目次
264 関係: 原田覚、あきつ丸、占守 (海防艦)、卯月 (睦月型駆逐艦)、千代田 (空母)、南西諸島、南西方面艦隊、南方軍 (日本軍)、及川古志郎、台湾沖航空戦、吉備津丸、大川内傳七、大和 (戦艦)、大発動艇、大西瀧治郎、大東亜戦争、大淀 (軽巡洋艦)、大本営、大本営発表、大日本帝国陸軍、大日本帝国海軍、夕雲型駆逐艦、夕月 (駆逐艦)、妙高 (重巡洋艦)、実松譲、寺内寿一、富永恭次、小沢治三郎、山下奉文、山本親雄、岩淵三次、岸波 (駆逐艦)、島風 (島風型駆逐艦)、左近允尚正、不知火 (陽炎型駆逐艦)、三川軍一、三式潜航輸送艇、三式戦闘機、三輪茂義、一式砲戦車、一式戦闘機、九九式双発軽爆撃機、平海 (巡洋艦)、井上良雄、井上成美、伊勢 (戦艦)、伊藤整一、信濃 (空母)、志摩清英、北上 (軽巡洋艦)、... インデックスを展開 (214 もっと) »
- 1944年11月
- 1944年12月
- 1944年のフィリピン
原田覚
原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。特殊潜行艇の育ての親『回想の潜水艦戦』129-132頁。
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あきつ丸
あきつ丸(あきつまる)は、大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦(上陸用舟艇母船)。帝国陸軍では特種船 丙型(丙型特種船)に分類される。 事実上の世界初のドック型揚陸艦として1930年代中期に開発された「神州丸(神洲丸)」の発展型として、上陸用舟艇である大発動艇(大発)を多数搭載し高い上陸戦遂行能力を持つとともに、上陸部隊の支援を目的とする全通飛行甲板を使用した航空機運用能力を有す世界的にも極めて先進的な揚陸艦であり、その運用思想と船型から現在の強襲揚陸艦の先駆的存在であった。しかし、後述するように、その航空機運用能力を生かす機会には恵まれなかった。
見る 多号作戦とあきつ丸
占守 (海防艦)
軍艦占守(しむしゅ)は、日本海軍の海防艦補助艦艇奮戦記242-244頁『占守(しむしゅ)』#達昭和14年11月p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及昭和十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣 吉田善吾 株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシユ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』。
卯月 (睦月型駆逐艦)
卯月(うづき)は日本海軍の睦月型駆逐艦4番艦である。艦名は旧暦で4月のこと。日本海軍の艦名としては1907年(明治40年)竣工の神風型駆逐艦_(初代)・卯月に続いて2代目。1944年(昭和19年)12月12日、多号作戦従事中にオルモック湾でアメリカ海軍の魚雷艇と交戦、沈没した。
千代田 (空母)
千代田(ちよだ)は、日本海軍の水上機母艦、航空母艦。千歳型水上機母艦の二番艦として建造され、後に甲標的母艦に改装される。1943年には航空母艦に改造され、瑞鳳型航空母艦に加わった。
南西諸島
南西諸島(赤枠内)と当諸島を構成する島嶼群。 南西諸島(なんせいしょとう)は、九州島南方から台湾北東にかけて、約1200キロメートルにわたり点在する島嶼群である仲田(2009年)p.10『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』「南西諸島」(1991年)p.550中村(1996年)p.2河名(1988年)p.11。 北から南へ、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島(宮古列島と八重山列島)と連なり、沖縄諸島の東に離れて大東諸島、八重山列島の北に離れて尖閣諸島がある。日本列島の南西側にあたり、東・南側が西太平洋のフィリピン海、西・北側が東シナ海である。日本の行政区分としては与論島までが鹿児島県(薩南諸島)、与論島や徳之島などの北西にある硫黄鳥島が沖縄県最北端である。
見る 多号作戦と南西諸島
南西方面艦隊
南西方面艦隊(なんせいほうめんかんたい)は戦史叢書102巻、530頁「南西方面艦隊」、大日本帝国海軍によって1942年(昭和17年)4月10日戦史叢書102巻、115頁「昭和17年(1942年)4月10日」に編制された艦隊である戦史叢書102巻、524-526頁「付録第77 陸海軍の組織・編制関係概見表(昭和12年~20年)」「(7)大東亜戦争間における艦隊の新設・解隊」。 軍隊符号はGKF。 連合艦隊軍隊区分では、南西方面部隊(昭和17年5月20日、南方部隊より改称)となる。担当地域は前線から離れていたものの、太平洋戦争後半の連合軍フィリピン反攻の際は最前線部隊として交戦した。
見る 多号作戦と南西方面艦隊
南方軍 (日本軍)
南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。軍隊符号はNA。
及川古志郎
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年(明治16年)2月8日 - 1958年(昭和33年)5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。 第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。
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台湾沖航空戦
台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中、フィリピンのレイテ島への上陸作戦の布石として、台湾から沖縄にかけての日本軍航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊に対し、日本軍の基地航空部隊が迎撃したことで発生した航空戦。アメリカ軍の損害は軽微なものであったが、日本軍は大戦果と誤認した。
見る 多号作戦と台湾沖航空戦
吉備津丸
吉備津丸(きびつまる)は、日本陸軍が日本郵船の名義で1943年(昭和18年)末に竣工させた揚陸艦。上陸用舟艇の母艦機能を有し、陸軍特種船と呼ばれた。太平洋戦争ではフィリピンなどへの部隊輸送に使用された。終戦の日直前の1945年(昭和20年)8月7日に瀬戸内海で機雷に接触して復旧不能となり、放棄された。
見る 多号作戦と吉備津丸
大川内傳七
大川内 傳七(大川内 伝七、おおこうち でんしち、1886年〈明治19年〉9月2日 - 1958年〈昭和33年〉2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県塩田町出身。 比島決戦の歌で「海に鉄血大川内」と歌われていることで知られる。
見る 多号作戦と大川内傳七
大和 (戦艦)
大和(やまと)#達昭和15年7月(2)p.2『達第百四十八號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ戦艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十五年七月二十五日 海軍大臣吉田善吾 戦艦 大和(ヤマト)』は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦#内令昭和16年12月(3)pp.4-5『内令第千六百七十二號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年十二月十六日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、戰艦金剛型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|大和型|大和|』。2番艦の武蔵と共に、史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。
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大発動艇
大発動艇(だいはつどうてい)は、1920年代中期から1930年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。通称は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船(じゅうよんメートルとくがたうんかせん)の名称が使用されている。
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大西瀧治郎
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、 - )は、日本の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。 笹井醇一(海軍少佐、太平洋戦争のエース・パイロット)は甥(大西の妻・淑恵の姉である久栄の息子が笹井)。
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大東亜戦争
国庫債券」(戦争国債)。戦後のインフレーションによりほぼ無価値となった。 「大東亜戦争第一周年記念」として日本勧業銀行(現:みずほ銀行)が販売した「戦時報国債券」 大東亜戦争(だいとうあせんそう、、)は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月2日にかけて行われた、日本(大日本帝国)と中華民国・アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダなどの連合国との全ての戦線の戦争を指す日本側の呼称「なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか: アジア主義者の夢と挫折」p22-31, 田原総一朗 · 2011。 当項目では主に名称関係について記述する。
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大淀 (軽巡洋艦)
大淀(おおよど/おほよど)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦 大淀型)#達昭和17年3月(1) p.10〔 達第六十六號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|二等巡洋艦 大淀(オホヨド)〕。 艦名は、宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦である。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画(通称④計画)により巡洋艦乙昭和13年9月19日付 海軍省『昭和14年度海軍軍備充実計画細項ニ関スル対大蔵省説明資料』、昭和13年7月11日付 艦政本部総務部第一課『次期補充計画艦種ノ仮称ニ関スル件覚』など。海軍省が作成調製した資料では、乙巡、丙巡の文言は使用されていない。(阿賀野型軽巡洋艦)と共に巡洋艦丙として計画され建造された。 潜水艦作戦を支援するため新型水上偵察機(紫雲)の運用を可能とし、艦体中央部に航空機格納庫、艦後部に大型カタパルトを装備した。ある種の航空巡洋艦である。1942年(昭和17年)4月2日、呉海軍工廠で進水。1943年(昭和18年)2月28日に竣工したが、紫雲の性能不足と太平洋戦争における戦局から潜水艦作戦に投入されることはなく、輸送作戦に従事した#軽巡二十五隻339-440頁『大淀型(一隻)大淀(おおよど)』。 1944年(昭和19年)3月頃より水上機格納庫を会議室に改造、完成後の5月上旬から連合艦隊旗艦となり、豊田副武司令長官が座乗する。連合艦隊司令部が日吉台地下壕(慶應義塾大学日吉キャンパス内)に移転する9月29日まで旗艦任務についた。その後は再び最前線に投入され、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)、礼号作戦、北号作戦等、フィリピン方面で活動した。1945年(昭和20年)2月下旬に内地帰投後は呉練習戦隊に編入され瀬戸内海(呉)に停泊し、7月28日の呉軍港空襲で大破横転、沈没した。
大本営
昭和天皇御前の大本営会議の様子(1943年4月29日付朝日新聞掲載) 大本営(だいほんえい、)は、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関。その設置は、大日本帝国憲法下において天皇が有する、統帥権の発動に基づくとされる。大本営の設置は、平時には統帥部(陸軍参謀本部及び海軍軍令部)や陸海軍省に分掌される事項について、同機関のもとで一元的な処理を行なうことを目的とした。 1893年(明治26年)5月22日公布の戦時大本営条例によって制定され、日清戦争と日露戦争において実際に設置、それぞれ終戦後に解散した。日中戦争(支那事変)では戦時又は事変において設置するとされ、戦時外でも設置できるようなり、そのまま太平洋戦争終戦まで存続した。
見る 多号作戦と大本営
大本営発表
大本営発表(だいほんえいはっぴょう、)とは、1937年11月から1945年8月までの期間、日中戦争(支那事変)および太平洋戦争(大東亜戦争)において、大本営が行った戦況の公式発表である。 発表はラジオにより、全国に大々的に発表された。太平洋戦争初期は戦果を概ね正確に発表していたが、珊瑚海海戦(1942年5月)の発表から水増しが始まり千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫79-81頁、以降は戦況悪化の実態と乖離した、虚偽の大戦果発表を行なった。敗戦後に実態が明らかになり、戦後は政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報発信を示す慣用句として使われるようになった。
見る 多号作戦と大本営発表
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、、Imperial Japanese Army、IJA)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。 解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。
見る 多号作戦と大日本帝国陸軍
大日本帝国海軍
大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、だいにほんていこくかいぐん、、Imperial Japanese Navy、IJN)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた海軍である。通常は、単に海軍や帝国海軍、日本海軍と呼ばれた。 解体後は、海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍または旧海軍とも呼ばれている。第二次世界大戦の後、残存部隊は改組を経て現在、海上自衛隊のほか関連する国家機関等になっている。
見る 多号作戦と大日本帝国海軍
夕雲型駆逐艦
夕雲型駆逐艦(ゆうぐもかたくちくかん)は、大日本帝国海軍の一等駆逐艦の艦級#内令昭和16年2月p.18『内令第百三十三號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年二月五日 海軍大臣及川古志郎|驅逐艦、一等陽炎型ノ項中「萩風」ノ下ニ「、舞風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |夕雲型|夕雲| 潜水艦、一等伊九型ノ項中「伊號第十」ノ下ニ「、伊號第十一」ヲ加フ|駆潜艇第十三號型ノ項中「第十六號」ノ下ニ「、第十七號」ヲ加フ』である。同形艦19隻。陽炎型駆逐艦の改良型で、同型と本型を合わせて甲型駆逐艦とも呼ばれる。
見る 多号作戦と夕雲型駆逐艦
夕月 (駆逐艦)
夕月(ゆうづき/ゆふづき)は#達昭和3年6月 pp.7-8〔 達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|第三十四號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 夕月ユフヅキ トス 〕、大日本帝国海軍の駆逐艦。睦月型駆逐艦の12番艦。
妙高 (重巡洋艦)
妙高(みょうこう、旧仮名:めうかう)は、日本海軍の重巡洋艦#達大正12年12月p.5『達第二百三十五號 艦艇製造費ヲ以テ大正十二年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|大正十二年十二月十日 海軍大臣財部彪|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 妙高メウカウ|呉海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 那智ナチ』。一等巡洋艦妙高型の1番艦である。艦名は新潟県の妙高山に因んで命名された。なお、名称は海上自衛隊のこんごう型護衛艦の3番艦「みょうこう」に受け継がれている。 2番艦那智の方が妙高より先に竣工したため『那智級』と呼ばれることもあった。
実松譲
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。 米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近く『昭和史忘れ得ぬ証言者たち』「実松譲」におよんだ。
見る 多号作戦と実松譲
寺内寿一
寺内 寿一(てらうち ひさいち、、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将、位階は従二位、勲等は勲一等、功級は功一級、爵位は伯爵。東京府生まれ、東京府育ち~ (著者:中田千畝 出版者:実業之日本社 発行:1938年(昭和13年)8月1日) (2018年11月19日閲覧。)。山口県出身。 第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた唯一の人物である。 陸軍大臣在任時は、衛生省(厚生省、現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争期には、編成時から一貫して南方戦線の陸軍部隊を統括する南方軍総司令官を務めた。
見る 多号作戦と寺内寿一
富永恭次
冨永 恭次(富永 恭次、とみなが きょうじ、1892年(明治25年)1月2日 - 1960年(昭和35年)1月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 多号作戦と富永恭次
小沢治三郎
小沢 治三郎(小澤 治三郎、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。
見る 多号作戦と小沢治三郎
山下奉文
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。 高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官としてイギリス領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。
見る 多号作戦と山下奉文
山本親雄
山本 親雄(やまもと ちかお、1896年(明治29年)10月13日 - 1980年(昭和55年)11月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
見る 多号作戦と山本親雄
岩淵三次
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年(明治28年)3月2日 - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。
見る 多号作戦と岩淵三次
岸波 (駆逐艦)
岸波(きしなみ)は#達昭和18年5月(3)pp.4-6「達第百二十一號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦二隻、驅潜艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 沖波(オキナミ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 岸波(キシナミ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝霜(アサシモ)」、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦の15番艦である。
島風 (島風型駆逐艦)
島風(しまかぜ)は#達昭和17年5月(1)pp.39-40『達第百五十七號 昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦二隻、潜水艦三隻、驅潜艇五隻及掃海特務艇一隻ヲ左ノ通命名ス|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一等驅逐艦 新月(ニイヅキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 一等驅逐艦 島風(シマカゼ)|(以下略)』、大日本帝国海軍が大東亜戦争で運用した駆逐艦。 計画時の分類は丙型駆逐艦(へいがた)#舞廠造機部241-243頁『40ノット艦―島風〔II〕(丙型)』。
左近允尚正
左近允 尚正(さこんじょう なおまさ、1890年(明治23年)6月6日 - 1948年(昭和23年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。ビハール号事件におけるBC級戦犯として絞首刑に処された。
見る 多号作戦と左近允尚正
不知火 (陽炎型駆逐艦)
不知火(しらぬい、しらぬひ)は、日本海軍の陽炎型駆逐艦2番艦#達昭和13年4月(2)pp.11-12『達第六十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十二年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、掃海艇二隻、敷設艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十三年四月十五日 海軍大臣 米内光政|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 陽炎(カゲロフ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 不知火(シラヌヒ)(略)』#陽炎型(2014)303頁『不知火(しらぬい)』。1939年(昭和14年)12月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)に竣工した東雲型駆逐艦「不知火」に続いて2隻目。1944年10月、シブヤン海で米艦載機の空襲を受け沈没した。
三川軍一
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年8月29日 - 1981年2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。
見る 多号作戦と三川軍一
三式潜航輸送艇
三式潜航輸送艇(さんしきせんこうゆそうてい)は、日本陸軍の潜水艦。通称のまるゆ(○の中に「ゆ」()と書く)で知られる。「ゆ」は「輸送用」の頭文字撃沈戦記、日本艦船25隻96-97頁「一号艦完成す」。1型と2型があり、主に輸送任務で用いられた。計画時の呼称は「イ号特種艇」。 レイテ島の戦い(多号作戦)で3隻が実戦投入され、輸送任務に成功した艇もある戦史叢書41巻500-501頁「義号決行、多号第六次進発」戦史叢書81巻474-475頁「第五次~第七次多号作戦」。陸軍は最終的には400隻以上の建造を計画していたが、終戦までに完成したのは38隻に留まった。
見る 多号作戦と三式潜航輸送艇
三式戦闘機
三式戦闘機(さんしきせんとうき)「飛燕」(ひえん)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機である。開発・製造は川崎航空機が行い、1943年(昭和18年)に制式採用された。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。 当時の日本で唯一の量産液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB 601を国産化したハ40を搭載した。防弾・武装のない試作機は最高速度590 km/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った。 搭載エンジンのハ40が生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。エンジンの生産遅延から、製造してもエンジンを搭載することができない、いわゆる首無しの機体が工場内に大量に並ぶ異常事態も発生した。このため、星型空冷エンジンハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機が後に生産された。
見る 多号作戦と三式戦闘機
三輪茂義
三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
見る 多号作戦と三輪茂義
一式砲戦車
一式七糎半自走砲 ホニI (いっしきななさんちはんじそうほう ホニI)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の自走砲である。大戦後期になると対戦車自走砲として使用されることになり、砲戦車の代用としても配備される場合もあった。 一般的には一式砲戦車と呼ばれるが、これは本車が開発段階に於いて機甲兵が使用する砲戦車として運用する構想の名残であるとされ、正式的には「一式自走砲(一式七糎半自走砲)」であり、あくまで砲兵が掌握する装備であった。(曖昧でどちらともいえないという説もある。)。
見る 多号作戦と一式砲戦車
一式戦闘機
一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機二型の量産時点から立川でも生産されており、さらに三型の全ては立川で移管生産された。陸軍航空工廠では少数の一型が生産されている。。 四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における事実上の主力機として運用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位総生産機数日本軍第3位、陸軍機第2位は大戦後期の主力機である四式戦。
見る 多号作戦と一式戦闘機
九九式双発軽爆撃機
九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき、)は、大日本帝国陸軍の爆撃機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ48。略称・呼称・愛称は九九式双(発)軽爆、九九(式)双軽、九九軽爆、双軽、ヨンハチ、金魚など。連合軍のコードネームはLily(リリー)。開発・製造は川崎航空機。九九式双軽爆撃機とも言われるが、制式名称は「九九式双発軽爆撃機」である。
平海 (巡洋艦)
平海(ピンハイ、PING HAI)は、中華民国海軍の軽巡洋艦。日中戦争で日本海軍航空隊により撃破されて捕獲、1944年(昭和19年)6月に海防艦八十島(やそしま)として再就役。同年9月に二等巡洋艦(軍艦)八十島となった。
井上良雄
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。
見る 多号作戦と井上良雄
井上成美
井上 成美(いのうえ しげよし/せいび、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。帝国海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人。
見る 多号作戦と井上成美
伊勢 (戦艦)
伊勢(いせ)は、日本海軍の戦艦で、伊勢型戦艦の1番艦である。当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。太平洋戦争後半には航空戦艦に改装され、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持った。 艦名は伊勢国(三重県)に由来し、戦後は海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれた。歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。
見る 多号作戦と伊勢 (戦艦)
伊藤整一
伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。
見る 多号作戦と伊藤整一
信濃 (空母)
信濃(しなの)は、大日本帝国海軍の航空母艦#空母二十九隻 332-333頁〔 信濃(しなの) 〕。艦名は旧国名の信濃国から採られた。第二次世界大戦に参加した最大の航空母艦であった。
見る 多号作戦と信濃 (空母)
志摩清英
志摩 清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日 - 1973年(昭和48年)11月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府出身。東京府立一中、海軍兵学校39期、海軍大学校21期。実父は志摩清直海軍大尉。
見る 多号作戦と志摩清英
北上 (軽巡洋艦)
北上(きたかみ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦。球磨型の3番艦。艦名は、岩手県・宮城県を流れる北上川より名づけられた。
ミンドロ島
ミンドロ島(ミンドロとう、Mindoro)はフィリピンで7番目に大きな島であり、面積は9,735 km。
見る 多号作戦とミンドロ島
ミンドロ島の戦い
ミンドロ島の戦い(ミンドロとうのたたかい、Battle of Mindoro)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年12月13日から2月下旬にかけて、日本軍とアメリカ軍により、フィリピン北部のミンドロ島で行われた戦闘である。アメリカ軍の作戦目的は、ルソン島の戦いの準備として作戦拠点を確保すること、及び全フィリピン諸島を日本軍から奪い返す一環としてのミンドロ島自体の奪還にあった。圧倒的に優勢なアメリカ軍の攻撃により、日本軍守備隊は全滅した。
ミンダナオ島
ミンダナオ島(ミンダナオとう、Mindanao)は、フィリピンでルソン島に次いで2番目に大きい島。
見る 多号作戦とミンダナオ島
ネグロス島
ネグロス島(ネグロスとう、Negros)は、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、フィリピン4番目の大きさの島である。特に、フィリピン一の砂糖生産で有名。面積は12,706km。
見る 多号作戦とネグロス島
バコロド
バコロド市(Bacolod、イロンゴ語: Dakbanwa sang Bacolod、フィリピン語: Lungsod ng Bacolod)は、フィリピン中部ヴィサヤ諸島のネグロス島北部にある島内最大の都市。ネグロス・オクシデンタル州の州都で、海を挟んでギマラス島やパナイ島と向かい合っている。 1770年に建設され、1938年に市となった。一級市に指定されており、市内のバランガイの数は61。面積は161.45平方km。人口は561,875人(2015年調査)とフィリピン中部でも有数の大都市。
見る 多号作戦とバコロド
モロタイ島
モロタイ島(モロタイとう、Pulau Morotai)は、東インドネシア・モルッカ諸島(マルク諸島とも)の島の一つ。ハルマヘラ島の北に位置し、面積1,8002。北マルク州の一部であり、インドネシアの最も北寄りの島の1つである。
見る 多号作戦とモロタイ島
モロタイ島の戦い
モロタイ島の戦い(モロタイとうのたたかい)は、太平洋戦争後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍と上陸したアメリカ軍主力の連合国軍の間で行われた戦いである。 アメリカ軍の作戦名はトレードウィンド作戦(Operation Tradewind)。 アメリカ軍は、フィリピン反攻作戦の第一歩として、モロタイ島を占領し飛行場など大規模な基地を建設した。
モール (駆逐艦)
モール (USS Moale, DD-693) は、アメリカ海軍の駆逐艦。アレン・M・サムナー級駆逐艦の2番艦。艦名は米西戦争におけるルソン島の戦いにおいて米陸軍を助けて活躍したアメリカ海軍中尉エドワード・モール・ジュニア(1866年–1903年) に因む。
ルソン島
ルソン島(ルソンとう、呂宋島、フィリピン語:Luzon)は、フィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島。面積は約10万4688 km2、人口は約4622万人で、フィリピンの総面積の35%、総人口の52%を占める。世界で17番目に大きな島で、世界で5番目に人口が多い島でもある。首都マニラやフィリピンで最も人口が多いケソン、及びそれらを包括する首都圏メトロ・マニラが同島に所在しており、フィリピンの政治・経済で特に重要な位置を占めている。
見る 多号作戦とルソン島
ルソン島の戦い
ルソン島の戦い(ルソンとうのたたかい)は、1945年1月6日から(日本の)終戦までフィリピン・ルソン島で行われた、日本軍(第14方面軍:司令官 山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。首都マニラは3月にアメリカ軍が制圧したが、その後も終戦まで戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。
見る 多号作戦とルソン島の戦い
レイテ島
レイテ島(レイテとう、Leyte)は、フィリピン中部、ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置する島。人口は約190万人、面積は7,214km。
見る 多号作戦とレイテ島
レイテ島の戦い
レイテ島の戦い(レイテとうのたたかい)は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととした。ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られ、連合軍は苦戦を強いられて、のちのルソン島侵攻作戦に遅れが出ている。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。
見る 多号作戦とレイテ島の戦い
レイテ沖海戦
レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月20日から25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍とアメリカ及びオーストラリア両海軍からなる連合軍との間で交わされた一連の海戦の総称である。フィリピン奪回を目指して侵攻する連合軍を日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。 「レイテ沖海戦」という呼称は、揚陸地点に定めた作戦上の要地であるレイテ湾に因んで命名されたアメリカ側の呼称で、日本ではフィリピン沖海戦が正式名太平洋戦争の公刊戦史である「戦史叢書」で本海戦を扱っている56巻でもこの名前が使われている。当時の戦闘詳報や大本営による発表でも「フィリピン沖海戦」とされ、当時のニュース映像でもそう紹介されており、レイテ沖海戦とは呼称していない。
見る 多号作戦とレイテ沖海戦
レイテ湾
レイテ湾()は、フィリピン中部ヴィサヤ諸島の太平洋側、レイテ島の真東にある水域で、フィリピン海(太平洋)が入り込んでいる湾である。
見る 多号作戦とレイテ湾
ボルネオ島
ボルネオ島(ボルネオとう、Borneo, Pulau Kalimantan)は、東南アジアの島。南シナ海(西と北西)、スールー海(北東)、セレベス海とマカッサル海峡(東)、ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれている。インドネシア・マレーシア・ブルネイ、この3か国の領土であり、世界で最も多くの国の領地がある島となっている。 面積は725,500km2で日本の国土の約1.9倍の大きさである。世界の島の中では、グリーンランド島、ニューギニア島に次ぐ、面積第3位の島である(面積順の世界の島一覧も参照)。
見る 多号作戦とボルネオ島
ボンベ
LPGボンベ(ニュージーランド) ボンベとは、気体や液体を貯蔵・運搬する際に用いられる、完全密閉が可能な容器のこと。噴霧器に接続して塗料などを散布する際に用いられる空気圧を利用するためのエアボンベなど特定の気体の運搬を目的としない容器をいうこともある。 日本語での語源については、ドイツ語のBombeに由来するという説がある(後述)。この種の容器は英語ではタンク(tank)、あるいはガスシリンダーと呼ばれる。
見る 多号作戦とボンベ
ボホール島
ミンダナオ島の北、セブ島の東、レイテ島の西にあるのがボホール島 ボホール島(ボホールとう、Bohol Island)は、フィリピン中部ビサヤ諸島の島であり、国内10番目の大きさを持つ。島全体が中部ビサヤ地方に属するボホール州である。人口は約114万人、面積は。主な都市はボホール州州都タグビララン(Tagbilaran)。リゾートとして知られるほか、(、英名Philippine tarsier、ターシャ)という世界最小級の霊長類の生息地でもある。
見る 多号作戦とボホール島
ボアク島
ボアク島(ボアクとう、Boac Island、Marinduque Island、マリンドゥケ島とも)はフィリピン中部、ルソン島のと、シブヤン海との間に浮かぶ島である。この島だけで、ミマロパ地方(MIMAROPA, Region IV-B)に属するマリンドゥク州を構成する。南にロンブロン諸島、西にミンドロ島、北から東にかけてルソン島・カラバルソン地方のケソン州と隣接している。 ボアク島はルソン島の18km沖合いにある、ほぼ円形の島である。面積は959.3km2、人口は217,392人(2000年)でフィリピンでは13番目に大きな島である。 ボアク島は、毎年のモリオネス祭(Moriones festival)で有名。
見る 多号作戦とボアク島
トーマス・スプレイグ
トーマス・ラミソン・スプレイグ (Thomas Lamison Sprague, 1894年10月2日 - 1972年9月17日) は、アメリカ合衆国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
ブリーム (潜水艦)
ブリーム (USS Bream, SS/SSK/AGSS-243) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はヨーロッパに生息するコイ科の淡水魚ブリームにちなむ。
パナイ島
パナイ島はネグロス島の北、ミンドロ島の南、スールー海に面した場所に位置する パナイ島 パナイ島(パナイとう、Panay)は、フィリピン中部ビサヤ諸島の西ビサヤ地方に属する島。島最大の都市はイロイロ市で、西ビサヤ地方の中心都市でもある。面積は11,515kmで、フィリピンで6番目の大きさ。
見る 多号作戦とパナイ島
ヒ81船団
ヒ81船団(ヒ81せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年11月-12月に日本からシンガポールへ航海した、日本の護送船団である。
見る 多号作戦とヒ81船団
ビサヤ諸島
ビサヤ諸島(ビサヤしょとう、英語:Visayas、タガログ語:Kabisayaan カビサヤアン)は、フィリピン中部、ルソン島とミンダナオ島にはさまれた海域にある島々。ヴィサヤ諸島とも表記。中心都市は、フィリピン第2の大都市圏「メトロ・セブ」の中核であるセブ市。
見る 多号作戦とビサヤ諸島
フレッチャー級駆逐艦
フレッチャー級駆逐艦(フレッチャーきゅうくちくかん )は、アメリカ海軍の駆逐艦の艦級。最も多く発注された駆逐艦の艦級であり、1942年から1944年にかけて175隻が建造された。 フレッチャー級は従来のアメリカ海軍駆逐艦より大幅に大型化しており、航洋性・武装ともに強化されたことから大きな成功を収め、駆逐艦の標準とも言える艦級となった。また、続いて建造されたアレン・M・サムナー級、ギアリング級のベースともなった。
フィリピンの戦い (1944年-1945年)
1944年から1945年のフィリピンの戦い(フィリピンのたたかい)は、第二次世界大戦後期において、フィリピン奪回を目指す連合国軍と、防衛する日本軍との間で行われた戦闘である。日本軍は「捷一号作戦」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、アメリカ軍を中心とする連合軍が勝利を収めた。
見る 多号作戦とフィリピンの戦い (1944年-1945年)
ダバオ
ダバオ市(、、セブアノ語: )は、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオ地方 (Davao Region, Region XII) のダバオ・デル・スル州にある、メトロ・マニラ、メトロ・セブ(セブ市とその周囲)に次ぐフィリピン第3位の都市である。面積2,400km2、2010年現在の人口は約145万人。国際空港と港を持ち、フィリピン南部の政治・経済・文化の中心地である。実際の所ダバオ市は州から独立をしているが、ダバオ・デル・スル州の一部として見られることもある。またダバオ地方の中心都市としても位置づけられている。2,400km2もの広さを誇るダバオ市は世界最大の行政面積を持つ都市の一つともされる。人口は145万人だが、昼間人口は約200万人である。
見る 多号作戦とダバオ
ダグラス・マッカーサー
ダグラス・マッカーサーマッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。とりわけ、終戦後における日本においては、新聞を中心としたマスコミにおいて「マックアーサー」という表記が使用されていた。(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を主席で卒業し、その後はアメリカ陸軍のエリート軍人として、セオドア・ルーズベルト大統領軍事顧問補佐官、陸軍長官副官・広報班長、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校長、アメリカ陸軍参謀総長などアメリカ陸軍の要職を歴任した。 戦争でも勇名を轟かせ、第一次世界大戦と第二次世界大戦(太平洋戦争)に従軍して、抜群の戦功を挙げていった。特に太平洋戦争では、大戦序盤のフィリピンの戦いで大日本帝国軍に敗れオーストラリアに撤退し、敵前逃亡の汚名を着せられたが、「I shall return(私は必ず帰ってくる)」の約束を果たし、日本軍からフィリピンを奪還して「アメリカ合衆国が生んだ最も有能な軍人」としての勇名を欲しいままにした。
初霜 (初春型駆逐艦)
初霜(はつしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和7年12月(5)pp.6『達第百七十五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦三隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和七年十二月十日 海軍大臣 岡田啓介|驅逐艦 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 初霜(ハツシモ)/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 有明(アリアケ)/舞鶴要港工作部ニ於テ建造 夕暮(ユフグレ)|潜水艦 株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第六潜水艦/佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第七十潜水艦/株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十一潜水艦|水雷艇 舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 友鶴(トモヅル)/株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 初雁(ハツカリ)|掃海艇 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 第十五號掃海艇/三井物産株式會社造船部玉工場ニ於テ建造 第十六號掃海艇|敷設艇 横濱船渠株式會社ニ於テ建造 猿島(サルシマ)/株式會社播磨造船所ニ於テ検図 那沙美(ナサミ)』。
初春 (初春型駆逐艦)
初春(はつはる)は、日本海軍の初春型駆逐艦1番艦である#海軍制度沿革(巻8、1940)p.209『◎驅逐艦初春外二隻伊號第六十八潜水艦外一隻水雷艇千鳥外一隻掃海艇第十三號外一隻敷設艇夏島命名ノ件』。日本海軍の艦船名としては1907年(明治40年)竣工の神風型駆逐艦「初春」に続いて2隻目。日本の駆逐艦として初めて魚雷の次発装填装置を搭載した。1944年(昭和19年)11月、マニラ湾で米軍機の空襲を受け沈没した。 大改装前の子日と初春。
利根 (重巡洋艦)
利根(とね)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の1番艦#艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|利根型|利根、筑摩|』。その艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従い、関東地方を流れる利根川からちなんで名づけられた。この名を持つ帝国海軍の艦船としては4隻目。艦前部に主砲塔4基を集中し後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。艦内神社は香取神宮である。艦名は海上自衛隊のあぶくま型護衛艦「とね」に継承された。
和浦丸
和浦丸(かずうらまる)は、三菱商事船舶部が1938年に建造した貨物船。太平洋戦争中には日本陸軍に徴用されて軍隊輸送船や病院船として運航、「対馬丸」が撃沈された際の同行船でもあった。終戦直前に釜山港沖で機雷に接触して擱座した。戦後に韓国により復旧されて船名をコリア(고려、コリョ、高麗)へ改称、1952年に韓国船として史上初の太平洋横断を行うなど初期の韓国海運の主力として使用された。
見る 多号作戦と和浦丸
アメリカ軍
アメリカ合衆国軍(アメリカがっしゅうこくぐん、United States Armed Forces、別名:合衆国軍、米軍、アメリカ軍)は、アメリカ合衆国が保有する軍隊。陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍の5軍種からなる常備軍と、平時は海上警備を主とした法執行機関としての役割もある沿岸警備隊を含めた6つの軍種からなっており、これらはいずれも8つの武官組織に含まれる。陸軍・空軍については普段からアメリカ合衆国連邦政府の指揮下にある連邦軍と、州知事の指揮下にあり必要に応じて連邦軍に編入される州兵がある。なお各州政府の州防衛軍は連邦政府の指揮下に入らない為、通常アメリカ軍に含まない。軍の最高司令官はアメリカ合衆国大統領であり、合衆国連邦行政部のうちの国防総省と国土安全保障省と共に軍事政策を決定する。
見る 多号作戦とアメリカ軍
アレン・M・サムナー (駆逐艦)
アレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) は、アメリカ海軍の駆逐艦。アレン・M・サムナー級駆逐艦の1隻。艦名は第一次世界大戦で活躍したアメリカ海兵隊大尉アレン・M・サムナーに因む。
アーチャーフィッシュ (潜水艦)
アーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS/AGSS-311) は、アメリカ海軍の潜水艦。バラオ級潜水艦の一隻。艦名は汽水域から海水域に生息し、水鉄砲を撃つ奇習で知られているテッポウウオ (Toxotes jaculatrix) に因む。同名の米軍艦(USS ''Archerfish'')としては初代。第二次世界大戦中、艦名は Archer - fish とハイフンで繋がれたが、1952年の再就役時には Archerfish となりハイフンが取り除かれた。 アーチャーフィッシュは1944年に日本海軍の空母・信濃を撃沈する戦果をあげたが、これは潜水艦が撃沈した軍艦の中では最大の記録である。このことは、本文中で改めて記述する。
オルモック
オルモック(オルモク、、セブアノ語: )は、フィリピン中部、レイテ島西海岸にある都市。オルモック湾に面している。レイテ州内に位置する一級市である。市の名前の由来は古いビサヤ語で低地を意味するオグモック (ogmok) から。2000年の国勢調査では、人口は154,297人、世帯数は31,542。面積は490.5平方kmでバランガイの数は110。オルモック市はフィリピンで最初の州から独立した市 (non-provincial city, independent component city) である。レイテ州内にあるが、レイテ州政府の管轄外である。 港湾や農業・林業のほか、火山が多く、火山を生かした観光や地熱発電も行われている。
見る 多号作戦とオルモック
オルモック湾
レイテ島におけるオルモックの位置。南から入っている湾がオルモック湾 オルモック湾()は、フィリピン中部ビサヤ諸島のレイテ島の北西にある湾である。セブ島との間のカモテス海から北に食い込んだ入り江である。湾の奥にはオルモックの街がありアニラオ川が流れ込む。この港から米のほかプランテーションで栽培されているコプラ、砂糖などが積み出される。 第二次世界大戦(太平洋戦争)中、レイテ島は米軍と日本軍の激しい戦い(レイテ島の戦い)の舞台となった。日本軍はルソン島からレイテ島へ物資や部隊を補給する多号作戦を数次にわたって行い、多数の艦船や輸送艦を拠点となっていたオルモック湾に移動させたが、米軍艦船や航空機による攻撃で著しい損失を出し、多くの船がオルモック湾に沈没した(オルモック湾海戦、1944年11月11日 - 12月21日)。
見る 多号作戦とオルモック湾
カヴァラ (潜水艦)
カヴァラ (USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の33番艦。艦名はケープコッドからラプラタ川にかけての南北アメリカ東部海岸沖合の海域に生息するアジ科 (ギンガメアジ属 Caranx、ヨロイアジ属 Carangoides) 、サバ科 (サバ属 Scomber) などの鹹水魚にちなむ。同名のアメリカ軍艦(USS ''Cavalla'')としては初代。退役から5年後にスタージョン級原子力潜水艦35番艦として2代目「カヴァラ(SSN-684)」が就役している。
カガヤン・デ・オロ
カガヤン・デ・オロ(Cagayan de Oro、略称 C.D.O. または C. de O 、セブアノ語:Dakbayan sa Cagayan de Oro、フィリピン語:Lungsod ng Cagayan de Oro)は、フィリピン・ミンダナオ島の北部にある港湾都市である。ミサミス・オリエンタル州の州都で、北ミンダナオ地方の中心都市でもある。面積は488.09平方km。2015年の国勢調査によれば、人口は675,950人とフィリピン有数。市民のホスピタリティから、「黄金の友情の街 (City of Golden Friendship) 」の異名もある。 カガヤン・デ・オロは農産物加工の中心都市で、デルモンテ社など食品や農園を手がける多国籍企業の拠点である。隣接するブキドノン州で採れたパイナップルはカガヤン・デ・オロのブゴ (Bugo) にあるデルモンテ社工場に送られ、フィリピン各地や全アジア・太平洋地域に輸出される。
クーパー (駆逐艦)
クーパー (USS Cooper, DD-695) は、アメリカ海軍の駆逐艦。アレン・M・サムナー級。艦名は1938年に水上機の事故で死亡した飛行士のに因む。
シーライオン (SS-315)
シーライオン (USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315) は、アメリカ海軍の潜水艦。バラオ級潜水艦の一隻。艦名はアシカ科の総称に因んで命名された。シーライオンの名を持つ艦としては2隻目にあたる。初代艦長少佐(アナポリス1935年組)が過去に初代シーライオン (USS Sealion, SS-195) に乗り組んでいたことから、しばしばシーライオンII と呼ばれた。
セブ島
セブ島(セブとう、)は、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、南北に225kmにわたって伸びる細長くて大きな島である。面積は4422km。周囲はマクタン島、バンタヤン島、マラパスカ島、オランゴ島など小さな島々に囲まれている。 東にカモテス海とカモテス諸島をはさんでレイテ島、ボホール海峡を挟んでボホール島、西にタノン海峡を挟んでネグロス島、南にシキホル島、北にビサヤン海を臨む。 全島とその属島がセブ州で、島の東海岸中央部にある人口72万の州都セブ、マンダウエ市をはじめ6つの都市があり、マニラ首都圏(メトロ・マニラ)に次ぐ大都市圏、メトロ・セブを形成している。州全体の人口は3,356,137人(2000年調査)で、うち300万人がセブ島に住んでいる。ほとんどの人はセブアノ語を話し、これはビサヤ諸島の共通言語になっている『地球の歩き方 フィリピン2016~2017』(ダイヤモンド社)。
見る 多号作戦とセブ島
タ弾
タ弾(タだん)は、次の2つの意味を持つ。
見る 多号作戦とタ弾
タグビララン
タグビララン(、セブアノ語: )は、フィリピン中部ボホール島の西南部にある港湾都市である。ボホール島で一番大きな街で、ボホール州の州都でもある。面積は32.7平方kmで海岸線の長さは13km。バランガイの数は15、人口は2007年現在で92,297人で年々増加している。 タグビラランはマニラからは東南へ630kmほど、セブからは南へ72kmほど。セブやマニラからの航空機が着く空港を擁するボホール島の玄関口であり、島周辺のリゾートへの拠点である。 タグビラランはボホール州の政治・交通の中心であるが、観光業、金融、食品工業など経済の中心地でもある。またボホール大学、ホーリー・ネーム大学など高等教育機関のある教育の中心でもある。
見る 多号作戦とタグビララン
冬月 (駆逐艦)
冬月(ふゆつき)海軍公報「10月(1)」pp.1 (「昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。片桐はその著書p.356にて読みを「ふゆづき」としているが、その根拠は示していない。 は、日本海軍が太平洋戦争後半で運用した駆逐艦陽炎型(2014)、328-329頁〔 冬月(ふゆづき) 〕。秋月型駆逐艦の8番艦である#内令昭和18年10月(1)、p.1〔 内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ 〕。 秋月型は、この冬月以降で船体各部形状の簡略化・艦橋の大型化などの変更が加えられたため、冬月型として区分する分類法もある。
四式肉薄攻撃艇
四式肉薄攻撃艇(よんしきにくはくこうげきてい)は、第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発・実戦投入した小型肉薄攻撃艇戦史叢書81巻、72-73頁「肉薄攻撃艇」戦史叢書102巻、387頁「まるはち」。 秘匿呼称は連絡艇(れんらくてい)で、頭文字をとって符号とし、〇の中に「レ」か「れ」を書いた㋹、マルレ艇の通称で広く知られる(戦史叢書では「マルレ」を用いる)。改良型を㊁(〇の中に「ニ」か「に」と表記)とする。軍需動員主務者の秘匿名称は「V1」。 大日本帝国海軍が開発した特攻艇震洋は「マル四」と呼称されていたため、大本営陸軍部・海軍部は四式肉薄攻撃艇/マルレ(陸軍)とマル四(海軍)をあわせて㊇と呼称した戦史叢書81巻、131-132頁「捷号作戦準備の進捗状況/マル八運用に関する陸海軍中央協定の指示」。
見る 多号作戦と四式肉薄攻撃艇
四式戦闘機
四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、四戦、キハチヨン、ハチヨン、大東亜決戦機、決戦機など - 時事通信社。連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。
見る 多号作戦と四式戦闘機
B-24 (航空機)
コンソリデーテッド B-24 リベレーター(B-24 Liberator)は、アメリカ陸軍航空軍の大型爆撃機。開発はコンソリデーテッド・エアクラフト社。愛称の「リベレーター(Liberator)」とは解放者の意。アメリカ海軍にもPB4Y-1 リベレーターとして制式採用され、対潜哨戒機として運用された。
B-25 (航空機)
ノース・アメリカン B-25 ミッチェル(North American B-25 Mitchell )は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発し、アメリカ陸軍航空軍や海軍で運用された爆撃機。第二次世界大戦において各戦場で運用された。 愛称はミッチェル(Mitchell、由来は後述)。海軍にはPBJ ミッチェル(North American PBJ Mitchell )哨戒爆撃機として納入された。
矢矧 (軽巡洋艦)
矢矧 (やはぎ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦#達昭和17年8月p.19『達第二百三十二號 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十七年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 矢矧(ヤハギ)』。二等巡洋艦阿賀野型(阿賀野型軽巡洋艦)の3番艦。 艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)#軽巡二十五隻20頁#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ129(原本204頁)『矢矧(やはぎ) 艦種二等巡洋艦 艦名考川の名、矢作川に採る、川は三河國にあり、矢作は古来矢矧・矢矯・箭作等と混用す、此艦名は矢矧として命名せられたるなり。艦歴大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月第二南遣支艦隊に属し西カロリン群島方面警戒、次で印度洋方面警備(艦長大佐長鋪次郎)、昭和6・7年事變(日支)に從軍:同7年1月南支那方面警備(艦長大佐井上保雄)。
球磨 (軽巡洋艦)
球磨(くま#海軍制度沿革8(1971)p.362、大正6年(1917年)8月20日附達第97号『軍備補充費ヲ以テ建造ニ著手スヘキ戰艦及二等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル 横須賀海軍工廠ニ於テ製造 戰艦 陸(ム)奥(ツ) 佐世保海軍工廠ニ於テ製造 二等巡洋艦 球(ク)磨(マ) 三菱合資會社長崎造船所ニ於テ製造 二等巡洋艦 多(タ)摩(マ)』)は、日本海軍の二等巡洋艦(軽巡洋艦)。 球磨型の1番艦。 艦名は熊本県の球磨川にちなむ#艦船名考(1928)p.224。 帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。
睦月型駆逐艦
睦月型駆逐艦(むつきがたくちくかん、Mutsuki Class Destroyers)は日本海軍の駆逐艦の艦級。イギリス駆逐艦の模倣から脱却した峯風型、神風型の流れを汲む最後の艦型で、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷発射管を搭載した。12隻が建造され、すべて太平洋戦争で沈没した。
見る 多号作戦と睦月型駆逐艦
磯風 (陽炎型駆逐艦)
磯風(いそかぜ)は大日本帝国海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦の12番艦。 第十七駆逐隊に所属して、真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ガダルカナル島撤退作戦、ニュージョージア島の戦い、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など太平洋戦争中の数々の作戦や大規模海戦に参加。#駆逐艦磯風と三人の特年兵86-89頁。-->1945年(昭和20年)4月7日、坊ノ岬沖海戦にて被弾して航行不能となり、戦闘終了後、駆逐艦「雪風」によって処分された。 磯風の艦名は磯風型駆逐艦「磯風」に続いて2代目。
礼号作戦
礼号作戦(れいごうさくせん)は、1944年(昭和19年)12月26日夜中にミンドロ島で実施された日本海軍の作戦戦史叢書102巻407頁「礼号作戦」戦史叢書93巻108-109頁「水上部隊、ミンドロに突入す―礼号作戦」。
見る 多号作戦と礼号作戦
神州丸
神州丸(神洲丸、しんしゅうまる)は、大日本帝国陸軍が発案し海軍の協力の元に開発・建造・運用した揚陸艦(上陸用舟艇母船)(詳細は後述)。存在秘匿のためにR1、GL、MT、龍城丸(りゅうじょうまる)等の名称も使用されている。帝国陸軍では特種船に分類され、その第1号(第1船・1番船)となり同型船は無い。 先進的な設計意図の揚陸艦で、舟艇泛水設備により安全・迅速に一挙に上陸用舟艇である大発動艇(大発)・小発動艇(小発)多数を兵員搭載状態で連続発進できるほか、それらの護衛砲艇たる装甲艇(AB艇)、高速偵察艇たる高速艇甲(HB-K)を搭載し極めて高い上陸戦遂行能力を備えていた。日中戦争(支那事変)最初期から太平洋戦争(大東亜戦争)末期に至るまで数々の上陸作戦・揚陸作戦を成功に導いた。また、計画段階より搭載航空機による上陸部隊の支援攻撃が考慮されていたため、発展型であるあきつ丸と同じく現在の強襲揚陸艦の先駆的存在であった。
見る 多号作戦と神州丸
神風特別攻撃隊
1945年3月21日、戦友の遺骨を抱いて出撃する神風特攻隊神雷部隊三橋謙太郎大尉 バンカーヒルに突入した神風特別攻撃隊「第7昭和隊」小川清少尉 彗星艦爆(白黒写真に着色) 神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい、)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊。攻撃目標は艦船。略称は「神風」「神風特攻隊」。隊名の発案者これは猪口の証言によるものであり、によれば、大西瀧治郎がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。
見る 多号作戦と神風特別攻撃隊
神鷹 (空母)
神鷹(しんよう)は、大日本帝国海軍の航空母艦#達昭和18年12月p.30「達第三百十一號 汽船「シャルンホルスト」呉海軍工廠ニ於テ改造中ノ處完成ニ付左ノ通命名セラル 昭和十八年十二月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 神鷹(シンヨウ)」空母29隻(2016)325-326頁「神鷹(しんよう)」。
見る 多号作戦と神鷹 (空母)
神重徳
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。
見る 多号作戦と神重徳
福留繁
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将。
見る 多号作戦と福留繁
秋霜 (駆逐艦)
秋霜(あきしも)は#達昭和18年8月(2) pp.45-46〔 達第二百二號 昭和十七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、海防艦四隻、掃海艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 秋霜(アキシモ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 清霜(キヨシモ) 海防艦 笠戸(カサド)|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 淡路(アハヂ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 倉橋(クラハシ) 海防艦 千振(チブリ)|株式會社東京石川造船所ニ於テ建造 第三十號掃海艇|株式會社新潟鐵工所ニ於テ建造 第五十八號驅潜艇 〕、日本海軍の駆逐艦。
秋月型駆逐艦
秋月型駆逐艦(あきづきがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の一等駆逐艦の艦級である。計画時の名称から乙型駆逐艦、各艦名から月型とも呼ばれる。日本海軍が建造した最初で最後の防空駆逐艦の艦級である。同型艦は12隻が竣工している。 なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)型達『10月(1)』第1画像 (昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では「冬月型」および「満月型」も『秋月型駆逐艦』である#秘公報昭和20年2月(1)p.45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ(以下略)』。本稿では便宜上の分類も一括記載する。
見る 多号作戦と秋月型駆逐艦
竹 (松型駆逐艦)
竹 (たけ) は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和19年1月(2) pp.31-33。
第100師団 (日本軍)
第100師団(だいひゃくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。 1944年(昭和19年)5月に策定された「十一号作戦準備」(「準備」)に基づき、フィリピンにおいて独立混成旅団4個を基幹に各々師団に改編して編成した内の一つ。
第102師団 (日本軍)
第102師団(だいひゃくにしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。 1944年(昭和19年)5月に策定された「十一号作戦準備」(「準備」)に基づき、フィリピンにおいて独立混成旅団4個を基幹に各々師団に改編して編成した内の一つ。
第10師団 (日本軍)
旧第十師団司令官官邸(現カトリック淳心会本部) 第10師団(だいじゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。師団として主な戦役にはほぼすべて参加している。
第10方面軍 (日本軍)
第10方面軍(だいじゅうほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。
第14方面軍 (日本軍)
第14方面軍(だいじゅうよんほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。 第14軍(だいじゅうよんぐん)は、1941年(昭和16年)11月6日に南方軍隷下の軍として設置され、フィリピン方面を作戦地域とした。1944年7月に第14方面軍に改編昇格した。
第16師団 (日本軍)
第16師団(だいじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。兵団文字符は垣。軍隊符号は16D。
第19師団 (日本軍)
第19師団(だいじゅうくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第1師団 (日本軍)
第1師団(だいいちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。
第23師団 (日本軍)
第23師団(だいにじゅうさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第26師団 (日本軍)
第26師団(だいにじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第30師団 (日本軍)
第30師団(だいさんじゅうしだん)は、1943年から1945年まであった大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第35軍 (日本軍)
第35軍(だいさんじゅうごぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。
第4航空軍 (日本軍)
第4航空軍(だいよんこうくうぐん、第四航空軍)は、大日本帝国陸軍の航空軍の一つ。通称号は真、軍隊符号は4FA。
第68旅団 (日本軍)
第68旅団(だい68りょだん、第六十八旅団)は、大日本帝国陸軍の旅団の一つ。
第十一号海防艦
第十一号海防艦本来の艦名表記は第十一號海防艦。(だいじゅういちごうかいぼうかん)は、日本海軍の海防艦。第一号型海防艦(丙型)の6番艦。多号作戦で損傷し、処分された。
見る 多号作戦と第十一号海防艦
第三十一戦隊
第三十一戦隊(だい31せんたい)とは、日本海軍の戦隊の一つ。 太平洋戦争後期、敵潜水艦を積極的に発見・攻撃するための対潜機動部隊として、1944年(昭和19年)8月20日に編制された。レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小沢機動部隊に所属して戦闘に参加した。以後はフィリピン戦線における多号作戦や礼号作戦など#S1911第五艦隊日誌(1) p.9〔 (二)自十一月一日至十一月三十日 第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表 〕(昭和19年11月)#S1911第五艦隊日誌(2) p.9〔 (二)自十二月一日至十二月三十一日 第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表 〕(昭和19年12月)、通常の水雷戦隊任務にも投入された。戦争末期には本土決戦に備えて敵上陸船団に対する水上戦闘任務に転用された(海上挺進部隊)。
見る 多号作戦と第三十一戦隊
第三航空戦隊
第三航空戦隊(だいさんこうくうせんたい)とは、日本海軍の機動部隊の一翼を担った部隊である。略称は三航戦#三航戦機密第1号 p.1〔 秘 三航戦機密第一号ノ九 昭和十一年六月十一日 横須賀神威 第三航空戦隊司令部 横浜郵便局御中|郵便物発送先ノ件照会|当隊行動ノ関係上、當司令部、軍艦神威及第二十八駆逐隊(朝凪、夕凪)宛郵便物ハ六月二十四日以降當分ノ間貴局氣付ト致スベクニ付発送ニ関シテハ左記ニヨリ御配慮ヲ得度|記 七月十三日迄到達見込ノモノハ サイパン/八月十四日 〃パラオ/九月十六日 〃ポナペ 十月十五日 〃父島(終) 〕。略字は3Sf。 最初の三航戦は水上機母艦神威を基幹戦力とし、南洋諸島の調査や、第三艦隊に所属して支那事変(日中戦争)に参加した。
見る 多号作戦と第三航空戦隊
第三艦隊 (日本海軍)
第三艦隊(だいさんかんたい)は、大日本帝国海軍の部隊の一つ。略称は3F。常設だった第一艦隊・第二艦隊と違い、必要に応じて編制・解散される特設艦隊であったため、日露戦争から太平洋戦争までの間に六代にわたって編制と解散を繰り返した。
第一号型輸送艦
第一号型輸送艦(第1号型輸送艦、だいいちごうがたゆそうかん)は、日本海軍の輸送艦の艦級(クラス)#内令昭和19年2月(1)p.47『内令第二百九十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年二月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「、冲鷹」ヲ削ル|輸送艦、一等峯風型ノ項中「、沼風」ヲ、同二等若竹型ノ項中「、芙蓉」ヲ削ル|潜水艦、二等呂百型ノ項中「呂號第百、」ヲ削ル|海防艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |輸送艦|一等|第一號型|第一號| 』。
見る 多号作戦と第一号型輸送艦
第一機動艦隊
第一機動艦隊(だいいちきどうかんたい)とは、日本海軍の艦隊である。戦艦を中心とする第二艦隊と空母部隊の第三艦隊を編合して編制された。第一機動艦隊司令長官は第三艦隊司令長官が兼任した。 従来の「機動部隊」という名称は軍隊区分による名称に過ぎなかったが、第一機動艦隊の編制で「機動」という語が建制の艦隊の部隊号として初めて採択された別冊歴史読本永久保存版『空母機動部隊』新人物往来社 74頁。
見る 多号作戦と第一機動艦隊
第二艦隊 (日本海軍)
第二艦隊(だいにかんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。第一艦隊とともに常設の艦隊で、ワシントン軍縮条約による大量廃艦の影響を受けた1921年度の1年間を除くと、1903年の創設から1945年の壊滅まで常時編制された。巡洋艦および巡洋戦艦を主力とした。
第二水雷戦隊
第二水雷戦隊(だいにすいらいせんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。略称は二水戦(にすいせん)。略字は2Sd。
見る 多号作戦と第二水雷戦隊
第五艦隊 (日本海軍)
第五艦隊(だいごかんたい)は、旧日本海軍の部隊の1つ。最初の第五艦隊は支那事変時の1938年(昭和13年)2月1日に新編され支那方面艦隊に所属して華南方面に進出したが、1939年(昭和14年)11月15日に「第二遣支艦隊」に改称された。二代目の第五艦隊は、太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)7月25日に本土東方警備・アリューシャン列島攻略を目的に新編され、1945年(昭和20年)2月5日に解隊されて第十方面艦隊に吸収された。
第六三四海軍航空隊
第六三四海軍航空隊(だい634かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。航空戦艦を母艦として運用する変則的水上機・艦上機部隊として整備されたが、母艦と連携する機会がないまま、小規模の水上機基地航空隊として終戦まで運用された。
第四航空戦隊
第四航空戦隊(だいよんこうくうせんたい)は、日本海軍の部隊の1つ。略称は四航戦。解隊と再編成を繰り返した部隊である。
見る 多号作戦と第四航空戦隊
第百一号型輸送艦
第百一号型輸送艦(だいひゃくいちごうがたゆそうかん、第101号型輸送艦、旧字体:第百一號型輸送艦)は、日本海軍の輸送艦の艦級(クラス)昭和19年9月5日付 海軍内令 第1035号。。 砂浜に接岸して船首の渡し板から部隊を上陸させる、戦車揚陸艦の一種にあたるものである。
第百一号輸送艦
第百一号輸送艦本来の艦名表記は第百一號輸送艦(1944年9月4日以前は第百一號特設輸送艦)。以下、「第百一号」の表記部について同じ。(だいひゃくいちごうゆそうかん)は、日本海軍の輸送艦。第百一号型輸送艦の1番艦。多号作戦で沈没した。
見る 多号作戦と第百一号輸送艦
第百五号哨戒艇
第百五号哨戒艇昭和18年9月1日付 海軍逹 第204号。(だいひゃくごごうしょうかいてい、旧字体:第百五號哨戒艇)は、大日本帝国海軍の鹵獲艦艇の一つである哨戒艇。元はアメリカあるいはフィリピンの巡視船「アラヤット」 (Arayat)。
見る 多号作戦と第百五号哨戒艇
米内光政
米内 光政(よない みつまさ、、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。 連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。
見る 多号作戦と米内光政
羽黒 (重巡洋艦)
羽黒(はぐろ)は、日本海軍の重巡洋艦。妙高型重巡洋艦の4番艦。艦名は、山形県の出羽三山の一つである羽黒山にちなんで命名された。
瑞雲 (航空機)
瑞雲(ずいうん)は、愛知航空機が生産した大日本帝国海軍(日本海軍)の水上偵察機である。機体略番はE16A。連合国コードネームは“Paul”(ポール)。
甲標的
甲標的(こうひょうてき)は、大日本帝国海軍(日本海軍)において最初に開発された特殊潜航艇である。兵装として魚雷2本を艦首に装備し、鉛蓄電池によって行動する小型の潜航艇であったが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼル・エレクトリック方式となった。開発当初は洋上襲撃を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊地内部に侵入し、敵艦船を攻撃するよう戦術が転換された。
見る 多号作戦と甲標的
熊野 (重巡洋艦)
熊野(くまの)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。最上型の4番艦#艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』。15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。一方、日本海軍の書類上の分類は戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった。
熱帯低気圧
熱帯低気圧(ねったいていきあつ、tropical cyclone。
見る 多号作戦と熱帯低気圧
牧野四郎
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 多号作戦と牧野四郎
特二式内火艇
特二式内火艇 カミ車(とくにしきないかてい、もしくはうちびてい カミしゃ)は日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車。1942年(昭和17年/皇紀2602年)に制式採用された。昭和以降の兵器の呼称様式に従い皇紀の下2桁を取って「二式」と呼ばれる。
見る 多号作戦と特二式内火艇
特別攻撃隊
ミズーリに突入直前の神風特別攻撃隊第5建武隊の零式艦上戦闘機(石野節雄二飛曹搭乗)。 一式戦闘機「隼」(穴沢利夫少尉搭乗)と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)「なでしこ隊」の女学生達 レキシントン博物館。レキシントンが1944年11月5日に受けた特攻の説明(旭日旗の箇所に特攻機が命中。) 特別攻撃隊(とくべつこうげきたい、)は、決死の任務を行う部隊戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 702頁。略称は「特攻隊」(とっこうたい、)。 当記事では攻撃自体を指す特別攻撃(とくべつこうげき)およびその略称の特攻(とっこう)についても述べる。
見る 多号作戦と特別攻撃隊
特殊潜航艇
特殊潜航艇(とくしゅせんこうてい)とは、敵海軍の泊地襲撃や、工作員潜入などに使われる軍用潜水艇・小型潜水艦。ミゼット・サブマリン(Midget submarine)とも呼ばれる。日本の甲標的をはじめとして、世界各国で製造・運用された。
見る 多号作戦と特殊潜航艇
特攻兵器
靖国神社の軍事博物館の遊就館の回天一型 特攻兵器(とっこうへいき)とは、戦死を前提とする特攻を目的として発明、もしくは既存の兵器を改装した兵器である。 特攻とは特別攻撃の略称であり、必ずしも戦死を前提とする「必死」兵器のみではなく肉薄し、対象に爆弾などを設置する「決死」兵器も指すため全ての特攻兵器を自爆兵器とするのは間違いであるが、決死兵器の中には刺突爆雷のように事実上の特攻兵器も存在する。 日本の陸海軍では、劣勢となった太平洋戦争末期に戦局を打開するため、体当たり攻撃、自爆攻撃を水中、空中で行う特攻兵器が開発された。日本の他にドイツにおいても特攻兵器は開発されている(ゾンダーコマンド・エルベを参照)。
見る 多号作戦と特攻兵器
隼鷹 (空母)
隼鷹(じゅんよう)は、大日本帝国海軍の航空母艦写真日本の軍艦第4巻2頁『艦名の由来 ― 隼鷹(じゅんよう』。 艦名は猛禽類のハヤブサとタカに由来する。 隼鷹型航空母艦の1番艦。 飛鷹の建造番号(仮称艦名)は1001号艦、隼鷹の建造番号(仮称艦名)は1002号艦である日本特設艦船物語81頁『第6表 商船改造航空母艦軍艦籍入籍までの経歴』。一部の資料(文献)では、隼鷹を飛鷹型航空母艦の2番艦とする日本特設艦船物語81-85頁『(2)飛鷹型』。
見る 多号作戦と隼鷹 (空母)
草鹿龍之介
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。
見る 多号作戦と草鹿龍之介
青葉 (重巡洋艦)
青葉(あおば/あをば)は#達大正12年9月p.1『達第百九十一號 艦艇製造費ヲ以テ大正十二年度ニ於テ長崎三菱造船所ニテ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 大正十二年九月十八日 海軍大臣財部彪 七千百頓級巡洋艦 青葉アヲバ』、日本海軍の重巡洋艦。 青葉型重巡洋艦(青葉型一等巡洋艦)の1番艦。 三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で建造された#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『青葉|一等巡洋艦|(艦諸元略)|三菱長崎造船所|大正13-2-4|大正15-9-25|昭和2-9-20|(装備略)』。 艦名は、京都府と福井県の境に位置する青葉山にちなむ。艦内神社は青葉山の青葉神社。後に総理大臣を務める中曽根康弘も乗艦していた。
馬公市
馬公市(マーゴン/まこう-し)は、台湾の澎湖諸島にある市。澎湖県の県轄市で、澎湖県政府の所在地である。台湾の歴史上最も早くから漢民族による開発が行われた地域である。
見る 多号作戦と馬公市
駆逐艦
駆逐艦(くちくかん、)は、多様な作戦任務につく重装備・高速の水上戦闘艦。当初は主力艦を護衛して敵の水雷艇を駆逐するための大型水雷艇として登場したが、まもなく水雷艇の代わりにそれ自体が敵艦隊への水雷襲撃を行うようになり、また潜水艦に対する攻撃や偵察・哨戒、船団護衛など、多岐にわたる任務に酷使される便利な艦種に成長していった。
見る 多号作戦と駆逐艦
駆潜艇
駆潜艇(くせんてい)とは、対潜水艦戦闘を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の艦艇(軍艦)。 英語ではSubmarine chaserもしくはSubchaserとなる。ドイツ語ではU-Jagd-BootやU-Boot-Zerstörer、フランス語ではChasseur de sous-marinsと呼称される。 おおむね基準排水量は1,000トン以下で、100トン以下の小艇も多い。沿岸部・近海部での行動を想定した航洋性を持つ。こうした対潜艦艇は、爆雷など対潜戦用の兵装や、ソナーなど探知兵器を搭載した。 日本語では潜水艦を「駆逐する」という意味で駆潜艇(旧字体驅潜艇)と呼ばれる。
見る 多号作戦と駆潜艇
高田利種
高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月15日 - 1987年(昭和62年)10月25日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵46期、海大28期。最終階級は海軍少将。戦後は生化学工業株式会社社長。
見る 多号作戦と高田利種
高雄 (重巡洋艦)
高雄(たかお/たかを)は#達昭和2年6月 p.41〔 達第八十六號 補助艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|昭和二年六月二十三日 海軍大臣岡田啓介|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 高雄タカヲ|呉海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 愛宕アタゴ 〕、日本海軍の重巡洋艦。 高雄型重巡洋艦(一等巡洋艦)の1番艦である。
鬼怒 (軽巡洋艦)
鬼怒(きぬ)は、日本海軍の軽巡洋艦。長良型の5番艦である。 艦名は川の名で、鬼怒川から名づけられた。
魚雷
Mk54魚雷。 魚雷(ぎょらい、 トーピード)は、魚形水雷の略称であり、水中を自走する葉巻形の兵器ブリタニカ国際大百科事典【魚雷】。水中を航行し、目標の艦船類を浸水や爆発によって破壊することを目的とした兵器である。他の兵器と比較してその発射装置、維持管理が困難であるため、国家規模で運営される軍隊でしか運用されておらず、攻撃兵器としてしか用いられていない。海洋障害物の除去などに用いられることはほとんどない。 基本構造として弾頭・エンジン・推進機が組み合わされている。高度なものでは航行の深度を感知するセンサー、水平方向の針路はジャイロスコープでそれぞれ感知している。 魚雷は、水上の艦船の喫水下の部分を破壊するため、多大な浸水を与え、機関部については行動力を奪う。潜水艦を攻撃目標とする場合、沈没につながる致命傷を与えやすい。また、弾頭を搭載しない特殊な用途の魚雷も一部存在する。
見る 多号作戦と魚雷
護衛空母
護衛空母(ごえいくうぼ、Escort carrier、Escort aircraft carrier)は、第二次世界大戦においてアメリカ合衆国・イギリス・大日本帝国の3カ国で運用された小型・低速の航空母艦である。船団護送や上陸作戦の支援目的に使われ、護送空母(ごそうくうぼ)とも呼称した。
見る 多号作戦と護衛空母
豊田副武
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。
見る 多号作戦と豊田副武
足柄 (重巡洋艦)
足柄(あしがら)は、日本海軍の重巡洋艦。妙高型の3番艦。艦名は神奈川県箱根の足柄山に因んで命名された。なお、戦後この名称は海上自衛隊のあたご型護衛艦の2番艦「あしがら」に受け継がれている。 1937年のジョージ6世戴冠記念観艦式の際には招待艦としてイギリスへ派遣され、「飢えた狼」という異名をつけられた。
軍令部
1930年代の海軍省及び軍令部。 軍令部(ぐんれいぶ)は、大日本帝国海軍の軍令機関。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。旧正式名称は海軍軍令部(かいぐんぐんれいぶ)。
見る 多号作戦と軍令部
軍旗
軍旗(ぐんき)とは、軍隊(特に陸軍)および軍隊内の部隊を表章する旗章。近代的陸軍の登場以降は伝統的に連隊(聯隊)を恒久の基本的部隊単位としてきたことから、連隊ごとに授与されるものは特に連隊旗(聯隊旗、れんたいき)とも称される。
見る 多号作戦と軍旗
軽巡洋艦
軽巡洋艦(けいじゅんようかん、Light Cruiser)は、軍艦の一種。
見る 多号作戦と軽巡洋艦
龍鳳 (空母)
新造時の潜水母艦大鯨(後の空母龍鳳)。1935年春頃、呉#海軍艦艇史3p.290の写真解説。 龍鳳(りゅうほう/りうほう)は、日本海軍の航空母艦。瑞鳳型航空母艦の一つ。潜水母艦大鯨(たいげい)として竣工し#達昭和8年5月p.11「達第五十九號 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ潜水母艦一隻驅潜艇二隻ニ左ノ通命名セラル 昭和八年五月二十三日 海軍大臣 大角岑生|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 潜水母艦 大鯨タイゲイ/浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅潜艇 第一號驅潜艇/株式會社石川島造船所ニ於テ建造 驅潜艇 第二號驅潜艇」、後に航空母艦「龍鳳」へ改装された。
見る 多号作戦と龍鳳 (空母)
霞 (朝潮型駆逐艦)
霞(かすみ)は、大日本帝国海軍の朝潮型駆逐艦9番艦である。この名を持つ帝国海軍の艦船は暁型駆逐艦「霞」に続いて2隻目。1945年4月の坊ノ岬沖海戦で沈没した。
霜月 (駆逐艦)
霜月(しもつき)は、日本海軍の駆逐艦秋月型(潮2015)、80-81頁〔 霜月(しもつき) 〕。
震洋
震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)戦史叢書102巻、357頁「震洋(まるよん艇)」。 構造が簡単で、大量生産された。 英語では、Suicide Boatあるいは、Kami Kazi boat または ''Shinyo'' suicide motorboat と呼ばれた。
見る 多号作戦と震洋
航空戦艦
航空戦艦(こうくうせんかん、:en:Battlecarrier)とは、戦艦としての大口径砲を装備し、かつ航空母艦又は水上機母艦に準じた航空機運用能力を有する軍艦の通称である。 世界の建艦史上に当初から航空戦艦として建造された艦は存在せず、公式な艦種として存在したこともない。 また、竣工・実戦投入された唯一の例である伊勢型戦艦も戦艦からの改装であり、日本海軍の艦艇類別等級においては「戦艦」のままであった。 なお、同様に巡洋艦としての火砲を装備し、かつ航空母艦又は水上機母艦に準ずる航空機運用能力を有する軍艦の通称として航空巡洋艦と呼ばれるものもある。 これについても当項目で併せて記述する。
見る 多号作戦と航空戦艦
鈴木宗作
鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月27日 - 1945年(昭和20年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。愛知県出身。陸士24期、陸大31期。 太平洋戦争開戦時、第25軍参謀長としてマレー作戦・シンガポールの戦いに参画、占領後に起きたシンガポール華僑粛清事件に関与した。第35軍司令官であった1945年(昭和20年)4月19日、フィリピン戦線で戦死、没後陸軍大将に進級する。
見る 多号作戦と鈴木宗作
阿武隈 (軽巡洋艦)
阿武隈(あぶくま)は、日本海軍の軽巡洋艦。長良型の6番艦である。 艦名は川の名で、阿武隈川から名づけられた。
赤城山丸
赤城山丸(あかぎさんまる)は、三井物産船舶部(後の三井船舶)が1924年(大正13年)に竣工させた日本最初のディーゼルエンジン搭載の航洋商船。貨物船として北米航路に就航、レシプロエンジン搭載の姉妹船との運航実績比較により、ディーゼル船の優れた経済性を実証した。太平洋戦争時には軍隊輸送船として徴用され、1944年(昭和19年)にレイテ島の戦いで強行輸送のため擱座した後、アメリカ軍機の空襲で破壊された。
見る 多号作戦と赤城山丸
藤波 (駆逐艦)
藤波(ふじなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の11番艦である。
那智 (重巡洋艦)
那智(なち)は、日本海軍の重巡洋艦。妙高型重巡洋艦の2番艦である。那智級と表記された事もある。命名の由来は和歌山県の那智山に依る。艦内神社も熊野那智大社から分祀された。
重巡洋艦
摩耶 重巡洋艦(じゅうじゅんようかん、英:Heavy Cruiser)とは、軍艦の一艦種である巡洋艦のなかで大型のものをいう。1930年のロンドン海軍軍縮条約で定義された艦種で、条約においては6.1インチを超え8インチ以下の艦砲を搭載する10,000トン以下の「カテゴリーA」の巡洋艦を指した。条約失効後は、10,000トンを超える艦も建造されている。重巡と略す。当時は大巡、甲巡とも呼ばれた。
見る 多号作戦と重巡洋艦
金剛 (戦艦)
金剛(こんごう/こんかう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦#達明治45年5月p.6『達第五十八號 英國ニ於テ建造ノ伊號装甲巡洋艦ヲ金剛ト命名セラル 明治四十五年五月十八日 海軍大臣 男爵 齋藤實』#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.5『艦艇類別等級表|軍艦|戦艦|金剛型|金剛、榛名、霧島』。イギリスに発注された最後の主力艦である。2度の改装後は高速戦艦として、太平洋戦争でも活躍した。金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製戦艦であったただし、前弩級戦艦であった敷島型戦艦朝日が工作艦として太平洋戦争に実戦参加。。
見る 多号作戦と金剛 (戦艦)
長門 (戦艦)
長門(ながと)は、旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦#達大正5年5月 p.12〔 達第七十八號 軍備補充費ヲ以テ本年度建造ニ着手スヘキ戰艦及二等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル|大正五年五月十三日 海軍大臣加藤友三郎|呉海軍工廠ニ於テ建造 戰艦 長門ナガト|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 二等巡洋艦 天龍テンリウ|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 二等巡洋艦 龍田タツタ 〕。長門型戦艦の1番艦。 、1946年7月のクロスロード作戦で沈没した。 概要節とは別にここに書く必要はないでしょう-->。
見る 多号作戦と長門 (戦艦)
長波 (駆逐艦)
長波(ながなみ)は#S16.7-12達/12月(2)画像5-6、昭和16年12月17日附達第391号、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦の4番艦である。
若葉 (初春型駆逐艦)
若葉(わかば)は、日本海軍の初春型駆逐艦3番艦である。1934年(昭和9年)10月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1906年(明治39年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)若葉に続いて2隻目。1944年(昭和19年)10月、レイテ沖海戦時に空襲を受け沈没した。
若月 (駆逐艦)
若月(わかつき)は、日本海軍の駆逐艦秋月型(潮2015)、79-80頁「若月(わかつき)」#達昭和17年8月pp.19-22「達第二百三十三號 昭和十六年度及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦五隻、海防艦四隻、掃海艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若月(ワカツキ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四十潜水艦 伊號第四十一潜水艦 伊號第四十二潜水艦 伊號第五十二潜水艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 呂號第百九潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 海防艦 擇捉(エトロフ) 特務艦 白埼(シラサキ)|三井造船株式會社玉工場ニ於テ建造 海防艦 松輪(マツワ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 佐渡(サド)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 海防艦 隠岐(オキ)|株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造 第二十三號掃海艇|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 第二十六號掃海艇」。
雪風 (駆逐艦)
雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#1月(昭和14年達完)p.41『達第十号 艦艇製造費ヲ以テ昭和十二年度及昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、砲艦一隻、驅逐艦一隻及潜水艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年一月二十日 海軍大臣米内光政|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 敷設艦 初鷹(ハツタカ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 砲艦 伏見(フシミ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 雪風(ユキカゼ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第十五潜水艦』。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の8番艦#昭和16年12月31日現在艦艇類別等級p.8『驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』。
零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の艦上戦闘機。略称は零戦(ぜろせん/れいせん)。試作名称は十二試艦上戦闘機(略称は十二試艦戦)。
見る 多号作戦と零式艦上戦闘機
通称号
通称号(つうしょうごう)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍において、部隊の名称を秘匿するために用いられた暗号名の一種。秘匿名・秘匿号・通称符とも。
見る 多号作戦と通称号
連合国 (第二次世界大戦)
第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、聯合国()、AlliesまたはUnited Nations(現在の国際連合と同名))とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。具体的にはアメリカ、ソビエト連邦、中華民国、イギリス、フランスなど26カ国が該当する。 第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月8日の日本によるマレー作戦及び真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、オーストラリアを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦争状態にあったが、日ソ中立条約によってソビエト連邦が対日戦に参戦したのは1945年8月のことである。日ソ中立条約は、法的有効期間中にソ連によって破棄された。
連合艦隊
連合艦隊(れんごうかんたい、聯合艦隊())は、大日本帝国海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した艦隊。海軍部内での略称はGF。
見る 多号作戦と連合艦隊
陸軍特殊船
陸軍特殊船(りくぐんとくしゅせん)は、大日本帝国陸軍向けに建造された特殊輸送船。上陸用舟艇と上陸部隊を同時に輸送するとともに、当初計画では航空機の輸送・発進も盛り込まれており、強襲揚陸艦の先駆けとも評される。
見る 多号作戦と陸軍特殊船
陽炎型駆逐艦
陽炎型駆逐艦(かげろうがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』の艦級である。全19隻が建造された。一番艦である陽炎の沈没後、書類上不知火型駆逐艦(しらぬいがたくちくかん)と改定された。 次級の夕雲型駆逐艦と合わせて甲型駆逐艦と呼ばれる。
見る 多号作戦と陽炎型駆逐艦
F4U (航空機)
F4U コルセア(Chance Vought F4U Corsair)は、アメリカのチャンス・ヴォート社が開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が運用したレシプロ単発単座戦闘機。愛称の「コルセア (Corsair、コーセア)」は、バルバリア海賊の意。 ヴォート社の他にグッドイヤー社とブルースター・エアロノーティカル社にも生産が移管され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブルースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。また、AUという呼称の攻撃機型も存在する。
P-40 (航空機)
P-40(Curtiss P-40 )は、アメリカ合衆国のカーチス・ライト社が開発しアメリカ陸軍航空軍で運用された戦闘機。性能的には平凡な機体であったが実用性が高く常に量産体制が整っていたこともあり、連合国が劣勢であった大戦初期に重要な使命を担い、各国軍で広く運用されドイツ軍や日本軍と戦った。 愛称は三種類あるが、イギリス空軍で使用されたものの逆輸入である。アメリカでの愛称は、A型からC型までは「トマホーク (Tomahawk:インディアンが用いた斧)」、D型とE型は「キティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所)」、F型以降は「ウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指すスラング)」であるが、イギリスではF型以降もキティホークと呼ばれた。
P-47 (航空機)
P-47 サンダーボルト(Republic P-47 Thunderbolt )は、アメリカのリパブリック社が開発し、アメリカ陸軍航空軍などで運用されたレシプロ単発戦闘機。 愛称の「サンダーボルト(Thunderbolt)」は、雷(いかづち・かみなり、特に聴覚的な感覚の面でのかみなり)のこと。
捷号作戦
捷号作戦(しょうごうさくせん)は、第二次世界大戦中に日本陸海軍が計画した比島・台湾・本土方面で基地航空部隊によって敵を要撃する作戦。決戦方面によって一号から四号まで定められ、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に捷一号作戦が発動された。
見る 多号作戦と捷号作戦
松型駆逐艦
松型駆逐艦(まつがたくちくかん)は、日本海軍の一等駆逐艦。丁型駆逐艦とも呼ばれる#主要々目及特徴一覧表p.11#桑レイテ戦闘詳報p.17。 日本海軍の公的な名称ではないが、竹級駆逐艦(丁型駆逐艦)とする文献(戦史叢書等)もあり海上護衛戦(戦史叢書)、330-332頁「第三十一戦隊の編成」、昭和天皇への説明でも用いられた。 松型は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)から建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。 なお、橘以降の艦は橘型/改松型/松型改/改丁型/丁型改などとして区別されるが#海軍軍備(5)40頁「駆逐艦(丁)(中略)|(備考)松型改」#主要々目及特徴一覧表p.11、 艦艇類別等級表では松型と橘型を区別しておらず、艦型名は全隻松型駆逐艦としている#昭和19年8月〜9月秘海軍公報9月(1)p.19#秘海軍公報昭和20年8月(2)p.27。本項目では艦艇類別等級表に基づく松型駆逐艦全般を取り扱う。
見る 多号作戦と松型駆逐艦
松田千秋
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。
見る 多号作戦と松田千秋
栗田健男
栗田 健男(くりた たけお、1889年(明治22年)4月28日 - 1977年(昭和52年)12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。
見る 多号作戦と栗田健男
栗栖猛夫
栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 1945年7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
見る 多号作戦と栗栖猛夫
桐 (松型駆逐艦)
桐(きり)は、大日本帝国海軍の駆逐艦〔 達第百七十三號 昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十九年五月二十七日 海軍大臣 嶋田繁太郎 横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 桐(キリ) 〕。松型(丁型)の6番艦である#S19.05内令(2) p.48〔 内令第七百十二號 艦艇類別等級表別表中左ノ通改正ス 海軍大臣 嶋田繁太郎 驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ 〕。日本海軍の艦名としては2代目(初代は大正時代の二等駆逐艦「樺型」10番艦「桐」)。
桜花 (航空機)
桜花(おうか、)は、日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。
桃 (松型駆逐艦)
桃(もも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和19年1月(2) pp.31-33。松型駆逐艦(丁型)の4番艦である。日本海軍の艦名としては桃型駆逐艦の1番艦「桃」に続いて2代目。 舞鶴海軍工廠で建造され1944年(昭和19年)6月10日に竣工、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された。 7月15日、新編の第43駆逐隊に所属#内令昭和19年7月 p.21。8月20日以降、新編の第三十一戦隊に所属した。11月上旬、第三十一戦隊は航空戦艦2隻(日向、伊勢)を護衛して内地を出発、新南群島で別れたあとマニラに向かうが、旗艦の相次ぐ被雷に遭遇した。 マニラ進出後は12月7日の第八次多号作戦に参加、小破した#S1912経過(護衛対潜) pp.4-5(昭和19年12月7日~8日、第八次多号作戦概要)。
桑 (松型駆逐艦)
桑(くわ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型駆逐艦(丁型)の5番艦である。艦名は楢型駆逐艦2番艦「桑」に続いて2代目。
梅 (松型駆逐艦)
梅(うめ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和19年1月(2) pp.31-33。松型駆逐艦(松型(丁型)一等駆逐艦)の3番艦である#内令昭和19年1月(5) pp.17-18。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦樺型「梅」)。
榛名 (戦艦)
榛名(はるな)は、日本海軍の巡洋戦艦、後に戦艦。 金剛型の3番艦。
見る 多号作戦と榛名 (戦艦)
横浜市
横浜市(よこはまし)は、神奈川県東部に位置する市。神奈川県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。日本有数の港湾都市・商工業都市でもある。 東京大都市圏(首都圏)に属する。市の人口は約377.2万人で東京23区を除く全国の市区町村としては最多の人口である。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国鎌倉郡(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区1980年(昭和55年)に緑区長津田町と旭区上川井町から一部を編入した、卸本町の一部を除く。 の全域と港南区、南区、金沢区の一部)。
見る 多号作戦と横浜市
機帆船
昭和初期の鮪釣漁船第二昭和丸の図面 en)」。1919年進水の元ノルウェー木造貨物船で、帆装は非常用。 機帆船(きはんせん、英:Motorsailer)とは、推進用の動力として熱機関を併用した帆船である。日本語で狭義に「機帆船」という場合は、外洋航路への無帆装の蒸気船の普及後に、沿岸航路の海運に用い続けられた内燃機関搭載の木造船を指す。補助帆装を有するものが多いが、第二次世界大戦後は、小型鋼船の対義語として帆走設備を持たなくとも在来型木造船なら「機帆船」と呼ぶこともあった。本項では主にこの日本での機帆船に相当する船について解説する。漢字表記は汽帆船とも書き、その場合は蒸気機関を動力として搭載しているものを指す。
見る 多号作戦と機帆船
機動艇
SS艇量産型の機動第十九号艇とその僚艇。戦後に撮影された写真。 機動艇(きどうてい)とは、第二次世界大戦期に日本陸軍が保有した揚陸艦のひとつである。海岸に直接乗り上げて、船首の渡し板から戦車などを上陸させる、ビーチング方式の戦車揚陸艦の一種にあたる。当初は特大汽艇と呼ばれていた。陸軍独自に開発した系列はSS艇、海軍設計のものはSB艇とも呼ばれる。
見る 多号作戦と機動艇
歩兵第5連隊
歩兵第5連隊(ほへいだい5れんたい、歩兵第五聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
見る 多号作戦と歩兵第5連隊
水陸両用戦車
シャーマンDD 水陸両用戦車(すいりくりょうようせんしゃ)は、陸上のみならず、河川などの障害物を浮航あるいは潜水渡渉することのできる戦車を指す。水域の移動方式により潜水戦車、あるいは浮航戦車とも呼ばれる。
見る 多号作戦と水陸両用戦車
沖縄 (海防艦)
沖縄(おきなわ)は、日本海軍の海防艦。鵜来型海防艦の2番艦。1944年(昭和19年)8月中旬に竣工した。同年10月下旬から11月上旬にかけて多号作戦に従事、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下でレイテ島オルモック湾に突入した。1945年(昭和20年)7月30日に舞鶴港で連合国の空母機動部隊から飛来した艦上機による空襲を受け、沈没した。艦名は、沖縄県の沖縄本島にちなむ。
沖波 (駆逐艦)
沖波(おきなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の14番艦である。
涼月 (駆逐艦)
涼月#達昭和17年1月pp.24-25『達第十八號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦四隻、掃海艇一隻、敷設艇二隻及掃海特務艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十七年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一等驅逐艦 涼月(スズツキ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 高波(タカナミ)|(以下略)』。命名に係る本令達で用いられている漢字は涼であって凉ではない。(すずつき)は、日本海軍の駆逐艦秋月型(2015潮書房)76-78頁『涼月(すずつき)』。 秋月型駆逐艦の3番艦であるp.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|秋月型|秋月、照月、涼月、初月、新月、若月|』。
清霜 (駆逐艦)
清霜(きよしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和18年8月(2)pp.45-46『達第二百二號 昭和十七七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、海防艦四隻、掃海艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 秋霜(アキシモ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 清霜(キヨシモ) 海防艦 笠戸(カサド)|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 淡路(アハヂ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 倉橋(クラハシ) 海防艦 千振(チブリ)|株式會社東京石川造船所ニ於テ建造 第三十號掃海艇|株式會社新潟鐵工所ニ於テ建造 第五十八號驅潜艇』。
源田実
源田 実(げんだ みのる、、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、戦争中は特攻作戦に深く関与した。第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。航空自衛隊の育ての親。政治家としては参議院議員を4期24年務めた。赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。
見る 多号作戦と源田実
潮 (吹雪型駆逐艦)
潮(うしお / うしほ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦吹雪型(特型)の20番艦(特II型の10番艦)。吹雪型の後期型(朧型)#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.160『吹雪型(十六隻) 艦種 一等驅逐艦 艦名考 風波等気象に採る。|朧型(八隻)/朧(おぼろ)【二代】、曙(あけぼの)【二代】、潮(うしほ)【二代】、漣(さざなみ)【二代】、響(ひびき)【二代】、雷(いかづち)【二代】、電(いなづま)【二代】、暁(あかつき)【二代】 (要目建造日略)』。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「潮」に続いて2隻目。
潮書房光人新社
株式会社潮書房光人新社(うしおしょぼうこうじんしんしゃ)は、日本の出版社。産業経済新聞社の出版子会社である産経新聞出版の100%子会社。月刊誌『丸』、および書籍の出版・販売を行う。
見る 多号作戦と潮書房光人新社
潜水艦
潜水艦(せんすいかん、submarine)は、水中航行可能な軍艦である。小型の軍用・民間用の水中航行可能な船は潜水艇と呼び区別される。
見る 多号作戦と潜水艦
澎湖諸島
澎湖諸島(ほうこしょとう、ポンフーしょとう)は、台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。澎湖列島、澎湖群島とも呼ばれる。島々の海岸線は複雑で、その総延長は約300kmを誇っている。大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島である。また、かつて「澎湖」の名を冠した日本海軍の艦艇があった。
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朝霜 (駆逐艦)
朝霜(あさしも)は#達昭和18年5月(3)、pp.4-6〔 達第百二十一號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦二隻、驅潜艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 沖波(オキナミ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 岸波(キシナミ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝霜(アサシモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ検図 伊號第四十六潜水艦|三菱重工會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號代四十五潜水艦 呂號第四十七潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 平戸(ヒラト)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 御藏(ミクラ)|日立造船所株式會社因島造船所ニ於テ建造 第四十六號驅潜艇|川南工業株式會社香焼島造船所ニ於テ建造 第四十七號驅潜艇|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 特務艦 波勝(ハカチ) 〕、日本海軍の駆逐艦。
朝雲新聞
朝雲(あさぐも)は、防衛省・自衛隊関連のニュースを主とする日本の新聞。朝雲新聞社が発行している。
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木村昌福
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年(明治24年)12月6日 - 1960年(昭和35年)2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。
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木曾 (軽巡洋艦)
木曾(きそ)は、大日本帝国海軍の球磨型軽巡洋艦の5番艦。艦名は中信地方及び東海地方を流れる木曽川に由来して命名された。
挺進連隊
挺進連隊(ていしんれんたい、挺進聯隊)とは、大日本帝国陸軍の部隊編制(連隊)の一つで、空挺作戦用の空挺部隊(落下傘部隊)である。第二次世界大戦時に創設されパレンバン空挺作戦(パレンバン降下作戦)などを行った。通称は挺進部隊、陸軍落下傘部隊、陸軍空挺部隊など。愛称は空の神兵。 挺進連隊は、複数個連隊や支援部隊を合わせた旅団に相当する団である挺進団(ていしんだん)を構成し戦闘序列に編入され、大戦後期には更なる上級部隊として師団に相当する集団である挺進集団(ていしんしゅうだん)が編成された。帝国陸軍における挺進連隊の軍隊符号はRi、挺進団はRB、挺進集団はRD。 本項ではグライダー空挺部隊である滑空歩兵連隊(かっくうほへいれんたい、Ki)についても詳述する。
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月光 (航空機)
月光(げっこう)は、日本海軍の夜間戦闘機。連合軍が本機に与えたコードネームはIrving(アーヴィング)。
有馬山丸
有馬山丸(ありまさんまる)は、三井物産船舶部が1937年に建造した高性能貨物船。日本の外国航路商船の中で第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)を生きのびた数少ない船であり、戦前戦後を通じてニューヨーク航路で活躍した。1953年には日本最初の実用的なターボチャージャー付き船舶用ディーゼルエンジンを搭載した。
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有馬馨
有馬 馨(ありま かおる、1893年(明治26年)12月15日 - 1956年(昭和31年)1月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。旧姓、渡邊。
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戦史叢書
『戦史叢書』(せんしそうしょ、英題Senshi sôsho)は、防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社より刊行された公刊戦史。現在は改訂を行ったバージョンがオンラインで閲覧できる。
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昭和天皇
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。4 現在、天皇に在位する第126代今上天皇 (徳仁)の祖父。
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浦風 (陽炎型駆逐艦)
浦風(うらかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦#達昭和14年11月p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣吉田善吾|株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシュ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』。陽炎型駆逐艦の11番艦である。第17駆逐隊の姉妹艦と共に真珠湾攻撃からレイテ沖海戦に至るまで、機動部隊や輸送船団の護衛、輸送任務、対水上艦戦闘など太平洋戦争中のあらゆる方面で活動したが、1944年(昭和19年)11月21日、台湾海峡にて米潜水艦の雷撃により戦艦「金剛」と共に撃沈された。艦名は初代「浦風」(浦風型駆逐艦)に続いて2代目。
浦波 (吹雪型駆逐艦)
浦波(うらなみ)は日本海軍の駆逐艦(2代目)#達昭和3年6月pp.7-10『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス 昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|第四十四號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 浦ウラ波ナミ トス』#達昭和2年4月pp.45-46『達第五十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手スベキ一等驅逐艦三隻ニ左ノ通命名ス 昭和二年四月二十六日 海軍大臣 岡田啓介|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 第三十八號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第三十九號驅逐艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 第四十四號驅逐艦』。 吹雪型駆逐艦の10番艦#海軍制度沿革(巻8、1940)p.66『昭和三年六月二十日(内令一六〇)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 本令ハ昭和三年八月一日ヨリ施行ス 驅逐艦ノ部中「第一號型」、「第十九號型」及「第三十五號型」ノ各項ヲ左ノ如ク改ム |神風型|神風、朝風、春風、松風、旗風、追風、朝凪、夕凪/睦月型|睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月/吹雪型|吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波| 同部中「第二號型」ノ項ヲ左ノ如ク改ム |若竹型|若竹、呉竹、早苗、早蕨、朝顔、夕顔、芙蓉、刈萱| 掃海艇ノ部中「浦波型」ノ項ヲ左ノ如ク改ム |第七號型|第七號、第八號、第九號、第十號、第十一號、第十二號| 備考第二號中但書ヲ削リ第四號ヲ左ノ如ク改ム 四 掃海艇ヲ稱呼スルニハ「第何號掃海艇」ヲ以テス 同五號中「「第三十五號型驅逐艦」、」ヲ削ル。
海軍陸戦隊
大日本帝国海軍陸戦隊(だいにっぽんていこくかいぐんりくせんたい、)は日本海軍が編成した陸上戦闘部隊である。単に陸戦隊と呼ぶこともある。元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが、1930年代には常設的な部隊も誕生した。
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海防艦
海防艦(かいぼうかん)は、戦闘用艦艇の一種コマ55(原本58頁)『海コースト防デフェンス艦シップ 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス』。
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浜風 (陽炎型駆逐艦)
浜風(はまかぜ)は#達昭和15年11月(1)p.3『達第二百四十三號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十四年度及昭和十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十五年十一月五日 海軍大臣 及川古志郎|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 濱風(ハマカゼ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號三十一潜水艦|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十七潜水艦|株式會社玉造船所ニ於テ建造 第十四号駆潜艇』、大日本帝国海軍の駆逐艦。艦名表記は、正しくは濱風である。一等駆逐艦陽炎型の13番艦である。艦名は初代「浜風」(磯風型駆逐艦)に続いて2代目。第17駆逐隊に所属した姉妹艦と太平洋戦争の主要な海戦に参加。戦艦「武蔵」、「金剛」、空母「蒼龍」、「飛鷹」、「信濃」といった帝国海軍主力艦の沈没に遭遇し、自身も1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と共に撃沈された。
浜波 (駆逐艦)
浜波(濱波、はまなみ)は#達昭和17年9月p.34「達第二百六十號 昭和十六年度及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦六隻、驅潜艇二隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 濱波(ハマナミ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四十三潜水艦/呂號第四十二潜水艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第百八十三潜水艦/呂號第百八潜水艦|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第百八十四潜水艦|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號第三十六潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 第四十二驅潜艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第四十三號驅先帝|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 特務艦 洲埼(スノサキ)|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 特務艦 風早(カザハヤ)」、日本海軍の駆逐艦。
日向 (戦艦)
近代化改装前 日向(ひゅうが、命名時のかな艦名表記はひうか大正3年10月12日付 海軍大臣達 第151号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070068000 で閲覧可能。ひうがではない。)は、大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、艦内神社は宮崎神宮からの分神。この艦名は帝国海軍ではこの艦のみで、戦後、海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の1番艦「ひゅうが」に引き継がれた。
見る 多号作戦と日向 (戦艦)
日吉 (横浜市)
日吉(ひよし)は、神奈川県横浜市港北区の町名。住所表記上の「日吉」以外に、日吉本町・箕輪町・下田町も一般に「日吉」と呼ばれる。 なお、この項では横浜市側の日吉地区を扱うが、旧日吉村が矢上川を挟んだ現在の川崎市側にも広がっていたことから、川崎市側にも「日吉地区」が存在する(川崎市側には幸区日吉合同庁舎、日吉小学校、日吉中学校、幸警察署日吉交番等がある)。 最寄り駅は、東急東横線・目黒線の日吉駅。戦前から戦後にかけて、東急電鉄(旧:東京横浜電鉄)が住宅街として開発し、1933年(昭和8年)に東急が慶應義塾を誘致して進出が決定した。 かつては「東急電鉄発祥の地」記念碑が日吉二丁目に存在したが、2001年(平成13年)5月に撤去され、元住吉検車区内にある社員研修所前に移設されている。
日昌丸
日昌丸(にっしょうまる)は、南洋海運が1939年に建造した貨客船。日本の大型外航貨客船のうち病院船以外で太平洋戦争を生き残った唯一の船である。1956年には戦後初の巡航見本市船として東南アジア各地を回り、記念切手も発行された。
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早川幹夫
早川 幹夫(はやかわ みきお、1894年(明治27年)4月18日 - 1944年(昭和19年)11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
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早霜 (駆逐艦)
早霜(はやしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。 夕雲型駆逐艦の17番艦である。
摩耶山丸
摩耶山丸(まやさんまる)は、日本陸軍が三井物産船舶部の名義で1942年(昭和17年)に竣工させた揚陸艦。上陸用舟艇の母艦機能を有し、陸軍特種船と呼ばれた。太平洋戦争では後方での部隊輸送に使用された。1944年(昭和19年)にヒ81船団の1隻としてフィリピンへ向かう途中、アメリカ海軍潜水艦の攻撃で撃沈され、乗船中の第23師団の将兵ら3000人以上が戦死した。
見る 多号作戦と摩耶山丸
愛宕 (重巡洋艦)
愛宕(あたご)は、日本海軍の重巡洋艦。
慶應義塾大学
「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
見る 多号作戦と慶應義塾大学
曙 (吹雪型駆逐艦)
曙(あけぼの)は、日本海軍の駆逐艦。吹雪型(特型)の18番艦(特II型の8番艦)。この名を持つ日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「曙」に続いて2隻目。
時雨 (白露型駆逐艦)
時雨(しぐれ)は、日本海軍の白露型駆逐艦2番艦である。日本海軍の艦船名としては1906年(明治39年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)・時雨に続いて2隻目。第二次上海事変・珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第三次ソロモン海戦、ベラ湾夜戦、第一次・第二次ベララベラ海戦、ニュージョージア島の戦い、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などを歴戦。『呉の雪風、佐世保の時雨』と呼ばれ、海軍史研究者で米元海軍少将サミュエル・モリソンは自著で時雨を「幸運艦」「不滅艦」と記した。1945年(昭和20年)1月24日、輸送船護衛中にマレー半島近海で米潜水艦に撃沈された。
10月18日
10月18日(じゅうがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から291日目(閏年では292日目)にあたり、年末まであと74日ある。
見る 多号作戦と10月18日
10月19日
10月19日(じゅうがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から292日目(閏年では293日目)にあたり、年末まであと73日ある。
見る 多号作戦と10月19日
10月20日
10月20日(じゅうがつはつか、じゅうがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から293日目(閏年では294日目)にあたり、年末まであと72日ある。
見る 多号作戦と10月20日
10月21日
10月21日(じゅうがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から294日目(閏年では295日目)にあたり、年末まであと71日ある。
見る 多号作戦と10月21日
10月23日
10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。
見る 多号作戦と10月23日
10月24日
10月24日(じゅうがつにじゅうよっか、じゅうがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から297日目(閏年では298日目)にあたり、年末まであと68日ある。
見る 多号作戦と10月24日
10月25日
10月25日(じゅうがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から298日目(閏年では299日目)にあたり、年末まであと67日ある。
見る 多号作戦と10月25日
10月26日
10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。
見る 多号作戦と10月26日
10月27日
10月27日(じゅうがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から300日目(閏年では301日目)にあたり、年末まであと65日ある。
見る 多号作戦と10月27日
10月30日
10月30日(じゅうがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から303日目(閏年では304日目)にあたり、年末まであと62日ある。
見る 多号作戦と10月30日
10月31日
10月31日(じゅうがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から304日目(閏年では305日目)にあたり、年末まであと61日ある。10月の最終日である。
見る 多号作戦と10月31日
11月10日
11月10日(じゅういちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。
見る 多号作戦と11月10日
11月11日
11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。
見る 多号作戦と11月11日
11月13日
11月13日(じゅういちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から317日目(閏年では318日目)にあたり、年末まであと48日ある。
見る 多号作戦と11月13日
11月16日
11月16日(じゅういちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から320日目(閏年では321日目)にあたり、年末まであと45日ある。
見る 多号作戦と11月16日
11月1日
11月1日(じゅういちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。
見る 多号作戦と11月1日
11月2日
11月2日(じゅういちがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から306日目(閏年では307日目)にあたり、年末まであと59日ある。
見る 多号作戦と11月2日
11月8日
11月8日(じゅういちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から312日目(閏年では313日目)にあたり、年末まであと53日ある。
見る 多号作戦と11月8日
11月9日
11月9日(じゅういちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から313日目(閏年では314日目)にあたり、年末まであと52日ある。
見る 多号作戦と11月9日
12月11日
12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。
見る 多号作戦と12月11日
12月15日
12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。
見る 多号作戦と12月15日
参考情報
1944年11月
1944年12月
1944年のフィリピン
レイテ増援輸送作戦 別名。
、ミンドロ島、ミンドロ島の戦い、ミンダナオ島、ネグロス島、バコロド、モロタイ島、モロタイ島の戦い、モール (駆逐艦)、ルソン島、ルソン島の戦い、レイテ島、レイテ島の戦い、レイテ沖海戦、レイテ湾、ボルネオ島、ボンベ、ボホール島、ボアク島、トーマス・スプレイグ、ブリーム (潜水艦)、パナイ島、ヒ81船団、ビサヤ諸島、フレッチャー級駆逐艦、フィリピンの戦い (1944年-1945年)、ダバオ、ダグラス・マッカーサー、初霜 (初春型駆逐艦)、初春 (初春型駆逐艦)、利根 (重巡洋艦)、和浦丸、アメリカ軍、アレン・M・サムナー (駆逐艦)、アーチャーフィッシュ (潜水艦)、オルモック、オルモック湾、カヴァラ (潜水艦)、カガヤン・デ・オロ、クーパー (駆逐艦)、シーライオン (SS-315)、セブ島、タ弾、タグビララン、冬月 (駆逐艦)、四式肉薄攻撃艇、四式戦闘機、B-24 (航空機)、B-25 (航空機)、矢矧 (軽巡洋艦)、球磨 (軽巡洋艦)、睦月型駆逐艦、磯風 (陽炎型駆逐艦)、礼号作戦、神州丸、神風特別攻撃隊、神鷹 (空母)、神重徳、福留繁、秋霜 (駆逐艦)、秋月型駆逐艦、竹 (松型駆逐艦)、第100師団 (日本軍)、第102師団 (日本軍)、第10師団 (日本軍)、第10方面軍 (日本軍)、第14方面軍 (日本軍)、第16師団 (日本軍)、第19師団 (日本軍)、第1師団 (日本軍)、第23師団 (日本軍)、第26師団 (日本軍)、第30師団 (日本軍)、第35軍 (日本軍)、第4航空軍 (日本軍)、第68旅団 (日本軍)、第十一号海防艦、第三十一戦隊、第三航空戦隊、第三艦隊 (日本海軍)、第一号型輸送艦、第一機動艦隊、第二艦隊 (日本海軍)、第二水雷戦隊、第五艦隊 (日本海軍)、第六三四海軍航空隊、第四航空戦隊、第百一号型輸送艦、第百一号輸送艦、第百五号哨戒艇、米内光政、羽黒 (重巡洋艦)、瑞雲 (航空機)、甲標的、熊野 (重巡洋艦)、熱帯低気圧、牧野四郎、特二式内火艇、特別攻撃隊、特殊潜航艇、特攻兵器、隼鷹 (空母)、草鹿龍之介、青葉 (重巡洋艦)、馬公市、駆逐艦、駆潜艇、高田利種、高雄 (重巡洋艦)、鬼怒 (軽巡洋艦)、魚雷、護衛空母、豊田副武、足柄 (重巡洋艦)、軍令部、軍旗、軽巡洋艦、龍鳳 (空母)、霞 (朝潮型駆逐艦)、霜月 (駆逐艦)、震洋、航空戦艦、鈴木宗作、阿武隈 (軽巡洋艦)、赤城山丸、藤波 (駆逐艦)、那智 (重巡洋艦)、重巡洋艦、金剛 (戦艦)、長門 (戦艦)、長波 (駆逐艦)、若葉 (初春型駆逐艦)、若月 (駆逐艦)、雪風 (駆逐艦)、零式艦上戦闘機、通称号、連合国 (第二次世界大戦)、連合艦隊、陸軍特殊船、陽炎型駆逐艦、F4U (航空機)、P-40 (航空機)、P-47 (航空機)、捷号作戦、松型駆逐艦、松田千秋、栗田健男、栗栖猛夫、桐 (松型駆逐艦)、桜花 (航空機)、桃 (松型駆逐艦)、桑 (松型駆逐艦)、梅 (松型駆逐艦)、榛名 (戦艦)、横浜市、機帆船、機動艇、歩兵第5連隊、水陸両用戦車、沖縄 (海防艦)、沖波 (駆逐艦)、涼月 (駆逐艦)、清霜 (駆逐艦)、源田実、潮 (吹雪型駆逐艦)、潮書房光人新社、潜水艦、澎湖諸島、朝霜 (駆逐艦)、朝雲新聞、木村昌福、木曾 (軽巡洋艦)、挺進連隊、月光 (航空機)、有馬山丸、有馬馨、戦史叢書、昭和天皇、浦風 (陽炎型駆逐艦)、浦波 (吹雪型駆逐艦)、海軍陸戦隊、海防艦、浜風 (陽炎型駆逐艦)、浜波 (駆逐艦)、日向 (戦艦)、日吉 (横浜市)、日昌丸、早川幹夫、早霜 (駆逐艦)、摩耶山丸、愛宕 (重巡洋艦)、慶應義塾大学、曙 (吹雪型駆逐艦)、時雨 (白露型駆逐艦)、10月18日、10月19日、10月20日、10月21日、10月23日、10月24日、10月25日、10月26日、10月27日、10月30日、10月31日、11月10日、11月11日、11月13日、11月16日、11月1日、11月2日、11月8日、11月9日、12月11日、12月15日。