ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

北条政子と北条義時

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

北条政子と北条義時の違い

北条政子 vs. 北条義時

北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。. 北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

北条政子と北条義時間の類似点

北条政子と北条義時は(ユニオンペディアに)共通で93ものを持っています: 執権十三人の合議制吾妻鏡大江広元大河ドラマ奥州合戦宮将軍守護安達景盛安房国寿永三浦義村一幡平安時代平賀朝雅京都守護亀の前建久建仁建保伊勢平氏伊豆国伊賀の方伊賀光季伊賀氏の変伊東祐親伏見広綱御家人後鳥羽天皇修善寺...地頭北条宗時北条氏北条泰時北条政村北条時子北条時房北条時政やぐら公暁元久元暦石橋山の戦い神奈川県炎環牧の方牧宗親牧氏事件隠岐諸島鎌倉市鎌倉幕府鎌倉時代荘園草燃える養和豪族貞応鶴岡八幡宮阿野全成阿波局 (北条時政の娘)藤原兼子藤原頼経梶原景時梶原景時の変正室正治比企能員比企能員の変永井路子永井晋江戸時代治承源実朝源範頼源頼家源頼朝文治愚管抄承久の乱承久記1180年1182年1185年1189年1190年1192年1199年1203年1204年1205年1219年1221年1224年 インデックスを展開 (63 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

北条政子と執権 · 北条義時と執権 · 続きを見る »

十三人の合議制

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。 正治元年(1199年)正月13日に源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家は20日に左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第二代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は大江広元らの補佐を受けて政務を行うが、4月12日に頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。『吾妻鏡』には頼家が従来の慣例を無視して恣意的判断を行ったという挿話が並べられているが、真偽は不明である。頼家を立てることで政治を主導しようとする頼朝側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する他の有力御家人の不満・反発も要因として考えられる。なお、この合議制導入は頼家独裁の抑制とするのが一般的な解釈であるが、13人全員で合議された例はなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある(川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。 正治元年(1199年)に梶原景時が失脚、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死したことで合議制は解体し、頼家政権も権力抗争の果てに崩壊することになる。.

北条政子と十三人の合議制 · 北条義時と十三人の合議制 · 続きを見る »

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

北条政子と吾妻鏡 · 北条義時と吾妻鏡 · 続きを見る »

大江広元

大江 広元(おおえ の ひろもと、旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。.

北条政子と大江広元 · 北条義時と大江広元 · 続きを見る »

大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

北条政子と大河ドラマ · 北条義時と大河ドラマ · 続きを見る »

奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.

北条政子と奥州合戦 · 北条義時と奥州合戦 · 続きを見る »

宮将軍

宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王の4親王を指す歴史用語。現代では皇族将軍(こうぞくしょうぐん)、親王将軍(しんのうしょうぐん)とも呼ぶ。また彼らを総称して鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と表現することもある。 なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王と成良親王も宮将軍と呼ぶことがある。しかし前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、後者の2親王は建武政権において短期間ではありながら重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なる。.

北条政子と宮将軍 · 北条義時と宮将軍 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

北条政子と守護 · 北条義時と守護 · 続きを見る »

安達景盛

安達 景盛(あだち かげもり)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達盛長の嫡男。.

北条政子と安達景盛 · 北条義時と安達景盛 · 続きを見る »

安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

北条政子と安房国 · 北条義時と安房国 · 続きを見る »

寿永

寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.

北条政子と寿永 · 北条義時と寿永 · 続きを見る »

三浦義村

三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。.

三浦義村と北条政子 · 三浦義村と北条義時 · 続きを見る »

一幡

一幡(いちまん、建久9年(1198年) - 建仁3年9月2日(1203年10月8日))は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍、源頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局。公暁、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は同母妹と考えられている。.

一幡と北条政子 · 一幡と北条義時 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

北条政子と平安時代 · 北条義時と平安時代 · 続きを見る »

平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。.

北条政子と平賀朝雅 · 北条義時と平賀朝雅 · 続きを見る »

京都守護

京都守護(きょうとしゅご)は、鎌倉幕府の役職の一つ。 最初は上洛時に、北条時政が任命され京都の御家人を統率、洛中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡の任に当たっていたが、承久の乱後に六波羅探題が設置されたことで消滅した。.

京都守護と北条政子 · 京都守護と北条義時 · 続きを見る »

亀の前

亀の前(かめのまえ 生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。良橋太郎入道の娘。源頼朝の愛妾。.

亀の前と北条政子 · 亀の前と北条義時 · 続きを見る »

建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

北条政子と建久 · 北条義時と建久 · 続きを見る »

建仁

建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.

北条政子と建仁 · 北条義時と建仁 · 続きを見る »

建保

建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

北条政子と建保 · 北条義時と建保 · 続きを見る »

伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

伊勢平氏と北条政子 · 伊勢平氏と北条義時 · 続きを見る »

伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

伊豆国と北条政子 · 伊豆国と北条義時 · 続きを見る »

伊賀の方

伊賀の方(いがのかた、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の女性。伊賀氏とも呼ばれる。藤原秀郷流の関東の豪族、伊賀朝光の娘。鎌倉幕府2代執権北条義時の後妻(継室)。兄弟に光季、光宗。子に7代執権政村の他、実泰、時尚、一条実雅室など。 義時が前妻の姫の前と離別したのちに継室となったと見られ、元久2年(1205年)6月22日に政村を出産、 承元2年(1208年)に実泰を出産。 貞応3年(1224年)7月、夫義時の急死後、兄光宗と共に実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図るが、尼将軍北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者とした事により失敗し、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。子の政村は事件に連座せず、のちに7代執権となっている。8月29日、伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となった。4ヶ月後の12月24日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される。 だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。 なお、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている。.

伊賀の方と北条政子 · 伊賀の方と北条義時 · 続きを見る »

伊賀光季

伊賀 光季(いが みつすえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。伊賀朝光の長男。母は二階堂行政の娘。姉妹に北条義時の継室・伊賀の方がいる。.

伊賀光季と北条政子 · 伊賀光季と北条義時 · 続きを見る »

伊賀氏の変

伊賀氏の変(いがしのへん)は、鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から閏7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。.

伊賀氏の変と北条政子 · 伊賀氏の変と北条義時 · 続きを見る »

伊東祐親

伊東 祐親(いとう すけちか)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族。工藤氏の6代目であり、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫であり、河津氏の祖。河津祐親(かわず すけちか)とも。.

伊東祐親と北条政子 · 伊東祐親と北条義時 · 続きを見る »

伏見広綱

伏見 広綱(ふしみ ひろつな、生没年不詳)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱と呼ばれる。.

伏見広綱と北条政子 · 伏見広綱と北条義時 · 続きを見る »

御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

北条政子と御家人 · 北条義時と御家人 · 続きを見る »

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

北条政子と後鳥羽天皇 · 北条義時と後鳥羽天皇 · 続きを見る »

修善寺

修善寺(しゅぜんじ).

修善寺と北条政子 · 修善寺と北条義時 · 続きを見る »

地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

北条政子と地頭 · 北条義時と地頭 · 続きを見る »

北条宗時

北条 宗時(ほうじょう むねとき、生年不明 - 治承4年8月24日(1180年9月14日)は、平安時代末期の武将。父は北条時政。兄弟姉妹に政子、義時、時房、ほか。通称は三郎。.

北条宗時と北条政子 · 北条宗時と北条義時 · 続きを見る »

北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

北条政子と北条氏 · 北条氏と北条義時 · 続きを見る »

北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

北条政子と北条泰時 · 北条泰時と北条義時 · 続きを見る »

北条政村

北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。 幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。.

北条政子と北条政村 · 北条政村と北条義時 · 続きを見る »

北条時子

北条 時子(ほうじょう ときこ、生没年未詳)は平安時代末期から鎌倉時代前期の北条氏一族の女性北条(2001)。鎌倉幕府初代執権北条時政の娘。北条氏得宗義時流。御家人である足利義兼の正室で、足利義氏、野田朝氏室の母。母は未詳だが、北条政子の同母妹とみられている千田(1985)pp.33-40。他に兄弟は、宗時、義時、時房、阿波局、時房、政範など。実名は未詳で、時子と伝承されているものの、その典拠は不明。法号は智願院殿。.

北条政子と北条時子 · 北条時子と北条義時 · 続きを見る »

北条時房

北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。.

北条政子と北条時房 · 北条時房と北条義時 · 続きを見る »

北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.

北条政子と北条時政 · 北条時政と北条義時 · 続きを見る »

やぐら

やぐらは、鎌倉の周辺で鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。 現在では土砂崩れや宅地開発で潰れたものも多く、残ったやぐらも風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華であった。火葬骨のほか多くの副葬品が収められていた。.

やぐらと北条政子 · やぐらと北条義時 · 続きを見る »

公暁

公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(尊卑分脈等)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』等)。 母は吾妻鏡によれば足助重長(加茂重長)の娘(源為朝の孫娘)、尊卑分脈等によれば一幡の母と同じく比企能員の娘、ある源氏系図(縣篤岐本『源氏系図』)によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。 叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。 名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている。.

公暁と北条政子 · 公暁と北条義時 · 続きを見る »

元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

元久と北条政子 · 元久と北条義時 · 続きを見る »

元暦

元暦(げんりゃく)は、日本の元号の一つ。寿永の後、文治の前。1184年・1185年の期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。 源氏と平家の争乱の時代で、平家方ではこの元号を使用せず寿永を引き続き使用していた。.

元暦と北条政子 · 元暦と北条義時 · 続きを見る »

石橋山の戦い

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。.

北条政子と石橋山の戦い · 北条義時と石橋山の戦い · 続きを見る »

神奈川県

奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.

北条政子と神奈川県 · 北条義時と神奈川県 · 続きを見る »

炎環

『炎環』(えんかん)は、永井路子の長編歴史小説で、直木賞受賞作。 鎌倉幕府創成期の前後を、4人の人物を通して描いた作品。初版は1964年刊。.

北条政子と炎環 · 北条義時と炎環 · 続きを見る »

牧の方

牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の初代執権・北条時政の継室。牧宗親の娘とも、妹とも言われ、下級ながらも貴族の出身であった。子は北条政範、平賀朝雅室、三条実宣室、宇都宮頼綱室。 夫・時政とはかなり年齢が離れていたが、その仲は睦まじかったと言われている。寿永2年(1182年)11月、産後の継娘・政子に夫・源頼朝の浮気を伝え、政子が牧の方の父宗親に命じて頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を打ち壊させる騒動を引き起こしている。 元久2年(1205年)6月、時政による畠山重忠の乱が起こるが、これは娘婿に当たる平賀朝雅が畠山重保のことを牧の方に讒言し、それを聞いた牧の方が時政に讒訴したためであると言われている。さらに同年7月、彼女は時政と共謀して源実朝を殺害し、さらに娘婿の朝雅を新将軍として擁することで幕政の実権を掌握しようと計画した。しかし、この計画を知った北条政子・義時姉弟による反撃を受けて、7月20日に時政と共に出家し、その後、義時の手によって伊豆国に幽閉された(牧氏事件)。 その後、平賀朝雅の妻だった娘は公家の権中納言・藤原国通に再嫁し、牧の方は京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしていたという。嘉禄3年(1227年)3月に国通の邸で夫・時政の13回忌を行ない、一族を引き連れて諸寺詣を行っている様子が『明月記』に記され、筆者の藤原定家はこの時の牧の方の振る舞いを批判している。 また、杉橋隆夫は牧の方の父あるいは兄とされる牧宗親と平忠盛の継室で平治の乱の際に頼朝の助命を嘆願した池禅尼の兄弟とされる藤原宗親(『尊卑分脈』)は同一人物であるとする説を提示している。.

北条政子と牧の方 · 北条義時と牧の方 · 続きを見る »

牧宗親

牧 宗親(まき むねちか、生没年未詳)は、平安時代末期の駿河国大岡牧(沼津市)の豪族。大舎人允。北条時政の後妻である牧の方の父もしくは兄。通称は三郎。子に大岡時親。 平家一門である平頼盛に長年仕えており、頼盛の所領で北条氏の本拠に近い駿河国大岡牧を領有していた。『愚管抄』によると、牧氏は「武者にもあらず」と記されており、下級ながらも貴族の出身であった。頼盛の叔父とする説がある。 北条政子の命で源頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊したことから頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた。この事件で頼朝の岳父であり、宗親の婿でもある時政が頼朝への抗議として一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。 子の時親は牧氏事件で出家している。.

北条政子と牧宗親 · 北条義時と牧宗親 · 続きを見る »

牧氏事件

牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。.

北条政子と牧氏事件 · 北条義時と牧氏事件 · 続きを見る »

隠岐諸島

島前 隠岐諸島(おきしょとう)は、島根半島の北方約50kmにある諸島。隠岐群島(おきぐんとう)、隠岐島(おきのしま)とも呼ばれる。現在は島根県隠岐郡に所属。山陰地方では今でも隠岐諸島を指して隠岐国(おきのくに)と呼ぶ場合がある。 当諸島は、島前(どうぜん)と島後(どうご)に分かれている。.

北条政子と隠岐諸島 · 北条義時と隠岐諸島 · 続きを見る »

鎌倉市

鎌倉大仏(高徳院) 建長寺 鎌倉宮(大塔宮) 荏柄天神社 鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置し、鎌倉を中心部とする市である。.

北条政子と鎌倉市 · 北条義時と鎌倉市 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

北条政子と鎌倉幕府 · 北条義時と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

北条政子と鎌倉時代 · 北条義時と鎌倉時代 · 続きを見る »

荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

北条政子と荘園 · 北条義時と荘園 · 続きを見る »

草燃える

『草燃える』(くさもえる)は、1979年1月7日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマの第17作。.

北条政子と草燃える · 北条義時と草燃える · 続きを見る »

養和

養和(ようわ)は、日本の元号の一つ。治承の後、寿永の前。1181年の晩夏から翌年初夏にかけての10か月間にあたる。この時代の天皇は安徳天皇。源平合戦の時代で、源頼朝の源氏方では、この元号を使用せず治承を引き続き使用していた。.

北条政子と養和 · 北条義時と養和 · 続きを見る »

豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

北条政子と豪族 · 北条義時と豪族 · 続きを見る »

貞応

貞応(じょうおう)は、日本の元号の一つ。承久の後、元仁の前。1222年から1223年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時、泰時。.

北条政子と貞応 · 北条義時と貞応 · 続きを見る »

鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

北条政子と鶴岡八幡宮 · 北条義時と鶴岡八幡宮 · 続きを見る »

阿野全成

阿野 全成(あの ぜんじょう / - ぜんせい)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、源義朝の七男。源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。阿野氏の祖。通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた(『平治物語』)。.

北条政子と阿野全成 · 北条義時と阿野全成 · 続きを見る »

阿波局 (北条時政の娘)

阿波局(あわのつぼね、生年未詳 - 嘉禄3年11月4日(1227年12月13日))は、鎌倉時代初期の北条氏の女性。初代執権北条時政の娘。本名は不明。 兄弟に源頼朝正室・政子、義時らがいる。義兄・頼朝の異母弟である阿野全成に嫁ぎ、四男・時元を儲ける。その後、頼朝の次男・源実朝の乳母となる。『吾妻鏡』には全成の「妾」と記されている。.

北条政子と阿波局 (北条時政の娘) · 北条義時と阿波局 (北条時政の娘) · 続きを見る »

藤原兼子

藤原 兼子(ふじわら の けんし、久寿2年(1155年) - 寛喜元年8月16日(1229年9月5日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官。刑部卿・藤原範兼の娘。通称は卿局(きょうのつぼね)。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも。後鳥羽天皇の乳母。 同じく後鳥羽天皇の乳母である藤原範子は姉。範子と前夫の娘・源在子は後鳥羽天皇の妃となり土御門天皇を産む。叔父の藤原範季(父・範兼の養子になっているので義兄となる)は後白河法皇の院近臣で、後鳥羽天皇の養育にあたった。範季の娘・藤原重子(修明門院)は後鳥羽天皇の妃となり順徳天皇を産んでいる。.

北条政子と藤原兼子 · 北条義時と藤原兼子 · 続きを見る »

藤原頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.

北条政子と藤原頼経 · 北条義時と藤原頼経 · 続きを見る »

梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.

北条政子と梶原景時 · 北条義時と梶原景時 · 続きを見る »

梶原景時の変

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。.

北条政子と梶原景時の変 · 北条義時と梶原景時の変 · 続きを見る »

正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

北条政子と正室 · 北条義時と正室 · 続きを見る »

正治

正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.

北条政子と正治 · 北条義時と正治 · 続きを見る »

比企能員

比企 能員(ひき よしかず)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国または安房国出身とみられる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となる。 比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。.

北条政子と比企能員 · 北条義時と比企能員 · 続きを見る »

比企能員の変

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。.

北条政子と比企能員の変 · 北条義時と比企能員の変 · 続きを見る »

永井路子

古河文学館の別館として利用されている永井路子旧宅(茨城県古河市) 永井 路子(ながい みちこ、1925年3月31日 - )は、日本の歴史小説家。本名は、黒板擴子 (くろいた ひろこ)読売人物データベース。.

北条政子と永井路子 · 北条義時と永井路子 · 続きを見る »

永井晋

永井 晋(ながい すすむ、1959年 - )は日本の歴史学者。金沢文庫主任学芸員。日本中世前期の政治史・国制史専攻。 群馬県出身。1986年國學院大學大学院博士課程後期中退。2008年「金沢北条氏の研究」で國學院大学博士(歴史学)取得。.

北条政子と永井晋 · 北条義時と永井晋 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

北条政子と江戸時代 · 北条義時と江戸時代 · 続きを見る »

治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

北条政子と治承 · 北条義時と治承 · 続きを見る »

源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

北条政子と源実朝 · 北条義時と源実朝 · 続きを見る »

源範頼

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。.

北条政子と源範頼 · 北条義時と源範頼 · 続きを見る »

源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

北条政子と源頼家 · 北条義時と源頼家 · 続きを見る »

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

北条政子と源頼朝 · 北条義時と源頼朝 · 続きを見る »

文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

北条政子と文治 · 北条義時と文治 · 続きを見る »

愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

北条政子と愚管抄 · 北条義時と愚管抄 · 続きを見る »

承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

北条政子と承久の乱 · 北条義時と承久の乱 · 続きを見る »

承久記

『承久記』(じょうきゅうき)は、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した公武の合戦記である。『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)』『承久兵乱記』(同名異書あり)などとも呼ばれる。保元・平治・平家と続く「四部之合戦書」の最後の戦記物で鎌倉武士が王朝を崩壊に追い込むさまと、封建体制確立の過程をえがいている。作品の評価は完成度の点で高くないとされるが、後鳥羽院の描いた王政復古の夢をやや批判的に首尾一貫した姿勢で書いている。.

北条政子と承久記 · 北条義時と承久記 · 続きを見る »

1180年

記載なし。

1180年と北条政子 · 1180年と北条義時 · 続きを見る »

1182年

記載なし。

1182年と北条政子 · 1182年と北条義時 · 続きを見る »

1185年

記載なし。

1185年と北条政子 · 1185年と北条義時 · 続きを見る »

1189年

記載なし。

1189年と北条政子 · 1189年と北条義時 · 続きを見る »

1190年

記載なし。

1190年と北条政子 · 1190年と北条義時 · 続きを見る »

1192年

記載なし。

1192年と北条政子 · 1192年と北条義時 · 続きを見る »

1199年

記載なし。

1199年と北条政子 · 1199年と北条義時 · 続きを見る »

1203年

記載なし。

1203年と北条政子 · 1203年と北条義時 · 続きを見る »

1204年

記載なし。

1204年と北条政子 · 1204年と北条義時 · 続きを見る »

1205年

記載なし。

1205年と北条政子 · 1205年と北条義時 · 続きを見る »

1219年

記載なし。

1219年と北条政子 · 1219年と北条義時 · 続きを見る »

1221年

記載なし。

1221年と北条政子 · 1221年と北条義時 · 続きを見る »

1224年

記載なし。

1224年と北条政子 · 1224年と北条義時 · 続きを見る »

上記のリストは以下の質問に答えます

北条政子と北条義時の間の比較

北条義時が303を有している北条政子は、231の関係を有しています。 彼らは一般的な93で持っているように、ジャカード指数は17.42%です = 93 / (231 + 303)。

参考文献

この記事では、北条政子と北条義時との関係を示しています。情報が抽出された各記事にアクセスするには、次のURLをご覧ください:

ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »