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伊東氏と伊東義益

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伊東氏と伊東義益の違い

伊東氏 vs. 伊東義益

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。. 伊東 義益(いとう よします)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏12代(伊東氏17代)当主。都於郡城主。.

伊東氏と伊東義益間の類似点

伊東氏と伊東義益は(ユニオンペディアに)共通で15ものを持っています: 伊東マンショ伊東祐信伊東祐兵伊東祐勝伊東祐青伊東義祐伊東義賢伊東氏佐土原城落合兼朝都於郡城野村松綱戦国大名日南市日向国

伊東マンショ

右上の人物が伊東マンショ グレゴリウス13世の謁見の場面 伊東 マンショ(いとう マンショ、Mancio, 満所とも、永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。.

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伊東祐信

伊東 祐信(いとう すけのぶ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 祐信の主君・伊東義祐は、元亀2年(1571年)6月に島津氏15代当主・島津貴久が没すると大隅国の肝付氏が島津領に侵攻し始めたのを好機と捉え、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌元亀3年(1572年)5月に未だ島津氏の治める飯野地区への大攻勢を開始する(木崎原の戦い)。 5月3日夜、祐信は伊東又次郎・伊東祐青と共に、伊東祐安を総大将とした3,000余の軍勢の大将の一人として島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌4日未明に飯野・妙見原に到着し軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍を祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍した。 祐信は手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発。その後、祐信隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城主・川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。 退却した祐信隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からの蒸し暑さのため川で水浴びする者が多かった。そこを飯野城から打って出た島津義弘の軍勢が攻めかかり、祐信を含めた多数の戦死者を出した。その際、祐信は義弘と一騎討ちに及ぶが敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎討ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)。 戦後、小林市の伊東塚に他の戦死者と共に祀られた他、佐土原城にも墓が設けられ現存している。.

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伊東祐兵

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向飫肥藩の初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』では、伊東氏中興の祖と書かれている。.

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伊東祐勝

伊東 祐勝(いとう すけかつ)は、安土桃山時代の武将。伊東氏の家臣。.

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伊東祐青

伊東 祐青(いとう すけはる/すけきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。室の町上(伊東義祐の娘)との間に、祐益(伊東マンショ)・祐平など4人の子がいる。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、本地原に陣をかまえ島津義弘と戦ったが敗れ、小林へ退却した。 天正5年(1577年)、島津氏の攻撃により伊東氏の支城・綾城が落城した際に戦死した。なお、『日向記』には主君の伊東義祐が豊後国へ逃げる際の供の中に祐青の名が記述されており、この逃げる道中において死去したとする説もある。 すけはる Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1577年没.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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伊東義賢

伊東 義賢(いとう よしかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島にある城。江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。 佐土原城跡の名称で2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された。.

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落合兼朝

落合 兼朝(おちあい かねとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国児湯郡財部城主。 落合氏は伊東氏庶流。伊東氏祐が日向に下向する際、付き従い被官化した家系。 兼朝は日向伊東氏の最盛期を築いた伊東義祐の側近を務め、同じく義祐の側近であった伊東祐松(帰雲斎)と共に義祐に重用された。安房国妙本寺の日我は、義祐に日蓮寺院の再興を求めた書状において取次人として「伊東相太守・落合若狭守両人」を挙げている。 永禄11年(1568年)、軍議の席で義祐と祐松の子・祐梁が陣取りに関して争論を始めたため、これを仲裁して軍議を整える。この後、合戦は伊東方の勝利に終わり、島津忠親の飫肥城開城に結びついた。 天正3年(1575年)、嫡男・丹後守を初めとした若衆らが伊東祐安の跡目である金法師の入山先を巡って同輩と争論を起こした際、伊東帰雲斎の判断で丹後守は成敗された。のちに天正5年(1577年)、伊東氏は島津氏に敗れ没落、義祐が兼朝の領する財部(現在の高鍋町)を通って豊後国の大友氏を頼ろうとしたが、兼朝は帰雲斎に丹後守を殺された恨みを忘れておらず、義祐一向が自領に入るのを軍勢を用いて拒んだ。義祐は東光坊なる山伏と栗木太郎五郎を使者として通過を請うたが、兼朝は「帰雲斎を成敗すれば、その命を奉じましょう」と述べ東光坊を撲殺した。これに栗木は慌てて戻るが、その際に足軽が矢を射掛けるなど対決姿勢を露わとした。義祐一向は已む無く米良山に迂回して豊後に入った。 兼朝はこの後、島津氏に寝返り、財部城には川上忠智が入った。.

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都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)は現在の宮崎県西都市にある山城。築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。別名、浮船城。.

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野村松綱

野村 松綱(のむら ますつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡内山城主。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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日南市

日南市(にちなんし)は、宮崎県の南部に位置する市。九州の小京都と称される飫肥(おび)や風光明媚な日南海岸国定公園などを抱える、歴史と自然あふれる観光の街である。 日本海流の影響により温暖な気候で、雨量も豊富である。また、夏から秋にかけては頻繁に台風が接近し、しばしば甚大な被害を受けることもある。 2004年度下半期に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「わかば」の舞台のひとつとなった。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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伊東氏と伊東義益の間の比較

伊東義益が35を有している伊東氏は、241の関係を有しています。 彼らは一般的な15で持っているように、ジャカード指数は5.43%です = 15 / (241 + 35)。

参考文献

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