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京都御所

索引 京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

171 関係: 即位即位の礼千本通南北朝時代 (日本)南禅寺南朝 (日本)右近橘参拝吹上御苑大宮御所大徳寺大嘗祭大和絵大内裏大覚寺大覚寺統大阪府大正天皇天皇天皇の世紀妙法院孝明天皇宝永宮内庁宮内庁京都事務所宮内省宮殿宜秋門安政寝殿造寛永寛文寛政小堀政一小学館小御所会議左近桜上京区帳台万葉集平安京平野神社幕末京都京都市京都市営地下鉄京都市営地下鉄烏丸線京都市営バス京都府京都御苑...京都空襲今出川駅仁和寺延宝延暦建礼門建春門仙洞御所伊勢神宮御所御所千度参り徳川和子徳川慶喜後醍醐天皇後水尾天皇徒然草土佐光信土佐派土御門東洞院殿北向山不動院北朝 (日本)園城寺ヘクタール嘉永呉春ウィキマピア冷泉為恭円山応挙円山・四条派内裏元弘元徳光厳天皇勧修寺国民公園皇后皇太子皇太子妃皇室典範皇室典範 (1889年)皇宮護衛官皇居玄輝門私塾立命館第二次世界大戦紫宸殿織田信長疎開環境省町 (単位)狩野派鎌倉幕府聖護院行基行幸裏松光世飛香舎飛鳥部常則要人高御座高石市鬼門豊臣秀吉賢聖障子賢所足利義満赤坂御用地長沢芦雪英照皇太后林丘寺枕草子東京東京行幸東福寺松平定信松村景文横山清暉橿原神宮正明寺殿上人毘沙門堂水無瀬神宮氷室 (京都市北区西賀茂)江戸時代泉涌寺清涼殿滝口武者漆喰朝日放送月華門朔平門明仁明徳明治明治天皇明治宮殿明治維新昭和昭和天皇日華門数寄屋造り慶応慶長承応承明門書院造1392年14世紀1613年1853年1855年1867年1869年1877年1889年1945年1954年1970年代1990年5月11日794年 インデックスを展開 (121 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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即位の礼

即位の礼で天皇が使用する高御座 即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。.

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千本通

千本通(せんぼんどおり)は京都市の主要な南北の通りの一つ。二条通以南は、平安京の朱雀大路に該当する。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南禅寺

南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右近橘

右近橘(うこんのたちばな)は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右にあった橘の樹。左近桜に相対したものである。 『天暦御記』によれば、もとは秦河勝の宅にあったのを、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間(957年-961年)まであったという。 『日本紀略』によれば、天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本、高さ1丈2尺を植え替え、これは東三条殿の樹で、勅命によった。のちに、皇居の炎上その他でしばしば植え替えが行なわれたが、里内裏の際にもまたこれを植え替える例となった。橘を植えるのは、秦河勝宅地の縁だけではなくて、橘が古くから「トキジクノカクノコノミ」といわれ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥の樹として珍重されたからでもあるともいう。 現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。.

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参拝

参拝(さんぱい)とは、神社、寺院、教会、墓廟などの宗教施設を訪れて、神仏や死者に拝む(または祈る)行為のことである。なお、祈願者本人に代わって参拝することを代参(だいさん)、祈願した神社や寺院に参詣せずその方角に向って参拝することを遥拝(ようはい)という。同様の言葉に「参詣(さんけい)」があるが、参拝は拝むこと(身体的な動作)に主眼があるのに対し、参詣は社寺へ詣でること(地理的な移動)に主眼がある。ただし、社寺に参拝するためにはそこへ詣でることになるので、一般には両者は同義の言葉とみなされている。特定の複数の社寺教会を続けて参拝することを巡礼・巡拝という。.

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吹上御苑

吹上御苑(ふきあげぎょえん)は、日本の皇居(東京都千代田区)・吹上地区にある御苑。敷地の多くは森林となっており、その中に御所等の建物が点在する。.

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大宮御所

大宮御所(おおみやごしょ)とは、皇太后(大宮)の御所(女院御所)を指す。仙洞御所も参照.

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

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大嘗祭

大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。.

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大和絵

源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 大和絵(やまとえ)は日本絵画の様式概念の1つ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のこと。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記され、「日本画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。源氏物語絵巻などの絵巻物に典型的に見られる。土佐派などの流派に受け継がれ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、中国の水墨画の技法・主題を統合したと評される。.

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大内裏

平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.

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大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天皇の世紀

『天皇の世紀』(てんのうのせいき)は、大佛次郎の歴史小説およびその映像化作品。1967年1月1日から1973年4月25日まで「朝日新聞」朝刊に連載され朝日新聞社刊。 のちに明治天皇となる祐宮誕生、ペリーの黒船来航から戊辰戦争に至るまでの激動の幕末維新の時代を膨大な歴史資料を駆使して描いた作品。作者のライフワークとなったが、休載直後の1973年4月30日に死去したため未完となった。絶筆となった回の原稿の仕上げに「病気休載」と書いて締めくくっている。 映像化は二部構成で、第一部の1971年9月4日から11月27日まではテレビドラマとして、第二部の1972年10月1日から1973年3月25日まではテレビドキュメンタリーとして朝日放送制作(当時TBS系列)で放送された。 なお第二部を製作するにあたり、 との大佛のコメントを肉声と字幕にて第1話冒頭に表示した。ドキュメンタリーという体裁ではあるが、一部は再現ドラマ的演出を加えており、ロケーションでは現代の町中に、物語が描かれた当時の雰囲気を再現し、現代の人たちが振りむくという件が紹介されたこともあった。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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孝明天皇

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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宮内庁

宮内庁(くないちょう、Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。 「皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関」である。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。.

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宮内庁京都事務所

京都事務所(きょうとじむしょ)は、宮内庁の地方支分部局。 国有財産である京都御所、京都大宮御所、仙洞御所、桂離宮、修学院離宮と桃山陵墓監区、月輪陵墓監区、畝傍陵墓監区、古市陵墓監区の各所轄の近畿地方の天皇陵や皇族の墓の管理の事務などを担当している。 所在地は京都市上京区京都御苑3番。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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宮殿

イタリア共和国カンパニア州 宮殿(きゅうでん)は、王族、皇族などの君主およびその一族が居住する、もしくは居住していた御殿。君主が政務や外国使節の謁見、国家的な儀式などを行う朝廷部分と、君主が私的な生活を行う宮廷(きゅうてい)部分に分かれる。中世ヨーロッパにおいては戦士階級と世俗君主階級が一体化していたため、城壁に囲まれた城砦の中に国王や領主が居住し、君主が住み政治的機能を有する城砦を宮殿と同時に呼ぶことが一般的であった。しかし、時代の変遷とともに城砦形式の有効性が低下したことなどから、防衛機能より見た目の豪華さ、壮大さや居住性を重視して、都市の中に建設されるようになった。ヨーロッパ大陸諸国では都市の中に建てられた貴族の壮麗な邸宅を指すことがある。ヨーロッパ諸語における「Palace(英)」、「Palast(独)」「 Palais(仏)」、「Palazzo(伊)」という表現は、古代ローマのローマの七丘の一つである「Palatinus Mons(パラティーノ)」に由来する。この丘にローマ貴族の多くが邸宅を建て、初代皇帝も居住したからである。 日本においては戦士階級(武士)に対して、天皇の形式上の地位が保たれていたことから、天皇の住居のみが宮殿と呼ばれ、武士の住居および軍事的基地である城砦とは明確に区別される。日本語の「御所」は「宮殿」と共に英語のPalaceに意味が近い。イタリア語のPalazzoは宮殿というより単に大邸宅を指す語となっている。.

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宜秋門

平安京内裏諸門図 宜秋門(ぎしゅうもん)は、平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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寝殿造

寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代から中世にかけての上層住宅の建築様式である。 かつては東西に立派な対、南に大きな池を持つ左右対称の豪華の屋敷と考えられていたが、それは江戸時代の故実家の想像に過ぎず、その実態は階層により、時代により甚だ変化のあるものと見られている。 寝殿造は中世に様々な技術の進歩や社会生活の変化の影響を受け、室町時代末から桃山時代に書院造へと変化し、現在の和風住宅の源流でもある。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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小堀政一

小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。遠州流(小堀遠州流)茶道の祖。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。.

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小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.

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小御所会議

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都・小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定(ぎじょう)・参与)が行った最初の会議である。大政奉還した徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。.

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左近桜

左近桜(さこんのさくら)は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て左にあった桜の樹。右近橘に相対した。左近桜という名称は、殿上で儀式のあるときこの桜の方に左近衛の陣を敷いたことによる。南殿の桜ともいう。 もとは梅の樹で桓武天皇の平安京遷都のときに植えられたが、承和年間(834年-847年)に枯死したため、仁明天皇のときに梅の代わりに桜を植えたウィーベ・カウテルト Kuitert Wybe『ランドスケープ研究』(2007年11月)、71巻(3)号、日本造園学会、pp.248~252、ISSN 1340-8984、閲覧2010年9月30日『古事談』 第六 一 南殿の桜・橘の樹の事。貞観16年に暴風雨で吹き倒れている。 貞観年間(859年-876年)に枯れたが、その根から生じた芽を坂上瀧守が勅命で培養し、ふたたび枝葉が盛んになった『禁秘抄』 上。 天徳4年(960年)9月、内裏焼失のとき桜も焼けたため、内裏造営に及んで、重明親王の家(のちの東三条殿)の吉野桜(ヤマザクラと考えられる)を移植し、康保元年(964年)11月、同2年(965年)正月の2回にわたり改栽した。その後もしばしば焼け、堀河天皇のときに植えたものが最後となった。このときの桜は承久元年、源頼茂が後鳥羽上皇によって討たれた際、殿舎に火をかけて自殺したときに焼けてしまった。翌2年に大内裏造営にあたり、源光行の家にこの桜からとった種があったため、これを植えた。なお大内裏造営は翌3年に承久の乱のために一時中断し、再開したものの安貞元年4月に火災のために造営中の建物も、光行の家から植えた桜も焼失した。 その後は里内裏をもって大内裏の代わりとしたが、里内裏でも桜を植える風習が続いたが、植える作業を行うのは左近衛大将というしきたりであり、長享元年に新しく桜を植えた際には、ときの左大将近衛尚通があたっている。 現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。.

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上京区

沂高校 京都市歴史資料館 京極小学校、左手に二宮金次郎の像が現存している 上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。.

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帳台

帳台(ちょうだい)とは、平安時代に貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度のこと。御帳台(みちょうだい)、また御帳(みちょう)ともいう。.

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万葉集

元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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平野神社

平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区平野宮本町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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京都市営地下鉄

京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄。烏丸線・東西線の2つの路線があり、西京区を除く京都市内10区と宇治市を通っている。条例上は「京都市高速鉄道」と呼ばれている。.

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京都市営地下鉄烏丸線

烏丸線(からすません)は、京都府京都市左京区の国際会館駅から同市伏見区の竹田駅までを結ぶ京都市営地下鉄の路線である。ラインカラーはグリーン、路線記号はK。.

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京都市営バス

京都市営バス(きょうとしえいバス、英: Kyoto City Bus)は、京都市交通局が運営する路線バスである。地元では単に市バス(しバス)と呼ばれることが多い。 市内交通の主要な位置をしめる。京都市内を中心に走っているが、一部長岡京市と向日市にも停留所がある。 なお、京都府内には京都交通、京阪京都交通・京都バス・京都京阪バスという京都の冠がついた民間バス会社が存在するが、これらはいずれも京都市営バスとは別事業体である。うち前者は日本交通の、後者3社は京阪ホールディングスのグループ会社である。 2005年に京都市に編入された旧・京北町の京北町営バスは、編入後は市営バスとしてではなく、きょうと京北ふるさと公社による「京北ふるさとバス」として引き続き運行されている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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京都御苑

京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の地区を指す。.

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京都空襲

襲を行ったB29爆撃機 京都空襲(きょうとくうしゅう、Bombing of Kyoto)は、アメリカ軍によって太平洋戦争中の1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日にかけて5度にわたって行われた無差別爆撃。.

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今出川駅

同志社大学連絡口 今出川駅(いまでがわえき)は、京都府京都市上京区にある、京都市営地下鉄烏丸線の駅である。駅番号はK06。.

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仁和寺

双ヶ岡より仁和寺を望む 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の仏教寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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建礼門

平安京内裏諸門図 建礼門(けんれいもん)は、平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。.

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建春門

平安京内裏諸門図 建春門(けんしゅんもん)は、平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。.

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仙洞御所

仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。.

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伊勢神宮

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.

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御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

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御所千度参り

御所千度参り(ごしょせんどまいり)は、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。 この御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。 この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。 この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。.

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徳川和子

徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

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徒然草

徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。.

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土佐光信

重文。本作はかつて光信筆とされていたが、近年は作画の粗さや、『実隆公記』では実隆自筆と記載されている詞書の書風が本絵巻では実隆のものと全く異なる点が指摘され、光信の原本制作直後の忠実な模本とされる榊原悟 「「星光寺縁起絵」私見」、「MUSEUM(東京国立博物館研究誌)423」所収、1986年。 土佐 光信(とさ みつのぶ、永享6年(1434年)? - 大永5年5月20日(1525年6月10日)?)は、室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵の絵師。土佐広周の嗣子で、実際は土佐光弘の子。子に土佐光茂がいる。土佐(常盤)光長、土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位は従四位下・刑部大輔。.

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土佐派

土佐派(とさは)とは、.

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土御門東洞院殿

土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)は、平安京左京北辺四坊二町に所在した里内裏。正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町4方を敷地としていたことから正親町殿とも呼ばれ、後の京都御所の原形となった。.

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北向山不動院

北向山不動院(きたむきざんふどういん)は、京都市伏見区にある天台宗系の単立寺院。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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ヘクタール

ヘクタール(hectare、記号:ha)は、メートル法における面積の単位のひとつであり、10 000 平方メートルである。 SI単位ではなく、「SI単位と併用される'''非SI単位'''」である「SI単位と併用される非SI単位」には、他に、時間の分・時・日、リットル、トンなどがある。。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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呉春

呉春(ごしゅん、 宝暦2年3月15日(1752年4月28日) - 文化8年7月17日(1811年9月4日))は江戸時代中期の絵師である。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称を文蔵(ぶんぞう)、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転(かてん)、允白(いんぱく)、存允白、孫石(そんせき)、軒号に百昌堂、蕉雨亭など。初期の画号・松村月渓も広く知られる。.

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ウィキマピア

ウィキマピア(WikiMapia)はGoogle マップの衛星画像とウィキのシステムを組み合わせた、オンラインの地図サービスである。ユーザは地球全体の衛星画像のあらゆる地点や範囲に対して脚注をつけるように情報を書き加えることができる。世界中のユーザーが投稿しあった情報が地図上に表示されていく仕組みとなっており、2008年8月現在で世界の約900万箇所が登録され、特に都市部や観光名所で非常に数多くの情報が登録されている。情報の追加や編集にはユーザー登録は不要だが、2008年1月現在で20万以上のユーザーが登録を行っている。 このサービスはアレクサンドル・コリアキン(Alexandre Koriakine)とエフゲニー・サヴェリエフ(Evgeniy Saveliev)により作られ、2006年5月24日に開設された。スローガンは「世界地図に情報を書き込もう!」("Let's describe the whole World!")。.

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冷泉為恭

冷泉 為恭(れいぜい ためちか、文政6年9月17日(1823年10月20日) - 元治元年5月5日(1864年6月8日))は、幕末期の公家召抱えの復古大和絵の絵師。幼名は晋三。出家後は心蓮(しんれん)。初名は狩野永恭(かのう えいきょう)、のち冷泉為恭に改める(「冷泉」の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではない)。また蔵人所衆である岡田氏に養子入りしたため、岡田為恭(おかだ -)とも言われ、絵にしばしば岡田氏の遠祖・菅原姓と署名している。為恭の読みは、岡田氏に養子入りする前は「ためたか」、養子後は「ためちか」と名乗ったというのが通説である。 最高級の絵の具を惜しげも無く用いた濃彩画を得意としたが、障壁画や白描画、仏画にも当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。.

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円山応挙

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。.

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円山・四条派

円山・四条派(まるやま・しじょうは)は、江戸中期から京都で有名になった円山応挙を祖とする円山派と、呉春を祖とする四条派を合わせた呼び名である。四条・円山派ともいう。 円山派の祖である円山応挙の写生的画風に、四条派の祖である呉春が影響を受けているため、後世になってまとめて「円山・四条派」と呼ばれるようになったが、実態としては、呉春は与謝蕪村の文人画(南画)を基礎としているため、円山派と四条派は別の流派であるともされる。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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勧修寺

本堂 観音堂 勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。 1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として使用されていた。.

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国民公園

国民公園(こくみんこうえん)とは、環境省が管理する公園の一つ。国が設置・管理する公園で、都市公園・自然公園以外のものを指す。昭和22年12月の閣議決定(旧皇室苑地の運営に関する件)に基づき、旧皇室苑地である皇居外苑・新宿御苑・京都御苑の3箇所が国民公園とされ、これと無名戦没者の遺骨が納められている千鳥ヶ淵戦没者墓苑と戦後強制抑留及び引揚死没者慰霊碑苑地を合わせて国民公園等という。維持及び管理は、環境省自然環境局に置かれる国民公園管理事務所(皇居外苑・京都御苑・新宿御苑)及び千鳥ケ淵戦没者墓苑管理事務所が行う。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇太子妃

皇太子妃(こうたいしひ、Crown Princess)とは、皇太子の妃の身位、またその身位にある人をいう。.

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皇室典範

皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.

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皇室典範 (1889年)

皇室典範(こうしつてんぱん)は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。.

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皇宮護衛官

皇宮護衛官(こうぐうごえいかん)とは、公安職国家公務員の官職の一つ。警察庁の附属機関である皇宮警察本部に所属する。特別司法警察職員としての権限を与えられているが、警察官とは異なる。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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玄輝門

平安京内裏諸門図 玄輝門(げんきもん)は、平安京内裏の内郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。「玄暉門」「宮北面僻仗内門」ともいった。.

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私塾立命館

私塾立命館」があった京都御所内の西園寺邸跡 私塾立命館(しじゅくりつめいかん)は、西園寺公望が明治2年(1869年)に京都御所内の私邸に開設した家塾である。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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紫宸殿

紫宸殿(ししんでん/ししいでん)は、内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。 殿舎の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する。天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し紫宸殿は公的な意味合いが強かった。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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疎開

開(そかい)とは、.

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環境省

境省(かんきょうしょう、Ministry of the Environment、略称:MOE)は、日本の中央省庁の一つである。 「地球環境保全、公害の防止、自然環境の保護及び整備その他の環境の保全(良好な環境の創出を含む)並びに原子力の研究、開発及び利用における安全の確保を図ること」を任務とする(環境省設置法第3条)。.

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町 (単位)

(ちょう)は尺貫法での長さ(距離)または面積の単位である。.

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狩野派

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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聖護院

本堂 宸殿 聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。.

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行基

行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)『大僧正舎利瓶記』、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。.

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行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

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裏松光世

裏松 光世(うらまつ みつよ、元文元年11月11日(1736年12月12日) - 文化元年7月26日(1804年8月31日))は、江戸時代の有職故実家、公卿。烏丸光栄の子、裏松益光の養子。日野資枝は弟。法名は固禅。娘に、直子(正姫、度会房光室)、周子がいる。 思想家竹内敬持と往来があり、宝暦事件に連座し、江戸幕府の忌諱にふれ遠慮という処分を受け2年後「所労と称し出仕致さざる事」との沙汰で永蟄居を命ぜられ、出家させられた。30年の蟄居生活の間に『大内裏図考證』を著した。天明8年(1788年)内裏が焼失し、その再建にあたり、その著書の考證を参考とする事となり、その功により、勅命により赦免される。褒賞として錦5把、銀10枚を下賜された。.

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飛香舎

飛香舎(ひぎょうしゃ)は、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。初めは七殿に比べ格が低かったらしいが、清涼殿の北西に隣り合った位置であることなどから、平安中期以降中宮や有力な女御の局になった。現在、京都御所に復元されている。 庭に藤が植えられていたことから藤壺(ふじつぼ)の別名があり、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われた。 藤原道長の娘で一条天皇中宮・藤原彰子が住んだことで有名。その後も、.

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飛鳥部常則

飛鳥部 常則(あすかべ の つねのり、生没年未詳)は、平安時代中期の宮廷絵師。名は経則とも記される亀田(1979)。官職は左衛門少志幸田(1920)、p.

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要人

赤坂) 要人(ようじん)とは、社会に重大な影響が及ぶ立場や要職に就いている人物のことである。(ブイ・アイ・ピー(「ヴィップ」「ビップ」)と発音すると軽蔑的な響きがするため、「ヴィップ」「ビップ」とは読まない。 - プラクティカル ジーニアス英和辞典 ISBN 9784469041682(大修館書店) 1695ページ/当該項目より発音はであり、とは発音しない。 - プログレッシブ英和中辞典 第4版(小学館)、.

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高御座

御座(戦前の絵葉書) 紫宸殿に据えられている高御座(京都御所) 平城宮跡に復元された高御座 高御座(たかみくら)は、天皇位を象徴する玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接に結びついている。京都府京都市の京都御所に常設されている。.

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高石市

石市(たかいしし)は、大阪府泉北地域に位置する市。.

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鬼門

(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。 陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。 中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては諸説あるが、出典がなく不整合なものばかりが一人歩きしている。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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賢聖障子

賢聖障子(げんじょうのしょうじ)は、内裏紫宸殿の母屋と北廂とのさかいに立てられている押障子(間仕切)のこと。「北の障子」、「絹障子」(『江家次第』)ともいわれた。.

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賢所

賢所(かしこどころ/けんしょ)とは、日本の天皇が居住する宮中において、三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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赤坂御用地

赤坂御用地(あかさかごようち)は、東京・赤坂にある皇室関連施設の名称であり、宮内庁のウェブサイト、平成24年4月2日閲覧、敷地内には以下の御所・宮邸がある、宮内庁のウェブサイト、平成24年4月2日閲覧。.

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長沢芦雪

錦江山無量寺障壁画 (和歌山県串本町、串本応挙芦雪館)のうち『虎図』 長沢 芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪、長澤蘆雪とも表記される。名は、政勝、魚。字は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。.

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英照皇太后

英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日(1835年1月11日)天保4年11月13日(1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。皇太子統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。 - 明治30年(1897年)1月11日)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。.

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林丘寺

林丘寺(りんきゅうじ)は、京都市左京区修学院にある臨済宗系の単立寺院。山号は聖明山。本尊は聖観音菩薩。修学院離宮の中御茶屋に隣接する。音羽御所とも称する。.

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枕草子

王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.

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東京

西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.

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東京行幸

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 東京行幸(とうきょう ぎょうこう)とは、明治元年(1868年)と明治2年(1869年)の2回に亘って行われた東京(当時は東亰〈とうけい〉)への行幸である。略して東幸(とうこう)ともいう。当時の表現では東亰行幸(とうけいぎょうこう)。.

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東福寺

京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.

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松村景文

松村 景文(まつむら けいぶん、安永8年(1779年) - 天保14年4月26日(1843年5月25日)は、日本の江戸時代後期に活躍した絵師。.

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横山清暉

横山 清暉(よこやま せいき、寛政4年(1792年) - 元治元年(1864年)は、日本の江戸時代末期に活躍した四条派の絵師。松村景文の弟子で、中島来章、岸連山、塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。.

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橿原神宮

橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。.

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正明寺

正明寺(しょうみょうじ)は、兵庫県姫路市五軒邸にある天台宗の寺院。山号は姫路山。.

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殿上人

殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.

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毘沙門堂

毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。.

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水無瀬神宮

水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。 境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。.

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氷室 (京都市北区西賀茂)

氷室(ひむろ)は、 京都市北区西賀茂地区の西域山間部に位置する地名具体的には、現在の西賀茂氷室町、西賀茂西氷室町を中心とする地域に該当する(おおみや1990 p.90)。であり、また同地内でかつて氷を製造、貯蔵した場所をも示す。 氷室地区の風景.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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泉涌寺

泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。真言宗十八本山8番札所。洛陽三十三所観音霊場20番札所。京都十三仏霊場6番札所。泉山七福神巡り番外(楊貴妃観音)札所。.

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清涼殿

清涼殿(せいりょうでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の西、後涼殿の東。.

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滝口武者

滝口武者(たきぐちのむしゃ)は、9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士。滝口の武士ともいう。.

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漆喰

漆喰(石灰、しっくい)とは、瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗りなどに使われる、水酸化カルシウム(消石灰)を主成分とした建材である。.

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朝日放送

朝日放送(あさひほうそう).

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月華門

月華門(げっかもん)は、内裏を構成する内閤門のうちの一つで、紫宸殿南庭(なんてい・だんてい)の西側の門である。 現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。.

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朔平門

平安京内裏諸門図 朔平門(さくへいもん)は、平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。「朔」は北の意。.

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明仁

明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である代数は皇統譜による。。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。.

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明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治宮殿

明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大戦末期まで、皇室の中心的施設であった。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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日華門

日華門(にっかもん・じっかもん)は、内裏を構成する内閤門のうちの一つで、紫宸殿南庭(なんてい・だんてい)の東側の門である。 現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。.

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数寄屋造り

数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つである。数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされる。 語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者参照)、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。 数奇屋大工(大工を参照)が造る木造軸組工法の家屋。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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承応

承応(じょうおう)は日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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承明門

平安京内裏諸門図 承明門(しょうめいもん)は、平安京内裏の内郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。「南面内門」とも。.

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書院造

慈照寺東求堂 書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。.

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1392年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1613年

記載なし。

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1853年

記載なし。

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1855年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1877年

記載なし。

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1889年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1954年

記載なし。

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1970年代

1970年代(せんきゅうひゃくななじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1970年から1979年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1970年代について記載する。.

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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5月11日

5月11日(ごがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から131日目(閏年では132日目)にあたり、年末まではあと234日ある。誕生花はニセアカシア。.

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794年

記載なし。

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