ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

シケリア戦争とモティア包囲戦

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

シケリア戦争とモティア包囲戦の違い

シケリア戦争 vs. モティア包囲戦

リア戦争(シケリアせんそう)、またはギリシア・カルタゴ戦争は、紀元前600年から紀元前265年の間にかけて、シケリア(現在のシチリア)と西地中海の覇権をめぐって継続的に戦われたカルタゴと古代ギリシアの都市国家間の戦争。 カルタゴの経済的成功は、ほとんどの交易を海路に依存していたため、海賊や競合都市からの脅威に対抗する必要があり、結果として強力な海軍が設立された。カルタゴを建国したのは海洋民族であるフェニキア人であり、その海軍の強みと経験を受け継いでいたが、カルタゴ人は他国の支援に期待するのではなく、自身の海軍をより強大なものとした。カルタゴ海軍の増強と覇権の拡大は、地中海中央部を制覇していたギリシアとの紛争をもたらした。 ギリシア人もまた航海術にたけており、地中海全域に殖民都市を建設していた。二つの競合勢力は、カルタゴに近いシケリアで衝突した。双方ともに、古くからシケリアという大きな島に魅了されており、海岸沿いに多くの殖民都市や交易拠点を建設していた。両者の間には数世紀にわたって、戦いが繰り返された。 シケリアの最大勢力はシュラクサイであった。シュラクサイの僭主達は、自軍の戦力が充実してくると、シケリア全土の支配を目指してシケリア西部のカルタゴ領への侵攻を試みた。これに対してカルタゴは本国から大軍を送り込んで反撃するというのが典型的なパターンであった。カルタゴはシュラクサイを四回包囲したが、シュラクサイは強固に防御された要塞都市であり、陥落させることは出来なかった。結局、両勢力ともにシケリアを完全に支配することはできず、西側がカルタゴ、東側がシュラクサイを中心としたギリシア都市、という状況で第一次ポエニ戦争に突入した。敗れたカルタゴはシケリアを放棄し、シケリア全体が共和政ローマの属州となった。シュラクサイのみは独立を維持したが、第二次ポエニ戦争ではローマに敗れ、属州に組み込まれた。 第三次ポエニ戦争の敗北により、紀元前146年にカルタゴ本国は共和政ローマに完全に破壊され、その図書館にあったカルタゴ側の記録は散逸した。よってこの戦争に関するカルタゴ側の記録は残っておらず、シケリア戦争に関して現在の人間が知ることが出来るのは、ギリシアの歴史家の記録に基づくものである。. モティア包囲戦は、紀元前398年または紀元前397年にシケリア(シチリア)西部で発生した、カルタゴ領モティア(現在のマルサーラのサン・パンタレオ島)に対するシュラクサイとその同盟軍による攻城戦である。シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世は、紀元前405年にカルタゴとの間に平和条約を結んだが、その後軍事力の強化に努め、シュラクサイにおける権力を確実なものとした。シュラクサイの防御を強化し、傭兵からなる大規模な陸軍と大規模な艦隊を整備した。さらに、新兵器である大型弩弓(オクシュペレス)と、五段櫂船をも歴史上初めて導入した。紀元前398年、ディオニュシオスはカルタゴ領の都市であるモティアを攻撃し略奪した。カルタゴ王ヒミルコ(在位:紀元前406年 – 紀元前396年)は救援を試みたが失敗した。また紀元前398年の宣戦布告以降の戦いで、カルタゴは紀元前405年の条約で得た土地をほとんど失った。.

シケリア戦争とモティア包囲戦間の類似点

シケリア戦争とモティア包囲戦は(ユニオンペディアに)共通で52ものを持っています: ペルシア戦争ナクソス (シチリア島)マルサーラハンニバル・マゴメッシーナモティアラグーザ県レンティーニレッジョ・ディ・カラブリア僭主ヴィットーリア (イタリア)ヘルモクラテスパレルモヒミルコ2世ヒメラヒメラの戦いヒメラの戦い (第二次シケリア戦争)テルミニ・イメレーゼディオニュシオス1世フェニキアドーリア人アテナイアグリジェントイオニア人エリミ人エリュクス (古代都市)エーリチェ (トラーパニ県)カマリナカマリナ略奪カルタゴ...カターニアゲラの戦いシチリアシュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)シラクサシカニ人シケリア遠征シケル人ジャルディーニ=ナクソスジェーラスパルタセリヌスセリヌス包囲戦セジェスタソルントゥムサラミスの海戦サンタ・フラーヴィア紀元前396年紀元前406年紀元前409年紀元前411年紀元前480年 インデックスを展開 (22 もっと) »

ペルシア戦争

アケメネス朝の最大勢力域 ペルシア戦争(ペルシアせんそう、Περσικοί Πόλεμοι)は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。学者によっては勝者の名を冠してギリシア戦争、ギリシャ戦争、あるいはフェアに両陣営の名をとってギリシア・ペルシア戦争(Greco–Persian Wars)、ギリシャ・ペルシャ戦争と呼ばれることもある。 戦争の経緯についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料である。プルタルコスは『ヘロドトスの悪意』について、戦争の歴史的事実がヘロドトス個人の戦争観に歪められていると批判している。.

シケリア戦争とペルシア戦争 · ペルシア戦争とモティア包囲戦 · 続きを見る »

ナクソス (シチリア島)

ナクソス(Νάξος)は、紀元前735年に建設されたシケリア(シチリア)最古のギリシア植民都市で、東岸のカタナ(現在のカターニア)とザンクル(現在のメッシーナ)の中間に位置する。アケシネス川(現在のアルカンタラ川)の河口と、北方の大きな丘の間の低い岬の上に建設された。紀元前403年にディオニュシオス1世に破壊されたが、後に丘の上にタウロメニオン(現在のタオルミーナ)が建設され、その後継都市とみなされた。.

シケリア戦争とナクソス (シチリア島) · ナクソス (シチリア島)とモティア包囲戦 · 続きを見る »

マルサーラ

マルサーラ(Marsala)は、イタリア共和国シチリア州トラーパニ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約8万人の基礎自治体(コムーネ)。「マルサラ」とも表記される。 シチリア島の西海岸に位置する港湾都市で、県内最大の人口を有する都市・コムーネである。この町の名を有名にしているのが、酒精強化ワインのである。.

シケリア戦争とマルサーラ · マルサーラとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ハンニバル・マゴ

ハンニバル・マゴ(ハンニバル1世)は、第一次ヒメラの戦いで敗死したハミルカル1世 の孫で、カルタゴ王・将軍。第2回目のシケリア遠征(第二次シケリア戦争)を実施した。マゴ家の一員であり、第2次ポエニ戦争の有名な将軍ハンニバルとの区別のため、ハンニバル・マゴと呼ばれている。.

シケリア戦争とハンニバル・マゴ · ハンニバル・マゴとモティア包囲戦 · 続きを見る »

メッシーナ

メッシーナ(Messina)は、イタリア共和国のシチリア島北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約24万人の基礎自治体(コムーネ)。メッシーナ県の県都である。イタリア本土のカラブリア半島とを隔てるメッシーナ海峡に面した港湾都市で、シチリア州ではパレルモ、カターニアに次いで第3位のコムーネ人口を有する。都市圏にはおよそ50万人が暮らす。 古代ギリシャの植民都市にさかのぼるこの要衝の港町は、長く交易で栄えるとともに、古代には第一次ポエニ戦争の契機となり、中世には黒死病上陸地となるなど、多くの歴史的事件の舞台となった。近代ヨーロッパ最悪の犠牲者を出した地震・津波として記憶されているメッシーナ地震など、多くの自然災害や戦災に見舞われながら復興を遂げている。海峡南東に大都市レッジョ・ディ・カラブリアと向かい合い、経済的に密接なつながりがある。.

シケリア戦争とメッシーナ · メッシーナとモティア包囲戦 · 続きを見る »

モティア

モティア(Μοτύη, Μοτύα; Mozia, Mothia; Mozzia)はシケリア(シチリア島)西部のマルサーラ沖の島にあった古代都市国家であり、現在はモツイィア島と呼ばれている。11世紀にバシレイオス派修道僧により「サン・パンタレオ島」と命名され、現在でもその名前で呼ばれることもある。島の周囲はラグーンとなっている。 フェニキア人の殖民都市であり、紀元前398年にシュラクサイのディオニュシオス1世に破壊されるまで、400年間にわたって繁栄した。 島の大きさは長さ850メートル、幅750メートル程度で、シケリア本島からは1キロメートル程離れている。古代には石で舗装された陸橋でシケリア本島とつながっており、大きな車輪を持ったチャリオットでも簡単に渡れるようになっていた。この陸橋の跡は現在でも海中に確認できる。 1979年に優美な「モティアの若者」の大理石像が発見され、現在では世界的にも有名になっている。この像はジュゼッペ・ウィテカー博物館に展示されている。.

シケリア戦争とモティア · モティアとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ラグーザ県

ラグーザ県(Provincia di Ragusa)は、イタリア共和国シチリア州に属する県の一つ。県都はラグーザ。.

シケリア戦争とラグーザ県 · モティア包囲戦とラグーザ県 · 続きを見る »

レンティーニ

レンティーニ(Lentini)は、イタリア共和国シチリア州シラクーザ県にある、人口約2万4000人の基礎自治体(コムーネ)。 古代ギリシアの植民市レオンティノイに起源をもつ都市で、哲学者・修辞学者・弁論家として著名なゴルギアスは当地の出身である。市域には、イタリア空軍・アメリカ海軍航空隊が利用するNATOのがある。.

シケリア戦争とレンティーニ · モティア包囲戦とレンティーニ · 続きを見る »

レッジョ・ディ・カラブリア

レッジョ・ディ・カラブリア(Reggio di Calabria)は、イタリア共和国カラブリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口18万人の基礎自治体(コムーネ)。レッジョ・カラブリア県の県都である。イタリア半島の「つま先」にあたる地点に位置し、シチリア島との間を隔てるメッシーナ海峡に面する。カラブリア州最大の人口を有する自治体で、州議会の所在地であり、州の経済的な中心地である。 イタリアにおける最古のギリシャ人植民都市の一つであるレギオンを起源に持ち、多くの考古遺産を有する。都市の長い歴史には地震と津波も繰り返し刻まれており、とくに1783年と1908年の被害は壊滅的なものであった。市街地は市域を超えて広がっており、レッジョ・ディ・カラブリア都市圏には37万人以上が暮らしている。また海峡を挟んだシチリア島のメッシーナとのつながりも密接である。.

シケリア戦争とレッジョ・ディ・カラブリア · モティア包囲戦とレッジョ・ディ・カラブリア · 続きを見る »

僭主

僭主(せんしゅ、τυραννος (tyrannos); tyrant)とは、本来の皇統、王統の血筋によらず、実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者。僭帝、僭王とも。僭主による政治を僭主政治という。.

シケリア戦争と僭主 · モティア包囲戦と僭主 · 続きを見る »

ヴィットーリア (イタリア)

ヴィットーリア(Vittoria)は、イタリア共和国シチリア州ラグーザ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約6万1000人の基礎自治体(コムーネ)。県都ラグーザに次ぎ、県内第2位のコムーネ人口を持つ。.

シケリア戦争とヴィットーリア (イタリア) · モティア包囲戦とヴィットーリア (イタリア) · 続きを見る »

ヘルモクラテス

ヘルモクラテス(Ἑρμοκράτης / Hermokrates、紀元前450年頃 – 紀元前408/407年)は、シケリア島の都市国家シュラクサイの軍人で、ペロポネソス戦争において反アテナイ陣営で活躍した。.

シケリア戦争とヘルモクラテス · ヘルモクラテスとモティア包囲戦 · 続きを見る »

パレルモ

パレルモ(Palermo)は、イタリアのシチリア島北西部に位置する都市であり、その周辺地域を含む人口約68万人の基礎自治体(コムーネ)。シチリア島最大の都市にしてシチリア州の州都であり、パレルモ県の県都でもある。 独自の国際色豊かな文化を生み出した中世シチリア王国の古都。.

シケリア戦争とパレルモ · パレルモとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ヒミルコ2世

ヒミルコ(ヒミルコ2世、紀元前396年没)は、カルタゴのマゴ家の一員で、将軍として紀元前406年から紀元前396年までシケリア(シチリア)への遠征軍を率い、何度もシュラクサイの僭主ディオニュシオス1世に勝利した。 紀元前550年から紀元前375年にかけて、マゴ家は政治・軍事双方において「カルタゴ帝国」で中心的な役割を果たした。ヒミルコは従兄弟であるハンニバル1世の副官として紀元前406年からのシケリア遠征に参加し、アクラガス包囲戦中にハンニバルが病死すると司令官となった。ヒミルコはアクラガス(現在のアグリジェント)を攻略し、さらにゲラ(現在のジェーラ)、カマリナを破壊し、紀元前405年にはディオニュシオスと有利な条件で講和条約を結んだ。 この講和条約の時点で、シケリアにおけるカルタゴの領土は最大に達した。ヒミルコは正式に「王」に選出され、政治面でも最高責任者となった。ディオニュシオスが再びカルタゴ領への侵攻を開始すると、軍を率いて再度シケリアに渡った。セゲスタ(現在のセジェスタ)、メッセネ(現在のメッシーナ)、カタナ(現在のカターニア)と勝利を重ね、ディオニュシオスを本拠地シュラクサイに追い詰めたものの、その包囲戦中にペストの蔓延によって戦力が低下し、それを知って出撃したディオニュシオスに敗れた。この後、ヒミルコはカルタゴ市民兵のみを率いて帰国し、リビュア兵や傭兵は置き去りにされた。カルタゴに戻った後、ヒミルコは敗北の全責任を負い、市のすべての神殿を訪れた後、奴隷に身分を落とし、絶食して自決したと言われる。.

シケリア戦争とヒミルコ2世 · ヒミルコ2世とモティア包囲戦 · 続きを見る »

ヒメラ

ヒメラ(ギリシア語:Ἱμέρα)はシケリア(現在のシチリア)の重要なギリシア植民都市の一つである。島の北岸、同じ名前の川(現在のグランデ川)の河口に位置し、パノルムス(現在のパレルモ)とケファロイディオン(現在のチェファル)の間にあった。現在の現在の行政区分ではパレルモ県テルミニ・イメレーゼに属し、市の中心部からは12キロメートル程東に遺跡がある。.

シケリア戦争とヒメラ · ヒメラとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ヒメラの戦い

ヒメラの戦い(ヒメラのたたかい、英:Battle of Himera)は、紀元前480年にシケリア島のヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)にて勃発したシュラクサイ軍とカルタゴ軍の戦いである。一連のシケリア戦争のうち、第一次シケリア戦争と区別される。東の大国ペルシア帝国を撃破したペルシア戦争と同時期の戦争(ヘロドトスによれば、サラミスの海戦と同日)であり、ギリシアはこの戦いを通して西側でも異国の大軍に勝利したことになる。イメラの戦いとも呼ばれる。.

シケリア戦争とヒメラの戦い · ヒメラの戦いとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ヒメラの戦い (第二次シケリア戦争)

二次ヒメラの戦いは、紀元前409年にシケリア(シチリア島)西北のイオニア人殖民都市であるヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)の近郊で、ハンニバル・マゴ(カルタゴ王、在位:紀元前440年 - 紀元前406年)率いるカルタゴ軍と、ヒメラとシュラクサイ連合軍の間に生じた戦い。ハンニバル・マゴはカルタゴ元老院の支持の下(カルタゴは王政を維持していたが、実際の権力は元老院にあった)、同年春に行われたセリヌス包囲戦に勝利し、ドーリア人都市であるセリヌス(現在のマリネッラ・ディ・セリヌンテ)を破壊していた。続いてハンニバル・マゴはヒメラを攻撃したが、そこは紀元前480年にカルタゴ軍が敗北した場所であった(第一次ヒメラの戦い)。ヒメラは完全に破壊され、その後その西側にテルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)が建設されたが、そこにはギリシア人とカルタゴ人双方が居住した。.

シケリア戦争とヒメラの戦い (第二次シケリア戦争) · ヒメラの戦い (第二次シケリア戦争)とモティア包囲戦 · 続きを見る »

テルミニ・イメレーゼ

テルミニ・イメレーゼ(Termini Imerese, Tèrmini)は、イタリア共和国シチリア州パレルモ県にある、人口約2万6000人の基礎自治体(コムーネ)。 市域には古代ギリシア時代の都市ヒメラの遺跡がある。.

シケリア戦争とテルミニ・イメレーゼ · テルミニ・イメレーゼとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ディオニュシオス1世

ディオニュシオス1世あるいは大ディオニュシオス(Διονύσιος ο Πρεσβύτερος、紀元前432年ころ - 紀元前367年)は、現在のイタリア南部シチリア島にあった都市シュラクサイ(現在のシラクサ)を支配した、ギリシア人の僭主。ディオニュシオス1世はシチリア島内やイタリア半島南部の数都市を征服し、カルタゴの勢力がシチリア島へ及ぶことに抵抗して、シュラクサイを古代ギリシアの西方植民都市の中でも最も有力なものに成長させた。古代の人々の間で、ディオニュシオス1世は、残虐で猜疑心が強く、執念深い、最悪の暴君のひとりと見なされていた。.

シケリア戦争とディオニュシオス1世 · ディオニュシオス1世とモティア包囲戦 · 続きを見る »

フェニキア

フェニキア(、ポイニーケー、Phoenices、、ポエニ、Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。 フェニキア人という名称は自称ではなく、ギリシア人による呼称である。ギリシア人は、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだ。フェニキアという名称は、の居住地がギリシャ語で Φοινίκη (Phoiníkē; ポイニケー)と呼ばれたことに由来している。その語源は不明であり、フェニキアがミュレックス(en)と呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから、「紫色」(または「緋色」)という意味のギリシア語を語源とする説も存在する。今日でも南部のサイーダなどの町中でこの貝殻の山を見ることができる。フェニキア人の母体となったとされるカナンという呼称も、アッカド語で染料を意味するキナッフに由来する。.

シケリア戦争とフェニキア · フェニキアとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ドーリア人

ドーリア人 (Δωριείς, Dories, Dorians)、又はドーリス人、ドリス人は、アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシアを構成した集団のひとつ。紀元前1100年頃ギリシャに侵入し、主にペロポネソス半島に定住した。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタである。.

シケリア戦争とドーリア人 · ドーリア人とモティア包囲戦 · 続きを見る »

アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

アテナイとシケリア戦争 · アテナイとモティア包囲戦 · 続きを見る »

アグリジェント

アグリジェント(Agrigento)は、イタリア共和国のシチリア島南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万8000人の基礎自治体(コムーネ)。アグリジェント県の県庁所在地でもある。 古代ギリシアの植民都市アクラガスに起源を持ち、当時の遺跡が現在も残る。「神殿の谷」は「アグリジェントの考古学地域」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

アグリジェントとシケリア戦争 · アグリジェントとモティア包囲戦 · 続きを見る »

イオニア人

イオニア人(Ἴωνες, Íōnes, 英語:Ionian)とは、紀元前2000年ころにバルカン半島を南下し、ギリシャ中部やアナトリア半島(小アジア)北西部に定住したとされるアカイア人の一部。アイオリス人やドーリア人と並ぶ、古代ギリシアを構成した集団のひとつ。代表的なポリスはアテナイである。 ペルシア人は、最初に接触を持ったのが小アジア西岸のギリシア人だったのでギリシア人全体をイオニア人と呼び、その呼び方はインドなど東方に広まった。具体的には、ギリシア人のことを、パーリ語ではYona、サンスクリットではYavana、アルメニア語ではHuyn、トルコ語ではYunan、さらに現代ペルシア語ではギリシアのことをYūnānと呼んでいる。いずれも、「イオニア(の) Ionian」から派生した言葉である。フラウィウス・ヨセフスは、イオニア人を、聖書に登場するヤペテの息子ヤワンと関連づけている。「イオニア人ならびに全ギリシア人はヤワンに由来する」(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』I:6)。.

イオニア人とシケリア戦争 · イオニア人とモティア包囲戦 · 続きを見る »

エリミ人

リミ人またはエリモイ人(ギリシア語: Ἔλυμοι; ラテン語: Elymi)は青銅器時代からギリシア古典期にかけてシケリア(シチリア島)に居住していた、インド・ヨーロッパ語族の民族である。歴史に現れてからは、ベリーチェ川沿いの都市国家を建設しており、最も重要なのは行政的な中心都市であったセゲスタ(現在のセジェスタ)と宗教の中心であったエリュクス(現在のエリーチェ)である。他の重要都市としては、エンテラ(現在のコンテッサ・エンテッリーナ)、ハルキアエ(現在のサレーミ)、イエタス(現在のサン・ジュゼッペ・イアート)、ナコン(位置不明)、ドレパノン(現在のトラパーニ)等がある。 エリミ人がどこから来たのかは不明である。ほとんどの古代の歴史家は、エリミ人はトロイア滅亡後にシケリアに逃れて来たと述べているが、現在ではその説に異論もでている。 当初は隣接するシカニ人と文化的にも近かったと思われる。しかしその後はギリシア、フェニキア、カルタゴの影響を受けており、紀元前8世紀から紀元前5世紀頃までは、紛争も無く共存していた。紀元前4世紀になると、言語・文化ともにギリシア化された。.

エリミ人とシケリア戦争 · エリミ人とモティア包囲戦 · 続きを見る »

エリュクス (古代都市)

リュクス(ギリシア語:Ἔρυξ)はシケリア(シチリア)先住民でトロイアの子孫を称するエリミ人が建設した古代都市で、ドレパナ(en、現在のトラーパニ)から10キロメートル、海岸からは3キロメートル離れている。その名前はギリシア神話のエリュクス王に由来する。現在の行政区分ではトラーパニ県エリーチェにあたる。.

エリュクス (古代都市)とシケリア戦争 · エリュクス (古代都市)とモティア包囲戦 · 続きを見る »

エーリチェ (トラーパニ県)

ーリチェ(Erice, Èrici )は、イタリア共和国シチリア州トラーパニ県にある、人口約2万8000人の基礎自治体(コムーネ)。エリチェとも表記する。シチリア島西部、標高751メートルのサン・ジュリアーノ山の頂上部に位置する。.

エーリチェ (トラーパニ県)とシケリア戦争 · エーリチェ (トラーパニ県)とモティア包囲戦 · 続きを見る »

カマリナ

マリナ(ギリシア語:Καμάρινα、ラテン語イタリア語シチリア語:Camarina)はシケリア(シチリア)の古代都市である。現在の行政区分ではラグーザ県ヴィットーリアに位置し、市の中心から20キロメートルほど離れた海沿いのスコグリッティ地区に遺跡と考古学博物館がある。.

カマリナとシケリア戦争 · カマリナとモティア包囲戦 · 続きを見る »

カマリナ略奪

マリナ略奪は紀元前405年夏に、シケリア(シチリア)のカマリナ(現在のラグーザ県ヴィットーリアのスコグリッティ地区)で行なわれた略奪である。シュラクサイを追放された将軍ヘルモクラテスは、紀元前408年からシケリア西部のセリヌス(現在のマリネラ・ディ・セリヌンテ)を臨時に修復して根拠地とし(紀元前409年にカルタゴ軍に破壊されていた)、カルタゴ領に対する略奪を行っていた。それに対する報復として、カルタゴはマゴ王朝の一員であるハンニバル・マゴとヒミルコが率いるカルタゴ軍をシケリアに派遣し、シュラクサイを盟主とするシケリアのギリシア連合軍と対峙した。紀元前406年には、アクラガス(現在のアグリジェント)が8か月の包囲戦の末に陥落した(アクラガス包囲戦)。総司令官ハンニバル・マゴは包囲戦の最中にペストで死亡したが、カルタゴ軍はアクラガスで冬営を行い、翌紀元前405年春にはアクラガスを破壊してゲラ(現在のジェーラ)に向かいこれを包囲した。シュラクサイではディオニュシオスを最高司令官とした救援軍を派遣し、一旦は包囲を解くことに成功したものの、近郊で行われた野戦で敗北した(ゲラの戦い)。シケリア・ギリシア連合軍の損害は軽微であったが、ディオニュシオスはゲラを放棄して撤退し、ゲラもカルタゴ軍に占領・略奪された。ギリシア連合軍はゲラの難民と共にカマリナに移動した。ディオニュシオスは防衛のためにカマリナ市民に都市から離れるように命じた。さらにシュラクサイへの撤退途中に、シュラクサイ軍の一部が反乱し、シュラクサイを占領しようとしたが、ディオニュシオスはこれを退けた。カルタゴ軍はカマリナを略奪し、夏にはシュラクサイの前面に野営地を設営した。その後、和平交渉が行われ、カルタゴはセリヌス、アクラガス、ゲラおよびカマリナの再建を認める代わりに、これらの都市に税を課した。またカルタゴはディオニュシオスがシュラクサイの支配者であると認めた。カルタゴのシケリアにおける勢力は頂点に達した。.

カマリナ略奪とシケリア戦争 · カマリナ略奪とモティア包囲戦 · 続きを見る »

カルタゴ

ルタゴ(Carthāgō または Karthāgō カルターゴー、قرطاج Qarṭāj、Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。 「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。.

カルタゴとシケリア戦争 · カルタゴとモティア包囲戦 · 続きを見る »

カターニア

ターニア(Catania)は、イタリア共和国のシチリア島東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約32万人の基礎自治体(コムーネ)。カターニア県の県都である。 イオニア海に面した都市で、北方にはエトナ山が聳える。シチリア島ではパレルモに次いで2番目に大きな都市である。.

カターニアとシケリア戦争 · カターニアとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ゲラの戦い

ラの戦いは、紀元前405年夏にシケリア(シチリア)で発生した戦い。ヒミルコ(カルタゴ王(在位:紀元前406年 - 紀元前396年)、但しカルタゴ王は名目的なもので実質的な権力は元老院にあった。彼はアクラガス包囲戦で病死したハンニバル・マゴの親族である)率いるカルタゴ軍は、紀元前406年の冬から紀元前405年の春を、占領したアクラガス(現在のアグリジェント)で過ごし、ギリシア軍と対決するためにゲラ(現在のジェーラ)に進軍した。シュラクサイ(現在のシラクサ)政府は、敗北したダフナエウスに変わってディオニュシオスを軍の最高司令官に任命し、また旧ヘルモクラテス軍の士官も何人か軍に加わった。ディオニュシオスは紀元前405年には僭主となって完全な独裁権を獲得した。カルタゴ軍がゲラに進軍しこれを包囲すると、この脅威に対するためにディオニュシオスもシュラクサイから進軍した。ディオニュシオスは複雑な三面攻撃を企画したが、調整不足のために失敗した。ディオニュシオスは、敗北がシュラクサイでの不満を引き起こし、また自身の権力を喪失することも望まなかったため、ゲラの放棄を決意した。ヒミルコはギリシア軍がカマリナ(現在のラグーザ県ヴィットーリアのスコグリッティ地区)に撤退して空になったゲラに入城し、これを略奪した。.

ゲラの戦いとシケリア戦争 · ゲラの戦いとモティア包囲戦 · 続きを見る »

シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

シケリア戦争とシチリア · シチリアとモティア包囲戦 · 続きを見る »

シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)

一次シュラクサイ包囲戦は、シケリア戦争中に4回行われたカルタゴ軍によるシュラクサイ包囲の第1回目である。シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世は紀元前398年にカルタゴ領モティア(現在のマルサーラのサン・パンタレオ島)を占領・破壊した(モティア包囲戦)。これに対してカルタゴはマゴ王朝の一員であるヒミルコが率いる大軍をシケリアに派遣した。ヒミルコはモティアを奪回した後その近郊にリルバイオンを建設し、シケリア北岸を東に向かって進軍してメッセネ(現在のメッシーナ)を破壊し(メッセネの戦い)、カタナ(現在のカターニア)沖でギリシア海軍を撃破した(カタナ沖の海戦)後の紀元前397年秋にはシュラクサイを包囲した。 カルタゴ軍は、アテナイ軍が紀元前415年にシュラクサイを包囲した際と同じ戦略を採用し、シュラクサイを孤立化させることに成功した。しかし翌紀元前396年の夏、カルタゴ軍にペストが蔓延し、兵士の多くが病死した。この機会にディオニュシオスはカルタゴ軍に対して陸海共同攻撃を実施した。ヒミルコはディオニュシオスとの間に姑息な取引を行い、カルタゴ市民だけを連れて脱出した。残されたリビュア兵は奴隷とされ、シケル兵は逃亡し、イベリア兵はディオニュシオスに合流した。ディオニュシオスは再び領土拡大を開始したが、ペストで弱体化したカルタゴは紀元前393年になるまで何の行動も起こせなかった。.

シケリア戦争とシュラクサイ包囲戦 (紀元前397年) · シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)とモティア包囲戦 · 続きを見る »

シラクサ

ラクサ(Siracusa)は、イタリア共和国のシチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。 古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。.

シケリア戦争とシラクサ · シラクサとモティア包囲戦 · 続きを見る »

シカニ人

ニ人またはシカノイ人(ギリシア語: Σικανοί Sikanoi)は、フェニキア人やギリシア人が入植する前からシケリアに居住していた、3種類の先住民の1つである。居住地域はシケリア中央部で、東側にはエリミ人、西側にはシケル人が住んでいた。ディオドロスによると、お互いの紛争の後、古代のヒメラ川(現在のサルソ川)がシケル人領域との境界線となっていた。.

シカニ人とシケリア戦争 · シカニ人とモティア包囲戦 · 続きを見る »

シケリア遠征

リア遠征は、ペロポネソス戦争中の紀元前415年から紀元前413年にかけてアテナイが実施した、シケリア方面に対する軍事作戦である。 この遠征の目的も命令系統も不確かであり、遠征軍の規模も当初の計画である60隻の船で小部隊を送るというものから、大艦隊と重装歩兵の大部隊派遣にまで拡大した。当初の司令官の一人であったアルキビアデスは、艦隊がシケリアに到着する前に解任され、裁判のために送り返された。それでも初期には成功を収めることができた。このアテナイの脅威に対して、シケリアで最有力の都市であるシュラクサイの反応は非常に鈍く、結果として、スパルタ軍が到着する前にアテナイはシュラクサイを封鎖するための攻城堡塁をほとんど完成していた。スパルタの将軍ギュリッポスは、到着するや否やシュラクサイ市民の行動を促した。この時点からアテナイは主導権を失い、戦争の流れは変わった。アテナイから増援部隊が送られると一旦は優勢を取り戻したが、しかし戦略的に重要な地点での大敗北と幾つかの海戦での敗北は、包囲軍の戦闘能力と士気を低下させ、アテナイ軍は攻略を予定していたシュラクサイから陸伝いに脱出せざるを得なくなった。この試みも失敗し、最終的には遠征軍のほとんどがシケリア内陸部で降伏するか戦死した。 この敗北の影響は大きかった。200隻の軍船と、アテナイ市民のかなりの割合を占める数万人の市民が、この遠征で失われた。ギリシア本土でのアテナイの敵対勢力とペルシア帝国は行動を起こし、エーゲ海でも反乱が発生した。この敗北はペロポネソス戦争の転換点でもあり、これから10年間アテナイは苦しむこととなる。トゥキディデスは、当時のギリシア人はアテナイがシケリアで敗北したことよりも、遠征失敗後にも長期間戦い続け膨大な損害をこうむったことに驚いたと観察している。.

シケリア戦争とシケリア遠征 · シケリア遠征とモティア包囲戦 · 続きを見る »

シケル人

ル人またはシケロイ人(Siculi; Σικελοί Sikeloi)は鉄器時代にシケリア東部に居住していたイタリック人である。西側にはシカニ人が居住していた。シケリア(シチリア)の名前はシケル人に由来するものであるが、やがてマグナ・グラエキアの文化と融合し、民族としての独自性は失われた。.

シケリア戦争とシケル人 · シケル人とモティア包囲戦 · 続きを見る »

ジャルディーニ=ナクソス

ャルディーニ=ナクソス(Giardini-Naxos)は、イタリア共和国シチリア州メッシーナ県にある、人口9500人の基礎自治体(コムーネ)。 シチリア島北東岸、タオルミーナ湾に面したこの町は、古代ギリシアの植民都市ナクソスに起源を持つ。21世紀に入る頃から海岸リゾート地として観光化が進んだ。.

シケリア戦争とジャルディーニ=ナクソス · ジャルディーニ=ナクソスとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ジェーラ

ェーラ(Gela)は、イタリア共和国シチリア州カルタニッセッタ県にある、人口約7万6000人の基礎自治体(コムーネ)。県内最大の人口を持つコムーネである。.

シケリア戦争とジェーラ · ジェーラとモティア包囲戦 · 続きを見る »

スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

シケリア戦争とスパルタ · スパルタとモティア包囲戦 · 続きを見る »

セリヌス

リヌス(Σελινοῦς, Selinous; Selinūs)はシケリア(シチリア島)南西部にあった古代ギリシアの植民都市で、現在はセリヌンテ(Selinunte)と呼ばれている。セリヌス川(現在のモディオーネ川)とコットーネ川(現在は溝が残るのみ)に挟まれた場所に立地していた。現在の行政区分ではトラーパニ県カステルヴェトラーノコムーネの分離集落(フラツィオーネ)であるトリスカーナ・ディ・セリヌンテとマリネッラ・ディ・セリヌンテの間にある。遺跡にはアクロポリスを中心いくつかの神殿がある。これらの神殿のうち、神殿E(en)と呼ばれるヘラ神殿のみが修復されている。最も繁栄したのは紀元前408年以前であり、人口は奴隷を除いても30,000人程度あった。セリヌスは紀元前409年に一旦破壊され、その後再建されたが、紀元前250年頃に放棄された。.

シケリア戦争とセリヌス · セリヌスとモティア包囲戦 · 続きを見る »

セリヌス包囲戦

リヌス包囲戦は紀元前409年に発生した第二次シケリア戦争最初の大規模戦闘である(その前年にも同地で小規模な戦闘があった)。シケリア(シチリア)のセリヌス(現在のマリネッラ・ディ・セリヌンテ)で10日間の攻城戦と市街戦が、ハンニバル・マゴ率いるカルタゴ軍と、ドーリア人の殖民都市であるセリヌスの間で戦われた。 紀元前415年に、セリヌス軍はシチリア西部の先住民であるエリミ人の都市セゲスタに勝利したが、これが同年のアテナイのシケリア遠征(ペロポネソス戦争の一環)のきっかけとなった。アテナイのシケリア遠征は失敗し、紀元前413年に撤退した。セリヌスは紀元前411年に再びセゲスタに勝利したが、セゲスタはカルタゴに救援を求めた。カルタゴは交渉による解決を試みたがセリヌスはこれを拒否したため、紀元前409年にカルタゴはセリヌスを包囲し破壊した。カルタゴは70年前の第一次ヒメラの戦いで敗北していたため、この戦闘はカルタゴにとっては復讐戦の第一歩であった。セリヌスはその後再建されたが、昔日の繁栄は取り戻せなかった。.

シケリア戦争とセリヌス包囲戦 · セリヌス包囲戦とモティア包囲戦 · 続きを見る »

セジェスタ

ェスタ (Segesta) は、 イタリアシチリア州トラーパニ県カラタフィーミ=セジェスタにある古代ギリシアの都市の遺跡である。.

シケリア戦争とセジェスタ · セジェスタとモティア包囲戦 · 続きを見る »

ソルントゥム

ルントゥムまたはソルス(ギリシア語:Σολόεις、トゥキディデス:Σολοῦς、ディオドロス:Σολουντῖνος、貨幣の刻印: Σολοντῖνος、イタリア語 Solunto)はシケリア(シチリア)の古代都市。フェニキア人がシケリアに建設した主要な三つの都市の一つであり、島の北岸で他のフェニキア人主要都市であるパノルムス(現在のパレルモ)から16キロメートルの距離にあり、ザッフェラノ岬(Capo Zafferano)の東の付け根に位置する。 街はカタルファーノ山(Monte Catalfano)の南東斜面標高183メートルあたりに建設され、防御に適した場所であり、周囲の眺望も良い。一部の学者はソルントゥムとソルスは極めて近くにはあったが別の都市であったと考えている。最初にソルスが建設され、その上側にソルントゥムが建設されて、住民を吸収していった。現在の行政区分ではパレルモ県のコムーネであるサンタ・フラーヴィアのソラントに位置する。.

シケリア戦争とソルントゥム · ソルントゥムとモティア包囲戦 · 続きを見る »

サラミスの海戦

ラミスの海戦(サラミスのかいせん、Ναυμαχία της Σαλαμίνας、英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。 この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。.

サラミスの海戦とシケリア戦争 · サラミスの海戦とモティア包囲戦 · 続きを見る »

サンタ・フラーヴィア

ンタ・フラーヴィア(Santa Flavia)は、イタリア共和国シチリア州パレルモ県にある、人口約1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。.

サンタ・フラーヴィアとシケリア戦争 · サンタ・フラーヴィアとモティア包囲戦 · 続きを見る »

紀元前396年

紀元前396年は、ローマ暦の年である。当時は、「サックス、カピトリヌス、エスキリヌス、アウグリヌス、カピトリヌス、プリスクスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元358年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前396年と表記されるのが一般的となった。.

シケリア戦争と紀元前396年 · モティア包囲戦と紀元前396年 · 続きを見る »

紀元前406年

紀元前406年は、ローマ暦の年である。当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元348年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。.

シケリア戦争と紀元前406年 · モティア包囲戦と紀元前406年 · 続きを見る »

紀元前409年

紀元前409年は、ローマ暦の年である。当時は、「コッススとメドゥリヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元345年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前409年と表記されるのが一般的となった。.

シケリア戦争と紀元前409年 · モティア包囲戦と紀元前409年 · 続きを見る »

紀元前411年

紀元前411年は、ローマ暦の年である。当時は、「ムギラヌスとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元343年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前411年と表記されるのが一般的となった。.

シケリア戦争と紀元前411年 · モティア包囲戦と紀元前411年 · 続きを見る »

紀元前480年

紀元前480年はローマ暦の年である。.

シケリア戦争と紀元前480年 · モティア包囲戦と紀元前480年 · 続きを見る »

上記のリストは以下の質問に答えます

シケリア戦争とモティア包囲戦の間の比較

モティア包囲戦が82を有しているシケリア戦争は、169の関係を有しています。 彼らは一般的な52で持っているように、ジャカード指数は20.72%です = 52 / (169 + 82)。

参考文献

この記事では、シケリア戦争とモティア包囲戦との関係を示しています。情報が抽出された各記事にアクセスするには、次のURLをご覧ください:

ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »