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側衆

索引 側衆

側衆(そばしゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。御側衆(おそばしゅう)とも呼ばれた。.

32 関係: 側用人堀田正盛大奥大目付奥右筆中根正盛久世広之征夷大将軍御側御用取次御庭番徳川家光徳川家綱徳川綱吉土屋数直内藤重頼公人朝夕人碁所稲葉正休牧野成貞評定所高家 (江戸時代)若年寄老中松平乗政松平信興松平氏信板倉重直江戸幕府旗本旗本寄合席承応1653年

側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

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堀田正盛

堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与(御側)。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。.

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大奥

大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所。あるいは、江戸時代の大大名家の奥向の別称でもある東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。。 本項では、江戸城大奥について述べる。 千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画.

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大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府及び諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。目付の上位。.

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奥右筆

奥右筆(おくゆうひつ)とは、江戸幕府の役職のひとつで、若年寄の支配下にあった。奥御祐筆(おくごゆうひつ)とも言われる。江戸城本丸の御用部屋に詰めることが多かった。.

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中根正盛

中根正盛(なかね まさもり)は、江戸幕府の旗本。役職は御側 / 大目付。官職は壱岐守。.

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久世広之

久世 広之(くぜ ひろゆき、慶長14年(1609年) - 延宝7年6月25日(1679年8月1日))は、江戸時代前期の大名。若年寄、老中。下総関宿藩主。関宿藩久世家初代。 5000石の大身旗本久世広宣の三男。母は今川家家臣奥原経重の娘。兄弟に広当、勝宣、重利、大久保忠当室など。正室は戸田忠能の養女(戸田忠次の娘)。子に重之(三男)、娘(遠山友貞正室)、娘(松平重治正室)、娘(内田正衆正室)ら。養子に広次(甥、兄広当の子)。官位は従五位下大和守。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御側御用取次

御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は、将軍側近職である。.

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御庭番

御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。 諜報活動といっても、実際には時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察したりしていた程度だといわれている。その実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえるが、一般にはいわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇や時代小説などではそのような描写が数多くなされている。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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土屋数直

土屋 数直(つちや かずなお)は、江戸時代前期の大名。常陸土浦藩の初代藩主。江戸幕府の若年寄・老中である。.

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内藤重頼

内藤 重頼(ないとう しげより)は、江戸時代初期の旗本、のち大名。河内富田林藩内藤氏の初代藩主。のちの高遠藩内藤氏第5代(第6代とする説あり)。.

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公人朝夕人

公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)とは、江戸時代にあった役職の一つ。世襲制。.

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碁所

碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。 各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。 また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。.

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稲葉正休

葉 正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の旗本・大名。美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老・堀田正俊は従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。.

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牧野成貞

牧野 成貞(まきの なりさだ、寛永11年11月29日(1635年1月17日) - 正徳2年6月5日(1712年7月8日))は、上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。越後長岡藩主、三河牧野氏の支族。成貞系牧野家初代。.

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評定所

評定所(ひょうじょうしょ)は、近代以前に訴訟を扱った機関およびそれが存在した場所のこと。時代により以下の2つに区分される。.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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松平乗政

松平 乗政(まつだいら のりまさ)は、常陸小張藩主、後に信濃小諸藩の初代藩主。岩村藩大給松平家初代。祖母が石川康通の娘であったことから石川 乗政(いしかわ のりまさ)とも言われる。.

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松平信興

松平 信興(まつだいら のぶおき)は、江戸時代前期の大名、若年寄、大坂城代、京都所司代。高崎藩系大河内松平家初代。松平信綱の五男、.

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松平氏信

松平 氏信(まつだいら うじのぶ、慶長18年(1613年) - 天和3年6月16日(1683年8月8日))は、江戸幕府旗本。形原松平家、松平家信の四男。通称、大学、修理。官位は従五位下、修理亮、内蔵允、左馬允、民部少輔、伯耆守。号は意休。室は久貝正世の娘。子女に松平氏清、八兵衛(久貝正世養子、早世)、伊奈宗英室、本多重寛室、渡辺方綱室、久貝正方(久貝正世養子)、松平氏辰、松平高重(徳川光圀に仕える)、能勢頼方室、遠藤常就室。ほかに寛政重修諸家譜には記載ないが施薬院宗屋室。 寛永2年(1625年)将軍徳川家光に拝謁する。中奥御膳番、書院番、西城小姓組番頭、将軍徳川家綱の書院番頭、大番頭、側衆を歴任する。父の遺領2000石を合わせ武蔵国、下総国に計6000石を領した。延宝5年(1677年)に致仕し、天和3年(1683年)に71歳で死去した。法名は覚涼院殿。墓所は牛込にある法正寺。家督は、長男の氏清が病気により継承を辞退していたため、三男の氏辰が継いだ。 うしのふ Category:江戸幕府旗本 Category:1613年生 Category:1683年没.

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板倉重直

板倉 重直(いたくら しげなお)は、江戸時代の旗本。官位は従五位下筑後守(ちくごのかみ)。 島原の乱で戦死した板倉重昌の次男。 寛永16年(1639年)6月15日、家督を継承した兄・重矩より山城国綴喜郡、三河国額田郡・幡豆郡、下総国葛飾郡において5,000石を分与される。天台宗坂尾山栄福寺(千葉市)の境内にあった栄福寺館は重直の屋敷であった。 万治2年(1659年)7月25日、書院番頭に任じられ、12月28日に従五位下筑後守に叙任された。寛文元年(1661年)11月9日より御側となる。寛文4年(1664年)6月19日、葛飾郡で3000石を加増され、8000石を領する。延宝4年(1676年)4月10日に職を辞する。天和3年(1683年)12月21日に致仕。貞享元年(1684年)5月26日、68歳で死去。 兄・重矩の三男重種を養子に迎えていたが、重種の長兄の重良は廃嫡、次男の重澄は早世していたため、重種は延宝元年(1673年)重矩の家督を相続した。その後、重種の長男・重寛を養子としたが、後に重種の嫡子となった。その後、高木正盛三男の重行を養子とし、家督は重行が継いだ。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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承応

承応(じょうおう)は日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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1653年

記載なし。

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