武将および江戸時代の大名・旗本家、藩士家。本姓は藤原氏。.

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田中不二麿

中 不二麿(たなか ふじまろ、弘化2年6月12日(1845年7月16日) - 明治42年(1909年)2月1日)は、日本の幕末・明治期の武士、官僚、政治家。位階爵位は正二位子爵。号は夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。 尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。 明六社会員。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。.

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甲府藩

府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩の一つ。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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相給

給(あいきゅう)とは、村請制が確立した近世期における領知の一形態を表す言葉である。一つの村落に対し複数の領主が割り当てられている状態を指す。村(郷)が分割されたために分郷(ぶんごう)とも言った。なお、「長岡市史」などの越後長岡藩の歴史では「分散地方知行制」という表現がなされている。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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荒川義広

荒川 義広(あらかわ よしひろ)は、戦国時代の武将。諱は史料によって異なるが、本項では義広に統一して解説する。.

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青松葉事件

名古屋城内に立つ「青松葉事件之遺跡」碑 青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。勅命が下った背景については諸説ある。.

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預地

地(あずかりち / あずけち)とは、他者から預かって管理を委託された土地のこと。.

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領知朱印状

知朱印状(りょうちしゅいんじょう)とは、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給する朱印状のことである。.

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額田県

額田県(ぬかたけん)は、明治4年(1871年)に三河国および尾張国南部を管轄するために設置された県。現在の愛知県東部にあたる。.

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親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

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駒塚村

駒塚村(こまづかむら)はかつて岐阜県羽島郡に存在した村である。 現在の羽島市中心部から東部(竹鼻町駒塚、竹鼻町狐穴、竹鼻町飯柄、竹鼻町蜂尻)に該当し、東は木曽川を挟んで愛知県に面する。.

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高須藩

藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.

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議定

議定(ぎじょう)は、明治初期に置かれた明治政府の官職。 王政復古(慶応3年12月9日(1868年1月3日))の際に総裁・議定・参与の三職が設置された。議定には仁和寺宮純仁親王・中山忠能・松平慶永・島津茂久・徳川慶勝・山内豊信・山階宮晃親王・正親町三条実愛・中御門経之・浅野長勲の10名が任じられ、その後岩倉具視・三条実美・伊達宗城・長谷信篤の4名が追加された。 翌年1月に三職七科制が導入されると、議定には皇族・公卿・諸侯が任命され、七科を分督して議事を決する職とされ各科の事務総督は議定が兼ね、最大31名まで増員した。更に4月に政体書に基づく職制に移行し、議定は議政官上局に移されて、法律の制定、条約の締結、和戦の宣告、三等官以上の人事を司った。また、議定であった三条実美と岩倉具視が行政官の長である輔相(定員2名)を兼務した。9月に一旦議定は行政官に属するものとされたが、翌明治2年(1869年)4月に上局に戻されるなど複雑な変遷を遂げる。 明治2年(1869年)5月に議政官が行政官に統合され、5月15日官吏公選が行われる。その結果、輔相に三条実美が、定員4名の議定には岩倉具視・鍋島直大・徳大寺実則の3名が選出された。同年7月8日(1869年8月15日)の明治太政官制の導入によって廃止された。.

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貫流

貫流(かんりゅう)は、津田信之(津田権之丞)が開いた槍術の流派。津田貫流、尾張貫流とも呼ばれる。愛知県に現存する。.

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.

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鸚鵡籠中記

『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)は、元禄の頃、尾張藩の尾張徳川家の家臣であった朝日重章の日記である。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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阿部正勝

阿部 正勝(あべ まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。.

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阿部氏 (徳川譜代)

阿部氏(あべし)は、日本の氏族の一つ。 三河の松平氏(徳川氏)譜代の家臣。始祖は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命とされる。.

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赤目城

赤目城(あかめじょう)は現在の愛知県愛西市赤目町に存在した日本の城(平城)。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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間宮氏

間宮氏(まみやし)は後北条氏に仕えた一族である。笹下城を本拠とし、間宮信元・間宮康俊は玉縄衆に所属していた山本光正『東海道神奈川宿の都市的展開』文献出版、1996年、115頁。。 また、間宮綱信も北条氏照の重臣であり、武蔵国久良岐郡氷収沢郷(現在の横浜市磯子区)に所領を有していた。八王子城が落城した後、綱信は徳川幕府の幕臣となった。子孫は500石の旗本となり、氷取沢村周辺を知行していたという。 なお、氷取沢村のほかにも、久良岐郡直轄領の代官は間宮彦次郎を務め、久良岐郡杉田村の支配を間宮信繁が行っていた。中野達哉『』(『駒澤史学』50号、駒澤大学、1997年)、86頁。。 なお、間宮綱信の子孫にあたる人物として、江戸時代後期の旗本・間宮士信がいる。士信は『小田原編年録』を編纂した。この文献は、後北条氏・間宮氏研究において有用な史料となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩の一覧

藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。.

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藩校

弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.

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藩札

備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。 藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。.

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葉栗郡

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蒲生郡

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肥田氏

肥田氏(ひだし)は、日本の氏族。土岐氏庶流で代々武家として鎌倉幕府、室町幕府を支えた後、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕え、江戸時代には旗本幕閣(長崎奉行、勘定奉行)として徳川幕府中枢を支えるとともに、尾張藩、水戸藩、高松藩の家老を輩出した。また幕末には遣米使節一行として咸臨丸で渡米するなど明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献した。 発祥により大きく播州肥田氏・土岐肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏などがある。また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、木田氏、貴田氏も同族の可能性がある。九州の日田氏(ひたし)は大蔵氏 (豊後国)であり別族。 家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「丸に桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」「三つ盛酢漿草」などがある。 2008年(平成20年)現在、日本に1849世帯の肥田姓があり、岐阜、中京、関西圏が多いものの広く日本全国に分布している。首都圏を除き主だった地域では常滑市に87世帯(4%)、可児市48世帯(2%)、土岐市45世帯(2%)、賀茂郡42世帯(2%)、射水郡31世帯(1%)、加東市・西脇市12世帯となっている。.

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金沢大学

記載なし。

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長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.

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陣屋

復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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柳生の大太刀

柳生の大太刀(やぎゅうのおおだち)は、代々尾張柳生宗家に受け継がれている日本刀である。.

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恵那郡

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松平友著

松平 友著(まつだいら ともあき、延宝6年10月7日(1678年11月20日) - 享保13年3月30日(1728年5月8日))は、川田久保松平家初代当主。尾張藩第2代藩主徳川光友の十一男。母は梅香院(鈴木氏または大橋氏)、幼名は大蔵、初名は友親。徳川宗勝の実父。官位は従四位下但馬守。.

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松平定敬

四兄弟(1878年9月撮影)左から定敬、容保、茂栄、慶勝 松平 定敬(まつだいら さだあき)は、幕末の伊勢桑名藩の藩主(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。.

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松平家忠 (東条松平家)

松平 家忠(まつだいら いえただ、弘治2年(1556年) - 天正9年11月1日(1581年11月26日))は、戦国時代、安土桃山時代の人物。東条松平家第3代当主。幼名は亀千代。通称は甚太郎。松平忠茂の子。母は松平信長の娘。系譜上は松平忠吉の養父。別名、家次。深溝松平家の松平家忠の妹婿。三河国東条城主。 父・忠茂の戦死にともない、松平家康に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条吉良氏との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である深溝松平家の松平家忠(主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も姉川の戦いや長篠の戦いなど、各地の戦いに参加したが病弱であり、1581年に病のため東条城で没した。後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。.

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松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。.

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松平乗穏

松平 乗穏(まつだいら のりやす)は、三河奥殿藩の第3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。.

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松平忠吉

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。 徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。.

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松平義孝

松平 義孝(まつだいら よしたか)は、美濃高須藩の第2代藩主。徳川宗春の兄に当たる。.

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松平義居

松平 義居(まつだいら よしすえ)は、美濃高須藩第8代藩主。.

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松平義建

松平 義建(まつだいら よしたつ)は、美濃高須藩の第10代藩主。自身に特筆すべき治績は少ないが、息子は高須四兄弟を筆頭に多くが幕末期に活躍した。.

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松平義当

松平 義当(まつだいら よしまさ)は、美濃高須藩の第7代藩主。.

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松平義和

松平 義和(まつだいら よしなり)は、美濃高須藩の第9代藩主。 水戸藩の第6代藩主・徳川治保の次男。母は前田氏。幼名は泰之丞。第7代藩主・徳川治紀は兄。初め父より偏諱を受けて保右(もりすけ)、保友(もりとも)と名乗る。.

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松平義勇

松平 義勇(まつだいら よしたけ)は、美濃高須藩の第13代藩主。のち藩知事。.

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松平義端

松平 義端(まつだいら よしまさ)は、美濃高須藩の第12代藩主。.

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松平義真

松平 義真(まつだいら よしざね、正徳4年(1714年) - 享保14年5月10日(1729年6月6日))は、陸奥国梁川藩の第3代藩主。第2代藩主・松平義方の長男。母は浅野綱長の娘。正室なし。官位は従五位下、従四位下、式部大輔、侍従。名は義貞(よしさだ)とも。幼名は求馬。 享保6年(1721年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幼少のため、藩政は家老によって執り行なわれた。享保13年(1728年)12月に叙任するが、翌年5月10日にもともと病弱だったことから16歳で早世する。正室はなく嗣子もおらず、梁川藩は改易となる。同年8月11日に本家の尾張藩から松平通春(後の徳川宗春)が再興することとなる。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 Category:親藩 Category:梁川藩主 よしさね Category:1714年生 Category:1729年没.

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松平義生

松平 義生(まつだいら よしなり)は、明治時代初期の大名。美濃高須藩の第14代藩主。.

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松平義行

松平 義行(まつだいら よしゆき)は、信濃高井藩主、のち美濃高須藩の初代藩主。.

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松平義裕

松平 義裕(まつだいら よしひろ)は、美濃高須藩の第6代藩主。.

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松平義昌

松平 義昌(まつだいら よしまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国梁川藩初代藩主。.

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松平義方

松平 義方(まつだいら よしかた)は、江戸時代中期の大名。陸奥国梁川藩2代藩主。.

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松平義敏

松平 義敏(まつだいら よしとし)は、美濃国高須藩の第4代藩主。.

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松平武成

松平 武成(まつだいら たけなり / たけしげ)は、石見浜田藩の第3代藩主。越智松平家7代。 美濃高須藩主松平義建の三男。母は徳川治紀の娘。正室は田安斉匡の娘。官位は従五位下、右近将監。 尾張藩主徳川慶勝の同母弟で、一橋徳川家当主徳川茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、高須藩主松平義勇の兄に当たる。 天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚(血統上は母方の従弟にあたる)が早世したため、その跡を継ぐ。藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて山林の藩経営化や瓦・陶器の製造、養蚕業や製鉄業、製糸業、鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰が継いだ。法号は鋭岳大憲院。墓所は東京都荒川区東日暮里の善性寺。.

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桜田門外の変

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん、正字体:櫻田門外の變、正仮名遣:さくらだもんぐわいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。 この襲撃者らを「(桜田)十八烈士」と呼ぶこともある。またこの事件自体を「桜田事変」や、「桜田義挙」と呼んだ例がある。.

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桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

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梁川藩

梁川藩(やながわはん)は、江戸時代の一時期、陸奥国伊達郡に存した藩。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。当初は尾張藩徳川家の支藩(御連枝)。後には一時、松前氏が入封した。.

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横井時泰

横井 時泰(よこい ときやす)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。尾張国海西郡(現愛西市)赤目城主。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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武儀郡

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毛利広義

毛利 広義(もうり ひろよし、? - 元和5年(1619年))は、江戸時代初期の武士。本姓は源氏。家系は河内源氏の棟梁・鎮守府将軍源義家の七男(六男とも)源義隆の長男・毛利義広を家祖とする(家系については源姓毛利氏を参照)。源姓毛利家14代当主。仮名は金右衛門。 広義は毛利家12代当主である尾張藩重臣、八神城主・毛利広盛の次男として生まれ、その世継ぎとなる。通称は金右衛門。諱は広義、広高ともいう。兄に毛利広之、弟に毛利広重がおり、それぞれ尾張藩士となった。子は毛利広豊。広義は八神村に住い、名古屋に出仕した。元和5年(1619年)10月12日死去。 元和元年(1615年)頃、尾張藩の重臣として登用され、名古屋城へ登城するため、八神街道を開いたと伝わる。八神から名古屋城に登城する為には、八神から渡船で対岸の祖父江へ上り、清洲・枇杷島を経て名古屋という経路を移動する為、通り道の整備を行い、八神渡船を設けた。この通路江戸中期には、西の大須渡船とも連携する様になり、八神村など近隣の村民などにも渡船を開放されたと伝わる。この渡船は、八神渡船場として発達し、付近には、人力帳場や荷役を業とする商業が栄えたという。子孫の記録として『九十九之塵』によれば、毛利広賢なる者の名が記され、上屋敷を片端大津町、下屋敷は古渡村に構え、在所は美濃国安八郡八神村に3000石の知行地を領有したという。.

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毛利広盛

毛利 広盛(もうり ひろもり、天文2年(1533年) - 元和2年(1616年))は、戦国時代後期の武将。美濃国八神城主。のち尾張藩藩士。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁、鎮守府将軍源義家の七男源義隆にはじまる陸奥七郎義隆流毛利氏。通称は掃部または小三郎という阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年) 775頁参照。。.

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毛利氏 (源氏)

毛利氏(もうりし・源氏系)は、武家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の流れをくむ。その流れには2つあり、一つは八幡太郎義家の3男・源義国を祖とする足利氏一門である斯波氏の庶流、もう一つは同じく八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の系統である。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸藩邸

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。.

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江戸時代の三貨制度

江戸時代の三貨制度(えどじだいのさんかせいど、Tokugawa coinage)とは、江戸時代の日本において金(小判、一分判)、銀(丁銀、小玉銀)および銭(寛永通寳)という基本通貨が併行流通した貨幣制度のことである。 これらの金貨、銀貨および銭貨の間には幕府の触書による御定相場も存在したが、実態は互いに変動相場で取引されるというものであり、両替商という金融業が発達する礎を築いた。 江戸時代は徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ幕府が置かれた慶長8年(1603年)に始まり、大政奉還が行われた慶應3年(1867年)を終焉とする見方もあるが、両を基軸とするこの貨幣制度は関ヶ原の戦いの直後すなわち慶長5年(1600年)ないし慶長6年(1601年)に始まり、明治4年(1871年)の新貨条例が制定されるまでの270年間にも及ぶものであった。 なお、幕府は公式に「三貨制度」として触書を出したわけではないが、「三貨」という用語は文化12年(1815年)に両替屋を営んでいた草間直方が貨幣学研究の集大成として刊行した『三貨図彙』に見られる草間(1815).。.

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池田郡

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洋学校

洋学校(ようがっこう)は、幕末から明治にかけて存在した、西洋の学問を学ぶ学校。.

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渡辺定綱

渡辺 定綱(わたなべ さだつな)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家5代当主。.

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渡辺宣綱

渡辺 宣綱(わたなべ のぶつな)は、江戸時代前期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家4代当主。.

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渡辺守綱

渡辺 守綱(わたなべ もりつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。江戸幕府旗本・尾張藩付家老。三河国寺部城主。徳川十六神将の一人。.

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渡辺寧綱

渡辺 寧綱(わたなべ やすつな)は、江戸時代後期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家11代当主。.

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渡辺久綱

渡辺 久綱(わたなべ ひさつな)は、江戸時代中期の武士。尾張藩の江戸家老。.

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渡辺在綱

渡辺 在綱(わたなべ ありつな)は、江戸時代末期の武士。尾張藩の家老。青松葉事件にて処刑された。.

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渡辺綱

渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。.

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渡辺綱保

渡辺 綱保(わたなべ つなやす)は、江戸時代中期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家7代当主。.

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渡辺綱光

渡辺 綱光(わたなべ つなみつ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士・歌人。尾張藩士。渡辺半蔵家9代当主。.

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渡辺綱倫

渡辺 綱倫(わたなべ つなとも)は、江戸時代後期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家12代当主。.

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渡辺綱聡

渡辺 綱聰(わたなべ つなさと)は、江戸時代末期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家13代当主。後に男爵。.

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渡辺綱通

渡辺 綱通(わたなべ つなみち)は、江戸時代中期の武士。尾張藩士。渡辺半蔵家8代当主。.

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渡辺直綱 (尾張藩士)

渡辺 直綱(わたなべ なおつな)は、江戸時代中期の武士。尾張藩士。渡辺半蔵家6代当主。.

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渡辺規綱

渡辺 規綱(わたなべ のりつな)は、江戸時代後期の武士・茶人。尾張藩家老、渡辺半蔵家10代当主。.

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渡辺重綱

渡辺 重綱(わたなべ しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張藩の家老。渡辺半蔵家2代当主。.

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渡辺治綱

渡辺 治綱(わたなべ はるつな)は、江戸時代前期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家3代当主。.

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清洲城

五条川の桜 清洲城と桜 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。.

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清洲越し

代にみる「清洲越し」の距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。(2009年2月) 清洲越し(きよすごし)は、慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)までのころに行われた、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市の移転をいう。これにより、名古屋という都市が誕生した。 本項で扱う清洲越しには従来より表記の混用が見られ、文献によっては清須越などの表記もみられる例としては、名古屋市公式サイト内「名古屋のあゆみ」では「清洲越し」の表記で扱われているのに対し、名古屋市計画局編『なごやの町名』では「清須越」の表記で扱われている。『なごやの町名』(名古屋市計画局 1992年3月31日発行)。。以下本項における記述は清洲越しで統一する。.

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清洲藩

清洲藩(きよすはん)は、尾張国清洲(現在の愛知県清須市)に存在した藩。藩庁は清洲城。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義隆

源 義隆(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義家の七男(六男とも)。 森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号した。七男であるが、六郎ともいう。官位は無位無官と看做されることが多いが、宮内少大輔従五位下に任ぜられるとも。子には毛利義広、若槻頼隆、高松定隆らがいる。.

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滝川一益

滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。.

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滝川忠征

滝川 忠征(たきがわ ただゆき)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。後に尾張藩家老。通称を彦二郎(彦次郎)、初名は法忠(のりただ)または盛勝(もりかつ)。.

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滝川氏

滝川氏(たきがわし、旧字体:瀧川氏)は、日本の氏族。家紋は丸に竪木瓜。本姓は紀氏を称するが『寛政重修諸家譜』第4輯、442頁。、伴氏の後裔、あるいは楠木氏、甲賀氏とする説もあり、その出自は判然としない。織田信長の重臣・滝川一益を出した家系の他に、一益より滝川姓の名乗りを許された家臣の滝川忠征と娘婿の滝川雄利を祖とする家系がある。.

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木全忠澄

木全 忠澄(きまた ただすみ、天文3年(1534年) - 慶長15年10月18日(1610年12月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は又左衛門。木全征詮の子。子に滝川忠征。.

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木曽谷

木曽山脈から望む木曽谷(大桑村周辺の地域) 木曽谷(木曾谷、きそだに)とは、木曽川上流の流域を表す名称である。木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある。木曽谷、木曾谷の表記については木曽を参照。.

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木曽郡

長野県木曽郡の範囲(1.上松町 2.南木曽町 3.木祖村 4.王滝村 5.大桑村 6.木曽町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入した区域) 木曽郡(きそぐん)は、長野県の郡。本項では発足時の名称である西筑摩郡(にしちくまぐん)についても述べる。 以下の3町3村を含む。.

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木曾氏

木曾氏(きそし)は、日本の氏族の一つ。.

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本巣郡

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成瀬正泰

成瀬 正泰(なるせ まさもと、宝永6年6月26日(1709年8月1日)- 天明5年6月20日(1785年7月25日))は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第5代当主。 第4代当主・成瀬正幸の長男。子に成瀬正純(長男)、成瀬正典(次男)、娘(四条隆叙室)など。官位は従五位下、隼人正。御附家老をしていたときは名は成瀬正太と名乗っていた。尾張九代藩主徳川宗睦の嫡男五郎太が誕生した際に、「太」の字を避けて正泰とする。 宝永6年(1709年)6月26日生まれとも、同年6月29日生まれとも言われている。享保17年(1732年)8月15日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月に従五位下隼人正に叙任。宗春によく仕え、元文3年の尾張藩の混乱期には、もう一人の御附家老竹腰正武と対立した。宗春が隠居謹慎の際も、幕府と一戦交じうべしという強硬論を唱えたとも言われる。元文4年に徳川宗春が隠居謹慎した後に犬山に戻り、犬山城に白帝城の別名を与える。 明和5年(1768年)1月28日、次男の正典に家督を譲って隠居し、蔵人を名乗り大雅と号する。天明5年(1785年)6月20日に77歳で死去した。法号は諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門。墓所は愛知県名古屋市中区栄の白林寺。.

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成瀬正成

成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。.

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成瀬氏

成瀬氏(なるせし)は、日本の氏族のひとつ。.

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明倫堂

明倫堂(めいりんどう)は尾張藩、小諸藩、上田藩、高鍋藩、金沢藩、新庄藩、大洲藩、安志藩の藩校。また琉球の久米村にあった学校。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春日井郡

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海西郡 (愛知県)

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海東郡

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海津郡

岐阜県海津郡の位置(水色:後に他郡から編入した区域) 海津郡(かいづぐん)は、岐阜県にあった郡。.

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浜田藩

浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.

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新陰流

新陰流(しんかげりゅう)は、上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている。.

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方県郡

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斜里郡

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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日守流

日守流(ひのがみりゅう)とは、日守政秀(日守市右衛門)が開いた、関所の役人のための技術(武術に限定されない)の流派で、正しくは日守流警固関所固三道具組という。江戸時代に尾張藩で伝承された。 棒術・三道具術・骨法・縄術が含まれる。 ここでいう骨法とは、一種の隠し武器術のことである。.

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日間賀島

乞山から望む日間賀島と対岸の知多半島 日間賀島(ひまかじま)は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる『郷土百科事典 23 愛知県』、132頁。2015年(平成27年)の国勢調査における人口は607世帯1,896 人だった(2013年6月26日時点のアーカイブ)南知多町、2012年。「タコとフグの島」という観光PRを行なっている。篠島や佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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愛知県立明和高等学校

愛知県立明和高等学校(あいちけんりつ めいわこうとうがっこう, Aichi Prefectural Meiwa High School)は、愛知県名古屋市東区白壁二丁目に所在する県立高等学校。.

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愛知県立旭丘高等学校

愛知県立旭丘高等学校(あいちけんりつあさひがおかこうとうがっこう, Aichi Prefectural Asahigaoka High School)は、愛知県名古屋市東区に所在する県立高等学校。通称は、「旭(あさひ).

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愛知郡 (愛知県)

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1607年

記載なし。

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1610年

記載なし。

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1611年

記載なし。

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1616年

記載なし。

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1619年

記載なし。

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1625年

記載なし。

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1650年

記載なし。

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1671年

記載なし。

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1693年

記載なし。

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1694年

記載なし。

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1699年

記載なし。

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1711年

記載なし。

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1713年

記載なし。

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1730年

記載なし。

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1732年

記載なし。

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1735年

記載なし。

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1738年

記載なし。

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1739年

記載なし。

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1749年

記載なし。

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1750年

記載なし。

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1761年

記載なし。

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1783年

記載なし。

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1799年

記載なし。

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1800年

18世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1827年

記載なし。

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1839年

記載なし。

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1845年

記載なし。

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1849年

記載なし。

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1858年

記載なし。

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1863年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1898年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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1998年

この項目では、国際的な視点に基づいた1998年について記載する。.

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7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.

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