424 関係: 劉崇、劉知遠、執政、原州区、垂簾聴政、ちょう然、健訟、博多、占城稲、印刷、千載不決の議、南宋、南京市、南唐、南詔、南漢、史学研究会、司馬光、司法、参知政事、吏部、吐蕃、同中書門下平章事、同光、堀敏一、塩、士大夫、売春宿、大宰府、大中祥符、大理国、大観 (宋)、大日本帝国、天、天祚帝、天福 (後晋)、天禧 (宋)、天聖、天成 (後唐)、太学、太宗 (宋)、太平広記、太平御覧、太平興国、太皇太后、太祖 (高麗王)、女真、契丹、娼婦、定安、...、宝元、宣仁皇后、宣和、宣和奉使高麗図経、宮崎市定、宰相、宋 (王朝)、宋銭、寧夏回族自治区、寇準、尚書、尚書令、封禅、小島毅、専売制、山川出版社、山西省、岩波講座世界歴史、岩波書店、崇寧、州、丁謂、不入の権 (日本)、帝国大学、両税法、中国、中書令、主戸客戸制、市、市舶司、三司、三武一宗の法難、九寺、平凡社、平清盛、乾徳 (宋)、乾興 (宋)、交子、康定 (宋)、広州市、広順、五代十国時代、五監、仁宗 (宋)、仏教、令外官、建中靖国、建炎、建隆、弓裔、佐伯富、役、御史台、御史中丞、徳川家康、徽宗、後三国時代、後周、後唐、後高句麗、後蜀 (十国)、後梁、後漢 (五代)、後晋、徒罪、律令、律令制、志丹県、北漢、包拯、僧、ピン音、僕射、ベトナム、判例、刺史、嘉祐、周藤吉之、呉乞買、呉忠市、呉越、呉朝、咸平、ウマ、ウイグル、オルドス、キルギス人、傭兵、セン淵の盟、タングート、哲宗 (宋)、唐、儒教、冊封、冊府元亀、冨山房、内藤湖南、入れ墨、六部、元祐、元符、元豊 (宋)、元豊の改革、勉誠出版、回鶻、国子監、国書刊行会、皇太后、皇女、皇帝、皇祐、知府、知制誥、石重貴、石敬トウ、玄宗 (唐)、王安石、王欽若、王朝、神宗 (宋)、福建省、禅譲、科挙、穀物、章惇、童貫、端拱、筑摩書房、簒奪、紹聖、織田信長、翰林院、真宗 (宋)、省、県、県令、猛安・謀克、絹、経典、経書、熙寧、燕京、燕雲十六州、留置場、白河天皇、花石綱、隋、韓キ、遣唐使、職役、遼、遼河、聖宗 (遼)、荊南、荘園、靖康、靖康の変、青海、顕徳、西夏、親征、観察使、覇州市、詔勅、誠文堂新光社、高宗 (宋)、高麗、講談、講談社、講談社学術文庫、魏晋南北朝時代、谷川道雄、豊臣秀吉、貞明 (五代後梁)、貴族、貴族 (中国)、資治通鑑、鴨緑江、鴻臚館、趙匡胤、趙允譲、路、茶、范仲淹、胥吏、郭威、郭皇后 (宋仁宗)、阿骨打、蘇軾、開宝、開封市、開平、開運 (後晋)、藩鎮、蔡京、重和、至和、至道、金、金 (王朝)、英宗 (宋)、雍熙、雄県、耶律堯骨、耶律大石、耶律阿保機、陝西省、陳橋の変、陶磁器、陸奥国、折杖法、柴宗訓、柴栄、枢密院 (中国)、李存勗、李徳明、李元昊、李綱、李継遷、李朝 (ベトナム)、東丹国、東洋史、東洋文庫 (平凡社)、梅原郁、森克己、楚 (十国)、楊堅、欧陽脩、欽宗、欽聖皇后、死刑、殿試、水墨画、水滸伝、江南、汲古書院、河北省、治平 (宋)、泰山、法律文化社、泉州市、洗衣院、淳化、渤海 (国)、清、清泰、湖南省、湖北省、満州、漢詩、漢語、濮議、濮陽県、朝貢、木宮泰彦、木材、朱全忠、朋党、成尋、戸部 (六部)、明道 (北宋)、春秋戦国時代、流罪、海上の盟、斯波義信、新五代史、新唐書、新羅、新法・旧法の争い、方臘の乱、文苑英華、日宋貿易、日本、旧五代史、政和、敦賀港、慶暦、慶暦の和約、慶暦の党議、慶暦の治、承平天慶の乱、扇子、景徳、景徳鎮市、景祐、1002年、1003年、1004年、1005年、1007年、1008年、1016年、1017年、1021年、1022年、1023年、1031年、1032年、1033年、1034年、1038年、1040年、1041年、1042年、1044年、1048年、1049年、1054年、1056年、1063年、1064年、1067年、1068年、1072年、1077年、1078年、1085年、1086年、1093年、1094年、1098年、1100年、1101年、1102年、1105年、1106年、1107年、1110年、1111年、1115年、1118年、1119年、1120年、1121年、1125年、1126年、1127年、1145年、4世紀、840年、877年、892年、902年、907年、916年、926年、935年、936年、938年、946年、951年、959年、960年、963年、964年、968年、970年、974年、976年、978年、979年、980年、982年、984年、987年、988年、989年、990年、993年、994年、995年、997年、998年、999年。 インデックスを展開 (374 もっと) »
劉崇
劉 崇(りゅう すう)は、十国北漢の初代皇帝。廟号は世祖。劉琠の次男、後漢の高祖劉知遠の弟、劉信の兄。太原の人。.
劉知遠
劉 知遠(りゅう ちえん)は、五代後漢の初代皇帝。廟号は高祖。太原の人。.
執政
執政(しっせい)は.
原州区
原州区(げんしゅう-く)は中華人民共和国寧夏回族自治区固原市に位置する市轄区。.
垂簾聴政
垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。.
ちょう然
奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の僧。俗姓は秦氏。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺の観理に三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、983年(永観元年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、986年(寛和2年)に帰国した。翌987年(寛和3年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、989年(永祚元年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。.
健訟
健訟(けんしょう)は、前近代中国で、訴訟が激しい状態を指す言葉。中国北宋代に生まれ、その言葉は現代日本の裁判判決文にも見られる。 清代の農民は、一生のうちに一度か二度は被告か原告になる計算だと言われるほど、帝政時代の中国農村は訴訟社会であったが、その多くは、不動産をめぐる争いであった。 南宋の裁判記録である『名公書判清明集』には、相続に絡む骨肉の争い、長期にわたる消耗戦的な訴訟など、生なましい光景が見られる。この健訟の背景として、地価高騰と訴訟コストの低減、科挙による法律知識の普及で訴訟介入者が増加したことなどが挙げられる。 Category:裁判 Category:中華人民共和国の歴史.
博多
博多総鎮守櫛田神社 博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市・福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。.
占城稲
占城稲(せんじょうとう、チャンパとう)は、チャンパ王国(現在のベトナム南中部)を原産地とする収穫量の多い早稲で、小粒で細長だが虫害や日照りに強い品種の稲である。「占城(チャンパ)米」の呼称で知られ、宋代の中国で盛んに栽培された。.
印刷
印刷(いんさつ、printing)とは、インキにより、紙などの媒体に文字や絵、写真などの画像を再現することを指し、印刷された物を印刷物という。 現代では2次元の媒体に限らず、車体など3次元の曲面に直接印刷する技術も多数開発されている。印刷がカバーする範囲は極めて広く、気体以外の全ての物体に対して可能であるとされている(ゲル状の物体にすら印刷が可能な技術がある)。.
千載不決の議
千載不決の議(せんざいふけつのぎ)は、北宋の太祖趙匡胤の死と、その死後の弟・太宗趙光義(匡義)による帝位継承をめぐる一連の疑惑のことである。載は千載一遇の熟語における用法と同様、年と同義で、「千年を経ても結論が出ない議論」という意味である。.
南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.
南京市
南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.
南唐
南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は金陵(現在の南京)。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。 十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。文化的・経済的には大いに繁栄していた。.
南詔
8世紀のアジア 南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国。最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を拡大した。.
南漢
南漢(なんかん、909年 - 971年)は、唐滅亡後の五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。.
史学研究会
史学研究会(しがくけんきゅうかい、The Society of Historical Research)は、1908年に創設された、歴史学の学術団体。日本学術会議協力学術研究団体であり、日本学術会議などによる「学会名鑑」にも学会として登録されている。 1908年、京都帝国大学文科大学史学科の教官・学生を中心に創立された。1915年に会誌『史林』を創刊し、1954年以降は年に6号のペースで発行している。 現在は、春に例会(シンポジウム)を、秋に大会(公開講演)を開催している。.
司馬光
司馬 光(しば こう、1019年11月17日(天禧3年10月18日) - 1086年10月11日(元祐元年9月1日))は、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。字は君実。陝州夏県(山西省)の人。号は迂叟。また涑水先生と呼ばれた。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」・「司馬文正公」と呼ばれることも多い。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。.
司法
司法(しほう)とは、実質的意義においては具体的な訴訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用のこと。また、形式的意義においては司法府に属する作用の総称をいう。 司法は行政・立法と並ぶ国家作用の一つであり、司法作用を行う国家の権能を司法権といい、行政権・立法権と対比される。.
参知政事
参知政事(さんちせいじ)は、中国唐代から明代まで存在した官職名。宋代においては宰相職である同中書門下平章事の補佐として執政と呼ばれ、政治の大きな部分を占めた。参政と略される。 唐では中書令・尚書令・門下侍中の三職が宰相職とされていたが、太宗が尚書令に就いていた時期があったために唐代では尚書令は空席とされ、本来は次官である僕射が宰相となり、中書令・尚書令・左右左右僕射の四人が皇帝を前にして宰相会議を開き、政策を決定されることになった。 しかしこれとは別にこれら四人よりも低い位の(主に尚書省の)官僚が皇帝の命により宰相に任じされることがあった。この時に同中書門下平章事や参知政事などの称号を授けられる。 北宋になって中書門下省の長として同中書門下平章事が正式な宰相職となると参知政事は中書門下の副官となり、枢密使などと共に執政と呼ばれ、宰相会議の一員として政治の枢要を占めた。 北宋中期、元豊年間に神宗により元豊の改革が実行される。同中書門下平章事と参知政事は廃止され、代わって尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の二名が宰相に、尚書左丞・尚書右丞の二人が副宰相とされた。 その後、北宋が滅亡して南宋になった後に一時的に同中書門下平章事・参知政事が復活され、最終的に左右丞相が宰相、参知政事が副宰相となった。 元においては中央官庁である中書省の長官である中書令、地方機関である行中書省に参政がおかれた。後の明代に廃止される。.
吏部
吏部(りぶ)は六部の一。文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。 後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。 長官として(吏部尚書)が、次官として侍郎(吏部侍郎)が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に・・・の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官であるとが据えられた。 唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。.
吐蕃
吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.
同中書門下平章事
同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ、どうちゅうしょもんかべんしょうじ)は、中国唐代から元代に存在した官職。当初は臨時の官であったが、後に常設の官となり、北宋代には宰相とされた。同平章事あるいは平章と略される。 元々は同中書門下三品という。唐初には中書令・門下侍中・尚書僕射がそれぞれ宰相職とされていたが、それよりも下の、主に尚書省の官僚が宰相に任じられることがあった。この時、中書令などの本来の宰相職より官品が低いのは不都合が生ずるので、臨時に同中書門下三品を授けて、中書令らと同格の正三品官としたのである。高宗の650年に「同中書門下平章事」と改称され、中書令らと共に正式な宰相職とされた。 中唐以降、本来の宰相職であった中書令・門下侍中・尚書僕射が名誉職化するにつれ、それに代わって同平章事は事実上の宰相職として権限を強めていった。同平章事に任命される者は、中書侍郎(次官)や門下侍郎や六部のいずれかの尚書など、必ず本来の官職との兼任であった。節度使に対しても名誉称号として同平章事が授けられ、更には塩鉄転運使などにも授けられることもあった。 宋代になると唯一の宰相職とされ、通常2~3名が任命された。神宗の元豊の改革の際に同平章事は廃止され、代わって尚書右僕射(中書侍郎を兼任)・尚書左僕射(門下侍郎を兼任)の2人が宰相とされた。南宋になってから一時復活したが、再び廃された。 元代では中書令が宰相とされ、その下にある左右丞相の補佐として平章政事の職が置かれた。またこれとは別に、行中書省長官の丞相の補佐として平章政事が置かれた。 明代になると中書令とともに平章政事は廃され、以後復活することはなかった。.
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同光
同光(どうこう)は、五代の2番目の王朝である後唐において李存勗の治世で用いられた年号。923年4月 - 926年4月。.
堀敏一
堀 敏一(ほり としかず、1924年6月3日- 2007年5月29日)は日本の東洋史学者。明治大学名誉教授、東洋文庫研究員。『世界史の基本法則』の唐代担当、『均田制の研究』など西嶋定生と共に東京学派を代表する研究者として活躍し、退任後は『漢の劉邦-ものがたり漢帝国成立史』など一般向けの著書を多く出した。.
塩
塩の結晶 塩(しお)は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。 日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」(ただし、チリ硝石、カイニット、シルビニットその他財務省令で定める鉱物を除く)と定義される(塩事業法2条1項)。.
士大夫
士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。.
売春宿
売春宿(ばいしゅんやど)とは、売買春の場を提供する娯楽施設。往々にして直接的な売春の斡旋をも行う。宿泊が基本だが、短時間の滞在もある。 現在の日本では売春は違法だが、宿泊をしない類似の娯楽施設としてソープランドなどがある。形式上は合法となっている売春類似の風俗においては、ソープランドの銭湯、飛田新地の料亭など風俗以外の営業を名目において、ソープランドの三助、飛田新地などの料亭の仲居などサービス提供者の女性と、店内に入るとたちまち恋愛関係に陥ってしまう自由恋愛の範疇という論理で脱法的に営業している。.
大宰府
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.
大中祥符
大中祥符(たいちゅうしょうふ)は、宋の真宗趙恒の治世に行われた3番目の年号。1008年 - 1016年。.
大理国
大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.
大観 (宋)
大観(だいかん)は、中国・北宋の徽宗の治世で用いられた元号。1107年 - 1110年。.
大日本帝国
大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、大日本帝國)は、日本国の国号の一つ。江戸時代末期に外交文書に使用され始め、1946年頃まで公式に使用された。なお、「大日本帝国」と定めた法律は存在しないため、日本の通称または大日本帝国憲法下の日本の通称の一つとして扱われる。 一般には1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時に憲法典の名称として使用されたことから権威づけられ、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつとされる。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太・千島列島・朝鮮半島・台湾・澎湖列島・新南群島などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。 以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。.
天
天(Tiān、てん、あま)は、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。.
天祚帝
天祚帝(てんそてい)は、遼の第9代(最後)の皇帝。.
天福 (後晋)
天福(てんふく)は、五代の後晋の高祖石敬瑭、及び後漢の高祖劉知遠の治世で用いられた元号。936年 - 944年及び947年。.
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天禧 (宋)
天禧(てんき)は、北宋の真宗趙恒の治世に行われた4番目の年号。1017年 - 1021年。.
天聖
天聖(てんせい)は、北宋の仁宗趙禎の治世に行われた最初の年号。1023年 - 1032年。.
天成 (後唐)
天成(てんせい)は、五代の第2の王朝である後唐において李嗣源の治世で用いられた元号。926年4月 - 930年2月。.
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太学
太学(たいがく)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。.
太宗 (宋)
太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。.
太平広記
『太平広記』(たいへいこうき)は、北宋時代に成立した類書のひとつ。『太平御覧』、『文苑英華』、『冊府元亀』とあわせて四大書と称せられる。太宗の勅命を奉じて李昉ら12名が太平興国2年(977年)から翌3年(978年)にかけて編纂したもので、全500巻、目録10巻。.
太平御覧
『太平御覧』(たいへいぎょらん )は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国2-8年)頃に成立した。.
太平興国
太平興国(たいへいこうこく)は、宋の太宗趙炅の治世に行われた最初の年号。976 - 984年。.
太皇太后
太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.
太祖 (高麗王)
太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。.
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女真
女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.
契丹
宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.
娼婦
娼婦(しょうふ、Prostitute)は、性的サービスを提供することによって金銭を得る女性を指す。同義語は「売春婦」「売笑婦」。害意を含んだ呼称に「淫売婦」「醜業婦」など多数ある。古くは「遊女」。また街角で客待ちをする娼婦を「街娼」(俗に「たちんぼ」)という。.
定安
定安(ていあん)は渤海の貴族、烈万華が渤海遺民を結集して建国した国(938年 - 1003年)。独自の年号を有した。.
宝元
宝元(ほうげん)は、中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1038年 - 1040年。.
宣仁皇后
宣仁皇后高氏 宣仁皇后(せんじんこうごう、1032年 - 1093年)は、北宋の英宗の皇后。1085年から1093年までの間、太皇太后として臨朝称制した。姓は高氏、幼名は滔滔(とうとう)。宣仁太后とも呼ばれた。.
宣和
宣和(せんわ、せんな)は、中国・北宋代徽宗の治世で用いられた元号。1119年 - 1125年。.
宣和奉使高麗図経
『宣和奉使高麗図経』(せんなほうしこうらいずきょう、朝鮮語:선화봉사고려도경、略称『高麗図経』)とは、中国宋王朝のが編纂した朝鮮半島の高麗の史書。全四十卷。徽宗の宣和年間に徐兢は高麗に使節として派遣された。高麗の国都開城に数ヶ月滞在し中国帰国後、見聞した内容をこの書にまとめ、皇帝に献呈した。書には高麗の歴史、政治制度、社会の状況が記載されており、研究上当時の朝鮮半島史の重要史料である。.
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宮崎市定
宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。.
宰相
この項では宰相(さいしょう)について記述する。.
宋 (王朝)
宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.
宋銭
北宋銭 北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他) 宋銭(そうせん)は、中国・宋代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造されたが、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。.
寧夏回族自治区
寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)は、中華人民共和国西北部に位置する自治区である。ニンシヤホイ族自治区とも呼ばれる。首府は銀川市。.
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寇準
寇 準(こう じゅん、961年 - 1023年10月24日)は、北宋の大臣。字は平仲。諡は忠愍。萊公と敬称される。華州下邽県(現在の陝西省渭南市)の人。.
尚書
尚書(しょうしょ)。.
尚書令
尚書令(しょうしょれい)とは、前近代中国の官職で、尚書台、およびその後身である尚書省の長官である。 古くは単に尚書と呼ばれ、秦・漢において宮中に詰め、皇帝の文書の管理をつかさどる秘書官の役であったが、後漢以後は、光武帝の親政にともなって、権力の中枢を担う実権を握り、独自の官衙である尚書台を従えるようになった。『漢官儀』では、上奏事を掌り、綱紀を統括し、一切を取り仕切る職掌を有していた、とし、司隷校尉・御史中丞とともに「三独座」と称される顕官となった。 その後、魏晋南北朝時代を通じて詔勅の起草をつかさどる中書令とともに地位を向上させ、部と呼ばれる実務執行機関を従えるようになった(北周を除く)。その官品も上昇の一途をたどり、魏より南斉の間は第三品、梁代には第十六班、陳では第一品に至った。一方、北朝では、北魏・北斉で正二品であった。隋・唐代も北朝のそれを踏襲し、正二品。但し、隋代では、宰相相当の官である内史や納言より官品が上となったため、ほぼ空位で推移した。 唐では尚書令を長とする尚書省は、中書省から発せられた詔勅に基づいて政務を配下の六部によって執行する実務行政の最高官庁となり、尚書令は宰相としての地位を確立した。しかし、唐の第2代太宗となる李世民が皇子であったときにこの官職を務めていたことから、唐一代を通じて皇太子のみが任ぜられ得る空官となり、本来は次官である左右2名の僕射がかわって宰相の座に就く。尚書令は、龍朔3年(663年)に廃止された。 唐末から北宋にかけては尚書省が形骸化したことから、北宋では尚書令は唐制にのっとって官名はあっても実際には任命者のいない官職となった。南進して宋を南遷させた金ではふたたび尚書省が国政の中心的な機関となった上、中書省の機能も尚書省に集約されたため尚書令は王族などの有力者が任じられる首席宰相のポストであった。しかし、続く元では金の尚書省にあたる機関に中書省の名が与えられたため、尚書令の官名は消滅した。.
封禅
封禅(ほうぜん)とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式である。 始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。.
小島毅
小島 毅(こじま つよし、1962年5月 - )は、日本の思想史家、東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は中国思想史。 群馬県多野郡新町(現・高崎市)生まれ。1981年麻布高等学校卒業。1985年東京大学文学部中国哲学専修卒業、1987年同大学院修士課程修了、同東洋文化研究所助手、1992年徳島大学講師、1994年助教授、1996年東大人文社会系研究科助教授、2007年准教授。2012年教授。 儒教史、陽明学、東アジア王権論などを研究する。 上杉謙信に仕えた戦国武将・小島弥太郎の子孫を自称している。 麻布中学・高校の同級生に、脚本家の戸田山雅司がいる。.
専売制
専売制(せんばいせい, Government monopoly)とは、国家などが財政収入を増加させるために、特定物資の生産・流通・販売などを全面的に管理下に置いて、そこから発生する利益を独占する制度。品質保証、安全管理、公衆衛生上の意味合いもある。 専売制を導入するためには対象となる消費物資の生産・流通が集中的である必要がある。例えば、特定の地域でしか生産が出来ず生産地域及び生産者が限定的であることが重要である(生産地も全国的に拡散しているよりも産地が限定されていた方が生産・流通の把握の面で望ましい)。また、消費物資に対する需要が恒常的・普遍的に高いことも重要であり、「生活必需品」であればなお望ましいと言える。専売制の対象となるケースになりやすい塩や酒、煙草などはその条件に近い場合が多く、逆に耕作地が全国的に広がっており大量生産されている穀物類の専売は実例はあるものの多くはない。 また、専売の対象が域内であるか域外であるかも、重要な要素となる。域内の人民に対して租税の代わりとして専売を行う方法と域外の市場に対して独占的に販売する専売が考えられる。生産に対する姿勢は両者の場合で異なり、前者においては生産も統制される場合があるが、後者においてはやや緩やかで生産奨励策が合わせて行われる場合もある。.
山川出版社
山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.
山西省
山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.
岩波講座世界歴史
岩波講座世界歴史(いわなみこうざせかいれきし)は、岩波書店から刊行された歴史学(世界史)に関する叢書。原始・古代から現代にいたる世界の全歴史をカバーし、岩波講座シリーズの一つをなしている。これまでに同名のシリーズが2回刊行されている。.
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岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
崇寧
崇寧(すうねい)は、中国・北宋の徽宗の治世で用いられた元号。1102年 - 1106年。.
州
州・洲(しゅう、す、しま、くに)。.
丁謂
丁 謂(てい い 966年 - 1037年)は中国北宋初期の政治家・文人。字は初め謂之、後に公言と改める。蘇州長洲の人。真宗の晩年に皇后劉氏と結んで実権を掌握、寇準を失脚させた。.
不入の権 (日本)
日本における不入の権(ふにゅうのけん)とは、中世にアジールが外部権力の権力行使を拒否することができるとされた権利のことである。「不入権」には、外部権力の使者の立ち入りを拒否することができる「不入権」のほか、警察権・司法権の行使を拒否することができる「検断不入権」、租税を拒否することができる「不輸権」などがあった。.
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帝国大学
帝国大学(ていこくだいがく、旧字体:帝國大學)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関(大学)である。内地に7校(七帝大:北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)、外地に2校(京城、台北)が設置された。 この項目では、戦前における旧制教育機関の一種別としての帝国大学に加え、現行の新制大学における「大学群」の一種として、旧・内地にあたる日本国内で用いられる「旧帝国大学」(旧七帝大)についても扱う。.
両税法
両税法(りょうぜいほう)は、中国に於いて唐中期から明中期まで行われた税制のことである。夏と秋の二回徴税されるのでこの名前がある。均田制・租庸調制に代わって施行された。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中書令
中書令(ちゅうしょれい)は、中国の漢代から明代にかけて存在した官職名。 漢代の中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長であり宦官が就任し、宦官となった司馬遷も就任した。宣帝以降側近として重用され、中書令の弘恭や石顕が権力を握った。しかし成帝の時に廃止された。 その後、魏の文帝の時代に復活し、宦官ではない皇帝の側近が就任した(孫資、李豊など)。さらに、中書令の役所である中書省が創設された。当初、中書省の長官は中書監といわれ、中書令はその次官であった。西晋期の官吏目録に中書監に荀勗、中書令に和嶠という記録がある。 隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。 宋代になると名誉職となっていたが、元代には名前だけを流用されて行政の最高職になった。その後、皇帝独裁を目指す明の洪武帝によって廃止された。 Category:中国の官名.
主戸客戸制
主戸客戸制は、唐後半期における両税法の成立に伴って創設された戸籍分類法。主客戸制とも。地主佃戸制を社会経済史上の実体概念とすれば、主戸客戸制はその制度概念に位置づけられる。宋の滅亡とともに消滅した。.
市
市(し)は、行政区分のひとつで、通常は人口が多く密集した自治体にあてられる。大密集地のために特別区など市と別の区分を設けることもある。 行政上の区分としてあるかどうかに関わらず、人口密集地をより一般的にとらえる場合には、都市ということが比較的多い。.
市舶司
市舶司(しはくし)は、中国において唐代から明代の間設置された、海上貿易関係の事務を所管する官署のこと。 唐代玄宗の開元2年(714年)に貿易港として栄えていた広州に設置されたのが始まりで、市舶使や押蕃舶使などを長とし、刺史や節度使が兼任することもあった。宋代に入って南海貿易が発展すると、それに伴って制度の改革整備が進み、広州に加えて泉州や明州(現在の寧波)などにも置かれるようになった。 職務は内外商人の出入国の手続きや保護・取り締まり、貨物の検査、徴税、禁制品の取り締まり、官買品の買い上げ、外国使節の接待など、非常に広範なものであった。 元代には市舶提挙司と呼ばれ、明代にも広州、泉州、寧波に市舶提挙司が置かれた。ただ、明は朝貢制度をとり、一方で倭寇を防ぐ意味もあって外国人との貿易や海外渡航を禁止する海禁政策を採っていた。そのために市舶司の貿易に果たす役割は小さくなり、貿易の多くは密貿易によって行われていた。清代にも初期には市舶司が置かれていたが、1685年に海関が設置されると海関に機能を統合、市舶司は廃止される。.
三司
三司(さんし)は、中国五代十国時代から北宋代にかけて財政を担当した部署である。 唐の律令制下において財政を司るのは尚書戸部であり、その下の部署として戸部曹と度支曹があり、戸部曹は土地・戸口・賦役を、度支曹は財政支出を担当した。玄宗以降の財政難に対応するために、律令にはない新たな使職である度支使と、塩・鉄の専売制を司る塩鉄使が設けられ、戸部曹・度支使・塩鉄使の三者が財政を司ることになった。 この三者を統括する存在として、後唐の長興元年(930年)に三司使が設けられ、財政の最高職とされた。この体制が北宋においても引き継がれ、三司使は宰相・執政に次ぐ重職とされて「計相」とも呼ばれた。三司には長官に三司使、副長官に副三司使。その下に前述の戸部・度支部・塩鉄部があり、それぞれ長として副使1人ずつとそれを補佐する判官が3人ずつ置かれる。 財政機構に対しては当然監察・監督が必要になるのであるが、監察機関たる御史台には財政に対する能力が乏しく、三司の監察は三司の手で行うところとなった。元々各部ごとに会計監査が行われており、それを行うのが勾院である。それが後に、三部を総合的に監査する磨勘司と三部の帳簿を保管する帳司が設けられた。更にこれら三者を統合して勾磨勘司とし、会計監査を一本化した。 この他にも、取り立てを行う理欠司・三司の官吏の不正を取り締まる推勘司、三司が行う業務の労働者名簿を管理する兵案など、多くの部署がある。このように三司は、農業・商業・収税から労働者の手配などの細かい事務まで、財政に関することは全て行う非常に巨大な機構となっており、宰相も口出しすることが出来なかった。 この状態に王安石は、1069年に制置三司条例司という新たな部署を作り、三司の権限を他の部署に移していき、最終的に三司は財政関連の文書を取り扱う部署とした。更に王安石退陣後の元豊の改革の時にこれも戸部に吸収させ、三司は消滅した。.
三武一宗の法難
三武一宗の法難(さんぶ いっそう の ほうなん 中国語:三武之禍、拼音: sān wǔ zhī huò)とは、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。.
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九寺
九寺(きゅうじ)は、秦漢から宋元の頃まで、中国の官制において中央政府の事務執行機関として存在した9つの部局のことである。.
平凡社
株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.
平清盛
平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.
乾徳 (宋)
乾徳(けんとく)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた2番目の元号。963年 - 968年。.
乾興 (宋)
乾興(けんこう)は、宋の真宗趙恒の治世に行われた5番目の年号。1022年。.
交子
交子(こうし)とは中国北宋代に四川地方で発行された紙幣。世界史上初の紙幣とされる。 額面77000銭の交子。.
康定 (宋)
康定(こうてい)は、中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1040年 - 1041年。.
広州市
広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.
広順
広順(こうじゅん)は、五代の最後の王朝である後周において郭威の治世で用いられた元号。951年 - 953年。.
五代十国時代
五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.
五監
五監(ごげん)は、前近代の中国の官制において、中央政府の事務執行機関として存在した5つの部局のことである。 秦・漢の時代から歴史的に形成されてきたもので、九卿・九寺と並ぶ執務機関であった。のちに九寺と同様に、機能が尚書省の六部やその他の新設の官庁に奪われて形骸化し、国子監を残して消滅した。.
仁宗 (宋)
仁宗(じんそう)は、北宋の第4代皇帝(在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日)。 1022年、父真宗の崩御に伴い即位した。英邁な資質を持った皇帝とされ、富弼や文彦博をはじめとする人材を多く登用した。 当時は文治主義に偏重して軍事力が弱体化しており、西夏などの圧迫を受けるなど、対外的には危機的な状況が続いていた。仁宗は宋の常備軍の強化などの軍事力の増強を行なう一方で、西夏や遼に対しては銀をはじめとする貢物を贈ることで友好関係を維持する外交を展開した。しかしこの財源を確保すべく、重い賦税を民衆に強いることとなり、農村の荒廃と民衆叛乱を引き起こしている。 不安が高まる社会を改革すべく、改革を求める党派も出現し、後の新法・旧法の争いに代表される権力闘争の原型を形成した時代でもある。 1063年、嗣子が無いまま病死し、従甥にあたる英宗が帝位を継いだ。 仁宗の治世の時代は、慶暦の治と称されている。.
仏教
仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.
令外官
令外官(りょうげのかん)とは、律令の令制に規定のない新設の官職。令外官が管掌する官司を令外官司(りょうげのかんし)と称する場合もある。 現実的な政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれた。中国ではじまり、8世紀前期~中期に令外官が多数新設された。日本では、8世紀末の桓武期の改革の際に多くの令外官が置かれ、その後も現実に対応するため、いくつかの令外官が設置されていった。.
建中靖国
建中靖国(けんちゅうせいこく)は、中国・北宋の徽宗の治世で用いられた元号。1101年。.
建炎
建炎(けんえん)は中国・南宋代高宗の治世で用いられた元号。1127年 - 1130年。.
建隆
建隆(けんりゅう)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた、宋朝最初の元号。960年 - 963年。。.
弓裔
弓裔(きゅうえい)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。姓は金、僧号は善宗。隻眼であったことから一目大王との別称もある。 専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。.
佐伯富
佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年7月5日)は、日本の東洋史学者。専門は、宋代より清代にいたる中国近世史。文学博士。京都大学名誉教授。.
役
役(やく).
御史台
御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.
御史中丞
御史中丞(ぎょしちゅうじょう)は、中国の前漢以降の官職名。 前漢においては、御史大夫の二人の丞(副官)のうちの一人(秩千石)であるが、御史中丞は殿中の蘭台におり、図籍秘書を掌り、刺史を監督し、侍御史を統率した。公卿の上奏を受領し、内容を調べて弾劾した。 成帝の綏和元年(前8年)に御史大夫を大司空と改称すると、御史中丞に代わって御史長史を置いて同じ仕事をさせた。哀帝の建平2年(前5年)に御史大夫が復活すると御史中丞に戻り、元寿2年(前1年)にまた大司空に改称されると、また御史中丞を御史長史とした。 後漢では司空から独立して少府に属したが、御史中丞は御史台の長となった。下には治書侍御史2名(秩六百石)、侍御史15名(秩六百石)がいた。非法の監察弾劾を行い、公卿の上奏文を受領し文書の違反を弾劾した。 光武帝は詔を出し、朝廷の集会の際に御史中丞、司隸校尉、尚書令は単独の席に座ることとし、都ではこの三つの官を「三独座」と呼んだ(『後漢書』宣秉伝)。 三国時代の各国においても引き続き御史中丞の官が設けられた。なお、諸葛亮を劉備に推挙した人物で後に曹操に仕えた徐庶が晩年この官についており、諸葛亮は「徐庶がその程度にしか用いられていないのは魏はよほど人物が多いのか」と慨嘆したという。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徽宗
徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。 書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、水滸伝のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。.
後三国時代
後三国時代(ごさんごくじだい、892年 - 936年)は、朝鮮史の時代区分の一つ。892年に農民の甄萱が挙兵し、新羅王族の弓裔が泰封を建国することによって弱体化していた新羅が分裂してから、936年に高麗が朝鮮半島を再統一するまでの期間を言う。.
後周
後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単に周であるが、古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。.
後唐
後唐(こうとう、923年愛宕他 (1997)、p.15 - 936年愛宕他 (1997)、p.16)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は洛陽。.
後高句麗
後高句麗(ごこうくり/こうこくくり、899年 - 918年)は、後三国時代、新羅で叛乱を起こした弓裔が901年に高句麗の復興を唱えて、国号を高句麗と定めたことにちなむが、挙兵から滅亡までの弓裔政権全体を指すことが多い。 弓裔は、899年の挙兵当時、自分が新羅第48代景文王の庶子であることを自称し、901年には、開城に遷都して国号を高句麗と定めた。904年には正式な国号を摩震(摩訶震旦の略)に改め、年号を武泰と定めて国家体制を整備する。更に905年には鉄円(江原道鉄原郡)に遷都し、911年には国号を泰封に改め、年号を水徳万歳と定めた。 後高句麗は、独自の年号や官制を定めるなどし、新羅や後百済に対して優勢を占めており、弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとしたが、しだいに暴君化して部下の反発を買うようになり、918年に最も有力な部下であった王建の革命により王位を奪われて逃亡中に殺された。後高句麗は消滅したが、王建が名づけた国号「高麗」は高句麗の別称であり(正式名称ともいう)、高麗は高句麗の再興を目指す後高句麗の後継国家と言える。ただし、矢木毅は、王建は朝鮮を統一するためには女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために高句麗の継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる。.
後蜀 (十国)
後蜀(こうしょく 934年 - 965年)は、中国五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。四川の豊かな財物を背景に文化の華を開かせた。.
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後梁
後梁 後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した。都は汴州。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。.
後漢 (五代)
後漢(こうかん)は、中国五代十国時代の王朝(947年愛宕他 (1997)、p.23 - 950年愛宕他 (1997)、pp.23-24.
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後晋
後晋 後晋(こうしん 936年愛宕他 (1997)、pp.17-18 - 946年愛宕他 (1997)、p.19)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は開封愛宕他 (1997)、p.18。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である愛宕他 (1997)、pp.17,70。.
徒罪
徒罪(ずざい・徒刑(ずけい))とは、律令法の五刑の一つ。3番目に重い刑罰である。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑である。日本の大宝律令・養老律令では、単に「徒」と記されている。 日本では五刑の中で唯一律令制の確立とともに導入された刑で『日本書紀』の676年の条に初めて登場している。期間は1年から3年まで半年単位ごとに5段階に分けられていたが、私鋳銭製造の罪の場合は例外として終身に及ぶ事があった。 畿内の受刑者は都の造営や清掃業務に宛がわれ、女性の場合は裁縫や精米などを行い、弾正台が労役の実施状況を確認した。地方の場合にもこれに準じた措置が取られていた。受刑者には10日に1日の休暇が与えられていたが、その期間の食糧は原則自弁であった。また、病気の際には労役を猶予されたが、回復後に猶予期間分の刑期を延長された。なお、受刑者以外に働き手がいない家庭や受刑者が賎民身分の場合には杖刑によって代わりとすることもあったという。 その後、社会の荒廃や戦乱の影響によってこうした刑罰は廃れていたが、江戸時代中期の熊本藩で施行された刑法草書において、明や清の律令法の影響によって再び「徒刑」が導入されて以後、諸藩の法令にも導入されるようになっていった。 Category:中国の刑罰史 Category:日本の刑罰史 Category:日本の律令制 Category:自由刑 Category:日本の労働.
律令
律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。日本統治下の台湾において台湾総督が法律に代わるものとして制定した律令については律令(日本統治下の台湾法制)を参照。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
志丹県
志丹県(したん-けん)は中華人民共和国陝西省延安市西北部に位置する県。かつては保安県という名称だったが、同県出身の劉志丹が1936年に戦死し、彼の業績を称えて改称された。志丹県のような「革命烈士」にちなむ地名には他に子長県、子洲県、左権県、黄驊市、靖宇県、尚志市がある。.
北漢
北漢(ほくかん、951年 - 979年)は、中国の五代十国時代に山西省北部を支配した国。十国の一つ。都は太原。.
包拯
包拯像 包拯の墓入口(合肥市) 包拯の墓 包拯の祠の彫像 包拯に扮した京劇役者 包拯(ほうじょう、ほうしょう、999年 - 1062年)は、中国・北宋の政治家。廬州合肥(安徽省)の出身。字は希仁、諡は孝粛である。包公、包待制、包青天とも呼ばれ、中華圏では子供から老人まで、あらゆる世代に知られた人物である。.
僧
僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.
ピン音
(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.
僕射
僕射(ぼくや)は、中国の官名。戦国時代には各政府機関のほとんどが設置した次官であった。漢以後、僕射という名称は尚書令の次官である尚書僕射にしか使われなくなる。 隋・唐・五代・宋・金・遼では、皇帝が尚書令に就任したため、尚書僕射が尚書省の実質的長官になる。そしてこの時代、尚書僕射は宰相とほぼ同意に使われた。 日本でも左大臣右大臣の唐名として用いられた。大坂冬の陣直前の方広寺鐘銘事件では幕府側の林羅山が「『右僕射源朝臣』は『源朝臣(徳川家康)を射る』という意味だ」と因縁を付けている。 Category:中国の官名.
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
判例
判例(はんれい)とは、.
刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.
嘉祐
嘉祐(かゆう)は中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1056年 - 1063年。.
周藤吉之
周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 1990年1月21日)は、中国史学者、東京大学名誉教授。 東京帝国大学卒。宋代史の専門家で東京大学東洋文化研究所教授を務め、1956年「中国土地制度史研究」で日本学士院賞受賞、1957年文学部東洋史学科教授、1967年定年退官。.
呉乞買
呉乞買(うきつばい、女真音:ウキマイ)は、金の第2代皇帝。劾里鉢の第4子で、太祖阿骨打の同母弟。長兄に烏雅束(ウヤス)、伯父に劾者(ヘテェ、劾里鉢の長兄、烏古廼の庶長子)、高宗・完顔盈歌(インコ)は季父(末の叔父)に当たるという。嫡男の阿魯(アル、中国名は宗磐・宗本)ら数名の息子がいる。.
呉忠市
呉忠市(ごちゅうし)は中華人民共和国の寧夏回族自治区に位置する地級市。.
呉越
923年頃の勢力地図。ピンクが呉越 呉越(ごえつ 907年 - 978年)は中国・五代十国時代に現在の杭州を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。.
呉朝
呉朝(ごちょう、、939年 - 968年)は、現在のベトナム北部を支配した王朝。首都は古螺(コロア、現在のハノイ市ドンアイン県)。 ベトナムで編纂された史書『大越史記全書』では、建国者の呉権(ゴ・クエン)は前呉王、呉権の息子である呉昌岌(ゴー・スオン・ガプ)と呉昌文(ゴー・スオン・ヴァン)の2人は後呉王と称されている杉本「呉朝」『アジア歴史事典』3巻収録。.
咸平
咸平(かんぺい)は、北宋の真宗趙恒の治世に行われた最初の年号。998年 - 1003年。.
ウマ
ウマ(馬)は、ウマ目(奇蹄目)のウマ科に属する動物の総称である。現生は、いずれもウマ科に属するウマ、シマウマ、ロバの仲間、5亜属9種のみである。狭義の「ウマ」は、このうち特に種としてのウマつまり学名で「Equus caballus」) と呼ばれるもののみを指す。 社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパンが家畜化したという説もある。 古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる。 競走用のサラブレッドは、最高87km/hを出すことができる。 学名は「Equus caballus(エクゥウス・カバッルス)」。「equus」も「caballus」ともにラテン語で「馬」の意。.
ウイグル
ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.
オルドス
ルドス(、ラテン文字表記:Ordos、、中国語:鄂爾多斯 Èěrduōsī)は、近世以降にあらわれるモンゴル遊牧民の部族集団。この集団が明代以降、中国の黄河屈曲部(「河套」)に居住したことからこの地域は現在オルドス高原と呼ばれ、内モンゴル自治区のオルドス市が置かれている。 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。.
キルギス人
ルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。.
傭兵
イス人傭兵達の記念碑である。国土の大半が山岳地帯であるため、農業や産業が育たない貧しい国だったスイスを支えていたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵派遣であった。 傭兵(ようへい、mercenary)は、金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である。 「傭」という漢字が常用漢字および新聞漢字表に含まれないため、一部の新聞等の報道では「雇い兵」と表記される。 傭兵は現代でも存在しており、民間軍事会社のような新しい形態の傭兵も登場している。.
セン淵の盟
澶淵の盟(せんえんのめい、澶は氵に亶)は、1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。 この時期に、当事国の一方の国号が「遼」と「契丹」との間で何度か入れ替わるが、この記事中では全て「遼」で統一する。.
タングート
タングート(Tangut)は、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部・青海省などに存在したチベット系民族である。 11世紀初めに西夏を建てた。中国語表記では党項。日本語ではタンガットという記法も散見される。同じくタングート族、タングート人とも。また。タングートの前身は羌である。 同時に、中国語表記で唐兀とも表記され、モンゴル化したテュルク民族とする説もある宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(2002年、刀水書房)137ページ、ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、平凡社)309-311ページ(ただし、311ページでは「タングートは実はチベット系である」と記述されている)。。.
哲宗 (宋)
哲宗(てつそう)は、北宋の第7代皇帝で、神宗の第6子。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
儒教
儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.
冊封
冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.
冊府元亀
『冊府元亀』(さっぷげんき)は、中国の北宋時代に成立した類書のひとつ。『太平広記』、『太平御覧』、『文苑英華』とあわせて四大書と称せられる。.
冨山房
有限会社冨山房(ふざんぼう)は1886年(明治19年)に設立された、日本の出版社。戦前は博文館とともに大手出版社の1つだった。.
内藤湖南
内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.
入れ墨
筋彫り グレッグ・ジェイムズ) 宗教画をモチーフにした入れ墨。ロシア 三社祭 入れ墨(いれずみ)とは、針・刃物・骨片などで皮膚に傷をつけ、その傷に墨汁・朱・酸化鉄などの色素を入れ着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法、および、その手法を使って描かれたものである。.
六部
六部(りくぶ、ろくぶ).
元祐
元祐(げんゆう)は中国・北宋の哲宗の治世で用いられた元号。1086年 - 1094年。.
元符
元符(げんぷ)は、中国・北宋の哲宗の治世で用いられた元号。1098年 - 1100年。.
元豊 (宋)
元豊(げんほう)は中国・北宋の神宗の治世で用いられた元号。1078年 - 1085年。.
元豊の改革
元豊の改革(げんぽうのかいかく)は、中国北宋の神宗代の元豊年間に行われた大規模な官制改革。.
勉誠出版
勉誠出版(べんせいしゅっぱん)は日本の出版社。1967年(昭和42年)設立。主に文学、時事・社会問題の分野の出版を手掛けている。当初は勉誠社と呼称していた。 文学の分野では、事・辞典や研究書その他の一般書を出版している。代表的な出版物は世界児童・青少年文学情報大事典、宮沢賢治事典、太宰治事典、菅原道真事典、太平記、チェスター・ビーティー・ライブラリーなど。 また、時事、社会問題の分野では、通説的な視点とは別の視点で問題を取り扱う出版物が多い。代表的な出版物は、精神医療の静かな革命-向精神薬の光と影、図書館経営論、グローバル化時代の日本人など。 2004年(平成16年)4月10日には、季刊誌「GYROS(ジャイロス)」が創刊され、「一神教の功罪」(第1号)、「子どもの反乱」(第2号)、「国文学の死と再生」(第3号)、「沖縄の苦悩」(第5号)、「今に続く明治の光と影」(第11号)、「治安崩壊」(第12号)といった問題が取り上げられている。 1999年2月新免康編「越境する新疆・ウイグル」より刊行が始まった『アジア遊学』は、2015年現在180号以上まで続き、アジアの文化・歴史・社会その他に関するユニークな論文集のシリーズとなっている。.
回鶻
回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.
国子監
北京国子監辟雍殿 国子監(こくしかん)とは、中国における隋代以降、近代以前の最高学府。各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられた。明代には南京と北京の二都に設けられた。.
国書刊行会
株式会社国書刊行会(こくしょかんこうかい、Kokushokankokai Inc.)は、東京都板橋区に本社を置く日本の出版社。1971年設立。.
皇太后
皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.
皇女
皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)とは、天皇または皇帝の女子(娘)を指す。日本においては、内親王号が成立する以前に存在した女性皇族の身位でもある。これに対して男子(息子)を皇子という。.
皇帝
皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.
皇祐
皇祐(こうゆう)は中国・北宋代仁宗の治世で用いられた元号。1049年 - 1054年。.
知府
知府 (ちふ)は中国の過去の官職名である。地方行政区画である「府」の長官として唐代に成立し、時代とともに相対的な地位・職掌こそ変わるが清朝に至るまで府の地方行政を担当した。宋朝以前は知府事と称し、知府と称するようになったのは明代以降の事である。古い言い方を好む士大夫層は知府を太守と呼んだ。.
知制誥
知制誥(ちせいこう)は、古代から明代に至る中国の官職名。制・誥をつかさどる者の意。.
石重貴
石 重貴(せき じゅうき)は、五代後晋の第2代皇帝。.
石敬トウ
石 敬瑭(せき けいとう)は、五代後晋の初代皇帝。廟号は高祖。祖先は沙陀より太原に移住したと言われている。石氏はタシュケントを出自とするいわゆるソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長李克用の率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命されている。.
玄宗 (唐)
宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.
王安石
'''王安石'''像 王 安石(おう あんせき、、天禧5年11月12日(1021年12月18日) - 元祐元年4月6日(1086年5月21日))は、北宋の政治家・詩人・文章家。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党の領袖。神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、仁宗に上奏した「万言書」は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。.
王欽若
王 欽若(おう きんじゃく 962年 - 1025年)は中国北宋初期の政治家。字は定国。諡は文穆。臨江軍新喩(現江西省新余市)の人。真宗の元で執政となり、澶淵の盟に於いては南遷論を唱えて宰相の寇準と対立した。また『冊府元亀』の編纂を主導したことでも知られる。 992年(淳化三年)の進士。まず亳州(現安徽省亳州市)の防禦推官防禦使の属官。防禦使は藩鎮の司令官の一種で節度使よりも格下。となり、秘書省秘書部・西川安撫使などを経て1001年(咸平四年)に参知政事(執政。副宰相)となった。 1004年、北の遼(契丹)の聖宗と摂政承天太后が親征軍を以て南下してきた。朝廷ではこれに対してどうあたるかが協議され、王欽若は金陵(南京)遷都を提案したが、同平章事(宰相)の寇準は真宗の親征を主張し、これが容れられて遼との間で和約を結ぶに至った(澶淵の盟)。 自らの面目をつぶされた王欽若は真宗に対して「澶淵の盟は城下の盟首都のすぐそばまで迫られて結ばされる屈辱的な盟約のこと」と説いて寇準を失脚させる。1008年(大中祥符元年)に天書という天からの手紙と称する物が見つかり、これに乗じて真宗に封禅の儀を行わせた。同年より『冊府元亀』の編纂を勅命により開始し、全1000巻を1013年(大中祥符六年)に完成させる。 1017年(天禧元年)に同平章事となり、1019年(天禧三年)には皇太子(後の仁宗)の師となるが、丁謂により失脚させられる。1023年(天聖元年)再び宰相に返り咲き、1025年(天聖三年)に死去。文穆の諡と太師・中書令の職を送られた。 後世、寇準に対する讒言や封禅に使った莫大な財貨は強く批判された。寇準との争いは江南出身の王欽若と華北出身の寇準との争いであるという見方もあり、王欽若は宋開国以来、その経済力に比べて政治的には不遇であった南人官僚の進出の嚆矢という考えも出来る。.
王朝
王朝(おうちょう、Dynasty)とは歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀 に由来する。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。.
神宗 (宋)
宗(しんそう)は、北宋の第6代皇帝。.
福建省
福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.
禅譲
禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.
科挙
科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.
穀物
小麦畑。フランスで撮影。 イネの穂。 ハンガリーで撮影されたトウモロコシ。 カトマンズで売られている様々な豆類。 穀物(こくもつ)は、植物から得られる食材の総称の1つで、澱粉質を主体とする種子を食用とするもの。農学・経済学・人類学にの分野では、糧食(りょうしょく)と呼ばれる場合ある。 イネ科作物の種子を禾穀類(かこくるい、Cereals、シリアル)日本作物学会編『作物学用語事典』農山漁村文化協会 p.241 2010年といい、マメ科作物の種子を菽穀類(しゅこくるい、Pulses)という。そして、穀物は狭義にはイネ科作物の種子(禾穀類)のみを指し、広義にはこれにマメ科作物の種子(菽穀類)や他科の作物の種子を含む『丸善食品総合辞典』丸善 p.393 1998年。広義の穀物のうち、禾穀類の種子(単子葉植物であるイネ科作物の種子)と似ていることから穀物として利用される双子葉植物の種子をまとめて擬禾穀類あるいは擬似穀類(疑似穀類、Pseudocereals)と呼ぶ『丸善食品総合辞典』丸善 p.393 1998年日本作物学会編『作物学用語事典』農山漁村文化協会 p.242 2010年『丸善食品総合辞典』丸善 p.268 1998年。擬似穀類には、ソバ(タデ科)、アマランサス(ヒユ科)、キヌア(キノア、アカザ科)などが含まれる『食料の百科事典』丸善 p.18 2001年。.
章惇
惇(しょう とん、1035年 - 1105年)は北宋時代の中国の政治家。字は子厚。建州浦城(現福建省浦城県)の出身。王安石の新法に与し、哲宗の時代には宰相となるが、徽宗の即位に反対したため失脚する。.
童貫
童 貫(どう かん、? - 1126年)は、北宋末の政治家、軍人、宦官。字は道夫。開封の人。去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物。.
端拱
端拱(たんきょう)は、宋の太宗趙炅の治世に行われた3番目の年号。988年 - 989年。.
筑摩書房
株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.
簒奪
奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。.
紹聖
紹聖(しょうせい)は中国・北宋の哲宗の治世で用いられた元号。1094年 - 1098年。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
翰林院
翰林院(かんりんいん、満州語:bithei yamun)とは、唐の玄宗が738年(開元26年)に設けた翰林学士院がその起源で、唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所のことをいう。元代には国史院と統合されて、翰林国史院と呼ばれていたが、明代には旧に復した。大順では弘文館と呼ばれた。清代では、いわば皇帝直属の秘書室となり、書物の編纂、詔勅の起草などを行った。貯才の地ともいわれ、有為な人材を確保し、勉強や実務の見習をさせ、必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命する。 学問や政治の最高の人材が揃うという共通点もあり、Academy (アカデミー)の訳語としても使われることがある。.
真宗 (宋)
真宗(しんそう)は、北宋の第3代皇帝(在位:997年5月8日 - 1022年3月23日)。.
省
省(しょう)は、国の行政機関の呼称である。本来、中国における行政機関の名称であったが、現在の中国では用いられない。 中国等においては行政区分の一種で、地方行政区画のうち最上位のものを指す。.
県
(けん)とは、地方のための行政機関の一種。正字の「縣」は釣り下がる意。元は中国の地方行政の名称で官庁を指したが、県の長の管轄する範囲も表すようになった。 現在の日本では地方自治法(昭和22年4月17日法律第67号)施行後、市町村を包括する広域の地方公共団体となり、県の事務所は県庁といい、法人格を持つ。.
県令
令(けんれい)は、.
猛安・謀克
猛安(もうあん)、謀克(ぼうこく)とは中国、金の支配民族女真族の社会組織・軍事組織、およびそれらの組織の指導者の役職名である。女真の間に元来行われていた社会制度を元に、1114年に金の太祖阿骨打によって創始された外山「猛安・謀克」『アジア歴史事典』9巻、37-38頁。この制度を指して猛安・謀克制と呼び、猛安と謀克はどちらも同名の役職によって管理されていた。 阿骨打によって統一される前の女真の諸部族はそれぞれ孛菫と呼ばれる族長に率いられており、戦時には率いる兵数に応じた称号が孛菫に与えられていた梅原「一進一退-宋・金の内側」『中国史』3、288頁。また、猛安・謀克制と北魏の八部制、遼の二十部から構成される軍事組織、モンゴル帝国で実施された千戸制・百戸制、北アジアの遊牧民族の間で行われた軍事組織の編成法との関連も指摘されている。 猛安・謀克制は、兵士となることができる成年男子300人を含む300戸を1謀克とし、10謀克を1猛安として、女真族を編成する社会組織・軍事組織である。猛安は女真語で「千」を意味するming-kan、謀克は「族長」を意味するmukeの音訳とされており、時に猛安は「千戸」「千戸長」と意訳される。また、謀克は女真語で「族」を意味するmuhunと語源を同じくすると考えられている。猛安・謀克は平時には割り当てられた戸を管理し、戦時になると自前で武具と兵糧を用意し、自らの戸から徴収した兵士を率いて戦った。戦時には1謀克から100人の兵士が供出され、1猛安は1,000人の兵士で構成される。猛安・謀克の指導者の地位は世襲制で、世官と呼ばれることもある。 初期は金の支配下に置かれているすべての民衆に猛安・謀克制が適用されていたが、金の勢力が華北に及ぶと猛安・謀克は再編される。1125年に猛安・謀克制の対象を女真族、契丹族、北方の諸民族に限定し、他の民族の管理には州県制が適用された。契丹の猛安・謀克の指導者には契丹族を任命して世襲制が適用され、猛安・謀克制による契丹族への懐柔策は一定の成功を収めた。世宗の時代には相次ぐ契丹の反乱に対処するため、彼らも猛安・謀克制から除外される梅原「一進一退-宋・金の内側」『中国史』3、289頁。 1142年に金と南宋の間に和約が結ばれた後、満州に居住していた女真族は猛安・謀克の組織を保ったまま華北に移住し、その数は1,000,000人に達すると言われている。河北、山東、河南の北部に移住した集団は一定の農地を与えられて耕作に従事し、戦争に備えた軍事訓練を行い、一部の集団は辺境の防衛や首都の警備を輪番で担当した。漢人に入り混じって華北に住む女真族は租税、耕作の面で国家から優遇され、漢人との間に紛争が起きた時には女真族に有利な裁定が下されることが多かった。海陵王によって会寧から燕京に遷都された後、女真族の華北への移住はより活発になる。 華北に移住した女真族は漢人の生活を模倣して南宋から物資を購入し、次第に漢人間の貨幣経済に組み込まれていき、貨幣経済の浸透は世宗期に起こる女真族の貧困化の一因となる。漢人との雑居によって尚武の気風を失った女真族は、経済的に困窮していく。1161年の海陵王の南宋遠征には多数の女真族の男子が動員され、働き手を失った女真族の没落はより進行する。海陵王の次に即位した世宗は困窮する女真族の救済に乗り出すが成果は上がらず、章宗の時代に華北に暮らす女真族の没落はより顕著になる。女真族を救済するために漢人が不利益を被る政策がとられることが多くなり、漢人の不満の増大が金の衰退の一因になったと考えられている。.
絹
絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.
経典
経典(きょうてん、きょうでん、sūtra, スートラ、sutta, スッタ、経)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。.
経書
経書(けいしょ)は、儒教でとくに重視される文献の総称。経典(儒家経典)ともいう。 もともとは聖人の著作のみを指すが、後世には意味が拡大され、賢人の著作や言行録、一部の注釈類も経書として扱われるようになった。経書は中国の伝統的な図書分類法である四部分類において大分類の1番目に挙げられている。具体的には戦国以来の六経(楽経は早くに亡び、五経となった)、五経・四書(四書五経を参照)・十三経を指す。また経書の注釈を主とする研究を、経学と呼ぶ。 「経」には織物の「たていと」の意味があり、織布を織るとき、経を固定し、それを基幹として織り上げていくことから、古今を貫通して不動の基幹となる古典をも表すようになったという説が生まれた(『説文解字』に記載)。これにより漢代には、経に対応する緯(よこいと)の「緯書」という文献も作られた。.
熙寧
熙寧(きねい)は中国・北宋の神宗の治世で用いられた元号。1068年 - 1077年。.
燕京
燕京(えんけい、えんきょう).
燕雲十六州
燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)は、10世紀に遼が後晋から割譲されて支配した16の州のこと。具体的には、朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州・媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州の計16州を指す。 燕は燕京(幽州、現在の北京)を中心とする河北北部、雲は雲州(現在の大同)を中心とする山西北部のことで、燕雲とはこの2州を中心として万里の長城周辺に位置する漢人の定住農耕地帯にあたる。燕雲十六州の名が使われ始めたのは北宋徽宗の時代からである。.
留置場
留置施設または留置場(りゅうちじょう)とは、都道府県警察に設置され、警察法及び刑事訴訟法の規定により都道府県警察の警察官が逮捕する者または受け取る逮捕された者であって留置されるもの、刑事訴訟法の規定により勾留されるもの、法令の規定により留置(することができることと)される者を収容する施設をいう。俗称として、留置所(りゅうちじょ)や豚箱(ぶたばこ)と呼ばれる。収容の目的は、被留置者の逃走及び罪証隠滅の防止である。.
白河天皇
白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.
花石綱
花石綱(かせきこう)は、中国の北宋末期、第8代皇帝徽宗が庭園を造るために調達させた珍花・名木・奇石などのこと。あるいは、それを運ぶ船団のこと。 なお、綱とは貨物を指す言葉である。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
韓キ
韓 琦(かんき、1008年 - 1075年)は、中国北宋の政治家。字は稚圭。相州安陽(現在の河南省安陽市)の人。南宋の宰相の韓侂冑の曾祖父にあたる。.
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.
職役
職役(しょくえき)は、中国の唐代から宋代に郷村の人民に課せられた租税の運搬等の労役である。上等戸に課せられ、差科簿にもとづいて輪番で担当した。その負担は非常に重いもので、上等戸といえどもしばしば破産するに至った。このため、王安石の募役法による改善策も講じられたが、その弊害が絶たれることはなかった。.
遼
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.
遼河
遼河(りょうが、ᠯᡳᠶᠣᡠ᠋ᡥᠠᠪᡳᡵᠠ、転写:liyooha bira)は、満州南部を流れる大河。河北省、内蒙古自治区、吉林省、遼寧省を流れ、渤海に注ぐ。河流の長さは1390キロメートル、流域面積は、渾河や太子河も含めると、22万8960平方キロメートル。遼河の激しい流れによって、遼河平原が誕生した。ただし、近年では水質汚染が深刻で、早急な環境問題対策の整備が必要となっている。 歴史的地名として遼河以西の地域を遼西、以東を遼東と呼ぶ。 遼河には東西に二つの源流があるが、本流は河北省内に源泉を持つラオハ川(老哈河)である。ラオハ川は内蒙古自治区に入り、途中からシラムレン川(Xar Moron、西拉木倫河、モンゴル語: Šira Mören)と合流して西遼河を為し、吉林省方面から流れてくる東遼河と合流した後に遼河となる。 遼河は遼寧省中部を北から南へ向かって縦貫し、途中で蘇台河、清河、柴河、泛河、秀水河、養息牧河、柳河といった河川と合流する。遼河は河口に達する前に再び二つの流れに分流する。一つは外遼河であり、営口で遼東湾(渤海の一部)に注ぐ。遼河最大の支流である渾河や太子河と合流することから、大遼河とも言われる。もう一つは双台子(雙檯子)河であり、盤錦市盤山県付近から遼東湾に注ぐ。 かつての遼河の主流は大遼河だったが、1958年の六間房付近における改修工事以降、主流は双台子河になった。現在では渾河と太子河は独立水系となり、大遼河の旧河床をながれている。.
聖宗 (遼)
聖宗(せいそう)は、契丹(遼)の第6代皇帝。諱は文殊奴。智勇兼備の名君と伝わる。.
荊南
荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国の五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の1人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。.
荘園
荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.
靖康
靖康(せいこう)は中国・北宋代欽宗の治世で用いられた元号。1126年 - 1127年。.
靖康の変
靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)を支配層に戴く金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。.
青海
青海(せいかい、Qinghai、མཚོ་སྔོན་ 転写:mTsho-sngon、Хөхнуур、 転写:Kökenaγur、ᡥᡠᡥᡠᠨᠣᠣᠷ 転写: huhu noor)は、清朝の雍正帝がグシ・ハン一族を屈服させたのち、チベットの東北部に成立させた地域的枠組み。チベット高原の中央部に分布する遊牧民の居住地域が、1724年 - 1732年に行われた雍正のチベット分割により南北に分割されることによって成立。 アムド地方の西部・中央部とカム地方の北部から成る。 清朝時代は藩部に区分され、理藩院の管轄を受けた(のちに、中華民国の国民政府の時代、河西回廊の一部とあわせて青海省が設けられた)。 中華民国以降の青海地方については青海省 (中華民国)、青海省等を参照。.
顕徳
顕徳(けんとく)は、五代の最後の王朝である後周において郭威、柴栄及び柴宗訓の治世で用いられた元号。954年 - 960年。.
西夏
西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.
親征
親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.
観察使
観察使(かんさつし)は、唐代の中国、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。.
覇州市
覇州市(はしゅう-し)は中華人民共和国河北省廊坊市に位置する県級市。.
詔勅
詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。.
誠文堂新光社
株式会社誠文堂新光社(せいぶんどうしんこうしゃ)は、東京都文京区に本社を置く日本の出版社である。.
高宗 (宋)
宗(こうそう)は、南宋の初代皇帝(在位:1127年6月12日 - 1162年7月24日)。北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。.
高麗
麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.
講談
講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。 演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇と拍子木を併用する。.
講談社
株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.
講談社学術文庫
講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.
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魏晋南北朝時代
魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。.
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谷川道雄
谷川 道雄(たにがわ みちお、1925年12月2日 - 2013年6月7日)は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授。民俗学者谷川健一、詩人谷川雁は兄。弟に日本エディタースクール創設者の吉田公彦。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
貞明 (五代後梁)
貞明(ていめい)は、五代の最初の王朝である後梁において朱友貞の治世で用いられた元号。915年11月 - 921年4月。.
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貴族
貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.
貴族 (中国)
中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。 貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。 貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。 この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。.
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資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.
鴨緑江
緑江 2007年10月20日撮影 上流、長白朝鮮族自治県から見た南岸(恵山) 建設中の水豊ダム(1942年) 鴨緑江(おうりょくこう、おうりょっこう、北京語:Yālù Jiāng、満州語:、 転写:yalu giyang、朝鮮語:압록강)は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。.
鴻臚館
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。 その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。.
趙匡胤
趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。.
趙允譲
趙允譲(ちょういんじょう、至道元年(995年)-嘉祐4年(1059年))は、北宋の皇族。字は益之。太宗の子である商王趙元份の子。英宗の実父。.
路
路(ろ).
茶
日本で一般的な煎茶 抹茶を点てる様子 広見町) 茶(ちゃ)、チャノキ(学名: Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎風味の違いなどから日本茶や中国茶、紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上はすべて同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。を加工して作られる飲み物である。 また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。.
范仲淹
'''范仲淹''' 范 仲淹(はん ちゅうえん、989年(端拱2年) - 1052年(皇祐4年))は、中国・北宋の政治家、文人。字は希文、諡は文正。.
胥吏
胥吏(しょり)とは、旧体制下の中国や朝鮮において、庶民でありながらも役人の仕事をする者を規定した用語である。正規の高等官僚としての官人と対応し、両者を併せ、「官人」の「官」と「胥吏」の「吏」で官吏と呼ばれる。.
郭威
郭 威(かく い)は、五代後周の初代皇帝。廟号は太祖。.
郭皇后 (宋仁宗)
郭皇后(かくこうごう、1012年 - 1035年12月16日)は、北宋の第4代皇帝仁宗の最初の皇后。.
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阿骨打
阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)は、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月1日) - 1123年9月19日(8月28日))。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では女真名である阿骨打(アクダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。.
蘇軾
蘇 軾(そ しょく、、景祐3年12月19日(1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は、中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、とも呼ばれる。字は。蘇洵の長子、弟は蘇轍であり、この3人に韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石を加えた8人を「古文」の唐宋八大家という興膳(2008年)182ページ。子に蘇邁、蘇迨、蘇過、蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材の夫人(蘇公弼の娘、耶律鋳の生母)がいる。.
開宝
開宝(かいほう)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた3番目の元号。968年 - 976年。.
開封市
開封市(かいほうし、)は中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。.
開平
開平(かいへい).
開運 (後晋)
開運(かいうん)は、五代の第3の王朝である後晋において、石重貴の治世で用いられた年号。944年7月 - 946年12月。 後晋滅亡後、劉知遠が後漢を建国すると、947年に天福の元号を復活させた。.
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藩鎮
藩鎮(はんちん)とは、中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。.
蔡京
蔡 京(さい けい、1047年 - 1126年)は、北宋末の政治家、宰相、書家。字は元長。興化郡仙游県(現在の福建省莆田市仙游県)の人。 行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。英宗期の蔡襄の従孫で、父は蔡準。弟は蔡卞。また、息子は蔡攸、蔡鯈(さいちょう)、蔡翛(さいゆう)、(さいとう)、(さいかく)、蔡鋆(さいきん)、蔡脩らがいた。.
重和
重和(ちょうわ)は、中国・北宋の徽宗の治世で用いられた元号。1118年 - 1119年。.
至和
至和(しわ)は中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1054年 - 1056年。.
至道
至道(しどう)は、北宋の太宗趙炅の治世に行われた5番目の年号。995年 - 997年。.
金
自然金 金(きん、gold, aurum)は原子番号79の元素。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。 元素記号Auは、ラテン語で金を意味する aurum に由来する。大和言葉で「こがね/くがね(黄金: 黄色い金属)」とも呼ばれる。。 見かけは光沢のある黄色すなわち金色に輝く。日本語では、金を「かね」と読めば通貨・貨幣・金銭と同義(お金)である。金属としての金は「黄金」(おうごん)とも呼ばれ、「黄金時代」は物事の全盛期の比喩表現として使われる。金の字を含む「金属」や「金物」(かなもの)は金属全体やそれを使った道具の総称でもある。 金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。熱水鉱床として生成され、そのまま採掘されるか、風化の結果生まれた金塊や沖積鉱床(砂金)として採集される。 これらの性質から、金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられた。銀や銅と共に交換・貨幣用金属の一つであり、現代に至るまで蓄財や投資の手段となったり、金貨として加工・使用されたりしている。ISO通貨コードでは XAU と表す。また、医療やエレクトロニクスなどの分野で利用されている。.
金 (王朝)
金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.
英宗 (宋)
英宗(えいそう、1032年2月16日 - 1067年1月25日)は、北宋の第5代皇帝。実父の趙允譲は仁宗の従兄に当たる。母は趙允譲の側室・任氏(仙游県君)。 仁宗が崩御した際に嗣子が無かったため、傍系の英宗が第5代皇帝として即位した。英宗は英邁な人物であり、対外戦費のために破綻していた財政を再建するために改革に着手しようとしたが、改革に反対する勢力が強く、また父である趙允讓の待遇を巡る濮議が発生した。 さらに英宗自身も病弱であり、在位わずか4年にして病死したため、改革は失敗に終わった。.
雍熙
雍熙(ようき)は、宋の太宗趙炅の治世に行われた2番目の年号。984年 - 987年。.
雄県
(ゆうけん)は中華人民共和国河北省保定市に位置する県。.
耶律堯骨
耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)は、契丹帝国(遼)の第2代皇帝。太祖耶律阿保機の次男。.
耶律大石
耶律 大石(やりつ たいせき、契丹音:ヤルート・タイシ)は、西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)。 太祖耶律阿保機の末子(第4子)であるの7世の子孫に当たる。『集史』においては、 تاشي طايفو Tāshī Ṭāīfū と記される。遼が滅亡する際に、契丹人を引き連れて西へ逃れてその地で勢力を広げ、モンゴル高原西部・新疆ウイグル自治区からカザフスタン東部・マー・ワラー・アンナフルまでの広大な地域を領有すると、故地回復を望んで東征軍を出すが途中で挫折した。ある説では、隠れマニ教徒だったという。.
耶律阿保機
耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。.
陝西省
陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.
陳橋の変
陳橋の変(ちんきょうのへん、陳橋兵變)は、960年に後周領内の陳橋(河南省封丘県)で起こったクーデターである。これによって後周が滅び宋が建国された。.
陶磁器
野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
折杖法
折杖法(せつじょうほう)とは、北宋の建隆4年(963年)に定められた刑罰に関する規定。.
柴宗訓
柴 宗訓(さい そうくん)は、五代後周の第3代皇帝。後世の史家は恭帝と呼び習わしている。趙匡胤(宋の太祖)に帝位を禅譲した後は鄭王に封じられた。.
柴栄
柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝。廟号は世宗。五代で随一の名君とされる。.
枢密院 (中国)
枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。.
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李存勗
李 存勗(り そんきょく)は、五代後唐の初代皇帝。.
李徳明
李 徳明(り とくめい、太平興国6年〈981年〉 - 明道元年〈1032年〉11月)は、西夏王朝の実質的な建国者。字は阿移。 父・李継遷の業績を発展させたのみならず、外交面でも大勢力である宋・遼の間で巧みな外交手腕を発揮し、西夏の基礎を築いた。.
李元昊
李 元昊(り げんこう)は、西夏の初代皇帝。廟号は景宗。西平王李徳明の長男。内政・外征共に大きな成功を収め、西夏の創始者にして同王朝随一の名君である。.
李綱
李 綱(り こう、1085年 - 1140年)は中国・南宋の宰相。字は伯紀。.
李継遷
李 継遷(り けいせん、建隆4年(963年) -統和22年1月2日(1004年1月26日) )は、宋代のタングート族平夏部の人。定難軍節度使の拓跋思恭の弟の拓跋思忠の玄孫。.
李朝 (ベトナム)
李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.
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東丹国
10世紀の契丹と東丹国。 東丹(とうたん, 西暦926年 - ?)は渤海を滅ぼした契丹がその故地に建てた封国。契丹の東部の意。.
東洋史
東洋史(とうようし)は東洋を広く扱った歴史であり東洋学の歴史分野のことであり「東洋史学」( - がく)とも称される。ヨーロッパ語の「東洋史」(たとえば英語の「Oriental History」)の訳語であり、現在の日本語の慣例ではおおむねマグリブから日本にかけての北アフリカ、ユーラシア大陸(ただしヨーロッパ地域を除く)および周辺諸島の歴史を扱う。.
東洋文庫 (平凡社)
東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.
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梅原郁
梅原 郁(うめはら かおる、男性、1934年1月1日 - )は、東洋史学者、京都大学名誉教授。 京都市生まれで、父は東洋考古学者の梅原末治。1957年に京都大学文学部史学科東洋史学卒業。1962年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。神戸学院大学助教授、京都大学人文科学研究所助教授、同教授。1986年「宋代官僚制度研究」で文学博士。1997年定年退官、名誉教授、就実女子大学教授。2005年退職。 宋代史を主要な研究分野とするが、元・明・清朝の法制史・制度史研究でも大きな成果がある。2010年に、宋代における法制史の研究をまとめた『宋代司法制度研究』を中心に、日本学士院賞(第100回)を受賞した。2012年春瑞宝中綬章叙勲、.
森克己
森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は対外関係史。元中央大学教授。.
楚 (十国)
楚(そ、907年 - 951年)は中国五代十国時代に湖南省・広西チワン族自治区を支配した国。茶の交易で栄えた。.
楊堅
楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。.
欧陽脩
欧陽 脩(おうよう しゅう、欧陽修とも、景徳4年6月21日(1007年8月6日) - 熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日))は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。.
欽宗
欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝。徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。.
欽聖皇后
欽聖皇后向氏 欽聖皇后(きんせいこうごう、1046年 - 1101年)は、北宋神宗の皇后。姓は向氏。.
死刑
死刑(しけい)は、対象者(死刑囚)を死亡させる刑罰である。抽象的な表現として「極刑(きょっけい)」あるいは「処刑(しょけい)」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。.
殿試
殿試(でんし、満州語:deyen de simnembi)とは、中国の科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。 宋代より始まったもので、既に進士の地位は得ている者たちの順位がこの最終試験によって決められ、後々の処遇に大きく影響した。 殿試は皇帝自らが行う建前だが、実際には朝廷の大臣が試験官を務めた。これを読巻大臣という。読巻大臣は8名であり、その中には内閣大学士が含まれている。 上位より3名はそれぞれ、第1位が状元、第2位が榜眼、第3位が探花と呼ばれ、高官としての将来が約束された。 皇帝自ら行うため時には皇帝の気まぐれに左右されることもあり、趙翼のようにそれで状元を逃した例もあった。.
水墨画
水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.
水滸伝
『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「四大奇書」の一つ。 施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。.
江南
江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).
汲古書院
株式会社汲古書院(きゅうこしょいん)は、日本の学術出版社である。主に日本古典・古典中国文学の学術研究に加え、文献学・書誌学の出版・販売を手掛ける。発足に大きく関わった長沢規矩也の「著作集」を始め、2001年から約15年かけ『後漢書』全訳書(全19冊)を刊行した。 中国からの古典・学術図書の輸入をしていた大安の活動を引き継いでいる。 同じ性格を持つ出版社に研文出版がある。.
河北省
河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.
治平 (宋)
治平(ちへい)は中国・北宋代英宗の治世で用いられた元号。1064年 - 1067年。.
泰山
泰山(たいざん)は、中華人民共和国山東省泰安市にある山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。 封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。華北平原の丘陵を見下す雄健かつ壮観な絶頂は五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも景仰される春秋時代以来の伝統がある。一例として泰山地震は天下の大事であった。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。また「泰山国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。.
法律文化社
株式会社法律文化社(ほうりつぶんかしゃ)は京都市北区に本社を置く出版社。 社会科学・人文科学に関する書籍を主に出版している。.
泉州市
泉州市(せんしゅうし)は中華人民共和国福建省に位置する地級市である。かつては海上交易の中心地として繁栄し、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロはこの都市(ザイトン、イタリア語:Zaiton、閩南語:刺桐)の繁栄を記録に残している。ザイトンは街路樹のアブラギリがある街とアラビア人が命名、しヨーロッパに伝わった名前。.
洗衣院
洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である。『靖康稗史証』の記載によると、靖康の変(1126年)の後、宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女、女官、宮女、さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された。複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった。.
淳化
淳化(じゅんか)は、北宋の太宗趙炅の治世に行われた4番目の年号。990年 - 994年。.
渤海 (国)
渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
清泰
清泰(せいたい)は五代の2番目の王朝である後唐の李従珂の治世で用いられた元号。934年 - 936年。.
湖南省
湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.
湖北省
湖北省(こほくしょう、フーペイしょう、中国語:湖北省、拼音:Húběi Shěng、英語:Hubei Province)は、中華人民共和国中部地方にある第一級行政区画である。揚子江中流域に位置し、洞庭湖以北にあるため、「湖北」と言う名称がつけられた。略称は鄂、楚、荊で、荊楚とも呼ばれる。省都は武漢市である。.
満州
満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。なお、漢字表記は法令や一部の文献では「満洲」が用いられるものの、一般には「満州」が用いられることが多い。 「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。.
漢詩
漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.
漢語
日本語における漢語(かんご)とは、語種の一区分である。比較的古い時代の中国語から借用された形態素、すなわち漢字の字音から構成される語彙体系である。漢字の音読みと対応する語彙体系であるので字音語と称することもある佐藤喜代治(1996)、88頁。。固有語である「和語」、漢語以外の借用語である「外来語(洋語)」と対立する概念である。 漢語の原義は「漢民族の言語」であり、本来は漢民族が母語である中国語を自称する際の用語なのだが、日本においては国語として定着した中国由来の語彙体系を「漢語」と総称することが多い。また、漢字の字音は複合の自由度が高く、日本で独自に造語されたいわゆる「和製漢語」も多い。 日本語以外でも、朝鮮語、ベトナム語などの言語は同様の語彙体系を有している。これら言語が有する中国由来の語彙体系をまとめて「漢語系語彙(Sinoxenic vocabulary)」と呼ぶことがある。.
濮議
議(ぼくぎ)は、北宋皇室の傍流出身である英宗の即位後、その実父である濮安懿王趙允譲(「安懿」は諡号)の祭祀上の待遇に関する議論。.
濮陽県
陽県(ぼくよう-けん)は中華人民共和国河南省濮陽市に位置する県。.
朝貢
朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.
木宮泰彦
木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 1969年10月30日)は、日本の歴史学者、教育家。 静岡県浜名郡入野村(現・浜松市西区)雲龍寺の二男として生まれる。1913年東京帝国大学文学部国史学科卒、京都帝国大学大学院を経て、1920年山形高等学校教授、1923年水戸高等学校教授、1927年静岡高等学校教授となり、1946年同校長事務取扱を最後に退官し、静岡に静岡女子高等学院(のち学校法人常葉大学)を創立。1959年同理事長となり、1966年常葉女子短期大学を設立し、学長を務めた。日中関係史の研究で知られる。子に木宮和彦がいる。.
木材
材木店の店頭に並ぶ各種木材 木材(もくざい)とは、様々な材料・原料として用いるために伐採された樹木の幹の部分を指す呼称。 その用途は、切削など物理的加工(木工)された木製品に限らず、紙の原料(木材パルプ)また薪や木炭に留まらない化学反応を伴うガス化・液化を経たエネルギー利用や化学工業の原料使用、飼料化などもある岡野 p.147-169 6.エピローグ-その将来を展望する-。樹皮を剥いだだけの木材は丸太(まるた)と呼ばれる。材木(ざいもく)も同義だが、これは建材や道具類の材料などに限定する場合もある。.
朱全忠
朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。諱は初め温であったが、黄巣の乱の際の功で唐朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改めた。.
朋党
朋党(ほうとう)とは、前近代の中国やその周辺地域において政治的な思想や利害を共通する官僚同士が結んだ党派集団のこと。.
成尋
成尋(じょうじん、寛弘8年(1011年)- 永保元年10月6日(1081年11月9日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は陸奥守藤原実方の子貞叙。母は女流歌人で「成尋阿闍梨母集」を残した源俊賢の娘(成尋阿闍梨母)。善慧大師とも称される。.
戸部 (六部)
戸部(こぶ)は六部の一で、土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を司掌した。 祖型は三国時代の度支尚書であり、隋にて民部と改称され、更に唐より太宗の諱世民の民字を避諱して戸部と称されるようになった。長官は(戸部尚書)で次官は侍郎(戸部侍郎)。隋唐期に戸(民)部、度支(たくし)、金部(きんぶ)、倉部(そうぶ)の4司が属し、それぞれに判官であるとが置かれた。 その後、安史の乱以降の財政難に対して戸部尚書の下の戸部司と新たに設けられた使職の度支使・塩鉄使が財政を司るところとなり、戸部は有名無実化した。 これが北宋の元豊の改革の際に再び実権を取り戻し、再び財政を司るところと成った。清光緒32年(基督教暦1906年)のにより戸部は度支部と改称され、宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で完全に廃止された。.
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明道 (北宋)
明道(めいとう)は、中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1032年 - 1033年。.
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春秋戦国時代
春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)は、中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。.
流罪
ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.
海上の盟
海上の盟(かいじょうのめい)は、1120年に北宋と金の間で遼(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。.
斯波義信
斯波 義信(しば よしのぶ、1930年10月20日 - )は日本の歴史学者。専門は中国史、特に宋代の商業史、華僑・華人研究など。財団法人東洋文庫特別顧問、大阪大学名誉教授。2003年日本学士院会員。2006年文化功労者。2017年文化勲章。2018年唐奨。.
新五代史
『新五代史』(しんごだいし)は、北宋の欧陽脩による歴史書。元の名を『五代史記』といい、皇祐5年(1053年)書となった。私撰であるため家に蔵されていたが、撰を終えた後に朝廷に献上された。乾隆の時、薛居正の『旧五代史』と共に正史とするため、欧陽脩の史は『新五代史』と改称された。本紀12巻、列伝45巻、考3巻、世家及年譜11巻、四夷附録3巻の合わせて74卷。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)までの歴史が記載されている。 現在の歴史学会の評価として、杉山正明のまとめた説によると、「事実誤認も多い上、著者の癖が強く、司馬光の資治通鑑のようなあからさまなウソはないものの、創作も混じっており、旧五代史に比べて良質な史料とは言いがたい」とされている。また、山崎覚士からは本来、五代王朝の節度使に過ぎない荊南節度使をあたかも別の国家(荊南)のように記載して「十国」としたのは欧陽脩個人の史観に過ぎないとする指摘もある。.
新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.
新羅
新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.
新法・旧法の争い
新法・旧法の争い(しんぽう・きゅうほうのあらそい)は、中国北宋の中期神宗代から末期徽宗代にかけて起こった政治的な争い。王安石によって新法と呼ばれる改革が行われるが、これに司馬光を初めとする反対者が続出し、長く論争と政権闘争がくり広げられた。その結果、大きな政治的混乱を生んだ。.
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方臘の乱
方臘の乱(ほうろうのらん)は、1120年、中国の江南地方で起こった反乱。北宋末期の宣和2年(1120年)、徽宗皇帝時代の出来事である。.
文苑英華
『文苑英華』(ぶんえんえいが)は、中国の北宋時代に成立した詩文集。『太平広記』、『太平御覧』、『冊府元亀』とあわせて宋四大書と称せられる。太宗の勅命を奉じて李昉、扈蒙、徐鉉、宋白ら17名が太平興国7年(982年)から雍熙4年(987年)にかけて編纂したもので、全1000巻、目録50巻に及ぶ。 南朝梁代の『文選』の後を継ぐものとして、梁末から唐末に至るまでの約2200人、2万編近くの詩文を中心に採録し、『文選』に倣って文体により55類(38類とも)に分類した。収められた詩文は唐代のものが9割を占める。多人数で短期間に完成させたこともあって、誤字・脱字・重複・転倒など誤りも無数にあるが、現存しない文献も多く、唐代の文献を保存した功績は非常に大きいとされる。明清代に編纂された『古詩紀』『全唐詩』などはほぼ本書に拠って再録されたといい、ほかにも現存する詩文集の校訂にも用いられている。 南宋の嘉泰4年(1204年)になってようやく刊行されており、宋本で現存するものは140巻である。残り860巻を明の隆慶元年(1567年)の刊本によって補い、彭叔夏(南宋)『文苑英華弁証』、労格(清)『文苑英華弁証拾遺』、作者姓名索引を付したものが1966年に中華書局より影印出版(2003年に再影印、ISBN 7101008070)されている。.
日宋貿易
日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
旧五代史
『旧五代史』(きゅうごだいし)は、北宋の薛居正らの撰である歴史書。原名は『梁唐晋漢周書』、通称『五代史』とされ、欧陽脩による『新五代史』の編纂後は「旧」を冠する。二十四史の一つ。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)に北宋が後周に代わって建つまでが記されている。本記61巻、列伝77巻、志12巻の計150巻を五代に区分して書とした。『梁書』24巻、『唐書』50巻、『晋書』24巻、『漢書』11巻、『周書』22巻、志12巻がある。 『新五代史』が発表されてから『旧五代史』は忘れ去られ、散逸した。清代になって邵晋涵らが『永楽大典』に引用されている部分を集めて復活させたのが現行の『旧五代史』である。現代の学界では、創作や事実誤認が多い『新五代史』に比べ、率直・素朴・雑駁であるがかえって史料性が高いとされている。.
政和
政和(せいわ)は、中国・北宋代徽宗の治世で用いられた元号。1111年 - 1118年。.
敦賀港
敦賀港(つるがこう)は、福井県敦賀市の敦賀湾に所在する港湾。港湾管理者は福井県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。 近年、敦賀港国際ターミナルの完成や国際RORO船の就航などにより国際コンテナの取扱いを急速に伸ばしている。2011年国土交通省により「日本海側拠点港」のひとつに選定された。軍事・防衛関係は京都府の舞鶴港、民間の物流・人流関係は敦賀港として住み分けつつ、それぞれ独自に今日まで発展してきた。.
慶暦
慶暦(けいれき)は中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1041年 - 1048年。.
慶暦の和約
慶暦の和約(けいれきのわやく)は、1044年、中国統一王朝の宋(北宋)とチベット系王朝の西夏によって締結された和議。 宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は西夏に毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約された。.
慶暦の党議
慶暦の党議(けいれきのとうぎ)とは、北宋の第4代皇帝仁宗の時代、慶暦年間前後におきた論争。「朋党」を組むことの是非も合わせて問われたことからその名称がある。.
慶暦の治
慶暦の治(けいれきのち)は、北宋第4代皇帝仁宗の治世を評価した語。慶暦は当時の元号による。.
承平天慶の乱
承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。.
扇子
沈折(しずめおり)の白扇。白扇は古くは贈答の品として使われた。 扇子(せんす)とは、あおいで風を起こす道具のひとつ。また儀礼、芸能で用いられる。ただし古くは扇(おうぎ)と呼ぶのが普通であった。「おうぎ」という言葉は古くは「あふぐ」(扇ぐ)の派生形の「阿布岐(あふぎ)」と呼ばれたが、日本語の変化により関連がわかりにくくなった。.
景徳
景徳(けいとく)は、宋の真宗趙恒の治世に行われた2番目の年号。1004年 - 1007年。.
景徳鎮市
景徳鎮市(けいとくちんし)は中華人民共和国江西省東北部に位置する地級市。古くから陶磁器の生産地として有名で、国家歴史文化名城に指定され、対外開放市でもある。.
景祐
景祐(けいゆう)は、中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1034年 - 1038年。.
1002年
記載なし。
1003年
記載なし。
1004年
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1005年
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1007年
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1008年
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1016年
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1017年
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1021年
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1022年
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1023年
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1031年
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1032年
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1033年
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1034年
記載なし。
1038年
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1040年
記載なし。
1041年
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1042年
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1044年
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1048年
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1049年
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1054年
記載なし。
1056年
記載なし。
1063年
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1064年
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1067年
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1068年
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1072年
記載なし。
1077年
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1078年
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1085年
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1086年
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1093年
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1094年
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1098年
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1100年
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1101年
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1102年
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1105年
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1107年
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1110年
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1111年
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1115年
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1118年
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1119年
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1120年
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1121年
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1125年
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1126年
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1127年
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1145年
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4世紀
皇帝コンスタンティヌス1世。ミラノ勅令によりキリスト教を公式に認め新首都コンスタンティノポリスを造営した。画像はローマのカピトリーノ美術館にある皇帝の巨像(コロッスス)。 Musée national du Moyen Âgeにある皇帝の像。 メリダ国立ローマ博物館蔵)のレプリカ。 修道生活の基礎が築かれた。画像は大アントニオスを追慕して356年に建てられたエジプトのスエズ県にあるコプト教会の「聖アントニオス修道院」。 アクスム王国の勃興。クシュ王国を滅ぼし現在のエチオピアの地に成立したのがアクスム王国で、最も古くからキリスト教を受容していたことでも知られている。画像はキリスト教に改宗したエザナ王によるオベリスク(石柱)で24mの高さがある。 ゲルマン民族の大移動。ローマ帝国との国境を越えたゲルマン諸族は各地で混乱や衝突を起こした。画像は1920年代に描かれた西ゴート族の王アラリック1世のアテナイ入城(395年)の挿絵。 顧愷之。顧愷之は東晋の画家で、画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた人物。画像は代表作「女史箴図」(大英博物館蔵)。 書聖王羲之。王羲之は東晋の書家で「蘭亭序」他の作で知られ、歴代皇帝にも愛好された。画像は宋末元初の文人画家銭選が王羲之を画題として描いた「蘭亭観鵝図」(台湾・国立故宮博物院蔵)。 七支刀が所蔵されている石上神宮。ここの七支刀が『日本書紀』神功記に記載のある百済から献上されたものだと推定されている。 チャンドラグプタ2世の金貨。チャンドラグプタ2世はインド・グプタ朝の領土を最大に広げ、繁栄をもたらした。 シャクンタラー』。指輪をめぐるシャクンタラー姫の数奇な運命の物語でチャンドラグプタ2世王時代の宮廷詩人カーリダーサによりまとめられたとされる。画像はラヴィ・ヴァルマによる物語絵。 4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。.
840年
記載なし。
877年
記載なし。
892年
記載なし。
902年
記載なし。
907年
記載なし。
916年
記載なし。
926年
記載なし。
935年
記載なし。
936年
記載なし。
938年
記載なし。
946年
記載なし。
951年
記載なし。
959年
記載なし。
960年
記載なし。
963年
記載なし。
964年
記載なし。
968年
記載なし。
970年
記載なし。
974年
記載なし。
976年
記載なし。
978年
記載なし。
979年
記載なし。
980年
記載なし。
982年
記載なし。
984年
記載なし。
987年
記載なし。
988年
記載なし。
989年
丸谷才一『男のポケット』、「空白の年」の章では、「世界中で、ちつとも事件が起らなかつた年」として紹介されている。元文献は「紀元前5000年から現在までを収め」ているイギリスの年表とのことだが詳細は不明。.
990年
記載なし。
993年
記載なし。
994年
記載なし。
995年
記載なし。
997年
記載なし。
998年
記載なし。
999年
記載なし。