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小笠原政秀と小笠原氏

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小笠原政秀と小笠原氏の違い

小笠原政秀 vs. 小笠原氏

小笠原 政秀(おがさわら まさひで)は、戦国時代の大名。信濃守護。小笠原氏の一族で、鈴岡小笠原氏当主。小笠原宗康の子。. 小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

小笠原政秀と小笠原氏間の類似点

小笠原政秀と小笠原氏は(ユニオンペディアに)共通で25ものを持っています: 室町幕府室町時代守護小笠原定基小笠原家長小笠原宗康小笠原光康小笠原貞朝小笠原長棟小笠原長朝小笠原清宗小笠原持長 (信濃小笠原氏)小笠原政康井川館伊賀良村信濃国応仁の乱諏訪氏東濃松尾城 (信濃国伊那郡)戦国時代 (日本)1461年1473年1480年1493年

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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小笠原定基

小笠原 定基(おがさわら さだもと)は、戦国時代の武将。信濃国小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。 定基は、家伝の糾法に精錬していた鈴岡小笠原家の小笠原政秀から伝習を受けていたが、明応2年(1493年)1月4日、年頭の祝賀と称して政秀を松尾城に誘い、帰途を攻撃して暗殺したことから、鈴岡家は滅亡し、その遺族は府中小笠原家の小笠原長朝を頼った。翌3年(1494年)1月13日、松尾城外の毛賀沢で長朝と戦い撃退した。文亀元年(1501年)、周防国に亡命中の先代将軍足利義稙から書を贈られた。 府中家の小笠原貞朝が11代将軍・足利義澄方の尾張国守護斯波義寛と結び、義稙方の今川氏親を攻めたことから、永正3年(1506年)定基は氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。 永正8年(1511年)、死去(『溝口家記』)。天文3年(1534年)、子・貞忠の代に府中家の小笠原長棟に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し甲斐武田氏を頼ることとなった。.

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小笠原家長

小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基(さだもと)。.

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小笠原宗康

小笠原 宗康(おがさわら むねやす)は、室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。 嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445年)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。 文安3年(1446年)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。 持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。.

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小笠原光康

小笠原 光康(おがさわら みつやす)は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の3男。松尾城主。松尾小笠原家の祖。 父の死後、小笠原氏惣領職を巡って光康の兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。 文安3年(1446年)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。宗康は漆田原(長野市中御所)で持長と戦ったが敗れ討ち死にしていたため(漆田原の戦い)、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。 しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中小笠原家)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡小笠原家)、政秀と光康の子家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。 関東で享徳3年(1455年)にはじまる享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定と共に、堀越公方足利政知を支持して関東へ出陣することを度々命じられたが、古河公方足利成氏に通じる府中の小笠原清宗が国人衆と結託して光康の出陣に反対し、なかなか発向できない有様であったとされる。 将軍足利義政は康正2年(1456年)、光康に対し清宗討伐を、また寛正6年(1465年)、光康と上杉房定に対し、成氏に通じる村上政清と高梨政高の討伐を命ずる御教書を発した。.

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小笠原貞朝

小笠原 貞朝(おがさわら さだとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原長朝の子。.

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小笠原長棟

小笠原 長棟(おがさわら ながむね)は戦国時代の武将。信濃の大名小笠原氏(府中小笠原氏)の当主。小笠原貞朝の次男。分裂していた小笠原氏を統一した。.

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小笠原長朝

小笠原 長朝(おがさわら ながとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原清宗の子。.

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小笠原清宗

小笠原 清宗(おがさわら きよむね)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原持長の子。 父の代から続く宗家の家督巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。 清宗は信濃井川館に生まれた。永享元年(1429年)11月に元服、右馬助、大膳大夫、信濃守に任じられる。鈴岡小笠原家の政秀や諏訪氏と度々争い、府中に攻め込まれたため、長禄3年(1459年)頃に新たに林城を築き、居館を移す。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍を支持する。文明6年(1474年)7月、上洛して9代将軍足利義尚に拝謁する。文明10年(1478年)没、享年62。.

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小笠原持長 (信濃小笠原氏)

小笠原 持長(おがさわら もちなが)は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。信濃府中(現在の長野県松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。 応永18年(1411年)に幕命により、京極高数に従って飛騨の乱の鎮圧に参加、嘉吉元年(1441年)の結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績を挙げた。応永29年(1422年)9月には将軍足利義持の伊勢神宮参詣に供奉した。.

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小笠原政康

小笠原 政康(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。 小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402年)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。 応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。 正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。 永享4年(1432年)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436年)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417年)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。 永享10年(1438年)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440年)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。 嘉吉2年(1442年)、小県郡海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。 信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。.

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井川館

井川館(いがわやかた)は、長野県松本市の井川城にあった信濃国守護の館(日本の城、平城)。「井川城」とも。国の史跡に指定されている(史跡「小笠原氏城跡」のうち)。.

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伊賀良村

伊賀良村(いがらむら)は長野県下伊那郡にあった村。現在の飯田市中心部の南西、中央自動車道の飯田インターチェンジ周辺にあたる。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

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東濃

東濃(とうのう)とは、岐阜県南東部の地域を指し、美濃東部の意味。 一般に多治見市、土岐市、瑞浪市、恵那市、中津川市がある地方である。また、岐阜県では唯一、市だけで構成された地方でもある。.

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松尾城 (信濃国伊那郡)

松尾城(まつおじょう)は、長野県飯田市(信濃国伊那郡)にあった日本の城。小笠原氏の居城であった。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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1461年

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1473年

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1480年

記載なし。

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1493年

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小笠原政秀と小笠原氏の間の比較

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参考文献

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