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十通と続通志

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

十通と続通志の違い

十通 vs. 続通志

十通(じっつう)とは唐代の通典、南宋の通志、元の文獻通考、清の續通典、續通志、續文獻通考、清朝通典、清朝通志、清朝文獻通考、清朝續文獻通考の十部の政書の総称である。そのうち馬端臨の書いた文獻通考が最も評価が高い。 このうち、『通典』、『通志』、『文献』の3つは「三通」と呼ばれる。また『続通典』、『続通志』、『続文献通考』は「続三通」と呼ばれる。また、『清朝通典』、『清朝通志』、『清朝文献』は「清三通」と呼ばれる。「三通」、「続三通」、「清三通」を合わせて「九通」とも言う。さらに『清朝続文献通考』を加えて「十通」という。「清三通」に『清朝続文献通考』を加えて「清四通」とも言う。 十通は中国の歴代の法令制度の沿革発展を非常によく記録している。また、「典誌」としての内容にも詳しく、各王朝の経済、政治、社会制度について述べられている。そのため、『唐会要』、『宋会要』とも比較しうる文献である。 「続三通」、「清三通」の一連の著作は、内容自体はすぐれたものである。しかしながら、いずれも乾隆時代の著作であり、内容に重複が多い。特に礼、楽、職官、選挙、刑法についての重複が著しい。これは、各書籍の作者が功績を争った上に、編集上の方針が明確でなかったことによるものと考えられる。. 『続通志』(ぞくつうし)は、清の嵇璜、劉墉らが編集し、紀昀らが校訂した中国の政書(典章制度の解説書)である。「十通」の1つであり、乾隆50年(1785年)に完成した。全640巻。 編集方針は通志を踏襲しているが、通典でいう「世家」と「年譜」が無い。書中の紀伝は唐初から元末までの間であり、二十略(詳しくは通志参照)は五代から明末まで記載されている。特に通志で漏れがあった唐時代の記事が補充されている。 Category:十通 Category:1780年代の書籍.

十通と続通志間の類似点

十通と続通志は(ユニオンペディアに)共通で7ものを持っています: 乾隆元 (王朝)通志1785年

乾隆

乾隆(けんりゅう、満洲語:、転写:abkai wehiyehe)は、清の高宗の治世中に使われた元号。1736年 - 1795年。一世一元の制であったため高宗は乾隆帝と称される。 中国史上、康熙に次いで2番目に長く用いられた元号である。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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通志

通志(つうし)は南宋の鄭樵が書き、高宗の紹興31年(1161年)に本となった。形式は断代史を批判して通史である『史記』をまね、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する政書、十通の1つ。全書200巻、考証を3巻付け加え、紀伝体としての帝紀18巻、皇后列伝2巻、年譜4巻、二十略51巻、列伝125巻を包括しているが、中でも二十略が最も高く評価される。『通典』『文献通考』とならんで三通と評される。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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1785年

記載なし。

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十通と続通志の間の比較

続通志が12を有している十通は、33の関係を有しています。 彼らは一般的な7で持っているように、ジャカード指数は15.56%です = 7 / (33 + 12)。

参考文献

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