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吉記と宇治郷 (神戸市)

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吉記と宇治郷 (神戸市)の違い

吉記 vs. 宇治郷 (神戸市)

吉記(きっき)は、平安時代末期の公家・吉田経房(1142年 - 1200年)の日記である。 経房は勧修寺流藤原氏(俗に日記の家と呼ばれる)。権右中弁藤原光房の子で、京都の東郊・吉田に別邸を建てたため、「吉田権中納言」と呼ばれ、吉田家の祖となった。『吉記』は、吉田の姓から後の人が経房の日記を呼んだ称。別に経房の官であった民部卿の唐名・戸部から『吉戸記』(きっこき)と呼ばれることもある。 仁安元年(1166年)から建久4年(1193年)まで28年分が記録されていたというが、原本は現存せず、写本(ほとんどは子孫の甘露寺親長の蒐集した書写)や他の書に引用された佚文を合わせても、断続的に13年分が残るのみとなっている。「日記の家」勧修寺流の他の公家の日記と同様、朝廷の儀式・典礼などに関する記事が詳しい。またいわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)の時代を含むため、同時期の朝廷の動きを知る上でも貴重な史料といえる。『吉記』は、内乱期の経房が蔵人頭・院別当として、朝廷の決定を詳しく知ることのできる立場にあったため、同じ内容の記事でも、まだ朝廷で中心的な立場になる前の九条兼実の『玉葉』より詳細な事実を知ることができる箇所もある。. 宇治郷(うじのごう)は、兵庫県神戸市のかつてあった地名である。現在では、宇治川にその地名を残す。 八部郡宇治郷は、和名類聚抄(承平年間(931年 - 938年)編纂)摂津国八田部郡の郷の1つとして、奈良期から平安期に見える郷名。 「宇治」の名の初出は天平十九年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』とされる。Wikipedia会下山より、"『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には、「雄伴郡宇治郷宇奈互丘」あるいは、「宇奈五丘」(うなごおか)の名で記載されている。・・なお、雄伴郡は、淳和天皇の時代、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。仁徳天皇の妃八田皇女の名代が付近にあったためとも言われている。改名当初は八田部郡と書いた。"とある。 なお、「行基年譜」には、「行基が天平2(730)年に宇治郷に船息院と尼院を建てた」とある。また、天平15(743)年に「大輪田船息 在摂津国兎原郡宇治」(後の大輪田泊であろう)とある。船息院は、大輪田船息と関係しているのであろう。 P69 2013年11月 著者 大国正美 神戸新聞総合出版センター ISBN 9784343006035.

吉記と宇治郷 (神戸市)間の類似点

吉記と宇治郷 (神戸市)は(ユニオンペディアに)共通の1のものを持っています: 吉田経房

吉田経房

吉田 経房(よしだ つねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。権右中弁・藤原光房の子。 源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。吉田家(後の甘露寺家)の祖。.

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吉記と宇治郷 (神戸市)の間の比較

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参考文献

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