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室町幕府

索引 室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

249 関係: 執事千種忠顕南朝 (日本)南方紀伝古河城古河公方名和長年吉見氏吉野吉良氏堀越公方大名大崎詮持大崎氏大和国大内氏大納言大舘氏大永天正天文 (元号)奥州管領奥州探題奥羽奉公衆奉行衆室町通家柄家格守護守護大名守護代守護領国制官途奉行富樫氏小弓公方小侍所小笠原氏尼子氏将軍家山城国山名氏山内上杉家山田渡辺氏上野氏上杉氏中原氏中条氏七頭三好長慶...三好氏三木一草一色氏一色持範九州九州探題幕府享徳の乱京都京都扶持衆京極高数京極氏二木謙一今川貞世今川氏今出川通仁木氏延徳延元延文建武 (日本)建武の新政建武以来追加建武式目伊勢氏伊達氏伊東氏征夷大将軍侍所御家人御一家御供衆御用達御成敗式目御料所徳政令後北条氏後鑑後醍醐天皇徒歩応安応仁の乱応永土岐氏地頭地方 (職制)北畠顕家北条早雲北朝 (日本)嘉吉嘉吉の乱出羽国准后問注所公卿補任公方御倉六角氏元亀光厳天皇光明天皇国人国持衆四職石橋氏石津の戦い礼銭管領納銭方細川頼之細川氏織田信長羽州探題結城親光結城氏申次衆畠山氏畿内・近国の戦国時代相伴衆花の御所鎮守府将軍鎌倉鎌倉幕府鎌倉府鎌倉公方鎌倉殿鞆城青野原の戦い観応の擾乱見聞諸家紋解官評定衆高師直豊臣秀吉足利基氏足利尊氏足利将軍家足利将軍一覧足利市足利義尚足利義勝足利義稙足利義詮足利義輝足利義量足利義栄足利義満足利義澄足利義持足利義昭足利義政足利義教足利義晴足利直義足利氏足利満直足利満貞足利持氏足利成氏足利政知軍事貴族近世近江国蘆名氏赤松範資赤松義祐赤松氏関白関銭関東八屋形関東管領関所藤島の戦い藤田達生重臣会議長門探題陸奥国暦応抽分銭恩賞東北地方東国栃木県桃井氏楠木正成標葉氏正長武家の棟梁武家役武家政権武田氏段銭比叡山毛利氏永享の乱永禄永正治天の君津料港湾渋川氏湊川の戦い朝倉氏朽木氏最上氏戦国大名明応斯波家兼斯波兼頼斯波氏斯波氏経新田義貞文安文明 (日本)政所懐良親王扇谷上杉家1336年1337年1338年1358年1368年1394年1423年1429年1442年1449年1473年1490年1494年1508年1521年1546年1553年1558年1568年1573年1588年15世紀1月13日 (旧暦) インデックスを展開 (199 もっと) »

執事

執事(しつじ)とは、役職名であるが、使用された時期や場所によって意味合いが異なってくる。.

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千種忠顕

千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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南方紀伝

南方紀伝(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。.

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古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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名和長年

名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.

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吉見氏

吉見氏(よしみし)は、日本の氏族。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大崎詮持

大崎 詮持(おおさき あきもち)は南北朝時代から室町時代前期の武将。本姓は源氏で奥州管領斯波家兼の孫。大崎持詮は曾孫にあたる。 奥州管領(奥州探題)大崎直持の嫡子として誕生する。室町幕府第2代将軍足利義詮と父・直持からそれぞれ偏諱を賜り詮持と名乗る(また、別名に義兼(よしかね)と伝わるが、次男の兼持(かねもち)が「兼」の字を使用していることから、後にこの諱(名前)に改名したものと思われる)。 康安元年(1361年)、父の名代として奥州における南朝方攻略の指揮を執る。永和元年/天授元年(1375年)以降嘉慶2年(1388年)まで、左京大夫の名で奥州探題として行動するが、明徳2年(1391年)に幕府内で奥羽両国が鎌倉府の管轄下に入ると鎌倉に住した。このころ鎌倉・瀬ヶ崎に邸宅を置いたため瀬ヶ崎殿と称された。 やがて出家し法英と号するが、応永6年(1399年)に篠川公方足利満直・稲村公方足利満貞を奥州へ派遣した鎌倉府と対立し、伊達政宗と結託するも翌応永7年(1400年)に鎌倉府側の結城満朝に追討され自害した。跡を嫡男の満詮(みつあきら)が継いだ。.

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大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大舘氏

別紋:酢漿草 大舘氏館跡。 大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記する。”おおだて”と読む場合もある。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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奥州管領

奥州管領(おうしゅうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代における幕府の地方官制である。守護に代わって設置された。 建武政権が創設した陸奥将軍府に対抗するために設置された奥州総大将が前身である。 貞和6年(1345年)畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命され、奥州総大将は廃止された。当時幕府内は観応の擾乱前夜で、畠山国氏は尊氏・師直派で、吉良貞家は直義派であった。二人の共同統治で軍事と民政などの分掌は行われなかった。 軍事指揮権を主に職掌とした奥州総大将より職権が拡大し、寺社興行権の保障と棟別銭の賦課、庶務・検断・雑務沙汰の審理も行えるようになった。また、軍事指揮権も奥羽の武士へ管領府への勤番を発動するなど強化されている。それに伴い、それまで有力武士に認めていた各郡での使節遵行権を管領府が徐々に行うようになった。 観応2年(1351年)、前年尊氏派と直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国・弟直泰は自害したが、国氏の子二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務をしている。その子孫はそのまま二本松に土着した(二本松氏)。 畠山国氏の敗死により、尊氏派の諸氏は失脚した。また、その混乱に付け込み、南朝の北畠顕信が国府を攻撃して奪取した。吉良貞家は反撃して国府を奪回するも、文和2年(1353年)に死亡する。子の吉良満家が奥州管領職を世襲した。そこに先の奥州総大将石塔義房の子義憲(義元)が奥州管領を自称し、活動を開始した。また、斯波家兼も奥州管領に任命されて下向する。これにより、同時に奥州管領を称する吉良満家・二本松国詮・石塔義憲・斯波家兼の4人が並立することとなった(四管領時代)。さらに吉良満家の弟、吉良治家を討つために石橋棟義も下向し、血みどろの抗争を繰り広げることになる。その抗争の中、次第に斯波家兼が優位に立ち、その他の3氏は逼塞していった。 この騒乱の結果、各管領は各地の有力武士の支持を取り付けるため、郡地頭に検断権や使節遵行権を認めた。これにより各有力武士は各郡に強力な支配権を持つことになり、「分郡」と呼ばれる支配領域を持つようになる。そして奥州では国人の力が非常に強くなり、戦国大名へと発展していく。逆に奥州管領はその権限を再吸収できないうちに明徳3年(1392年)には廃止され、奥羽は鎌倉府の管国に編入されたが、幕府と鎌倉府の溝が深まってくるに伴い奥州探題設立へとつながる。 Category:室町幕府の職制 category:戦国時代 (日本) category:中世日本の称号.

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奥州探題

奥州探題(おうしゅうたんだい)とは、室町時代から戦国時代にかけて置かれた室町幕府の役職の一つ。守護に代わって設置され、陸奥国の統括を担った。奥州とは一般的には陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指す。出羽(秋田、山形)は羽州と呼ぶのが一般的で、現東北地方である両国をまとめて指す場合は奥羽と呼ぶのが通常である。.

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奥羽

奥羽(おうう)は、日本の令制国の陸奥国(奥州)と出羽国(羽州)を合わせた地域である。奥羽地方。基本的に、現在の東北地方と一致する。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、陸奥国は磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国に5分割、出羽国は羽前国・羽後国に2分割された。これらを東北七州と呼ぶ。この後も「奥羽」の名は従来どおりの地域に対して用いられる。ただし高校野球の地方大会で「奥羽」の名が、新陸奥国+出羽国にほぼ一致する青森県+秋田県+山形県に対し(1925年~1934年)、あるいは青森県+秋田県に対し(1974年~1977年)使われたことがある。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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奉行衆

奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。.

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室町通

室町通で準備中の菊水鉾 室町通(御池通との交差点付近から南方面を望む)、京都市中京区 室町通(むろまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。平安京の室町小路にあたる。地下鉄が通っている烏丸通のすぐ西側の通りである。北は北山通から南は久世橋通まで。途中東本願寺と京都駅で分断されている。 1378年に足利3代将軍義満が、「花の御所」と讃えられた豪奢な室町殿を室町通今出川付近に造営したため、室町幕府の名前の由来となる。応仁の乱で室町幕府が衰退するまで、政治・文化の中心地として賑わった。応仁の乱の後京都は荒廃し上京と下京に分裂するが、これらを結ぶ唯一の道が室町通であった。江戸時代になると呉服店が立ち並ぶ問屋街として発展。現在でも、創業数百年という老舗店が軒を連ねている。祇園祭では四条室町の交差点付近が山鉾町の中心であり、菊水鉾をはじめとする山鉾が並ぶ。 室町通はほぼ1車線道路だが、下京区鶏鉾町(にわとりぼこちょう)域の四条通と綾小路通の間は、太平洋戦争中の建物疎開により東側に並ぶ建物が取り壊され、2車線に拡幅されている。この場所では終戦の日後しばらく、相撲やサーカス興業が行われたという『伝統脈々 魅惑の懸装品』 京都新聞2016年7月14日朝刊。.

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家柄

家柄(いえがら)とは、先祖からの家すじを意味する。家格と同義とされることもある。.

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家格

家格(かかく)とは、歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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守護領国制

守護領国制(しゅごりょうごくせい)とは、室町時代の守護大名による一円的な領国支配体制を指す歴史概念。.

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官途奉行

官途奉行(かんとぶぎょう)は、鎌倉幕府・室町幕府において、御家人の叙位任官を職掌とした役職である。.

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富樫氏

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。。.

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小弓公方

小弓城跡 小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、彼が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来。足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川氏の元となった。.

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小侍所

小侍所(こさむらいどころ)は、鎌倉幕府・室町幕府に設置された機関の1つで、将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理して将軍及びその御所の警備を統括した。鎌倉幕府においては別当を長としたが、室町幕府にはそうした役職は存在しなかったとみられており、便宜上において所司と呼ばれていたようである。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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将軍家

将軍家(しょうぐんけ)は、日本の中世において、征夷大将軍または近衛府大将に叙任された武家の棟梁が、政権を樹立する際に公家の家政制度に倣って創始したものである。自身及び、世襲を確立した際には嫡子を始めとする家族と、家政機関である政所を含んだ。 最初にこの概念が導入されたのは、源頼朝が右近衛大将に叙任されたことにより、従来自身の主従関係をこれに当てはめたものである。彼とその家臣団である御家人が朝廷からの自治の確立のために称された。後に、頼朝自身が征夷大将軍に就任し、彼の子である源頼家および実朝へと征夷大将軍の世襲がおこなわれるようになった。そして、頼朝の職名である「征夷大将軍家」・「前右大将家」の略である「将軍家」の称が確立される。 また、源実朝が征夷大将軍兼帯で右大臣に就任したことにより、征夷大将軍が大臣に就任することが可能となった。鎌倉時代においては、摂家将軍・皇族将軍らは将軍職を辞した後も大臣には就任しなかった。再び将軍が大臣に就任したのは、室町時代に入り右近衛大将を任じられた足利義満の、内大臣就任からである。 室町時代には、征夷大将軍に対しては将軍家という言い方より公方(くぼう)と言う言い方が用いられる。江戸時代には御三家・御三卿や将軍庶子に対する将軍の嫡子に対して用いられた。 将軍家は武家政権の時代を通じて日本の統治者の一族としての役割を担った。勅令により任命されたが、武家政権の確立期には天皇家を凌ぐ威勢を誇った。形式上は朝廷の臣下であったが、実際には諸外国からも王家としての待遇を受けるのが通例であった。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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山田渡辺氏

山田渡辺氏(やまだわたなべうじ)とは、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を領有し、山田一乗山城主であった武家である。 彼らは嵯峨天皇の皇子源融の6代後渡辺綱の後裔であり、嵯峨源氏名門の家柄である。.

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上野氏

上野氏(うえのし)は、日本の氏族。幾つかの流れがある。本項では清和源氏足利流上野氏について記述。ほかに清和源氏新田氏里見流上野氏、武蔵七党の一派児玉党の一族有道姓上野氏、信濃国木曾谷の国人木曾氏流上野氏、豊後大神氏流豊後上野氏などがある(下記参照)。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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中原氏

中原氏(なかはらうじ)は、「中原」を氏の名とする氏族。.

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中条氏

中条氏は、日本の氏族の一つ。.

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七頭

七頭(しちとう)は、室町時代、管領家とともに幕政に参加できた七家の有力諸侯。 『南方紀伝』によると、応永5年(1398年)、室町幕府3代将軍足利義満によって公家の五摂家七清華家を擬した武家の三職七頭の家格が定められたとされる。三職とは執事別当(管領)たる斯波氏・畠山氏・細川氏の所謂三管領家で、一色氏・山名氏・土岐氏・赤松氏・京極氏・伊勢氏・上杉氏等が七頭として幕政に参加した。 七頭のうち一色氏・山名氏・赤松氏・京極氏の四家を四職という。この四家に土岐氏と今川氏を加えた六家が京都奉行(侍所所司)に就任した。また、伊勢氏は奏者(政所執事)、上杉氏は関東執事(関東管領)に就任する家柄となった。 「応永五年(戊寅)・・・此の年、義満は朝廷の五摂家七清華に准じて武家の三職七頭を定めた。いわゆる三職は斯波・細川・畠山で三管領(執事別当也)と号す。七頭とは山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢らで、そのうち山名・一色・赤松・京極を京都奉行(侍所別当)とし四職と号す。奏者は伊勢貞行である。また武田・小笠原の両人を弓馬礼式奉行とし、吉良・今川・渋川らを武頭とする。」(南方紀伝).

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三好長慶

三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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三木一草

三木一草(さんぼくいっそう)は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名にちなむ。 4人に共通する点は、.

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一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

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一色持範

一色 持範(いっしき もちのり)は、室町時代の武将。式部一色氏の祖。.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

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享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都扶持衆

京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。京都御扶持衆ともいう。 なお、この言葉の語源については、渡辺世祐が作った学術的用語であり、史料上に出てくる用語としては「京都御扶持者」「京都御扶持之輩」であるため、「京都扶持者」の方が正確なのではないか?とする渡政和の指摘もある渡政和「〈京都様〉の〈御扶持〉について -いわゆる〈京都扶持衆〉についての考察-」(初出:『武蔵大学日本文化研究』第5号(1986年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1)。.

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京極高数

京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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二木謙一

二木 謙一(ふたき けんいち、 1940年12月5日 - )は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は日本中世史(戦国史)。有職故実研究の第一人者として知られる。また、数々の大河ドラマの考証を手がけたことでも有名。文学博士。文化勲章受章者である医学者二木謙三は祖父に当たる。東京都出身。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今出川通

今出川通、寺町付近から西方向を見る 今出川通(いまでがわどおり)は京都市中心市街地北部の主要な東西の通りの一つ。.

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仁木氏

仁木氏(につきし)は、清和源氏の一族で、足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。.

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延徳

延徳(えんとく)は、日本の元号の一つ。長享の後、明応の前。1489年から1491年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚、足利義材。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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建武以来追加

建武以来追加(けんむいらいついか)とは、室町幕府が制定した追加法の法令集。 その名称から室町幕府の基本法とされる建武式目(建武3年(1336年)制定)の追加と考えられがちであるが、室町幕府は建武式目も鎌倉幕府の基本法であった御成敗式目の追加法であるという立場を取っており、建武以来追加も建武式目以後に追加された御成敗式目の追加法という立場に立ったものである。 数回にわたって編纂され、諸本が多く存在するが、現存する諸本より、文明・永正・大永期に増補編纂が行われたことが確認できる。また、応永・文安・長禄年間にも編纂が行われたと推定されている。最終版とされる大永版には建武5年(1338年)より永正17年(1520年)までの法令が年代順に採録されている。初期のものには寺社・本所関係、守護・地頭関係など全国的な広がりを持つ法令が多いが、守護領国制の展開と政治・財政基盤の京都及びその周辺への依存が高まるにつれて徳政令などの経済法が増加し、仮名交じり文の法令が増加するようになる。.

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建武式目

建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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伊達氏

伊達氏(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、桓武平氏繁盛流常陸大掾と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御一家

御一家(ごいっか)とは、足利将軍家の同族の中でも征夷大将軍継承権を有し、室町幕府においては管領と同格もしくは上の家格として扱われた吉良氏・渋川氏・石橋氏のこと。特に吉良氏は御一家の中でも筆頭に位置づけられて、管領よりも上位に位置づけられていた。.

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御供衆

御供衆(おともしゅう)は、室町幕府将軍の出行に供奉した人物である。また、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号でもあった。その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。.

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御用達

御用達(ごようたつ、ごようたし、ごようだち)とは、江戸時代に、幕府、大名、旗本、公家、寺社などに立入あるいは出入する特権的な御用商人の格式のひとつ。また、近代以降においては、皇室や王室等からの取引指定を受けて物品等を納めること。「御用達」の指定を受けることは、皇室や王室が間接的に企業の信頼性や製品の品質を保証することを意味し、指定を受けた企業や製品は高いステータスを持つことになる。.

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御成敗式目

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。 1185年に鎌倉幕府が成立以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。.

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御料所

御料所(ごりょうしょ)は、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。家臣に与えられた所領(知行地)に対する概念でもある。 なお、『日葡辞書』においては、「王位に付属する領地、すなわち、国王の私有の領地や土地」と定義している。.

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徳政令

徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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後鑑

後鑑(のちかがみ)は、江戸幕府によって編纂された室町幕府15代の歴史書。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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徒歩

徒歩(とほ).

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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地方 (職制)

地方(じかた)とは、室町幕府に置かれていた機関の一つで、京都市中の屋敷地の安堵・訴訟・打渡などを土地に関する行政を扱った。 鎌倉幕府には地奉行(じぶぎょう)と呼ばれる役職があり、幕府の本拠地である鎌倉市中の土地に関する行政を取り扱った。当初は政所の職員2名が担当していたが、得宗専制期に入ると1名は得宗被官(御内人)に割り当てられ、得宗の幕府権力掌握の一翼を担った。室町幕府の地方はこの地奉行の系譜に属すると考えられている(地方頭人は「地奉行」とも呼ばれた)が、政所や侍所から自立した機関と位置づけられた。 室町幕府の地方は南北朝時代の文和年間には既に存在しており、1380年代に入って朝廷が平安時代以来置いていた検非違使庁の機能を吸収して京都市中の屋敷地に関する訴訟を全面的に扱うようになった。 地方には奉行人(地方奉行)が置かれていたが、その長は頭人(とうにん)と呼ばれた。頭人は初期には「管領」とも称され、応永年間以降は摂津氏が世襲した。その下に開闔・寄人・雑色・公人などの職員が置かれていた。 地方が管轄する問題が発生した場合、まず頭人あてに訴状が出され、頭人は審理を担当する寄人を定める。寄人は三問三答と呼ばれる当事者への尋問を行った後で地方内談と呼ばれる審理を行い、その判断を頭人もしくは頭人と寄人の連署による奉書によって当事者に通知した。ただし、地方だけで解決できない場合には将軍直属の訴訟機関である御前沙汰が開かれ、その決定を地方頭人が奉書の形で当事者に通知した。また、打渡が必要な場合には公人が派遣されて実際の打渡を行ったほか、侍所に奉書を送付して打渡を要請する場合もあった。ただし、土地からの租税や買得に関する手続に関する業務は政所に属している。 応仁の乱によって地方の業務が不可能になると一時的に機能を停止したが、長享年間までに再興された。だが、幕府の衰退とともにその機能は低下し、大永年間を最後に活動を停止している。最後の頭人とみられる摂津元造が内談衆を兼ねて御前沙汰の一員になったことで、上級審である御前沙汰が下級審である地方の機能を吸収したと考えられる。また、将軍足利義晴が政争によって度々京都を離れ、それに従っていた摂津元造も京都に不在であったことも影響したとみられている。その後、天文年間には細川京兆家が京都市中においてかつての地方の業務を執り行っている。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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嘉吉

嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.

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嘉吉の乱

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。 この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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問注所

問注所(もんちゅうじょ、もんぢゅうしょ)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府に設置された訴訟事務を所管する機関である。 「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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公方御倉

公方御倉(くぼうおくら)とは、室町幕府における財産の管理・出納を行っていた機関。単に御倉(おくら)とも。長は倉奉行(御蔵奉行・御倉奉行)であったが、実態は京都市中の民間の土倉などから選ばれた納銭方が倉奉行の委託を受けて出納業務を行っていた。 中世の京都は災害や盗賊などの災難に遭う可能性が高かった。そこで、京都在住の武家や公家、庶民は、土倉や質屋のような金融業者や周囲に石垣や堀などを廻らせて防御に優れた寺院に資産を預けてリスクを回避する例も見られる。これは朝廷や幕府についても同様であり、例えば朝廷の財貨を管理する者を禁裏御倉(きんりみくら)と称していた。 元来、室町幕府は花の御所に隣接する足利将軍家の菩提寺・相国寺の倉庫の1つに自前の倉庫を保持して代々倉奉行を務める籾井氏らが管理を行っていたが、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」が出され、幕府が京都の土倉・酒屋に対する一律に役銭課税が開始された後に土倉や酒屋の有力者の中から徴収を担当する納銭方が選ばれた。納銭方となった土倉や酒屋は一旦徴収した税を自己の倉庫に保管していたが、後にその運搬の労を省くために幕府(政所執事あるいは倉奉行)から文書で命令を受けて出納業務を行うようになった。これが公方御倉の由来と考えられている。 公方御倉には酒屋や土倉、味噌屋などから集められた役銭・棟別銭などの租税、各方面から幕府への献上品(武具・紙・漆器・衣類など。幕府の業務で用いる他に家臣などへの贈与や換金して仏事などの諸行事の費用にあてる場合もあった)の管理・出納、幕府公文書の管理などが上げられているが、納銭方の金融業者としての性格からして幕府の財政難の際には一般と同様に納銭方からの借入を行ったものと見られている。 納銭方が御倉に租税が入った際には「請取」を幕府に送付した。幕府が手元にある財物を御倉に預ける際には政所から「送状」が作成されて倉奉行の「下書」を添付して財物とともに御倉に送られ、これに対して御倉の納銭方が「請取」を幕府に送付して受取状とした。幕府から御倉に支払の実施を求める場合には今度は政所が作成し倉奉行が連署した公式な支払命令書が作成されていたが、後には簡略化されて政所が「請取」を作成して倉奉行の「下書」を添付して御倉に送ることで命令書の代わりとすることが行われるようになった。 Category:室町幕府の職制.

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六角氏

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国持衆

国持衆(くにもちしゅう)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。いわゆる国持の守護大名の事。三職家や御相伴衆の一族をはじめ、有力大名が列し、室町幕府内では御相伴衆に次ぐ格式にあった。室町幕府においてはこの三職・御相伴衆・国持衆、准国持衆に列した家々を「大名」と称した。.

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四職

四職(ししき/ししょく)は、室町時代の武家の家格。.

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石橋氏

石橋氏(いしばしし)は日本の武家の姓のひとつ。.

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石津の戦い

石津の戦い(いしづのたたかい)とは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。.

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礼銭

銭(れいせん)とは、本来は室町幕府において征夷大将軍の任命などの祝い事の際に守護大名や寺社などから献上された祝い金のこと。物品で献上される場合には礼物(れいもつ)と呼ばれる。後には一献料(いっこんりょう)・酒肴料(しゅこうりょう)とも呼ばれて、官職や訴訟における有利な判決と引き換えに謝礼として室町幕府や朝廷、守護大名、あるいはそれらに仕える役人達に対して献上される金品を指した。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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納銭方

納銭方(のうせんかた/なっせんかた)とは、室町幕府が土倉役・酒屋役を徴収するために土倉・酒屋の有力者から任命した徴税委託の機関である田中(2001)。土倉役・酒屋役は御料所や段銭・棟別銭などと並ぶ室町幕府の主たる財源の一つであり、明徳4年の制法により年間6,000貫文が納められることが定められた。当初は複数の山徒(比叡山延暦寺の衆徒)の土倉(山門土倉)によって構成される土倉方一衆がその任に当たっていたが、次第に生じるようになった戦乱や土一揆による納銭の減少を食い止めようとする幕府は、その役目を山門土倉ではない洛中の土倉・酒屋にも担わせることがあった。 「納銭方」という語には納銭徴収の幕府機関あるいは請負機関を指すとする通説があるほか、納銭そのものや納銭の出納ルート、あるいは賦課対象としての土倉・酒屋を指していたと考える研究者もいる。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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羽州探題

羽州探題(うしゅうたんだい)は、室町時代の出羽国に置かれた幕府の役職。正しくは羽州探題職(うしゅうたんだいしき)という。 奥州探題と並んで室町幕府における奥羽を統括する要職であり、それぞれ斯波氏の一門である大崎氏が奥州探題、最上氏が羽州探題を世襲した。 羽州探題の成立は正平11年(1356年)、奥州探題斯波家兼の次男・斯波兼頼が、出羽国按察使として山形に入部し、当時、寒河江氏等の南朝勢力が割拠していた出羽国の統治に当たったのが始まりである。正平22年(1367年)、漆川の戦いにより寒河江氏を下し、出羽国における南朝勢力を、北朝に従えた後も、その地に留まり、以後、最上屋形の称号を拝名し最上氏を称した。.

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結城親光

結城 親光(ゆうき ちかみつ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.

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結城氏

結城氏(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。.

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申次衆

申次衆(もうしつぎしゅう)とは、室町幕府の職名の1つ。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畿内・近国の戦国時代

畿内・近国の戦国時代では畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方の戦国時代について記す。 戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から小谷利明・弓倉弘年(編) 『南近畿の戦国時代』 戎光祥出版、2017年、p.1。、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)までを戦国時代として扱う。.

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相伴衆

伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった(ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)。.

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花の御所

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称()であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所()がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。.

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鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉殿

鎌倉殿(かまくらどの)は、鎌倉幕府の棟梁。また、そこから転じて鎌倉幕府そのものを指すこともある。源為義あるいはその子の義朝以降は清和源氏(武家)の棟梁を鎌倉家、鎌倉殿、鎌倉流とも呼ぶようにもなった。「平家物語」では「鎌倉殿」とは頼朝を指し、歴史的には源頼朝と強く結びついた言葉である。 「幕府」の語は江戸中期以降用いられたものであり、鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいた。 また、室町幕府の長である足利将軍についても鎌倉幕府の継承者として捉えられ、当初は「鎌倉殿」「鎌倉将軍」の呼称が用いられていた。例えば、二条良基が著した『連歌十様』(高野山正智院本奥書)には、三代将軍足利義満を「鎌倉将軍」と呼称している部分がある。後に義満が京都室町に居宅を置くと、室町幕府将軍は「室町殿」と呼ばれるようになり、代わって室町殿の分家である鎌倉公方が「鎌倉殿」と呼ばれるようになった。 近年では、鎌倉殿を頼朝の名字(称号)とする学者もいる。.

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鞆城

鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。.

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青野原の戦い

青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市、不破郡垂井町)において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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見聞諸家紋

『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)は、日本の武家の家紋を集録した家紋集で、家紋を集録した書物としては日本最古のものである秋田四郎 「「見聞緒家紋」群の系譜」、弘前大学國史研究会編『弘前大学國史研究(99号)』、弘前大学國史研究会、1995年。『見聞諸家文』(「聞」は異体字。米部に耳)とも書く。別名『東山殿御紋帳』ともいう。.

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解官

解官(げかん)とは、律令制において、現職の官人が解任されること。 解官の理由としては、.

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評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利将軍一覧

足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん)では、室町幕府(足利幕府)征夷大将軍の15人を一覧にして概説する。 3代将軍の足利義満が大臣となって以降、歴代の将軍は大臣を兼ねる(または没後に贈官される)場合が多くなり、この慣例は後の徳川将軍家にも受け継がれている。 一方で南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。 代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。.

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足利市

足利市中心部を流れる渡良瀬川 足利市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を北西から南東方向へ渡良瀬川が流れる。1986年撮影の19枚を合成作成。国土航空写真。 足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼んだ有名な足利学校がある。また、足利学校は2015年4月に日本遺産に認定された。.

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足利義尚

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。.

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足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

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足利義量

足利 義量(あしかが よしかず)は、室町時代中期の室町幕府第5代征夷大将軍(在職:応永30年3月18日(1423年4月28日) - 応永32年2月27日(1425年3月17日))。.

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足利義栄

足利 義栄(あしかが よしひで)は、戦国時代の室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月 - 9月)。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利満直

足利 満直(あしかが みつなお/みつただ)は室町時代中期の武将で篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方足利氏満の次男。第3代公方足利満兼は兄。.

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足利満貞

足利 満貞(あしかが みつさだ)は室町時代中期の武将。第2代鎌倉公方・足利氏満の4男。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。.

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足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.

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足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

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足利政知

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.

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軍事貴族

軍事貴族(ぐんじきぞく)は、日本の古代後期から中世最初期にかけて出現した軍事専門の貴族・公家(地下人)のことをいう。武家貴族とも呼ばれ、成立期の武家(武士)の母体となった。為憲流藤原南家、利仁流と秀郷流と勧修寺流上杉氏の藤原北家、国香流桓武平氏、清和源氏、広元流大江氏、嵯峨源氏の渡辺氏と瓜生氏、宇多源氏の佐々木氏、多々良姓大内氏、日下部姓朝倉氏、大蔵姓諸氏、中原姓諸氏、惟宗姓諸氏などが代表的な軍事貴族である。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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蘆名氏

蘆名氏(あしなし)は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族。相模国蘆名(現在横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来する。「芦名氏」「葦名氏」「三浦芦名家」と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。通し字は前者は「為」、後者は「盛」。.

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赤松範資

赤松 範資(あかまつ のりすけ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。摂津国・播磨国守護。赤松氏5代当主。.

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赤松義祐

義祐の戒名が刻まれた墓石 赤松家菩提寺松安寺(廃寺)に残る赤松義祐の墓 赤松 義祐(あかまつ よしすけ)は、播磨国の戦国大名。赤松氏の第12代当主。播磨置塩城城主。赤松晴政の嫡男として生まれる。元服に際して、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝より偏諱(「義」の1字)を受け、父・晴政の初名「政祐」の1字と合わせて義祐と名乗る。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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関銭

関銭(せきせん)とは、中世日本において交通の要所(街道・湊津など)に設置された関所を通過する人馬や船、荷物などに対して徴収した通行税。狭義では銭で徴収されたものを指すが、広義では米で徴収される升米など、銭以外の実物で徴収される通行税も含まれる。当初は関所の設置者による通行の安全保障に対する対価(警固料)としての意味合いも有していたが、後には財政的理由のみで賦課される租税の一種となり交通・流通に対する阻害要因となった。.

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関東八屋形

関東八屋形(かんとうはちやかた)は、室町時代、関東地方において屋形号を称する事が許された有力な大名をいう。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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関所

関所の冠木門様式の門(石部宿場の里にて) 関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。.

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藤島の戦い

藤島の戦い(ふじしまのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)閏7月、越前国藤島(現・福井県福井市)付近において、越前平定と上洛を目指していた新田義貞率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、斯波高経ら北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。.

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藤田達生

藤田 達生(ふじた たつお、1958年10月8日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.340 - )は、日本の日本史学者、三重大学教授。.

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重臣会議

重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和戦前・戦中期の日本において、後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった。最後の元老・西園寺公望の最晩年からその元老としての機能を引き継ぐ形で始まり、戦後に内大臣府が廃止されるまで度々開催された。.

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長門探題

長門探題(ながとたんだい)は、一般には1276年(建治2年)に鎌倉幕府が元寇に対処するため、長門国に設置した最前線防衛機関の呼称として知られる。長門守護の権能を受け継ぎ拡大したものと考えられるが、詳細は不明。初代に相当するとされる北条宗頼以後、北条氏一門が任命された。史料上では、北条時直に対してのみ「長門周防探題」の称が確認されている(『忽那文書』元弘三年三月二十八日「忽那重清軍忠状」)。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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抽分銭

抽分銭(ちゅうぶんせん)とは、室町時代の輸入税。日明貿易の際使用された。 中国の元の制度に取引貨物の価格に1割、粗悪品はその2/3を官に納める制度があり、日本でも天龍寺船が帰国後に天龍寺に対して利益額に関係なく現銭5000貫を納入した先例がある。 勘合船の経営者の室町幕府や細川氏・大内氏などの守護大名、寺院などが勘合船の帰港後に輸入品の売値総額(日本国内の価格に換算した総額)の1割をその船に便乗した貿易商から徴収した。当時の1回の勘合船が輸入した品物の総額は莫大な金額になったことから、抽分銭のもたらす金額も大きく、室町幕府などにとっては大きな臨時収入となった。 応仁の乱後、堺商人が抽分銭の請負業務を行い、出航前に予め輸入品の利益額を想定して抽分銭を先に経営者側に納付する制度を取った。これによって抽分銭の請負って先に納付を行った堺商人が便乗者の決定権を持つこととなり、堺商人及びその影響下にあった他所の商人以外には勘合船に乗船できなくなってしまった。ただし、堺商人の影響力の及ばない西国の大内氏が経営する勘合船にはこの規定が及ばず、依然として帰港後に独自に抽分銭を徴収していた。 Category:中世の税制 Category:室町幕府.

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恩賞

恩賞(おんしょう)とは、近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと(関連用語→恩給)。.

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東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

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東国

関東地方 東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。.

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栃木県

栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.

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桃井氏

桃井氏(もものいうじ)は、日本の氏族。清和源氏足利氏の支族で、足利義兼の子である兵部少輔桃井義助が嘉元元年(1225年)に上野国群馬郡桃井郷(現在の群馬県北群馬郡榛東村、旧名・桃井村)の荘司(地頭補任は不詳)となり、苗字の地とし桃井氏を称した「桃井氏」『世界大百科事典』平凡社「桃井氏」『日本大百科全書』小学館「桃井氏」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。 .

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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標葉氏

標葉氏(しべはし/しめはし/しねはし)は、日本の豪族。奥州の平氏(海道平氏)と称した石城国造(建許侶命)の系統で、平成衡の4男の隆行(隆義)を祖とし、岩城氏と同族とする。樽葉氏(ならはし/ならばし)とも呼ばれる。.

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正長

正長(しょうちょう)は、日本の元号の一つ。応永の後、永享の前。1428年の期間を指す。この時代の天皇は称光天皇、後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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武家の棟梁

武家の棟梁(ぶけのとうりょう)とは、武家(武士)の統率者である軍事貴族のこと。.

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武家役

武家役(ぶけやく)とは、鎌倉幕府・室町幕府が賦課した課税の総称である。.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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段銭

段銭(たんせん)とは日本の中世における税の一種。 仁治2年(1241年)に鎌倉幕府が課した例が初出といわれる。国家的行事や寺社の造営など、臨時の支出が必要な時に地域を限定(多くは国ごと)し、臨時に課する。銭納が原則で、「田畑一反あたり何文」という形で課せられる。大田文に記載されている公田の数量に応じて課税する段銭を公田段銭(こうでんだんせん)と呼ぶ。一方、都市では地口銭(じくちせん)と呼ばれる税が課された。地口銭は、土地の広狭を標準にして、それを利用する人に賦課したものである。 室町時代になると度々課せられるようになり、次第に恒常的税に変貌する。段銭が賦課された国には幕府から奉行が派遣されて徴収にあたるのが原則であるが、守護に代行させて徴収させる場合もある。ただし、奉行や守護による徴収の場合、実際には彼らが算定した賦課額に上乗せをした金額を徴収して差額を得る場合もある。そのため、公家や寺院、奉公衆・奉行衆などの室町幕府官僚集団などは、段銭免除や京都の幕府倉奉行への直接納付(京済・直進)の特権を幕府から得た。 また、守護や荘園領主なども私段銭と呼ばれる私的な段銭を徴収するようになる。各領主は段銭帳を作成し、領内で賦課する段銭の基礎資料や記録とした。後に私段銭は守護大名・戦国大名による領主的な賦課へと転換していくことになる。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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永享の乱

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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津料

津料(つりょう)とは、中世日本の津(港)において停泊する船あるいは積荷に対して賦課・徴収される通行税。.

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港湾

港湾(こうわん、)とは、古くは泊(とまり)などから発展した港・湊(みなと)であり、島嶼・岬などの天然の地勢や防波堤などの人工構造物によって風浪を防いで、船舶が安全に停泊し人の乗降や荷役が行なえる海域と陸地を指す池田良穂監修 『船のすべてがわかる本』 ナツメ社 2009年2月9日発行 ISBN 9784816346408。水陸交通の結節点となる機能を持つ港湾には、物流・旅客輸送が円滑に行われるために各種の港湾施設が整備され、ポートオーソリティ(港務局・港湾局)・地方自治体などの組織によって管理・運営されている。.

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渋川氏

渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。.

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湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

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朝倉氏

朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.

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朽木氏

朽木氏(くつきし)は、日本の氏族の一つ。近江源氏佐々木氏の分流である高島氏の有力庶家。高島郡の中でも、安曇川上流域(高島郡北部)である朽木谷を領した。鎌倉時代から江戸時代にかけて活動した。.

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最上氏

最上氏(もがみし)は、清和源氏の足利氏の支流である。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

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斯波家兼

斯波 家兼(しば いえかね)は南北朝時代の武将。奥州管領。斯波高経の同母弟。奥羽斯波氏の祖。足利尊氏が倒幕の兵を挙げると兄・高経とともにこれに従い、後に建武政権に叛旗を翻した際も従うなど、足利氏の嫡流である尊氏を支え続けた。.

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斯波兼頼

斯波 兼頼(しば かねより)は南北朝時代の武将。最上 兼頼(もがみ かねより)とも呼ばれる。奥州探題斯波家兼の次男で、羽州探題最上氏の祖。.

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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斯波氏経

斯波 氏経(しば うじつね、生没年不詳)は南北朝時代の武将、守護大名。越前守護、九州探題。官位は民部少輔、左京大夫。斯波高経の次男。兄に家長、弟に氏頼、義将、義種、叔父には奥州斯波氏の祖となる斯波家兼がいる。子に義高。末野氏の祖とされる。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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政所

政所(まんどころ)は、.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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扇谷上杉家

扇谷上杉家と白井長尾家の関係図 扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市) 扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。.

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1336年

記載なし。

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1337年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1358年

記載なし。

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1368年

記載なし。

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1394年

記載なし。

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1423年

記載なし。

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1429年

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1442年

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1449年

記載なし。

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1473年

記載なし。

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1490年

記載なし。

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1494年

記載なし。

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1508年

土曜日から始まる。.

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1521年

記載なし。

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1546年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1558年

記載なし。

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1568年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

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