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出羽国

索引 出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県と秋田県。上国。

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目次

  1. 368 関係: 加藤泰興城輪神社城輪柵城柵十五里ヶ原の戦い南北朝時代 (日本)南秋田郡古四王神社名神大社吾妻鏡坂崎直盛堂の前遺跡堀田正盛堀田正養塩湯彦神社多治比家主多治比池守大宝寺義勝大宝寺氏大宝寺淳氏大崎氏大久保忠真大久保忠朝大仙市大伴今人大化大須賀忠政大森町 (横手市)大江氏大江時棟大河兼任の乱天平天平宝字天仁天喜天童藩天童氏天正最上の乱天永天文の乱奥州合戦奥州仕置奥州総大将奥州総奉行奥州街道奥州藤原氏奥羽奥羽越列藩同盟宝亀守護... インデックスを展開 (318 もっと) »

  2. 708年設立
  3. 山形県の歴史
  4. 秋田県の歴史

加藤泰興

加藤 泰興(かとう やすおき)は、江戸時代前期の大名。伊予国大洲藩2代藩主。官位は従五位下・出羽守。槍術の達人で加藤家伝流槍術の開祖。

見る 出羽国と加藤泰興

城輪神社

城輪神社 鳥居 城輪神社 本殿 城輪史跡公園の北西角付近から見た城輪神社の境内。城輪史跡公園の北西角は、古代政庁の北西角の位置にあたる。背後に見える山影は霊峰鳥海山。 城輪神社(きのわじんじゃ)は、山形県酒田市にある神社である。昭和6年(1931年)に神社周辺から古代の城柵址が発見され、当社が城柵の鎮守神であることが分かった。出羽国二宮で、旧社格は県社。延喜式神名帳への記載は無いが、六国史にその名が見える国史見在社である。

見る 出羽国と城輪神社

城輪柵

城輪柵(きのわのき/きのわのさく)は、現在の山形県酒田市城輪にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている(指定名称は「城輪柵跡」)。 奈良時代末期に造営された出羽国国府所在地の有力な候補となっている(これ以前の所在、歴史は出羽柵を参照)。保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。

見る 出羽国と城輪柵

城柵

城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設である。城柵は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための拠点となる官衙であると同時に、柵戸と呼ばれる住民を付随する施設でもあり、兵を駐屯させる軍事的拠点でもあるという複合的な性格を有していた。 現代の歴史学では特に東北地方及び新潟県(陸奥国、出羽国、越後国)に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。城柵は軍事拠点としての性格を有する一方で、中国地方や九州地方に築かれた古代山城と比べると防備が弱く、官衙としての性格が強いのが特徴である。

見る 出羽国と城柵

十五里ヶ原の戦い

十五里ヶ原の戦い(じゅうごりがはらのたたかい)は、天正16年(1588年)8月、本庄繁長率いる上杉・武藤連合軍と東禅寺義長・勝正兄弟率いる最上軍との戦である。 現在、「十五里ヶ原古戦場」として、山形県の指定文化財(史跡)となっている。

見る 出羽国と十五里ヶ原の戦い

南北朝時代 (日本)

日本の歴史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい、)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。

見る 出羽国と南北朝時代 (日本)

南秋田郡

秋田県南秋田郡の範囲(1.五城目町 2.井川町 3.八郎潟町 4.大潟村) 南秋田郡(みなみあきたぐん)は、秋田県の郡。 以下の3町1村を含む。

見る 出羽国と南秋田郡

古四王神社

古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社である。

見る 出羽国と古四王神社

名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。

見る 出羽国と名神大社

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。吾妻鏡は、空白期間の存在が知られており、1196年から源頼朝が死去した1199年までの重要な約3年間が記録がなく、他に1183年、1242年、1249年、1255年、1259年、1262年、1264年の記述もほぼ欠落している。

見る 出羽国と吾妻鏡

坂崎直盛

坂崎 直盛(さかざき なおもり) / 宇喜多 詮家(うきた あきいえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。宇喜多忠家の子。宇喜多直家の甥にあたる。宇喜多秀家に仕えた後に徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いの功により津和野城主となって坂崎と改姓。

見る 出羽国と坂崎直盛

堂の前遺跡

堂の前遺跡(どうのまえいせき)は、山形県酒田市法連寺にある平安時代の城柵や官衙に関連すると見られる遺跡。1979年(昭和54年)10月23日に国の史跡に指定された。

見る 出羽国と堂の前遺跡

堀田正盛

堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、御側 / 大政参与。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。

見る 出羽国と堀田正盛

堀田正養

堀田 正養(ほった まさやす、嘉永元年2月28日(1848年4月1日) - 明治44年(1911年)5月9日)は、幕末の大名、明治期の政治家、華族。位階は従三位。堀田家宗家11代目の当主で、近江宮川藩の第9代(最後)藩主、同藩初代知藩事(最後)、貴族院議員、逓信大臣(第1次西園寺内閣)、筑豊興業鉄道社長などを歴任。 子に錫(堀田正亨子爵夫人)、娘(五島盛光子爵夫人)。

見る 出羽国と堀田正養

塩湯彦神社

塩湯彦神社(しおゆひこじんじゃ)は、秋田県横手市にある神社である大友ヒサヱ「塩湯彦神社」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074。式内小社、旧社格は郷社。

見る 出羽国と塩湯彦神社

多治比家主

多治比 家主(たじひ の やかぬし)は、奈良時代の貴族。大納言・多治比池守の子。官位は従四位下・鋳銭長官。

見る 出羽国と多治比家主

多治比池守

多治比 池守(たじひ の いけもり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。左大臣・多治比嶋の長男『公卿補任』。官位は従二位・大納言。

見る 出羽国と多治比池守

大宝寺義勝

大宝寺 義勝(だいほうじ よしかつ)、または本庄 充長(ほんじょう みつなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、現在の山形県庄内地方にあたる出羽国南部を勢力地とした武将。上杉氏の家臣。武藤義勝(むとう よしかつ)とも言う。

見る 出羽国と大宝寺義勝

大宝寺氏

大宝寺氏(だいほうじし)は、日本の氏族のひとつである。中世の出羽国の大身豪族、戦国大名の氏族で、本姓は藤原氏。鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする武藤氏の流れをくみ、少弐氏とは同族に当たる。

見る 出羽国と大宝寺氏

大宝寺淳氏

大宝寺 淳氏(だいほうじ きようじ)は、室町時代中期の武士。大宝寺氏10代当主。武藤淳氏とも呼ばれる。

見る 出羽国と大宝寺淳氏

大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。

見る 出羽国と大崎氏

大久保忠真

大久保 忠真(おおくぼ ただざね)は、江戸時代後期の譜代大名、老中。相模国小田原藩の第7代藩主。小田原藩大久保家9代。

見る 出羽国と大久保忠真

大久保忠朝

大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名・老中。肥前国唐津藩2代藩主、下総国佐倉藩主、相模小田原藩主。官位は従四位下・加賀守、侍従、木工頭。小田原藩大久保家3代。

見る 出羽国と大久保忠朝

大仙市

大仙市(だいせんし)は、秋田県南東部に位置する市。全国花火競技大会(大曲の花火)の開催地であり、花火のまちとして知られている。

見る 出羽国と大仙市

大伴今人

大伴 今人(おおとも の いまひと)は、平安時代初期の貴族。官位は従五位上・出羽守・征夷副将軍。

見る 出羽国と大伴今人

大化

大化(たいか、)は、日本の最初の元号。白雉の前。西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。

見る 出羽国と大化

大須賀忠政

大須賀 忠政(おおすが ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上総久留里藩主、後に遠江横須賀藩の初代藩主。

見る 出羽国と大須賀忠政

大森町 (横手市)

大森リゾート村芝桜フェスタ 大森町(おおもりまち)は、秋田県横手市にある地区(広域地名)。人口は5,634人(2020年(令和2年)10月1日現在、国勢調査による)。 2005年(平成17年)10月1日に市町村合併によって横手市となった旧平鹿郡大森町の区域をそのまま継承している。大森町、大森町板井田、大森町上溝、大森町坂部、大森町猿田、大森町十日町、大森町袴形、大森町八沢木の8大字からなる。 本項では、旧大森町及び地域総称、大字大森町について述べる。

見る 出羽国と大森町 (横手市)

大江氏

大江氏(おおえうじ)は、「大江」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本の古代から近世の貴族。「大江」は姓(本姓)であり、苗字ではない(源、平、藤原、橘と同じ)。

見る 出羽国と大江氏

大江時棟

大江 時棟(おおえ の ときむね、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。式部大輔・大江匡衡の養子。官位は正五位下・河内守。

見る 出羽国と大江時棟

大河兼任の乱

大河兼任の乱(おおかわかねとうのらん)は、文治5年(1189年)12月から翌年3月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏残党である大河兼任らとの間で東北地方にて行われた戦いである。

見る 出羽国と大河兼任の乱

天平

天平(てんぴょう、)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。

見る 出羽国と天平

天平宝字

は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。

見る 出羽国と天平宝字

天仁

は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1110年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。

見る 出羽国と天仁

天喜

は、日本の元号の一つ。永承の後、康平の前。1053年から1058年の期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。

見る 出羽国と天喜

天童藩

天童藩(てんどうはん)は、羽前国(旧出羽国)高畠藩から移転した織田家が同国天童周辺(現在の山形県天童市)を支配した藩。藩庁は天童陣屋。

見る 出羽国と天童藩

天童氏

天童氏(てんどうし)は、出羽の有力国人。天童城(現在の山形県天童市)を本拠とした。もともとは清和源氏新田氏流里見氏の流れを汲む家系であったが、南北朝時代に足利氏流斯波氏一門の最上氏から養子を迎え、里見の家系を継承しながら、足利氏、斯波氏の流れを汲む存在となった。戦国時代末期には村山地方北部に一大勢力を築いた。通字は「頼」だが、初期には里見氏と同じく「義」の字を使用した。

見る 出羽国と天童氏

天正最上の乱

天正最上の乱(てんしょうもがみのらん)は、天正2年(1574年)に起きた出羽国の戦国大名・最上氏の内乱。最上氏当主・最上義光と、隠居した父・最上義守との間で起こった争いである。

見る 出羽国と天正最上の乱

天永

は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1113年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。

見る 出羽国と天永

天文の乱

天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。

見る 出羽国と天文の乱

奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。

見る 出羽国と奥州合戦

奥州仕置

奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。

見る 出羽国と奥州仕置

奥州総大将

奥州総大将(おうしゅうそうだいしょう)とは、南北朝時代における幕府の地方官制である。守護に代わって設置された。 元弘3年(1333年)、建武政権は陸奥国司に北畠顕家を、出羽国司兼秋田城介に葉室光顕を任命する。建武2年(1335年)には北畠顕家が鎮守府将軍も兼務し、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国府に陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。 しかし、建武2年(1335年)の中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、建武政権は瓦解した。尊氏は奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長を奥州総大将に任命し、陸奥国と出羽国の軍事指揮権を与えた。尊氏は上洛するが、子の義詮を残す。斯波家長は義詮を補佐するため執事も兼任することとなった。

見る 出羽国と奥州総大将

奥州総奉行

奥州総奉行、奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)とは、文治5年9月22日、源頼朝が文治五年奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。守護相当の職制と考えられるが不明な点も多い。奥州合戦に功のあった下総国の住人葛西清重が任じられた。北条時政によって文筆能力を買われ、その推挙によって御家人となった京都出身の伊沢家景もしばしば「奥州総奉行」のひとりと見なされる。

見る 出羽国と奥州総奉行

奥州街道

奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋または江戸城大手門を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており『「日本大地図」下巻 日本名所大地図2』(2022年1月31日、ユーキャン発行)59ページ。、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。

見る 出羽国と奥州街道

奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年合戦・後三年合戦の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間に陸奥(後の陸中国)平泉を中心として出羽を含む奥羽地方(現在の東北地方)一帯に勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷流一族。平泉藤原氏(ひらいずみふじわらし)または北方藤原氏(ほっぽうふじわらし)ともいう。

見る 出羽国と奥州藤原氏

奥羽

奥羽(おうう)は、日本の令制国の陸'''奥'''国(奥州)と出'''羽'''国(羽州)を合わせた地域である。奥羽地方、奥州とも呼ばれる。基本的に、現在の東北地方と一致する。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、陸奥国は磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国に5分割、出羽国は羽前国・羽後国に2分割された。これらを東北七州と呼ぶ。この後も「奥羽」の名は従来どおりの地域に対して用いられる。ただし高校野球の地方大会で「奥羽」の名が、新陸奥国+出羽国にほぼ一致する青森県+秋田県+山形県に対し(1925年~1934年)、あるいは青森県+秋田県に対し(1974年~1977年)使われたことがある。

見る 出羽国と奥羽

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権 日本大百科全書(井上勲執筆項)。 奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。

見る 出羽国と奥羽越列藩同盟

宝亀

は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。

見る 出羽国と宝亀

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。 鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。

見る 出羽国と守護

安達氏

安達氏(あだちし、あだちうじ)は、日本の氏族のひとつ、藤原北家魚名流、藤原北家山蔭流、坂上氏坂上流、高句麗国王族末裔等を称する。

見る 出羽国と安達氏

安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。

見る 出羽国と安東氏

安東愛季

安東 愛季(あんどう ちかすえ/よしすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。出羽国の戦国大名。下国(檜山)安東氏8代当主。居城は檜山城、後に脇本城。

見る 出羽国と安東愛季

寺内 (秋田市)

寺内(てらうち)は秋田県秋田市にある大字である。郵便番号は011-0901となる寺内字三千刈の一部は、郵便番号7桁化になった当初の時期までは、秋田中央郵便局の集配区になっていた関係で、010-0801となっていたが、現在は「寺内字~」となっている区域全域が土崎郵便局の集配区に移行された関係で、011-0901に統一されている。。また、大字寺内に由来し「寺内」を冠した町名を持つ地区の総称でもある。各町の郵便番号は、寺内油田011-0903、寺内後城011-0906、寺内鵜ノ木011-0938、寺内大小路011-0908、寺内大畑011-0939、寺内神屋敷011-0905、寺内高野011-0937、寺内児桜011-0909、寺内堂ノ沢011-0902、寺内蛭根011-0904、寺内焼山011-0907。大字寺内と各町を合わせた人口は9,458人(2011年4月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。

見る 出羽国と寺内 (秋田市)

寒河江元時

寒河江 元時(さがえ もととき)は、室町時代の武将。寒河江氏9代。寒河江城主2代。

見る 出羽国と寒河江元時

寒河江荘

寒河江荘(さがえのしょう)は、出羽国村山郡(現在の山形県西村山郡および寒河江市)にあった摂関家の荘園。

見る 出羽国と寒河江荘

寒河江氏

寒河江氏(さがえうじ、さがえし)は、大江氏の支流である日本の氏族の一つ。寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家の請所(地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。寒河江大江氏ともいう。南北朝時代末以降より寒河江の名字を称した。

見る 出羽国と寒河江氏

寛仁

寛仁 (かんにん、)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1021年までの期間を指す。この時代の在位した天皇は、後一条天皇(第68代)。

見る 出羽国と寛仁

寛弘

寛弘 (かんこう、)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1012年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。

見る 出羽国と寛弘

寛正

寛正 (かんしょう、)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1460年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。

見る 出羽国と寛正

小田島荘

小田島荘(おだじまのしょう)は、出羽国村山郡(現在の山形県東根市)にあった摂関家の荘園。小但嶋荘とも書かれる。

見る 出羽国と小田島荘

小物忌神社

一の鳥居国道345号の交差点付近にある一の鳥居。 本殿 夢草堂 小物忌神社(おものいみじんじゃ)は、山形県酒田市にある神社である。出羽国三宮で、旧社格は県社。酒田市内には同名の神社が2カ所にある。

見る 出羽国と小物忌神社

小野寺氏

小野寺氏(おのでらし)は、出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされるが守部氏ともいう。家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。かなり早い時期から多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名であり、本項では主にそれについて述べる。

見る 出羽国と小野寺氏

山形城

山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている。 山形城 古絵図 外堀の風景。

見る 出羽国と山形城

山形県

山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は山形市。 県名の「山形」は、『和名類聚抄』に今の山形市の南側を「郷」と言ったことに由来すると言われている。 県域の西側は日本海に面する。

見る 出羽国と山形県

山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。

見る 出羽国と山形藩

山辺町

山辺町(やまのべまち)は、山形県のやや南東部に位置する、人口約1万3千人の町。ニットをはじめとする伝統繊維産業や、「舞米豚」(まいまいとん)や「やまべ牛乳」などの畜産業で知られる。出羽国で唯一現存している安国寺がある。

見る 出羽国と山辺町

山本郡

秋田県山本郡の範囲(1.藤里町 2.三種町 3.八峰町 水色:後に他郡から編入した区域) 山本郡(やまもとぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)の郡。本項では旧称の檜山郡(ひやまぐん)についても述べる。 以下の3町を含む。

見る 出羽国と山本郡

岩船郡

新潟県岩船郡の範囲(1.粟島浦村 2.関川村) 岩船郡(いわふねぐん)は、新潟県(越後国)の郡。新潟県の中で複数自治体を含む唯一の郡である。 以下の2村を含む。

見る 出羽国と岩船郡

嶽六所神社

嶽六所神社(だけろくしょ じんじゃ)は、秋田県大仙市にある神社。式内小社、旧社格は郷社。

見る 出羽国と嶽六所神社

川尻 (秋田市)

川尻(かわしり)は、秋田県秋田市にある地域名。郵便番号は010-0941他。川尻町、川尻上野町、川尻大川町、川尻御休町、川尻新川町、川尻総社町、川尻みよし町、川尻若葉町で構成される。

見る 出羽国と川尻 (秋田市)

上山藩

上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代、出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。

見る 出羽国と上山藩

上国

上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。

見る 出羽国と上国

上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、武家・華族だった日本の氏族。京都の地下家だったが鎌倉将軍宗尊親王の関東下向に供奉して武家になったとされ、室町時代には足利氏との血縁から関東管領を世襲して関東に広く勢力を広げた。やがて扇谷・宅間・犬懸・山内の4家に分かれ、扇谷と山内の上杉家が栄えたが、後北条氏との戦いで扇谷が滅ぼされ、山内当主上杉憲政も越後へ逃れ、長尾家出身の長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲った。謙信は越後を代表する戦国大名となった。その養子の上杉景勝は会津120万石を領して豊臣政権で五大老になったが、関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗北し出羽国米沢藩30万石に減転封され、江戸時代前期にさらに15万石に減封された。

見る 出羽国と上杉氏

中原師元

中原 師元(なかはら の もろもと)は、平安時代後期の貴族。大外記・中原師遠の三男。官位は正四位上・大外記兼明経博士。安楽坊遵西の祖父。

見る 出羽国と中原師元

中尊寺

中尊寺は、2011年にユネスコの世界遺産に登録された岩手県平泉町所在「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の五つの構成資産の一つである。 中尊寺の宝物・文化財を代表する金色堂は、12世紀に平泉が東北地方(奥州。 現在の東北地方の大半の地域)の政治の中心地であった頃の姿を唯一とどめている建造物である。 中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。 奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。

見る 出羽国と中尊寺

中条家長

中条 家長(ちゅうじょう いえなが、長寛3年(1165年) - 嘉禎2年8月25日(1236年9月26日))は、鎌倉時代の武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。従五位下、出羽守。

見る 出羽国と中条家長

中条氏

中条氏は、日本の氏族の一つ。

見る 出羽国と中条氏

万寿

は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。

見る 出羽国と万寿

三宅康之

三宅 康之(みやけ やすゆき)は、江戸時代中期の大名。三河国田原藩5代藩主。田原藩三宅家8代。官位は従五位下・出羽守、備後守、対馬守。

見る 出羽国と三宅康之

三宅康雄

三宅 康雄(みやけ やすお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。三河国田原藩2代藩主。田原藩三宅家5代。官位は従五位下・出羽守、備前守。

見る 出羽国と三宅康雄

下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。

見る 出羽国と下総国

下越地方

下越地方(かえつちほう)は、新潟県の北東部に位置し、中心都市は新潟市である。新潟県は地理的に4つの地域に分けられるがその一つである。他の3つは上越地方・中越地方・佐渡地方。 かつての越後国(現在の新潟県本州部分)は、上方に近い方から(南から北に)上越後(かみえちご)、中越後(なかえちご)、下越後(しもえちご)と呼ばれていた。そのうち、「下越後」を略した「下越」が新潟県北東部の地域名として用いられるようになった。

見る 出羽国と下越地方

一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮、一ノ宮、一之宮などとも書く。

見る 出羽国と一宮

平安時代

平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。

見る 出羽国と平安時代

平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代後期から末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠「忠」の字は義忠から与えられた偏諱と考えられる。。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。

見る 出羽国と平忠盛

平信兼

平 信兼(たいら の のぶかね)は、平安時代後期の武将。桓武平氏大掾氏の一族、平盛兼の子。大掾信兼、関信兼とも呼ばれる。官位は正五位下・出羽守または和泉守。

見る 出羽国と平信兼

平賀氏

平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。

見る 出羽国と平賀氏

平鹿郡

秋田県平鹿郡の位置(黄:明治期 水色:他郡から編入された地域) 平鹿郡(ひらかぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)にあった郡。

見る 出羽国と平鹿郡

平正衡

平 正衡(たいら の まさひら)は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の棟梁・平正度の五男。官位は従四位下(一説には従五位下)、検非違使、右衛門尉、出羽守。

見る 出羽国と平正衡

平清盛

平 清盛(たいら の きよもり、)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。

見る 出羽国と平清盛

久安

は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1151年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。

見る 出羽国と久安

久寿

は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1156年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。

見る 出羽国と久寿

久保田城

久保田城(くぼたじょう)は、秋田県秋田市千秋公園近辺(羽後国、旧出羽国秋田郡久保田)にあった日本の城。史跡指定はされていないが、「千秋公園(久保田城跡)」として秋田市指定名勝に指定されている。また日本100名城の第9番に選定されている。

見る 出羽国と久保田城

久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つ。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間詰国持大名。 支藩として新田分知された家が2家ある他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。

見る 出羽国と久保田藩

京都扶持衆

京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。京都御扶持衆ともいう。 なお、この言葉の語源については、渡辺世祐が作った学術的用語であり、史料上に出てくる用語としては「京都御扶持者」「京都御扶持之輩」であるため、「京都扶持者」の方が正確なのではないかとする渡政和の指摘もある渡政和「〈京都様〉の〈御扶持〉について -いわゆる〈京都扶持衆〉についての考察-」(初出:『武蔵大学日本文化研究』第5号(1986年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1)。

見る 出羽国と京都扶持衆

康平

康平(こうへい、)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1065年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。

見る 出羽国と康平

庸(よう)。

見る 出羽国と庸

二階堂行義

二階堂 行義(にかいどう ゆきよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武士。鎌倉幕府評定衆。

見る 出羽国と二階堂行義

二階堂貞藤

二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ)は、鎌倉時代後期の御家人。鎌倉幕府政所執事。法名の道蘊(どううん)で呼ばれることも多い。

見る 出羽国と二階堂貞藤

二階堂氏

二階堂氏(にかいどうし)は、日本の氏族。

見る 出羽国と二階堂氏

庄内地方

■紫:庄内地方Nowrap end 庄内地方の自治体Nowrap begin1. 酒田市wrap2. 鶴岡市(旧)wrap3. 立川町(現庄内町)wrap4. 余目町(現庄内町)wrap5. 藤島町wrap6. 羽黒町wrap7. 櫛引町wrap8. 三川町wrap9. 朝日村wrap10. 温海町wrap11. 遊佐町wrap12. 八幡町wrap13.

見る 出羽国と庄内地方

庄内町

月山と月山神社 最上川さみだれ大堰 庄内町(しょうないまち)は、山形県東田川郡の町。庄内地方中央に位置し、酒田都市圏の一部である。県内の町村では高畠町に次いで人口が多い。

見る 出羽国と庄内町

庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある(酒井忠明を参照のこと)。

見る 出羽国と庄内藩

亀田藩

亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城家。

見る 出羽国と亀田藩

仁平

仁平(にんぺい/にんぴょう、)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1154年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。

見る 出羽国と仁平

仁和

は、日本の元号の一つ。元慶の後、寛平の前。885年から889年までの期間を指す。この時代の天皇は光孝天皇、宇多天皇。

見る 出羽国と仁和

仁賀保藩

最後の仁賀保領主・仁賀保誠成 仁賀保藩(にかほはん)は、江戸時代初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた藩。藩主は仁賀保氏。

見る 出羽国と仁賀保藩

令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づき設置された日本の地方行政区分であり律令国(りつりょうこく)ともいう。古墳時代以後、飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。現在は行政区分としての機能は失われ、単なる地理的区分となっている。ただし、その地理的区分としての機能も都道府県に取って代わられつつある。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ、こう)や府中といった。

見る 出羽国と令制国

令制国一覧

大宝元年)から702年(大宝2年)まで。濃い黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。

見る 出羽国と令制国一覧

延喜

延喜(えんぎ、)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを「延喜の治」と呼ぶようになり、村上天皇の「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。

見る 出羽国と延喜

延喜式

九條家に伝わる「延喜式(九條家本)」(東京国立博物館蔵、国宝) url。

見る 出羽国と延喜式

延喜式神名帳

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見る 出羽国と延喜式神名帳

延暦

は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。

見る 出羽国と延暦

建保

建保 (けんぽう、)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1219年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。

見る 出羽国と建保

仙北一揆

仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年)9月下旬ころ出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡当時の「仙北」は現在の仙北郡地方(大仙市・仙北市ふくむ)よりもさらに広域地名で、それより南の横手市・湯沢市一帯も含む、仙北・平鹿・雄勝3郡の総称で現在の秋田県内陸南部全体を指していた。中世にあっては仙北のうち、戸沢氏領は「北浦郡」、本堂氏・六郷氏領は「中郡」、小野寺氏領は「上浦郡」と称されていた。)で発生した、豊臣政権による太閤検地に反対する一揆である。

見る 出羽国と仙北一揆

仙北郡

秋田県仙北郡の範囲(緑:美郷町 水色:後に他郡から編入した区域) 仙北郡(せんぼくぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)の郡。本項では旧称の山本郡(やまもとぐん)についても述べる。 以下の1町を含む。

見る 出羽国と仙北郡

伊達稙宗

伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国の戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。

見る 出羽国と伊達稙宗

伊達氏

伊達氏(だてし/いだてし)は、武家・華族だった日本の氏族。鎌倉時代に朝宗が陸奥国伊達郡を与えられて伊達と称したのに始まる。陸奥の有力豪族となり、戦国時代には戦国大名と化し、政宗の代に陸奥の南半分を征服したが、豊臣秀吉の天下統一で領国を削減された。江戸時代には宗家が仙台藩藩主家、政宗の庶長子・秀宗の家系が宇和島藩藩主家となり、明治維新後には侯爵に叙された宇和島伊達家を筆頭に7家が華族に列した(侯爵家1家、伯爵家1家、子爵家1家、男爵家4家)。

見る 出羽国と伊達氏

会津征伐

会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行われた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。

見る 出羽国と会津征伐

弥彦山

弥彦山(やひこやま)は、新潟県の西蒲原郡弥彦村と長岡市の境界にある標高634mの山である。

見る 出羽国と弥彦山

弘仁

は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。

見る 出羽国と弘仁

佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた。 通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、・笹竜胆・佐竹桐・・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜が現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。

見る 出羽国と佐竹氏

御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人を指す。なおその身分は、中世と近世とでは意味合いが多少異なる。

見る 出羽国と御家人

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。

見る 出羽国と徳川家康

後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。

見る 出羽国と後三年の役

後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉 - 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。 鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。

見る 出羽国と後白河天皇

律令制

律令制(りつりょうせい)とは、中国の律令・律令法に基づく国家の法体系・制度を指す。 また古代日本において、それを取り入れた体系・国家制度・統治制度を指す。本稿では主にこの日本の制度を述べる。

見る 出羽国と律令制

保呂羽山波宇志別神社

保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)は、秋田県横手市大森町八沢木の保呂羽山山腹にある神社。式内小社「出羽国平鹿郡 波宇志別神社」、旧社格は県社。

見る 出羽国と保呂羽山波宇志別神社

保元

は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1159年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。

見る 出羽国と保元

俘囚

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。

見る 出羽国と俘囚

土岐頼雄

土岐 頼雄(とき よりかつ)は、南北朝時代の武将。後に揖斐頼雄を称した。

見る 出羽国と土岐頼雄

土崎港

土崎港(つちざきみなと)は、秋田県秋田市北部の地区。単に「土崎」(つちざき)とも呼ばれる。土崎港北一丁目 - 七丁目、土崎港中央一丁目 - 七丁目、土崎港西一丁目 - 五丁目、土崎港東一丁目 - 四丁目、土崎港南一丁目 - 三丁目、土崎港穀保町と、住居表示未実施の土崎港御蔵町、土崎港下浜町、土崎港相染町、土崎港古川町がある。人口は19,975人(2020年10月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。 以降、本項では土崎と表記し、1941年(昭和16年)4月1日に秋田市へ編入された旧南秋田郡土崎港町、出羽国秋田郡土崎湊と周辺部についても併せて解説する。

見る 出羽国と土崎港

在庁官人

在庁官人(ざいちょうかんにん、ざいちょうかんじん)とは、日本の平安中期から鎌倉期に国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。在庁官人という名前の役職が存在したわけではない。在庁(ざいちょう)、庁官(ちょうのかん)とも。中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚であり、国司の側近としての性格があった。国司の現地赴任そのものがほぼ行われなくなり、そのうちで強大な実力を持ったものは在国司(ざいこくし)とも呼ばれるようになった。

見る 出羽国と在庁官人

地震

地震(じしん、earthquake)は、以下の2つの意味で用いられる日本地震学会地震予知検討委員会(2007)。

見る 出羽国と地震

北陸地方

北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部(中部地方)の日本海に面した地域を指す名称である。畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。 現代においては北陸道と同じ範囲である新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは新潟県を除く3県のことを指すことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「北陸4県」または「新潟県を含む北陸地方」、後者は「北陸3県」などと表現されることがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。域内の最大都市は新潟県新潟市、北陸3県の最大都市は石川県金沢市である。

見る 出羽国と北陸地方

僧妙達蘇生注記

『僧妙達蘇生注記』(そうみょうたつそせいちゅうき)とは、妙達という僧が、冥界で見聞した内容を記した冥界遍歴譚。

見る 出羽国と僧妙達蘇生注記

嘉禎

嘉禎(かてい、)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1238年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。

見る 出羽国と嘉禎

和名類聚抄

『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。

見る 出羽国と和名類聚抄

和銅

は、日本の元号のひとつ。慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。

見る 出羽国と和銅

アイヌ語

アイヌ語(アイヌご、アイヌ語ローマ字表記: Aynu itak, 仮名文字表記: アイヌ イタㇰ, キリル文字表記: Айну итак)は、日本列島の北海道を中心に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。「孤立した言語」であるが、方言差があるため、下位方言を別々の言語と見なして「アイヌ語族」()と呼ばれることが稀にある。 近世の時点でのアイヌ民族の居住地域は、北海道島とその周辺島嶼、東北地方北部、樺太(サハリン)南部、千島列島、カムチャツカ半島南端部で、アイヌ語圏も概ねその範囲であったとされる。現在アイヌは関東地方などにも拡散しているが(1988年時点で東京都内に2700人)、日本国内のアイヌのほぼ全員が日本語話者である。

見る 出羽国とアイヌ語

内田正衆

内田 正衆(うちだ まさもろ)は、江戸時代の大名。下野鹿沼藩の第2代藩主。小見川藩内田家2代。 正保2年(1645年)、初代藩主・正信の次男として生まれる。長兄の新五郎が早世したために世子となり、慶安4年(1651年)に父が殉死したため、跡を継いで藩主となる。万治元年(1658年)閏12月27日に叙任する。元禄12年(1699年)2月4日に死去。享年55。跡を長男・正勝の長男である正偏が継いだ。

見る 出羽国と内田正衆

出羽丸岡藩

出羽丸岡藩(でわまるおかはん)は、江戸時代初期に出羽田川郡(現在の山形県鶴岡市)に存在した藩。

見る 出羽国と出羽丸岡藩

出羽三山

出羽三山(でわさんざん)は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。 出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社・出羽神社・湯殿山神社」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。 現在、毎年8月末には出羽三山神社(神道)、羽黒山修験本宗(修験道)のそれぞれの山伏により「秋の峰」と呼ばれる1週間以上におよび山に籠る荒行が行われる。

見る 出羽国と出羽三山

出羽仙台街道

出羽仙台街道(でわせんだいかいどう)は、江戸時代に陸奥国の最大都市である仙台藩・仙台城の城下町(現・宮城県仙台市。)と、西廻海運の起点である庄内藩の港町酒田湊(現・山形県酒田市。)とを結んだ街道のうち、奥羽両国を隔てる奥羽山脈を超える区間、すなわち、吉岡宿(宮城県黒川郡大和町吉岡。)から舟形宿(山形県最上郡舟形町。)までの区間の通称。 現在では特に「出羽仙台街道中山越」として史跡指定されている県境の区間、すなわち、宮城県大崎市鳴子の尿前番所()から山形県最上郡最上町の笹森番所()までの区間 (4.2km) を指すことが多い。

見る 出羽国と出羽仙台街道

出羽弁

出羽弁(でわのべん/いでわのべん、出羽辨、寛弘4年(1007年)頃? - 没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。父は出羽守平季信、あるいは加賀守平秀信。 一条天皇の中宮藤原彰子(上東門院)、その妹で後一条天皇の中宮藤原威子、さらにその所生の章子内親王に仕えた。長元6年(1033年)には源倫子の70歳の祝賀で屏風歌を進詠したほか、多くの歌合で活躍した。 『後拾遺和歌集』以後の勅撰和歌集に入集。家集に「出羽弁集」がある。 なお『栄花物語』続編の巻31から巻37まではこの出羽弁の作という説がある。また『六条斎院禖子内親王家物語合』には、物語『あらば逢ふ夜の』の作者はこの出羽弁だと記されている。

見る 出羽国と出羽弁

出羽国の式内社一覧

出羽国の式内社一覧(でわのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、出羽国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。

見る 出羽国と出羽国の式内社一覧

出羽神社

出羽神社(いではじんじゃ)は、山形県の羽黒山山頂に鎮座する神社である。祭神は伊氐波神・稲倉魂命。式内社で、旧社格は国幣小社。

見る 出羽国と出羽神社

出羽郡

建国時の出羽国出羽郡の範囲 出羽郡(いではぐん)は、越後国(その後出羽国庄内地方)にかつて存在した郡である。和銅元年(708年)、越後国の一部に設立された。和銅5年(712年)、出羽郡を中心として出羽国が建国された。その後の『延喜式』では、出羽国は出羽郡、飽海郡、田川郡の3郡に分かれている。中世以降田川郡に編入され消滅した。

見る 出羽国と出羽郡

出羽柵

出羽柵(でわのき/いではのき/でわのさく)は、現在の山形県庄内地方(城輪柵跡か)、のち秋田県秋田市付近(。

見る 出羽国と出羽柵

出羽清原氏

出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説には至っていない。

見る 出羽国と出羽清原氏

出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

見る 出羽国と出雲国

八郎潟町

高岳山 馬場目川 八郎潟町(はちろうがたまち)は、秋田県の北西部に位置し、南秋田郡に属する町である。

見る 出羽国と八郎潟町

六郷氏

六郷氏(ろくごうし)は、日本の氏族。武蔵江戸氏流と藤原南家為憲流工藤氏流がある。

見る 出羽国と六郷氏

元慶

は、日本の元号の一つ。貞観の後、仁和の前。877年から885年までの期間を指す。この時代の天皇は陽成天皇、光孝天皇。

見る 出羽国と元慶

元慶の乱

元慶の乱(がんぎょうのらん)は、平安時代に起きた夷俘(蝦夷)の反乱である。出羽国の夷俘が朝廷の苛政に対して蜂起して秋田城を襲ったもので、官軍は苦戦し鎮圧は難航したが、朝廷摂政・藤原基経は、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、藤原保則による寛政によって鎮撫して終息した。

見る 出羽国と元慶の乱

前田房長

前田 房長(まえだ ふさなが、宝永7年(1710年) - 安永10年2月26日(1781年3月20日))は、江戸時代の高家旗本。藤原北家閑院流高家前田家第2代当主。旗本寄合松平康郷(松井松平氏)の三男。幼名は長九郎。通称は式部。官位は従四位上・侍従・出羽守。後に長覚と号す。 父方の曽祖父は和泉岸和田藩主松平康重、祖父は旗本松平康敬(康重の五男)。実兄に石見浜田藩主松平康豊(康郷の長男)らがいる。 享保19年(1734年)、高家肝煎役前田玄長の養子となる。享保20年(1735年)5月15日将軍徳川吉宗に御目見し、それに伴い表高家に列した。寛延3年12月14日(1751年)、部屋住みより新規に召し出され、高家役見習となった。同年12月18日、従五位下・侍従・出羽守に叙任。

見る 出羽国と前田房長

副川神社

副川神社(そえがわじんじゃ)は秋田県南秋田郡八郎潟町の高岳山山頂付近にある神社である。式内小社、旧社格は郷社。

見る 出羽国と副川神社

国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。

見る 出羽国と国分寺

矢島藩

矢島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の一つ。羽後国(旧出羽国)由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)の矢島陣屋(別称:八森陣屋)に政庁を置いた。藩主は生駒家。

見る 出羽国と矢島藩

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

見る 出羽国と石田三成

石河光茂

石河 光茂(いしこ みつしげ)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第9代当主。

見る 出羽国と石河光茂

石河正章

石河 正章(いしこ まさあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第4代当主。名字を石川から石河に改めた。

見る 出羽国と石河正章

磐舟柵

磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)は、新潟県村上市岩船周辺に置かれたとされる日本列島の古代城柵。名称は「石船柵」とも。7世紀代の648年(大化4年)に越国に置かれたといい、8世紀初め頃まで存続した。正確な所在地は明らかでない。

見る 出羽国と磐舟柵

社格

社格(しゃかく)とは、神社の格式。祭政一致に基づき、朝廷などにより定められる。

見る 出羽国と社格

神宮寺 (大仙市)

神宮寺(じんぐうじ)は、秋田県大仙市の大字。郵便番号019-1701。本項では同地域にかつて存在した仙北郡神宮寺村(じんぐうじむら)、神宮寺町(じんぐうじまち)についても記す。

見る 出羽国と神宮寺 (大仙市)

租(そ)は、税(ぜい)と並んで、国家維持に必要な財政を調達するために、政府が徴収する財物・サービスのことである。国衙の経費(地方財源)に充当されていた。

見る 出羽国と租

秩父重綱

秩父 重綱(ちちぶ しげつな)は、平安時代後期の武将・豪族。

見る 出羽国と秩父重綱

秋田城

秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。 秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。

見る 出羽国と秋田城

秋田城介

秋田城介(あきたじょうのすけ)は、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。

見る 出羽国と秋田城介

秋田市

秋田市(あきたし)は、秋田県の沿岸中部に位置する市。秋田県の県庁所在地及び人口が最多の市で、中枢中核都市、および中核市に指定されている。

見る 出羽国と秋田市

秋田県

秋田県(あきたけん、旧字体・異体字:秋田縣・穐田縣・龝田縣)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は秋田市。

見る 出羽国と秋田県

秋田街道

秋田街道(あきたかいどう)は、日本に複数ある街道名。

見る 出羽国と秋田街道

秋田郡

出羽国秋田郡の範囲 秋田郡(あきたぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)にあった郡竹内一朔「秋田郡」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074。

見る 出羽国と秋田郡

秋田氏

秋田氏(あきたし)は、武家・華族だった日本の氏族。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から室町時代にかけて出羽北部から津軽地方にかけてを領した安東氏が戦国時代に出羽国秋田湊の地名または秋田城介の官職から秋田氏を称したのに始まるという。江戸時代には陸奥国(磐城国)三春藩5万石を領する外様大名として続き、明治維新後には子爵家に列する。通し字は「季(すえ)」。

見る 出羽国と秋田氏

秋田戦争

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)などが、薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)・肥前藩(現在の佐賀県)などと共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。

見る 出羽国と秋田戦争

管領

管領(かんれい)は、室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。また、幕臣の筆頭として、足利将軍家における重要な儀式(元服・就任・任官関係)に参列して行事を執り行った。足利氏家宰である執事の後継である。管領職に就任することができる家格である三管領家(さんかんれいけ)についても本項で解説を行う。

見る 出羽国と管領

篠川城

篠川城(ささがわじょう)は、福島県郡山市安積町笹川にあった日本の城。佐々河城と書かれることもある。

見る 出羽国と篠川城

簗田政綱

簗田 政綱(やなだ まさつな)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。名は広正とも伝わる。

見る 出羽国と簗田政綱

米代川

米代川(よねしろがわ)は、主に秋田県の北部を流れ日本海に注ぐ米代川水系本流の一級河川である。東北地方第5の大河で、秋田県内では流域面積が雄物川に次ぐ。河口付近では「能代川」とも呼ばれる。大日本帝国海軍の軽巡洋艦の能代はこの能代川から名付けられている。

見る 出羽国と米代川

米沢街道

現代において、福島県会津若松市と山形県米沢市を結ぶ国道121号 米沢街道(よねざわかいどう)は、陸奥国会津郡若松(現在の福島県会津若松市)と出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)を結ぶ街道である会津若松市史研究会 (2006), p.4会津若松市史研究会 (2006), pp.71-72.。会津街道とも呼ばれていた。

見る 出羽国と米沢街道

米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は外様大名の上杉氏。石高は当初30万石で国主大名だったが、1664年に15万石に減封される。幕末に一時的に18万7千石に加増されるも戊辰戦争後に14万7千石に減封となり、支藩を併合して廃藩置県を迎えた。

見る 出羽国と米沢藩

米津田盛

米津 田盛(よねきつ ただもり/たもり/みちもり)は、江戸時代前期の旗本・大名。官位は従五位下・内蔵助、出羽守。

見る 出羽国と米津田盛

米津通政

米津 通政(よねきつ みちまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国久喜藩5代藩主、出羽国長瀞藩初代藩主。官位は従五位下・出羽守、播磨守。

見る 出羽国と米津通政

紫波郡

岩手県紫波郡の範囲(1.紫波町 2.矢巾町) 旧紫波郡役所庁舎(紫波町指定文化財) 紫波郡(しわぐん)は、岩手県(陸奥国・陸中国)の郡。 以下の2町を含む。盛岡都市圏の南部に位置し、人口は増加傾向にある。

見る 出羽国と紫波郡

続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。

見る 出羽国と続日本紀

総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(。

見る 出羽国と総社

置賜郡

山形県置賜郡の範囲 置賜郡(おきたまぐん、おきたまのこおり)は、山形県(出羽国・羽前国)にあった郡。中世から近世には長井郡ともいった。

見る 出羽国と置賜郡

羽州街道

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見る 出羽国と羽州街道

羽州浜街道

羽州浜街道(うしゅうはまかいどう)は、出羽国の沿岸部を南北に連絡する街道である。酒田宿より南では越後街道、北では酒田街道とも呼ばれる。北国街道の北端である鼠ヶ関から延長する形で伸びているため、北国街道と呼ぶ例もある。 出羽国沿岸の砂丘付近をほぼまっすぐ北上し、羽州街道久保田宿に到る。現在の国道7号、国道112号などに相当する。参勤交代に利用した藩はなく、商人や出羽三山参詣者などが主な利用者だった。松尾芭蕉も「奥の細道」行脚時に通行している。

見る 出羽国と羽州浜街道

羽後国

羽後国(うごのくに)は、東北戦争終結直後に出羽国を分割し制定された、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。別称は羽前国とあわせて、または単独で羽州(うしゅう)。領域は秋田県のうち鹿角市と小坂町を除いた大部分と、山形県の飽海郡、同じく山形県の酒田市の最上川以北部分にあたる。

見る 出羽国と羽後国

羽前国

羽前国(うぜんのくに)は、東北戦争終結直後に出羽国を分割し制定された、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。別称は羽後国とあわせて、または単独で羽州(うしゅう)。領域は現在の山形県のうち、飽海郡と酒田市北部(最上川以北)を除いた大部分にあたる。

見る 出羽国と羽前国

真田信弘

真田 信弘(さなだ のぶひろ)は、江戸時代中期の大名。信濃国松代藩の第4代藩主。

見る 出羽国と真田信弘

田川郡 (羽前国)

山形県田川郡の範囲 田川郡(たがわぐん)は、山形県(出羽国・羽前国)にあった郡。羽前国で唯一海岸線を有した郡である。

見る 出羽国と田川郡 (羽前国)

田辺難波

田辺 難波(たなべ の なにわ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。氏姓は田辺史のち上毛野君。官位は従五位上・中衛員外少将。

見る 出羽国と田辺難波

由利郡

秋田県由利郡の範囲(薄黄:後に他郡に編入した区域) 由利郡(ゆりぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)にあった郡。

見る 出羽国と由利郡

由豆佐売神社

由豆佐売神社(ゆずさめじんじゃ)は、山形県鶴岡市にある神社である。

見る 出羽国と由豆佐売神社

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。

見る 出羽国と直江兼続

相馬貞胤

相馬 貞胤(そうま さだたね、万治2年5月9日(1659年6月28日) - 延宝7年11月23日(1679年12月25日))は、江戸時代前期の大名。相馬氏第20代当主。陸奥相馬中村藩第4代藩主。第3代藩主・相馬忠胤の長男。母は第2代藩主・相馬義胤の娘。正室は板倉重矩の娘。官位は従五位下、出羽守。 延宝元年(1673年)、父・忠胤の死去により、同年12月25日、4代藩主に就任する。同月28日、従五位下出羽守に叙任される。しかし、6年後の延宝7年(1679年)に死去した。男子がなく、家督は弟・昌胤が継いだ。

見る 出羽国と相馬貞胤

鎮守府 (古代)

鎮守府(ちんじゅふ)は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。その長官である将軍の名が天平元年(729年)に初めて見えることから、奈良時代前半には鎮守府相当の機関が東国のいずれかの地に設置されたものと推測される。長である鎮守将軍の職位は五位から四位相当である。 一般的に、鎮守府の前身は『続日本紀』に見える「鎮所」(ちんじょ)であり、陸奥国府があったとされる多賀城付近に併設されていたものと推測されている。そして延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が胆沢城を築城し、この時に鎮守府は胆沢城に移されたと言われている。

見る 出羽国と鎮守府 (古代)

鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされていた。

見る 出羽国と鎮守府将軍

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

見る 出羽国と鎌倉幕府

鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。

見る 出羽国と鎌倉公方

鎌倉時代

蒙古襲来絵詞 鎌倉時代(かまくらじだい、、12世紀末 - 正慶2年/元弘3年〈1333年〉)は、幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた約一世紀半の時代を指す日本の歴史の時代区分である。鎌倉時代は、京都の朝廷と並んで相模国鎌倉に置かれた鎌倉幕府が全国統治の中心となり、日本史上で本格的な武家政権による統治が初めて行われた時代である。鎌倉時代には、二度の元寇(蒙古襲来)という未曾有の国難のほか、地震、飢饉、疫病が多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われ、仏教(鎌倉仏教)が広く庶民と武家にまで広まった。 始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照。)。

見る 出羽国と鎌倉時代

遊佐町

遊佐町(ゆざまち)は、山形県の最北部に位置し、日本海に面する人口約1万2千人の町。飽海郡に属する唯一の自治体である。

見る 出羽国と遊佐町

遠国

遠国(おんごく、えんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 古代日本の律令制の下において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。

見る 出羽国と遠国

荘園 (日本)

日本の荘園(しょうえん)とは、古代・中世(8世紀から16世紀)に存在し、権門(中央の貴族(公家、武家の棟梁)・大寺社など)が国家から領有支配が認められ収入を得た農地とその周辺の山野を含む土地を指す岡野友彦「」『歴史研究』51号、愛知教育大学歴史学会、2005年3月、1頁。。その農地は「公領」に対して「私領」と呼ばれ、多くは国家へ納める税の減免が認められ免田となった。 荘園制(しょうえんせい)とは、日本の中世に存在した荘園を基盤とした社会制度である。荘園を領有・統治する都市の貴族や寺社のみならず、荘園に住む住人まで全ての社会階層にとっての生活・経済的基盤であり、中世を通じて存続し続けたすなわち荘園制が確認できる期間が日本の中世の時期であり、中世における日本国の範囲である。

見る 出羽国と荘園 (日本)

荘園公領制

荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)とは、日本の中世における、荘園および公領を土台とした、重層的土地支配構造のことである。この荘園は寄進地系荘園に由来し、公領は国衙領に由来する。歴史学者の網野善彦が提唱した学説に基づく。 11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、鎌倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護(守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み、戦国時代頃までにほぼ形骸化した。最終的には太閤検地で完全に消滅する。

見る 出羽国と荘園公領制

荒川定昭

荒川 定昭(あらかわ さだあき)は、江戸時代初期の旗本。

見る 出羽国と荒川定昭

蝦夷

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である。 大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、俘囚と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。

見る 出羽国と蝦夷

青木一貞

青木 一貞(あおき かずさだ)は、江戸時代後期の大名。摂津国麻田藩の第10代藩主。官位は従五位下・甲斐守。

見る 出羽国と青木一貞

飽海郡

山形県飽海郡の範囲(緑:遊佐町) 飽海郡(あくみぐん)は、山形県(出羽国・羽後国)の郡。 以下の1町を含む。

見る 出羽国と飽海郡

養老

養老(ようろう、)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。

見る 出羽国と養老

評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職のひとつである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを行う最高機関だった。 評定衆家の中でも、席次上位を独占した北条氏系の十二家は以下の通りである。名越家、常盤家、塩田家、政村流北条氏、伊具家、甘縄家、佐介家(2家)、時房流北条氏、大仏家(3家)。

見る 出羽国と評定衆

調

調(ちょう、key)は音楽用語の一つ。 メロディーや和音が、中心音(tonal centre)と関連付けられつつ構成されているとき、その音楽は調性(tonality)があるという。伝統的な西洋音楽において、調性のある音組織を調と呼ぶ。 狭義には、伝統的な西洋音楽において、全音階(diatonic scale)から構成される長調(major key)と短調(minor key)の2つの調が知られ、そのそれぞれは全音階のドの音とラの音が中心音である(長調と短調の場合には、中心音を特に主音(tonic)と呼ぶ)。すなわち、長音階を用いる調が長調であり、短音階を用いる調が短調である。 バロック以降の西洋音楽にあっては、調性を確立する(聞き手に調性を確実に把握させる)ために和声(harmony)が重要な働きをする。

見る 出羽国と調

高畠藩

高畠藩(たかはたはん)は、出羽国(後の羽前国)置賜郡(現在の山形県東置賜郡高畠町)に存在した藩。ただし、現在の高畠町の全域を領地としていたわけではなく、町の中心部にあった高畠村、小郡山村、泉岡村、塩森村、相森村、柏木目村の6村のみであった。高畠城は上杉氏が管理していたが、織田氏は無城大名格のため、高畠陣屋を藩庁とした。上杉氏は織田領以外の町域を高畠城で統治した。嘉永元年(1848年)から米沢藩領の上杉氏の預り地は、織田氏高畠藩領より広大で、屋代のみでも最大で3万7千石、ほかに村山郡があった。

見る 出羽国と高畠藩

高階泰経

高階 泰経(たかしな の やすつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。若狭守・高階泰重の子。後白河法皇の側近(院近臣)。

見る 出羽国と高階泰経

高橋崇

高橋 崇(たかはし たかし、1929年8月13日 - 2014年7月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。 静岡県生まれ。1953年、東北大学文学部国史学科卒業。1963年、「律令官人給与制度の研究」で東北大学文学博士。弘前大学講師、東北大学教養部助教授、岩手大学教授を歴任。

見る 出羽国と高橋崇

谷衛友

谷 衛友(たに もりとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹波国山家藩の初代藩主。

見る 出羽国と谷衛友

谷衛量

谷 衛量(たに もりかず)は、丹波国山家藩の第8代藩主。

見る 出羽国と谷衛量

貞応

は、日本の元号の一つ。承久の後、元仁の前。1222年から1224年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時、泰時。

見る 出羽国と貞応

貞観 (日本)

は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。

見る 出羽国と貞観 (日本)

鳥居氏

鳥居氏(とりいし)は、武家・華族だった氏族。戦国時代に三河国の土豪として松平氏に仕え、江戸時代前期に出羽国山形藩22万石を与えられるも改易となり、その後、下野国壬生藩3万石で廃藩置県まで続き、明治維新後は華族の子爵家に列した。

見る 出羽国と鳥居氏

鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、、1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉)は、日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は藤原実季の女の苡子(贈皇太后)。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。

見る 出羽国と鳥羽天皇

鳥海山

山頂を北北東にある善神沼から 「心字雪渓」が見える。河原宿から山頂を目指すルートでは、この雪渓を横断することになる。 鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236 mの活火山。山頂は山形県側にあるが、秋田県側に山頂があると主張する秋田県民で山頂争いになることが多々ある。山頂に雪が積もった姿が富士山に類似しているため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。日本百名山・日本百景の一つ。2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定された。2009年(平成21年)に国史跡「鳥海山」として指定された。読みは、秋田県側で「ちょうかいさん」、山形県側で「ちょうかいざん」となっている。またかつて秋田県ではちょうげと称されていた。

見る 出羽国と鳥海山

鳥海山大物忌神社

神体山とされた霊峰鳥海山 鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、山形県飽海郡遊佐町にある神社。式内社(名神大社)、出羽国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

見る 出羽国と鳥海山大物忌神社

越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

見る 出羽国と越後国

越国

越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。

見る 出羽国と越国

足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日本の武将。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。正式名称は足利又太郎源尊氏(あしかがまたたろうげんたかうじ)。

見る 出羽国と足利尊氏

足利満貞

足利 満貞(あしかが みつさだ)は、室町時代中期の武将。第2代鎌倉公方・足利氏満の四男。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。

見る 出羽国と足利満貞

鶴岡市

鶴岡市(つるおかし)は、山形県の庄内地方の南部にある市。市の人口は約11万人で、県内人口は第2位である。鶴岡市の面積は東北地方で最も広く全国第7位となり、市町村別でも全国第10位の広さを誇っている。他にも学校給食発祥の地、バンジージャンプ発祥の地、サーフィン発祥の地など様々な文化の発祥地でもある。国際会議観光都市に指定されている。 鶴ヶ岡城周辺の中心市街地は江戸時代には鶴岡藩(通称:庄内藩)の城下町として栄えた。郊外には庄内米やだだちゃ豆の農地が広がり、出羽三山神社には東北地方唯一皇族(蜂子皇子)の墓がある。

見る 出羽国と鶴岡市

霊亀

は、日本の元号のひとつ。和銅の後、養老の前。715年から717年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。

見る 出羽国と霊亀

郡(ぐん)は、行政区画の一種。日本、中国、朝鮮などの、漢字文化圏に導入されたものである。 なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳する際に、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。

見る 出羽国と郡

都岐沙羅柵

都岐沙羅柵(つきさらのき/つきさらさく/ときさらのき/ときさらさく)は、古代日本の城柵の一つ。西暦658年前後に、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部までの範囲に相当する「越国」に置かれていたことが知られるのみで、正確な所在地と設置年・廃止年は不明である。

見る 出羽国と都岐沙羅柵

能見松平家

能見松平家(のみまつだいらけ)は、松平氏の庶流である武家・華族だった家。松平信光の八男・光親を祖とするとされ、重勝の系統が江戸時代に大名(廃藩時豊後国杵築藩)となり、維新後に華族の子爵家に列する。

見る 出羽国と能見松平家

鈴木重実 (庄司)

鈴木 重実(すずき しげざね)は、平安時代中期の武将・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主で、鈴木重氏の子。通称、鈴木庄司。官位は、従七位上、出羽大掾。 天禄元年(970年)、紀伊国名草郡藤白荘年領。長徳2年(996年)に従七位上出羽大掾に任官し、長徳4年(998年)に出羽介・平維茂に従って藤原諸任と戦い58歳で戦死する。兄の鈴木重豊(左近将監)には娘がおり、藤原実方に嫁いで熊野別当・泰救を生んだ。

見る 出羽国と鈴木重実 (庄司)

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた合戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。

見る 出羽国と関ヶ原の戦い

藤原保則

藤原 保則(ふじわら の やすのり)は、平安時代前期の公卿。藤原南家豊成流、左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。

見る 出羽国と藤原保則

藤原秀能

藤原 秀能(ふじわら の ひでよし/ひでとう)は、鎌倉時代前期の武士・廷臣・歌人。

見る 出羽国と藤原秀能

藤原義理

藤原 義理(ふじわら の よしまさ、生年不詳 - 長保4年5月6日(1002年6月19日))は、平安時代中期の貴族。藤原北家魚名流、山城守・藤原国隣の子。藤原南家、伊勢守・藤原忠邦の養子。官位は従五位上・出羽守。

見る 出羽国と藤原義理

藤原為通

藤原 為通(ふじわら の ためみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流、太政大臣・藤原伊通の長男。官位は正四位下・参議。

見る 出羽国と藤原為通

藤原田麻呂

藤原 田麻呂(ふじわら の たまろ)は、奈良時代の公卿。名は太満侶とも記される。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の五男『続日本紀』延暦2年3月19日条。官位は従二位・右大臣、贈正二位。号は蜷淵大臣。

見る 出羽国と藤原田麻呂

藤原興世

藤原 興世(ふじわら の おきよ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守・藤原村田の子。官位は従四位上・伊勢守。

見る 出羽国と藤原興世

藤島町

藤島町(ふじしままち)は、かつて山形県東田川郡におかれていた町。2005年10月1日に、鶴岡市、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市となった。

見る 出羽国と藤島町

葛飾郡

東京府・埼玉県・千葉県・茨城県葛飾郡の範囲(薄赤:後に東京市に編入された区域) 葛飾郡(かつしかぐん)は、東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に存在した郡。中世までは全域が下総国に属した。葛飾は古代からの地名。西は武蔵国の埼玉郡・豊島郡に接していた。 江戸時代初期に西半分(葛西)が分割され武蔵国へ移され、武蔵国葛飾郡が発足した。 1868年には現在の東京都(当時の東京府)を除いた地域で葛飾県が設置された。1878年の郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、翌1879年に残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅した(東京都区部の「葛飾区」についても参照)。

見る 出羽国と葛飾郡

葛西氏

葛西氏(かさいし)は、陸奥国中部(現在の宮城県三陸沿岸から岩手県南部にかけての地域)を統治した大身(数郡規模の国人領主)。 平泉遠征の結果として、鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族である葛西氏が、陸奥国に所領を得て土着した。戦国時代には奥羽の有力な戦国大名に数えられたが、豊臣秀吉の奥州仕置の際に大名としては滅亡した。

見る 出羽国と葛西氏

葛西清重

葛西 清重(かさい きよしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏の庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し、鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。

見る 出羽国と葛西清重

蒲生氏

蒲生氏(がもうし、かもうし)は、日本の氏族の一つ。代表的な一族に下記が挙げられる。

見る 出羽国と蒲生氏

蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(レオ、またはレアン)。子に蒲生秀行。 織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。

見る 出羽国と蒲生氏郷

長井氏

長井氏(ながいし)は日本の氏族のひとつ。著名なものとして、以下の3氏族がある。

見る 出羽国と長井氏

長徳

は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。

見る 出羽国と長徳

長保

は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1004年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。

見る 出羽国と長保

長和

は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1017年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。

見る 出羽国と長和

長元

は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1037年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。

見る 出羽国と長元

長瀞藩

長瀞藩(ながとろはん)は、江戸時代後期以降、出羽国村山郡長瀞村(現在の山形県東根市大字長瀞)を居所とした藩。1796年に譜代大名のよねきつ氏が1万1000石で入封。戊辰戦争後の1869年、飛び地領の上総国大網に藩庁を移して大網藩となった。

見る 出羽国と長瀞藩

長谷堂城

長谷堂城(はせどうじょう)は、出羽国(羽前国)最上郡(山形県山形市長谷堂)にあった中世の日本の城(山城)。山の形から「亀ヶ城」とも呼ばれていた。

見る 出羽国と長谷堂城

酒井氏

酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となり、老中や大老が選任された。維新後、酒井氏からは9家が華族に列した(伯爵家3家、子爵家4家、男爵家2家)。

見る 出羽国と酒井氏

酒田市

酒田市(さかたし)は、山形県の北西に位置する庄内北部の都市である。市の人口は約9万5千人で、県内人口第3位の地方自治体である。

見る 出羽国と酒田市

雑徭

雑徭(ぞうよう、ざつよう)は、中国及び日本の律令制下での労役の形態を取る租税制度である。

見る 出羽国と雑徭

雄勝城

雄勝城(おかちじょう/おかちのき)は、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった日本の古代城柵。『続日本紀』によれば藤原朝狩(公卿藤原仲麻呂の四男)によって天平宝字3年(759年)に築造された関口(1992)pp.129-136。

見る 出羽国と雄勝城

雄勝郡

秋田県雄勝郡の範囲(1.羽後町 2.東成瀬村 薄黄:後に他郡に編入された区域) 雄勝郡(おがちぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)の郡。 以下の1町1村を含む。

見る 出羽国と雄勝郡

速水融

速水 融(はやみ あきら、1929年10月22日 - 2019年12月4日)は、日本の経済学者。位階は従三位。国際日本文化研究センター名誉教授、慶應義塾大学名誉教授、麗澤大学名誉教授。経済学博士。歴史人口学、日本経済史専攻。文化勲章受章者。日本に歴史人口学を導入したことで知られる。また「勤勉革命」を唱え、世界における勤勉革命論のきっかけを作った。英文著作も刊行している。

見る 出羽国と速水融

陣屋

三日月陣屋の長屋門(復元) 陣屋(じんや)は、日本の近世史において領主の所領の拠点となる場所に置かれた城以外の構築物であり多義的な概念である。なお、古代史では宮中など(宮城や京師)を警固する衛士の詰所、中世史では合戦時に兵士が臨時に駐屯する軍営などを陣屋と呼んだ。以下では日本の近世史の用語としての「陣屋」について述べる。

見る 出羽国と陣屋

陸奥国

陸奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部(鹿角郡)。等級区分で大国の一つ。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。

見る 出羽国と陸奥国

陸中国

陸中国(りくちゅうのくに)は、東北戦争終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。領域はほぼ現在の岩手県にあたるが、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部及び岩手県西北の二戸郡を欠き、秋田県北東部の鹿角市と小坂町を含む。

見る 出羽国と陸中国

押領使

押領使(おうりょうし)とは、日本の律令制下の令外官の一つ。警察・軍事的官職。

見る 出羽国と押領使

柳沢吉保

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸に六義園を造営した。

見る 出羽国と柳沢吉保

柵戸

柵戸(さくこ、きのへ、きべ)は、7世紀から8世紀にかけて、城柵を維持するためにその内部ないし周辺に置かれた戸、城柵に属する人々をいう高橋崇『古代東北と柵戸』(1996)pp.11-16。関東地方、北陸地方と信濃国などから、東北地方(新潟県北部をふくむ)や九州地方南部の辺境域に設置された城柵に移住した。自ら土地を開墾して生活を立て、城柵の造営と修理にあたり、戦時には城柵の防衛にあたった。

見る 出羽国と柵戸

林忠英

林 忠英(はやし ただふさ)は、江戸時代後期の旗本、譜代大名。将軍徳川家斉の寵臣として若年寄にすすみ、上総貝淵藩の初代藩主となった。

見る 出羽国と林忠英

林陸朗

林 陸朗(はやし ろくろう、1925年8月12日 - 2017年2月17日『日本歴史』2017年5月号、p.122)は、日本の歴史学者。國學院大學文学部名誉教授。文学博士。専門分野は日本古代史。

見る 出羽国と林陸朗

東山道

東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された。

見る 出羽国と東山道

東国

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見る 出羽国と東国

東田川郡

山形県東田川郡の範囲(1.三川町 2.庄内町 薄緑:後に他郡から編入した区域) 東田川郡(ひがしたがわぐん)は、山形県の郡。 以下の2町を含む。

見る 出羽国と東田川郡

東村山郡

山形県東村山郡の範囲(1.山辺町 2.中山町) 東村山郡(ひがしむらやまぐん)は、山形県の郡。 以下の2町を含む。

見る 出羽国と東村山郡

東洋書林

株式会社東洋書林(とうようしょりん)は、東京都にある日本の出版社。 全体的に博物学的な色彩の強い質の高い出版活動を行っている。日本近世史を中心に歴史関連の全集、学術書や海外考古学関連書(翻訳書)、神話、ファンタジー、ミステリーなどの分野の出版で知られる。

見る 出羽国と東洋書林

松平吉透

松平 吉透(まつだいら よしとお)は、江戸時代前期から中期の大名。出雲国松江新田藩主、のち松江藩4代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従。雲州松平家4代。

見る 出羽国と松平吉透

松平定安

松平 定安(まつだいら さだやす)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩の第10代(最後)の藩主。官位は従四位上・出羽守、左近衛権少将、贈従三位。雲州松平家第10代・12代当主。

見る 出羽国と松平定安

松平宣維

松平 宣維(まつだいら のぶずみ)は、江戸時代中期の大名。出雲国松江藩5代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従、左近衛権少将。雲州松平家5代。

見る 出羽国と松平宣維

松平宗衍

松平 宗衍(まつだいら むねのぶ)は、江戸時代中期の大名。出雲国松江藩6代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従、左近衛権少将。雲州松平家6代。

見る 出羽国と松平宗衍

松平綱隆

松平 綱隆(まつだいら つなたか)は、江戸時代前期の大名。出雲国松江藩2代藩主。官位は従四位下・信濃守、出羽守、侍従。雲州松平家2代。

見る 出羽国と松平綱隆

松平綱近

松平 綱近(まつだいら つなちか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。別名、綱通(つなみち)。出雲国松江藩3代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従。雲州松平家3代。

見る 出羽国と松平綱近

松平直政

松平 直政(まつだいら なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総姉ヶ崎藩主、越前大野藩主、信濃松本藩主を経て出雲松江藩初代藩主。官位は従四位上・左近衛権少将、贈従三位(1907年)。雲州松平家の祖。

見る 出羽国と松平直政

松平治郷

松平 治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代中期から後期の大名。出雲国松江藩10代藩主。雲州松平家7代。 江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。

見る 出羽国と松平治郷

松平清武

松平 清武(まつだいら きよたけ)は、江戸時代中期の大名。上野国館林藩主。越智松平家の祖。

見る 出羽国と松平清武

松平斉恒

松平 斉恒(まつだいら なりつね)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩の第8代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守。雲州松平家8代。

見る 出羽国と松平斉恒

松平斉斎

松平 斉斎(まつだいら なりとき)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩の第9代藩主。官位は従四位上・出羽守、左近衛権少将。雲州松平家9代。藩主在任中は松平 斉貴を名乗った。

見る 出羽国と松平斉斎

板谷街道

板谷街道(いたやかいどう)は、福島県福島市と山形県上山市を繋いでいた街道である。一般的に米沢街道と呼ばれており、板谷峠を越える道筋であることから別称のひとつとして用いられた。

見る 出羽国と板谷街道

村山郡

山形県村山郡の範囲(黄・橙:明治期の郡域 桃・橙:古代から中世にかけての郡域) 村山郡(むらやまぐん)は、山形県(出羽国・羽前国)にあった郡。平安時代前期に成立したが、中世末期から近世前期にかけて郡域が大きく変更された。明治時代の郡区町村編制法施行に際し、南村山郡・東村山郡・西村山郡・北村山郡の4郡に分割されて消滅。近世以降の郡域は、現在の山形県の村山地方におおむね相当する。

見る 出羽国と村山郡

村山藩

村山藩(むらやまはん)は、江戸時代前期に出羽国村山郡(現在の山形県村山地方)内で1万石の所領を有した藩。1682年、遠江横須賀藩5万石の藩主であった本多利長が、失政などを理由として大幅な減封の上で移封された。2代藩主・本多助芳が1699年に転出したため、存続期間は17年間であった。藩主は定府であり、陣屋の所在は不明である。

見る 出羽国と村山藩

森川俊位

森川 俊位(もりかわ としひら)は、下総生実藩の第10代藩主。 天保12年(1841年)、第9代藩主・森川俊民の三男として生まれる。2人の兄が早世したために世子となり、安政2年(1855年)、父の死去により家督を継いだ。安政3年(1856年)12月28日に従五位下・出羽守に叙位・任官する。 安政5年(1858年)7月26日に死去した。享年18。跡を養子の俊徳が継いだ。

見る 出羽国と森川俊位

森川俊徳

森川 俊徳(もりかわ としのり)は、下総生実藩の第11代藩主。 天保15年(1844年)、伊勢亀山藩の第9代藩主・石川総紀の次男として生まれる。安政5年(1858年)に生実藩の第10代藩主・森川俊位が死去したため、その養子として家督を継いで第11代藩主となり、11月23日に従五位下・出羽守に叙位・任官する。万延元年(1860年)4月2日に日光祭祀奉行に任じられた。 文久2年(1862年)10月24日に死去した。享年19。跡を末期養子の俊方が継いだ。

見る 出羽国と森川俊徳

森川俊胤

森川 俊胤(もりかわ としたね)は、下総生実藩の第4代藩主。江戸幕府の若年寄である。

見る 出羽国と森川俊胤

森川俊民

森川 俊民(もりかわ としたみ)は、江戸時代後期の大名・若年寄。下総国生実藩9代藩主。官位は従五位下・弾正忠、紀伊守、出羽守。

見る 出羽国と森川俊民

森川重信

森川 重信(もりかわ しげのぶ)は、下総生実藩の第3代藩主。

見る 出羽国と森川重信

植村家政

植村 家政(うえむら いえまさ)は、江戸時代初期の旗本。のちに大和高取藩の初代藩主。

見る 出羽国と植村家政

植村家教

植村 家教(うえむら いえのり)は、大和高取藩の第10代藩主。 天明7年(1787年)5月3日、第9代藩主・植村家長の三男として高取で生まれる。兄の成松と熊二郎が早世したために世子に指名され、文政11年(1828年)の父の死去により家督を継いだ。嘉永元年(1848年)5月、弟の家貴に家督を譲って隠居する。 万延元年(1860年)9月13日に死去した。享年75。 Category:高取藩主 Category:譜代大名 いえのり Category:1786年生 Category:1860年没。

見る 出羽国と植村家教

横手市

横手市(よこてし)は、秋田県東南部に位置する市。毎年2月に行われる伝統行事のかまくらや、日本三大焼きそばの一つに数えられる横手やきそばで知られている。

見る 出羽国と横手市

橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣。 飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)および葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)を祖として興った皇別氏族『国史大辞典』(吉川弘文館)橘氏項。。姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。 平安時代中期まで複数の議政官を輩出したが以降は振るわず、堂上家は安土桃山時代に断絶した。一部は武家となり、鎌倉幕府創設期に源頼朝の側近となった橘公長・公業親子や、南北朝時代に活躍した楠木氏などが著名である。

見る 出羽国と橘氏

櫛引郡

概ね同区域に設置された山形県東田川郡の位置 櫛引郡(くしびきぐん)は、出羽国にあった郡。

見る 出羽国と櫛引郡

武藤氏

武藤氏(むとうし)は、日本の氏族の一つ。藤原氏の一族である(藤原北家)。 藤原秀郷の流れとも藤原道長の流れともいわれる。武蔵に拠点を置いたため武藤氏と名乗ったとの説が有力である。平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことで有名である。資頼は頼平の実子である。 その末裔としては、出羽の大宝寺氏(頼平の子の氏平が祖)、筑前・肥前の少弐氏(頼平の子の資頼)がある。また、武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)。 家紋は丸に隅立て四つ目である。

見る 出羽国と武藤氏

比内郡

陸奥国比内郡の範囲 比内郡(ひないぐん)は陸奥国にあった郡。概ね現在の大館市、北秋田市、北秋田郡にあたる。

見る 出羽国と比内郡

水谷勝美

水谷 勝美(みずのや かつよし)は、江戸時代前期の大名。備中国松山藩3代藩主。官位は従五位下・出羽守。

見る 出羽国と水谷勝美

水野忠友

水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期から後期の旗本、のち大名、老中。三河大浜藩主、駿河沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。

見る 出羽国と水野忠友

水野忠寛

水野 忠寛(みずの ただひろ)は、江戸時代後期の旗本、大名。駿河沼津藩の第6代藩主。

見る 出羽国と水野忠寛

水野忠周

水野 忠周(みずの ただちか)は、信濃松本藩の第4代藩主。沼津藩水野家4代。

見る 出羽国と水野忠周

水野忠穀

水野 忠穀(みずの ただよし、宝永4年(1707年) - 寛保2年8月24日(1742年9月22日))は江戸時代の旗本。沼津藩水野家7代。通称は惣兵衛。 信濃国松本藩3代藩主水野忠直の九男。4代藩主水野忠周の弟。子は水野忠友(長男)、松平信志(三男)、娘(中根正均正室)、娘(水野忠隣室)、娘(牧野成如正室)。官位は出羽守。 甥の松本藩主水野忠恒が、享保10年(1725年)7月28日、長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は改易となり、川越藩にお預けとなった。しかし、水野氏は徳川家康の母於大の方の生家であることから家名存続を願う声が強く、分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、同年8月27日、叔父にあたる忠穀に相続は許されたが、信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)の旗本として辛うじて名跡を保つこととなった。その後、江戸屋敷に忠恒を預かっている。

見る 出羽国と水野忠穀

水野忠義

水野 忠義(みずの ただよし)は、江戸時代後期の大名。駿河国沼津藩3代藩主。沼津藩水野家10代。官位は従四位下・大和守、出羽守。

見る 出羽国と水野忠義

水野忠職

水野 忠職(みずの ただもと)は、江戸時代前期の大名。信濃国松本藩第2代藩主。沼津藩水野家2代。初代藩主水野忠清の次男。

見る 出羽国と水野忠職

水野忠誠

水野 忠誠(みずの ただのぶ)は、江戸時代末期の大名、老中。駿河国沼津藩第7代藩主。沼津藩水野家14代。

見る 出羽国と水野忠誠

水野忠良

水野 忠良(みずの ただなが)は、駿河沼津藩の第5代藩主。沼津藩水野家12代。 天保5年(1834年)8月5日、第3代藩主水野忠義の五男として江戸外桜田屋敷で生まれる。天保15年(1844年)に兄で先代藩主の忠武が死去したため、その養子として家督を継ぐ。嘉永2年(1849年)12月16日には従五位下、出羽守に叙任された。 幕末期の外国船出没による政情の中、戸田の警備や軍事力の強化を図ったが、これらの出費に加えて嘉永5年(1852年)、嘉永6年(1853年)の旱魃で1万石の甚大な被害を受けるなど、藩財政は逼迫した。 安政5年(1858年)5月3日に死去した。享年25。跡を従弟にあたる忠寛が継いだ。

見る 出羽国と水野忠良

水野忠武

水野 忠武(みずの ただたけ)は、駿河沼津藩の第4代藩主。沼津藩水野家11代。 文政7年(1824年)7月12日、第3代藩主水野忠義の次男として江戸浜町屋敷で生まれる。文政8年(1825年)に兄の惣兵衛が早世したため、天保5年(1834年)6月6日に世子として指名された。天保10年(1839年)12月18日に従五位下、大和守に叙任する。天保13年(1842年)、父の死去により家督を継ぎ、出羽守に転任する。 おりしも幕府では水野忠邦による天保の改革が始まり、祖父の水野忠成による幕政を否定する忠邦による粛清として、三河における新田開発など、様々な手伝い普請を幕命によって命じられ、藩財政難に陥った。

見る 出羽国と水野忠武

水野忠成

水野 忠成(みずの ただあきら)は、江戸時代中期から後期の老中、駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。通常は老中在籍時の出羽守の官名で呼ばれることが多い。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。

見る 出羽国と水野忠成

水野忠敬

水野 忠敬(みずの ただのり)は、幕末の大名、明治時代の華族。駿河沼津藩の第8代藩主、のちに上総菊間藩主。沼津藩水野家15代。5万石。

見る 出羽国と水野忠敬

永承

は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1053年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。

見る 出羽国と永承

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 出羽国と江戸時代

河辺郡

秋田県河辺郡の範囲(水色:後に他郡から編入された区域 薄黄:後に他郡に編入した区域) 河辺郡(かわべぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)にあった郡。寛文4年(1664年)までは豊島郡(としまぐん)といった。

見る 出羽国と河辺郡

沼垂郡

沼垂郡(ぬたりのこおり、ぬったりぐん)は、古代の越後国にあった郡。越後国北部の阿賀野川と荒川の間の地域で、おおむね近代以降の北蒲原郡、現在の新潟駅付近から新発田・中条にかけての地域に相当する。

見る 出羽国と沼垂郡

津軽信順

津軽 信順(つがる のぶゆき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国弘前藩10代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従。

見る 出羽国と津軽信順

津波

2004年スマトラ島沖地震の際に発生した津波が到達した瞬間のタイ王国アオナンの海岸。 津波の発生原理を示す図 津波(つなみ、)は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の自然環境の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。なお、津波(tsunami)は通常は地殻変動要因の現象を指し、気象要因の現象、特にプラウドマン共鳴により増幅された海洋長波は気象津波として区別する。 1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600 km、波高5 m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)西村、1977年、123-124頁。

見る 出羽国と津波

添川

添川(そえがわ)は秋田県秋田市にある地域名。郵便番号は010-0822。境内川原、地ノ内、飛鳥田、太田、古城廻、 添川、添川沢、鶴木台、東台沢、戸平川、長田、矢坂、湯沢、湯沢台、蓬田で構成される。

見る 出羽国と添川

渟足柵

渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)は、越国(高志国)にあった日本の古代城柵。「沼垂城」とも。 大化3年(647年)に築かれたとされる。詳細な所在地は不明だが、現在の新潟県新潟市東区にあったと考えられている。

見る 出羽国と渟足柵

清原令望

清原 令望(きよはら の よしもち)は、平安時代前期の貴族。姓は真人。舎人親王の後裔である右京亮・清原長統(長統王)の子。官位は従五位上・大宰少弐。

見る 出羽国と清原令望

源忠国

源 忠国(みなもと の ただくに)は、平安時代中期の武士。源満政の五男。

見る 出羽国と源忠国

源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守・源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。

見る 出羽国と源光国

源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代中期から後期の武将。八幡太郎の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は逼塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な臆測がされてきた。生前の極位は正四位下。

見る 出羽国と源義家

源斉頼

源 斉頼(みなもと の まさより/なりより)は、平安時代中期の武将・官人・鷹匠。清和源氏満政流。駿河守・源忠隆の長男。政頼、正頼とも記され「せいらい」とも呼称される。

見る 出羽国と源斉頼

木ノ芽峠

木ノ芽峠(きのめとうげ)は、福井県の嶺北と嶺南を隔てる峠である。木嶺(もくれい)とも言い、「嶺北」「嶺南」の語源となっている。 木ノ目峠、木辺峠、あるいは木部山とも表記される(福井県の峠一覧も参照)。

見る 出羽国と木ノ芽峠

本庄繁長

本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。上杉氏の重臣。揚北衆の一人。越後岩船郡小泉庄の本庄城主。上杉氏の会津転封後は守山城と福島城の城代を務めた。本庄房長の子。母は揚北衆の鮎川清長の室と姉妹関係にあったとみられている。

見る 出羽国と本庄繁長

本荘藩

本荘藩(ほんじょうはん)は、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現在の秋田県由利本荘市)に置かれた。

見る 出羽国と本荘藩

月山神社

月山神社(がっさんじんじゃ)は山形県の月山山頂(標高 1,984m)に鎮座する神社である。『延喜式神名帳』において名神大社とされた式内社で、明治の近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多くの修験者や参拝者を集めている。

見る 出羽国と月山神社

按察使

按察使(あんさつし、あぜち)は、中国・日本・朝鮮・ベトナムにかつて存在した官職である。明清においては正三品であった。「按察使」の名称は唐代から用いられた。もともとは監察官のような性質の官職で、監察御史の役割に近かった。後代では司法官としての性質を強め、清代には臬台、臬司、廉訪使、廉台などの別称があった。

見る 出羽国と按察使

最上義定

最上 義定(もがみ よしさだ)は出羽の戦国大名。最上義淳の長男。

見る 出羽国と最上義定

最上義光

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。 南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築いた(『徳川実紀』)。

見る 出羽国と最上義光

最上義連

最上 義連(もがみ よしつら)は、幕末の交代寄合。江戸時代最後の最上家当主で、義光以降江戸幕府の役職についた当主(義智:高家、義実:大番頭)の中の数少ない一人であり、また勤皇家として活動した。

見る 出羽国と最上義連

最上郡

山形県最上郡の範囲(1.金山町 2.最上町 3.舟形町 4.真室川町 5.大蔵村 6.鮭川村 7.戸沢村 桃:古代から中世にかけての郡域) 最上郡(もがみぐん)は、山形県(出羽国・羽前国)の郡。8世紀の初めには裳上郡とも書き、陸奥国に属した。 以下の4町3村を含む。

見る 出羽国と最上郡

最上氏

最上氏(もがみし)は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の足利氏の支流で三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。最上義光は山形藩57万石を領する大大名となったが、その死後の1622年に改易され、子孫はわずか5千石の旗本(交代寄合)に没落した。維新後士族。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。

見る 出羽国と最上氏

惣無事令

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。 惣無事(そうぶじ)が成立したことで中世の私戦、私的執行、私刑罰などはほぼ禁じられることとなり、裁判権や刑罰権を武家領主が独占する公刑主義へと移行したとされる。藤木久志によって提唱され定説化したが、後述する通り様々な批判がなされ議論となっている。

見る 出羽国と惣無事令

戊辰戦争

戊辰戦場址碑 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強は条約による内戦への局外中立を解除した。これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められた。 以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

見る 出羽国と戊辰戦争

戸沢氏

戸沢氏(とざわし)は、武家・華族だった日本の氏族。陸奥国、後に出羽国を支配した国人・戦国大名であり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲し、明治維新後華族の子爵家に列する。

見る 出羽国と戸沢氏

明経博士

明経博士(みょうぎょうはかせ)とは、大学寮の本科である明経道の教官。律令制官人における基本的教養であった五経など儒学を教授した。正六位下相当。職田5町が授けられ、その下に助教2名と令外官の講師である直講(ちょっこう)2名が設けられていた。

見る 出羽国と明経博士

明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 出羽国と明治

明治維新

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。

見る 出羽国と明治維新

新庄藩

新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・西村山郡河北町)を統治した藩。居城は新庄城。

見る 出羽国と新庄藩

新野直吉

新野 直吉(にいの なおよし、1925年7月28日 - 2024年1月17日)は、日本の歴史家。日本古代史および東北地方史を専門領域とする。文学博士(東北大学)。秋田大学名誉教授、秋田県立博物館名誉館長、秋田県文化財保護審議会会長、秋田県生涯学習審議会会長、秋田市史編さん委員長、東北史学会名誉会員。かつての読みは「なおきち」。

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文室綿麻呂

文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ)は、平安時代初期の公卿。備前守・三諸大原の長男。官位は従三位・中納言。勲位は勲四等。

見る 出羽国と文室綿麻呂

斉衡

は、日本の元号の一つ。仁寿の後、天安の前。854年から857年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。

見る 出羽国と斉衡

斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう、、594年〈推古天皇2年〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。

見る 出羽国と斉明天皇

日本三代実録

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平など。編年体の漢文で書かれた。全50巻。

見る 出羽国と日本三代実録

日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(散逸しており、現存10巻)。

見る 出羽国と日本後紀

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)の5つの一族のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ。「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。

見る 出羽国と摂家

慶長出羽合戦

慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)は、慶長5年(1600年)出羽国で行なわれた上杉景勝(西軍)と最上義光・伊達政宗(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」といわれる。東軍が勝利した。

見る 出羽国と慶長出羽合戦

慈恩寺 (寒河江市)

慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院で、現在は慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。

見る 出羽国と慈恩寺 (寒河江市)

承平 (日本)

承平(じょうへい/しょうへい、)は、日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。931年から938年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇。

見る 出羽国と承平 (日本)

承徳

は、日本の元号の一つ。永長の後、康和の前。1097年から1099年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。

見る 出羽国と承徳

拾芥抄

『拾芥抄』(しゅうがいしょう)は、南北朝時代初期に著された類書(百科事典)。全3巻。『拾芥略要抄』(しゅうがいりゃくようしょう)、『略要抄』(りゃくようしょう)とも呼ばれる。

見る 出羽国と拾芥抄

1000年

月曜日から始まる。10世紀最後の年である。

見る 出羽国と1000年

1001年

水曜日から始まる。11世紀最初の年である。

見る 出羽国と1001年

10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。

見る 出羽国と10世紀

12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世音菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。

見る 出羽国と12世紀

12月7日 (旧暦)

旧暦12月7日(きゅうれきじゅうにがつなのか)は、旧暦12月の7日目である。六曜は赤口である。

見る 出羽国と12月7日 (旧暦)

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 Host desecration」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は1356年の金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 Henry Holidayによる歴史画(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)で、フィレンツェのアルノ川の橋のたもとでベアトリーチェに心寄せるダンテが描かれている。 Palazzo Pubblico(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 東勝寺の腹切りやぐら。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 Catalan Atlas」のマンサ・ムーサ。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 『集史』の編纂。イル・ハン国の宰相で歴史家ラシードゥッディーンはその当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 Rubin Museum of Art所蔵のツォンカパの肖像画。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。

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1月19日

1月19日(いちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。

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5月20日 (旧暦)

旧暦5月20日は、旧暦5月の20日目である。六曜は赤口である。

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7世紀

ジブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 夜の旅(イスラー)」を行った聖地であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。画像は東京国立博物館所蔵の玄奘の肖像画。 ナーランダ僧院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ僧院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繡帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 飛鳥の石造物。奈良県明日香村は飛鳥時代に都が置かれたこともあり、幾つもの遺構が残るが、その用途が知られないものも多い。画像は酒船石遺跡の小判形石造物と亀形石造物で、斉明朝の両槻宮との関連があるとも考えられている。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポ。この王のもと吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。画像は王とその二人の妃である唐から来た文成公主とネパールから来たチツン。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 奉先寺大仏。洛陽近郊の龍門にある石窟寺院で、仏教信仰に篤い則天武后の命で造営されたもの。中央の大仏は毘盧遮那仏で、その顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。

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8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による楊貴妃の歴史画(奈良県奈良市の 松伯美術館蔵)。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 高松塚古墳。藤原京時代(694年 - 710年)に建造された終末期古墳の円墳で、天武天皇の皇子乃至は高位の貴族の墓と推定されている。1972年に発見された時にはその極彩色の優美な壁画で耳目を集めた。画像は古墳壁画のうち西壁女子群像の部分。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 Problem of two emperors」の軋轢を生んだ。画像はアーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。

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9世紀

ヴァイキング船博物館蔵)。 エドマンド王が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 崇文の治。薬子の変から承和の変までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は三筆の一人でも名高い嵯峨天皇の肖像画(御物)。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 カバー遺跡。ユカタン半島北部の遺跡で、プウク式装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神チャク神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿のファサードで、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。 Galerie des Batailles」蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。

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9月23日 (旧暦)

旧暦9月23日は旧暦9月の23日目である。六曜は先勝である。

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9月28日 (旧暦)

旧暦9月28日は旧暦9月の28日目である。六曜は赤口である。

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参考情報

708年設立

山形県の歴史

秋田県の歴史

両羽、出羽の国 別名。

安達氏安東氏安東愛季寺内 (秋田市)寒河江元時寒河江荘寒河江氏寛仁寛弘寛正小田島荘小物忌神社小野寺氏山形城山形県山形藩山辺町山本郡岩船郡嶽六所神社川尻 (秋田市)上山藩上国上杉氏中原師元中尊寺中条家長中条氏万寿三宅康之三宅康雄下総国下越地方一宮平安時代平忠盛平信兼平賀氏平鹿郡平正衡平清盛久安久寿久保田城久保田藩京都扶持衆康平二階堂行義二階堂貞藤二階堂氏庄内地方庄内町庄内藩亀田藩仁平仁和仁賀保藩令制国令制国一覧延喜延喜式延喜式神名帳延暦建保仙北一揆仙北郡伊達稙宗伊達氏会津征伐弥彦山弘仁佐竹氏御家人徳川家康後三年の役後白河天皇律令制保呂羽山波宇志別神社保元俘囚土岐頼雄土崎港在庁官人地震北陸地方僧妙達蘇生注記嘉禎和名類聚抄和銅アイヌ語内田正衆出羽丸岡藩出羽三山出羽仙台街道出羽弁出羽国の式内社一覧出羽神社出羽郡出羽柵出羽清原氏出雲国八郎潟町六郷氏元慶元慶の乱前田房長副川神社国分寺矢島藩石田三成石河光茂石河正章磐舟柵社格神宮寺 (大仙市)秩父重綱秋田城秋田城介秋田市秋田県秋田街道秋田郡秋田氏秋田戦争管領篠川城簗田政綱米代川米沢街道米沢藩米津田盛米津通政紫波郡続日本紀総社置賜郡羽州街道羽州浜街道羽後国羽前国真田信弘田川郡 (羽前国)田辺難波由利郡由豆佐売神社直江兼続相馬貞胤鎮守府 (古代)鎮守府将軍鎌倉幕府鎌倉公方鎌倉時代遊佐町遠国荘園 (日本)荘園公領制荒川定昭蝦夷青木一貞飽海郡養老評定衆調高畠藩高階泰経高橋崇谷衛友谷衛量貞応貞観 (日本)鳥居氏鳥羽天皇鳥海山鳥海山大物忌神社越後国越国足利尊氏足利満貞鶴岡市霊亀都岐沙羅柵能見松平家鈴木重実 (庄司)関ヶ原の戦い藤原保則藤原秀能藤原義理藤原為通藤原田麻呂藤原興世藤島町葛飾郡葛西氏葛西清重蒲生氏蒲生氏郷長井氏長徳長保長和長元長瀞藩長谷堂城酒井氏酒田市雑徭雄勝城雄勝郡速水融陣屋陸奥国陸中国押領使柳沢吉保柵戸林忠英林陸朗東山道東国東田川郡東村山郡東洋書林松平吉透松平定安松平宣維松平宗衍松平綱隆松平綱近松平直政松平治郷松平清武松平斉恒松平斉斎板谷街道村山郡村山藩森川俊位森川俊徳森川俊胤森川俊民森川重信植村家政植村家教横手市橘氏櫛引郡武藤氏比内郡水谷勝美水野忠友水野忠寛水野忠周水野忠穀水野忠義水野忠職水野忠誠水野忠良水野忠武水野忠成水野忠敬永承江戸時代河辺郡沼垂郡津軽信順津波添川渟足柵清原令望源忠国源光国源義家源斉頼木ノ芽峠本庄繁長本荘藩月山神社按察使最上義定最上義光最上義連最上郡最上氏惣無事令戊辰戦争戸沢氏明経博士明治明治維新新庄藩新野直吉文室綿麻呂斉衡斉明天皇日本三代実録日本後紀摂家慶長出羽合戦慈恩寺 (寒河江市)承平 (日本)承徳拾芥抄1000年1001年10世紀12世紀12月7日 (旧暦)14世紀1月19日5月20日 (旧暦)7世紀8世紀9世紀9月23日 (旧暦)9月28日 (旧暦)