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富樫氏

索引 富樫氏

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。。.

68 関係: 加賀一向一揆加賀国加賀藩十村制坪内定次坪内利定坪内氏士族天帝天正室町時代家紋守護大名安宅の関富樫家俊富樫幸千代富樫稙泰富樫稙春富樫豊弘富樫泰家富樫泰俊富樫泰高富樫泰成富樫満成富樫満春富樫持春富樫成春富樫昌家富樫政親富樫教家富樫晴貞尾張国建武 (日本)佐久間盛政征夷大将軍後藤太兵衛応永北極星北斗七星八介元亀前野長康勧進帳石川県管領織田信長高尾城 (加賀国)足利義持藤原北家藤原利仁...野々市市至徳 (日本)長享押野村松倉城 (尾張国)武家本願寺明治維新斯波義将斯波義種斯波満種1335年1387年1414年1418年1488年1570年1574年 インデックスを展開 (18 もっと) »

加賀一向一揆

加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。.

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加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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十村制

十村制(とむらせい)は、江戸時代に加賀藩の第3代藩主前田利常が制定した農政制度で、地方の有力な農民を十村として懐柔し、いわば現場監督として利用することで、農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める制度である。改作法施行にあたって、十村はその業務範囲を広げ、加賀藩・富山藩・大聖寺藩における農政の実務機関としての役割を十全に果たした。.

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坪内定次

坪内 定次(つぼうち さだつぐ)は、江戸時代前期の旗本。 慶長元年(1596年)、坪内家定の次男として誕生。慶長15年(1610年)、2代将軍・徳川秀忠に拝謁して小姓組に列し、300石を拝領。秀忠直轄として近侍し、大坂の陣に従軍して武功を挙げる。寛永3年(1626年)の秀忠上洛にも供奉している。寛永10年(1633年)、甲斐国に500石を拝領して御徒頭に昇進したが、寛永18年(1641年)に徳川家光の勘気を被り、半年逼塞した。 正保元年(1644年)2月に御先鉄砲頭、同年12月に持筒頭に栄進。寛文3年(1663年)に致仕し、延宝元年(1673年)、死去。享年78。 家光が狩りに出かけた時これに供奉し、家光は自ら野猪を突き伏せるのに用いた平安城吉房の槍を定次に与えたという。.

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坪内利定

坪内 利定(つぼうち としさだ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大身旗本。尾張国松倉城主。『系図纂要』に記載の坪内利之と同一人と思われる。.

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坪内氏

坪内氏(壺内氏 つぼうちし、つぼうちうじ)は、日本の氏族の一つ。鎮守府将軍藤原利仁流加賀国国主富樫氏の一族の他、下記の系統がある。.

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士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.

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天帝

天帝(てんてい)は、元来は天上の最高神を意味する語。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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安宅の関

安宅関址碑 安宅関跡にある銅像。左から源義経、武蔵坊弁慶、富樫 安宅の関(あたかのせき)は、石川県小松市の日本海側にある安宅に守護、富樫氏が設けたと言われる関所。.

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富樫家俊

富樫 家俊(とがし いえとし)は、安土桃山時代の武将。佐久間盛政の家臣。押野後藤家の祖という。 富樫泰俊の三男として誕生。天正2年(1574年)、越前国金津にて、父・泰俊とその子である稙春・天易侍者は討死したが、家俊だけは逃げ延びて、名を後藤弥右衛門と改めて加賀国押野村字清水の郷士になったという。その後、佐久間盛政に仕えて戦功を挙げ、天正9年(1581年)に300石の所領を与えられた。 子の藤右衛門は元和2年(1616年)に加賀藩の十村肝煎となり、子孫は代々その役目を担い、維新後も旧押野村(現金沢市・野々市市)の村長を務めたという。.

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富樫幸千代

富樫 幸千代(とがし こうちよ)は、室町時代後期の武将。富樫氏22代当主。 富樫成春の次男として誕生。文明5年(1473年)、応仁の乱の影響で兄・政親と争い真宗高田派や甲斐敏光と結んで勝利した。しかし翌6年(1474年)、本願寺と結んだ政親に加賀国から追放された。これ以降、一向一揆と結び再三加賀に侵入しては戦った。 元服したかも定かでなく、その後の詳細は不明である。文明8年(1476年)9月には加賀半国を与えられたというが、文明6年に一向一揆勢に攻められ敗死したとの説もある。.

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富樫稙泰

富樫 稙泰(とがし たねやす)は、戦国時代の武将・守護大名。富樫氏25代当主。加賀国守護。.

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富樫稙春

富樫 稙春(とがし たねはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 富樫泰俊の長男として誕生。室町幕府10代将軍・足利義稙から偏諱を受けた祖父・稙泰の一字を取り、稙春と名乗る。 天正2年(1574年)、越前国金津にて、父・泰俊と兄弟・天易侍者共々討死した。 たねはる Category:戦国武将 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1574年没.

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富樫豊弘

富樫 豊弘(とがし とよひろ)は、戦国時代の武将。 富樫氏26代当主・富樫晴貞の三男として誕生。 元亀元年(1570年)、織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対する。居城・野々市城に拠り父・晴貞らと共に一向一揆と戦うが敗れ、晴貞は大乗寺へと逃れ、長兄・富樫晴友は越中へと脱出するが、豊弘は野々市に残り、襲ってくる一向一揆相手に衆寡敵せず討死した。.

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富樫泰家

富樫 泰家(とがし やすいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。富樫氏6代当主。能の演目『安宅』、歌舞伎の演目『勧進帳』の安宅の関関守・富樫左衛門のモデルとしても知られる。.

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富樫泰俊

富樫 泰俊(とがし やすとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。富樫氏27代当主。加賀国野々市城主。 富樫稙泰の長男として誕生。享禄4年(1531年)の大小一揆に小一揆方として参戦したが、捕らえられた。後に逃亡して、弟・晴貞の死後、家督を継いだという。一度加賀へ戻り野々市城主となるが、本願寺方に攻められ、越前国に逃亡する。しかし、天正2年(1574年)に越前金津にて子である稙春・天易侍者共々討死し、富樫氏は滅亡した。 なお、三男・家俊は辛くも難を逃れて名を後藤弥右衛門と改め、佐久間盛政に仕えて300石の所領を得た。.

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富樫泰高

富樫 泰高(とがし やすたか)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将・守護大名。富樫氏17・19・24代当主。加賀国守護。.

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富樫泰成

富樫 泰成(とがし やすなり)は、室町時代の武士。 富樫泰高または富樫満春の子として誕生。後に剃髪して慈顕を名乗った。生来病弱であり、家督も父の意向により一族の富樫政親に譲られた。また、幕府と交渉する立場を取り京に住み続けたという。 文明年間(1469年-1486年)に高尾城の戦いを見ずに京で死去したという。『永享以来御番帳』や『親元日記』では文明13年(1481年)に存命とされているので没年はそれ以降とされる。.

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富樫満成

富樫 満成(とがし みつなり)は、室町時代前期の武将・守護大名。富樫氏14代当主。.

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富樫満春

富樫 満春(とがし みつはる)は、室町時代前期の武将・守護大名。富樫氏13代当主。加賀国守護。 富樫氏12代当主・富樫昌家の弟である富樫満家の子として誕生。元中4年/嘉慶元年(1387年)に昌家が没して以来、加賀守護職は斯波氏の手に移っていたが、応永21年(1414年)に斯波満種が4代将軍・足利義持の勘気を受けて守護職を更迭されると、義持に近侍していた富樫満成が加賀南半国守護に任じられ、同時に満春も北半国守護に任じられた。 応永26年(1419年)2月に満成が政争に敗れて殺害されると、満春は義持から満成が任じられていた加賀南半国守護の兼任を任じられ、結果として加賀一国の守護となった。その後も満春は義持や足利義量に仕え、重用されたようである。 応永34年(1427年)、死去。家督及び加賀守護職は長男・持春が継いだ。.

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富樫持春

富樫 持春(とがし もちはる)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。富樫氏15代当主。加賀国守護。 富樫満春の長男として誕生。4代将軍・足利義持の偏諱を受けて持春と名乗った。応永34年(1427年)に父・満春が没すると家督を継承。義持や足利義教からは将軍の相判衆に任じられるなど信任が厚く、義持は京都にある持春の館に何度か出向いている。また持春は永享2年(1430年)正月まで幕府に出仕することがなかったという。同年6月、加賀守護となる。同年、南禅寺領同国宮保違乱の停止を執行した。永享5年(1433年)、死去。享年21。 持春には嗣子がいなかったため、家督と加賀の守護職は義教の近臣となっていた弟・教家が継いだ。.

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富樫成春

富樫 成春(とがし しげはる)は、室町時代中期の武将・守護大名。富樫氏18・20代当主。加賀国守護。.

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富樫昌家

富樫 昌家(とがし まさいえ)は、南北朝時代の武将・守護大名。富樫氏12代当主。加賀国守護。 富樫氏11代当主・富樫氏春の長男として誕生。 父氏春が病死すると、その後継として加賀守護を継いだが幼少であったために一族の富樫用家の補佐を受けた。古典『太平記』によると、竹童丸が幼少であることに乗じて近江国の佐々木道誉が婚姻関係のある斯波氏に加賀の守護職を奪わせることを画策し、細川清氏によって阻止されたとある。 正平21年/貞治5年(1366年)に元服し、昌家と名乗る。元服後は加賀の経営を守護代・英田四郎次郎に一任し、上洛して2代将軍・足利義詮やその子・義満に仕えた。正平24年/応安2年(1369年)、反幕府勢力の桃井直和が越中国で挙兵すると、昌家は幕命を受けて吉見氏頼と共に鎮圧に当たった。 1370年代になると、幕府内部では細川頼之派と斯波義将派の抗争が激化したが、その中で昌家は家督相続時の一件もあり細川派に属していたようである。天授5年/永和5年/康暦元年(1379年)に義将派によるクーデターが起こり頼之が追放されると(康暦の政変)、昌家も討伐されるという噂が流れた。実際これ以上兵乱が起きることはなく、昌家も失脚は免れたようだが、この一件により幕府の要職が斯波派に改められたこともあって、昌家の幕府内における立場も微妙なものとなっていった。 元中4年/嘉慶元年(1387年)、死去。死後、弟・満家が後継となったが、昌家の死に乗じて管領・斯波義将が加賀の守護職を剥奪し、弟の義種に与えてしまった。以降約30年間、加賀は富樫氏の手から離れることとなった。 昌家の子・詮親は足利義詮から偏諱を受けて以来、幕府の信任を受けていたが、元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされたため、以降の富樫氏の嫡流は弟・満家の系統に移った。.

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富樫政親

富樫 政親(とがし まさちか)は、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。.

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富樫教家

富樫 教家(とがし のりいえ)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名。富樫氏16代当主。加賀国守護。出家して以降は甫柏と名乗る。.

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富樫晴貞

富樫 晴貞(とがし はるさだ)は、戦国時代の武将。富樫氏26代当主。加賀国野々市城主。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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佐久間盛政

佐久間 盛政(さくま もりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。御幸塚城主。初代金沢城主。佐久間氏の一族。官途および通称は玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。 佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後藤太兵衛

金沢市長坂の長坂野神社に建つ後藤太兵衛顕彰碑 後藤 太兵衛(ごとう たへえ、慶長19年(1614年) - 延宝元年(1673年))は、加賀藩の石川郡押野村(現・石川県野々市市押野)に住んで十村を務めた人物。諱は家泰。 寛永20年(1643年)に先代・藤右衛門(とうえもん)の跡を継いで押野後藤家第3代当主となり、加賀藩より十村に任ぜられた。藩命により明暦元年(1655年)に泉野村を、万治元年(1658年)に泉野新村と泉野出村の田畑を私財を投じて開墾した。寛文11年(1671年)にも藩命を受けて長坂新村(現・金沢市長坂町)を創設するとともに、長坂新村を始めとする野田山山麓一帯の丘陵地へ、犀川の支流である内川を取水口とする灌漑用水(長坂用水)を引く工事の指揮に当たった。 なお、野田山山麓一帯は、明治期まで石川郡に所属していたことから、明治21年(1888年)、当時の後藤家第11代当主・於菟吉(おときち)は、先祖・太兵衛の功労が少なくないことに対して、同郡長から銀杯を下賜されている。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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北極星

'''こぐま座とポラリス''' 中央上端にポラリス(図中ではPolarisと表記)が位置する 地球からは、北極星はほとんど動かないように見える 北極星(ほっきょくせい、pole star)とは、天の北極に最も近い輝星を意味する。 21世紀時点の地球の北極星は、こぐま座α星のポラリスである。.

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北斗七星

ウアイ島から見た北斗七星 北斗七星(ほくとしちせい、英:Big Dipper、Plough)は、おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星で象られる星列のこと。北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられている。日本では四三の星、七剣星とも呼ばれた。3等星であるδ星を除く6星は全て2等星である。このため春の星空で目立ちやすく、世界各地で様々な神話が作られている。.

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八介

八介(はちすけ)とは、武士階級の中で、同じ家が代々に亘ってその地方の在庁官人の介職に任官されている場合、尊称として自他共に認知されている「苗字(本貫地の地名)+介」という特別な名乗りを行っている八つの家の当主を指す。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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前野長康

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。.

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勧進帳

勧進帳(かんじんちょう)は、如意の渡しでの出来事を基軸にした能の演目『安宅』を元に創られた歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。.

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石川県

石川県(いしかわけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中央部、日本海側の北陸地方に位置する。県域は令制国 の加賀国と能登国 に当たる。県庁所在地は金沢市。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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高尾城 (加賀国)

尾城(たこじょう/たこうじょう)は、石川県金沢市に存在した日本の城。 高尾城が築かれている高尾山一帯は、「ジョウヤマ」と呼ばれ付近住民から親しまれていた。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原利仁

藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁(忌部姓?)の娘婿ともなっていた。.

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野々市市

野々市市(ののいちし)は、石川県の中部に位置する市である。.

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至徳 (日本)

至徳(しとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永徳の後、嘉慶の前。1384年から1387年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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押野村

押野村(おしのむら)は、石川県石川郡に存在した村。.

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松倉城 (尾張国)

松倉城(まつくらじょう)は、尾張国葉栗郡→美濃国羽栗郡(現・岐阜県各務原市)にあった戦国時代の日本の城である。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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本願寺

本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。 各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。16世紀末期に東西に分裂、東側は20世紀後期に発生したお東騒動の影響で更に分裂した。東西分裂前の本願寺については本願寺の歴史を参照のこと。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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斯波義種

斯波 義種(しば よしたね)は南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所頭人、侍所頭人、加賀・越前・若狭・信濃・山城守護。斯波高経の5男。家長、氏経、氏頼、義将の弟。子に満種、満理。 観応3年/正平7年(1352年)、足利一門の有力者である斯波高経の5男として生まれる。高経には多数の子息がいたが、とりわけ4男義将と同母の5男義種は父の偏愛を受け、康安2年/正平17年(1362年)に従五位下民部少輔となり、翌年には小侍所、さらに翌年には侍所頭人兼山城守護になるなど優遇された。 しかし貞治5年/正平21年(1366年)8月の貞治の変によって父が失脚すると父や兄に従って都を去る。やがて父が没すると、兄と共に赦免され幕府に帰参した。その後官位は伊予守、修理大夫と進み、信濃や加賀の守護職に任じられるなど有力な守護大名となった。 応永2年(1395年)、3代将軍足利義満の出家に従い兄と共に薙髪する。応永15年(1408年)2月2日に卒去。享年57。法名は広徳院殿道守高節。.

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斯波満種

斯波 満種(しば みつたね)は室町時代前期の武将・守護大名。加賀守護。大野満種とも称す。斯波義種の嫡男で、母は千秋高範の娘(藤原季範の末裔にあたる)。幕府管領の斯波義将は伯父にあたる。.

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1335年

記載なし。

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1387年

記載なし。

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1414年

記載なし。

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1418年

記載なし。

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1488年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1574年

記載なし。

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