1231 関係: 加賀国、加藤清正、劉瑾、厳島の戦い、厳嵩、おもろさうし、博多、十字架のヨハネ、十進法、占星術、千利休、千々石ミゲル、南北朝時代 (ベトナム)、古今伝授、古田重然、司祭、司教、同心、吉祥寺、君主論、堺、堺公方、大友義鎮、大坂城、大坂の陣、大寧寺の変、大和国、大内義隆、大内文化、大礼の議、大物崩れ、大韓民国、大谷吉継、大航海時代、大村純忠、天下統一、天動説、天球の回転について、天正遣欧少年使節、天文学者、太平洋、太閤、太閤検地、太陽、奥州仕置、奇蹟者、妖精の女王、姜コウ、姉川の戦い、室町幕府、...、室町時代、宦官、家宰、家臣団、家老、宗祇、宗義智、宗長、宗教裁判、宗教改革、宇宙人、宇喜多秀家、安土城、安土桃山時代、安化王の乱、安芸国、寧夏回族自治区、寧王の乱、寧波の乱、対馬、封神演義、小田原征伐、小牧・長久手の戦い、小西行長、小谷城の戦い、小栗虫太郎、小早川秀秋、小数、尾張国、山口市、山崎の戦い、山崎宗鑑、山科言継、山科本願寺の戦い、岡本大八、島津義弘、川中島の戦い、巨人ゴーレム、巫女、上田宗箇流、上田重安、上杉謙信、上杉朝定 (扇谷上杉家)、上杉憲政、上杉景勝、中央アジア、中宗 (朝鮮王)、中世、中国、中国学、中国地方、世紀、万暦の三征、万暦帝、三好三人衆、三好元長、三好長慶、三好氏、三好政権、三次方程式、三河国、三浦の乱、三方ヶ原の戦い、一向一揆、一乗谷城の戦い、一条鞭法、九州平定、平安時代、年表、庚戌の変、享禄・天文の乱、京都、京都大学、広島市、五大老、五奉行、五島列島、今川義元、建築家、伊勢氏、伊達政宗、伊豆国、伊賀、伊賀越え、伊東マンショ、会津征伐、伝習録、伝染病、弾道学、張居正、彫刻家、佯狂者、征夷大将軍、徐階、徐渭、価格革命、徳川家康、後奈良天皇、後北条氏、後陽成天皇、後柏原天皇、忍者、信貴山城の戦い、信長包囲網、修道会、応仁の乱、心即理、土岐頼芸、土佐国、地中海、地動説、地図、北京市、北野大茶湯、北条氏康、北条早雲、北方民族文化誌、ナバラ王国、ナポリ王国、ペルー副王領、ナレースワン、ナントの勅令、ミマール・スィナン、ミャンマー、ミュンスターの反乱、ミラノ、ミラノ公国、ミーラー・バーイー、ミニアチュール、ミケランジェロ・ブオナローティ、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ、ミシェル・ノストラダムス師の予言集、ミシェル・ド・モンテーニュ、ミシェル・セルヴェ、ミシシッピ川、マムルーク朝、マヤ文明、マリー・ド・メディシス、マルティン・ルター、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク、マルティン・ヴァルトゼーミュラー、マルグリット・ド・ナヴァル、マルジュ・ダービクの戦い、マルタ島、マルタ騎士団、マントヴァの領主一覧、ノヴゴロド虐殺、マールブルク、マーク・トウェイン、マヌエル1世 (ポルトガル王)、マティアス・グリューネヴァルト、マドリード、マドゥライ、マドゥライ・ナーヤカ朝、マニラ、マニラ・ガレオン、マニエリスム、マイスタージンガー、マカオ、マクシム・グレク、ノストラダムス、マゼラン海峡、チャルディラーンの戦い、チューリッヒ、チュニジア、チュニス、チリ、チベット、チェリニョーラ、チェーザレ・ボルジア、ネーデルラント、ネーデルラント連邦共和国、ハムレット、ハリマンディル・サーヒブ、ハルハ、ハンス・ホルバイン、ハンス・ザックス、ハーン、ハプスブルク家、ハフス朝、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ、ハタ・ヨーガ、バリ島、バリャドリッド、バリャドリッド論争、バルバロス・ハイレッディン、バルトロメ・デ・ラス・カサス、バルダッサーレ・カスティリオーネ、バーブル、バーキー、バーゼル大学、バテレン追放令、バインナウン、バクティ、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア、ポルトガル、ポルトガル海上帝国、ポンペイ、ポーランド、ポーランド王国、ポトシ、ムハンマド・シャイバーニー・ハン、ムラト3世、ムラカ、ムガル帝国、ムタワッキル3世、メノ・シモンズ、メランコリア I、メルブ遺跡、メルカトル図法、メーワール王国、メディチ家、メフメト3世、メフィストフェレス、メアリー (スコットランド女王)、メアリー1世 (イングランド女王)、メキシコ、メキシコシティ、モナ・リザ、モノグラム、モハーチの戦い、モラリスト、モリナ主義、モントリオール、モンゴル (曖昧さ回避)、モーリッツ (ザクセン選帝侯)、モーセ・コルドベロ、モクテスマ2世、モザンビーク島、モスクワ、モスクワ大公国、モスクワ会社、モスクワ総主教、モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧、ヤン・ザモイスキ、ヤギェウォ朝、ヤコポ・ペーリ、ヤコポ・ダ・ポントルモ、ユリウス2世 (ローマ教皇)、ユリウス3世 (ローマ教皇)、ユリウス暦、ユートピア、ユートピア (本)、ユトレヒト同盟、ユニテリアン主義、ユダヤ教、ユカタン、ユグノー戦争、ヨハネス・ケプラー、ヨハン3世 (スウェーデン王)、ヨハンネス・トリテミウス、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヨハン・ファウスト、ヨーハン・ヴァイヤー、ヨーロッパ、ヨーロッパ史、ラヨシュ2世、ラーマ、ラージャスターン州、ラプ=ラプ、ラビ、ラファエロ・サンティ、ラホール、ライプツィヒ、ラス・カサス、リマ、リューリク朝、リヴォニア戦争、リア王、リスボン、ルネサンス、ルネサンス教皇、ルーテル教会、ルーカス・クラナッハ、ルブリン合同、ルドルフ2世、ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)、ルドヴィーコ・アリオスト、ルイス・デ・モリナ、ルイス・デ・カモンイス、ルイス・フロイス、ルターシュタット・ヴィッテンベルク、レパントの海戦、レオ10世 (ローマ教皇)、レオナルド・ダ・ヴィンチ、レオ・アフリカヌス、レグナンス・イン・エクスケルシス、ローマ、ローマ劫掠、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー、ローディー朝、ロドス島、ロベルト・ベラルミーノ、ロクセラーナ、ロシア帝国、ワールド・デジタル・ライブラリー、ヴァルトブルク城、ヴァロワ朝、ヴァーサ王朝、ヴァスコ・ダ・ガマ、ヴィラ・アルメリコ・カプラ、ヴィレル・コトレ布告、ヴィクトリア&アルバート博物館、ヴィクトル・ユーゴー、ヴィジャヤナガル王国、ヴェネツィア、ヴェネツィア・ゲットー、ヴェネツィア派、ヴェステロース、ボハイの乱、ボリス・ゴドゥノフ、ボルチモア、ボルジア家、ボローニャ、ヌール・バヌ、ヌエバ・エスパーニャ、トマス・ミュンツァー、トマス・モア、トマス・アクィナス、トマス・クロムウェル、トランシルヴァニア公国、トリエント公会議、トルクァート・タッソ、トレド、トンブクトゥ、トーマス・グレシャム、トゥメト、トゥパク・アマル (初代)、トスカーナ大公国、ヘラート、ヘンリー8世 (イングランド王)、ヘンリク条項、ヘブライ語、ブハラ、ブハラ・ハン国、ブリュッセル、ブルボン朝、ブレスト合同、ブダ、プラナコーンシーアユッタヤー郡、プラハ、プラド美術館、プラタープ・シング (メーワール王)、プレヴェザの海戦、プレイヤード派、プロイセン統治者の一覧、プスコフ、パラグアイ、パラグアイ川、パラケルスス、パルマ、パルマ公の一覧、パンプローナ、パンジャーブ、パヴィアの戦い、パドヴァ、パドヴァ大学、パウルス3世 (ローマ教皇)、パウルス4世 (ローマ教皇)、パオロ・ヴェロネーゼ、ビフザード、ビアンカ・カッペッロ、ビジャープル王国、ピレネー山脈、ピーリー・レイース、ピーリー・レイースの地図、ピーボディ考古学・民族学博物館、ピーテル・ブリューゲル、ピウス3世 (ローマ教皇)、ピウス5世 (ローマ教皇)、ピエール・ド・ロンサール、ピエトロ・アレティーノ、ピエタ (ミケランジェロ)、ピサ、ツファット、ツァーリ、ティムール朝、ティルマン・リーメンシュナイダー、ティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、テオドール・ド・ベーズ、デリー、デリー・スルターン朝、デンマーク、デンマーク君主一覧、ディーウ沖の海戦、ディエゴ・デ・ランダ、ディエゴ・デ・アルマグロ、デジデリウス・エラスムス、フマーユーン、フョードル1世、フランチェスコ2世・ゴンザーガ、フランチェスコ・グイチャルディーニ、フランシス・ドレーク、フランシスコ会、フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス、フランシスコ・ピサロ、フランシスコ・デ・ビトリア、フランシスコ・デ・アルメイダ、フランシスコ・デ・オレリャーナ、フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・スアレス、フランス、フランソワ1世 (フランス王)、フランソワ2世 (フランス王)、フランソワ・ラブレー、フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)、フリースラント、フルドリッヒ・ツヴィングリ、フロリダ州、フロイス日本史、フフホト市、ファテープル・シークリー、ファウスト、ファウスト (伝説)、ファウスト・ソッツィーニ、フアン・ポンセ・デ・レオン、フアン・ヒネス・デ・セプルベダ、フアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ、フィリッポ・ネリ、フィリップ2世 (モスクワ府主教)、フィリップ・メランヒトン、フィリピン、フィリシュタ、フィレンツェ、フィンランド大公、フェリペ2世 (スペイン王)、フェルナンド2世 (アラゴン王)、フェルナンド・アルバレス・デ・トレド、フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)、フェルディナンド・マゼラン、フズーリー、ドナト・ブラマンテ、ドミンゴ・デ・ソト、ドミニコ会、ドメニコ・フォンターナ、ドン・フアン・デ・アウストリア、ドイツ騎士団、ドイツ語、ドイツ農民戦争、ドクター・フー、ニッコロ・マキャヴェッリ、ニコラウス・コペルニクス、ニコロ・フォンタナ・タルタリア、ホルムズ島、ダヤン・ハーン、ダライ・ラマ、ダライ・ラマ3世、ダビデ像 (ミケランジェロ)、ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ、ベルナール・パリッシー、ベンヴェヌート・チェッリーニ、切腹、刀狩、嘉靖帝、周防国、呻吟語、呂坤、呉派、呉承恩、アナバプテスト、アマゾン川、アムリトサル、アメリカ州、アメリゴ・ヴェスプッチ、アユタヤ王朝、アルマダの海戦、アルバ公、アルブレヒト (プロイセン公)、アルブレヒト・デューラー、アルカセル・キビールの戦い、アルジェ、アルタン・ハーン、アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)、アレクサンデル6世 (ローマ教皇)、アンリ1世 (ギーズ公)、アンリ2世 (フランス王)、アンリ3世 (フランス王)、アンリ4世 (フランス王)、アン・ブーリン、アントウェルペン、アンブロワーズ・パレ、アンデス文明、アンドレーア・パッラーディオ、アンドレアス・ヴェサリウス、アンドレス・デ・ウルダネータ、アーニョロ・ブロンズィーノ、アーグラ、アッバース1世、アッバース朝、アトス山、アビラのテレサ、アテナイの学堂、アデン、アフォンソ・デ・アルブケルケ、アイルランド王国、アウクスブルク、アウクスブルクの和議、アウクスブルク信仰告白、アカプルコ、アクバル、アクバル・ナーマ、アジア、アストラハン・ハン国、アステカ、アタマン、アタワルパ、インフレーション、インド、インド洋、インカ帝国、イングランド、イングランド国教会、インゴルシュタット、イヴァン4世、イブラーヒーム・ローディー、イェルマーク、イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル、イエズス会、イギリス・ルネサンス演劇、イギリス東インド会社、イグナチオ・デ・ロヨラ、イザベラ・デステ、イスマーイール1世、イスタンブール、イタリア、イタリア・ルネサンス年表、イタリア戦争、ウルリヒ・フォン・フッテン、ウルワツ寺院、ウルビーノ、ウプサラ、ウダイ・シング2世、ウダイプル、ウィリアム・ティンダル、ウィリアム・ギルバート (物理学者)、ウィリアム・シェイクスピア、ウィレム1世 (オラニエ公)、ウィーン、ウェールズ、ウォルターズ美術館、ウグリチのドミトリー、ウズ・ルジアダス、エリザベス1世、エリザベス朝、エルナン・コルテス、エルナンド・デ・ソト、エル・エスコリアル修道院、エル・グレコ、エルデネ・ゾー、エルサレム解放、エンリケ2世、エプタメロン、エドマンド・スペンサー、エドワード6世 (イングランド王)、エステ家、エスファハーン、エセー、オペラ、オランダ、オラトリオ、オラトリオ会、オラウス・マグヌス、オルハン・パムク、オプリーチニナ、オスマン家、オスマン帝国、カナの婚宴、カナダ、カナウジ、カバラ、カラブリア州、カルマル同盟、カルメル会、カルロ・ボッロメーオ、カルロス (アストゥリアス公)、カルタ・マリナ、カレー (フランス)、カンパネッラ、カール5世 (神聖ローマ皇帝)、カトリーヌ・ド・メディシス、カトリック同盟 (フランス)、カトリック教会、カトー・カンブレジ条約、カビール、カカオ、カザン、カザン・ハン国、カシリク、ガリレオ・ガリレイ、ガリカニスム、ガルガンチュワとパンタグリュエル、ガレノス、キャサリン・オブ・アラゴン、キリシタン、キリシタン大名、キリスト教、キリスト教綱要、ギリシャ、クリミア・ハン国、クリシュナ、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ、クリスチャン2世 (デンマーク王)、クリストファー・マーロウ、クリストファー・クラヴィウス、クレメンス7世 (ローマ教皇)、クレタ島、クロアチア、クアウテモック、グラナダ、グル・ナーナク、グレゴリウス13世 (ローマ教皇)、グレゴリオ暦、グレシャムの法則、グアナフアト、グアダルーペの聖母 (メキシコ)、グジャラート・スルターン朝、グスタフ1世 (スウェーデン王)、ケルン大司教、ゲラルドゥス・メルカトル、ゲルゲル王国、コレージュ・ド・フランス、コレッジョ、コロンブス交換、コンラート・ゲスナー、コンキスタドール、コンコルダート、コーチ (インド)、コジモ1世、コゼンツァ、コサック、ゴーレム、ゴア、ゴア州、ゴシック、ザクセン君主一覧、シモン・ステヴィン、シャルル9世 (フランス王)、シャー、シャイバーニー朝、シュマルカルデン戦争、シュラフタ、シラー、シビル・ハン国、シベリア、シェール・シャー、シクストゥス5世 (ローマ教皇)、シク教、システィーナ礼拝堂、シサク、ジャワ島、ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ、ジャン・ボダン、ジャン・カルヴァン、ジャンボローニャ、ジャック・ルフェーヴル・デタープル、ジャック・カルティエ、ジュネーヴ、ジュゼッペ・アルチンボルド、ジョチ・ウルス、ジョルダーノ・ブルーノ、ジョルジョ・ヴァザーリ、ジョルジョーネ、ジョン・ノックス、ジョン・ディー、ジョン・フィッシャー、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ、ジェロラモ・カルダーノ、ジェームズ1世 (イングランド王)、ジェーン・グレイ、ジグムント2世、ジグムント3世、ジズヤ、スペイン、スペイン帝国、スルターン、スレイマン1世、スレイマニエ・モスク、スロベニア、スール朝、スーフィズム、ストラスブール、ストックホルムの血浴、ステファン・バートリ (ポーランド王)、ステガノグラフィー、スフォルツァ家、スイス、スウェーデン、スコットランド、スタンチク、ズッコケ三人組、セバスティアン1世 (ポルトガル王)、セリム1世、セリム2世、セントローレンス湾、セブ島、セイム、ソンガイ帝国、ソッツィーニ派、ソコルル・メフメト・パシャ、タナロット寺院、タペストリー、ターリコータの戦い、タブリーズ、タフマースブ1世、タイムトラベル、タイ王国、タウングー王朝、サマルカンド、サハラ交易、サポヤイ・ヤーノシュ、サラマンカ学派、サライ、サラゴサ条約、サン・バルテルミの虐殺、サン・ピエトロ大聖堂、サビニの女たちの略奪、サファヴィー朝、サフィエ・スルタン、サアド朝、サカテカス銀山、唐寅、内閣大学士、出羽国、出雲大社、出雲阿国、啓迪集、八十年戦争、八丈島、典院、克肖者、前田利家、前田氏、動乱時代、勅許会社、国立古美術館、四大奇書、四国平定、四国攻め、倭寇、噴火、知行合一、石山合戦、石山本願寺、石田三成、石見銀山、王子と乞食、王世貞、王直、王陽明、琉球王国、破門、神品致命者、神器譜、神聖ローマ帝国、神聖ローマ皇帝、祝允明、祇園祭、禁書目録、福島正則、私掠船、種子島、立河原の戦い、第一次パーニーパットの戦い、第一次ウィーン包囲、第二次パーニーパットの戦い、策彦周良、管領、米沢市上杉博物館、細川幽斎、細川忠興、細川ガラシャ、細川高国、細川氏、細川政元、細川政権、細川政権 (戦国時代)、細川晴元、細胞、織田信長、織田政権、美濃国、経済、痴愚神礼讃、甲子士禍、甲相駿三国同盟、甲斐国、町衆、画家、画家・彫刻家・建築家列伝、熊本市、燕山君、異端、畿内、牡丹亭、狩野内膳、狩野光信、狩野永徳、狩野派、狂えるオルランド、直江兼続、直江状、相模国、盛期ルネサンス、白羊朝、隆慶帝、隕石、銀、莫登庸、莫朝、聚楽第、選帝侯、選挙君主制、聖人、聖ヨハネ騎士団、聖ワシリイ大聖堂、聖アウグスチノ修道会、聖公会祈祷書、聖餐論、聖母の出現、道化師、華県地震、菜根譚、顕如、西遊記、西暦、西欧、首都、覇権、駿河国、騎士戦争、許仲琳、言継卿記、高台寺、魔女狩り、豊後国、豊臣秀吉、豊臣秀次、豊臣政権、貴婦人の和約、賤ヶ岳の戦い、越後国、越前一向一揆、足利義稙、足利義維、足利義輝、足利義栄、足利義昭、足利義晴、足利晴氏、践祚、鹿児島市、黎朝、黒田孝高、黒田長政、黒死館殺人事件、黄金の自由、近世、錬金術、露梁海戦、胡宗憲、蘭陵笑笑生、関ヶ原の戦い、関白、関東地方、関東管領、薩摩国、肥前国、鄭舜功、自由意志、金瓶梅、金襴の陣、長宗我部元親、長崎、長崎県、長崎港、長篠の戦い、長谷川等伯、長門国、長老派教会、鉄砲伝来、雪舟、雪村、陰シツ録、陶晴賢、陸奥国、陸上自衛隊、陽明学、暦、暗殺、投影法、柳成龍、柴田勝家、恩寵、提督、李卓吾、李如松、李珥、李舜臣、李氏朝鮮、李滉、李時珍、東大寺大仏殿の戦い、東山、松林図屏風、松永久秀、桶狭間の戦い、楊廷和、楊応龍の乱、楽市・楽座、檄文事件、正徳帝、正親町天皇、武田信玄、死刑、歌舞伎、殉教、比叡山焼き討ち (1571年)、毛利元就、毛利輝元、水墨画、永禄の変、永正の錯乱、江口の戦い、江戸幕府、河越城の戦い、法華一揆、洛中洛外図、清原宣賢、清洲会議、湯顕祖、服部半蔵、服部正成、朝鮮、本草学、本草綱目、本願寺、本能寺の変、朱子学、有馬晴信、最後の審判、最後の審判 (ミケランジェロ)、戊午士禍、戚継光、成聖者、戦国大名、戦国自衛隊1549、戦国時代 (日本)、明、明応の政変、明智光秀、海瑞、海瑞罷官、海賊、浄土真宗、浅間山、斎藤道三、新世界、新約聖書、新暦、新撰犬筑波集、方広寺、文彭、文徴明、文化、文嘉、文禄・慶長の役、日本、日本一鑑、日本二十六聖人、旧約聖書、旃檀林、摺上原の戦い、摂政、播磨国、悪魔、悪魔の偽王国、改革派教会、政略論、政治、政治学、懐疑主義、懲ヒ録、敦賀市、教皇、教皇マルチェルスのミサ曲、慶長大地震、慶長伊予地震、慶長伏見地震、慶長豊後地震、手取川の戦い、曲直瀬道三、智積院、10月13日、10月16日、1420年、1431年、1436年、1440年、1443年、1444年、1448年、1450年、1451年、1452年、1453年、1455年、1456年、1459年、1460年、1460年代、1462年、1463年、1465年、1466年、1468年、1469年、1470年、1471年、1472年、1473年、1474年、1475年、1476年、1477年、1478年、1479年、1480年、1481年、1483年、1484年、1485年、1486年、1487年、1488年、1489年、1490年、1491年、1492年、1493年、1494年、1495年、1496年、1497年、1498年、1499年、1500年、1501年、1502年、1503年、1504年、1506年、1507年、1508年、1509年、1510年、1511年、1512年、1513年、1514年、1515年、1516年、1517年、1518年、1519年、1520年、1521年、1522年、1523年、1524年、1525年、1526年、1527年、1528年、1529年、1530年、1531年、1532年、1533年、1534年、1535年、1536年、1537年、1538年、1539年、1540年、1541年、1542年、1543年、1544年、1545年、1546年、1547年、1548年、1549年、1550年、1551年、1552年、1553年、1554年、1555年、1556年、1557年、1558年、1559年、1560年、1561年、1562年、1563年、1564年、1565年、1566年、1567年、1568年、1569年、1570年、1571年、1572年、1573年、1574年、1576年、1577年、1578年、1579年、1580年、1581年、1582年、1583年、1584年、1585年、1586年、1587年、1588年、1589年、1590年、1591年、1592年、1593年、1594年、1595年、1596年、1597年、1598年、1599年、1600年、1602年、1603年、1604年、1605年、1606年、1607年、1608年、1609年、1610年、1611年、1612年、1614年、1615年、1616年、1617年、1618年、1619年、1620年、1621年、1623年、1624年、1625年、1626年、1629年、1632年、1637年、1642年、1650年、1654年、1655年、17世紀、2003年、2005年、39箇条、95か条の論題、9世紀。 インデックスを展開 (1181 もっと) »
加賀国
加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
加藤清正
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。.
劉瑾
劉 瑾(りゅう きん)は、中国の人物。.
厳島の戦い
月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵 厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年合戦の発生年について「弘治元年」とする資料や史跡案内(厳島各所の史跡説明板)も多いが、天文から弘治への改元は天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)である。10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である。.
新しい!!: 16世紀と厳島の戦い · 続きを見る »
厳嵩
厳嵩 厳嵩(げんすう、1480年(成化16年) - 1567年(隆慶元年))は、明代の政治家。.
おもろさうし
『おもろさうし』(おもろそうし)は、琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。全22巻。.
新しい!!: 16世紀とおもろさうし · 続きを見る »
博多
博多総鎮守櫛田神社 博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。 博多湾に面する港町・港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市・福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。.
十字架のヨハネ
十字架のヨハネ(Juan de la Cruz,1542年-1591年12月14日)は16世紀のスペインのカトリック司祭、神秘思想家。アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。カトリック教会・聖公会で聖人であり、教会博士の一人。記念日は12月14日。この記念日はアメリカ福音ルター派教会でも祝われている。.
新しい!!: 16世紀と十字架のヨハネ · 続きを見る »
十進法
十進法(じっしんほう、decimal system)とは、10 を底(てい)とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。.
占星術
占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。.
千利休
千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。.
千々石ミゲル
千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)ごろ - 寛永9年12月14日(1633年1月23日)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)。肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された正使の1人として、そして4人の正使の中で唯一、棄教してキリスト教から離れたことで知られている。.
新しい!!: 16世紀と千々石ミゲル · 続きを見る »
南北朝時代 (ベトナム)
ベトナムの南北朝時代(なんぼくちょうじだい。、)は、ベトナムの歴史における1533年から1592年までを指す。.
新しい!!: 16世紀と南北朝時代 (ベトナム) · 続きを見る »
古今伝授
古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す。.
古田重然
織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝) 古田 重然(ふるた しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。.
司祭
司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.
司教
司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・韓国語では訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。.
同心
同心(どうしん)は、江戸幕府の下級役人のひとつ。諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭・火付盗賊改方などの配下で、与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた。また、諸藩においても藩直属の足軽階級の正式名称を同心としているところも少なくない。明治維新後は卒族とされた。.
吉祥寺
吉祥寺上空からの航空写真。国土航空写真 吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都武蔵野市に1889年(明治22年)から1962年(昭和37年)まで存在した大字。旧北多摩郡吉祥寺村。また、現在は吉祥寺駅を中心とする街及び同市に属する広域地域名として使われる。.
君主論
『君主論』(くんしゅろん、Il Principe, イル・プリンチペ)は、1532年に刊行されたニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作である。 歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。.
堺
堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.
堺公方
堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称である。堺大樹(さかいたいじゅ)とも呼ばれた(大樹は将軍の意)。義維はこの時期和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙した。堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を堺幕府と呼ぶ研究者もいる。 永正5年(1508年)以来曲がりなりにも室町幕府を担ってきた管領細川高国の陣営に内紛が起こり、それをきっかけに長らく阿波国に逼塞していた対立陣営の義維・細川晴元・三好元長らが堺に進出し、そこを拠点に将軍・細川管領家(京兆家)家督の座や畿内の支配を目指した。その活動期間中、将軍義晴はほぼ近江国内に亡命しており、江州大樹(ごうしゅうたいじゅ)などと呼ばれていた。巻き返しを図って奔走した高国は享禄4年(1531年)に敗れて(大物崩れ)自害したが、堺公方側は間もなく内訌を始め、将軍への接近を試みる細川晴元が三好元長を滅ぼすと、義維も阿波へ没落し、その活動に幕が下ろされた。 明応の政変以降、足利将軍家は将軍とその対抗者の両流に分かれたが、永正の錯乱・等持院の戦いと時に立場を入れ替え、やはり分裂していた京兆家の一方とそれぞれが結び付きながら相克を繰り返した。堺公方と幕府の両陣営が覇権を争って拮抗したのも、その流れの末に生じた事態であった。この時の堺公方陣営は、幕府並みの体制を敷いて畿内を勢力範囲に収め、しかも幕府側の中核であった細川高国を倒しながら、幕府(義晴政権)に取って代わる前に、あっけなく自壊したのであった。.
大友義鎮
九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.
大坂城
大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.
大坂の陣
大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.
大寧寺の変
大寧寺の変(たいねいじのへん)とは、天文20年8月28日 - 9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。.
新しい!!: 16世紀と大寧寺の変 · 続きを見る »
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大内義隆
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。.
大内文化
大内文化を代表する建築物のひとつである瑠璃光寺五重塔(国宝) 大内文化(おおうちぶんか)とは、室町時代の山口を中心とする文化を指す用語。大内氏第9代当主大内弘世(1325年-1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端とする。第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年-1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が隆盛した。.
大礼の議
大礼の議(たいれいのぎ)は、明代に世宗嘉靖帝の実父である興献王朱祐杬の尊号を巡って起こった論争。.
大物崩れ
大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。.
大韓民国
大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).
大谷吉継
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.
大航海時代
大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。.
新しい!!: 16世紀と大航海時代 · 続きを見る »
大村純忠
大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第18代当主。 永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。.
天下統一
天下統一(てんかとういつ/てんがとういつ)は統治すべき地域を一人の権力者の下で統治すること。.
天動説
天動説の図 天動説(てんどうせつ)、または地球中心説(Geocentrism)とは、地球は宇宙の中心にあり静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説で、コスモロジー(宇宙論)の1つの類型のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。現在では間違いとされる。.
天球の回転について
『天球の回転について』(Nicolai Copernici Torinensis De revolutionibus orbium coelestium, Libri VI、英語訳: On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books)は、1543年に出版されたニコラウス・コペルニクスの地動説を主張した著書である。 1512年から行われた第5ラテラン公会議においては、教会暦の改良についても議論された。このとき意見を求められたものの、1年の長さと月の運動の知識が不十分であったため問題の解決ができなかったことを認識したコペルニクスが、太陽系の構造を根本から考えなおしたものである。1539年にゲオルク・レティクスがコペルニクスの弟子となりコペルニクスの手稿を読み、レクティスの天文学の師のヨハネス・シェーナーに概要を送り、1540年に Narratioとして出版された。Narratioの評判とレクティスの強い勧めにより『天球の回転について』の出版にコペルニクスは同意し、彼の死の直前に出版された。.
新しい!!: 16世紀と天球の回転について · 続きを見る »
天正遣欧少年使節
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と天正遣欧少年使節 · 続きを見る »
天文学者
リレオ・ガリレイはしばしば近代天文学の父と呼ばれる。 天文学者(てんもんがくしゃ)とは、惑星、恒星、銀河等の天体を研究する科学者である。 歴史的に、astronomy では天空で起きる現象の分類や記述に重点を置き、astroplane ではこれらの現象の説明やそれらの間の差異を物理法則を使って説明することを試みてきた。今日では、2つの差はほとんどなくなっている。プロの天文学者は高い教育を受け、通常物理学か天文学の博士号を持っており、研究所や大学に雇用されている。多くの時間を研究に費やすが、教育、施設の建設、天文台の運営の補助等にも携わっている。アメリカ合衆国のプロの天文学者の数は少なく、北米最大の天文学者の組織であるアメリカ天文学会には7,700人が所属している。天文学者の数の中には、物理学、地学、工学等の別の分野出身で天文学に関心を持ち、深く関わっているの者も含まれている。国際天文学連合には、博士課程以上の学生を含めて89カ国から9259人が所属している。 世界中のプロの天文学者の数は小さな町の人口にも満たないが、アマチュア天文学者のコミュニティは数多くある。多くの市に、定期的に会合を開催しているアマチュア天文学者のクラブがある。太平洋天文協会は、70カ国以上からプロやアマチュアの天文学者、教育者が参加する世界最大の組織である。他の趣味と同様に、自身をアマチュア天文学者だと考える多くの人々は、月に数時間を天体観測や最新の研究成果を読むことに費やす。しかし、アマチュアは、いわゆる「アームチェア天文学者」と呼ばれる人々から、自身の天体望遠鏡を所持して野望を持ち、新しい発見をしたりプロの天文学者の研究を助けたりする者まで、幅広く存在する。.
太平洋
太平洋(たいへいよう)は、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる、世界最大の海洋。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。.
太閤
太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。.
太閤検地
太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.
太陽
太陽(たいよう、Sun、Sol)は、銀河系(天の川銀河)の恒星の一つである。人類が住む地球を含む太陽系の物理的中心尾崎、第2章太陽と太陽系、pp. 9–10であり、太陽系の全質量の99.86%を占め、太陽系の全天体に重力の影響を与えるニュートン (別2009)、2章 太陽と地球、そして月、pp. 30–31 太陽とは何か。 太陽は属している銀河系の中ではありふれた主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。推測年齢は約46億年で、中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し、主系列星として存在できる期間の半分を経過しているものと考えられている尾崎、第2章太陽と太陽系、2.1太陽 2.1.1太陽の概観 pp. 10–11。 また、太陽が太陽系の中心の恒星であることから、任意の惑星系の中心の恒星を比喩的に「太陽」と呼ぶことがある。.
奥州仕置
奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。.
奇蹟者
奇蹟者(きせきしゃ)とは正教会で聖人に付される称号。「奇跡者」とも。日本正教会による訳語。聖人を通して働いた神の恩寵による奇蹟が特に記憶される際、この称号で聖人が記憶される。.
妖精の女王
『妖精の女王』(ようせいのじょおう、The Faerie Queene)は、16世紀イングランドの詩人エドマンド・スペンサーの代表作で、アレゴリーをふんだんに用いた長詩である。当時のイングランド女王エリザベス1世に捧げられた。 全6巻と断篇からなる長編叙事詩で、アーサー王物語を題材にしている。本来全12巻で構成され、各巻で12の徳を描く予定であったが、最終的には神聖、節制、貞節、友情、正義、礼節の6つのみが描かれた。 作品の中で「グローリアーナ」と呼ばれるのは、他ならぬ女王エリザベス1世である。アウグストゥスの時代の『アエネーイス』と同じように、『妖精の女王』は高く評価され、アウグストゥスがトロイアの子孫だと称えられたように、『妖精の女王』ではテューダー家はアーサー王の子孫だと褒め称えている。 和田勇一、福田昇八の日本語訳がある。.
新しい!!: 16世紀と妖精の女王 · 続きを見る »
姜コウ
姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。.
姉川の戦い
姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。.
新しい!!: 16世紀と姉川の戦い · 続きを見る »
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宦官
宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.
家宰
家宰(かさい)とは、室町時代の武家に多く見られた一家あるいは一門内の職責の一種。 家長に代わって家政を取りしきる職責の事で、家事を宰領するという意味合いからこの名が付いた。関東管領を務めた山内上杉家や扇谷上杉家では筆頭重臣として家宰が置かれ、山内上杉家では長尾氏一族が代々任命され、扇谷上杉家では太田氏が家宰を務めた。 室町期には武家の当主は京において在京奉公し領国の支配は家宰が担当する役割分担がなされていたが、戦国期に各地が乱国化すると当主自ら在国して支配に携わることが多いが、宝徳2年(1450年)に鎌倉公方の足利成氏と関東管領が対立した江ノ島合戦に際しては足利成氏が両上杉家の家宰を糾弾しているなど、在地支配においては依然家宰の権限が強大であった。そのため当主と家宰との間に対立関係が発生し、山内上杉家では文明9年(1477年)長尾景春が主君上杉顕定に対して反乱し(長尾景春の乱)、扇谷上杉家では文明18年(1486年)に家宰太田道灌が主君上杉定正により謀殺されている。 戦国時代から江戸時代に掛けては家老・宿老がより一般的になった。近世以降になると、家宰の権限を縮小して、純粋な家長の私事を統括する役職として、広敷用人・用人・側用人・家令・家扶長・執事などの呼称がみられるようになる。これら用人の職権は一様ではなく、幕府や藩によって異なる。例えば江戸幕府にあっては側用人は、老中との取次を第一の任務として、将軍家の大奥や細かい私事は、広敷用人や側衆の役目となる。 Category:家族制度 Category:武士 Category:室町時代 Category:戦国時代 (日本).
家臣団
家臣団(かしんだん)とは、将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団である。特に主君のそば近くに仕えるものは近臣と呼んだ。.
家老
家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.
宗祇
宗祇(そうぎ、応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。.
宗義智
宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主。.
宗長
宗長(そうちょう、1448年(文安5年) - 1532年4月11日(天文元年3月6日))は室町時代後期の連歌師である。号は柴屋軒。駿河国島田(現在の静岡県島田市)の出身。鍛冶職五条義助の子として生まれた。.
宗教裁判
宗教裁判(しゅうきょうさいばん)とは、ある宗教の教義や見解に基づいて行われる裁判手続のことである。.
宗教改革
フスの殉教 宗教改革(しゅうきょうかいかく、Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。 ルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。.
宇宙人
宇宙人(うちゅうじん)とは、地球外生命のうち知性を持つものの総称である。 エイリアン(alien)、異星人とも呼ばれる。一時期、「」と呼ばれたこともある。 この項目では、宇宙人一般、および、その中でも超常現象を扱う雑誌やテレビ番組などで地球を訪れていると報道された宇宙人について説明する。他方、科学的な研究の詳細は地球外知的生命体探査を参照のこと。.
宇喜多秀家
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.
新しい!!: 16世紀と宇喜多秀家 · 続きを見る »
安土城
安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
新しい!!: 16世紀と安土桃山時代 · 続きを見る »
安化王の乱
安化王の乱(あんかおうのらん)は、明代の正徳年間に起こった皇族安化王朱寘鐇の起こした反乱。 安化王朱寘鐇は、太祖朱元璋の第16子慶靖王の曽孫で、弘治5年(1492年)に安化王の位を継承した。 正徳帝が即位すると、政治を壟断した宦官劉瑾らの行った検地で過剰な負担を強いられ、かねてから交流していた寧夏衛の生員である孫景文らの煽動で、正徳5年(1510年)に、君側の奸を除くとして、劉瑾の誅殺を名目に挙兵した。 朝廷は前右都御史楊一清を起用として提督とし、神英を平胡将軍に任じて、京営の兵を与えて派遣したが、到着前に寧夏の参将仇鉞らの奇計が功を奏して、反乱はわずか18日で鎮圧された。朱寘鐇は北京に送られて処刑され、仇鉞は咸寧伯に封ぜられた。 この反乱は、正徳14年に起こった寧王の乱と共に皇族の起こした反乱で、正徳帝の遊興と劉瑾ら奸臣による政治の腐敗に根本的な原因がある。 Category:明朝の政治 Category:中国の反乱 Category:1510年の中国 Category:1510年の戦闘 Category:寧夏回族自治区の歴史.
新しい!!: 16世紀と安化王の乱 · 続きを見る »
安芸国
安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
寧夏回族自治区
寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)は、中華人民共和国西北部に位置する自治区である。ニンシヤホイ族自治区とも呼ばれる。首府は銀川市。.
新しい!!: 16世紀と寧夏回族自治区 · 続きを見る »
寧王の乱
寧王の乱(ねいおうのらん)は、明の正徳14年(1519年)に宗室である寧王朱宸濠が帝位を狙い挙兵した事件。.
寧波の乱
寧波の乱(にんぽーのらん・ねいはのらん)とは、1523年(明では嘉靖2年、日本では室町時代の大永3年)に、明の寧波で起きた事件。寧波争貢事件、明州の乱、宗設の乱とも。.
対馬
対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 ISBN 4621077635。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。.
封神演義
『封神演義』(ほうしんえんぎ)は、中国明代に成立した神怪小説。『商周演義』、『封神伝』、『封神榜』、『封神榜演義』ともいう。史実の殷周易姓革命を舞台に、仙人や道士、妖怪が人界と仙界を二分して大戦争を繰り広げるスケールの大きい作品である。文学作品としての評価は高くないが、中国大衆の宗教文化・民間信仰に大きな影響を与えたとされる。著者(編者)は一般に許仲琳とされることが多いが、定説はない。.
小田原征伐
小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀と小田原征伐 · 続きを見る »
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.
新しい!!: 16世紀と小牧・長久手の戦い · 続きを見る »
小西行長
小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。.
小谷城の戦い
小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いである。.
新しい!!: 16世紀と小谷城の戦い · 続きを見る »
小栗虫太郎
小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。東京都千代田区外神田出身。本名は小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作『完全犯罪』、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。.
新しい!!: 16世紀と小栗虫太郎 · 続きを見る »
小早川秀秋
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.
新しい!!: 16世紀と小早川秀秋 · 続きを見る »
小数
小数(しょうすう,decimal)とは、位取り記数法と小数点を用いて実数を表現するための表記法である。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
山口市
山口市(やまぐちし)は、中国地方西部(九州・山口地方北東部)の市。山口県の県庁所在地である。.
山崎の戦い
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と山崎の戦い · 続きを見る »
山崎宗鑑
山崎 宗鑑(やまざき そうかん、寛正6年(1465年)? - 天文23年10月2日(1554年10月28日)?)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の出身とされるが、本名・出自については諸説ある。.
山科言継
山科言継墓所、京都市上京区清浄華院 山科 言継(やましな ときつぐ、永正4年4月26日(1507年6月6日)- 天正7年3月2日(1579年3月28日))は、戦国時代の公家。山科言綱の子。内蔵頭から正二位・権大納言に昇った。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。.
山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。.
新しい!!: 16世紀と山科本願寺の戦い · 続きを見る »
岡本大八
岡本 大八(おかもと だいはち、生年未詳 - 慶長17年3月21日(1612年4月21日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将。本多正純の重臣。岡本大八事件で知られる。 江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれる。キリシタンでもあり、洗礼名はパウロという。 はじめ長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、やがて本多正純の家臣となった。慶長14年(1609年)、有馬晴信が長崎港外においてマードレ・デ・デウス号を攻撃したとき(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)、晴信の監視役を務めた。ところが大八は、この事件の際の恩賞を徳川家康に斡旋すると偽って多額の賄賂を晴信から受け取った。しかし、いつまでたっても恩賞の沙汰が無いことにしびれを切らした晴信が正純と直談判したために詐欺行為が発覚。慶長17年(1612年)に晴信と直接対決が行なわれ、3月21日に駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された。.
島津義弘
島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.
川中島の戦い
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と川中島の戦い · 続きを見る »
巨人ゴーレム
『巨人ゴーレム』(きょじんゴーレム、Le Golem)は、1936年にチェコスロバキア・フランスで制作されたモンスター・ホラー映画である。.
新しい!!: 16世紀と巨人ゴーレム · 続きを見る »
巫女
巫女(みこ、ふじょ)は、主として日本の神に仕える女性のこと。神子(みこ)、舞姫(まいひめ)、御神子(みかんこ)と呼称される場合もある。.
上田宗箇流
上田宗箇流(うえだそうこりゅう)は茶道流派の一つで、芸州浅野家の家老であった上田家に伝わる武家茶道の一流。上田流とも。家元は広島市西区にあり、庵号は和風堂、財団法人として上田流和風堂、同門組織として和風会がある。東京遠鐘クラブという後援組織もあり、広島各地の他、東京・ハノーバー(ドイツ)に稽古場がある。.
新しい!!: 16世紀と上田宗箇流 · 続きを見る »
上田重安
上田 重安(うえだ しげやす)、または上田 宗箇(うえだ そうこ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・茶人・造園家。通称は佐太郎、剃髪後に宗箇と名乗る。茶道の上田宗箇流の流祖で、茶人・造園家として現在も残る業績を残した。また武将としても数々の戦で一番槍の功を立てた。.
上杉謙信
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.
上杉朝定 (扇谷上杉家)
上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の事実上最後の当主。武蔵国松山城主。.
新しい!!: 16世紀と上杉朝定 (扇谷上杉家) · 続きを見る »
上杉憲政
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.
上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.
中央アジア
東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.
新しい!!: 16世紀と中央アジア · 続きを見る »
中宗 (朝鮮王)
中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年9月2日 - 1544年11月14日)。諱は懌(ヨク、역)。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。.
新しい!!: 16世紀と中宗 (朝鮮王) · 続きを見る »
中世
中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国学
中国学(ちゅうごくがく)は中国の事物全般、あるいは言語・文化・歴史に関する学問の総称であり、とくに中国以外に住む中国人以外による中国に関する学術研究をさす。.
中国地方
中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。.
世紀
世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する"centum")である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。 世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀は、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。 また、天文学では時間的な「量」の単位としてユリウス世紀(.
万暦の三征
万暦の三征(ばんれきのさんせい、萬曆三大征)は、明の万暦年間に起こった3つの戦争を指す。万暦の三大征(ばんれきのさんだいせい)ともいう。; ボハイの乱; 朝鮮援兵; 楊応龍の乱 これら同時期に行われた3つの大規模な軍事行動には多大な軍費が投じられ、実態は不詳ながら『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役二百余万」とある石原道博 『万暦東征論』 1961年。 更に、万暦帝の私的な浪費によって、既に悪化しつつあった明の財政に大打撃を与えた。万暦帝は財政の悪化に対しては増税で対応したため、後に明を滅ぼすことになる内乱を誘発する遠因となった。また、朝鮮援兵では遼東方面に配置されていた兵力が朝鮮に差し向けられたため、その隙に乗じて後の清の太祖ヌルハチが勢力を拡大する結果を招いた。.
新しい!!: 16世紀と万暦の三征 · 続きを見る »
万暦帝
明神宗冕服像 万暦帝(ばんれきてい)は、明朝の第14代皇帝。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。諡号は範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。日本では一般的に治世の元号を取って万暦帝と呼ばれる。.
三好三人衆
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.
新しい!!: 16世紀と三好三人衆 · 続きを見る »
三好元長
三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。 父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説もある。.
三好長慶
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.
三好氏
三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.
三好政権
三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある。.
三次方程式
三次方程式(さんじほうていしき、cubic equation)とは、次数が 3 であるような代数方程式の事である。この項目では主に、実数を係数とする一変数の三次方程式を扱う。.
新しい!!: 16世紀と三次方程式 · 続きを見る »
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三浦の乱
三浦の乱(さんぽのらん、サムポのらん)とは、1510年(中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱(경오 삼포 왜란)。.
三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。.
新しい!!: 16世紀と三方ヶ原の戦い · 続きを見る »
一向一揆
三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.
一乗谷城の戦い
一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と一乗谷城の戦い · 続きを見る »
一条鞭法
一条鞭法(いちじょうべんぽう)は、中国の税制。丁税と地税を一括して銀納する税制であり、明王朝の後期には中国各地で施行された。 16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。.
九州平定
九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
年表
年表(ねんぴょう)とは、歴史上の出来事を起こった年とともに年代順に並べたものである。タイムラインとも言う。 横方向に構成される場合(通常は左から右へと年代が下る)と縦方向に構成される場合がある。通常は歴史年表のことをいうが、科学史年表や音楽史年表のように特定のテーマのみの出来事を扱った年表もある。テーマ別の年表については「年表一覧」を参照のこと。.
庚戌の変
庚戌の変(こうじゅつのへん)は、明の嘉靖29年(1550年)、モンゴルのアルタン・ハーンの軍勢が北京を包囲した事件。 モンゴルでは15世紀末から16世紀初頭にかけて、クビライの子孫を称するダヤン・ハーンの手で再統一が成し遂げられた。オルドスに封じられたその孫アルタン・ハーンは、16世紀前半、頻繁に明に侵入して略奪を行うようになり、朝貢や互市の要求も激しくなった。 嘉靖29年(1550年)には長城を越えて直隷に侵入し、3昼夜に渡って北京を包囲、朝貢と互市を要求した。この事件を庚戌の変と呼ぶ。この際は、明朝に脅威を与えただけで包囲を解いて立ち去ったが、翌1551年に再び交易を求めた。この要求を受けて大同で馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と絹織物とが交換された。しかし、まもなく明朝との関係が悪化して馬市が閉鎖されたため、両勢力の抗争は激化することになった。 こうしたアルタン・ハーンの活動は明にとって大きな脅威であり、長城の強化事業が行われた。.
享禄・天文の乱
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争の総称。.
新しい!!: 16世紀と享禄・天文の乱 · 続きを見る »
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
京都大学
記載なし。
広島市
広島市(ひろしまし)は日本の広島県の都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で最大の人口を有する市でもある。.
五大老
五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大名を指す。五奉行の顧問として、政務を統括した。豊臣秀吉の死後、家康に実権が集中していき、関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。.
五奉行
五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.
五島列島
五島列島の位置 五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島。.
今川義元
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.
建築家
建築家(けんちくか, )は、一般に建築における建物の設計や工事の監理などを職業とする専門家のことである。 建築を実践することは、建物の設計や建物を取り巻く敷地内の空間で、人間の占有や使用を主目的としたサービスを提供することを意味する。語源学的に、建築家はラテンのarchitectusから派生している。更にそれは、ギリシャ語のチーフ建設者(arkhi-、チーフ + tekton、建設者)から派生している。 専門的には、建築家の決定は公共の安全に影響するため、建築を業とするためのライセンスを得るためには実践的な経験が必要であるが、高度な教育と実務 (またはインターンシップ)すなわち建築家になるための実践的、技術的、学問的要件は、国地域によって異なる(下記参照)。 アーキテクトとアーキテクチャという用語は、造園、造船、情報技術(ネットワークアーキテクトやソフトウェアアーキテクトなど)の分野でも使用されている。ほとんどの国地域では、「建築家」 および「ランドスケープアーキテクト」という用語の専門的および商業的使用は法的に保護されている。.
伊勢氏
伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.
伊達政宗
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
伊賀
伊賀(いが)とは、かつての令制国のひとつである伊賀国および、その領域にほぼ該当する現在の三重県西部・上野盆地一帯に当たる地域に対する呼称である。本項では現在の三重県の一地方である伊賀地方について記述する。.
伊賀越え
伊賀越え(いがごえ)は、畿内より東国へ行く際に伊賀国を経由して行くことを指す。.
伊東マンショ
右上の人物が伊東マンショ グレゴリウス13世の謁見の場面 伊東 マンショ(いとう マンショ、Mancio, 満所とも、永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。.
新しい!!: 16世紀と伊東マンショ · 続きを見る »
会津征伐
会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。.
伝習録
『伝習録』(旧字:傳習録、でんしゅうろく)は、中国の明の時代に、王陽明が起こした儒学の教え・陽明学の入門書。王陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、本書は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた3巻で構成される。 日本には、1614年に紹介され、大塩平八郎、西郷隆盛が傾倒し、日本思想史においても多大な影響を与えた。注釈・訳注書が多数ある。 江戸時代を通じ、各地の儒学塾で講義された。豊後日田広瀬淡窓の咸宜園では、朱子学の『近思録』とともに、学業最後のテキストに用いられた。.
伝染病
ペインかぜの患者で溢れる野戦病院。感染者は世界人口の3割に当たる6億人にも上った。 伝染病(でんせんびょう)は、病気を起こした個体(ヒトや動物など)から病原体が別の個体へと到達し、連鎖的に感染者数が拡大する感染症の一種である。感染経路の究明が進んでいない近代までは、ヒトや家畜など特定の動物種の集団内で同じ症状を示す者が短時間に多発した状態(集団発生・疫病)を指していたため、現在でも「集団感染」との混同が見られる。 日本において「伝染病」の語は医学分野よりも「家畜伝染病予防法」など法令において限定的に用いられており、同法では「法定伝染病」や「届出伝染病」などの語で使用されている。過去には「伝染病予防法」という法律名にも使用されていたが、1999年の感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)の施行により廃止され、法文中の「伝染病」の文言は「感染症」に改められている(経過規定の条文などを除く)。同様に、旧・学校保健法の施行規則に見られた「学校伝染病」の語も2009年4月施行の学校保健安全法の施行規則で「感染症」に改められ、一般に「学校感染症」と呼ばれている。 東洋医学では賊風の証が近い概念である。.
弾道学
弾道学(だんどうがく、英語:ballistics)とは、発射された弾丸(砲弾)、爆弾、誘導弾、ロケット弾などの飛翔体の移動と挙動に関する学問(軍事学)の一分野である。 弾道学は、当初大砲の発生と共に始まったが、更に遡れば投石器やカタパルトなど飛び道具による投射の研究にその萌芽を見出すことが出来る。軍事学の一分野ではあるが、物理学から力学を介して数学にまで関係し、その一方では物性にも絡んで化学との接点も持つなど、多様な分野に関係している。コンピュータもその黎明期より強く関係し、膨大な弾道計算を処理する機械計算の延長で必要とされ開発がすすんだ(→ENIAC)。現代でもコンピュータ・シミュレーションの分野で主要なテーマの1つとなっている。同分野では計算対象が飛翔のみに留まらず、爆燃や轟燃、侵徹過程といった詳細な実験観測が不可能な物理現象まで広がりを見せている。 弾丸や砲弾の発射においては、弾丸が砲身内に存在する状態と、発射口から飛び出す瞬間、空間を放物線を描いて弾道飛行している間、物体に衝突して運動エネルギーが対象の破壊となって現れる段階と、幾つもの段階によって細分化されており、その各々に専門の研究者さえ存在する。それぞれは砲内弾道学・過渡弾道学・砲外弾道学・終末弾道学(破壊弾道学・侵徹弾道学)などと呼ばれている。 最も単純な弾道学モデルは真空中に砲弾を投射した場合で、これは重力の影響を受け軌道が逸れながら運動を続ける。それを体現しているのが人工衛星で、一定速度(第一宇宙速度)で発射された物体は「延々と地平線の向こうへ落下し続け」ている状態となる。 ただ実際の弾道学では、弾丸の形状によって発生する空気の流れ(流体力学)や重力を含む他の力(コリオリ力なども)の影響など様々な要素が複雑に関係してくるため、単純な計算式でその軌道を表すことが出来ない。これらを予測の範疇内に収めようと観測や実験や計算を繰り返す学問といえる。 元々は兵器の有効性を高めるための軍事研究の1つではあったが、宇宙開発では弾道学で培われた知識が必須のものとなり、弾道学は軍事だけに留まらない科学研究分野の1つとなっている。.
張居正
張 居正(ちょう きょせい、1525年5月24日(嘉靖4年5月3日) - 1582年7月9日(万暦10年6月20日))は、中国明代の政治家。字は叔大、封号は上柱国。号は太岳、諡は文忠。万暦帝の元で強力な指導力を発揮して政治改革を推し進めたが、その一方で強引に政敵を蹴落とすやり方は恨みも買った。.
彫刻家
彫刻家(ちょうこくか)とは、芸術家、美術家のなかでも立体作品、造形物としての彫刻を作る人のことを称する。.
佯狂者
佯狂者(ようきょうしゃ、ロシア語:юро́дивый(男性)/ юро́дивая(女性), 英語:yurodivy or "holy fool for Christ")は、正教会における聖人の称号。 俗世に心を煩わされずに専ら神に仕え、祈祷と斎(ものいみ)のうちに功を積んだ正教会の聖人は勤行者と呼ばれるが、そうした人々のうち、世を離れず、昼は市井にあってボロをまとって徘徊し、寒さ・暑さ・飢え・辱めを忍び、夜は聖堂の軒下などに野宿して祈る聖人がこの称号で呼ばれる。「佯」とは見せかけの意であり馬鹿を装いハリストス(キリスト)の真理を明らかにする者であるとされる。 佯狂者には、モスクワの聖ワシリイ大聖堂の名の由来となっている聖ワシリイなどがいる。 佯狂者は、「至福者」「聖愚者」との別称で呼ばれる場合もある。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
新しい!!: 16世紀と征夷大将軍 · 続きを見る »
徐階
徐階の朝服像 徐階(じょかい、1503年 - 1583年)は、明代の政治家。 南直隷松江府華亭県(現在の上海市松江区)の出身で、字は子升、号は存斎。嘉靖2年(1523年)の進士で、第3位となる(探花)。嘉靖20年(1541年)に合格した同郷人に、茶人として有名な陸樹声(1509-1605)がいる。陽明学派の俊英として期待され、大礼の議では左遷されたが、嘉靖31年(1552年)に青詞に巧みであるとして道教に熱中していた嘉靖帝から内閣大学士とされ、北虜南倭への対策で帝寵を得、同じく青詞に巧みであるとして登用され政治を壟断していた厳嵩・厳世蕃父子を弾劾して退けた。信賞必罰を旨として嘉靖帝の恣意的な処罰を制し、嘉靖帝の死を機に、弊政を刷新して大礼の議での刑罰を赦免した。内廷粛正を図ったために、高拱と宦官の結託を招いて隆慶2年(1568年)に致仕したが、正義派官僚の領袖として、朝野の人望を集めた。 郷里である松江には、二十四万畝といわれる江南で最大級の荘園を有していて、巡撫となった海瑞に指弾されたこともあった。 category:明代の人物 Category:1503年生 Category:1583年没 Category:明代の進士 Category:上海出身の人物.
徐渭
徐渭(じょ い、Xu Wei、正徳16年2月4日(1521年3月12日) - 万暦21年(1593年))は、中国明代の文人。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮。その作風は後世に大きな影響を与えた。しかし、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど破滅的で不遇な生涯を送った。 諱は渭。字をはじめ文清、のちに文長と改めた。天地・青藤・田水月・天池漱生・天池山人・海柳仏・山陰布衣など多くの雅号・室号を持つ。浙江省山陰県大雲坊(現在の紹興市越城区)の生まれ。.
価格革命
価格革命(かかくかくめい、price revolution)とは、大航海時代以降の世界の一体化にともなって、16世紀半ば以降、メキシコ、ペルー、ボリビアなどアメリカ大陸(「新大陸」)から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象をさす。なお、川北稔は、価格革命の要因を16世紀西欧における人口急増に求めている。 これにより、16世紀の西ヨーロッパは資本家的な企業経営にとってはきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされたが、反面、固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況となって、領主のいっそうの没落を加速した。それに対し、東ヨーロッパでは、西欧の拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され農場領主制と呼ばれる経営形態が進展した。 また、それまでの銀の主産地だった南ドイツの銀山を独占していた大富豪フッガー家や北イタリアの大商業資本の没落をもたらした。 学問への影響としては、当時、スペインのサラマンカ大学を中心に活動していた16世紀サラマンカ学派の神学者アスピルクエタやセリョリゴは、新大陸からの金銀流入と物価上昇を結びつけて捉え、今日でいう「貨幣数量説」に到達したことから、近代的経済学の先駆をなしたといわれる。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
後奈良天皇
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。.
新しい!!: 16世紀と後奈良天皇 · 続きを見る »
後北条氏
後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.
後陽成天皇
後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.
新しい!!: 16世紀と後陽成天皇 · 続きを見る »
後柏原天皇
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。.
新しい!!: 16世紀と後柏原天皇 · 続きを見る »
忍者
北斎漫画より 児雷也。想像で誇張された忍者の典型 忍者(にんじゃ)は、飛鳥時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、また独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、謀術、暗殺などを仕事としていたとされる。 その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。.
信貴山城の戦い
信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。.
新しい!!: 16世紀と信貴山城の戦い · 続きを見る »
信長包囲網
信長包囲網(のぶながほういもう)とは、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことを言う。.
新しい!!: 16世紀と信長包囲網 · 続きを見る »
修道会
修道会(しゅうどうかい)は、キリスト教の西方教会における組織。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織である。修道会の会員は修道者といわれる。 なお、東方諸教会・正教会・聖公会・ルター派にも修道院制度は存在するが、前二者の東方教会には修道会制度は存在しない。.
応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
心即理
心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそ理であるとする。中国、南宋の陸九淵や明の王陽明が定義した。 人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。 朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。 心即理説は人間そのものを認めるため、やがて人間の心が持つ欲望をそのまま肯定するようになる。王学左派、李贄(卓吾)がその代表的人物であり、彼は外的な規範をすべて否定し孔子をも批判するにいたった。また、すべての人に聖人となる可能性を認めたため、儒学を士大夫の学ではなく、庶民の地平にまで広げた。このため陽明学は反体制を擁護する思想となっていくのである。.
土岐頼芸
土岐 頼芸(とき よりあき/ - よりなり/ - よりのり/ - よりよし)は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。 土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。.
土佐国
土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
地中海
地中海(ちちゅうかい、Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。海洋学上の地中海の一つ。.
地動説
地動説(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転している、という学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。彼以前にも太陽を宇宙の中心とする説はあった。太陽中心説(Heliocentrism)ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球どちらが宇宙の中心であるかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる。 地動説の図.
地図
地図(ちず、英:mapブリタニカ百科事典「地図」 マップ、chart チャート)とは、地球表面の一部または全部を縮小あるいは変形し、記号・文字などを用いて表した図。.
北京市
北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.
北野大茶湯
北野大茶会(きたのだいさのえ)は、天正15年10月1日(1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において関白太政大臣・豊臣秀吉が主催した大規模な茶会のこと。.
新しい!!: 16世紀と北野大茶湯 · 続きを見る »
北条氏康
北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.
北条早雲
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.
北方民族文化誌
21巻43章「ノルウェーの海蛇その他の蛇の大きさ」 北方民族文化誌(ほっぽうみんぞくぶんかし、Historia de Gentibvs Septentrionalibvs)は、16世紀にスウェーデン出身のオラウス・マグヌスによって著され、1555年にローマで出版された書物。中世北欧の伝承・生活文化・自然などを全22巻にわたって広範に記述したものである。初版はラテン語であったが、イタリア語(1565年)やドイツ語(1567年)、英語(1658年)、オランダ語(1665年)などに翻訳され、広く読まれた。谷口幸男による日本語訳も入手可能である。 本書の成立のきっかけは、トレント公会議の折に、著者オラウス・マグヌスがケルン大司教アドルフ・フォン・シャウエンブルク(Adolf von Schauenburg)から北方の国々について尋ねられたことであった。オラウス・マグヌスは宗教改革の余波で故国を追われ、ローマで暮らしていた。そこで教皇パウルス3世の知遇を得た彼は、兄の後を継いで(名義のみだが)ウプサラ大司教位を受けて、公会議に参加していた。 内容にはプリニウスやサクソ・グラマティクスからの引用も多い。本文には挿絵として481点の木版画が添えられている。この中には雪の結晶を描いたものとして最古とされる版画も含まれている。.
新しい!!: 16世紀と北方民族文化誌 · 続きを見る »
ナバラ王国
ナバラ王国(ナバーラ王国とも、Nafarroako Erresuma、Reino de Navarra、Royaume de Navarre)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。.
新しい!!: 16世紀とナバラ王国 · 続きを見る »
ナポリ王国
ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.
新しい!!: 16世紀とナポリ王国 · 続きを見る »
ペルー副王領
ペルー副王領(ペルーふくおうりょう、Virreinato del Perú)は、スペインが中南米の植民地化の間に作った4つのうち2つ目の副王領である Encyclopadia Britannica.
新しい!!: 16世紀とペルー副王領 · 続きを見る »
ナレースワン
ナレースワン(Naresuan、1555年 - 1605年4月25日)は、タイのアユタヤ王朝の21代目の王。サンペット2世(Sanphet II)ともいう。「大王」と称せられ、また「黒の王」とも呼ばれる。マハータンマラーチャーティラート王(サンペット1世)の子。ピッサヌローク生まれ。日本語では「ナレースエン」とも表記される。.
新しい!!: 16世紀とナレースワン · 続きを見る »
ナントの勅令
ナントの勅令、原本 ナントの勅令(ナントのちょくれい。Édit de Nantes)は、1598年4月13日にフランス王アンリ4世がナントで発布した勅令。ユグノーなどのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、初期近代のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた。 この勅令によってユグノー戦争は急速に収まりを見せ、フランスの国家統一の出発になった。戦費の縮小や商工業におけるユグノーの活躍もあって政治情勢のみならず国家財政も安定し、17世紀のフランスの大国時代を作り上げた。 しかしプロテスタント信徒はこのとき、自分たちの教会を持つことは許されたが、それとは別にカトリック教会にも十分の一税を納めなければならなかった。 1685年、「太陽王」ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令によりこの勅令を廃止し、カトリック中心の権威主義的な国家へと逆戻りさせた。これによって、プロテスタント信徒の大半はネーデルラントなどの国外へ逃れ、商工業の担い手を失ったフランスの衰退を招くことになった。プロテスタント信徒は産業の中核を占めていたため数世代にもわたる財政の悪化を招くことにもなり、それを補うための増税政策に反発した貴族・聖職者や市民・一般国民などの不満が爆発したフランス革命の遠因ともなった。.
新しい!!: 16世紀とナントの勅令 · 続きを見る »
ミマール・スィナン
ミマール・スィナン(Mimar Sinan)は、盛期オスマン帝国の建築家、土木技術者。1490年前後にアナトリア半島のカイセリ近郊で生まれ、1588年7月17日にイスタンブルで亡くなった。スィナン(シナン)が名前でミマールは建築家を意味するアラビア語由来の言葉であるため、ミマール・スィナンは「建築家スィナン」を意味する。 キリスト教徒の石工の家に生まれ、デヴシルメで徴用されてイェニチェリ(常備軍歩兵)の工兵になった。一介の士官からあっという間に階級を上げ、軍団長にまでなったGoodwin (2001), p. 87。セリム1世、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世というオスマン帝国最盛期を代表する4代のスルターンに仕え、軍歴は50年近くに及ぶ。遠征で赴いた土地は、西はバルカン半島東はメソポタミアまでに及び、各地の建造物を実見した。 前線に出ている間に土木工学に関する実践的経験を積み、道路や橋梁、水路といったインフラストラクチャーの構築を含む、あらゆる種類の要塞建築のエキスパートとなったKinross (1977), pp 214–215。50歳ごろ帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)に任命され、軍で培った技術的スキルを良質な宗教施設を創造することに用いることを求められた。帝室モスクの代表作は、イスタンブルのシェフザーデ・ジャーミイとスレイマニエ・ジャーミイ、そして、スィナン自身が自身の最高傑作と認めたエディルネのセリミーエ・ジャーミイが挙げられる。.
新しい!!: 16世紀とミマール・スィナン · 続きを見る »
ミャンマー
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、Myanmar)、通称ミャンマー/ビルマは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。 南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。 多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ビルマ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い(言語参照)。.
新しい!!: 16世紀とミャンマー · 続きを見る »
ミュンスターの反乱
ミュンスターの反乱(ミュンスターのはんらん、)は、16世紀の神聖ローマ帝国の都市ミュンスターで発生した再洗礼派の反乱。.
新しい!!: 16世紀とミュンスターの反乱 · 続きを見る »
ミラノ
ミラノ(Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(Milan)、フランス語ではミラン(Milan)、ドイツ語ではマイラント(Mailand)、スペイン語ではミラン(Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(Mediolanum)と言う。.
ミラノ公国
人を飲み込む竜はミラノの昔話からきており、ヴィスコンティ家の紋章でもあった。現在はミラノのシンボルとして定着しており、アルファロメオのロゴの元にもなっている。 ミラノ公国(Ducato di Milano, Ducatus Mediolani)は、1395年から1535年(断続あり)までイタリア北部の都市ミラノを首都として存在した公国である。.
新しい!!: 16世紀とミラノ公国 · 続きを見る »
ミーラー・バーイー
ミーラー・バーイー(मीराबाई、1498年頃 - 1546年頃)は、インドの詩人、聖人。ミラバイとも。.
新しい!!: 16世紀とミーラー・バーイー · 続きを見る »
ミニアチュール
ミニアチュール(フランス語:miniature)または彩画(さいが)・細密画(さいみつが)とは、古代・中世の絵付き写本に収録された挿絵である。語源はラテン語のminium(鉛丹)。初期の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなむ。中世のミニアチュールは小さいものが多かったため、「minute(微細な)」などが語源であると誤解され、小さいサイズのイラストを指してミニアチュールと呼ばれるようになった。ミニアチュールの翻訳語として細密画という表現が採用されたのもこれに由来する。.
新しい!!: 16世紀とミニアチュール · 続きを見る »
ミケランジェロ・ブオナローティ
ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる。 ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。 ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェので、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。 ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえるMichelangelo.
新しい!!: 16世紀とミケランジェロ・ブオナローティ · 続きを見る »
ミゲル・ロペス・デ・レガスピ
ミゲル・ロペス・デ・レガスピの銅像 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel López de Legazpi、1502年 - 1572年8月20日)は、1565年にフィリピン諸島を征服し初代フィリピン総督となった、スペインのコンキスタドール(征服者)。 別名「エル・アデランタード(El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官)」または「エル・ビエホ(El Viejo、老人)」とも呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀とミゲル・ロペス・デ・レガスピ · 続きを見る »
ミシェル・ノストラダムス師の予言集
『予言集』の初版 現存最古の完全版 1600年頃の版 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(ミシェル・ノストラダムスしのよげんしゅう、Les Prophéties de M. Michel Nostradamus)は、フランスの占星術師ノストラダムスの主著である。四行詩集を主体とするこの著作の中には、現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文のほとんどが収められている。『諸世紀』と呼ばれることもあるが、後述するようにこの訳語は不適切である。 かつてはオカルト関連書としてしか扱われていなかったが、20世紀以降、フランス・ルネサンス期の他の詩作品との関連が検討されるなど、文学作品としての評価・検討の対象にもなっている。 以下、この記事中では『予言集』と略記する。.
新しい!!: 16世紀とミシェル・ノストラダムス師の予言集 · 続きを見る »
ミシェル・ド・モンテーニュ
ミシェル(・エイケム)・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。.
新しい!!: 16世紀とミシェル・ド・モンテーニュ · 続きを見る »
ミシェル・セルヴェ
ミシェル・セルヴェ(Michel Servet, Michel de Villeneuve, Miguel Serveto y Conesa, Miguel Serveto Conesa, Miquel Servet, Miguel Servet, Miguel Serveto (y Reves), Miguel de Villanueva, Michele Serveto, 1511年9月29日1553年10月27日)は、宗教改革期の人文主義者、医師、神学者。 三位一体説を批判したため、カトリック・プロテスタントの双方から異端とされ、逃亡中に立ち寄ったジュネーヴでカルヴァンの手の者によって告発され、ジュネーブ市議会によって火刑に処せられた。セルヴェはフランス語の名で、スペイン語ではミゲル・セルベート(Miguel Serveto)、ラテン語ではミカエル・セルウェトゥス(Michael Servetus)。.
新しい!!: 16世紀とミシェル・セルヴェ · 続きを見る »
ミシシッピ川
ミシシッピ川(ミシシッピがわ、Mississippi River)は、北アメリカ大陸を流れる河川の1つである。アメリカ合衆国のミネソタ州を源流とし、メキシコ湾へと注いでいる。全長は3779kmで、これはアメリカ合衆国内においては一番長い川である。かつては長らく世界最長の川と考えられていた。鉄道が敷かれるまでは、水運を担う重要な水路となっていた時期があり、蒸気船が航行する姿はアメリカ発展史における象徴的存在だった。.
新しい!!: 16世紀とミシシッピ川 · 続きを見る »
マムルーク朝
マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.
新しい!!: 16世紀とマムルーク朝 · 続きを見る »
マヤ文明
マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。.
マリー・ド・メディシス
『マリー・ド・メディシスの肖像』(1622年)ピーテル・パウル・ルーベンス画、プラド美術館所蔵 マリー・ド・メディシス(, 1575年4月26日 - 1642年7月3日)は、フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母である。.
新しい!!: 16世紀とマリー・ド・メディシス · 続きを見る »
マルティン・ルター
マルティン・ルター(Martin Luther 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者である。 1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。.
新しい!!: 16世紀とマルティン・ルター · 続きを見る »
マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク
マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク(独:Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg、英:Martin Luther University of Halle-Wittenberg)は、ドイツ・ザクセン=アンハルト州のハレ (ザーレ)とルターシュタット・ヴィッテンベルクを所在地とする公立大学。略称はMLU。 1817年、ヴィッテンベルク大学(1502年設立)とハレ大学(1694年設立)の合併により設立した。ヴィッテンベルクで教鞭をとっていたマルティン・ルターに因んで名付けられる。ハレ・ヴィッテンベルク間は、ICEで約1時間である。.
新しい!!: 16世紀とマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク · 続きを見る »
マルティン・ヴァルトゼーミュラー
19世紀に描かれた肖像画 マルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller, 1470年頃 - 1520年3月16日)は、ドイツの地理学者。 1507年にマティアス・リングマン (Matthias Ringmann) とともに著した冊子「宇宙誌入門」(Cosmographiae Introductio) において、フィレンツェ人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんだ「アメリカ」という名を初めて用いた人物である。.
新しい!!: 16世紀とマルティン・ヴァルトゼーミュラー · 続きを見る »
マルグリット・ド・ナヴァル
マルグリット・ド・ナヴァル(Marguerite de Navarre, 1492年4月11日 - 1549年12月21日)は、ナバラ王エンリケ2世の王妃。フランス・ルネサンス期の文芸の庇護者として知られ、自身も『エプタメロン』に代表される諸作品を残した文人である。フランス王フランソワ1世の姉である。 マルグリット・ダングレーム(Marguerite d'Angoulême)、マルグリット・ドルレアン(Marguerite d'Orléans)、マルグリット・ド・フランス(Marguerite de France)、マルグリット・ド・ヴァロワ(Marguerite de Valois)などと呼ばれることもある(これらについては、アンリ2世の娘マルグリットをはじめ、同じように呼ばれる人物が複数存在する)。.
新しい!!: 16世紀とマルグリット・ド・ナヴァル · 続きを見る »
マルジュ・ダービクの戦い
マルジュ・ダービクの戦い(マルジュ・ダービクのたたかい、معركة مرج دابق Ma'rakat Marj Dābiq)は、1516年8月24日にシリア北部ハラーブ近郊マルジュ・ダービク(ダービク平原)で行われたオスマン帝国とマムルーク朝の戦い。.
新しい!!: 16世紀とマルジュ・ダービクの戦い · 続きを見る »
マルタ島
マルタ島(Malta)は、地中海の中央、マルタ共和国内の島であり、同国内で最も大きな島である。 1989年12月2日から12月3日にかけて米ソ首脳が会談し、米ソ冷戦の終結を宣言したマルタ会談が開催された。.
マルタ騎士団
ドス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会(ロドスおよびマルタにおけるエルサレムのせいヨハネびょういんどくりつきししゅうどうかい、Sovrano Militare Ordine Ospedaliero di San Giovanni di Gerusalemme di Rhodi e di Malta)、通称マルタ騎士団(マルタきしだん)は、キリスト教カトリックの騎士修道会である。現在は国家ではないが、かつて領土を有していた経緯から「主権実体」として承認している国々がある。 軍事組織としての意味合いは既に失われて久しいが、医療団体としての活動はあり、イタリア共和国軍の軍医部隊としても運用されている。.
新しい!!: 16世紀とマルタ騎士団 · 続きを見る »
マントヴァの領主一覧
この項目は、イタリアに過去に存在した国家、マントヴァを支配した僭主、侯爵、公爵の一覧である。.
新しい!!: 16世紀とマントヴァの領主一覧 · 続きを見る »
ノヴゴロド虐殺
プリーチニク』の元となった)。 ノヴゴロド虐殺(ノヴゴロドぎゃくさつ、露: )は、1570年にロシアのノヴゴロド市でツァーリ、イヴァン4世のオプリーチニキによって行われた襲撃。犠牲者の数が非常に多く、極端に暴力的な残虐行為と相まって、この事件はおそらくオプリーチニナの負の遺産の中で最も悪質なものと考えられている。.
新しい!!: 16世紀とノヴゴロド虐殺 · 続きを見る »
マールブルク
マールブルク(Marburg、1977年まではMarburg (Lahn)が公式名称であった)は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州中部マールブルク=ビーデンコプフ郡の郡庁所在都市である。総合大学がある「ウニヴェルジテーツシュタット (Universitätsstadt)」(大学都市)である。ラーン川の河畔に位置する人口約 8 万人のこの都市は、ヘッセン州で7番目に大きな都市である。市域はラーン川の両岸に広がっており、西はグラーデンバッハ山地の中、東はラーンベルク(ラーン山地)を越えてアメーネブルク盆地の端にまで達している。 マールブルクは13世紀から都市権を有している。現在この街はギーセン行政管区の上級中心都市の機能を担っている。大きな中規模都市であるマールブルクは、ヘッセン州内の他の6つの中規模都市と共に、郡所属市としては特殊な地位にある。本市は郡の業務も処理しており、このため多くの点において郡独立市と同様の機能を有している。マールブルクには、プロテスタントが設立した総合大学で、現存する中で最も古いフィリップ大学マールブルクがあり、その建物や学生は現在も街の風景を創り出している。 マールブルク (Marburg) の名前は、この街がかつてのテューリンゲン方伯領とマインツ大司教領との境界 ("mar(c)") に位置していることに由来する。マールブルクの特筆すべき見所としては、聖エリーザベト教会、旧大学校舎、方伯の城とその麓に位置する地元では「オーバーシュタット」と呼ばれる旧市街が挙げられる。.
新しい!!: 16世紀とマールブルク · 続きを見る »
マーク・トウェイン
マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835年11月30日 - 1910年4月21日)、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)は、アメリカ合衆国の作家、小説家。ミズーリ州出身。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表、世界中で講演活動を行うなど、当時最も人気のある著名人であった。 ウィリアム・フォークナーは、トウェインが「最初の真のアメリカ人作家であり、我々の全ては彼の相続人である」と記した。アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べた。.
新しい!!: 16世紀とマーク・トウェイン · 続きを見る »
マヌエル1世 (ポルトガル王)
マヌエル1世(Manuel I, 1469年5月31日 - 1521年12月13日)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王 と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。.
新しい!!: 16世紀とマヌエル1世 (ポルトガル王) · 続きを見る »
マティアス・グリューネヴァルト
マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald, 1470/1475年頃 - 1528年8月31日)は16世紀に活動したドイツの画家。ドイツ絵画史上最も重要な作品の1つである『イーゼンハイム祭壇画』の作者である。ドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーと同世代であるが、グリューネヴァルトの様式は「ルネサンス」とはかなり遠く、系譜的には「ルネサンス」というよりは末期ゴシックの画家と位置付けるべきであろう。後述のように、「グリューネヴァルト」はこの画家の本名ではなく、後世の著述家が誤って名付けたものであるが、17世紀以来この呼称が定着しており、美術史の解説や美術館の展示においても常に「グリューネヴァルト」と呼称されているため、本項でもこれに従う。.
新しい!!: 16世紀とマティアス・グリューネヴァルト · 続きを見る »
マドリード
マドリード(Madrid)は、スペインの首都である。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。 人口は約325万人。2011年の都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位である。 紋章はイチゴノキとクマ。 スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。 ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。.
新しい!!: 16世紀とマドリード · 続きを見る »
マドゥライ
マドゥライ(、)は、インドのタミル・ナードゥ州中南部に位置する都市。マドゥライ県の県庁所在地であり、の河岸に発達した古都で、人口102万人を擁する州内第2の大都市である。紀元前から栄えていたと考証されており、長い間パーンディヤ朝の首府であって、多くの文化遺産を抱え、南インドの商業の中心地でもあった。.
新しい!!: 16世紀とマドゥライ · 続きを見る »
マドゥライ・ナーヤカ朝
マドゥライ・ナーヤカ朝(マドゥライ・ナーヤカちょう、英語:Madurai Nayaka dynasty)とは、南インドのタミル地方(現タミル・ナードゥ州)に存在したヒンドゥー王朝 (16世紀 - 1736年)。ナーヤカ朝の一つでもある。首都はマドゥライ、ティルチラーッパッリ。.
新しい!!: 16世紀とマドゥライ・ナーヤカ朝 · 続きを見る »
マニラ
マニラ市(Maynilà 、Manila )は、フィリピン共和国の首都。メトロ・マニラとも呼ばれるマニラ首都圏に所属する都市。フィリピンのルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。 『東洋の真珠』などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は166万人(2007年)であり、人口1,155万人を抱えるメトロ・マニラの中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2016年時点で2,293万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界66位の都市と評価された。東南アジアでは、シンガポール、バンコク、クアラルンプール、ジャカルタに次ぐ5位である。.
マニラ・ガレオン
マニラ・ガレオン(またはアカプルコ・ガレオン、ナオ・デ・チーナ)は、スペインの貿易船。1年ないし2年をかけて、太平洋を渡り、フィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを行き来した。名称はガレオン船と船の行き先による。1565年から19世紀初頭まで存在した。メキシコ独立戦争とナポレオン戦争によって終焉を迎える。クリストファー・コロンブスの死後60年近くが経過してから就航したが、マニラ・ガレオンは「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」というコロンブスの夢を現実のものとした。また、この貿易を「ガレオン貿易」もしくは「アカプルコ貿易」と呼称する。.
新しい!!: 16世紀とマニラ・ガレオン · 続きを見る »
マニエリスム
マニエリスム (Manierismo; Maniérisme; Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた。.
新しい!!: 16世紀とマニエリスム · 続きを見る »
マイスタージンガー
マイスタージンガー (Meistersinger)は、中世から近世にかけてのドイツの手工業ギルドが与えたマイスター称号の一つ。マイスターは「親方」、ジンガーは「歌い手」であり、日本語では「職匠歌人」、「親方歌手」などとなるスタンダード・オペラ鑑賞ブック p.125。 マイスタージンガーは、ドイツ各地の宮廷を遍歴していたミンネゼンガー(吟遊詩人)たちが、中世貴族の没落に伴って都市に住み着いたのが始まりと考えられている。15-16世紀にかけて、ニュルンベルクをはじめとする南ドイツの諸都市を中心に、手工業者の親方や職人、徒弟たちが組合に集い、詩と歌の腕を磨き合う文化が栄えた三宅・池上 p.219。.
新しい!!: 16世紀とマイスタージンガー · 続きを見る »
マカオ
中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(Macau、澳.
マクシム・グレク
マクシム・グレク(Максим Грек, Μάξιμος ὁ Γραικός, Maximus the Greek, 1475年頃 - 1556年)は、正教会の聖人(克肖者)。修道士、作家、評論家、翻訳者。マクシム・グレークと転写される事もある。現代ギリシャ語からはマクシモス・オ・グレコスと転写出来る。ギリシャ語ではマクシモス・オ・アギオリティス(Μάξιμος ὁ Ἁγιορήτης)とも表記される。 グレクもしくはグレークとは、「ギリシャ人」を意味する。同様の「グレク」の称号を持つ著名な正教会の聖人としてフェオファン・グレクが居る。 その呼び名の通りマクシム・グレクはギリシャ人であり、アトス山の修道士であったが、ロシアから招聘され、聖書・祈祷書・聖人伝等の翻訳に従事し、至聖三者論(三位一体論)や生神女論の分野をはじめとして異端に対する論駁に活躍、至聖三者聖セルギイ大修道院で永眠した。.
新しい!!: 16世紀とマクシム・グレク · 続きを見る »
ノストラダムス
ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus、1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師ノストラダムス本人は、「占星術師」(Astrologue) ではなく「愛星家」(Astrophile) という肩書きを名乗ることが度々あった。、詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。 本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、これはフランス語による。よく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。.
新しい!!: 16世紀とノストラダムス · 続きを見る »
マゼラン海峡
マゼラン海峡/マガリャネス海峡(マゼランかいきょう、〔エストレーチョ・デ・マガリャネス〕、〔エストレイト・デ・マガリャンイス〕)は、南アメリカ大陸南端とフエゴ島とを隔てる海峡である。太平洋と大西洋を結ぶ。.
新しい!!: 16世紀とマゼラン海峡 · 続きを見る »
チャルディラーンの戦い
チャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。 鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえられる。ただ、後述に記す通り兵力差が物をいった戦いとも思われる。 サファヴィー朝軍4万に対して、オスマン帝国軍は6万から20万の大軍を擁し、軍の質も高かった。戦いはオスマン帝国軍の勝利で終わり、大将のイスマーイール1世自身も捕らえられる寸前で退却した。彼の妻たちもセリム1世に捕獲され、そのうちの一人がセリムの側近と婚約させられると、イスマーイールは政治への興味をなくし、帝国の統治に関与しなくなった。 この戦いは、サファヴィー朝軍のクズルバシュの最強神話を打ち崩しただけでなく、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えた点でも、歴史的な重要性をもつ。 一方でこの戦いは、1638年にゾハブ条約(Treaty of Zohab)が締結されるまでの124年間に 及ぶ両帝国間の抗争の始まりに過ぎなかった。 地名Chaldiranに関して、日本語の文献では「チャルドランの戦い」という表記する場合もある。.
新しい!!: 16世紀とチャルディラーンの戦い · 続きを見る »
チューリッヒ
チューリッヒ(ドイツ語:,; スイスドイツ語: )は、スイス最大の都市でチューリッヒ州の州都である。スイス中央部にあり 、チューリッヒ湖の北西端に位置している。チューリッヒ市の人口は約390,000人で、には200万人近くが居住している,.
新しい!!: 16世紀とチューリッヒ · 続きを見る »
チュニジア
チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。.
新しい!!: 16世紀とチュニジア · 続きを見る »
チュニス
チュニス(Tunis、تونس ラテン文字転写: Tūnis トゥーニス)は、チュニジア共和国の首都であり、同国のチュニス県の県都でもある。また同国の商業・工業の中心地で、アフリカ有数の世界都市である。2014年のシンクタンクの発表によると、世界第81位の都市と評価されている。北アフリカではカイロ、カサブランカに次ぐ第3位である。.
チリ
チリ共和国(チリきょうわこく、República de Chile)、通称チリは、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ・デ・チレ。 1818年にスペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している。.
チベット
チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.
チェリニョーラ
チェリニョーラ(Cerignola)は、イタリア共和国プッリャ州フォッジャ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万8000人の基礎自治体(コムーネ)。.
新しい!!: 16世紀とチェリニョーラ · 続きを見る »
チェーザレ・ボルジア
ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia, duca di Valentino 、César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cèsar Borja、1475年9月13日(14日説有)(1476年生誕と英語版wikiにあるが文献から確認取れず、コメントアウト) - 1507年3月12日)は、イタリア・ルネサンス期の軍人・政治家。なお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般にガイウス・ユリウス・カエサル(ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)を指すため、現地でチェーザレ・ボルジアは「ヴァレンティーノ公」と呼ばれることが多い。.
新しい!!: 16世紀とチェーザレ・ボルジア · 続きを見る »
ネーデルラント
人工衛星が撮影した低地諸国地方 ネーデルラント(Nederlanden、Netherlands)は、「低地の国々」を意味し、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国(ベネルクス)にあたる低地地域(オランダ語:ラーヘ・ランデン de Lage Landen 、英語:the Low Countries)内に存在した諸邦群を表す歴史学用語。日本語で原語に基づいて表現すると、「オランダ」は「ネーデルラント」と呼ぶのが正しい。.
新しい!!: 16世紀とネーデルラント · 続きを見る »
ネーデルラント連邦共和国
ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。 連邦共和国はヘルダーラント州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。.
新しい!!: 16世紀とネーデルラント連邦共和国 · 続きを見る »
ハムレット
舞台とされたデンマークのクロンボー城内に掲げられている「ハムレット」の石版(2005.08) 『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。 デンマーク王子ハムレットが、父を殺し母を奪い王位を簒奪した叔父を討ち、復讐を果たす。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。コールリッジによる「悩める知識人」像が一般的だが、近年では「行動人ハムレット」という解釈も有力である。 ハムレットの話は、同時代にトマス・キッドが『スペインの悲劇』という似た話を書いており、少なからずその影響を受けたといわれている。また、この話は北欧伝説が下敷きになっており、12世紀末にサクソ・グラマティクスが編纂した『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)に、モデルになったアムレート(Amleth)の武勇が伝えられている。.
新しい!!: 16世紀とハムレット · 続きを見る »
ハリマンディル・サーヒブ
ハリマンディル・サーヒブ(ਹਰਿਮੰਦਰ ਸਾਹਿਬ、Harmandir Sahib または Golden Temple)は、シク教の総本山にあたるグルドワーラー(シク教の寺院)の名称である。インド・パンジャーブ州のアムリトサルに位置する。日本では 黄金寺院 と呼ばれることが多い(ただしインド圏には他宗教の「黄金寺院」もいくつか存在する)。シク教徒にとっては最も尊い巡礼地である。.
新しい!!: 16世紀とハリマンディル・サーヒブ · 続きを見る »
ハルハ
ハルハ(モンゴル語: 転写:qalq-a, Khalkha, Халх, 、中国語:喀爾喀、喀尔喀 Kāĕrkā)は、近世モンゴルの一部族であり、現在のモンゴル国の多数派民族である。中国の内モンゴル自治区にもハルハの一部が住む。 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。.
ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバイン(Hans Holbein (der Jüngere), 1497年/1498年 - 1543年)は、ルネサンス期のドイツの画家。 南ドイツのアウクスブルクに生まれ、後にイングランドで活動した。国際的に活躍した肖像画家として著名であるとともに、木版画シリーズ『死の舞踏』の作者として、版画史上も重要な作家である。また、アナモルフォーシスを使う画家としても知られている。同名の父ハンス(1465年頃 - 1524年)と兄も美術史上に名を残す画家である。父ハンスは、末期ゴシックとルネサンスの過渡期に位置する画家としてアウクスブルクやバーゼルで活動し、祭壇画などに多くの傑作を残しているが、今日では同名の息子の名声に隠れた存在となっている。.
新しい!!: 16世紀とハンス・ホルバイン · 続きを見る »
ハンス・ザックス
51歳のときのハンス・ザックス(ミヒャエル・オステンドルファーの木版画、1545年) ハンス・ザックス(Hans Sachs, 1494年11月5日 - 1576年1月19日)は、ドイツのマイスタージンガー、詩人、劇作家。職業は靴屋の親方であった。.
新しい!!: 16世紀とハンス・ザックス · 続きを見る »
ハーン
ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.
ハプスブルク家
ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.
新しい!!: 16世紀とハプスブルク家 · 続きを見る »
ハフス朝
ハフス朝(الدولة الحفصية al-Dawla al-Hafsīya; الحفصيون al-Hafsīyūn 1229年 - 1574年)は、チュニスを中心にイフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配したベルベル人のイスラム王朝。.
ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ
ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ (Heinrich Cornelius Agrippa von Nettesheim, 1486年9月14日 - 1535年2月18日) は、16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。 通常アグリッパと略される。フルネームはネテスハイムのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ。ラテン語風にヘンリクス・コルネリウス・アグリッパとも。貴族の家柄を示すものとも読み取れるフォン・ネテスハイムを自称した由来は、ネテスハイム家という貴族の血筋であることを示すものという説と、ケルンの創設者の名またはその近くのネテスハイム村にちなむものという説とがある。.
新しい!!: 16世紀とハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ · 続きを見る »
ハタ・ヨーガ
ハタ・ヨーガ(हठयोग )はヨーガの一様式ないし一流派である。別名ハタ・ヴィディヤー (हठविद्या) すなわち「ハタの科学」。 ハタ・ヨーガは半ば神話化されたインドのヒンドゥー教聖者が大成したとされる。16世紀の行者のヨーガ論書『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』において体系的に説かれた。 「ハタ」はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉である。教義の上では、「太陽」を意味する「ハ」と、「月」を意味する「タ」という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派とされる。 スヴァートマーラーマは、ハタ・ヨーガとはより高いレベルの瞑想、つまりラージャ・ヨーガに至るための準備段階であり、身体を鍛錬し浄化する段階であると説明する。ムドラー(印相)と、プラーナーヤーマ(調気法)を中心としているが、による浄化法もよく知られている。インドのゴーピ・クリシュナはこのハタ・ヨーガにより解脱を得たとしてその境地を説明する本を著している。 健康やフィットネスを目的とするエクササイズとして20世紀後半に欧米で大衆的な人気を獲得したハタ・ヨーガは、多くの場合、単に「ヨーガ(ヨガ)」と呼ばれる。現在ハタ・ヨーガと呼ばれるものの多くは、19世紀後半から20世紀前半の西洋で発達した体操法などの西洋身体文化に由来し、インド独自の体系として確立した「新しいヨーガ」の系譜で、現代のハタ・ヨーガのアーサナは、伝統のハタ・ヨーガとのつながりは極めて薄いといわれる伊藤雅之 2011.
新しい!!: 16世紀とハタ・ヨーガ · 続きを見る »
バリ島
バリ島のランドサット 主要地域の位置関係 バリ島(Pulau Bali)は、東南アジアのインドネシア共和国バリ州に属する島である。首都ジャカルタがあるジャワ島のすぐ東側に位置し、周辺の諸島と共に第一級地方自治体(Provinsi)であるバリ州を構成する。2014年の島内人口は約422万人である。バリ・ヒンドゥーが根ざした地域として知られるが、1990年代以降、イスラム教徒の移民流入が目立つようになっている。.
バリャドリッド
バリャドリッド(Valladolid IPA:)は、スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州バリャドリッド県のムニシピオ(基礎自治体)。カスティーリャ・イ・レオン州の州都であり、バリャドリッド県の県都である。一時期、カスティーリャ王国やスペイン王国の王宮がおかれた。バリャドリード、バリャドリー、バリャドリッ、バジャドリード、バジャドリー、バジャドリッなどとも表記される。2016年の人口は301,876人。.
新しい!!: 16世紀とバリャドリッド · 続きを見る »
バリャドリッド論争
バリャドリッド論争(バリャドリッドろんそう)は、1550年から翌1551年にかけて、スペイン国王カルロス1世の命により行われた、インディオ(インディアス先住民)問題をめぐる討論もしくは論争のことである。 ラス・カサス / インディオの自然権を主張し征服戦争を否定した。 セプルベダ / インディオを「先天的奴隷人」とし征服戦争の正当性を主張した。.
新しい!!: 16世紀とバリャドリッド論争 · 続きを見る »
バルバロス・ハイレッディン
バルバロス・ハイレッディン(خير الدين Khair ad Din、ヨーロッパなどではハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa), 1475年 – 1546年7月4日)は、オスマン帝国の提督。「バルバロス」(赤髯、またはバルバリアの王の意)と呼ばれ、バルバリア(北アフリカ)の海賊たち(バルバリア海賊)の中でもヨーロッパ人から特におそれられた大海賊。1538年のスペインとのプレヴェザ海戦の勝利を導いた。 バルバロス・オルチ(ウルージ、Aruj, 1474年 - 1518年)とは兄弟で、地中海域では海賊「バルバロス兄弟」として知れ渡っていた。ギリシャのミディルリ島(現在のレスボス島)出身である。.
新しい!!: 16世紀とバルバロス・ハイレッディン · 続きを見る »
バルトロメ・デ・ラス・カサス
ラス・カサス バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas, 1484年8月24日 - 1566年7月17日)は、15世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。主著に『インディアス史』、『インディアス文明誌』などがあり、『』でも有名。生前から激しい批判を受け、死後も相反する評価を受けることが多かった。「」などとも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とバルトロメ・デ・ラス・カサス · 続きを見る »
バルダッサーレ・カスティリオーネ
バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione 1478年12月6日 - 1529年2月2日)は、イタリア・ルネサンス期の外交官、作家で、『宮廷人』の著作で知られる。同書は長くヨーロッパ上流階級にとっての模範書とされた。 マントヴァ近郊カザーティコ(現在のマルカリーア)出身。父はカスティリオーネ伯であった。ミラノに出て人文主義的な教養を学ぶ。ミラノ公ロドヴィーコ・イル・モーロに仕え、イル・モーロが失脚後、1503年マントヴァに移り、1504年ウルビーノの宮廷に仕える。ウルビーノでは各国への外交使節も務める。ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの妻、エリザベッタ・ゴンザーガに気に入られ、彼女を讃える詩を書くなどした。主にこの時代の経験が『宮廷人』のもとになっている。 1516年ウルビーノがメディチ家の教皇レオ10世に攻撃されたのち、マントヴァに移り、マントヴァ公フェデリーコに仕える。その後、ローマに使節として赴任し、メディチ家の教皇クレメンス7世にも仕えるようになる。教皇庁のスペイン大使としてカール5世の宮廷に赴くが、1527年ローマが神聖ローマ帝国・スペインの軍隊によって壊滅状態になると(ローマ略奪)、教皇庁内にカスティリオーネの責任を追及する声が上がった。この心労のためか健康を害し1529年、トレドで死去。.
新しい!!: 16世紀とバルダッサーレ・カスティリオーネ · 続きを見る »
バーブル
バーブル(ظهیرالدین محمد بابُر、Ẓahīr al-Dīn Muḥammad Bābur、1483年2月14日グプタ「バーブル」『世界伝記大事典 世界編』7巻、432-433頁 - 1530年12月26日加藤『中央アジア歴史群像』、139頁)は、北インド、ムガル帝国の創始者であり初代君主(在位:1526年 - 1530年)。ティムール朝サマルカンド政権の君主(在位:1497年 - 1498年)でもある。 16世紀初頭に中央アジアからインドに移り、ムガル帝国を建国した。名前の「バーブル」はトラを意味する。バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。 軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されている。自らの半生を著述した回想録『バーブル・ナーマ』は文学性・史料的価値を高く評価されており、多くの言語に翻訳された。.
バーキー
バーキー マフムト・アブデュルバーキー(トルコ語:Mahmut Abdülbaki、通称:バーキー(Bakî)、1526年 - 1600年)は、オスマン帝国(現:トルコ)イスタンブール出身の詩人。主に抒情詩を作り「詩人のスルタン」と呼ばれた - コトバンク、2013年12月2日閲覧。。 オスマン帝国第10代皇帝スレイマン1世の時代の詩人で、同国出身の詩人フズーリーと共に韻律などにペルシア語詩の要素を全面的に取り入れたの黄金期に活躍した。.
バーゼル大学
バーゼル大学 バーゼル大学(独:Universität Basel)は、スイスのバーゼルにある大学。.
新しい!!: 16世紀とバーゼル大学 · 続きを見る »
バテレン追放令
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のに由来する。 原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。.
新しい!!: 16世紀とバテレン追放令 · 続きを見る »
バインナウン
バインナウン(Bayinnaung、1516年1月16日 - 1581年10月10日)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の1人(在位:1550年4月30日 - 1581年10月10日)。バインナウン王は小タイ族の王朝、アユタヤ王朝に何度も攻撃を仕掛けたことがあり、タイの歴史書に頻繁に登場し、タイ語訛のブレーンノーン(Burengnong、)という表記がされることもある。 漢字表記は莽応龍。.
新しい!!: 16世紀とバインナウン · 続きを見る »
バクティ
バクティ(bhakti)とは、ヒンドゥー教で「最高神への絶対的帰依」を意味する語。「信愛」とも訳される - コトバンク/世界大百科事典。 『バガヴァッド・ギーター』によって全面に押し出され、一般庶民へと普及された概念で、ヴィシュヌ派を中心にヒンドゥー教徒全般に広く受け入れられている。.
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa 1475年 - 1519年1月21日)は、スペインの探検家・植民地政治家。ヨーロッパ人として初めて太平洋に到達した功績で知られる。 スペイン南部ヘレス・デ・ロス・カバリェロス(エストレマドゥーラ州)出身。実家は貴族身分ながら貧困にあえいでいた。1500年にイスパニョーラ島へ開拓者として移住したものの経営能力のなさや放埓な生活で借財を重ねた。その債権者から逃れるようにして1510年、カリブ海に面したヨーロッパ人最初の植民都市サンタ・マリア・ラ・アンティグア(現コロンビアとパナマの国境付近)に移住し、後に活動拠点とする。 現地では食糧不足や先住民(インディオ・インディヘナ)の襲撃に悩むスペイン人たちのリーダーとして才覚を発揮。新しい植民都市ダリエンの建設を指揮し、完成後はその総督に任命される。懇意にしていたインディオの酋長から南方にある黄金の産出地の情報を得たバルボアは、1513年9月に180人の隊を組織して探索を開始する。この時の部下の一人が、後にインカ帝国の征服者として知られるフランシスコ・ピサロである。 先住民の案内でパナマ地峡を横断し、9月25日に隊は海に到達した。バルボアはこの海を「南の海 (South Sea)」と命名した。これが後の太平洋である。また、彼の探検によってアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなった。黄金探索という本来の目的は果たせなかったものの、帰還した彼は偉大なる探検者として迎えられた。 しかしながら行程中に略奪や虐殺などの残虐行為を働いたことにより、この探検に対する後世の評価は芳しくない。スペインの本国政府も、それを容認するバルボアのリーダーシップに危惧を持ち、またパナマ支配を強化する目的で彼のダリエン総督としての任を解き、新たにペドラリアス・ダビラ(en)を総督として送り込んだ。豪放なバルボアと猜疑心の強いダビラは反りが合わず、次第に対立を深めていく。 一方では相変わらず黄金の所在についても情報を求め、より南方に莫大な黄金を保有する王国があるという情報を掴んだバルボアは再び探索の準備を進めるが、その矢先の1519年1月、ダビラの召喚を受ける。出頭した彼はかつての部下ピサロに捕らえられて獄につながれ、形ばかりの裁判で反逆罪に問われた挙句、斬首刑(絞首刑とも)に処され、波乱の生涯を終えた。.
新しい!!: 16世紀とバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア · 続きを見る »
ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.
新しい!!: 16世紀とポルトガル · 続きを見る »
ポルトガル海上帝国
1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。 ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語:Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。.
新しい!!: 16世紀とポルトガル海上帝国 · 続きを見る »
ポンペイ
ポンペイの想像図 アボンダンツァ通り ポンペイ(Pompeii、Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。 なお、イタリア語での発音は e にアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。古典ラテン語ではeと最後のiが長母音なので、「ポンペーイイー」である。.
ポーランド
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合 (EU)、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。 10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけヨーロッパで広大な国の1つであったポーランド・リトアニア共和国を形成。18世紀、4度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。 第一次世界大戦後、1918年に独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。冷戦時代は、ソ連の影響下に傀儡政権の社会主義国とし最大で最も重要なソ連の衛星国の一国となり、政治的にも東側諸国の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と東欧革命を経て、「中欧」または「中東欧」として再び分類されるようになっている。.
新しい!!: 16世紀とポーランド · 続きを見る »
ポーランド王国
ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.
新しい!!: 16世紀とポーランド王国 · 続きを見る »
ポトシ
ポトシ("シ"にアクセント)は、ボリビアの南部にある都市。ポトシ県の行政府所在地。ボリビアの首都ラパスから南東に約 440 km に位置する。アンデス山脈中の盆地にあり、標高約 4,000 mと人が住む都市としては世界最高地点である。高山地域のうえ乾燥気候であるために植生には乏しい。.
ムハンマド・シャイバーニー・ハン
ムハンマド・シャイバーニー・ハン(ウズベク語: Muhammad Shayboniy, ペルシア語:شایبک خان Muḥammad Shaybānī Khān、1451年 - 1510年12月2日)は、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の初代ハン。アブル=ハイル・ハンの孫。.
新しい!!: 16世紀とムハンマド・シャイバーニー・ハン · 続きを見る »
ムラト3世
ムラト3世 ムラト3世(Murad III, 1546年7月4日 - 1595年1月15日)は、オスマン帝国の第12代皇帝(在位:1574年12月15日 - 1595年1月15日)。第11代皇帝セリム2世の子。.
新しい!!: 16世紀とムラト3世 · 続きを見る »
ムラカ
展望台から見たマラッカ海峡側の風景 ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。.
ムガル帝国
ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول、Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラなど。.
新しい!!: 16世紀とムガル帝国 · 続きを見る »
ムタワッキル3世
ムタワッキル3世(、? - 1543年)は、アッバース朝最後のカリフ(在位:1508年 - 1517年)。.
新しい!!: 16世紀とムタワッキル3世 · 続きを見る »
メノ・シモンズ
メノ・シモンズ(Menno Simons、1496年 - 1561年1月31日)は、オランダ、フリースラント生まれのアナバプテストの指導者、元司祭、牧師。シモンズはプロテスタント宗教改革の時代の人物であり、彼の系統の教派はメノナイトとして知られている。.
新しい!!: 16世紀とメノ・シモンズ · 続きを見る »
メランコリア I
Melencolia I メランコリア I(独: Melencolia I, Melancholia I)は、アルブレヒト・デューラーが1514年に製作した銅版画。 四体液説における人間の4つの性格の一つ「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が憂鬱に沈んでいる。魔方陣をはじめとして、寓意的な画題がいくつも描かれており、様々な解釈がある。 砂時計の隣には4×4のユピテル魔方陣(下図)が描かれており、この中には、偉業を達成した制作年の1514が埋め込まれている。また、縦、横、斜めのいずれの列も和が等しくなるように数字が並べられただけでなく、右上、右下、左上、左下のそれぞれ2×2の四マスも、中央の2×2の四マスも、上下辺及び左右辺のそれぞれ四マスも、隅の四マスも、いずれも和が34になっている。 \begin \end Category:ドイツの絵画 Category:16世紀の絵画 Category:版画作品 Category:ルネサンス美術 Category:美術におけるウシ.
新しい!!: 16世紀とメランコリア I · 続きを見る »
メルブ遺跡
メルブ(ペルシア語: مرو Merv/Marw, Mary)とは、トルクメニスタンのカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。トルクメニスタンではマル(またはマルイ、マリイ)と呼ばれている。1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録された。 もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、シルクロードのオアシス都市として栄えた。人口は100万人に達したといわれる。 なお榎一雄は南北朝時代の梁の職貢図に記載された「未国」をメルブと比定する説を提出している。なおメルブには仏教が伝播しており(後述)、また梁の武帝・蕭衍は、仏教信徒としても高名で「皇帝菩薩」と呼ばれていたため、仏教を通じた交流も考えられる。.
新しい!!: 16世紀とメルブ遺跡 · 続きを見る »
メルカトル図法
メルカトル図法(メルカトルずほう)は、1569年にフランドル(現ベルギー)出身の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルがデュースブルク(現ドイツ)で発表した地図に使われた投影法である。図の性質と作成方法から正角円筒図法ともいう。等角航路が直線で表されるため、海図・航路用地図として使われてきた。メルカトルが発案者というわけではなく、ドイツのが1511年に作成した地図にはすでに使われていた。.
新しい!!: 16世紀とメルカトル図法 · 続きを見る »
メーワール王国
メーワール王国(メーワールおうこく、ヒンディー語:उदयपुर、英語:Mewar Kingdom)は、インドのラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝(8世紀 - 1947年)。ウダイプル藩王国とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とメーワール王国 · 続きを見る »
メディチ家
メディチ家(メディチけ、Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。.
新しい!!: 16世紀とメディチ家 · 続きを見る »
メフメト3世
メフメト3世 メフメト3世(Mehmed III, 1566年5月26日 - 1603年12月22日)はオスマン帝国の第13代皇帝(在位:1595年1月15日 - 1603年12月22日)。父は第12代皇帝ムラト3世、母はサフィエ・スルタン。子にアフメト1世、ムスタファ1世。 1595年、父の死により後を継ぎ、皇帝として即位する。しかし父と同じく無能な皇帝で、政治は母や宰相らに任せ切りであったため、帝国の衰退が促進される治世期ともいえる。 1603年、暴飲暴食により38歳で死去し、後を子のアフメト1世が継いだ。 Category:オスマン帝国の君主 Category:1566年生 Category:1603年没.
新しい!!: 16世紀とメフメト3世 · 続きを見る »
メフィストフェレス
メフィストフェレス メフィストフェレス(一般にMephistopheles、他にMephistophilus, Mephistophilis, Mephostopheles, Mephisto, Mephastophilis)は、16世紀ドイツのファウスト伝説やそれに材を取った文学作品に登場する悪魔。 一般にゲオルク・ファウストが呼び出した悪魔として知られ、ファウストを題材とした作品での風貌や性質がよく知られている。中でもゲーテの『ファウスト』が有名。.
新しい!!: 16世紀とメフィストフェレス · 続きを見る »
メアリー (スコットランド女王)
メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日(グレゴリオ暦2月18日))は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)。スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女。 メアリーは王家ステュアートの綴りを Stewart から Stuart に替えたが、これは自身のフランス好みからであったという。同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっている。 親しみを込め、しばしば「クイーン・オブ・スコッツ」と呼ばれる。 メアリー自身は廃位ののち国を追われ、エリザベス1世の命によりイングランドで刑死したが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いだ。以後スコットランドとイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となった。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫である。.
新しい!!: 16世紀とメアリー (スコットランド女王) · 続きを見る »
メアリー1世 (イングランド女王)
メアリー1世(Mary I of England, 1516年2月18日 - 1558年11月17日)は、イングランドとアイルランドの女王(在位:1553年7月19日 - 1558年11月17日)。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀とメアリー1世 (イングランド女王) · 続きを見る »
メキシコ
メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.
メキシコシティ
メキシコシティ(Ciudad de México, )は、メキシコ合衆国の首都。ラテンアメリカを代表する世界都市の一つ。 国名と同一名称のため「市」に相当する単語を付けて呼ばれるのが通例となっており、メキシコの公用語であるスペイン語では「シウダ・デ・メヒコ」() と発音される。日本では、主に用いられる英語名の他にメキシコ市と呼ばれる場合もある。.
新しい!!: 16世紀とメキシコシティ · 続きを見る »
モナ・リザ
『モナ・リザ』(La Gioconda、La Joconde)は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。上半身のみが描かれた女性の肖像画で、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」といわれている。 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。ポプラ板に油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと考えられている。もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品だが、現在はフランスの国有財産であり、パリのルーヴル美術館が常設展示をしている。しばしば「謎」と表現される画題の不確かさ、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。.
新しい!!: 16世紀とモナ・リザ · 続きを見る »
モノグラム
ΧΡ」の重ね合わせ モノグラム (monogram) とは、2つ(まれに3つ以上)の文字や書記素を組み合わせた記号(単に並べただけのものとは区別される。外枠があるならそれに倣って変形していなければならない)。個人や団体の頭文字で作られ、ロゴタイプとして使われることが多い。 例として大リーグのニューヨークヤンキースがユニフォームに使用しているNYマークがある。日本プロ野球では読売ジャイアンツのYG、阪神タイガースのHT、中日ドラゴンズのCDなどがある。かつては他にヤクルトスワローズ(ys)、南海ホークス(NH)、ロッテオリオンズ(LO)、日本ハムファイターズ(nh これは親会社の社章でもあった)など多くのプロ野球チームがモノグラムを使用していた。長期的に見るとプロ野球チームのモノグラム使用は減少しつつあるが、2004年に中日がDの一文字に改めたロゴマークをCDに戻し、2005年に福岡ソフトバンクホークスがShマークを採用するなど復活のきざしもある。 モノグラムという言葉自体は日本ではルイ・ヴィトンを代表する商品ラインナップとして知られる。創業者ルイ・ヴィトンのイニシャル「L」と「V」を重ね合わせた幾何学文様をキャンバスに使用しているのが特徴。1896年に初めて商品化された。.
新しい!!: 16世紀とモノグラム · 続きを見る »
モハーチの戦い
モハーチの戦い(モハーチのたたかい、Mohácsi csata、Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。.
新しい!!: 16世紀とモハーチの戦い · 続きを見る »
モラリスト
モラリスト(moraliste)とは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のことである。特に16世紀から18世紀において活躍したモンテーニュ、ブレーズ・パスカル、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールなどフランス語圏の思想家を指す事が多い。こういった人間性探究の姿勢は、フランス文学に脈打つひとつの伝統ともなっているといえる。.
新しい!!: 16世紀とモラリスト · 続きを見る »
モリナ主義
モリナ主義或はモリニスム/モリニズム (Molinism) とはスペインのイエズス会士ルイス・デ・モリナによる恩寵と自由意志を認める考え方のことである。.
新しい!!: 16世紀とモリナ主義 · 続きを見る »
モントリオール
モントリオール(Montreal )、モンレアル(Montréal)は、カナダ・ケベック州の都市。セントローレンス川沿いに位置し、アメリカ合衆国との国境や、カナダのオンタリオ州との州境に近い。.
新しい!!: 16世紀とモントリオール · 続きを見る »
モンゴル (曖昧さ回避)
モンゴル (Монгол) 民族.
新しい!!: 16世紀とモンゴル (曖昧さ回避) · 続きを見る »
モーリッツ (ザクセン選帝侯)
ン選帝侯モーリッツ モーリッツ(Moritz, 1521年3月21日 - 1553年7月9日)は、ザクセン公(在位:1541年 - 1553年)、ザクセン選帝侯(在位:1547年 - 1553年)。シュマルカルデン戦争で神聖ローマ皇帝カール5世に味方し、選帝侯の位を授かった。.
新しい!!: 16世紀とモーリッツ (ザクセン選帝侯) · 続きを見る »
モーセ・コルドベロ
モーセ・コルドベロ(Mose(s) ben Jacob Corodovero, Mosheh ben Ya'aqobh Qordobhero, 1522年 - 1570年5月27日)は、イスラエルの地のラビで、カバラー学者。ラマク Ramaq として知られる。 1548年の主著「柘榴の庭 Pardes rimmonim」によって知られ、これはトーラーの神学的解釈の体系的記述となっている。.
新しい!!: 16世紀とモーセ・コルドベロ · 続きを見る »
モクテスマ2世
モクテスマ2世(Moctezuma II, 1466年 - 1520年7月1日)またはモンテスマ(Montezuma)、モテクソマ(Motecuhzomaa)は、メシカ族の、アステカの第9代の君主(在位1502年 - 1520年)。ナワトル語で「若き君主」という意味を持つショコヨツィン(Xocoyotzin)の名でも呼ばれる。彼の治世の間にメソアメリカ文明とヨーロッパの最初の接触があり、最後はの過程で激怒したアステカ市民から無数の石を投げつけられて死亡した(エルナン・コルテス部下のスペイン人に殺されたとの異説もある)。在位中には積極的な遠征と中央集権化をすすめ、アステカの最大版図を築いた。.
新しい!!: 16世紀とモクテスマ2世 · 続きを見る »
モザンビーク島
モザンビーク島(Ilha de Moçambique)は、モザンビーク北部のモザンビーク海峡とモスリル湾の間に位置する島。約14,000人が住んでいる島で、かつてポルトガルの植民地だったときにはモザンビークの中心的な都市として機能していた(都市名は国名と同じ「モザンビーク」である)。.
新しい!!: 16世紀とモザンビーク島 · 続きを見る »
モスクワ
モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.
モスクワ大公国
1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とモスクワ大公国 · 続きを見る »
モスクワ会社
Alexander Litovchenko 画、1875年) モスクワ会社(モスクワがいしゃ、Muscovy Company、)はモスクワ大公国会社とも呼ばれ、イギリス(当時はイングランド)で初めての勅許会社として設立され、当時のモスクワ大公国(モスクワ国家、ロシア・ツァーリ国)との貿易を独占した。後のイギリスのアジア向けの東インド会社、新大陸向けのハドソン湾会社などの先鞭をつけた。後にロシア会社(英語:Russia Company)とも呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀とモスクワ会社 · 続きを見る »
モスクワ総主教
モスクワ総主教公邸の一室。歴代モスクワ総主教の肖像が掛けられている。ここでは多くの総主教達がクーコリを被った姿で描かれている。 モスクワ総主教(モスクワそうしゅきょう)は、ロシアの独立した正教会であるロシア正教会の長たる総主教。正式の称号はモスクワおよび全ロシアの総主教である。現在のモスクワ総主教はキリル1世である(2009年2月1日より)。.
新しい!!: 16世紀とモスクワ総主教 · 続きを見る »
モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧
本記事モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧は、歴代のモスクワ総主教、モスクワ府主教を扱う。 モスクワ総主教はロシア正教会の首座主教であるが(2002年以降ロシア古正教会も総主教座を保持している)、1321年から、総主教座が成立する1589年までは府主教座がモスクワにあった。さらにモスクワ総主教座が空位、廃止されていた時代(1700年 - 1917年)にも、モスクワには府主教座が置かれていた。 1321年から1461年までは「キエフおよび全ルーシの府主教」がそのタイトルを変更しないままモスクワに居住していたが、この時代の府主教も本一覧で扱う。 本一覧では、モスクワ主教区を一時的に管轄したのみ(временно управляющий)の者は含めない。ただし選出はされ実質的な務は果たしていたものの、正式な着座はなされなかった者(нареченный)については記載する。また、列聖の有無を示すため、聖人となっている総主教・府主教の場合、日本正教会転写の欄に「聖」の称号を付す。.
新しい!!: 16世紀とモスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧 · 続きを見る »
ヤン・ザモイスキ
ヤン・ザモイスキ(ポーランド語:Jan Zamoyski、1542年3月19日 - 1605年6月3日)は、ポーランド・リトアニア共和国のマグナート(大貴族)。 ザモシチ市(ユネスコ世界遺産)の建設者で、同市の第1代オルディナト(大領主)。1566年より宮廷秘書(:pl:Sekretarz królewski)、1576年より王国法官(副首相)、1578年より王国大法官(首相)。1580年から1585年までクラクフ市の総代官、さらにベウス市、市、市、市、デルプスク市の代官も務めた。ジグムント2世アウグスト王とステファン・バートリ王の最高政策顧問であり、彼らの後任であるジグムント3世ヴァーサ王の最も強力な反対者であった。ザモイスキは同時代で最も熟練した外交官かつ政治家であり、当時の共和国の政治における重鎮であった。 彼は国政の場においてはポーランド王国の名君ジグムント2世アウグスト王およびステファン・バートリ王の絶大なる信頼を得て、王国およびポーランド・リトアニア共和国の黄金時代を確立した、まさに大宰相であった。社会運動家としても精力的に活動、古代の共和政ローマを参考に立憲君主制の確立を目指し、主に中小シュラフタを集めて履行運動と呼ばれるシュラフタ民主主義の社会運動を主導した。また数々の武勲をたて、当代きっての名将としても欧州に名を馳せた。 立憲主義を表すものとして、17世紀に確立したイギリスの政体に関して頻繁に使われる「国王は君臨すれども統治せず」(Rex regnat et non gubernat)の言葉は、本来はこのヤン・ザモイスキの言葉であり、彼が16世紀に確立したポーランド・リトアニア共和国の立憲政体を表したものである。.
新しい!!: 16世紀とヤン・ザモイスキ · 続きを見る »
ヤギェウォ朝
ヤギェウォ朝(Dynastia Jagiellonów)は、ポーランド、リトアニア、ボヘミアおよびハンガリーの王朝。ヤギェロ朝、ヤゲロ朝とも呼ばれる。1386年にリトアニア大公国の大公ヨガイラにより、ハンガリー王をも兼ねたポーランド王ルドウィク1世(ハンガリー王としてはラヨシュ1世)を継承した女王ヤドヴィガ(在位:1384年 - 1399年)との結婚により成立した。 王朝の年代は各君主位によって異なるが、それぞれ以下の通りになる。.
新しい!!: 16世紀とヤギェウォ朝 · 続きを見る »
ヤコポ・ペーリ
ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年8月20日 - 1633年8月12日)はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物である。 16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。想像で捉えるほかはなかったが、ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなセリフを用いる劇が考えられた。この運動の中で、1597年ごろにペーリがギリシャ神話を題材にした『ダフネ』(Dafne)を作曲した。これが今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品である(台本はすべて現存するが音楽は断片のみが伝わる)。後のペーリの作品である『エウリディーチェ』(L'Euridice)は1600年以降に作曲されたもので、これは現存する最古のオペラ作品である。.
新しい!!: 16世紀とヤコポ・ペーリ · 続きを見る »
ヤコポ・ダ・ポントルモ
ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo, 1494年5月24日 - 1557年1月2日)は、マニエリスム期のイタリアの画家。本名はヤコポ・カルッチ。エンポリ付近のポントルメに生まれる。 アンドレア・デル・サルトに師事。マニエリスムの画家らしく、ミケランジェロやデューラー、ボッティチェリなどの作品から影響を受け、自作の中に巧みに摂取している。画風は技巧的かつ繊細優美であるが、どことなく憂鬱な気分をたたえている。.
新しい!!: 16世紀とヤコポ・ダ・ポントルモ · 続きを見る »
ユリウス2世 (ローマ教皇)
ユリウス2世(Julius II 1443年12月5日 - 1513年2月21日)は、16世紀初めのローマ教皇(在位:1503年 - 1513年)。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしたが、その治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。.
新しい!!: 16世紀とユリウス2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
ユリウス3世 (ローマ教皇)
ユリウス3世(Julius III,1487年9月10日 - 1555年3月23日)はルネサンス教皇の最後の1人ともいわれるローマ教皇(在位:1550年2月7日 - 1555年3月23日)。本名、ジャン・マリア・デルモンテ(Giovanni Maria Ciocchi del Monte)、もしくはジョバンニ・マリア・ギオッチ。1545年に始まったトリエント公会議の第1会期の指導的人物であり、教皇としても第2会期を開会しているが、諸侯の政治的思惑から十分な成果をあげられないまま公会議を閉会させるに至った。.
新しい!!: 16世紀とユリウス3世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.
新しい!!: 16世紀とユリウス暦 · 続きを見る »
ユートピア
ユートピア(utopia, ユートウピア)は、イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。「理想郷」(和製漢語)、「無何有郷」(無何有之郷とも、『荘子』逍遙遊篇より)とも。現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。 ギリシア語の οὐ (ou, 無い), τόπος (topos, 場所) を組み合わせ「どこにも無い場所」を意図とした地名と説明されることが多いが、記述の中では Eutopia としている部分もあることから、eu- (良い)と言う接頭語もかけて「素晴らしく良い場所であるがどこにもない場所」を意味するものであったとみられている。 ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである(第3節、第4節参照)巖谷2002 。 なお、反対語はディストピア。.
新しい!!: 16世紀とユートピア · 続きを見る »
ユートピア (本)
『ユートピア』(正式名: Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia )は、イングランドのトマス・モアによる1516年の著作。 タイトルは直訳すれば「共和国の最高の州の、そしてユートピア新島の、楽しいのと同様に有益な、真実の金の小著」となるが、伝統的には『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』と訳される(タイトルを参照)。『ユートピア』はラテン語で書かれており、その内容は主に、虚構の島の社会、宗教、社会的政治的習慣について述べた枠物語である。 現代人が「ユートピア」という言葉の響きから受けるイメージにもかかわらず、トマス・モアがこの本で語った社会とは、実際には決して「完全な社会」ではないと、広く受け止められている。むしろ、想像上の土地の通常とは違った政治的考えと、現実世界での混沌とした政策とを対比して、ヨーロッパの社会問題について議論するための、政策要綱とすることをモアは望んでいた。.
新しい!!: 16世紀とユートピア (本) · 続きを見る »
ユトレヒト同盟
ユトレヒト同盟(ユトレヒトどうめい)は、オランダ建国の元となった、1579年の対スペイン軍事同盟。.
新しい!!: 16世紀とユトレヒト同盟 · 続きを見る »
ユニテリアン主義
ユニテリアン主義(ユニタリアン主義 、ユニタリアニズム、英語:Unitarianism)とは、キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称をいう『キリスト教大事典 改訂新版第9版』教文館1988年。ユニテリアンはイエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定する。キリスト教正統派の中心教義を否定しているため、正統派キリスト教とは区別される『ユニテリアン派は偶像教に勝さる異端なり』と言及。- 内村鑑三『基督信徒の慰』警醒社,1893年米国の国勢調査ではキリスト教に含まれず「その他の宗教」に分類されている。- 八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』p181,朝日新聞出版,2012年日本ルーテル教団伝道委員会の要請により執筆された文献において、ユニテリアン主義は異端として言及されている。- 轟勇一『100の質問』コンコーディア社,1963年。.
新しい!!: 16世紀とユニテリアン主義 · 続きを見る »
ユダヤ教
ダビデの星 ユダヤ教(ユダヤきょう、יהדות)は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、現在ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 『タナハ』(キリスト教の『旧約聖書』に当たる書物)が重要な聖典とされる。.
ユカタン
ユカタン (Yucatán).
ユグノー戦争
ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。 ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。 宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。.
新しい!!: 16世紀とユグノー戦争 · 続きを見る »
ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571年12月27日 - 1630年11月15日)はドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。一方で数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。欧州補給機(ATV)2号機、アメリカ航空宇宙局の宇宙望遠鏡の名前に彼の名が採用されている。.
新しい!!: 16世紀とヨハネス・ケプラー · 続きを見る »
ヨハン3世 (スウェーデン王)
ヨハン3世 ヨハン3世(Johan III、1537年12月20日 - 1592年11月27日)は、スウェーデン・ヴァーサ王朝第3代国王(在位:1568年 - 1592年)およびフィンランド大公(在位:1581年 - 1592年)。グスタフ1世と2度目の王妃マルガレータの長男。.
新しい!!: 16世紀とヨハン3世 (スウェーデン王) · 続きを見る »
ヨハンネス・トリテミウス
ヨハンネス・トリテミウス(Johannes Trithemius、1462年2月1日 - 1516年12月13日)は、中世末・ルネサンス期のドイツの修道院長であり、後の隠秘学に影響を与えた隠秘学者である。本名はヨーハン・ハイデンベルク。魔女の妖術を強く非難した学僧でありながら、降霊術を能くする魔術師として生前からいくつかの逸話が流布していた。「トリテミウス」の通称は、プファルツ地方のモーゼル川沿いにある彼の生地トリテンハイムに由来する。.
新しい!!: 16世紀とヨハンネス・トリテミウス · 続きを見る »
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。 その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」『色彩論』などの著作を残している。.
新しい!!: 16世紀とヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ · 続きを見る »
ヨハン・ファウスト
17世紀の肖像画 ヨハン・ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust, Johannes Faustus, 1480年? - 1540年?)とは、16世紀のドイツ人の占星術師、錬金術師。ファウスト博士(Doktor Faustus)とも。ヨハネス(ヨハン)・ファウスト(Johann Faust)として民衆本『実伝ファウスト博士』(Historia von D. Johann Fausten, 1585年)がベストセラーになり有名となった。ゲーテの戯曲『ファウスト』のモデルでもある。 姓のファウストは、ラテン語のファウストゥス(faustus:幸福な、祝福されたの意)に由来する。.
新しい!!: 16世紀とヨハン・ファウスト · 続きを見る »
ヨーハン・ヴァイヤー
ヨーハン・ヴァイヤー ヨーハン・ヴァイヤー(Johann Weyer、1515年 - 1588年2月24日)はネーデルラント(現在のオランダやベルギー)出身の、ドイツのラインラント地方のプロテスタントの医師。若い頃ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパの弟子であった。魔女裁判に反対した最初期の人物として知られる。主著は『悪霊の幻惑、および呪法と蠱毒について』(De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis、1563年)。.
新しい!!: 16世紀とヨーハン・ヴァイヤー · 続きを見る »
ヨーロッパ
ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...
新しい!!: 16世紀とヨーロッパ · 続きを見る »
ヨーロッパ史
西暦814年頃のヨーロッパ ヨーロッパ史(ヨーロッパし)とは、ヨーロッパにおける歴史である。欧州史(おうしゅうし)とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とヨーロッパ史 · 続きを見る »
ラヨシュ2世
ラヨシュ2世(II.
新しい!!: 16世紀とラヨシュ2世 · 続きを見る »
ラーマ
伝説の戦士『ラーマ』 ラーマ(デーヴァナーガリー:राम Rāma)は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公。イクシュヴァーク王朝に生まれた薔薇色の瞳を持つ英雄で、インドの理想君主像であり、ダルマを体現したとされる。シーターを妃とした。 神話上、特にヴァイシュナヴァ派では、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)であるとされる。神の化身としてのラーマへの信仰は篤く、マハトマ・ガンディーは死の際に「ヘー・ラーム」(神よ)と言った。この「ラーム」とはラーマのことである。 王と妃カウサリヤーとの間に生まれ、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。.
ラージャスターン州
ラージャスターン州(Rajasthan、राजस्थान)は、インドで面積が最も大きい州である。州都はジャイプル。.
新しい!!: 16世紀とラージャスターン州 · 続きを見る »
ラプ=ラプ
ラプ=ラプ(Lapu-Lapu、1491年? - 1542年)は16世紀、フィリピンのマクタン島(セブ島の東沖合い)の領主であり、イスラム教徒の部族長。世界一周航海の途上でフィリピンへ来航し、キリスト教への改宗と服従を要求するフェルディナンド・マゼランらをマクタン島の戦いで破り、マゼランを討ち取った。フィリピンでは民族の誇りを守った国民的英雄とみなされている。なお、マゼラン艦隊の記録者であり、マゼランとラプラプの戦闘にも参加しているアントニオ・ピガフェッタによれば名前をセラプラプもしくはシラプラプとしているピガフェッタ(2011)、p.116-121。.
新しい!!: 16世紀とラプ=ラプ · 続きを見る »
ラビ
ラビ(英語・ラテン語 rabbi, ドイツ語 Rabbi, ギリシア語 rhabbi, アラム語 rabbin(複数形), ヘブライ語 rabbi / セファルディ・ミズラヒ圏 chakham, イディッシュ語 rebbe)とは、ユダヤ教に於いての宗教的指導者であり、学者でもあるような存在。 複数形はラッビーイーム。 英語圏(主に米国)ではラバイと発音する(Ra-Byのような発音になる) ヘブライ語ラッビー rabbi とはラブ rabh「師」の派生語であり、「わが師」という形である。イツハク・ラビンやラビノヴィチ Rabinowicz というような姓にある「ラッビーン」はアラム語の複数形である。 また、アラム語ラッバーン rabban「チーフ・ラビ」は、サンヘドリン長に与えられた、ラビよりも上の称号である。 ヘブライ語 /ラブ私の我々の /rabhrabbīrabbēnū 複数形rabbānīmrabbī’īm アラム語 /ラブ私の我々の /rabhrabbān 複数形rabbīn ラビを呼ぶときは「ラビ・○○」というように姓の前にラビを付けて敬意を表す。 「ラッベーヌー」となると「我々のラブ(師)」で、特にラッベーヌーという場合はモーセなどをさす。 アラム語の対応形が「ラッバーン、ラバン」で、古代のサンヘドリン長のことである。 ラディーノ語のハハム chakham はアラビア語のハキームに対応し、イスラム圏での学者や医者もやはり「賢者」と呼ばれた。なお、アラビア語でハーキムとなると知事を意味する。.
ラファエロ・サンティ
ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。一般的には単にラファエロと呼ばれ、日本ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエル(Raphael)などという表記ゆれが見られる。ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。 ラファエロは異例なほどに大規模な工房を経営しており、37歳という若さで死去したとは考えられないほどに多数の作品を制作した。多くの作品がヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に残されており、とくに「ラファエロの間」と総称される4部屋のフレスコ画は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっており、もっとも有名な作品の一つの『アテナイの学堂』も「ラファエロの間」のうち「署名の間」と呼ばれる部屋のフレスコ壁画である。ローマでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそラファエロのものだが、下絵以外の大部分は工房の職人が手がけたもので、ラファエロが最後まで自身で手がけたものよりも品質の面で劣るといわれている。ラファエロは存命時から高い評価を受けた影響力の高い芸術家だったが、ローマ以外の地ではラファエロの絵画やドローイングをもとにした版画でよく知られていた。ラファエロの死後、年長だが長命を保ったミケランジェロの作品が18世紀から19世紀にいたるまで西洋絵画界により大きな影響を与え続けたが、ラファエロの穏やかで調和に満ちた作品も非常に優れた模範的作風であると評価されていた。 マニエリスム期の画家、伝記作家ヴァザーリの著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述を嚆矢として、ラファエロのキャリアは3期に大別されることが多い。ウルビーノで活動していたキャリア初期、フィレンツェの伝統的絵画の影響が見られる1504年から1508年にかけての4年間、そして死去するまでの二人のローマ教皇とその側近に緊密な後援を受けていたローマでの輝ける12年間である。.
新しい!!: 16世紀とラファエロ・サンティ · 続きを見る »
ラホール
ラホール(Lahore、 ウルドゥー語:لاہور、パンジャーブ語:لہور)は、パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。ラーホールとも呼ばれる。 面積1,772 km²、2016年の都市圏人口では1,035万人である。 豊かな歴史を誇り、ムガル帝国時代や植民地時代の建築物が保存されている。ムガル帝国時代の建築物には、バードシャーヒー・モスクやラホール城、シャーラマール庭園、ジャハーンギールとその妃ヌール・ジャハーンの廟などがあり、観光地となっている。英国によって建設された植民地時代の建築物であるラホール高等裁判所、中央郵便局 (GPO)、またそれ以前から残る多くの大学もムガル・ゴシックスタイルを残している。 パンジャーブ語がラホールでは最も広範に話される言語であるが、ウルドゥー語や英語も特に若い世代には普通に用いられる。ラホールのパンジャーブ語話者は、特に「ラホーリー・パンジャービー」として知られ、ウルドゥー語で話していてもパンジャーブ語が混じったような混成的口語を話すのが特徴的である。2006年のセンサスによれば、ラホールの人口は1千万に達すると推定されている。パキスタンではカラチに次ぐ第二の都市である。.
ライプツィヒ
ライプツィヒ(ドイツ語: )は、ザクセン州に属するドイツの都市である。人口は約52万1千人(2012年12月現在)、ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回って最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目である。日本語ではライプチヒとも表記される(表記参照)。南部ドイツ語ではライプツィクと発音されることもある。 バッハやメンデルスゾーンそしてヴァーグナーらゆかりのドイツを代表する音楽の街、またベルリンの壁崩壊、ひいては東西両ドイツの統一の端緒となった住民運動の発祥地として知られる。.
新しい!!: 16世紀とライプツィヒ · 続きを見る »
ラス・カサス
ラス・カサス スペインの姓.
新しい!!: 16世紀とラス・カサス · 続きを見る »
リマ
リマ()は、ペルー共和国の首都並びに政治、文化、金融、商業、工業の中心地である。人口約800万人で同共和国最大。南米有数の世界都市であり、2016年の近郊を含む都市圏人口は1,095万人であり、世界第29位である。チャラと呼ばれる海岸砂漠地帯に位置する。市街地は、植民地時代に建てられた建物が多く残るリマ・セントロ地区(1988年、ユネスコの世界遺産に登録)、それより海岸側の新市街(サン・イシドロ地区・ミラフローレス地区など三輪モトタクシー乗入れ禁止の端整で裕福な地域)、それらの新旧市街地を取り巻く複数の人口密集地域(第二次世界大戦後に発展)、以上の三つに分類できる。リマは1535年にインカ帝国を征服したスペイン人のコンキスタドール、フランシスコ・ピサロによって築かれた。リマの名前の由来は市内を流れるリマック川(río Rimacが訛ったもの)に由来すると言われているが、当初の名前は""(諸王の街)であった。.
リューリク朝
リューリク朝(ロシア語:Рюриковичи ウクライナ語:Рюриковичі、ベラルーシ語:Рурыкавічі)は、リューリクを高祖とする公家で、9世紀から16世紀半ばにかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した君主の公朝である。.
新しい!!: 16世紀とリューリク朝 · 続きを見る »
リヴォニア戦争
リヴォニア戦争(リヴォニアせんそう、Livonian War)は、1558年から1583年、テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にし戦った。1557年(リヴォニア帯剣騎士団が加盟)、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、イヴァン雷帝は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、ロシアがリヴォニア帯剣騎士団領に侵攻し開戦した。 1561年、リヴォニア帯剣騎士団は解散、世俗化した。テッラ・マリアナは、とスウェーデン・エストニアとなり、デンマーク王はを買った。1558年から1578年まで、タルトゥやナルヴァでの軍事的成功と共にロシアの支配が主流となった。 1576年以降、ポーランド・リトアニア共和国が好戦、1577年–1578年のスウェーデン・ポーランド・リトアニア同盟によるでの抗戦を含む。これはポーランド王を拡大させ、長く厳しいへと縺れ込んだ。 1582年のヤム・ザポルスキの和約のもと、ロシアとポーランド・リトアニア共和国は終戦した。ロシアは、リヴォニアとポラツク(現ベラルーシ)からポーランド・リトアニアまでの元占拠地を失った。1583年、ロシアとスウェーデンはに調印し、スウェーデンはエストニア公国を保持しながら大部分のイングリアとリヴォニア北部を獲得した。.
新しい!!: 16世紀とリヴォニア戦争 · 続きを見る »
リア王
『リア王』(リアおう、King Lear)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕で、1604年から1606年頃の作。四大悲劇の一つ。 長女と次女に国を譲ったのち2人に事実上追い出されたリア王が、末娘の力を借りて2人と戦うも敗れる。王に従う道化に悲哀を背負わせ、四大悲劇中最も壮大な構成の作品との評もある。 『リア王』には異なる2つの版がある。1608年に「四折版」で出版された『The True Chronicle of the History of the Life and Death of King Lear and His Three Daughters』と、より劇的な1623年の「ファースト・フォリオ」に収められた『The Tragedy of King Lear』である。これまでは2つの版を合成して出版するのが通例だったが、近年になって、オックスフォード版やニュー・ケンブリッジ版など、2つをそれぞれ独立した作品として出版する場合が多い。.
リスボン
リスボン(Lisboa 、 リジュボア、Lisbon )は、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積はに過ぎないが、そのぶん高い人口密度を保持している。リスボンの都市的地域は行政区としての市域を越えて広がっており、人口は300万人を超え, March 2010、面積はを占めており、欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人 の人々が、に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパの大都市では最も西にある都市であると同時に、ヨーロッパの中で最も西側に位置する政府首都でもある。ヨーロッパ諸国の首都のなかで唯一の大西洋岸にあるリスボンは、イベリア半島の西側、テージョ川の河畔に位置している。 リスボンは金融や商業、出版、娯楽、芸術、貿易、教育、観光と言った様々な分野で重要な都市であることから、世界都市と見なされている。 ポルテラ空港は2012年に1,530万人の旅客を扱い、高速道路Auto-estradaや高速列車アルファ・ペンドゥラールによりポルトガルの他の主要都市と結ばれている。南ヨーロッパではイスタンブール、ローマ、バルセロナ、マドリード、アテネ、ミラノに次いで7番目に多くの観光客が訪れる都市で、2009年には1,740,000人の観光客が訪れた。リスボンの総所得は世界の都市で32番目に高い位置を占めている。 ポルトガルの多国籍企業の本社はほとんどがリスボン地域に置いており、世界では9番目に多くの国際会議が開かれる都市でもある。 また、ポルトガルの政治の中心での首府やポルトガルの大統領官邸が置かれている他、やリスボン県の中心でもある。 世界的にも古い歴史がある都市の一つで、西ヨーロッパでは最古の都市であり現代のヨーロッパの他の首都であるロンドンやパリ、ローマなどよりも数百年遡る。ガイウス・ユリウス・カエサルはフェリキタス・ユリアFelicitas Juliaと呼ばれるムニキピウムを創建し、オリピソOlissipoの名に加えた。5世紀から一連のゲルマン人部族により支配され、8世紀にはムーア人により攻略された。1147年、ポルトガル王国の建国者アフォンソ1世下のレコンキスタでのリスボン攻防戦で、ポルトガルはムーア人からリスボンを奪回する。以来、リスボンはポルトガルの主要な政治、経済、文化の中心となっている。ほとんどの首都と異なり、リスボンのポルトガルの首都としての地位は法令や書面の形式では公式に認められたり確認されていない。首都としての地位は憲法制定会議を通じて事実上の首都としてに定められている。 リスボンには欧州薬物・薬物依存監視センター(EMCDDA)と欧州海上保安機関(EMSA)の2つの欧州連合の専門機関が置かれている。「ルゾフォニアの世界の首都」と呼ばれポルトガル語諸国共同体の本部がに置かれている。ベレンの塔とジェロニモス修道院の2つはUNESCOの世界遺産に登録されている。さらに1994年、リスボンは欧州文化首都になり、1998年にはリスボン国際博覧会が開催された。.
ルネサンス
レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.
新しい!!: 16世紀とルネサンス · 続きを見る »
ルネサンス教皇
ルネサンス教皇とは、ルネサンス期のローマ教皇で、15世紀後半から16世紀前半に人文主義を受け入れ、ローマにルネサンス文化を花開かせた世俗的な教皇を指してしばしば使われる言葉である。特に王侯貴族のような贅沢な生活にふけった教皇を指す。その堕落したローマ教皇とカトリックはデジデリウス・エラスムスに批判され、マルティン・ルターによる宗教改革を招いた。反面、すぐれた芸術家のパトロンとなり、結果的には多くの芸術的遺産を後世に残したという側面もある。 自身も教養豊かで、アヴィニョン捕囚後のローマ復興に尽くしたニコラウス5世が、ルネサンス教皇の一例である。聖職売買と親族登用で教皇庁を腐敗させたと批判されるボルジア家のアレクサンデル6世や、戦争好きのユリウス2世、余りの浪費に教皇庁の財政破綻を招いたメディチ家のレオ10世の3人がルネサンス教皇の代表格である。その後では、メディチ家出身のクレメンス7世、ミケランジェロに「最後の審判」を制作させ、トリエント公会議を開催したパウルス3世などもルネサンス教皇である。 トリエント公会議以降、カトリック教会側でも改革が推進され、世俗的なものを廃絶させるなどの対抗改革が行われ、かつてのような余りにも世俗的な教皇は出現することはなくなった。.
新しい!!: 16世紀とルネサンス教皇 · 続きを見る »
ルーテル教会
ルーテル教会(ルーテルきょうかい、, )は、マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。ルター派(ルターは)とも呼ばれる。プロテスタントの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が多い。 パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が多く所属し、作曲家や音楽家に縁がある教会としても知られる。.
新しい!!: 16世紀とルーテル教会 · 続きを見る »
ルーカス・クラナッハ
ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Ältere、1472年10月4日 クローナハ、オーバーフランケン - 1553年10月16日、ヴァイマル)は、ルネサンス期のドイツの画家。同名の息子も画家であるため、ルーカス・クラナッハ (父) と表記されることが多い。クラナハ、クラーナハとも表記される。.
新しい!!: 16世紀とルーカス・クラナッハ · 続きを見る »
ルブリン合同
ルブリン合同(ルブリンごうどう)、もしくはルブリン連合(ルブリンれんごう、リトアニア語:Liublino unija;ポーランド語:Unia lubelska)は、1569年7月1日に成立した制度的同君連合である。これにより、ポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア共和国に統合された。 実質的には、ポーランドによるリトアニアの併合であり、ポーランド・リトアニア共和国は、選挙された一人の君主(ポーランド王・リトアニア大公)・元老院・合同議会(Sejm)によって統治されることとなった。これは、リトアニア大公国がモスクワ・ロシアとの戦争(リヴォニア戦争を参照)によって危険な状態にあったことが原因だった。 スタニスワフ・ホジュシュ枢機卿、画面右端で農民の手を引いている白髭の人物は政治思想家アンジェイ・フリチュ・モジェフスキ。ここでやや場違いに登場している農民は、未来のポーランドを象徴している。 ルブリン合同に対する見方は歴史家によって異なる。ポーランドの歴史家は平和的・自発的な手続きや、制度的な信教の自由、多民族による多文化主義、多くの政治参加者による議会制民主主義などといった(当時の)ポーランドの自由主義とコスモポリタニズムの文化とその理念が広まったこと、など正の側面を強調する。リトアニアの歴史家は、より民族主義的・国粋主義的な立場を採り、リトアニア貴族とポーランド貴族の参政権は平等であったにもかかわらず、リトアニア大公国において文化のポーランド化が進んだことから、ポーランドによる支配であると主張する。また、連合国の農民は、その他の地域(リトアニアの敵国モスクワ・ロシアなど)よりも自由を手にすることになったと指摘する歴史家もいる。実際に、一部の農民はモスクワ・ロシアから逃げて来ている:en:Jerzy Czajewski, "Zbiegostwo ludności Rosji w granice Rzeczypospolitej" (Russian population exodus into the Rzeczpospolita), Promemoria journal, October 2004 nr.
新しい!!: 16世紀とルブリン合同 · 続きを見る »
ルドルフ2世
ルドルフ2世(Rudolf II)はヨーロッパの君主の名前。.
新しい!!: 16世紀とルドルフ2世 · 続きを見る »
ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)
ルドルフ2世(、1552年7月18日 - 1612年1月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1576年 - 1612年)、ローマ王(在位:1575年 - 1576年)、ハンガリー王(在位:1572年 - 1608年)、ボヘミア王(在位:1575年 - 1612年)。ハプスブルク家のマクシミリアン2世と皇后マリアの子。ルードルフ2世とも表記される。.
新しい!!: 16世紀とルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »
ルドヴィーコ・アリオスト
L・アリオスト(ティツィアーノ筆・1510年) ルドヴィーコ・アリオスト(Ludovico Ariosto、1474年9月8日 - 1533年7月6日)は、イタリアの詩人。.
新しい!!: 16世紀とルドヴィーコ・アリオスト · 続きを見る »
ルイス・デ・モリナ
ルイス・デ・モリナ ルイス・デ・モリナ(Luis de Molina / 1535年9月 - 1600年10月12日)は近世初期スペインの神学者・哲学者。16世紀サラマンカ学派の最末期の人物として知られる。イエズス会士。.
新しい!!: 16世紀とルイス・デ・モリナ · 続きを見る »
ルイス・デ・カモンイス
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões、1524年頃 - 1580年6月10日)は、ポルトガル史上最大の詩人とされる人物である。その作品はホメーロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較される。 かつてポルトガルで発行されていた500エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。.
新しい!!: 16世紀とルイス・デ・カモンイス · 続きを見る »
ルイス・フロイス
ルイス・フロイス( 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。.
新しい!!: 16世紀とルイス・フロイス · 続きを見る »
ルターシュタット・ヴィッテンベルク
ルターの像 ルターシュタット・ヴィッテンベルク (Lutherstadt Wittenberg) は、ドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州の都市。単にヴィッテンベルクとも呼ばれる。現在の都市名は1938年以降である。宗教改革の立役者であるマルティン・ルターが神学部の大学教授として教鞭をとった地として有名である。同州のルターシュタット・アイスレーベンと共に、彼の足跡を記念し「ルター都市」を都市名に冠している。人口は約人。.
新しい!!: 16世紀とルターシュタット・ヴィッテンベルク · 続きを見る »
レパントの海戦
レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。.
新しい!!: 16世紀とレパントの海戦 · 続きを見る »
レオ10世 (ローマ教皇)
レオ10世(Leo X 1475年12月11日 - 1521年12月1日)は、ルネサンス期のローマ教皇(在位:1513年 - 1521年)。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。メディチ家出身で、派手好き、イベント好きの教皇のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。.
新しい!!: 16世紀とレオ10世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルドのサイン レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci、 )1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) で、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残し、「万能人 (uomo universale)」 という異名などで親しまれている。.
新しい!!: 16世紀とレオナルド・ダ・ヴィンチ · 続きを見る »
レオ・アフリカヌス
バスティアーノ・デル・ピオンボ画「ある人文主義者の肖像」。一説によると、'''レオ・アフリカヌス'''を描いたものであるという。 レオ・アフリカヌス(Leo Africanus,1483年? - 1555年?)の名前で知られるハッサン・アル=ワッザーンは、全名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーン(al-Hasan ibn Muhammad al-Zayyātī al-Fāsī al-Wazzān, )といい、アラブの旅行家、地理学者である。“レオ”はローマ教皇レオ10世から与えられた名で、“アフリカヌス”はニックネーム。 スペインのグラナダで生まれ、1492年のレコンキスタによるグラナダ陥落後、モロッコのフェズに移り叔父から教育を受け17歳で伴われてソンガイ帝国を訪れた。数年後、再びこの地を訪れエジプトまで旅をした。1518年ごろトルコ旅行の帰途,シチリアの海賊に捕えられ,ローマに送られ教皇レオ10世に仕えるようになり、キリスト教に改宗した。しかし教皇の死後はチュニジアに行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれるが,晩年は謎が多い。 16世紀初めサハラの南を含む北アフリカ全域を旅し、その見聞を 口述筆記による見聞録『海と陸の旅(航海と旅について)』が1550年にヴェネツィアで(イタリア語)出版されて反響を呼び、後に『アフリカ誌』と改題されて1556年フランス語とラテン語に、1600年に英語に翻訳され出版されている。16世紀末までにほぼヨーロッパ全域で読まれるようになり、ヨーロッパにおいて黄金の国マリの風評が再生産されていき、トンブクトゥを黄金郷とする伝説がつくり出され、その伝説は19世紀まで存続するほどであった。この全9巻よりなる大著『アフリカ誌』は長いあいだ,当時ヨーロッパ人がイスラム世界アフリカを知るための最も貴重な手掛りであった。.
新しい!!: 16世紀とレオ・アフリカヌス · 続きを見る »
レグナンス・イン・エクスケルシス
レグナンス・イン・エクスケルシス(羅:Regnans in Excelsis)は、1570年2月25日にローマ教皇ピウス5世によって発布された教皇勅書。イングランド女王エリザベス1世に対する破門を宣告し、王位の正統性を否認した文書である。文書名は、ラテン語で書かれる勅書の最初の3つの単語(インキピット)から採られており、「いと高きところにしろしめす[神]」を意味している。勅書の中で教皇は、「イングランド女王を僭称するエリザベスとその罪深い配下の者たち」は異端者であり、エリザベスの統治下にある全ての臣民に対し彼女に対する臣従義務を解除し、エリザベスの命令に服従する者は破門すると呼びかけた。.
新しい!!: 16世紀とレグナンス・イン・エクスケルシス · 続きを見る »
ローマ
ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.
ローマ劫掠
ーマ劫掠を描いた銅板画 Johannes Lingelbach''作) ローマ劫掠(ローマごうりゃく、Sacco di Roma)は、1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。 この頃、イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた(イタリア戦争)。1515年にはフランス王フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。 1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。 1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。 モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。 ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。 カール5世自身はカトリック教徒であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられた。 なお、フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、1532年に公爵位を授与され、フィレンツェ公国を成立させた。.
新しい!!: 16世紀とローマ劫掠 · 続きを見る »
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
ーテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber )は、ドイツ南部のバイエルン州ミッテルフランケンのアンスバッハ郡にある大規模郡都市。.
新しい!!: 16世紀とローテンブルク・オプ・デア・タウバー · 続きを見る »
ローディー朝
ーディー朝(ローディーちょう、、Lodī dynasty)とは、15世紀後半から16世紀初頭にかけてガンジス川流域とパンジャーブ地方を中心に北インドを支配した、デリー・スルターン朝の5番目のアフガン系イスラーム王朝(1451年 - 1526年)。長母音を無視してロディー朝とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラ。.
新しい!!: 16世紀とローディー朝 · 続きを見る »
ロドス島
ドス島(Ρόδος / Ródos; Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。 島で最大の都市であるロドスの街は、古代以来港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。.
ロベルト・ベラルミーノ
ベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino、1542年10月4日、モンテプルチャーノ - 1621年9月17日、ローマ)は、イタリア出身のイエズス会司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿。カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人。1930年、聖人および教会博士に列せられた。.
新しい!!: 16世紀とロベルト・ベラルミーノ · 続きを見る »
ロクセラーナ
ヒュッレム・ハセキ・スルタン(彼女は主にハセキ・ヒュッレム・スルタン(Haseki Hürrem Sultan)または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン(Hürrem "balsaq" Haseki Sultan)として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパではロクセラーナ(Roxelana/Roxolena)として知られ(ペンザー1992、262頁。)、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。トルコ語で Hürrem とは(陽気な人)と(高貴な人)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「ルーシ人の女」を意味する。, 1502年から1504年頃 - 1558年4月15日)は、オスマン帝国のスレイマン1世のである。 それまでのオスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。.
新しい!!: 16世紀とロクセラーナ · 続きを見る »
ロシア帝国
ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.
新しい!!: 16世紀とロシア帝国 · 続きを見る »
ワールド・デジタル・ライブラリー
ワールド・デジタル・ライブラリー(World Digital Library、WDL)は、UNESCOとアメリカ合衆国のアメリカ議会図書館が運営する国際的な電子図書館。 インターネット上の文化的コンテンツの充実を図り、それによって国際的な異文化間の相互理解を深めることを目的として創設された。教育者・学生・一般大衆にリソースを提供し、国家間および各国内の情報格差を狭めるために提携機関にそれらリソースを配置する容量を築いている。また、インターネット上の非英語圏や西洋以外のコンテンツの拡充によって、学問的研究に寄与することを目指している。無料で多言語形式のコンテンツをインターネット上で入手できるようにすることを意図しており、世界各地の文化から貴重な一次資料(手稿、地図、稀書、楽譜、録音、録画、写真、図面など)を集めている。 2009年4月の開始時点で、1,236点が公開されていた。2014年2月現在で80ヶ国から9,900点が公開されている。.
新しい!!: 16世紀とワールド・デジタル・ライブラリー · 続きを見る »
ヴァルトブルク城
ヴァルトブルク城はドイツのテューリンゲン州にある史跡である。ゲーテ街道沿いにあるアイゼナハ郊外の山上に位置する。1999年12月、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。漆黒の外見が特徴的である。.
新しい!!: 16世紀とヴァルトブルク城 · 続きを見る »
ヴァロワ朝
ヴァロワ朝の紋章 ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。 1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年のシャルル8世の代にブルターニュ女公アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、傍系に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。.
新しい!!: 16世紀とヴァロワ朝 · 続きを見る »
ヴァーサ王朝
ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 - 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 - 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年).
新しい!!: 16世紀とヴァーサ王朝 · 続きを見る »
ヴァスコ・ダ・ガマ
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460年頃 - 1524年12月24日/25日)は、ポルトガルの航海者、探検家である。熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。.
新しい!!: 16世紀とヴァスコ・ダ・ガマ · 続きを見る »
ヴィラ・アルメリコ・カプラ
ヴィラ・アルメリコ・カプラ(Villa Almerico-Capra)は、アンドレーア・パッラーディオが設計したルネサンス期のヴィラで、北イタリアのヴィチェンツァ郊外にある。ヴィラ・カプラ、ラ・ロトンダ (La Rotonda)、ヴィラ・ロトンダ、ヴィラ・ラ・ロトンダ、ヴィラ・アルメリコなどとも呼ばれる。"Capra" とは、1591年にこの建物を譲渡され完成させたカプラ兄弟に由来する。この建物も含め、ヴィチェンツァとその周辺のパッラーディオの作品は「ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅群」として世界遺産に登録されている。 1565年、司祭パオロ・アルメリコがローマ教皇庁から引退する際(ピウス4世とピウス5世の秘書を務めていた)、生まれ故郷のヴェネト州ヴィチェンツァに家を建てて移り住むことを決めた。この家が後に「ラ・ロトンダ」と呼ばれ、パッラーディオの傑作のひとつとされるようになった。ヴィラ・カプラは多くの建築に影響を与えたが、このヴィラ自体はローマのパンテオンの影響を受けている。 ヴィラ・アルメリコ・カプラ.
新しい!!: 16世紀とヴィラ・アルメリコ・カプラ · 続きを見る »
ヴィレル・コトレ布告
ヴィレル=コトレ勅令(仏:Ordonnance de Villers-Cotterêts)は、1539年にフランス国王フランソワ1世がで発した、行政上の改革を定めた法である。この法はラテン語に替わってフランス語を公用語としたことで有名であるが、部分的には現在でも有効であり、失効していない法としてはフランス最古のものでもある。 ヴィレル=コトレ勅令は、主として大法官によって作成され、全192条から成り、行政・司法・教会に関する事柄を扱っている。 最も著名な第110条と第111条は、法律を扱う上で言語面での混乱が起こらないよう、行政および司法業務・公証人を介した契約・法律制定のすべてをフランス語で行うことを求めている。 この両条項が主な目的としていたのは公文書におけるラテン語の使用停止だったが(ただし地域によっては、日本の戸籍に相当するはラテン語で記録され続けた)、ラテン語以外にも国内のさまざまな地域で用いられていたフランス語以外の言語やフランス語の方言にも一定の影響があった。 その他の条項には、司祭が洗礼・葬送の記録を行うこと(洗礼の記録は聖職志望者の年齢を審査する必要があったことから)、それらの洗礼・葬送の記録は公証人の署名を要することが定められている。 また、さらに別の条項ではギルドおよび通商同盟を禁ずることで、労働者のストライキを未然に防ぐことを図っている(もっとも労働者の相互扶助組合への規定は存在しない)。 こうした条項は、中央集権的な広域統一国家へという動きを反映しており、なかんずくフランス語の使用に関する条項は、国民感情なり国民意識なりが勃興しようというまさにその時期における、フランスの言語的・理念的統一への画期をなすものである。.
新しい!!: 16世紀とヴィレル・コトレ布告 · 続きを見る »
ヴィクトリア&アルバート博物館
ルネサンス様式の建築物 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ヴィクトリア・アンド・アルバートはくぶつかん、Victoria and Albert Museum)は、現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる400万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにある。ヴィクトリア女王(1819年 - 1901年)と夫アルバート公(1819年 - 1861年)が基礎を築いた。略称「V&A」。 最寄り駅はサウス・ケンジントン駅。自然史博物館、人類学博物館、科学博物館、インペリアル・カレッジ・ロンドンなどに隣接している。 ベスナル・グリーンには、分館であるV&A子供博物館がある。.
新しい!!: 16世紀とヴィクトリア&アルバート博物館 · 続きを見る »
ヴィクトル・ユーゴー
ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802年2月26日 - 1885年5月22日)はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。 1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。 日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。.
新しい!!: 16世紀とヴィクトル・ユーゴー · 続きを見る »
ヴィジャヤナガル王国
ヴィジャヤナガル王国(ヴィジャヤナガルおうこく、Vijayanagar Empire、విజయనగర సామ్రాజ్యము、、ವಿಜಯನಗರ ಸಾಮ್ರಾಜ್ಯ、、விஜய நகர சாம்ராஜ்யம்)とは、14世紀初頭から17世紀中頃にいたるまで、カルナータカ州南部およびアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝(1336年 - 1649年)。ヴィジャヤナガル朝(Vijayanagar dynasty)とも呼ばれる。首都はヴィジャヤナガル、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールール。 サンガマ朝(Sangama dynasty, 1336年 - 1486年)、サールヴァ朝(Saluva dynasty, 1486年 - 1505年)、トゥルヴァ朝(Tuluva dynasty, 1505年 - 1569年)、(Aravidu dynasty, 1569年 - 1649年)の4つの王朝が交替してヴィジャヤナガルに首都を置いたため、総称的に首都名を王国の名称に冠している。.
新しい!!: 16世紀とヴィジャヤナガル王国 · 続きを見る »
ヴェネツィア
ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.
新しい!!: 16世紀とヴェネツィア · 続きを見る »
ヴェネツィア・ゲットー
ヴェネツィア・ゲットー(伊:Ghetto di Venezia)は、ヴェネツィア共和国の首都ヴェネツィアに設置されていたゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。世界で最初に「ゲットー」と呼ばれるようになったユダヤ人居住区と言われる。.
新しい!!: 16世紀とヴェネツィア・ゲットー · 続きを見る »
ヴェネツィア派
ヴェネツィア派はルネサンス時代、特に15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派。絵画、彫刻、建築など様々な分野でその特徴は見受けられるが、一般的には絵画の流派を指す。絵画においてはデッサンを重視したフィレンツェ派とは異なり、画面の色を使って構築し、流動的で詩的な雰囲気で人間の感覚に直接訴えかける効果を追求した。.
新しい!!: 16世紀とヴェネツィア派 · 続きを見る »
ヴェステロース
ヴェステロース(Västerås)はスウェーデン中部スヴェアランド・ヴェストマンランド地方の都市。ヴェストマンランド県の県庁所在地であるヴェステロース市の中心地でもある。メーラレン湖岸の都市でストックホルムの西約100kmに位置する。中心部人口は107,005人(2005年)で国内第5位。市人口は132,920人(2006年)で国内第6位である。.
新しい!!: 16世紀とヴェステロース · 続きを見る »
ボハイの乱
哱拝の乱(ボハイのらん)は、1590年(万暦20年)に明代中国の寧夏で起きた、副総兵のボハイ(哱拝)による反乱。寧夏兵変、寧夏の役とも呼ばれ、困窮した家丁兵士側の自主的蜂起の要素もあった。万暦帝の治下に発生した万暦の三征の一つ。.
新しい!!: 16世紀とボハイの乱 · 続きを見る »
ボリス・ゴドゥノフ
ボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフ(、1551年頃 - 1605年4月23日/ユリウス暦4月13日)は、ロシア・ツァーリ国のツァーリ(在位:1598年 - 1605年)。.
新しい!!: 16世紀とボリス・ゴドゥノフ · 続きを見る »
ボルチモア
ボルチモア(Baltimore)は、アメリカ合衆国メリーランド州にある、同州最大の都市。どの郡にも属さない独立都市である。ボルティモアとも表記する。古くから天然の良港として知られ、1729年に南部産タバコの輸出港として開かれ発展した。.
新しい!!: 16世紀とボルチモア · 続きを見る »
ボルジア家
ボルジア家(Borgia 、バレンシア語: Borja 、Borja )は、スペイン・アラゴン王国の(現アラゴン州サラゴサ県の町)に由来する家名を持ち、バレンシアを発祥とする、15・16世紀にイタリアで繁栄した貴族の家系である。 その一族にはローマ教皇カリストゥス3世、アレクサンデル6世、ロマーニャ公爵にして教会軍総司令官チェーザレ・ボルジア、フェラーラ公妃ルクレツィア・ボルジア、スクイッラーチェ領主ホフレ・ボルジアらがいる。 アレクサンデル6世の息子フアン・ボルジアの系統にあたるガンディア公家は1748年に断絶した。ガンディア公家からはイエズス会の第3代総長フランシスコ・ボルハが出ている。スクイッラーチェ侯家はボルジア家の子孫である。今日、ボルジア家を名乗る家系には、ボルジア・デ・ミラ家、ボルジア=ランソル家、ボルジア=マトゥッツィ家があり、これらはボルジア家の女系にあたる。 なお、日本では慣習的に「ボルジア」の表記が用いられているが、実際には「ボルジャ」の表記の方がよりイタリア語の原音に近い。.
新しい!!: 16世紀とボルジア家 · 続きを見る »
ボローニャ
ボローニャ(Bologna)は、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約39万人の基礎自治体(コムーネ)。エミリア=ロマーニャ州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。 アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マーテル・ストゥディオルム)がある。.
新しい!!: 16世紀とボローニャ · 続きを見る »
ヌール・バヌ
ヌール・バーヌーまたはヌールバーヌー (Nur-banu, Nurbanu, 1525年 - 1587年)は、オスマン帝国皇帝セリム2世のハセキ(妾)。ムラト3世の母。.
新しい!!: 16世紀とヌール・バヌ · 続きを見る »
ヌエバ・エスパーニャ
ヌエバ・エスパーニャ副王領(ヌエバ・エスパーニャふくおうりょう、)は、1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領を指す名称。スペイン語で「新スペイン」という意味。 江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀とヌエバ・エスパーニャ · 続きを見る »
トマス・ミュンツァー
トーマス・ミュンツァー トーマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer, 1489年12月21日 - 1525年5月27日)は、ドイツの宗教改革者。.
新しい!!: 16世紀とトマス・ミュンツァー · 続きを見る »
トマス・モア
トマス・モア(Thomas More、1478年2月7日 - 1535年7月6日)は、イングランドの法律家、思想家、人文主義者。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。大法官まで登りつめたがヘンリー8世により反逆罪で処刑された。没後400年の1935年にカトリック教会と聖公会で聖人となる。.
新しい!!: 16世紀とトマス・モア · 続きを見る »
トマス・アクィナス
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人。イタリア語表記ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino)。.
新しい!!: 16世紀とトマス・アクィナス · 続きを見る »
トマス・クロムウェル
トマス・クロムウェル(ハンス・ホルバインによる肖像画) 初代エセックス伯トマス・クロムウェル(英語:Thomas Cromwell, 1st Earl of Essex, 1485年 - 1540年7月28日)は、イングランド王国テューダー朝の政治家である。ヘンリー8世に側近として仕え、イングランドの宗教改革や「行政革命」を主導した。.
新しい!!: 16世紀とトマス・クロムウェル · 続きを見る »
トランシルヴァニア公国
トランシルヴァニア公国(Principatus Transsilvaniae (ただし現地の発音では )、Erdélyi Fejedelemség 、Fürstentum Siebenbürgen 、Principatul Ardealului 、ただし、最近は Principatul Transilvaniei )は、オスマン帝国の宗主権下におかれていた半独立の公国。歴史的ハンガリー(カルパチア盆地)東部、現在のルーマニア領トランシルヴァニア地方を中心とする地域に1571年から1711年まで存在し、歴史的には基本的にドイツ人のハプスブルク家が支配する王領ハンガリー(名目上のハンガリー王国)に対して実質的なハンガリーの継承国家と見なされている。1437年9月16日にカーポルナ町(チチョーカーポルナ村 Csicsókápolna 、カパルナ村 Căpâlna. )でブダイ・ナジ・アンタル(Budai Nagy Antal )の農民蜂起に対抗してトランシルヴァニアのハンガリー人と(ハンガリー人の一派である)セーケイ人とザクセン人(ハンガリー国王の招聘による入植者であるドイツ人たち)の三民族の貴族たちが「三民同盟」(kápolnai unió) がを締結したことから、トランシルヴァニア公国の公民はこの三民族と見なされることとなった。.
新しい!!: 16世紀とトランシルヴァニア公国 · 続きを見る »
トリエント公会議
トリエント公会議(トリエントこうかいぎ Concilium Tridentinum)は教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア領トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。諸事情により、多くの会期が断続的に行われたが、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。トレント公会議(とれんとこうかいぎ)とも。.
新しい!!: 16世紀とトリエント公会議 · 続きを見る »
トルクァート・タッソ
トルクァート・タッソ(Torquato Tasso, 1544年3月11日 - 1595年4月25日)は、16世紀イタリアの叙事詩人。.
新しい!!: 16世紀とトルクァート・タッソ · 続きを見る »
トレド
トレド(Toledo)はスペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州のムニシピオ(基礎自治体)。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都であり、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。 かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。金銀細工の伝統工芸品「ダマスキナード」がある。.
トンブクトゥ
トンブクトゥ()は、西アフリカのマリ共和国内のニジェール川の中流域、川の湾曲部に位置する砂漠の民トゥアレグ族の都市である。ティンブクトゥ(Timbuktu)とも呼ばれる。マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄し西欧では「黄金郷」として知られるほどであった。アラブ・ムスリムの学者たちも往来し学問研究も盛んであったが、16世紀以降は次第に衰退する。.
新しい!!: 16世紀とトンブクトゥ · 続きを見る »
トーマス・グレシャム
トーマス・グレシャムの肖像画 トーマス・グレシャム(Sir Thomas Gresham, 1519年 - 1579年11月21日)は、イギリスの財政家、貿易商。.
新しい!!: 16世紀とトーマス・グレシャム · 続きを見る »
トゥメト
トゥメト(Түмэд,Түмд、 中国語:土默特 Tǔmòtè、英語:Tümed,Tumad)は、モンゴルの一部族。トメト,トゥマト,トゥメド,トマトとも表記される。 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。.
トゥパク・アマル (初代)
トゥパク・アマル(スペイン語:Túpac Amaru、、ケチュア語:Tupaq Amaru=高貴な龍又は輝ける龍、1545年-1572年9月24日、在位:1571年-1572年)は、インカ帝国最後の「皇帝」である。ただし、彼が「皇帝」となるより遙か以前に、インカ帝国はフランシスコ・ピサロによって征服されており、一部の残党がクスコ北方のウルバンバ川流域に立てこもってスペインに抵抗を続けていた。この新しい亡命政権を「」と呼ぶ。彼は、この勢力に擁立されたが、その後短期間のうちにこの「ビルカバンバのインカ帝国」は滅亡した。.
新しい!!: 16世紀とトゥパク・アマル (初代) · 続きを見る »
トスカーナ大公国
トスカーナ大公国(トスカーナたいこうこく、Granducato di Toscana、Großherzogtum Toskana)は、16世紀から19世紀にかけて北イタリアに存在した国家。領域はほぼ現在のトスカーナ州にあたり、同州の前身となった。.
新しい!!: 16世紀とトスカーナ大公国 · 続きを見る »
ヘラート
ヘラート(ダリー語: هرات Herāt)は、アフガニスタンの都市。(هري رود - Harī Rūd - ハリー・ルード、Tarius)の河谷に形成された肥沃なオアシスに位置し、古にはワイン生産地として名高かった。国内第3の人口を擁する (2006年の公式推計で349,000人) 同国北西部の最重要都市で、現在はヘラート州の州都である。住民はスンナ派またはシーア派のペルシア語系タジク人中心で、主にダリー語が話される。 アフガニスタン北西部からイラン北東部、トルクメニスタン南部にまたがったホラーサーン地方の東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸、西アジアを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄え「ホラーサーンの真珠」とその繁栄を謳われた。ペルシア語系タジク人が住民の多数を占めることからもうかがえるように、ヘラートを含むアフガニスタン北西部のハリー・ルード水系地域は、歴史的にはアフガン(パシュトゥーン)よりもイランの文化圏に属した。その歴史の古さは、古代ペルシア帝国の碑文に名が記されているほどで、現在も多くの歴史的建造物に恵まれている。もっとも、多くの遺跡が近年の激しい内戦によって損傷を受けている。ヘラートからイラン、トルクメニスタン、マザーリシャリーフ、カンダハールに通じる複数の幹線道路は、現在もなお戦略的に重要である。.
ヘンリー8世 (イングランド王)
ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝第2代のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド卿、のちアイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。百年戦争以来の慣例に従い、フランス王位の要求も継続した。 6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会からのイングランド国教会の分離によって知られる。ローマと対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となった。だがローマによる破門のあとも、カトリックの教義への信仰は失わなかった。また、によって、イングランドおよびウェールズの統合を指導した。 1513年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と連合して、1544年には神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世と連合してフランスを攻めるが、どちらもハプスブルク家からの援助は最小限であり、膨大な戦費に堪えられず失敗に終わった。 絶頂期においては、魅力的で教養があり老練な王だと同時代人から見られ、ブリテンの王位についた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者であると描かれている。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動した。薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。そのため6度結婚し、イングランドにおける宗教改革を招いた。次第に肥満して健康を害し、1547年に薨去した。晩年には好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている。後継者は息子のエドワード6世であった。.
新しい!!: 16世紀とヘンリー8世 (イングランド王) · 続きを見る »
ヘンリク条項
ヘンリク条項(ポーランド語:Artykuły henrykowskie, ラテン語:Articuli Henriciani)は、ポーランド・リトアニア共和国において制定された、統治に関する基本原則と定められた約定。21の条文からなる諸条項は憲法的な性格を帯びている。ヤギェウォ朝断絶後の空位期に入っていた1573年、シュラフタ(ポーランド貴族階級)によってワルシャワ近郊のカーミェンにおいて採択された。黄金の自由の体制を決定づけたものの一つである。.
新しい!!: 16世紀とヘンリク条項 · 続きを見る »
ヘブライ語
ヘブライ語(ヘブライご、עברית, Ivrit, Lingua Hebraea)は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム語の一つ。ヘブル語とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とヘブライ語 · 続きを見る »
ブハラ
ブハラ(;)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人(1995年)。 都市名は、ソグド語では、pwγ'r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近世ペルシア語・チャガタイ語では (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。「ブハーラー」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。 古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。.
ブハラ・ハン国
ブハラ・ハン国(ブハラ・ハンこく、)は、16世紀初頭から20世紀初頭まで、ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。基本的に「ブハラに首都を置き、ハンを推戴する国家」の総称なので、歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、の3王朝を指す。このうちマンギト朝はハンからアミールへ君主号を変えたので、ブハラ・アミール国とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とブハラ・ハン国 · 続きを見る »
ブリュッセル
ブリュッセル市庁舎 ブリュッセル( 、 、 、 )は、ベルギーの首都である。名称は「沼、湿地(bruoc、bruc、broek)」、「家(sella、zele)」という単語から来ている。ブリュッセル単独で、ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうちの一つ、ブリュッセル首都圏地域(、)を構成している。 人口116万人(2014年)。他の2つの地域と比べて面積は161km2と相対的に狭いが、約30km2の森林地域を除いて、その領域のほとんどが市街化されている。ユーロクリアと国際銀行間通信協会に加え、ロスチャイルド系グループ・ブリュッセル・ランバート本部と本部まで抱える、欧州有数の世界都市である。2013年に行われたアメリカのダウ・ジョーンズらによる調査は、ブリュッセルを世界24位の金融センターと評価している。 16世紀より欧州郵便網(帝国郵便)の起点であった歴史を持つ。1893年、フレンチ・コロニアル・ユニオンのジョゼフ・シェレが国際植民地学院の設立を提唱し、翌年に議会の承認を得た。学院は、植民地の行政・法制を比較研究する目的でブリュッセルにおかれた。戦後にブリュッセルはNATO の原点となり、現在では欧州連合の主要機関とアメリカ合衆国通商代表部の事務所が置かれている。.
新しい!!: 16世紀とブリュッセル · 続きを見る »
ブルボン朝
ブルボン朝の紋章 ブルボン朝(ブルボンちょう、dynastie des Bourbons)は、近世フランス王国の王朝である。1589年から1792年まで、一時中断を挟んで1814年から1830年まで続いた。文化史の分野ではルイ王朝と呼ばれることがある。これはこの王朝にルイという名の国王が何代にもわたって続いたからである。カペー朝の支流である。 新旧両派の宗教戦争であったユグノー戦争の最中にヴァロワ朝が断絶して、遠縁筋の新教徒でブルボン家のアンリ4世がカトリック教徒のフランス国王として即位したことでブルボン朝が成立した。このときメディチ家の財力を受け継いだ。ルイ14世の時代には絶対王政を築き、ハプスブルク家と政略結婚もし、領土拡大など戦果を上げて最盛期を迎えた。 フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去り、ナポレオン1世の失脚により王政復古で舞い戻ったが、七月革命によって再度王位を追われた。現在のスペイン王室は分家にあたる。.
新しい!!: 16世紀とブルボン朝 · 続きを見る »
ブレスト合同
ブレスト合同(ブレストごうどう、Берасьце́йская у́нія、Берестейська унія、Union of Brest)とは、1596年にウクライナ東方カトリック教会が成立した、教会の合同を言う。 ブレストの位置(ベラルーシの地図).
新しい!!: 16世紀とブレスト合同 · 続きを見る »
ブダ
ブダ(Buda)は、ハンガリーの首都ブダペストの西側部分で、ドナウ川の西岸に位置する。ブダという名称は、フン族の王ブレダの名に由来するが、それは彼の名がハンガリー語でブダだからである。ドイツ語ではオーフェン(Ofen)と呼ばれた。 ブダは、ブダペスト全体の約1/3を占め、その大部分は木の生えた丘陵である。高い生活水準と結びつけて考えられることが多いが、これはそれぞれの地域による。ランドマークとして、ブダ城とゲッレールトの丘のツィタデッラ(城塞)が名高い。.
プラナコーンシーアユッタヤー郡
プラナコーンシーアユッタヤー郡(プラナコーンシーアユッタヤーぐん、タイ語: อำเภอพระนครศรีอยุธยา )あるいはアユタヤ郡の名前で知られる町は、タイ・中部にある郡(アンプー)である。バンコクの真北約50kmにあるアユタヤ県の県庁所在地でもある。.
新しい!!: 16世紀とプラナコーンシーアユッタヤー郡 · 続きを見る »
プラハ
プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha )は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ)と呼ばれる。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。.
プラド美術館
プラド美術館(プラドびじゅつかん、)は、スペイン・マドリードにある美術館。歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館である。.
新しい!!: 16世紀とプラド美術館 · 続きを見る »
プラタープ・シング (メーワール王)
プラタープ・シング(Pratap Singh, 1540年5月9日 - 1597年1月19日)は、北インドのラージャスターン地方、メーワール王国の君主(在位:1572年 - 1597年)。.
新しい!!: 16世紀とプラタープ・シング (メーワール王) · 続きを見る »
プレヴェザの海戦
プレヴェザの海戦(プレヴェザのかいせん)は、1538年9月28日、バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となった。連合艦隊側は統制が取れずに敗走し、結果、オスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。この優位は1571年のレパントの海戦で揺らぐものの、以後もオスマン帝国は地中海での一大勢力であり続けることになった。しかしこの勝利には、オスマン帝国側に帰属したバルバリア海賊の影響力無しには為し得なかった。.
新しい!!: 16世紀とプレヴェザの海戦 · 続きを見る »
プレイヤード派
プレイヤード派 (la Pléiade) は、16世紀フランスの詩人たちのグループ。イタリア・ルネサンスの影響を受け、古代ギリシア・古代ローマの文芸を規範とした創作を主張した。日本では、プレイヤッド派、七星詩派などとも表記される。.
新しい!!: 16世紀とプレイヤード派 · 続きを見る »
プロイセン統治者の一覧
プロイセン統治者の一覧では、嘗てのドイツ諸国の一つであったプロイセンの統治者を列挙する。 プロイセンの本来の領域はバルト海沿岸に存在し、ドイツ騎士団がプルーセン、ポーランド、リトアニア一帯を制圧したものであった。この領域はポーランド=リトアニア共和国の宗主下でのプロシア公領、その支配から脱したプロイセン公国、そしてプロイセン王国となった。ドイツ帝国成立と共に構成国となり、帝政崩壊後はプロイセン州となった。 プロイセンの支配者は1618年から1806年まで同時にブランデンブルク選帝侯(辺境伯)を兼ねていたことから、1618年以降のプロイセンの歴史はブランデンブルク辺境伯とは密接な関係にある。詳細はブランデンブルク統治者の一覧を参照。.
新しい!!: 16世紀とプロイセン統治者の一覧 · 続きを見る »
プスコフ
プスコフ(プスコーフ、Псков、ラテン文字転写の例: Pskov、エストニア語・フィンランド語: Pihkva、 Pleskau、 Psków)はロシアの都市。プスコフ州の州都であり、主教座などのあるロシアの宗教の中心地のひとつにしてロシア有数の古都でもある。ヴェリーカヤ川およびその支流プスコフ川に沿ってクレムリンや古い町並みが建っている。エストニアとロシアとの国境からは東へ20kmしか離れておらず、中世には国境防衛と国境貿易でロシア有数の大都市として繁栄を謳歌した。人口は202,780人(2002年国勢調査)。 至聖三者大聖堂.
パラグアイ
パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく、、)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。 なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なる(パラグアイの国旗を参照)。.
新しい!!: 16世紀とパラグアイ · 続きを見る »
パラグアイ川
パラグアイ川(パラグアイかわ、Río Paraguay, Rio Paraguai)は、パラナ川最大の支流で、全長2,621kmの川である。.
新しい!!: 16世紀とパラグアイ川 · 続きを見る »
パラケルスス
ンティン・マサイスによって描かれたパラケルスス Beratzhausen) パラケルススの『長寿の書(''De vita longa'')http://www.geocities.jp/bhermes001/paracelsuslounge42.html パラケルスス研究のラウンジ その4 最近の研究動向2 フランス語圏 bibliotheca hermetica ナイメーヘン・ラドバウド大学研究員 ヒロ・ヒライ)』フランクフルト・アム・マイン、1583年 パラケルスス(スイスドイツ語:Paracelsus)こと本名:テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim, 1493年11月10日または12月17日 - 1541年9月24日)は、スイス出身の医師、化学者、錬金術師、神秘思想家。悪魔使いであったという伝承もあるが、根拠はない。後世ではフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim)という長大な名が本名として広まったが、存命中一度も使われていない。バーゼル大学で医学を講じた1年間を例外に、生涯のほとんどを放浪して過ごした。.
新しい!!: 16世紀とパラケルスス · 続きを見る »
パルマ
パルマ(Parma)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約19万人の基礎自治体(コムーネ)。パルマ県の県都である。 古代に起源を有する都市で、中世は自治都市として栄えた。パルマ大聖堂を中心に中世都市の景観が残る。16世紀半ばから19世紀のイタリア統一まではパルマ公国の首都であった。「美食の都」として知られており、特にプロシュット・ディ・パルマ(パルマハム)で有名である。食品産業が盛んであり、ヨーロッパ連合の外局である欧州食品安全機関の本部も置かれている。.
パルマ公の一覧
パルマ公国(Ducato di Parma)は1545年から1802年までと1814年から1860年までにあったイタリアの国である。.
新しい!!: 16世紀とパルマ公の一覧 · 続きを見る »
パンプローナ
パンプローナ(Pamplona)またはイルーニャ(IruñaまたはIruñea)は、スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。ナバーラ州の州都である。かつてはナバーラ王国の首都だった。 毎年7月6日から14日にはサン・フェルミン祭(牛追い祭り)が開催される。アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台である。.
新しい!!: 16世紀とパンプローナ · 続きを見る »
パンジャーブ
1909年のパンジャーブ地図 赤い城(デリー) 時計塔(ファイサラーバード) パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。 インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。.
新しい!!: 16世紀とパンジャーブ · 続きを見る »
パヴィアの戦い
パヴィアの戦い(パヴィアのたたかい)は、イタリアの覇権を巡ってハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が15世紀末から半世紀以上に渡って争ったイタリア戦争における戦いの一つ。1525年2月にイタリアロンバルディアのパヴィーア城塞外のミラベッロにある広大な狩猟場で、フランス王フランソワ1世軍とスペイン王兼神聖ローマ帝国皇帝カール5世軍が争った戦い。スペイン・神聖ローマ帝国連合軍側はナポリ総督シャルル・ド・ラノワが名目上指揮し(実質上の指揮は第5代ペスカーラ侯爵フェルナンド・ダヴァロス)、アントニオ・デ・レイバが指揮するパヴィア駐屯軍と合同で、フランソワ1世が直接指揮するフランス軍を攻撃し、勝利した。 4時間30分の戦いで、皇帝軍は小銃とパイクを組み合わせて効果的に戦い、フランス軍は分断され総崩れとなった。フランス側は、有力貴族のそれぞれの長を含む多数の犠牲者を出した。フランソワ1世自身もスペイン軍の捕虜となり、カール5世によって投獄され、重要な領域をカールに引き渡すという内容の屈辱的なマドリード条約に署名させられた。 ブルボン公シャルル3世は、かつてフランソワ1世に仕えていたが、1523年にカール5世の下に亡命していた。この戦いでは皇帝軍を指揮して、フランソワ1世を捕虜にする働きを見せている。 王の義兄でアランソン家最後の男子であったアランソン公シャルル4世は、帰国後に責任を糾弾され、同年に死去してアランソン家は断絶した。.
新しい!!: 16世紀とパヴィアの戦い · 続きを見る »
パドヴァ
パドヴァ(Padova)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。パドヴァ県の県都。経済・通信のハブ地である。 パドヴァ市の人口はヴェネト州で第3位である。ヴェネツィアなどを含むパドヴァ=ヴェネツィア都市圏の人口はおよそ160万人である。.
パドヴァ大学
パドヴァ大学(Università degli Studi di Padova、略称UNIPD)は、イタリアのパドヴァにある大学。1222年9月29日に創立された中世大学であり、イタリアで2番目に古い大学である(最古の大学はボローニャ大学)。 ガリレオ・ガリレイ、ダンテ、ペトラルカが教授を務めた。.
新しい!!: 16世紀とパドヴァ大学 · 続きを見る »
パウルス3世 (ローマ教皇)
パウルス3世(Paulus III、1468年2月29日 - 1549年11月10日)は第220代ローマ教皇(在位:1534年 - 1549年)。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)。イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した事で知られる。.
新しい!!: 16世紀とパウルス3世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
パウルス4世 (ローマ教皇)
パウルス4世(Paulus IV、1476年6月28日 - 1559年8月18日)はローマ教皇(在位:1555年 - 1559年)。本名ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ(Giovanni Pietro Carafa)。改革への意欲に燃える教皇ではあったが、厳格過ぎる性格の為、敵を作る事が多かった。.
新しい!!: 16世紀とパウルス4世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
パオロ・ヴェロネーゼ
パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese、1528年 - 1588年4月19日)は、ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家。『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』などの作品で知られる。パオロ・カリアーリ (Paolo Cagliari, Paolo Caliari) と呼ばれることもあるが、出身地のヴェローナから「ヴェロネーゼ」として知られるようになった。 ヴェロネーゼはティツィアーノとティントレットと並んで、ルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家であると評価されている。非常に優れた色彩感覚の持ち主で、フレスコ、油彩ともに幻想的な色使いの装飾的絵画作品で知られている。ヴェロネーゼのもっとも有名な作品は劇的で色彩に満ちたマニエリスム様式で描かれた精緻かつ物語性豊かな連作絵画群で、壮重な建築物と壮麗な画面構成が特徴である。ヴェネツィアとヴェローナの修道院の食堂をモデルとした、聖書に書かれた饗宴のエピソードを題材とした大規模な絵画群はとくに重要な作品となっている。異端審問におけるヴェロネーゼの言葉は、当時の芸術に対する識見として引用されることも多い。.
新しい!!: 16世紀とパオロ・ヴェロネーゼ · 続きを見る »
ビフザード
ビフザード(کمالالدین بهزاد、Kamal al-din Bihzad、1455年?阿部「ビフザード」『岩波イスラーム辞典』、813頁 - 1530年代)は、15世紀から16世紀にかけてイランで活躍した画家。イスラーム世界でもっとも有名な画家の一人、ミニアチュールの分野における権威の一人に数えられる上田「ビフザード」『アジア歴史事典』8巻、23頁。ティムール朝の君主であるフサイン・バイカラは、ビフザードをマニ教の創始者である画家マニに次ぐ、「第二のマニ」と称賛したヤマンラール水野「ビフザード」『中央ユーラシアを知る事典』、443頁。.
新しい!!: 16世紀とビフザード · 続きを見る »
ビアンカ・カッペッロ
ビアンカ・カペッロ ビアンカ・カペッロ(Bianca Cappello, 1548年 - 1587年10月17日)は、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの2度目の妃。ヴェネツィアの裕福な貴族である出身で、美女の誉れ高かった。.
新しい!!: 16世紀とビアンカ・カッペッロ · 続きを見る »
ビジャープル王国
ビジャープル王国(Bijapur Sultanate)またはアーディル・シャーヒー朝(Adil Shahi dynasty)とは、15世紀末から17世紀末までインドのデカン、南インドに存在したスンニー派イスラーム王朝(1490年 - 1686年)。インド南西部に位置するビジャープルを首都とした。バフマニー朝が分裂しできたムスリム5王国の中でもっとも有力な王国であった。ビージャプル王国、ビージャープル王国とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とビジャープル王国 · 続きを見る »
ピレネー山脈
ピレネー山脈(ピレネーさんみゃく、Les Pyrénées、Los Pirineos、オック語:Los Pirenèus、Els Pirineus、Pirinioak)とは、ユーラシア大陸西端部のイベリア半島の付け根付近をほぼ東西方向に走る、長さ約430 kmの褶曲山脈である。.
新しい!!: 16世紀とピレネー山脈 · 続きを見る »
ピーリー・レイース
ピーリー・レイース(Pîrî Reîs, ピリー・レイース, ピリ・レイースとも表記される。「レイース」は「提督」の意。もしくはアフメット・ムヒッディン・ピリ Ahmet Muhiddin Piri, もしくはアフメット・イブニ・エル=ハジュ・メフメット・エル=カラマニ Ahmet ibn-i el-Haç Mehmet El Karamani 1465年? - 1554年)は、オスマン帝国海軍の軍人。世界地図、航海案内書の作者として知られ、16世紀のオスマン帝国(トルコ)が到達した海洋知識の到達点を示す。 ダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)の出身で、本名はアフメト・ムヒッディンという。父ハジ・メフメトの死後、叔父でオスマン帝国艦隊の提督だったケマル・レイースに引き取られ、オスマン帝国海軍の軍人となった。若い頃叔父に従ってスペインに併合されつつあったアンダルスのムスリムを救援するためイベリアに派遣された艦隊に参加したという。 1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海域での作戦に従事し、「船長」を意味するレイースの称号を与えられた。1516年から1517年にはシリア、エジプト海域に出動し、セリム1世のマムルーク朝征服を援護、1522年にはスレイマン1世のロドス島遠征に参加した。バルバロス・ハイレッディンが帝国海軍司令官となると、その麾下の提督として活躍する。 1547年、老練の提督となっていたピーリー・レイースはスレイマン1世によって紅海に駐留するインド洋方面艦隊の司令官に任命され、1551年にアデンを征服、アラビア海、ペルシア湾に出動してマスカット、ホルムズ海峡を攻撃し、ポルトガルの進出を牽制した。しかし、あるときペルシア湾のバスラ沖にポルトガル艦隊が現れたとの報を受け出撃したが、バーレーン近海でガレー船一隻を沈没させたため攻撃を中止しエジプトに帰投したことから戦線放棄の罪に問われ、1554年にスレイマン1世の命によりカイロで処刑された。 ピーリー・レイースは、海軍軍人としての職務のかたわらで詳細な世界地図と航海案内書を作成してオスマン皇帝に献呈したことで、艦隊司令官としてよりも、地図作成者として後世に名を残した。世界地図は、それぞれ1513年と1526年の記年をもつ2種類の断簡が現存し、いずれもアメリカ大陸を詳細に描いていることで高い評価を受けている。また、1521年と1526年の記年をもつ2写本が伝存する航海案内書『海洋の書(キターブ・バフリエ)』は、エーゲ海から地中海全域にわたる諸海域について、海域ごとに200図以上の詳細な航海地図と海域の航行法、地誌、歴史情報などを記しており、地理書、歴史書としても高く評価されている。.
新しい!!: 16世紀とピーリー・レイース · 続きを見る »
ピーリー・レイースの地図
ピーリー・レイースの地図(ピーリー・レイースのちず)は、オスマン帝国の海軍軍人ピーリー・レイース(「ピーリー提督」。本名はアフメット・ムヒッディン・ピーリー Ahmet Muhiddin Piri、もしくはアフメット・イブニ・エル=ハジュ・メフメット・エル=カラマニ Ahmet ibn-i el-Haç Mehmet El Karamani。1465? - 1554年)が作成した現存する2つの世界地図のうち、1513年に描かれた地図のことを指す。ピリ・レイスの地図とも。.
新しい!!: 16世紀とピーリー・レイースの地図 · 続きを見る »
ピーボディ考古学・民族学博物館
ピーボディ考古学・民族学博物館(ピーボディこうこがく・みんぞくがくはくぶつかん、Peabody Museum of Archaeology and Ethnology)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジにある、ハーバード大学附属の大学博物館。.
新しい!!: 16世紀とピーボディ考古学・民族学博物館 · 続きを見る »
ピーテル・ブリューゲル
ピーテル・ブリューゲル(, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)は、16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。 同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。.
新しい!!: 16世紀とピーテル・ブリューゲル · 続きを見る »
ピウス3世 (ローマ教皇)
ピウス3世(Pius III、1439年5月29日 - 1503年10月18日)は在位期間が極めて短いルネサンス期のローマ教皇(在位:1503年)。本名はフランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ(Francesco Todeschini Piccolomini)。在位僅か26日で死去。 シエナ出身。伯父アエネアスがピウス2世となった為、ネポティズム(親族登用主義)の恩恵を受けて22歳でシエナの司教及び枢機卿に任命された。ネポティズムで登用されたとはいえ、彼は優秀な人材であった為、歴代の教皇達に引き続き取り立てられ、パウルス2世時代のラティスボンの帝国議会への参加、あるいはシクストゥス4世時代のウンブリアにおける教会制度の改革などの業績を残した。 やりたい放題であったアレクサンデル6世の没後、教皇庁が混乱の極みに陥る中で、無欲無私で知られたローヴェレ枢機卿(後のユリウス2世)の後押しもあって1503年9月22日にフランチェスコが教皇に選出され、ピウス3世を名乗った。教皇位につくと、腐敗の進んだ教皇庁の改革に取り組んだ。しかし、在位26日目の10月18日に急逝。足にできた潰瘍の為とも、シエナ総督パンドルフォ・ペトルッチが盛った毒物の為とも言われる。 短い在位期間と急死にまつわる陰謀の噂という事に関しては20世紀の教皇ヨハネ・パウロ1世とも共通点がある。 ひうす03 ひうす3 ひうす3 ひうす3 ひうす3.
新しい!!: 16世紀とピウス3世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
ピウス5世 (ローマ教皇)
ピウス5世(Pius V、1504年1月17日 - 1572年5月1日)はローマ教皇(在位:1566年 - 1572年)。本名アントニオ・ギスリエーリ(Antonio Ghislieri)。異端審問の世界で活躍した後、教皇として異端とプロテスタントとへの対抗に力に入れ、カトリック改革を推進した。カトリック教会の聖人。.
新しい!!: 16世紀とピウス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
ピエール・ド・ロンサール
ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524年9月11日 - 1585年12月27日)は、ルネサンス期フランスの詩人。プレイヤード派の中心人物であり、「詩人たちの君主」(le prince des poètes )と称えられた。.
新しい!!: 16世紀とピエール・ド・ロンサール · 続きを見る »
ピエトロ・アレティーノ
ピエトロ・アレティーノ(Pietro Aretino、1492年4月20日– 1556年10月21日)は、ルネサンス期イタリアの作家、詩人。.
新しい!!: 16世紀とピエトロ・アレティーノ · 続きを見る »
ピエタ (ミケランジェロ)
この項では、イタリアの芸術家・ミケランジェロ(1475年 - 1564年)が「ピエタ」(Pietà、慈悲などの意)を題材として制作した、4体の彫刻作品について記述する。 ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。 ミケランジェロが制作した4作品(ただし、完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみ)の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通りである。.
新しい!!: 16世紀とピエタ (ミケランジェロ) · 続きを見る »
ピサ
ピサ (Pisa) は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約9万人の基礎自治体(コムーネ)。ピサ県の県都である。.
ツファット
ツファット(צְפַת, Tzəphāt‘, Zefat)は、イスラエル北部・ガリラヤ地方の都市。ガリラヤ湖の北に位置する。アラビア語ではサフェド、サファド(صفد Safad)。ユダヤ教の聖地(四聖都の一つ)。 16世紀以来、ユダヤ教神秘主義・カバラ学の中心地となり、イツハク・ルリア・ヨセフ・カロなどが指導者だった。.
新しい!!: 16世紀とツファット · 続きを見る »
ツァーリ
ツァーリ(царь)あるいはツァール(ブルガリア語、セルビア語、ウクライナ語:цар)は、ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用された君主の称号。当初は、ギリシャ語の「バシレウス」と同様に東ローマ皇帝や聖書に登場する王を指す語であったが、やがて(大公の称号より上ではあるが皇帝の称号より下である)一部の国の王やハーンを指す語としても用いられるようになった。 ラテン語「カエサル」やギリシア語「カイサル」のスラヴ語形。そもそもは、ローマ皇帝やその継承者である東ローマ皇帝の有する称号として「カエサル」という語が用いられており、その称号を周辺の国家が用いたもの。その際に発音が変化して「ツァーリ」や「ツァール」となった。モスクワ大公らが用いたこの称号を西欧語において「王」と訳すか「皇帝」と訳すかについては中世ヨーロッパにおいても外交上の問題として議論があった。漢語においても「王」とも「皇帝」とも訳す。 民話においては、「善き王」を意味する。.
ティムール朝
ティムール朝(、)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。.
新しい!!: 16世紀とティムール朝 · 続きを見る »
ティルマン・リーメンシュナイダー
ティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider, 1460年頃 - 1531年)は、中世のドイツの彫刻家。 テューリンゲン北部、ニーダーザクセン南東部との境目にあるハルツ山脈付近、現在のに生まれ、後に家族とともに親戚がいる南方のヴュルツブルクに移住した。 彫刻のマイスターとしてヴュルツブルクに工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がける一方、1504年に市議会議員に選出されたのを皮切りに、1520年から1521年までに市長も務めた。 しかし、ドイツ農民戦争の際、元市長として戦争に加担したとして逮捕され、利き腕をへし折られて、再び彫刻家として活躍ができなくなったという。そのため、晩年は失意のうちに没した。 ローテンブルクにある聖ヤコブ教会の聖血の祭壇.
新しい!!: 16世紀とティルマン・リーメンシュナイダー · 続きを見る »
ティントレット
ティントレット(Tintoretto, 本名:Jacopo Comin (Jacopo Robusti), 1518年9月29日 - 1594年5月31日)は、イタリアのルネサンス期の画家。 師匠のティツィアーノ、そしてヴェロネーゼとともにルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家。ティツィアーノの色彩とミケランジェロのマニエリスムの形体を結びつけ、情熱的な宗教画を描いた。.
新しい!!: 16世紀とティントレット · 続きを見る »
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃 - 1576年8月27日)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ、その生誕地から「ダ・カドーレ (da Cadore)」と呼ばれることもあった。 ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。 ティツィアーノは長命な画家で、その作風は年代とともに大きく変化しているが、その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった。円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが、初期の作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。.
新しい!!: 16世紀とティツィアーノ・ヴェチェッリオ · 続きを見る »
テオドール・ド・ベーズ
テオドール・ド・ベーズ(Théodore de Bèze,ユリウス暦1519年6月24日 - グレゴリオ暦1605年10月13日)は、フランスのプロテスタントの神学者であり、16世紀初期の宗教改革に大きな影響を与えた人物である。暴君放伐論者として絶対君主制に対抗した。ジャン・カルヴァンの弟子であり、人生の大半をスイスで過ごした。.
新しい!!: 16世紀とテオドール・ド・ベーズ · 続きを見る »
デリー
デリー連邦直轄地(デリーれんぽうちょっかつち、दिल्ली 、Delhi )は、インドの首都特別地域である。面積1,483km2、人口は1,679万人で、インド北部の大都市圏を形成しており、同国の商業・工業・政治の中心地にして南アジアを代表する世界都市の一つ。.
デリー・スルターン朝
デリー・スルターン朝(デリー・スルターンちょう、Delhi Sultanate)は、13世紀初頭から16世紀初め(1206年 - 1526年)までの約320年間デリーを中心に主として北インドを支配した5つのイスラーム王朝の総称。名称に関しては、デリー・スルタン朝、デリー諸王朝、デリー・サルタナットなど様々ある。.
新しい!!: 16世紀とデリー・スルターン朝 · 続きを見る »
デンマーク
デンマーク(Danmark, )は、北ヨーロッパのバルト海と北海に挟まれたユトランド半島とその周辺の多くの島々からなる立憲君主制国家。北欧諸国の1つであり、北では海を挟んでスカンディナヴィア諸国、南では陸上でドイツと国境を接する。首都のコペンハーゲンはシェラン島に位置している。大陸部分を領有しながら首都が島嶼に存在する数少ない国家の一つである(他には赤道ギニア、イギリスのみ)。 自治権を有するグリーンランドとフェロー諸島と共にデンマーク王国を構成している。 ノルディックモデルの高福祉高負担国家であり、市民の生活満足度は高く、2014年の国連世界幸福度報告では第1位であった。.
新しい!!: 16世紀とデンマーク · 続きを見る »
デンマーク君主一覧
デンマークの歴代君主。括弧内は、デンマーク王としての在位年を示す。 デンマークの君主制の歴史は深く、日本に次いで世界で2番目に古い君主国ともいわれている。.
新しい!!: 16世紀とデンマーク君主一覧 · 続きを見る »
ディーウ沖の海戦
ディーウ沖海戦(第2次チャウルの戦い)は、1509年2月3日にインドのディーウ港の近くのアラビア海で、ポルトガル海上帝国と、オスマン帝国、ヴェネツィア共和国とラグサ共和国(ドゥブロヴニク)の支援を受けたグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝(ブルジー・マムルーク朝)、カリカットの領主ザモリンとの間で起こった海戦であるRogers, Clifford J. Readings on the Military Transformation of Early Modern Europe, San Francisco:Westview Press, 1995, pp. 299–333 at 。 この戦いにおけるポルトガルの勝利は大きな意味をもたらした。伝統的な紅海やペルシア湾を通る香辛料貿易路はアラブ人勢力とヴェネツィア共和国によって支配されていた。しかしマムルーク朝やアラブ勢力が後退することで、その伝統的な交易路を迂回してインド洋から喜望峰の航海路を支配しようとするポルトガルの戦略を容易にした。戦いの後、ポルトガルはゴア、スリランカ、マラッカ、ホルムズといったインド洋沿岸の重要な港を急速に占領していき、エジプトのマムルーク朝やグジャラート・スルターン朝を無力化して、ポルトガル海上帝国の発展をおおいに助けた。オランダ・ポルトガル戦争の間と1612年にスワリーの戦いでイギリス東インド会社がポルトガルに勝利するまで、ポルトガルの貿易における優勢はほぼ一世紀にわたって維持され続けた。これはアジアにおける植民地主義の始まりとなった。また、キリスト教徒とイスラム教徒の権力闘争が、当時最も国際交易で栄えた地域である地中海、中東及びその周辺、インド洋内に広がったことを示している。.
新しい!!: 16世紀とディーウ沖の海戦 · 続きを見る »
ディエゴ・デ・ランダ
ディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa、1524年 - 1579年)は、16世紀、スペインのフランシスコ会の聖職者で、後にユカタンの司教になった。スペインによるアメリカ大陸の植民地化初期のユカタンで活動した。.
新しい!!: 16世紀とディエゴ・デ・ランダ · 続きを見る »
ディエゴ・デ・アルマグロ
ディエゴ・デ・アルマグロ(Diego de Almagro、1479年 - 1538年7月8日)は、スペイン人のコンキスタドール(征服者)。別名「エル・アデランタード(El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官)」または「エル・ビエホ(El Viejo、老人)」とも呼ばれた。フランシスコ・ピサロの仲間だったが後にライバルとなった。スペインによるペルー征服に参加して、ヨーロッパ人として最初にチリを発見したことで知られる。 ピサロの第1回目の遠征に与し新世界での沿岸部の現地人との戦いで左目を失った。1525年、ペルー征服のためパナマでピサロ兄弟とパナマの司祭と協定を締結した。.
新しい!!: 16世紀とディエゴ・デ・アルマグロ · 続きを見る »
デジデリウス・エラスムス
デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月27日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会の聖人フォルミアのエラスムス(Erasmus of Formiae)からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。 主な著作に『痴愚神礼賛』(Moriae encomium)、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)、『平和の訴え』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳、Novum Instrumentum)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するマルティン・ルターとの論争でも知られる。 宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に投じることはなかった。 エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。.
新しい!!: 16世紀とデジデリウス・エラスムス · 続きを見る »
フマーユーン
フマーユーン(همايون, Humāyūn, 1508年3月17日 - 1556年1月27日)は、北インド、ムガル帝国の第2代君主(在位:1530年- 1540年、1555年- 1556年)。父は初代皇帝バーブル、母はマーハム・ベーグム。.
新しい!!: 16世紀とフマーユーン · 続きを見る »
フョードル1世
フョードル1世(Фё́дор I Иванович / Feodor I Ivanovich,1557年5月31日 - 1598年1月6日)は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1584年 - 1598年)で、モスクワのリューリク朝最後の君主。イヴァン4世の三男、母はザハーリン家出身のアナスタシア・ロマノヴナ。 至福者の称号で正教会で列聖され、聖人となっている。記憶日は1月20日(1月7日)。.
新しい!!: 16世紀とフョードル1世 · 続きを見る »
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ2世の肖像、アンブラス城所蔵、インスブルック アンドレーア・マンテーニャ、ルーブル美術館(パリ)、元はフランチェスコ2世がフォルノーヴォの戦いを記念しマントヴァのサンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア礼拝堂に寄贈した物 フランチェスコ2世・ゴンザーガ(Francesco II Gonzaga, 1466年8月10日 - 1519年3月29日)は、マントヴァ侯フェデリーコ1世・ゴンザーガとバイエルン公アルブレヒト3世の娘マルゲリータ・ディ・バヴィエラとの息子である。ジャンフランチェスコ(Gianfrancesco)とも。 父の死によりマントヴァ侯に即位、1490年2月12日、フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘イザベラ・デステと結婚し、ゴンザーガ家とエステ家の伝統的な同盟関係を更新した。 1495年ので、フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるミラノ公国とヴェネツィア共和国の同盟軍は、ナポリ王となっていたフランス王シャルル8世に勝利し、 敗北したフランスが撤退したためナポリはアラゴンの手に戻った。 1519年に死去。一説では死因は梅毒といわれる。.
新しい!!: 16世紀とフランチェスコ2世・ゴンザーガ · 続きを見る »
フランチェスコ・グイチャルディーニ
フランチェスコ・グイチャルディーニ(Francesco Guicciardini, 1483年3月6日 - 1540年5月22日)はルネサンス時代のイタリアのフィレンツェ共和国の歴史家、政治家。.
新しい!!: 16世紀とフランチェスコ・グイチャルディーニ · 続きを見る »
フランシス・ドレーク
ー・フランシス・ドレーク(、 1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝のイングランドの航海者、海賊(私掠船船長)、海軍提督。イングランド人として初めて世界一周を達成し、アルマダの海戦では艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した。 ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ()から)。.
新しい!!: 16世紀とフランシス・ドレーク · 続きを見る »
フランシスコ会
フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ会 · 続きを見る »
フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス
フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス(Francisco Jiménez de Cisneros, 1436年 - 1517年11月8日)は、15世紀のスペインの摂政・枢機卿。2度にわたってスペイン王国の摂政の座についただけでなく、スペインにおける聖職者の綱紀粛正を行い、異端審問所長官をつとめ、北アフリカのムーア人に対する十字軍活動を起こすと共に、キリスト教布教にもつとめた。 文化面でも、コンプルテンセ大学を創設し、聖書の多言語対訳版を編集するなどの貢献をし、スペイン史に大きな足跡を残した。シスネロスの時代はスペインの黄金時代の幕開けの時期にあたっており、歴史家ジョン・エリオットをして「スペインが世界の一大強国となれた事はフェルナンド2世とシスネロス枢機卿の2人に負う部分が多い」と言わしめるほどの人物であった。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス · 続きを見る »
フランシスコ・ピサロ
フランシスコ・ピサロ フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1470年頃 - 1541年6月26日)は、スペインの軍人、探検家、コンキスタドール。ペルーのインカ帝国を征服したことで有名である。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・ピサロ · 続きを見る »
フランシスコ・デ・ビトリア
フランシスコ・デ・ビトリア / サラマンカ大学サン・エステバン神学院前の像 フランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Vitoria, Francisco de Arcaya y Compludo, Frantzisko Vitoria, Frantzisko Gasteizkoa, Franciscus de Vitoria, Francisci de Vitoria / 1492年頃1546年8月12日)はルネサンス期スペインにおけるカトリック神学者・哲学者・法学者である。 いわゆる「サラマンカ学派」(ドミニコ会学派)の始祖として知られ、特に正戦論・国際法学への貢献によって「国際法の父」とみなされている。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・デ・ビトリア · 続きを見る »
フランシスコ・デ・アルメイダ
フランシスコ・デ・アルメイダ (Francisco de Almeida,1450年頃 - 1510年3月1日生田「アルメイダ」『世界伝記大事典 世界編』1巻、274-275頁)は、ポルトガルの貴族。 インド洋世界のポルトガルの勢力拡大に活躍し、ポルトガルの初代を務めた。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・デ・アルメイダ · 続きを見る »
フランシスコ・デ・オレリャーナ
フランシスコ・デ・オレリャーナ フランシスコ・デ・オレリャーナ(Francisco de Orellana, 1511年 - 1546年)は、スペインのコンキスタドール。オレリャナ、オレリャーノとも。 オレリャーナはフランシスコ・ピサロとともにスペインによるインカ帝国の征服に参加。ゴンサロ・ピサロがエル・ドラードを探して行った1541年の遠征に参加した士官の一人であった。 1541年12月に、現在のナポ川でオレリャーナの船は本隊から分離された。その後、オレリャーナの部隊はアマゾン川の全距離を航海し、1542年8月に河口に到達した。これは歴史上、不可能そうだが成功した航海の一つとして数えられている。 アマゾン川にその名が命名されたのはこの航海上であった。オレリャーナは勇敢な女性の戦士に攻撃されたと記録している。しかし、実際には長髪を持った男性の戦士との戦闘を行ったことが考えられる。 オレリャーナはアマゾン川を下った後の航海中に死去した。エクアドルのオレリャーナ県は彼にちなんで命名された。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・デ・オレリャーナ · 続きを見る »
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・デ・ザビエル( または, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・ザビエル · 続きを見る »
フランシスコ・スアレス
フランシスコ・スアレス フランシスコ・スアレス(Francisco Suárez、1548年1月5日-1617年9月25日)は、スペインの神学者・哲学者・法学者。イエズス会士。.
新しい!!: 16世紀とフランシスコ・スアレス · 続きを見る »
フランス
フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.
フランソワ1世 (フランス王)
フランソワ1世(仏:François Ier、1494年9月12日 - 1547年3月31日)は、ヴァロワ朝第9代のフランス王(在位:1515年 - 1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワとの間に生まれた。.
新しい!!: 16世紀とフランソワ1世 (フランス王) · 続きを見る »
フランソワ2世 (フランス王)
フランソワ2世(François II de France, 1544年1月19日 - 1560年12月5日)は、ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年 - 1560年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、シャルル9世、アンリ3世の兄である。スコットランド女王メアリー・ステュアートを王妃とした。.
新しい!!: 16世紀とフランソワ2世 (フランス王) · 続きを見る »
フランソワ・ラブレー
フランソワ・ラブレー(François Rabelais、 1483年? - 1553年4月9日)は、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者、作家、医師。ヒポクラテスの医書を研究したことで著名となり、次いで中世の巨人伝説に題材を取った騎士道物語のパロディー『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』(『ガルガンチュワとパンタグリュエル』)で知られる。これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会など既成の権威を風刺した内容を含んでいたため禁書とされた。.
新しい!!: 16世紀とフランソワ・ラブレー · 続きを見る »
フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)
フリードリヒ3世(1532年、ルーカス・クラナッハ画。クラナッハはフリードリヒ3世の御用絵師であった。) フリードリヒ3世(1510年、ルーカス・クラナッハ画) 若き日のフリードリヒ3世(1500年、アルブレヒト・デューラー画) フリードリヒ3世(Friedrich III., 1463年1月17日 - 1525年5月5日)は、ヴェッティン家のザクセン選帝侯(在位:1486年 - 1525年)。賢明公、賢公(ドイツ語:der Weise)と称される。宗教改革の指導者であるマルティン・ルターを保護しプロテスタントを承認したことと、ヴィッテンベルク大学設立の功績で知られる。日本の高等学校用世界史教科書・参考書等でザクセン選帝侯フリードリヒといえば、ふつうこの人物を指す。.
新しい!!: 16世紀とフリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯) · 続きを見る »
フリースラント
フリースラント(Friesland、Friesland)は、オランダ・ドイツの北海沿岸の地方名。沖合にあるフリースラント諸島を含む。固有の言語であるフリスク語ではフリスラン (Fryslân)。ほか、フリジア (Frisia)、フリスラント (Frisland)。 歴史的には西方系ゲルマン人のフリース人が居住した。.
新しい!!: 16世紀とフリースラント · 続きを見る »
フルドリッヒ・ツヴィングリ
ハンス・アスパーによるフルドリッヒ・ツヴィングリの肖像画(1531年) フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli、1484年1月1日 - 1531年10月11日)は、スイス最初の宗教改革者。スイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分においてルターと意見を異にしていた。彼らはマールブルク会談で多くの論点について合意したが、聖餐論で一致することができなかった。カトリック諸州との内戦の中で戦死した。47歳だった。 ルターと並んで宗教改革の初期の立役者の一人だが、ルターと対立したことや、これもルターとは違い志半ばにして戦死したことなどからルターほどの知名度はない人物である。ツヴィングリの残したものは、今日も改革派教会の信仰告白、礼拝、教会などの内に見る事が出来る。他の名として「フルドライヒ」(Huldreych)と表記されたり、ウルリヒ(Ulrich)と表記されることもある。.
新しい!!: 16世紀とフルドリッヒ・ツヴィングリ · 続きを見る »
フロリダ州
フロリダ州(State of Florida )は、アメリカ合衆国東南部の州である。メキシコ湾と大西洋に挟まれるフロリダ半島の全域を占め、北はジョージア州とアラバマ州に接しており、サンベルトと呼ばれる比較的気候が温暖な州の1つである。 フロリダ州の面積は170,306 km2 (65,758 mi2) で、50州の中で22位であるが、海岸線の長さは約1,900 km (1,200 マイル) あり、大陸48州の中では最長である。 フロリダ州は北部と中部が亜熱帯、南部は熱帯に属して概して暖かいので、「サンシャインステート(日光の州)」という渾名がある。2009年の推計人口は18,537,969人となっており、全米50州の中で第4位である。州都はタラハシー (Tallahassee) 、人口最大の都市はジャクソンビル (Jacksonville)、その他主な都市としてはマイアミ (Miami)、タンパ (Tampa)、オーランド (Orlando)などがあり、マイアミ都市圏は人口500万人以上を抱える州内最大の都市圏になっている。 ケネディ宇宙センター、スペースポート・フロリダ、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート、ユニバーサル・オーランド・リゾート、シー・ワールド・オブ・フロリダなどがあることで有名で、アメリカでも有数の観光地として知られている。.
新しい!!: 16世紀とフロリダ州 · 続きを見る »
フロイス日本史
『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。.
新しい!!: 16世紀とフロイス日本史 · 続きを見る »
フフホト市
フフホト市(フフホトし、中国語:呼和浩特市、モンゴル語:、英語:Hohhot)は、16世紀にアルタン・ハーンによって築かれた南モンゴルの古都フフホトと、近隣の4つの県、1つの旗(ホショー)によって構成された中華人民共和国の地級市のひとつであり、内モンゴル自治区の省都、直轄市(シュード・ハリヤ・ホト、siγd qariya qota)。都市の名は、モンゴル語で「青い城」を意味し、古都の部分は同市の市区として位置づけられている。面積17,410平方キロメートル、人口227.4万人(2009年)。フホホトなどと表記されることもある。 現在の人口のほとんどは漢民族であり、チベット仏教の寺院のほかは、モンゴル特有と思われる要素はあまりない。.
新しい!!: 16世紀とフフホト市 · 続きを見る »
ファテープル・シークリー
ファテープル・シークリー(英語:Fatehpur Sikri、ウルドゥー語:、ヒンディー語:)は、インドのウッタル・プラデーシュ州アーグラ約40km西に位置する、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設された都市。 当時アクバルは跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティー(en)を訪ね、世継ぎの問題について相談したところ神谷(1996)pp.118-125、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。そのおかげで王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。しかし、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった。 遺跡群は1986年、UNESCOの世界遺産に登録された。.
新しい!!: 16世紀とファテープル・シークリー · 続きを見る »
ファウスト
『ファウスト』(Faust)はドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作とされる長編の戯曲。全編を通して韻文で書かれている。『ファウスト』は二部構成で、第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1833年に発表された。.
新しい!!: 16世紀とファウスト · 続きを見る »
ファウスト (伝説)
ファウスト(Faust)は、ドイツの伝説における主要な登場人物である。彼は学者としてかなり成功したが、自分の人生に満足しておらず、そのために悪魔と盟約して自身の魂と引き換えに果てしない知識と現世での幸福を得た。 ファウスト伝説は、長い時間を通して再解釈され、多くの文学、美術、映画、音楽作品の題材とされてきた。「ファウスト」や「ファウスト的」という語句は、野心的な人物が力を得て一定期間の成功のために倫理的な無欠さを手放すという状況を暗示するのにも使われる。 初期の書物、あるいはそこから派生したバラッドや演劇、映画、人形劇のファウストは、ファウストが神に関する知識よりも人間を愛したという理由で、取り返しがつかないほど呪われた。「ヤツはドアの裏やベンチの下に聖書を置き、そして、神学者と呼ばれるのを拒み、医学者と称されるのを好むのだ」。この伝説を漠然と題材にした演劇や滑稽な人形劇は、16世紀を通してドイツで人気を誇ったが、それらでは、ファウストやメフィストフェレスを低俗な楽しみの象徴へと貶めていた。 この伝説は、古典的に取り扱ったクリストファー・マーロウの戯曲『フォースタス博士』(1604年)により、イングランドで広まった。200年後、ゲーテが再編した『ファウスト』では、ファウストは自分の人生に「現世の飲食以上のもの」を求めた不満足な知識人となった。.
新しい!!: 16世紀とファウスト (伝説) · 続きを見る »
ファウスト・ソッツィーニ
ファウスト・ソッツィーニ(Fausto Sozzini, シエナ 1539年 - ポーランド Lusławice 1604年)は、反三位一体論のキリスト教の神学者。 ユニテリアン教会のポーランド兄弟団の創設者。 1563年から1574年までファウスト・ソッツィーニはパオロ・ジョルダーノ・オルシーニ侯の秘書としてフィレンツェに仕えていたが、その後はバーゼルで神学を学び叔父レーリオー・ソッチニ (1562年)の遺稿を研究して叔父の思想を継承、三位一体論に反対する立場を明確にした。 1579年ポーランドに行った。.
新しい!!: 16世紀とファウスト・ソッツィーニ · 続きを見る »
フアン・ポンセ・デ・レオン
フアン・ポンセ・デ・レオン(, 1474年 - 1521年7月)は、スペインの探検家、コンキスタドール。 スペインの都市サンテルバス・デ・カンポス(バリャドリッド県)に生まれる。若い頃より、イベリア半島にあるムーア人最期の地、グラナダ征服の戦争に参加する等していた。ポンセ・デ・レオンは新世界への2度目の航海で、クリストファー・コロンブスにも同行している。彼は当時のスペイン君主によって、プエルトリコの最初の統治者にも任命された。また、ヨーロッパ人としては初と言われるフロリダまでの航海を行い、若返りの泉の伝説とも結びつけて考えられる人物である。.
新しい!!: 16世紀とフアン・ポンセ・デ・レオン · 続きを見る »
フアン・ヒネス・デ・セプルベダ
プルベダ フアン・ヒネス・デ・セプルベダ(Juan Ginés de Sepúlveda / 1489年 – 1573年)はルネサンス期スペインの神学者・哲学者。インディアス先住民問題をめぐるバリャドリッド論争でラス・カサスと対決した人物として知られる。.
新しい!!: 16世紀とフアン・ヒネス・デ・セプルベダ · 続きを見る »
フアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ
フアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ(Juan González de Mendoza、1545年 - 1618年2月14日)はスペインのアウグスチノ会修道士、司教。16世紀ヨーロッパで書かれた中国に関する代表的な専門書である『シナ大王国誌』の著者として知られる。.
新しい!!: 16世紀とフアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ · 続きを見る »
フィリッポ・ネリ
フィリッポ・ロモロ・ネリ(イタリア語:Filippo Romolo Neri, 1515年7月22日 - 1595年5月26日)は、イタリア人のカトリック司祭で、オラトリオ会の創設者。カトリック教会の聖人で記念日は5月26日。喜びの聖人、ローマの第2の使徒と称される。.
新しい!!: 16世紀とフィリッポ・ネリ · 続きを見る »
フィリップ2世 (モスクワ府主教)
府主教フィリップ2世(1507年2月11日 - 1569年12月23日 Митрополит Филипп II, Philip II, Metropolitan of Moscow)は、イヴァン雷帝によって粛清されたモスクワ府主教(ロシア正教会の首座主教)。正教会の聖人(神品致命者・奇蹟者・成聖者)。.
新しい!!: 16世紀とフィリップ2世 (モスクワ府主教) · 続きを見る »
フィリップ・メランヒトン
フィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon, 出生名:Philipp Schwartzerd, 1497年2月16日 – 1560年4月19日 )は、ドイツの人文主義者、キリスト教神学者。ルター派。 ルターの宗教改革において、ルターの思想の体系化に尽力『キリスト教大事典』1054頁 - 1055頁、教文館、昭和48年 改訂新版第2版。プロテスタント正統の基礎を築いたという面でカルヴァンと並び称される 。.
新しい!!: 16世紀とフィリップ・メランヒトン · 続きを見る »
フィリピン
フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、Republika ng Pilipinas、Republic of the Philippines、) 通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家である。島国であり、フィリピン海を挟んで日本とパラオ、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。.
新しい!!: 16世紀とフィリピン · 続きを見る »
フィリシュタ
フィリシュタ(Firishta, فرشته)あるいはフェリシュタ(Ferishta)、実名はムハンマド・カーシム・ヒンドゥー・シャー(Muhammad Qasim Hindu Shah、محمد قاسم ہندو شاه, 1560年 - 1620年)は、ペルシア人の歴史家である。Firishtaとはペルシア語で「天使」または「使徒」を意味する。.
新しい!!: 16世紀とフィリシュタ · 続きを見る »
フィレンツェ
フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。.
新しい!!: 16世紀とフィレンツェ · 続きを見る »
フィンランド大公
1662年のフィンランド大公国 フィンランド大公(、(ヴェリーキー・クニャージ))は、近世から近代におけるスウェーデン=フィンランド(スウェーデン王国)及び帝政ロシアのフィンランドにおける君主号。フィンランド大公国は、帝政ロシアにおいてロシア皇帝がフィンランド大公を兼任した同君連合下の立憲君主制国家にちなむ国名だが、それ以前のフィンランドは、スウェーデン王国の直接統治下に置かれていた。帝政ロシア時代のフィンランド大公については、「歴代フィンランド大公」を参照のこと。 スウェーデンでは、1581年から1809年のフィンランド分離までスウェーデンの王族によって使用され、帝政ロシア時代は、ロシア皇帝(インペラトル)の称号の一部となった。フィンランド大公は、帝政ロシア時代を通じて1917年まで使用された。なお、1606年以前は、スウェーデンの王族及び貴族によって「フィンランド公」の称号も使用されていた。.
新しい!!: 16世紀とフィンランド大公 · 続きを見る »
フェリペ2世 (スペイン王)
フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。 1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。.
新しい!!: 16世紀とフェリペ2世 (スペイン王) · 続きを見る »
フェルナンド2世 (アラゴン王)
フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力地図 フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Católico 1452年3月10日 - 1516年6月23日)は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Católico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Católicos)と呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とフェルナンド2世 (アラゴン王) · 続きを見る »
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba, 1507年10月29日 - 1582年12月11日)は、スペインの第3代アルバ公爵。スペインの将軍。 1535年以降、プロテスタント勢力打倒を目指すカール5世のために各地を転戦した。カール5世の退位後はフェリペ2世に仕え、1559年のカトー・カンブレジ条約を経て、1567年から属領ネーデルラントの総督となった。「血の審判所」と呼ばれた機関を設け、エフモント伯ラモラールを含む多くの新教徒を処刑したが、その恐怖政治もオラニエ公ウィレム1世を支持する北部ネーデルラントの市民階級の反抗をくじくことができなかった。1573年、後任のレケセンスと交代させられ、スペインへ帰国した。 その後も第一線で活躍し、ポルトガル王位継承戦争においてドン・アントニオを敗走させ、ポルトガルをスペインに併合する勝利を挙げた。 category:スペインの軍人 ふえるなんと Category:アルバ公 Category:スペイン領ネーデルラント総督 Category:ナポリ副王 Category:カタルーニャ副王 Category:ポルトガル副王 Category:金羊毛騎士団員 Category:1507年生 Category:1582年没.
新しい!!: 16世紀とフェルナンド・アルバレス・デ・トレド · 続きを見る »
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I., 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)、オーストリア大公(在位:1521年 - 1564年)、ボヘミア王(在位:1526年 - 1564年)、ハンガリー王(在位:同)。 オーストリア系ハプスブルク家の祖であり、オーストリア、ドイツ、ボヘミア、ハンガリーを統治した。ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公とカスティーリャ女王フアナの間の次男で、皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の弟。スペインで生まれ、スペインで育ったグレーシング、p.
新しい!!: 16世紀とフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »
フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン(1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家である。1519年に始まる航海でスペイン船の艦船隊を率いた。マゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなったものの、彼が率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。 ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães )、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes, 名はエルナンドHernandoとも )。スペイン語圏・ポルトガル語圏以外の多くの国では Magellan と綴るのが一般的であるツヴァイク(1972)、p.12。 英名(Ferdinand Magellan )の発音は「マゲラン」「マジェラン」だが日本語では慣用的に「マゼラン」と呼びならわしている。これにならい、この項における呼称も「マゼラン」で統一する。.
新しい!!: 16世紀とフェルディナンド・マゼラン · 続きを見る »
フズーリー
フズーリー(فضولی Fużūlī, 1483年頃 – 1556年)はオスマン帝国の詩人。本名はムハンマド・ビン・スレイマン(محمد بن سليمان Muhammad bin Suleyman)。トルコ古典詩において最も名声・影響力のあった詩人であり、アゼルバイジャン・トルコ語(アゼルバイジャン語)、ペルシャ語、アラビア語という3つの異なった言語で詩を書いた。またオスマン語、チャガタイ語の文学にも長けていた。また、数学と天文学にも精通していた。.
新しい!!: 16世紀とフズーリー · 続きを見る »
ドナト・ブラマンテ
ドナト・ブラマンテ(Donato Bramante,1444年頃-1514年3月11日)はイタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家。ローマ建築を再構成して記念性を持った古典様式を創出し、以後の古典主義建築に絶大なる影響力を及ぼした。アンドレーア・パッラーディオをして「優れた建築を生んだ最初の建築家」と言わしめ、またセバスティアーノ・セルリオは、彼を「古代の建築を蘇らせた人物」と評した。.
新しい!!: 16世紀とドナト・ブラマンテ · 続きを見る »
ドミンゴ・デ・ソト
ドミンゴ・デ・ソト(Domingo de Soto / 1494年 - 1560年11月15日)は、ルネサンス期スペインの神学者・哲学者・法学者である。フランシスコ・デ・ビトリアと並ぶ16世紀サラマンカ学派の創設者として知られる。.
新しい!!: 16世紀とドミンゴ・デ・ソト · 続きを見る »
ドミニコ会
ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.
新しい!!: 16世紀とドミニコ会 · 続きを見る »
ドメニコ・フォンターナ
ドメニコ・フォンターナ(Domenico Fontana, 1543年 - 1607年6月28日)は、ルネサンス期のイタリアの建築家。.
新しい!!: 16世紀とドメニコ・フォンターナ · 続きを見る »
ドン・フアン・デ・アウストリア
ドン・フアン・デ・アウストリア(Don Juan de Austria, 1547年2月24日? - 1578年10月1日)は神聖ローマ皇帝カール5世(兼スペイン王カルロス1世)の庶子で、軍人。幼名はJerónimo(ヘロニモ)あるいはJeromínと呼ばれた。スペイン王フェリペ2世は異母兄にあたる。 なお、記事名のうち「ドン」はスペイン語における男性への敬称で、本来名前に含まないが、一般的に「ドン・フアン・デ・アウストリア」で知られることから、本項ではこれを記事名としている。de Austriaについてはd'Austriaと表記も見られる。.
新しい!!: 16世紀とドン・フアン・デ・アウストリア · 続きを見る »
ドイツ騎士団
ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.
新しい!!: 16世紀とドイツ騎士団 · 続きを見る »
ドイツ語
ドイツ語(ドイツご、独:Deutsch、deutsche Sprache)は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。 話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。 現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大(ヨーロッパ全土ではロシア語に次いで多い)であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。 しかし、歴史的にドイツ、オーストリアの拡張政策が主に欧州本土内で行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。上記の事情と、両国の大幅な領土縮小も影響して、欧州では非常に多くの国で母語使用されているのも特徴である。.
ドイツ農民戦争
ドイツ農民戦争(ドイツのうみんせんそう、Deutscher Bauernkrieg, German Peasants' War)は1524年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱。.
新しい!!: 16世紀とドイツ農民戦争 · 続きを見る »
ドクター・フー
- 『ドクター・フー』(Doctor Who)は、1963年からイギリスBBCで放映されている世界最長のSFテレビドラマシリーズである。.
新しい!!: 16世紀とドクター・フー · 続きを見る »
ニッコロ・マキャヴェッリ
ニッコロ・マキャヴェッリ(, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。 著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。.
新しい!!: 16世紀とニッコロ・マキャヴェッリ · 続きを見る »
ニコラウス・コペルニクス
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク 、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。 コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。.
新しい!!: 16世紀とニコラウス・コペルニクス · 続きを見る »
ニコロ・フォンタナ・タルタリア
ニコロ・フォンタナ・”タルタリア”(Niccolò Fontana "Tartaglia"、1499年または1500年-1557年12月13日)はイタリアの数学者、工学者、測量士。ヴェネツィア共和国の簿記係でもあった。アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し、数学関係の編集の分野で高く評価された。タルタリアは、史上初めて数学による大砲の弾道計算を行ったので弾道学の祖とされる。彼の研究は、後にガリレオ・ガリレイによる落体の実験により検証された。タルターリアとも。 なお後述するように「タルタリア」は生後につけられた渾名である。.
新しい!!: 16世紀とニコロ・フォンタナ・タルタリア · 続きを見る »
ホルムズ島
ホルムズ島(ホルムズとう、Hormuz Island, جزیره هرمز, )は、ペルシア湾のホルムズ海峡にあるイランの島。現代ペルシア語の発音に近づけてホルモズ島と呼ばれることもある。面積は約42平方キロメートル。 ペルシア湾、インド洋の海上交易における要衝に位置しており、14世紀に60㎞離れた本土側の港町ホルムズ (現バンダレ・アッバース) から、当時Jarunと呼ばれたこの島に新ホルムズが建設された。1515年、ポルトガルに占領された。1622年、サファヴィー朝のアッバース1世の治世下において、イギリス東インド会社の援助を受けてホルムズ島は奪回された。現在はイランのホルモズガーン州に属する。現在の島では約3000人ほどが生活している。.
新しい!!: 16世紀とホルムズ島 · 続きを見る »
ダヤン・ハーン
ダヤン・ハーン(Даян хаан、 Dayan Khan、1464年 - 1524年)は、モンゴルの第34代(北元としては第20代)大ハーン。長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させた。本名はバト・モンケ(Batu Möngke、Батмөнх)。明朝で編纂された漢文史料では大元大可汗や小王子、或いは達延汗と記されている。 ダヤン・ハーンはモンゴル中興の祖として称賛されており、モンゴルの諸王公はチンギス・カン(太祖テムジン)、セチェン・カーン(世祖クビライ)に次ぐ偉人としてダヤン・ハーンを位置づけている。現在のモンゴル国における「チンギス・カンの末裔」は大部分がダヤン・ハーンの流れをくんでいる。.
新しい!!: 16世紀とダヤン・ハーン · 続きを見る »
ダライ・ラマ
ダライ・ラマ (Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་, taa-la’i bla-ma) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。 ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。.
新しい!!: 16世紀とダライ・ラマ · 続きを見る »
ダライ・ラマ3世
ダライ・ラマ3世(1543年-1588年)は、第3代のダライ・ラマ。略名はスーナム・ギャツォ(ソナムギャムツォ)。 モンゴルのアルタン・ハーンは、青海へ遠征した際にチベット仏教に感銘を受けた。そして、青海でゲルク派の転生僧であるスーナム・ギャツォと面会し、転輪聖王号を授かった。一方で、スーナム・ギャツォはアルタン・ハーンから「ダライ・ラマ」という称号を贈られた(従って、彼はダライ・ラマ3世とされるが、この称号を用いた最初の人物である)。 この両者の結びつきは、13世紀のクビライ以来再びモンゴルでチベット仏教が盛んになる契機となり、アルタン・ハーンの死後も教典のモンゴル語訳が続けられるなど交流は続いた。.
新しい!!: 16世紀とダライ・ラマ3世 · 続きを見る »
ダビデ像 (ミケランジェロ)
ミケランジェロ作『ダビデ像』 ダビデ像(David di Michelangelo)は、ミケランジェロが1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した彫刻作品である。フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されている。.
新しい!!: 16世紀とダビデ像 (ミケランジェロ) · 続きを見る »
ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ
ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ(Bernal Díaz del Castillo, 1496年 – 1584年)は、『メキシコ征服記 (Historia verdadera de la conquista de la Nueva España)』の著者として知られるスペインのコンキスタドール。エルナン・コルテスにロデレロ(スペインの歩兵)として仕え、コルテスのメキシコ征服に参加した。.
新しい!!: 16世紀とベルナル・ディアス・デル・カスティリョ · 続きを見る »
ベルナール・パリッシー
Bernard Palissy. ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy, 1510年頃 - 1590年)は、フランス・ルネサンス期に活躍した陶工である。.
新しい!!: 16世紀とベルナール・パリッシー · 続きを見る »
ベンヴェヌート・チェッリーニ
ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini, 1500年11月3日 - 1571年2月13日)は、ルネサンス期イタリアの画家、金細工師、彫刻家、音楽家。奔放な「自伝」でも知られる。.
新しい!!: 16世紀とベンヴェヌート・チェッリーニ · 続きを見る »
切腹
切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.
刀狩
刀狩(かたながり、刀狩り)とは、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること。鎌倉時代の1228年(安貞2年)に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で「刀狩り」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、後に1242年(仁治3年)には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児、中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした。また1250年(建長2年)に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した。 戦国時代には諸大名によって行われている。天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。一般的には農民の帯刀を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られているが、実際には刀以外の武器所有は禁じられていない。 柴田勝家も、1575年(天正3年)から翌年にかけて越前国の一向一揆の鎮圧のために武器の奨励と没収を行ったことがあり後述する。.
嘉靖帝
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.
周防国
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
呻吟語
呻吟語(しんぎんご)は、中国の古典籍の一つ。著者は明代の哲学者・呂坤。呂坤が30年に及ぶ長年に亘って良心の呻きから得た所の修己知人の箴言を書き記し、収録した自己啓発の書。六巻本で、内篇・外篇に分かれ、全17章より成る。.
呂坤
呂 坤(りょ こん、1536年 - 1618年)は、中国・明代の大儒・哲学者。明の世宗の嘉靖15年生まれ。河南省寧陵の西北、沙随の出身。姓は呂、名は坤、字は叔簡。雅号に新吾(『明儒学案』では心吾)、抱独居士、去偽斎がある。万暦46年没。享年83。.
呉派
呉派(ごは)とは、中国明代中頃に形成された書画の一派である。呉門派ともいう。沈周・文徴明を祖とし、江南の蘇州(現在の江蘇省蘇州市)を中心に活動した。浙派と激しく対立し、明末に至ってこのライバルを退潮に導いた。 その画法は遥か遠く北宋の董源や巨然に淵源があり、南宗文人画の流れと轍を一としていると主張された。祖となった沈周や文徴明はともに元末四大家に師法し、その主張は評論家の何良俊、明末の董其昌や陳継儒によって体系化され清代になっても文人画の王道とされた。 呉派には多くの優れた名士が輩出された。沈・文に続き、文彭・文嘉・文伯仁・陳淳・王穀祥・陸治・銭穀などが現れ絶頂期に至り、以降も陸師道・陸士行・張堯思・徐弘澤・銭貢・宋珏・謝時臣・文震亨・米万鐘・卞文踰・李流芳などが活躍し永く隆盛した。沈・文が活躍する以前、彼らに画法が近く影響を与えた作家達がいた。これを特にプレ呉派と呼ぶことがある。元末から明初の趙原・王紱・夏㫤・徐賁・杜瓊・沈恒吉などである。 沈・文と同時期に蘇州で活躍した周臣・唐寅・仇英を院派と呼び謝時臣や張夢を含める場合もある。画法が南宋画院に遡られることから、日本において院派と命名されたが、浙派と呉派の中間的な位置づけにある。しかし、近似した画法もみられ、蘇州画壇として一括りに扱われる。 明末になると呉派の拠点は松江華亭県(現在の上海松江区)に移った。これは都市間の盛衰、蘇州のマンネリ化、董其昌による革新的な画論の登場などが重なった為である。殊に董其昌の画論の影響は大きく浙派を壊滅的に衰退せしめ、後進の画家達の指針となり現在に至ってもその絵画理論を超えるには至っていない。松江派(あるいは華亭派ともいう)の祖は顧正誼であるが、董其昌を代表に陳継儒や莫是龍などが活躍した。 以降、呉派は細かく諸流派に分裂し、上記の顧正誼の華亭派・四王呉惲の南宗正統派・趙左を祖とする蘇松派・沈士充の雲間派などの支流が現れた。しかし、いずれも伝統に囚われ創造性を発揮できず、エキセントリックな新興の作家達がそれに替わった。.
呉承恩
西遊記の早期の版本 呉承恩(ご・しょうおん、簡体字:吴承恩、ピンイン:Wú Chéng'ēn、1506年(正徳元年)頃 - 1582年(万暦10年)頃)は明代の中国の官吏、文人。字は汝忠、号は射陽山人。江蘇省淮安府山陽県の人。中国では魯迅が『中国小説史略』で記述してから、『西遊記』の著者として認められているが確証はなく、日本の太田辰夫や中野美代子らの反論がある。.
アナバプテスト
アナバプテスト(Anabaptist、再洗礼派、さいせんれいは)は、キリスト教において宗教改革時代にフルドリッヒ・ツヴィングリの弟子たちから分派した教派。 英語の"Anabaptist"は語源でいうと、anaはギリシャ語の ἀνά-(ana-, 再び)に、baptistは同じくギリシャ語の βαπτίζω(baptizo, 水に浸ける、浸す)に由来する。"re-baptizers"すなわち再洗礼派と訳された。ただし、この系統のうち現代ランドマーク・バプテストはバプテスマのヨハネと初代教会から続く正統性を主張している。.
新しい!!: 16世紀とアナバプテスト · 続きを見る »
アマゾン川
アマゾン川(アマゾンがわ、Rio Amazonas, Río Amazonas, 以前は Rio Orellana)は南米のブラジルとその周辺国の熱帯雨林(アマゾン熱帯雨林)を流れ、大西洋に注ぐ世界最大の河川である。数多くの巨大な支流を持ち、アマゾン川という名称はそれらの総称として用いられている。.
新しい!!: 16世紀とアマゾン川 · 続きを見る »
アムリトサル
アムリトサル (ਅੰਮ੍ਰਿਤਸਰ、अमृतसर、Amritsar)はインドの都市。パンジャーブ州に属する。人口は約100万人。アムリットサル、アムリッツァー(英語読み)とも表記される。 またサンスクリット語で「生命の水の貯水池」という意味がある。.
新しい!!: 16世紀とアムリトサル · 続きを見る »
アメリカ州
アメリカ州(アメリカしゅう、America/Americae、América、América、Amérique、Americas)は、南北の両アメリカ大陸、およびカリブ海やグリーンランドを含む周辺の島嶼・海域の総称。米州。 イタリア人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名に由来する地名。ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーによって1506年頃に命名された。.
新しい!!: 16世紀とアメリカ州 · 続きを見る »
アメリゴ・ヴェスプッチ
アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci, 1454年3月9日 - 1512年2月22日)は、アメリカ州を探検したイタリアの探検家にして地理学者。フィレンツェ生まれ。身長約160cm(5ft3in)。.
新しい!!: 16世紀とアメリゴ・ヴェスプッチ · 続きを見る »
アユタヤ王朝
アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。三番目の王家(1569-1629)は、スコータイ朝の王家の末裔である タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えた。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花した。.
新しい!!: 16世紀とアユタヤ王朝 · 続きを見る »
アルマダの海戦
アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(Spanish Armada、Grande y Felicísima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。 広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている小林幸雄は、本当ならば無敵であったはずという慨嘆と哀悼の意を題名に込めたのではないかとしている。。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicísima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶarmadaそのものはスペイン語の普通名詞で、これに相当する英語はnavyである。ただしヨーロッパの言語では、ある国独特の組織・地位などを半ば固有名詞的に指す場合には、その国の言葉をそのまま用いる習慣がある。Czar(ロシア皇帝)、Shogun(江戸幕府の将軍)など。。 なお、両国での暦が異なる(当時イングランドはまだグレゴリオ暦を採用していない)ため、記録上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ暦とイングランド側の旧暦(ユリウス暦)を併記する。.
新しい!!: 16世紀とアルマダの海戦 · 続きを見る »
アルバ公
アルバ公爵(西: Duque de Alba)は、スペインの公爵位。グランデの一つ。カスティーリャ王エンリケ4世によってガルシア・アルバレス・デ・トレドが叙位されたことに始まる。歴代の中でも第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドは軍人として著名で、単に「アルバ公」といった場合は彼を指す場合が多い。 1802年、13代アルバ公爵夫人カイエタナの死後、彼女の甥であるリーリア公爵カルロス(Carlos Miguel Fitz-James Stuart)が称号を継承した。リーリア公爵カルロスは、イングランド王ジェームズ2世と愛妾アラベラ・チャーチルの間の庶子、初代ベリック公爵ジェームズ・フィッツジェームズ(初代リーリア公爵でもある)の直系子孫にあたる。 現在のアルバ公爵およびアルバ家当主は、19代目のカルロス・フィッツ=ハメス・ストゥアルト・イ・マルティネス・デ・イルーホ(Carlos Fitz-James Stuart y Martínez de Irujo)である。.
アルブレヒト (プロイセン公)
1522年頃のアルブレヒト プロイセン公アルブレヒト(ルーカス・クラナッハ作、1533年) アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ(Albrecht von Brandenburg-Ansbach, 1490年5月16日 - 1568年3月20日)は、ドイツ騎士団の総長(在位:1510年 - 1525年)、後に初代プロイセン公(在位:1525年 - 1568年)。ブランデンブルク選帝侯アルブレヒト・アヒレスの四男であるアンスバッハ辺境伯及びクルムバッハ辺境伯フリードリヒと、ポーランド王カジミェシュ4世の娘ゾフィアの間の三男で、クルムバッハ辺境伯カジミール、アンスバッハ辺境伯ゲオルクの弟である。 1510年、ドイツ騎士団総長フリードリヒ・フォン・ザクセンが死去すると、時のポーランド王ジグムント1世の甥であることから、新たな総長に選ばれた。 1523年に支配下の騎士と共にルター派に改宗した。そして1525年、ドイツ騎士団国家に代えて、ホーエンツォレルン家が世襲する世俗の領邦であるプロイセン公国をポーランド王国の宗主権下に創設し、初代プロイセン公となった。.
新しい!!: 16世紀とアルブレヒト (プロイセン公) · 続きを見る »
アルブレヒト・デューラー
アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。同名の父・アルブレヒトは、ハンガリーからドイツ南部に移住してきたマジャル人金銀細工師である。.
新しい!!: 16世紀とアルブレヒト・デューラー · 続きを見る »
アルカセル・キビールの戦い
アルカセル・キビールの戦い アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcácer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。.
新しい!!: 16世紀とアルカセル・キビールの戦い · 続きを見る »
アルジェ
アルジェ(、)は、北アフリカ、アルジェリア民主人民共和国の首都であり、アルジェリア最大の都市である。西部地中海に面している。2010年の都市的地域の人口は335万人であり、世界の第90位、同国では第1位である。地中海の要塞として古くから発達した都市である。.
アルタン・ハーン
アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語:俺答汗、モンゴル語:Алтан Хаан、1507年 - 1582年1月)は、モンゴルを支配したハーン。ダヤン・ハーンの孫(在位:1551年 - 1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。.
新しい!!: 16世紀とアルタン・ハーン · 続きを見る »
アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)
アレッサンドロ・ファルネーゼ アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese, 1545年8月27日 - 1592年12月3日)は、スペインの軍人、第3代パルマ公およびピアチェンツァ公(在位:1586年 - 1592年)。父は第2代パルマ公オッターヴィオ、母は神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の庶子マルゲリータ。名は父方の曾祖父であるローマ教皇パウルス3世の本名に由来する。 母がネーデルラント17州の総督に選ばれるとブリュッセルへ移住、1565年にポルトガルのアヴィス王朝の王女ドナ・マリア(マリア・デ・ギマランイス)と結婚し、アルカラ大学で従弟のスペイン王太子カルロスと叔父ドン・フアン・デ・アウストリアと共に勉強した。その後、母がスペイン・ハプスブルク家の出身であることから、スペイン軍に就いて軍事的才能を発揮した。妻マリアは敬虔で夫への愛情が深く、教養豊かな女性だった。マリアがポルトガル王マヌエル1世の孫娘(ギマランイス公ドゥアルテの娘)であったため、マドリードの宮廷でも重きをなした。 1571年のレパントの海戦に参加、1578年から母方の叔父のスペイン王フェリペ2世よりネーデルラント総督を命じられ、1579年にアラス同盟を結んで南部10州をスペインに帰順させる功を立てた。ユトレヒト同盟で結束した北部7州との戦争(八十年戦争)では1582年にアウデナールデ、1584年から1585年にかけてアントウェルペン、ブリュッセルを落としてネーデルラントに迫った。しかし、1588年にフェリペ2世がイングランド遠征のためネーデルラントのスペイン軍を活用する方針に切り替えたためダンケルクで待機していたが、アルマダの海戦で無敵艦隊が敗北してネーデルラントへの攻撃は中止となった。 1589年にフランスでヴァロワ朝断絶後、カトリック同盟の貴族たちがブルボン家のアンリ4世の王位継承を認めず内乱(ユグノー戦争)になると、アレッサンドロはスペイン軍を率いてカトリック同盟の救援に向かったが、1592年、ルーアンにおいてアンリ4世の軍勢と交戦中に重傷を負い、アラスで死去した。 アレッサンドロはパルマ公であったが、公国の統治は息子ラヌッチョが摂政としておこなっていた。.
新しい!!: 16世紀とアレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公) · 続きを見る »
アレクサンデル6世 (ローマ教皇)
アレクサンデル6世(Alexander VI, 1431年1月1日 - 1503年8月18日)は、15世紀のローマ教皇(在位:1492年 - 1503年)。 本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)イタリア語名は正しくはボルジャのようになる。の名前で知られることになる。 ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。.
新しい!!: 16世紀とアレクサンデル6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
アンリ1世 (ギーズ公)
ーズ公アンリ1世 ギーズ公アンリ1世(1588年) ギーズ公アンリ1世(1570年) ギーズ公アンリ1世(Henri Ier de Guise, 1550年12月31日 - 1588年12月23日)は、16世紀フランスの貴族、ユグノー戦争期のカトリック派の中心人物、カトリック同盟のリーダー。ギーズ公フランソワと妃アンナ・デステの長男。.
新しい!!: 16世紀とアンリ1世 (ギーズ公) · 続きを見る »
アンリ2世 (フランス王)
アンリ2世(Henri II de France, 1519年3月31日 - 1559年7月10日)は、ヴァロワ朝第10代のフランス王(在位:1547年 - 1559年)。フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男。メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃とした。しかし、カトリーヌが嫁ぐ前から家庭教師であったディアーヌ・ド・ポワチエと長く愛人関係にあり、王妃とは不仲であったといわれる。.
新しい!!: 16世紀とアンリ2世 (フランス王) · 続きを見る »
アンリ3世 (フランス王)
アンリ3世(Henri III, 1551年9月19日 - 1589年8月2日)は、ポーランド最初の選挙王(在位:1573年 - 1575年)、およびヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 - 1589年)。アンリ2世の四男、母はカトリーヌ・ド・メディシス。フランソワ2世およびシャルル9世の弟。ポーランドではヘンリク・ヴァレジ(Henryk Walezy)と呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とアンリ3世 (フランス王) · 続きを見る »
アンリ4世 (フランス王)
アンリ4世(、1553年12月13日 - 1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 - 1610年5月14日)、およびナバラ国王エンリケ3世(、在位:1572年6月9日 - 1610年5月14日)。 ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。.
新しい!!: 16世紀とアンリ4世 (フランス王) · 続きを見る »
アン・ブーリン
アン・ブーリン(Anne Boleyn,1501年頃 - 1536年5月19日)は、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。父の代で名字の綴りを Bullen から Boleyn に変更したが、アン自身も Nan Bullen と呼ばれることがあった。 Nan はアンという名前の当時の愛称であり、日本語でもアン・ブリンと表記されることもある。父は駐仏大使、のちウィルトシャー及びオーモンド伯爵となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワード。.
新しい!!: 16世紀とアン・ブーリン · 続きを見る »
アントウェルペン
アントウェルペン州内のアントウェルペン行政区の位置 Stadhuis van Antwerpen) ルーベンスの三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物 アントウェルペン(,, )は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市(首都圏地域の人口を合わせればブリュッセル市が最大)。英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルス(アンベルス)も日本語の表記においてよく用いられる。2012年1月1日の総人口は502,604人。面積は204.51 km2, 人口密度は2,457.56人/km2である。.
新しい!!: 16世紀とアントウェルペン · 続きを見る »
アンブロワーズ・パレ
アンブロワーズ・パレ アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré, 1510年 - 1590年12月20日)は、フランスの王室公式外科医。近代外科の発展において重要な功績を残した。また、整骨術に関する著書はオランダ語訳を経て華岡青洲の手に渡り日本の外科医療に多大な影響を与えた。医学史家から「優しい外科医」と評され、自身も「我包帯す、神、癒し賜う」 (Je le pansai, Dieu le guérit.) という言葉を残しているまんが医学の歴史 茨木保著 医学書院発行 ISBN 978-4-260-00573-9。.
新しい!!: 16世紀とアンブロワーズ・パレ · 続きを見る »
アンデス文明
マチュ・ピチュ遺跡15世紀のインカ帝国の遺跡だが、当時、その首都だったクスコは、さらに千メートル程高い3,400mの標高に位置する。 アンデス文明(アンデスぶんめい)とは、1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない。その担い手は、1万2千年前に、ベーリング海峡を渡ってアジアから移動してきたモンゴロイド(黄色人種)の中の古モンゴロイドとされる。.
新しい!!: 16世紀とアンデス文明 · 続きを見る »
アンドレーア・パッラーディオ
アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508年11月30日 - 1580年8月19日)は、イタリア・パドヴァ生まれの建築家。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラ(Andrea di Pietro della Gondola)。.
新しい!!: 16世紀とアンドレーア・パッラーディオ · 続きを見る »
アンドレアス・ヴェサリウス
アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514年12月31日 ブリュッセル - 1564年10月15日 ザキントス)は、解剖学者、医師。人体解剖で最も影響力のある本、『』こと“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。ヴェサリウスは現代人体解剖の創始者といわれる。 「ヴェサリウス」は「ベサリウス」、「ウェサリウス」とも表記される。ヴェサリウスの名は、出典によってアンドレアス・ヴェサル (Andreas Vesal) やアンドレアス・ファン・ヴェセル (Andreas van Wesel) とも言われる。 かつてベルギーで発行されていた5000フラン紙幣に肖像が使用されていた。.
新しい!!: 16世紀とアンドレアス・ヴェサリウス · 続きを見る »
アンドレス・デ・ウルダネータ
アンドレス・デ・ウルダネータ(1498年 - 1568年6月3日)は、船員・探検家・聖アウグスチノ修道会の修道士。バスク人。フィリピンから太平洋を渡り、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)のアカプルコに至る航路を開拓し、この航路は「ウルダネータの航路」と呼ばれた。.
新しい!!: 16世紀とアンドレス・デ・ウルダネータ · 続きを見る »
アーニョロ・ブロンズィーノ
アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 - 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリア・フィレンツェの画家。本名はアーニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ・トーリ(Agnolo di Cosimo)。ブロンズィーノという愛称は、恐らく彼の髪の色であった「青銅」色を意味するイタリア語“ブロンゾ”に由来する。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。「愛の勝利の寓意」に代表される画風は、極めて知的・技巧的で洗練された美しさに満ちている。また、肖像画にも多数の優れた作品を残している。.
新しい!!: 16世紀とアーニョロ・ブロンズィーノ · 続きを見る »
アーグラ
アーグラ城塞 アーグラ城塞から眺めたタージ・マハル アーグラ(、 アーグラー、 アーグラ)はインドのウッタル・プラデーシュ州に属する都市。同州最大の都市で、2011年現在の人口は約157万。アーグラー、アグラとも表記する。世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラ城塞があることで知られる。.
アッバース1世
アッバース1世(1571年1月27日 - 1629年1月19日)は、サファヴィー朝の第5代シャー(在位:1588年 - 1629年)。第4代シャー・ムハンマド・ホダーバンデとハイルン・ニサー・ベーグムの子。アッバース大王と称される。.
新しい!!: 16世紀とアッバース1世 · 続きを見る »
アッバース朝
アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.
新しい!!: 16世紀とアッバース朝 · 続きを見る »
アトス山
アトス山( / )は、ギリシャ北東部・エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。その周辺は正教会の聖地となっており、「聖山」(、Holy Mountain)の名でも呼ばれる。アトス山周辺には現在20もの修道院が所在し、東方正教の一大中心地である。「アトス山」の名は、聖地となっている半島の全域や、修道士たちの共同体についても用いられることがある デイリー新潮 国際 2017年8月18日掲載 2017年9月1日閲覧。 ギリシャ共和国の領内ではあるが「聖山の修道院による自治国家」として大幅な自治が認められており、いわば「独立宗教国」ともいえる存在となっている。1988年にはユネスコによって世界遺産に認定された。.
アビラのテレサ
アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カスティーリャのアビラ(マドリードの北西53マイルのところにある)で生まれた。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。カトリック教会での祝日は10月15日。 信仰上、イエスのテレジア(スペイン語表記:Teresa de Jesús)としても知られる。ラテン語名テレジアの名の聖女がいま一人存在するので、リジューのテレーズを小テレジアと呼び、彼女を大テレジアとも呼ぶ。アヴィラの聖テレサとの表記もある。.
新しい!!: 16世紀とアビラのテレサ · 続きを見る »
アテナイの学堂
アテナイの学堂(アテナイのがくどう、Scuola di Atene)はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう By Horst Woldemar Janson, Anthony F. Janson 。.
新しい!!: 16世紀とアテナイの学堂 · 続きを見る »
アデン
アデン(Aden, )はアラビア半島南端、アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市。現在の人口は約59万人で、同国第2の都市である。1990年の南北イエメン統合まではイエメン人民民主共和国(南イエメン)の首都であった。.
アフォンソ・デ・アルブケルケ
アフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque、1453年 - 1515年12月16日)はポルトガルの植民地征服者。 1453年リスボンの廷臣の家に生まれ、1503年に一度インドへ赴いた。帰国後、ポルトガル王マヌエル1世の信任を得、1506年インド総督として16隻の艦隊を率いてリスボンを出発した。紅海入り口のソコトラ島、ペルシア湾のオルムズ島を占領した(ホルムズ占領 (1507年)も参照)。 1508年、マラバールで、初代インド総督フランシスコ・デ・アルメイダから地位を譲られた。 1510年カリカット攻撃に失敗した後北上し、当時イスラムのビジャープル王国の支配下にあったゴア島を一時占領するが、いったん引き上げ、11月に再びゴアを恒久占領した(ポルトガルによるゴア占領)。これ以後、ゴアはポルトガルのアジア支配の拠点としてインド総督あるいは副王の駐在地となる。 1511年にはマレー半島における香料貿易の中継地として繁栄していたマラッカ王国の占領に成功し、マラッカに1年滞在してポルトガルの東南アジアにおける拠点とする。その後もインド洋各地のイスラム港市攻撃に従事し、1515年12月16日海上で病死した。マヌエル王が、彼の個人的な敵ロペス・ソアレスを後任者として派遣したのに絶望したためである。.
新しい!!: 16世紀とアフォンソ・デ・アルブケルケ · 続きを見る »
アイルランド王国
アイルランド王国(アイルランドおうこく、Ríocht na hÉireann、Kingdom of Ireland)は、アイルランド島にあった王国(1541年 - 1649年・1660年 - 1800年)。終始イングランド王国(のちグレートブリテン王国)との同君連合の下にあったが、事実的にはイングランド王による自称であった。しかし1694年以降は実効支配下に置かれた従属国となった。 1541年、イングランド王ヘンリー8世が、形式的にはアイルランド議会の決議に基づき、それまでの称号であったアイルランド卿(Lord of Ireland)に代えてアイルランド王(King of Ireland)を自称したのが始まりとされている。これは、ローマ教皇の宗主権(名目上のものではあったが)の否定と統治権の正当性の新たな根拠の確立、そしてアイルランドの支配体制の抜本的な改革の意思表示といえるものであった。ただし、これはイングランド側からの一方的な宣言で、当時アイルランドを実際に支配していた有力諸侯たちはこれをすぐ認めたわけではない。しかし両国の勢力格差は歴然で、以後イングランドからの入植と支配の強化が進み、アイルランドはイングランドの植民地化していった。アイルランドがイングランドの勢力下に完全に置かれたのは護国卿時代(1649年 - 1660年)、1652年のオリヴァー・クロムウェルによる遠征以後で、さらにウィリアム3世の1694年のアイルランド遠征によって一応の完結となったのである。 ヘンリー8世以前にもエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)などアイルランド上王を称する人物はいたが、ヘンリー8世以後は歴代のイングランド王(のちにグレートブリテン王)がアイルランド王の称号を兼ねることとなった。 ジョージ3世の時代、1800年の合同法制定を経て、翌1801年にグレートブリテン王国と合同してグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立し、アイルランド王国は消滅した。.
新しい!!: 16世紀とアイルランド王国 · 続きを見る »
アウクスブルク
市庁舎(向かって右)とペルラハ塔(向かって左)はアウクスブルクを象徴する建造物である フッゲライ 市庁舎前のアウグストゥスの泉。街の創始者アウグストゥスの像 アウクスブルク(Augsburg, アレマン語:Augschburg(アウクシュブルク))は、ドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市である。.
新しい!!: 16世紀とアウクスブルク · 続きを見る »
アウクスブルクの和議
和議を記念して建設された教会。手前が新教のアフラ教会、後方がカトリックの聖ウルリッヒ教会 アウクスブルクの和議(アウクスブルクのわぎ、ドイツ語:Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)は、神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツ・中欧地域におけるルター派(プロテスタント)容認の決議である。アウクスブルクの宗教和議ともいう。 これによりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、一方ではカルヴァン派の信仰も認められなかった。また、個人の信仰は認められずに、信仰の選択はあくまで都市や領主が決定するものとした。このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。.
新しい!!: 16世紀とアウクスブルクの和議 · 続きを見る »
アウクスブルク信仰告白
アウクスブルク信仰告白(アウクスブルクしんこうこくはく、ドイツ語:Augsburger Konfession)は、ルター派教会が用いる信仰告白(信条)のひとつである。1530年にフィリップ・メランヒトンによってドイツのアウクスブルクで起草されたことからこの名がある。 このアウクスブルク信仰告白には原典ともよべる版と、カルヴァン、ツヴィングリなどとの対話の中で一致点を模索しようとしてメランヒトン自身によって改定された版の2種類があり、多くのルター派教会では、原典版である「改定されないアウクスブルク信仰告白」の方を信仰告白文書として採用している。.
新しい!!: 16世紀とアウクスブルク信仰告白 · 続きを見る »
アカプルコ
アカプルコ(Acapulco) は、メキシコ合衆国の太平洋岸のゲレーロ州にあるリゾート都市。正式名称はアカプルコ・デ・フアレス(Acapulco de Juárez)。.
新しい!!: 16世紀とアカプルコ · 続きを見る »
アクバル
アクバル(جلالالدین محمد اكبر, Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar, 1542年10月15日 - 1605年10月27日)は、北インド、ムガル帝国の第3代君主(在位:1556年 - 1605年)。アクバル1世(Akbar I)、アクバル大帝(اکبر کبیر, Akbar-e kabīr)とも呼ばれる。 アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央アジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させた。そのため、マウリヤ朝のアショーカ王に並び称されることもあり、大帝の称号を与えられている。 アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝のシェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。.
アクバル・ナーマ
#リダイレクトアクバル.
新しい!!: 16世紀とアクバル・ナーマ · 続きを見る »
アジア
アジア アジアの地図 東南アジア アジア(ラテン語: Asia古典ラテン語では「アシア」だが、現代ラテン語では「アジア」とも発音する。)は、世界の大州のひとつ。現在では一般的にヨーロッパを除くユーラシア大陸全般を指すが、政治的・経済的な立場の違いにより、様々な定義がなされる場合がある。亜州。 アッシリア語で東を意味する「アス」に語源をもつ。古代では現在の小アジアを指した。.
アストラハン・ハン国
アストラハン・ハン国は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川下流域、カスピ海北岸にあったトルコ(タタール)系の国家。首都はアストラハン。.
新しい!!: 16世紀とアストラハン・ハン国 · 続きを見る »
アステカ
アステカ(Azteca、: Aztēcah)とは1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah )、アコルワ、の3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。.
アタマン
アタマン、アタマーン(атаманアタマーン)は、コサック共同体で選出される指導者の称号。この称号は、14世紀頃に出現した。ウクライナ語では「отаман」(オタマーン)となる。従って、ウクライナのコサックに関してはオタマンあるいはオタマーンと書く方が適切である。.
アタワルパ
アタワルパ(Atahualpa、Atawallpa:幸福な鶏、1502年頃-1533年7月26日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。.
新しい!!: 16世紀とアタワルパ · 続きを見る »
インフレーション
インフレーション(inflation)とは、経済学においてモノやサービスの全体の価格レベル、すなわち物価が、ある期間において持続的に上昇する経済現象である。日本語の略称はインフレ。日本語では「通貨膨張」とも訳す。 反対に物価の持続的な下落をデフレーションという。.
新しい!!: 16世紀とインフレーション · 続きを見る »
インド
インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.
インド洋
インド洋(印度洋、インドよう、英:Indian Ocean、羅:Oceanus Indicus オーケアヌス・インディクス)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋の推定水量は292131000km³である。「インド洋」の名はインドに由来する。.
インカ帝国
インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた国。文字を持たない社会そして文明であった。 首都はクスコ。世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。 前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。 インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。 インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。.
新しい!!: 16世紀とインカ帝国 · 続きを見る »
イングランド
イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.
新しい!!: 16世紀とイングランド · 続きを見る »
イングランド国教会
イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、Church of England)は、16世紀のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。イギリス国教会(イギリスこっきょうかい)、英国国教会(えいこくこっきょうかい)、また「国教会」という訳語が不正確であるとしてイングランド教会(イングランドきょうかい)、英国聖公会とも呼ばれる。聖公会(アングリカン・チャーチ)という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。 もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のイングランド王ヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって、カトリック教会から分裂したため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長(、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。.
新しい!!: 16世紀とイングランド国教会 · 続きを見る »
インゴルシュタット
インゴルシュタット(Ingolstadt、バイエルン語:Inglståd)は、ドイツのバイエルン州のドナウ川沿いにある、郡独立市である。 語源は古代ラテン語のアウリポリス(Auripolis)を由来としている。.
新しい!!: 16世紀とインゴルシュタット · 続きを見る »
イヴァン4世
イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。.
新しい!!: 16世紀とイヴァン4世 · 続きを見る »
イブラーヒーム・ローディー
イブラーヒーム・ローディー(Ibrahim Lodi, 生年不詳 - 1526年4月21日)は、北インドのデリー・スルターン朝、ローディー朝の君主(在位:1518年 - 1526年)。.
新しい!!: 16世紀とイブラーヒーム・ローディー · 続きを見る »
イェルマーク
イェルマーク イェルマーク・チモフェーイェヴィチ(Ерма́к Тимофе́евич;1532年(1542年)‐1585年8月5日(6日))はコサックの頭領、シベリアの探検家である。彼のシベリア探検がその後のロシアのシベリア進出を招いたといわれている。ロシア民話の英雄。イェルマーク、エルマークとも。.
新しい!!: 16世紀とイェルマーク · 続きを見る »
イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル
ラビ・レーヴの像(プラハ市庁舎(Prague City Hall))イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル(יהודה ליווא בן בצלאל Judah Loew ben Bezalel 1525年 - 1609年8月22日)は、プラハのラビ(ユダヤ教の神父)で神秘思想家。ヘブライ語の略称ではマハラル מהר"ל(MaHaRaL: Moreinu ha-Rav Loew “我らの師ラビ・レーヴ”の略)とも呼ぶ。あとから作られたものだが、ゴーレム伝説の主人公としても著名である。 ポーランドのポズナニで、ユダヤ系の家庭に生まれたと伝わる。父ベザレルもラビで、家系はドイツのヴォルムスの出である。おじのヤコブは神聖ローマ帝国のReichsrabbiner(帝国ラビ)で、兄弟であるフリートベルクのハイムは有名なタルムード学者。伝統的にこの一族は(ゲオニームの時代の)バビロンの捕囚の子孫と伝えられており、したがってダビデ王朝の末裔と言われている。彼は、正式な教育をさまざまなイェシヴァで受けた。 父が事業に成功したので家庭は裕福だった。1553年、ニコルスブルクにてモラヴィアの首席ラビ Landesrabbiner に就任、これは地域社会の問題を扱うだけでなく、タルムードのどの論文を学ぶべきか決定する仕事でもあった。選挙や徴税にまつわる諸々の条例を改訂してもいる。1588年にモラヴィアの受持ちからは退いたが、この地では以後も永らく彼の権威が存続した。 非嫡出子に対する誹謗中傷を諫めるのもモラヴィアにおける彼の仕事の一つだった。こういった誹謗中傷(Nadler)が続くと、特定の家庭の子供が結婚相手を見つけられなくなる虞があったからである(当時の正統派ユダヤ教徒の社会では結婚がすべて見合いで決められていた)。この悪習慣(Nadler)はついには彼自身の家庭にまで被害を及ぼすようになったため、1583年、彼は一年に二度の大説教(ローシュ・ハッシャーナーとヨム・キプルの間におこなわれる)の片方を使って、この愚かな習慣を糾弾した。 1588年にプラハへ戻ると、前任者イサク・ハヨートの後を継いで再びラビに就任。ただちに、Nadlerに対する彼の見解を繰り返した。1592年2月23日、彼は兄弟のシナイや義理の息子のイサク・コーヘンともども皇帝ルドルフ2世を聴衆の一人に迎えて説教をおこなった。説教の内容は、そのとき皇帝が熱中していたカバラに関する話題だったようである。 1592年、ポーランドの主席ラビに選ばれて、ポズナニに移住する。この地では「Netivoth Olam」と「Derech Chaim」の一部分を著した。晩年三度プラハに戻り、ここで1609年に亡くなった。プラハに埋葬された彼の墓石は、今なお有名な観光名所となっている。 ファイル:Rabbi Löw Saloun.JPG|ラビ・レーヴの像(別の角度から) ファイル:Praha_Staronova_Synagoga.jpg|ラビ・レーヴのゴーレム伝説に縁のある ファイル:Loew-rabin-tombstone.jpg|ラビ・レーヴの墓石 Category:チェコ史の人物 Category:ユダヤ系チェコ人 Category:ユダヤ系ポーランド人 Category:ラビ Category:1525年生 Category:1609年没.
新しい!!: 16世紀とイェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル · 続きを見る »
イエズス会
イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.
新しい!!: 16世紀とイエズス会 · 続きを見る »
イギリス・ルネサンス演劇
イギリス・ルネサンス演劇(イギリス・ルネサンスえんげき、English Renaissance theatre)とは、ルネサンス期のイギリス、特に宗教改革から1642年の劇場閉鎖までのあいだに書かれた演劇作品のことである。一般にエリザベス朝演劇とも呼ばれるが、これは不正確な呼称である。イギリス・ルネサンス演劇には、ウィリアム・シェイクスピアをはじめとする多くの著名な劇作家の作品が含まれる。.
新しい!!: 16世紀とイギリス・ルネサンス演劇 · 続きを見る »
イギリス東インド会社
ユニオンジャックとなる イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。 当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。.
新しい!!: 16世紀とイギリス東インド会社 · 続きを見る »
イグナチオ・デ・ロヨラ
イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola、またはInigo Oinaz Loiola、バスク語:Ignazio Loiolakoa, 1491年10月23日もしくは12月24日 - 1556年7月31日)はカスティーリャ王国領バスク地方出身の修道士。カトリック教会の修道会であるイエズス会の創立者の1人にして初代総長。バスク人。同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。イグナチオは『霊操』の著者としても有名で、対抗改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。.
新しい!!: 16世紀とイグナチオ・デ・ロヨラ · 続きを見る »
イザベラ・デステ
イザベラ・デステ(Isabella d'Este、1474年5月18日 - 1539年2月13日)は、エステ家出身のマントヴァ侯妃。ルネサンス期イタリアの文芸、政治を代表する女性の一人である。 イザベラは16歳でマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚し、フランチェスコ2世の死後は、若年でマントヴァ侯位を継いだ嫡男フェデリーコ2世・ゴンザーガの摂政としてマントヴァを統治した。1500年にフランス王ルイ12世とミラノ公国で会談しフランスとマントヴァとの間に不可侵条約を結ばせることに成功するなど、当時のイタリア情勢で大きな政治的、外交的手腕を発揮した。 イザベラは芸術を庇護し、その最先端のファッションはイタリアのみならずフランス王宮の女性たちにも大きな影響を与えた。詩人ルドヴィーコ・アリオストは「自由闊達で高潔なイザベラ」と賞賛し、マッテオ・バンデッロ (en:Matteo Bandello) は「最高の女性」と評しているMarek, p.ix。さらに外交官ニッコロ・ダ・コレッジョはイザベラを「世界一のファーストレディ」と高く評価した 。.
新しい!!: 16世紀とイザベラ・デステ · 続きを見る »
イスマーイール1世
イスマーイール1世(شاه اسماعیل; アゼルバイジャン語: Şah İsmayıl, 1487年7月17日 - 1524年5月23日)は、16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者(在位:1501年 - 1524年)。イスマーイール1世の治世から、現在のイラン・イスラム共和国と周辺地域(アゼルバイジャン共和国とイラク共和国の一部)にシーア派の信仰が根付き始める。 即位後に、王(シャー)を地上における神の影と見なす古代ペルシアからの伝統にのっとり、「シャー・ハン・シャー(王の中の王)」の称号を名乗った。 また、イスマーイールはハターイー(Khatā'ī、خطائی、「罪人」の意)の筆名で多くの詩を作り、アゼルバイジャン語による文学の発展に大きく貢献した。.
新しい!!: 16世紀とイスマーイール1世 · 続きを見る »
イスタンブール
イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.
新しい!!: 16世紀とイスタンブール · 続きを見る »
イタリア
イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.
イタリア・ルネサンス年表
イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリア・ルネサンスの文化」に関する年表を示す。.
新しい!!: 16世紀とイタリア・ルネサンス年表 · 続きを見る »
イタリア戦争
イタリア戦争におけるイタリアの領土変更 イタリア戦争(イタリアせんそう、Guerre d'Italia、Guerres d'Italie)、またはイタリア大戦争(イタリアだいせんそう、Grandi Guerre d'Italia)、ハプスブルク・ヴァロワ戦争(Habsburg–Valois Wars)、ルネサンス戦争(Renaissance Wars)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。教皇領、、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年から1559年としてはいるが、戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。 ミラノ公国とナポリ王国の継承争いから始めたこの戦争は、やがて諸国を巻き込み、権力と領土を争うための戦争となり、数々の同盟、対抗同盟、裏切りが行われた。.
新しい!!: 16世紀とイタリア戦争 · 続きを見る »
ウルリヒ・フォン・フッテン
ウルリヒ・フォン・フッテン ウルリヒ・フォン・フッテン(Ulrich von Hutten、1488年4月21日 - 1523年8月29日)は、ドイツの著作家、思想家、人文主義者。宗教改革期にカトリック教会を激しく批判した。または、ウルリヒ・フォン・ハッテンという読み方もある。 現在のヘッセン州フルダ南西のシュテッケルベルク城(現在はシュリュヒテルン市に含まれる)生まれで、騎士身分であった。ドイツ・イタリアの大学で学んだ。ラテン語の詩を書き、1517年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世から桂冠詩人の称号を受けた。 ロイヒリン(:en:Johann Reuchlin、ヘブライ語研究を行ったためカトリック教会から異端の疑いをかけられた)を擁護し、同志とEpistolae obscurorum virorum(共著)を著した。この中で聖職者の偽善、腐敗、貪欲さなどを辛辣に批判した。 一時ルターを支持。また、フッテンの思想的影響を受け、反カトリック的な騎士階層がトリーア大司教領を攻撃した(トリーア大司教は選帝侯を兼ねていた)。しかし、カトリック支持の諸侯から反撃を受け敗退(騎士戦争、1522年 - 1523年)。フッテンはチューリヒのツヴィングリのもとに逃れるが、まもなく病死した。.
新しい!!: 16世紀とウルリヒ・フォン・フッテン · 続きを見る »
ウルワツ寺院
ウルワツ寺院の入り口 ウルワツ寺院(Pura Luhur Ulu Watu)は、インドネシア・バリ島のバドゥン半島南西端の海岸沿いに位置する寺院で、海の霊がまつられている。11世紀にジャワの僧ウンプ・クトゥランによって建立され、16世紀に高僧ダン・ヒャン・ニラルタが増築を行ったとされる重要な寺院。晩年のニラルタはウルワツに隠遁し、解脱に達したという。 ウルワツ周辺の絶壁 ウルワツ寺院の位置するバドゥン半島の海岸沿いは絶壁となっており、近くにはスルバン海岸がありサーフ・ポイントともなっている。ウルワツ寺院の入り口は、ガネーシャ像が脇を固めるアーチ状の門となっており、このなかでは、珊瑚の壁面一面に、バリ神話の聖獣がところせましに彫られている。内部の小院はヒンドゥー教徒しか立ち入ることが許されていない。日没時の境内で上演されているケチャ・ダンスも、その壮麗な舞台によってよく知られている。 Category:バリ島の寺院.
新しい!!: 16世紀とウルワツ寺院 · 続きを見る »
ウルビーノ
ウルビーノ(Urbino)は、イタリア共和国マルケ州北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約1万5000人の基礎自治体(コムーネ)。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都のひとつである。 山間部の小都市であるが、多くの文化遺産を擁する芸術の街として知られる。中世にはウルビーノ公国の首府であり、ルネサンス期にモンテフェルトロ家の下で最盛期を迎えた。ラファエロはこの都市の出身である。「ウルビーノ歴史地区」は1998年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.
新しい!!: 16世紀とウルビーノ · 続きを見る »
ウプサラ
ウプサラ (Uppsala ウップサーラ) は、スウェーデン中部の都市で、ウプサラ県の県都。人口は149,245人(2015年)で、スウェーデン第4位。北欧最古の大学であるウプサラ大学がある。.
ウダイ・シング2世
ウダイ・シング2世(Udai Singh II, 1522年8月4日 - 1572年3月3日)は、北インドのラージャスターン地方、メーワール王国の君主(在位:1537年 - 1572年)。.
新しい!!: 16世紀とウダイ・シング2世 · 続きを見る »
ウダイプル
ウダイプル(ヒンディー語: उदयपुर, 英語:Udaipur)は、インド北西部のラージャスターン州に属する都市である。ウダイプル県の行政庁所在地。アフマダーバードの北東約 200km、アラーヴァリー山脈南東部の標高約 750mの丘の上にあり、ピチョーラー湖に面する。北西インドとアラビア海とを結ぶ交通路上の要地を占める。公用語はヒンディー語、人口は約60万人(2014年)。ウダイプールと英語風に発音されることもある。 湖畔の宮殿都市であり、町並みは、白い建物の景観が美しく「ホワイト・シティ」とも呼ばれている。.
新しい!!: 16世紀とウダイプル · 続きを見る »
ウィリアム・ティンダル
ウィリアム・ティンダル(William Tyndale, 1494年あるいは1495年 - 1536年10月6日)は、聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳した人物。宗教改革への弾圧によりヨーロッパを逃亡しながら聖書翻訳を続けるも、1536年逮捕され、現在のベルギーで焚刑に処された。その後出版された欽定訳聖書は、ティンダル訳聖書に大きく影響されており、それよりもむしろさらに優れた翻訳であると言われる。実際、新約聖書の欽定訳は、8割ほどがティンダル訳のままとされる。 すでにジョン・ウィクリフによって、最初の英語訳聖書が約100年前に出版されていたが、ティンダルはそれをさらに大きく押し進める形で、聖書の書簡の多くの書を英訳した。.
新しい!!: 16世紀とウィリアム・ティンダル · 続きを見る »
ウィリアム・ギルバート (物理学者)
ウィリアム・ギルバート(William Gilbert またはWilliam Gylberde、1544年5月24日-1603年12月10日)は16世紀のイギリスの医師、物理学者、自然哲学者である。コペルニクスの地動説を早くから支持し、当時支配的だったアリストテレス哲学とそれに基づく学校教育を積極的に拒絶した。医師としての仕事のかたわら静電気、磁石の研究をおこなった。今日、主に著書 De Magnete (1600) で知られており、電気 (electricity) という言葉を作った1人とされている。また、versorium と名付けた回転する針のような検電器を発明しており、電気計測機器の祖とされている。 ギルバートの研究は、実験を用いた近代的な科学の先駆けとして、多くの科学者に多大な影響を及ぼし、電気工学や電気と磁気の父とされることもある。 なお、姓はギルバード (Gilberd) とされることもある。コルチェスターにある墓碑銘にはこちらの綴りで刻まれており、De Magnete の中の回想録的部分でもこの綴りが使われているし、コルチェスターには彼の名を冠した Gilberd School という学校もある。CGS単位系における、磁位・起磁力の単位ギルバートはウィリアム・ギルバートの名にちなんでいる。.
新しい!!: 16世紀とウィリアム・ギルバート (物理学者) · 続きを見る »
ウィリアム・シェイクスピア
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知る上での貴重な言語学的資料ともなっている。 出生地はストラトフォード・アポン・エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1612年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。「ヴィーナスとアドーニス」のような物語詩もあり、特に「ソネット集」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。 2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。 「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。「沙翁」と呼ばれることもある。.
新しい!!: 16世紀とウィリアム・シェイクスピア · 続きを見る »
ウィレム1世 (オラニエ公)
ラニエ公ウィレム1世 ウィレム1世(Willem I, 1533年4月24日 - 1584年7月10日)は、オラニエ公。八十年戦争勃発時の中心人物で、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主。ホラント州、ゼーラント州他の総督(在位:1572年 - 1584年)。「沈黙公」として知られているが、これは反乱直前の時期の旗幟を鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりであった。.
新しい!!: 16世紀とウィレム1世 (オラニエ公) · 続きを見る »
ウィーン
ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.
ウェールズ
ウェールズ(Wales、Cymru カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国(イギリスのカントリー)」(country)のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。.
新しい!!: 16世紀とウェールズ · 続きを見る »
ウォルターズ美術館
ウォルターズ美術館(The Walters Art Museum)は、メリーランド州ボルチモアにある美術館である。.
新しい!!: 16世紀とウォルターズ美術館 · 続きを見る »
ウグリチのドミトリー
ドミトリー・イヴァノヴィチ(Дмитрий Иванович, 1582年10月19日 - 1591年5月15日)は、ロシアのツァレーヴィチ、ウグリチ公。雷帝イヴァン4世とその7番目の妻マリヤ・ナガヤとの間の息子。 正教会の聖人でもあり、ウグリチのドミトリー(Дмитрий Углицкий、Dmitry of Uglich)とも呼ばれている。.
新しい!!: 16世紀とウグリチのドミトリー · 続きを見る »
ウズ・ルジアダス
『ウズ・ルジアダス』初版表紙 ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)はポルトガル最大の詩人と言われるルイス・デ・カモンイスによる叙事詩である。大航海時代におけるポルトガルの海外進出と栄光を、ホメーロスを模した雄大な作風で描く。初版の出版は、作者が東方航海から帰還して3年後の1572年。この作品はムーア人との戦争が激化する中で生まれた。 ユーラシア大陸最西端のロカ岬の碑文に刻まれた「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」という言葉は、この作品の第3詩20節から取られている。.
新しい!!: 16世紀とウズ・ルジアダス · 続きを見る »
エリザベス1世
リザベス1世(Elizabeth I、ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年4月3日(ユリウス暦1602/3年3月24日この部分のみ、日本語版Wikipedia表記ガイド本則に従う。本記事における暦日表記、および1602/3年という表記にした理由は、概要節末尾の※を参照のこと。))は、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝第5代ごく短期間在位したジェーン・グレイを加えれば第6代。にして最後の君主。 国王ヘンリー8世の次女。メアリー1世は異母姉。エドワード6世は異母弟。通称にザ・ヴァージン・クイーン(、「処女王」)、グロリアーナ(、「栄光ある女人」)、グッド・クイーン・ベス(、「善き女王ベス」)。.
新しい!!: 16世紀とエリザベス1世 · 続きを見る »
エリザベス朝
リザベス1世 エリザベス朝(エリザベスちょう、Elizabethan era)は、イングランド王国のテューダー朝のうち、特にエリザベス1世の治世期間(1558年 - 1603年)を指す時代区分である。しばしばイングランドの黄金期と呼ばれる。 対外的にはスペインの無敵艦隊を破るなど国威を示し、内政的にはプロテスタントとカトリックの対立を終息させ、国力を充実させた。これにより、芸術、文芸も栄え、イギリス・ルネサンスの最盛期となった。また、イギリス・ルネサンス演劇も賑わいを見せ、とりわけウィリアム・シェイクスピアによる従来の様式を打ち破った演劇は話題となった。 文学の分野で「エリザベス朝」という言葉が使用される場合、その後のジェームズ1世(1603年 - 1625年)およびチャールズ1世(1625年 - 1649年)の在位期間を含めることが多い。エリザベス1世の頃にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、現在に残る戯曲の多くを残した。シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている。 なお、テューダー朝の頃の建造物などは「テューダー様式」と呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とエリザベス朝 · 続きを見る »
エルナン・コルテス
初代エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ(Hernán Cortés de Monroy y Pizarro, 1485年-1547年12月2日)は、スペインのコンキスタドール。メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。 1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の表面に肖像が使用されていた。.
新しい!!: 16世紀とエルナン・コルテス · 続きを見る »
エルナンド・デ・ソト
ルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto, およそ1496年または1497年 - 1542年5月21日)はスペイン人探検家でコンキスタドール。現在のアメリカ合衆国の領地へ最初の白人の遠征隊を率いて、ミシシッピ川を白人として最初に発見した。 スペインのエストレマドゥーラ地方に生まれ、十代の後半にはペドラリアス・ダビラ知事の側で中央アメリカの征服に参加した。1530年代始めに南アメリカを征服したフランシスコ・ピサロの遠征隊にも加わり、インカの略奪品を占有し非常に裕福になった。1539年、デ・ソトは初期のスペインの植民地への最大の遠征に着手したほか、その大事業は、黄金と中国への道を探してアメリカ合衆国南東部一帯に及んだ。1542年に現在のアーカンソー州レイクヴィレッジのミシシッピ川の土手で死亡。.
新しい!!: 16世紀とエルナンド・デ・ソト · 続きを見る »
エル・エスコリアル修道院
王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院(おうりつサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルしゅうどういん、Monasterio de El Escorial)はスペイン、マドリッド郊外のサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルにある広大な宮殿、修道院、博物館にして図書館の複合施設である。サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルはマドリッドの北西45kmに位置する町(マドリッド県) である。.
新しい!!: 16世紀とエル・エスコリアル修道院 · 続きを見る »
エル・グレコ
ル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日)は、現在のギリシア領クレタ島、イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος、ラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、グレコの作品が多数展示されている。.
新しい!!: 16世紀とエル・グレコ · 続きを見る »
エルデネ・ゾー
ルデネ・ゾー( Erdene Zuu monastery、モンゴル語:Эрдэнэ Зуу)は、モンゴルで最古の寺院。1585年、アブタイ・サイン・ハーン により建設。 境内にある巨大な仏塔はソボルガン塔といい、堕落した僧侶たちを戒めるものといわれる。また、ラブラン・ゾーは18世紀に信者たちの寄進で完成した。 カラコルム近郊。世界遺産オルホン渓谷の一部。.
新しい!!: 16世紀とエルデネ・ゾー · 続きを見る »
エルサレム解放
『エルサレム解放』(エルサレムかいほう、原題 La Gerusalemme liberata)は、1581年に公刊された、イタリアの詩人トルクァート・タッソによる叙事詩である。 第1回十字軍に舞台をおき、ゴドフロワ・ド・ブイヨン率いるキリスト教騎士たちが、エルサレム奪取のためにムスリムと闘う様子を描いている。詩の構成としては、各8行の連が、長短様々な20編(カント)にまとめられている。『解放されたエルサレム』、『エルサレムの解放』等とも訳される。日本語版は鷲平京子によるものが出版されている(1993年に抄出版、2010年に完全版)。 本作品はイタリア・ルネサンスの空想的叙事詩の流れに位置づけられ、特に物語の構想や登場人物の類型については、アリオストの『狂えるオルランド』から直接借用している部分が少なくない。また、ホメロスやウェルギリウスの古典叙事詩に想を得た部分も見られる(特に包囲戦や戦闘場面の描写)。更に、実際にあったキリスト教徒とイスラム教徒の戦いという主題は、オスマン帝国がヨーロッパ東部に領土を拡張しようとしていた当時の読者に強く訴えるものとして、他の同時代作品にも見られる。 その一方で、自らの心と義務の間で引き裂かれる登場人物たちの葛藤を描いている点はタッソの独創によるところが大きい。武勇や栄誉と相容れない愛の描写こそが、本作品の叙情的表現の核となっている。同時に、歴史的主題を題材とすることによってはじめから決まった結末を持ち、無数の続編を生み出していくことはなかった、という点も、他のルネッサンスの叙事詩にはない本作品の特徴となっている。 愛や暴力、異国情緒等を描く『エルサレム解放』はヨーロッパ全土で大きな成功を収め、18世紀後半のフランス革命までの時期を中心に、さまざまな場面を題材にした絵画やオペラ、劇、バレエ等の芸術作品が数多く制作されている。.
新しい!!: 16世紀とエルサレム解放 · 続きを見る »
エンリケ2世
ンリケ2世(スペイン語:Enrique II)は、スペインの王の名。.
新しい!!: 16世紀とエンリケ2世 · 続きを見る »
エプタメロン
『エプタメロン』1894年版の挿し絵 『エプタメロン』(Heptaméron, 七日物語)は、フランス・ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、彼女の代表作である。表題から明らかな通り、ボッカッチョの『デカメロン』に触発されたものであり、同じように枠物語の形式を採っている。.
新しい!!: 16世紀とエプタメロン · 続きを見る »
エドマンド・スペンサー
ドマンド・スペンサー(Edmund Spenser, 1552年頃 – 1599年1月13日)はイングランドの詩人で、エリザベス1世の時代に活躍した。仕立て職人ジョン・スペンサーを父に生まれる。アイルランドに赴任していた時に反イングランド暴動に遭遇した。『妖精の女王』が最も有名な作品である。.
新しい!!: 16世紀とエドマンド・スペンサー · 続きを見る »
エドワード6世 (イングランド王)
ドワード6世(Edward VI, 1537年10月12日 - 1553年7月6日)は、テューダー朝のイングランド王(在位:1547年1月28日(戴冠は2月20日) - 1553年7月6日)。父はヘンリー8世。母は王の3番目の妃であるジェーン・シーモア。.
新しい!!: 16世紀とエドワード6世 (イングランド王) · 続きを見る »
エステ家
テ家(Este)は、中世以降のイタリアの有力な貴族の家系。学芸を重んじ、保護・発展に寄与したこと、美術の保護政策を実践したことでも知られる。.
エスファハーン
ファハーン(اصفهان; Eṣfahān) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する『西アジア』、108頁。日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される。 古くからの政治・文化・交通の拠点であり蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる。 町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク1979年のイラン革命でパフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁))などがある新市街のイマーム広場(王の広場)は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。 町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある『西アジア』、111頁。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている上岡『イラン』、291-293頁。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる。.
新しい!!: 16世紀とエスファハーン · 続きを見る »
エセー
『随想録』(ずいそうろく)もしくは『エセー』(Les Essais)は、フランスのモラリスト、ミシェル・ド・モンテーニュが107の随筆を集めて1580年に刊行した書物である。モンテーニュは随筆(エッセイ、エセー)という、特定の話題に関する主観的な短い文章の形式を発明したのであり、この書物はそのエセーを収めている。人間のあらゆる営為を断続的な文章で省察することによりモンテーニュは人間そのものを率直に記述しようとし、モラリスト文学の伝統を開いた。フランス語のessaiは「試み」や「企て」という意味である。.
オペラ
イタリア・ミラノにあるスカラ座。1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。 オペラ(イタリア語・英語: opera、フランス語: opéra、ドイツ語: Oper)は、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。歌劇(かげき)とも呼ばれる。.
オランダ
ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.
オラトリオ
ラトリオ(伊: oratorio, 羅: oratorium)は、1640年頃、イタリアで始まったクラシック音楽における楽曲の種類、ないし曲名の一つ。日本語では「聖譚曲」と呼ばれる。バロック音楽を代表する楽曲形式のひとつである。ラテン語オラトリオと、イタリア語やドイツ語、英語などを用いた俗語オラトリオがある。ラテン語オラトリオは17世紀にのみ見られる。.
新しい!!: 16世紀とオラトリオ · 続きを見る »
オラトリオ会
ラトリオ会(オラトリオかい)は、キリスト教の共同体の名称。.
新しい!!: 16世紀とオラトリオ会 · 続きを見る »
オラウス・マグヌス
ラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490年 - 1558年8月1日)は、スウェーデンの宗教家、歴史学者および地理学者。ゴート・ルネサンスに貢献した人物。.
新しい!!: 16世紀とオラウス・マグヌス · 続きを見る »
オルハン・パムク
ルハン・パムク(Orhan Pamuk, 1952年6月7日 - )はトルコの作家。現代トルコを代表する小説家であり、故郷の町イスタンブールを舞台に、トルコの西欧化の問題をポストモダニズムとも言われる前衛的な作風で描くことで知られる。2006年にノーベル文学賞を受賞し、トルコ人で初のノーベル賞受賞者となった。代表的な作品に『白い城』『わたしの名は紅(あか)』『雪』『無垢の博物館』など。.
新しい!!: 16世紀とオルハン・パムク · 続きを見る »
オプリーチニナ
プリーチニナ、オプリチニナ(опричнина アプリーチュニナ ローマ字表記:Oprichnina)は、ロシア・モスクワ国家の皇帝(ツァーリ)イヴァン4世が創設した制度。 1565年、イヴァン4世は国土をツァーリの私的な領地(オプリーチニナ)と公的な国土(ゼムシチナ、オプリーチニナ以外の貴族領)の二つに分割し、私的な領地オプリーチニナにおいて独裁権力を行使して従来の有力者である貴族らを弾圧した。 オプリーチニナとは「別個に設けられた財産」のことであり、イヴァン4世に忠実なエリート階級の親衛隊(オプリーチニキ)によって管理された。この財産にふくまれた地域の諸公・貴族らは処刑されたり、ゼムシチナに移住させられたりした。.
新しい!!: 16世紀とオプリーチニナ · 続きを見る »
オスマン家
マン家(オスマンけ、Osmanlı hanedanı)は、オスマン帝国の皇帝の家系として続いたテュルク系のヨーロッパ~アジアの皇帝家。13世紀末にアナトリア半島北東部を支配した初代オスマン1世に始まり、36代メフメト6世が廃位される1922年までオスマン帝国に君臨し、今日に至るトルコ人(オスマン人)を形成した。 かつてはオスマン部族(オットマン部族)と呼ばれることも多かったが、オスマンの名は遊牧部族的組織を脱してガーズィー(ジハードに従事するムスリム戦士)集団を率い、君侯国、帝国へと発展しはじめる基礎を打ち立てたオスマンベイ(オスマン帝国の建国者オスマン1世)に由来するため、適当な呼称ではない。現在、成員はオスマンオウル(オスマンの子の意味)という姓を名乗っているので、オスマンオウル家と呼ぶのが正式である。.
新しい!!: 16世紀とオスマン家 · 続きを見る »
オスマン帝国
マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.
新しい!!: 16世紀とオスマン帝国 · 続きを見る »
カナの婚宴
ナの婚宴(カナのこんえん: ラテン語: Nuptiae in Cana factae))は、イエス・キリストの最初の奇跡としてヨハネ福音書2章1-12節に書かれている。.
新しい!!: 16世紀とカナの婚宴 · 続きを見る »
カナダ
ナダ(英・、 キャナダ、 キャナダ、カナダ)は、10の州と3の準州を持つ連邦立憲君主制国家である。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。北アメリカ大陸北部に位置し、アメリカ合衆国と国境を接する。首都はオタワ(オンタリオ州)。国土面積は世界最大のロシアに次いで広い。 歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した。一連の過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された。1943年にケベック協定を結んだ(当時のウラン生産力も参照)。1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコ(BRINCO)という自然開発計画がスタートしている。結果として1955年と1960年を比べて、ウラン生産量は約13倍に跳ね上がった。1969年に石油自給国となる過程では、開発資金を供給するセカンダリー・バンキングへ機関投資家も参入したので、カナダの政治経済は機関化したのであった。 立憲君主制で、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。パワー・コーポレーションと政界の連携により北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟した。.
カナウジ
ナウジ(Kannauj)は、インドの都市。ウッタル・プラデーシュ州に属する。カーニャクブジャ(Kanyakubja)とも称される。古代から中世にかけて繁栄した北インドの古都。現在の人口は71,530人(2001年)。.
カバラ
バラ(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがある。 カバラはヘブライ語の動詞キッベール「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味する。カバラが登場する以前のゲオーニーム時代には、単に口伝律法を指す言葉として用いられた。したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられることになる。 カバラはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なる。本来のカバラは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。したがって、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったため、必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。しかし、キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる。.
カラブリア州
ラブリア州(Calabria)は、イタリア共和国南部に位置し、カタンザーロを州都する州である。州内で最多の人口を有する都市はレッジョ・ディ・カラブリア(レッジョ・カラブリア)。しばしば国土の形状がブーツに喩えられるイタリアの「爪先」にあたる地域で、南西にメッシーナ海峡を隔ててシチリア島がある。.
新しい!!: 16世紀とカラブリア州 · 続きを見る »
カルマル同盟
ルマル同盟(カルマルどうめい)は、1397年にデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間で締結された同盟(物的同君連合)。締結場所が現スウェーデンのカルマルであったので「カルマル同盟」と呼ばれる。 1523年のスウェーデン独立以後は、デンマーク=ノルウェー二重王国となった。二重王国以後の歴史的、法的な経緯は、「デンマーク=ノルウェー」を参照のこと。.
新しい!!: 16世紀とカルマル同盟 · 続きを見る »
カルメル会
ルメル会またはカルメル修道会(ラテン語:Ordo fratrum Beatæ Virginis Mariæ de monte Carmelo, 略称:O.C.)は、キリスト教、カトリックの修道会。男子カルメル会と女子カルメル会、および第三会と呼ばれる在俗者会がある。12世紀にパレスティナで起こり、現代でも世界中にその修道院がある。.
新しい!!: 16世紀とカルメル会 · 続きを見る »
カルロ・ボッロメーオ
カルロ・ボッローメオ カルロ・ボッローメオ (Carlo Borromeo、1538年10月2日アローナ - 1584年11月3日ミラノ) は、カトリックの聖人。聖カルロとも。聖名祝日は11月4日。 1538年イタリア北部のアローナで貴族のボッローメオ家に生まれる。1560年1月31日、母方の伯父にあたる教皇ピウス4世に任命され22歳で枢機卿となる。 1565年にはミラノ大司教となる。 ヨハン・ロットマイヤー絵、ウィーンカール教会) 1576年にミラノがペストの流行に見舞われたとき、ボッローメオは危険も出費も顧みず、患者の便宜を図り、死者の埋葬が行われるよう尽力した。ペストが猛威をふるう近隣の教区をすべて訪れ、患者に金を援助し必要な物資を配る一方、義務を果たそうとしない怠慢な者たち、特に聖職者を罰した。 1584年11月4日、ミラノで死去した。1610年11月1日に列聖された。 Category:イタリアの枢機卿 Category:カトリック教会の聖人 Category:ミラノの歴史 Category:1538年生 Category:1584年没.
新しい!!: 16世紀とカルロ・ボッロメーオ · 続きを見る »
カルロス (アストゥリアス公)
ドン・カルロス・デ・アウストリア(Don Carlos de Austria, 1545年7月8日 - 1568年7月24日)は、スペインの王太子、アストゥリアス公。父はスペイン王フェリペ2世、母はポルトガル王女マリア・マヌエラでその長男。フェリペ3世の異母兄にあたる。 なお、スペイン・ハプスブルク家がスイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域からドイツ南西部のバーデン地方を発祥とすることから、ドイツ語でカール・フォン・アストゥリエン(Karl von Asturien)と表記されることもある。.
新しい!!: 16世紀とカルロス (アストゥリアス公) · 続きを見る »
カルタ・マリナ
ルタ・マリナ(ラテン: Carta marina)とはオラウス・マグヌスが16世紀に作成した北欧の海図。高さ1.70メートル×幅1.25メートルの木版画であり、55×40センチメートルの原版9枚から刷られている。Carta marinaはラテン語で海図を意味する。北欧諸国の詳細な地形と地名が書かれた最初期の地図でもある。スカンディナヴィアを描いたこれよりも古い地図は、ヤコブ・ジーグラー、クラウディウス・クラヴァスによる2つが知られるのみである。.
新しい!!: 16世紀とカルタ・マリナ · 続きを見る »
カレー (フランス)
レー(、、西フラマン語: )は、フランス北部パ=ド=カレー県の都市。ドーバー海峡(カレー海峡)の海底を英仏海峡トンネルが通りイギリスのフォークストンと結んでいる。 前近代からグレートブリテン島と大陸ヨーロッパを結ぶ玄関口として重要視され、フェリー港や貿易港として栄えてきた。しかし、最近では40 km離れた位置にあるダンケルクにその役割を奪われつつある。.
新しい!!: 16世紀とカレー (フランス) · 続きを見る »
カンパネッラ
ンパネッラ、キャンパネラ、カムパネルラ、カンパネルラ、カンパネラ(wikt:campanella|Campanella) イタリア語で「(小さな)鐘」を意味する。.
新しい!!: 16世紀とカンパネッラ · 続きを見る »
カール5世 (神聖ローマ皇帝)
ール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。.
新しい!!: 16世紀とカール5世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »
カトリーヌ・ド・メディシス
トリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis、1519年4月13日 - 1589年1月5日)は、フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后成瀬治 『世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年)、フィリップ・エルランジェ 『聖バルテルミーの大虐殺』 (磯見辰典訳、白水社、1985年)、オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト 『カトリーヌ・ド・メディシス』(千種堅訳、中央公論社、1982年)、ジョルジュ・リヴェ 『宗教戦争』(二宮宏之、関根素子訳、白水社、1968年)はいずれもカトリーヌの称号として「母后」の用語を用いている。また、ジャン・オリユー 『カトリーヌ・ド・メディシス―ルネサンスと宗教戦争〈上下〉』( 田中梓訳、河出書房新社、1990年)は「王母」としている。。 1519年、イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Caterina di Lorenzo de' Medici)。 彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。 国内ではユグノー(フランスカルヴァン派の呼称)とカトリックの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した1572年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。シャルル9世はこの2年後に死去し、四男のアンリ3世が即位するが、内乱はカトリック陣営のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリとのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化する。1588年にアンリ3世は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺するが、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なくして死去した。カトリーヌの死の8ヶ月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。 芸術を愛好し、宮殿の造営や歌謡・演劇の分野で才能を発揮した。また、フランスの食文化の発展に貢献したともいわれるが(日本大百科全書、小学館)、証拠はなく、影響を与えていないと考える学者もいる。 イタリア出身ではあるが、その生涯の大半がフランス王族としての事跡であるため、便宜上、本項目ではフランス語読みの「カトリーヌ・ド・メディシス」で統一する。.
新しい!!: 16世紀とカトリーヌ・ド・メディシス · 続きを見る »
カトリック同盟 (フランス)
トリック同盟(かとりっくどうめい, La ligue catholique または La Sainte Ligue, La ligue)は、16世紀フランスのユグノー戦争期に形成されたカトリック側の同盟。かつてカトリックに対し、日本の歴史用語で「旧教」という言葉があてられたことがあるため、「旧教同盟」とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とカトリック同盟 (フランス) · 続きを見る »
カトリック教会
トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とカトリック教会 · 続きを見る »
カトー・カンブレジ条約
トー=カンブレジ条約(仏:Traités du Cateau-Cambrésis, 独:Frieden von Cateau-Cambrésis, 西:Paz de Cateau-Cambrésis)は、16世紀前半のイタリアを巡る戦争(イタリア戦争)を争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(オーストリア・スペイン)が1559年に結んだ講和条約。同年にスペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚したおかげで実現した。カトー=カンブレジは、フランス北部ノール県の町で、アンリ・マティスの生地でもある。 この条約でフランスはイタリアへの権利を放棄した。戦争に中立であったジェノヴァ共和国のコルシカ島にフランス・オスマン連合軍が占領していたのを返還させた。そしてミラノ・ナポリ・シチリア・サルデーニャ・トスカーナ西南岸がハプスブルク家の統治下となった。代わりにフランスはロレーヌを譲り受けた。ロレーヌにはカルヴァンの生地ノワイヨンが含まれた。 また、フィレンツェ公国のメディチ家はシエーナを獲得した。 メディチ家が登場する背景は締結後数世紀の世界情勢まで決定してしまった。ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策がメディチ家台頭へつながって、このスペイン・ドイツ・イタリア連合がイタリア戦争と宗教改革を並行させていた。1555年アウクスブルクの和議でカルヴァン派が否定された。翌年、カルヴァン派市民のいるネーデルラントがスペイン領となった。そして1559年にカトー・カンブレジ条約が成った。ほどなく、フランス内でカトリーヌ・ド・メディチがユグノー戦争の主因となった。 1559年の和平を機会にサヴォイア家と結婚したエマヌエーレ・フィリベルトは、7人の有力市民にコンパーニア・ディ・サンパオロという銀行をつくらせた。この銀行は対抗宗教改革を目的に設立され、1653年には息子カルロ・エマヌエーレ1世の庇護を受けてモンテ・ディ・ピエタをつくった。ハンブローズ銀行(現ソシエテ・ジェネラル)の会長だったチャールズ男爵が重役に入って、もう一つの宗教事業協会と呼ばれながら現代も活躍している。.
新しい!!: 16世紀とカトー・カンブレジ条約 · 続きを見る »
カビール
ビール(Kabīr, Kabīra, ヒンディー語: कबीर, グルムキー文字: ਕਬੀਰ,کبير. 1440年-1518年)は、インドの宗教改革者。.
カカオ
(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。学名の Theobroma はギリシャ語で「神 (theos)の食べ物 (broma)」を意味する。.
カザン
ン( ; )は、ロシア連邦・タタールスタン共和国の首都。ロシア語名に沿ってカザニともいう。ヴォルガ川(クイビシェフ湖)とカザンカ川の合流点に臨む商工業都市で、水上・陸上交通の要衝。タタール文化の中心であり、カザン・クレムリンをはじめとする多くの文化遺産やカザン大学などの教育機関が集積している。カザンの人口は1,105,289人(2002年全ロシア国勢調査)と、ロシア国内でも十指に入る規模の大都市である。モスクワからは東へ800km。.
カザン・ハン国
ン・ハン国 (カザン・ハンこく、Qazan xanlığı、Казанское ханство (Kazanskoe khanstvo)) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する小松「カザン・ハーン国」『ロシアを知る事典』、134頁。.
新しい!!: 16世紀とカザン・ハン国 · 続きを見る »
カシリク
リク(タタール語:Qaşlıq)、イスケル(İskär)またはシビル(Sibir)は中世(14~16世紀)の都市で、イルティシ川右岸、現トボリスクから19km南東に位置した。.
ガリレオ・ガリレイ
リレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。 パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。.
新しい!!: 16世紀とガリレオ・ガリレイ · 続きを見る »
ガリカニスム
リカニスム(Gallicanisme)とは、フランスのカトリック教会のローマ教皇からの独立、教皇権の制限を求める政治的、宗教的立場のことをいう(コトバンク)。教皇の権威を尊重しながらも、その至上権については異議を唱えた。語源は「ガリア」からきているガリアはフランスの古名。。イエズス会などのウルトラモンタニズムと対立した。.
新しい!!: 16世紀とガリカニスム · 続きを見る »
ガルガンチュワとパンタグリュエル
『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(ガルガンテュアとパンタグリュエル、Gargantua, Pantagruel)とは、フランス・ルネサンス期の人文主義者フランソワ・ラブレー(François Rabelais)が著した物語『ガルガンチュワ物語』『パンタグリュエル物語』のこと。 ガルガンチュワ(ガルガンチュア、ガルガンテュアとも)、パンタグリュエルという巨人の一族を巡る荒唐無稽な物語である。第二之書・第一之書はアルコフリバス・ナジエ(Alcofribas Nasier)という筆名(ラブレーのアナグラム)で、第三之書以降は本名で刊行した。1532-1552年に4巻までが出版された。ラブレーの死後に第5巻が刊行されたが、偽書説もある。 『ガルガンチュワ物語』の方が執筆・出版とも後だが、内容的にみて「第一之書」と呼び、『パンタグリュエル物語』を「第二之書」と呼ぶ。.
新しい!!: 16世紀とガルガンチュワとパンタグリュエル · 続きを見る »
ガレノス
レノス ピエール・ロッシュ・ヴィニュロンPierre Roche Vigneronによるリトグラフ(1865年、パリ) ガレノス(Γαληνός, 129年頃 - 200年頃)は、ローマ帝国時代のギリシアの医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった。なお、ラテン語ではクラウディウス・ガレヌス (Claudius Galenus) と呼ばれるが、「クラウディウス」に対応する名 (forename) はギリシャ語文献には見出されず、ルネサンス期以降の文献において見られるようになったものである。.
キャサリン・オブ・アラゴン
ャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。スペイン語名はカタリーナ・デ・アラゴン(Catalina de Aragón)。しばしばカタリナとも表記される。 ヘンリー8世との間に男児が誕生しなかったことから、離婚問題が生起し、イングランド国教会創設のきっかけとなった。 現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKと表記された。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、アントニア・フレイザーはヘンリー8世の他の王妃(キャサリン・ハワード、キャサリン・パー)との区別のため、意図的にCを採用している。.
新しい!!: 16世紀とキャサリン・オブ・アラゴン · 続きを見る »
キリシタン
リシタン(吉利支丹、Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。.
新しい!!: 16世紀とキリシタン · 続きを見る »
キリシタン大名
リシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。.
新しい!!: 16世紀とキリシタン大名 · 続きを見る »
キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
新しい!!: 16世紀とキリスト教 · 続きを見る »
キリスト教綱要
『キリスト教綱要』(Christianae Religionis Institutio)はジャン・カルヴァンの主著。 プロテスタント神学の最初の組織神学書である。1536年3月にバーゼルにおいてラテン語で執筆された。その後5度に渡って改訂増補され、1559年に出版された第5版が最終版となった。後世、この版をもって各国語に翻訳されてきたため決定版と呼ばれることもある。なお、初版本を除き、カルヴァンは『綱要』ラテン語版を出版すると必ずその後フランス語版を出版した。最終版のフランス語版は1560年に出版されている。.
新しい!!: 16世紀とキリスト教綱要 · 続きを見る »
ギリシャ
リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.
クリミア・ハン国
リミア・ハン国(クリム・ハン国とも。Qırım Hanlığı, Кримське ханство, Крымское ханство、1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。 クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。.
新しい!!: 16世紀とクリミア・ハン国 · 続きを見る »
クリシュナ
リシュナ(, 、)はヒンドゥー教の神である。ヒンドゥー教でも最も人気があり、広い地域で信仰されている神の1柱であり、宗派によってはクリシュナとして、あるいはヴィシュヌの化身(アヴァターラ)として(神自身)であるとみなされている。 初期のクリシュナ崇拝は神としての信仰でないもの、例えば信仰、信仰、信仰を含み、これらは早ければ紀元前4世紀までさかのぼることができるpp.540-42。.
新しい!!: 16世紀とクリシュナ · 続きを見る »
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
リシュナ・デーヴァ・ラーヤ(カンナダ語:ಶ್ರೀ ಕೃಷ್ಣ ದೇವರಾಯ, テルグ語:శ్రీ కృష్ణదేవ రాయలు, タミル語:கிருஷ்ணதேவராயன், 英語:Krishna Deva Raya, 1471年 - 1529年)は、南インドのヴィジャヤナガル王国、 トゥルヴァ朝の君主(在位:1509年 - 1529年)。クリシュナ・デーヴァラーヤ、クリシュナデーヴァラーヤとも表記される。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、その治世に王国はガジャパティ朝、ゴールコンダ王国、ビジャープル王国に輝かしい勝利をおさめたのみならず、経済的・文化的にも発展し、ヴィジャヤナガルに滞在していたフェルナン・ヌーネスやドミンゴス・パイスといったヨーロッパの旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られるほどであった。彼は文化の保護者であったが、彼自身もまた文人であり、多くの文学作品を残している。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは「カンナダ・ラージヤ・ラーマ・ラーマナ」(Kannada Rajya Rama Ramana, カンナダ帝国の主)、「アーンドラ・ボージャ」(Andhra Bhoja, アーンドラのボージャ)、「ムール・ラーヤラ・ガンダ」(Mooru Rayara Ganda, 三王の王)、といった称号を保持していた。一方、パイスの記録では、その称号は「王の中の王(ラージャーディラージャ)、インディア最大の領主の中の領主、三つの海と一つの大陸の領主」であった。.
新しい!!: 16世紀とクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ · 続きを見る »
クリスチャン2世 (デンマーク王)
リスチャン2世(Christian II,1481年7月1日 - 1559年1月25日)はデンマーク王・ノルウェー王(在位:1513年 - 1523年)、およびスウェーデン王(在位:1520年 - 1521年)。デンマーク王権の強化を図ったが、封建貴族・聖職者の反発にあい亡命に追い込まれた。カルマル同盟からの離脱を図るスウェーデンに対して強圧策をとり、ストックホルムの血浴と呼ばれる粛清を行ったことでかえって強い反発を招き、カルマル同盟を崩壊させた。.
新しい!!: 16世紀とクリスチャン2世 (デンマーク王) · 続きを見る »
クリストファー・マーロウ
リストファ・マーロウ(Christopher Marlowe、洗礼日1564年2月26日 - 1593年5月30日)は、イギリス(イングランド)の劇作家、詩人、翻訳家。大学才人。エリザベス朝時代に活躍。華麗な無韻詩(ブランクヴァース)で知られる。代表的戯曲は『フォースタス博士』(Doctor Faustus)、『エドワード2世』(Edward II)など。シェイクスピアに先がけて、エリザベス朝演劇の基礎を築いた人物の一人。(クリストファー・マーローなどとも表記される).
新しい!!: 16世紀とクリストファー・マーロウ · 続きを見る »
クリストファー・クラヴィウス
リストファー・クラヴィウスの肖像 クリストファー・クラヴィウス(Christopher Clavius, 1538年3月25日 - 1612年2月12日)は16世紀に活躍したドイツ出身の数学者、天文学者。名前は本名のクリストフ・クラウ(Christoph Clau、もしくはKristoph Klau)を英語式に表記したもの。イエズス会員にして当代随一の科学者で、グレゴリオ暦改暦委員会の中心人物であった。 ただし、グレゴリオ暦の(原形の)提案者は、アロイシウス・リリウス(:en:Aloysius Lilius)であり、彼の死後、1576年にその案を改暦委員会に提出したのはアロイシウスの弟であるアントニウス・リリウスである。.
新しい!!: 16世紀とクリストファー・クラヴィウス · 続きを見る »
クレメンス7世 (ローマ教皇)
レメンス7世(Clemens VII, 1478年5月26日 - 1534年9月25日)は、ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。.
新しい!!: 16世紀とクレメンス7世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
クレタ島
レタ島(Κρήτη / Kriti; Crete)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。 クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオ(イラクリオン)。.
クロアチア
アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.
新しい!!: 16世紀とクロアチア · 続きを見る »
クアウテモック
アウテモック(Cuauhtémoc, 1495年頃 - 1525年2月28日)は、アステカの第11代の君主(トラトアニ、在位1520年 - 1521年)。名の意味は「急降下する鷲」。エルナン・コルテスと戦った第9代の君主モクテスマ2世の従兄弟にあたる。.
新しい!!: 16世紀とクアウテモック · 続きを見る »
グラナダ
ラナダ(Granada)は、スペイン・アンダルシア州グラナダ県のムニシピオ(基礎自治体)。グラナダ県の県都である。 かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の首都だった。アルハンブラ宮殿が存在する。シエラネバダ山脈を源流とするヘニル川流域の「ベガ」と呼ばれる肥沃な平野を基盤にして栄えた。.
グル・ナーナク
ル・ナーナクのフレスコ画 グル・ナーナク(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ, 1469年11月5日 - 1539年9月7日)は、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。.
新しい!!: 16世紀とグル・ナーナク · 続きを見る »
グレゴリウス13世 (ローマ教皇)
レゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)は、第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。.
新しい!!: 16世紀とグレゴリウス13世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
グレゴリオ暦
レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.
新しい!!: 16世紀とグレゴリオ暦 · 続きを見る »
グレシャムの法則
レシャムの法則(グレシャムのほうそく)は、金本位制の経済学の法則のひとつで、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則である。一般には内容の要約「悪貨は良貨を駆逐する」で知られる。 「グレシャムの法則」という名称は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来する。これを19世紀イギリスの経済学者ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名、以後この名称で呼ばれるようになった。.
新しい!!: 16世紀とグレシャムの法則 · 続きを見る »
グアナフアト
アナフアト(スペイン語:Guanajuato)は、メキシコ・グアナフアト州の州都である。 人口約78,000人(2003年現在)。メキシコでも豊かな銀山に恵まれ、スペイン植民地時代の美しいコロニアル建築で有名である。歴史的な市街地と近辺の銀山はユネスコ世界遺産に登録されている。 グアナフアトという地名は先住民族のタラスコ族の言葉、「カエルのいる山がちな場所」 (Quanax-juato) が語源であるという説がある。 毎年10月から2週間かけて、国際セルバンテス祭が開かれ、市内にあるフアレス劇場や教会の階段を利用して、セルバンテスの戯曲の上演や、コンサートが催される。 また、映画『レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード』はここで撮影された。.
新しい!!: 16世紀とグアナフアト · 続きを見る »
グアダルーペの聖母 (メキシコ)
アダルーペの聖母(グアダルーペのせいぼ。Nuestra Señora de Guadalupe、Our Lady of Guadalupe)は、カトリック教会が公認している聖母の出現譚の一つであり、メキシコで最も敬愛されている宗教的シンボルである。.
新しい!!: 16世紀とグアダルーペの聖母 (メキシコ) · 続きを見る »
グジャラート・スルターン朝
ャラート・スルターン朝(グジャラート・スルターンちょう、グジャラーティー語:ગુજરાતની સલતનત、英語:Gujarat Sultanate)は、インドのグジャラート地方に存在したイスラーム王朝(1407年 - 1573年)。グジャラート王国、アフマド・シャーヒー朝、ムザッファル・シャーヒー朝とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とグジャラート・スルターン朝 · 続きを見る »
グスタフ1世 (スウェーデン王)
タフ1世(Gustav I, Gustav Eriksson Vasa, 1496年5月12日 - 1560年9月29日)はスウェーデン国王(在位:1523年 - 1560年)。ヴァーサ王朝の祖。.
新しい!!: 16世紀とグスタフ1世 (スウェーデン王) · 続きを見る »
ケルン大司教
ルン大司教(ケルンだいしきょう、Erzbischöfe von Köln)は、カトリック教会のドイツ、ケルン教区の首長、大司教である。 中世には寄進などによる膨大な領地をもち、領地からの収入および交易都市であるケルンからの財源収入により大きな経済力を持った。神聖ローマ帝国の選帝侯をつとめるなど、かつては世俗にも影響力を及ぼした。この状態は1803年の帝国代表者会議主要決議でケルン大司教領が世俗化されるまで続いた。三十年戦争では、その地位をフランス王国に脅やかされた。 2014年より、第95代の枢機卿が在任中。.
新しい!!: 16世紀とケルン大司教 · 続きを見る »
ゲラルドゥス・メルカトル
ラルドゥス・メルカトル(Gerardus Mercator, 1512年3月5日 - 1594年12月2日)は、16世紀ネーデルラントの地理学者。ほとんどの場合メルカトルの名で呼ばれるが、本名はゲラルト・デ・クレーマーまたはクレメル(Gerard De Kremer)である。地図の投影法であるメルカトル図法で知られる。 かつてベルギーの1000フラン紙幣にその肖像が描かれていた。.
新しい!!: 16世紀とゲラルドゥス・メルカトル · 続きを見る »
ゲルゲル王国
ゲルゲル王国は、インドネシア、バリ島にマジャパイト王国により建国された王国。ワトゥレンゴン王の時代に最盛期を迎えた。その後反乱を契機にバリ島を統一する力がなくなり、クルンクンに遷都し直系はクルンクン王国の王として君臨した。 もともとバリはクディリ王国と関係が深く、それゆえクディリの末裔ジャヤカトワンを滅ぼし台頭したマジャパイト王国に敵対していた。1343年マジャパイト王国の宰相ガジャ・マダに率いられた軍勢により支配されたが、マジャパイトに忠誠を誓わせる為、バリの統治者としてクディリ王国の子孫が派遣された。 クディリ王国の末裔ブラ−フマナ、ムプ・クレスナ・クパキサン第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンがバリに派遣され、サンプランガン(現・ギャニャール県サンプランガン)を都とした。さらに彼の第四子クトゥット・ングレシルが王となるとゲルゲルへ遷都した。次代の王スリ・ワトゥレンゴンの時代ゲルゲル王朝は最盛期を迎えるが、彼が亡くなると衰退していった。また、マジャパイト王国が滅ぼされるとジャワより亡命者がバリに入った。ダルム・ブクン、ダルム・サグニン、ダルム・ディマデと王が続き、ディマデ王の時に大臣グスティ・アグン・ディマデが二度に渡り謀反を起こす。1651年、の謀反では反乱軍の勢力が強く、王はグリアンへ逃亡し、失意のうちに世を去った。2人の王子はシデムンに隠され、彼らに協力する地方領主達により、グスティ・アグン・ディマデを打ち破った。このことにより、地方領主達がそれぞれ覇を唱える機会を与えバリを統一する力はすでになく、ゲルゲル王国は崩壊し、8つの王国に分立する時代に突入した。1710年、ディマデ王の遺児デワ・アグン・ジャンベにより、ゲルゲルの北によるクルンクンに遷都し、クルンクン王国が成立する。 Category:バリ島の歴史 Category:インドネシアの歴史 Category:かつて存在したアジアの国家.
新しい!!: 16世紀とゲルゲル王国 · 続きを見る »
コレージュ・ド・フランス
正面玄関 コレージュ・ド・フランス(Collège de France)は、フランスにおける学問・教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関。パリ・5区カルチェ・ラタン、マルスロ=ベルトラン広場にある。略称(記号)はCdF。 講義自体は公開されており、一般の人々が受講することができるため、形式的には「市民大学」的なものとなっている。試験や学位授与などもない。約50の講座があり、教授はフランス学士院とコレージュ教授団の推薦により任命される。 教授に選任されることはフランスの当該領域における最高の権威として位置づけられることを意味する。事実、当校の教授は年間十数回程度の講義以外の義務を負わず、テーマの選定を含め学問上の一切の自由が保障されており、報酬も高額である。.
新しい!!: 16世紀とコレージュ・ド・フランス · 続きを見る »
コレッジョ
『聖ヒエロニムスのいる聖母』 1527-28 パルマ国立美術館蔵 『ダナエ』 1530頃 ボルゲーゼ美術館(ローマ)蔵 アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ(, 1489年頃–1534年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。.
新しい!!: 16世紀とコレッジョ · 続きを見る »
コロンブス交換
ンブス交換 (Columbian Exchange) は、1492年から続いた東半球と西半球の間の植物、動物、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考の甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉。1492年のクリストファー・コロンブスの「新世界」への到達にちなみ、この名称が用いられる。 コロンブス交換の概念はアメリカの歴史学者アルフレッド・クロスビーによって提唱されたルース・ドフリース『食糧と人類:飢餓を克服した大増産の文明史』小川敏子訳 日本経済新聞出版社 2016年、ISBN 9784532169817 pp.122-130.
新しい!!: 16世紀とコロンブス交換 · 続きを見る »
コンラート・ゲスナー
ンラート・ゲスナー(Conrad Gesner, 1516年3月26日 – 1565年12月13日)は、スイスの博物学者、書誌学者。医学、神学をはじめとするあらゆる知識、古典語を含めた多言語に通じ、業績をあげた碩学である。著書『動物誌』全5巻 (1551-1558) は、近代動物学の先駆けとされる。植物学にも長け、イワタバコ科 (Gesneriaceae) の名称はゲスナーにちなむ。また、書誌学の基礎を築いたとされる『世界書誌』 (1545-55) を著し、書誌学の父と呼ばれる。世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け、北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している。ほかのアルファベット表記として Konrad Gessner, Conrad Gessner, Conrad Geßner, Conrad von Gesner, Conradus Gesnerus などがある。.
新しい!!: 16世紀とコンラート・ゲスナー · 続きを見る »
コンキスタドール
ンキスタドール()とは、スペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。.
新しい!!: 16世紀とコンキスタドール · 続きを見る »
コンコルダート
ンコルダート(Konkordat)あるいはコンコルダ(concordat)とは、カトリック教会の代表者であるローマ教皇と国家の間に国際法の形式に準じて結ばれる条約のこと。政教条約(せいきょうじょうやく)または単に協約と訳される野口洋二「コンコルダート」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館。「合意・協約・協定」を意味するラテン語の「コンコルダトゥム」(concordatum)に由来する。.
新しい!!: 16世紀とコンコルダート · 続きを見る »
コーチ (インド)
ーチ(マラヤーラム語:കൊച്ചി keācci、)は、インド南部のケーララ州の都市でインドの主要産業都市である。以前はコーチン(Cochin)と呼ばれた。 日本語表記としては、コチ、コッチとも。2011年現在の人口は60万人だが、都市的地域まで含んだ人口は212万人に達する。 南インドの重要な貿易港を有する。主要産業は観光、建設、肥料・化学など製造、造船等多岐にわたる。ケーララ州唯一の株式市場、南インド海軍司令部とインド最大規模の製油所がある。.
新しい!!: 16世紀とコーチ (インド) · 続きを見る »
コジモ1世
コジモ1世 コジモ1世(, 1519年6月11日 - 1574年4月21日)は、初代トスカーナ大公で、フィレンツェの名門メディチ家の1人。子はフランチェスコ1世。 メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)と、その妻でロレンツォ・デ・メディチの孫にあたるマリーアの間に生まれる。また、ルネサンス期の女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァの孫に当たる。1537年、フィレンツェ公アレッサンドロ(ローマ教皇クレメンス7世の庶子)が暗殺された後、18歳のコジモがフィレンツェ公を継ぐ。こうしてコジモ率いるフィレンツェ公国は神聖ローマ帝国ハプスブルク家の支援のもと、フィレンツェの中央集権体制を確立していく。 トスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世の神聖ローマ帝国側に組してスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領した。そして、1559年のカトー・カンブレジ条約によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。さらに1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に任じられここにトスカーナ大公国が成立した。 さらに海軍を創設した。この海軍は1571年のレパントの海戦にも参戦している。しかしスペインの警戒もあり、公国は完全には自立できなかった。コジモ1世の最大の功績は、首都フィレンツェの都市改造事業であり、現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げるのである。 ジョルジョ・ヴァザーリ、アニョロ・ブロンズィーノらを宮廷画家として迎える。有名なヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』はコジモに捧げられており、ブロンズィーノはコジモや妻エレオノーラなど一家の肖像を多く残した。 また、ミケランジェロの葬儀(1564年)を行った。コジモ1世の時代、再びフィレンツェでのルネサンス文化が花開いたといえる。 1562年、2人の子と妃エレオノーラ・ディ・トレドがマラリアで相次いで死去。これ以後、コジモ1世の晩年は悲劇とスキャンダルに見舞われる事となる。1569年、教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公となった。 晩年は半身不随となり、また再婚するが家庭的に恵まれなかった。トスカーナ大公は子のフランチェスコが継ぐ。 Category:フィレンツェ公 Category:トスカーナ大公 Category:メディチ家 Category:イタリア戦争の人物 Category:イタリア・ルネサンスの人物 Category:フィレンツェ出身の人物 Category:1519年生 Category:1574年没.
新しい!!: 16世紀とコジモ1世 · 続きを見る »
コゼンツァ
ンツァ(Cosenza)は、イタリア共和国カラブリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約6万9000人の基礎自治体(コムーネ)。コゼンツァ県の県都である。 古代からの歴史を有する都市で、西ゴート族の王アラリック1世は当地で没した。ナポリ王国のもとで1511年に設立されたアカデミア・コゼンティーナは、哲学と文学の研究で知られた、ヨーロッパ最古級の大学のひとつであった。現代においても、複数の博物館・美術館、劇場、図書館、カラブリア大学を擁する文化の中心地である。.
新しい!!: 16世紀とコゼンツァ · 続きを見る »
コサック
ック・ママーイ。コサックの理想像。 コサック(козак、哥薩克)は、ウクライナと南ロシアなどに15世紀以降に帝政ロシアの農奴制から逃亡した農民や没落貴族で形成された独特の軍事的共同体、またはその共同体の一員である。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などを行った。.
ゴーレム
ラビ・レーヴとゴーレム』ミコラーシュ・アレシュ、1899年。 ゴーレム(גולם, )は、ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形。「ゴーレム」とはヘブライ語で「胎児」の意味。 作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在。運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化する。 ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、土をこねて人形を作る。呪文を唱え、「אמת」(emeth、真理)という文字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成する。ゴーレムを壊す時には、「אמת」(emeth)の「א」( e )の一文字を消し、「מת」(meth、死んだ)にすれば良いとされる。 また、ゴーレムの体にはシェム・ハ・メフォラシュ(Shem-ha-mephorash)が刻まれる。シェム・ハ・メフォラシュとは、『旧約聖書』「出エジプト記」14章の第19節を縦書きで下から上に書き、その左に第20節を上から下に、その左に第21節を下から上に綴り、それを横に読んだ3文字の単語の総称であるとされる(ヘブライ文字で書くと、19、20、21節とも各々72文字になるため、3文字の単語が72語できる)。 プロイセン地方の伝承ではエリヤ・ヘルムとヤッフェという二人のラビがゴーレムを正式な礼拝の人数合わせに使おうと議論をした結果、彼らのゴーレムが見るものすべてに火を付け始め、簡単な命令すら理解できていなかった。 製造すると自然に巨大化するとされており、ある伝承では男がゴーレムを作ったが大きくなりすぎた為、額に手が届かなくなり止められなくなった。そこで男はゴーレムに自分の靴を脱がせるように命じ、ゴーレムがしゃがんだ時に額の文字を消した。その途端ゴーレムは大量の粘土となって男の上に崩れ落ち、男は圧死した。.
ゴア
ア (他).
ゴア州
ア州(コンカニ語:गोंय、マラーティー語:गोवा、Goa)は、インド西海岸の州である。16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領インドの一部であり、ポルトガルのアジアにおける拠点であった。.
ゴシック
ック (Gothic) は、もともと12世紀の北西ヨーロッパに出現し、15世紀まで続いた建築様式を示す言葉である。ゴティック、ゴチック(Gotik)とも表記される。 「ゴシック」は第一に建築様式を示す言葉として使われるが、この用語は絵画や彫刻など美術全般の様式にも適用される(ゴシック美術)。さらにゴシックの概念は、ゴシック時代(12世紀後半から15世紀)の美術のみならず哲学や神学、政治理論などの知的領域の様式にも適用され、精神史的文脈において「ゴシック精神」という概念が提唱されている。 今日のポピュラーカルチャーにおいてもゴシックという言葉は広く使われている。そこでゴシック的とみなされているものは、例えば闇、死、廃墟、神秘的、異端的、退廃的、色で言えば「黒」といったイメージである。そのような現在流布している多様なゴシックの表象は、歴史上ゴシックがもともと意味していたものとは必ずしも合致しない。総じてゴシックという言葉は多義的で曖昧であると言える。.
ザクセン君主一覧
ン君主一覧は、中世から近代にかけてドイツのザクセン公国及びザクセン王国の君主の一覧である。.
新しい!!: 16世紀とザクセン君主一覧 · 続きを見る »
シモン・ステヴィン
モン・ステヴィン ステヴィンが考案した小数 16世紀にステヴィンが製作した船 シモン・ステヴィン(、1548年 - 1620年)は、フランドル(現:ベルギー)ブルッヘ出身の数学者、物理学者、会計学者、オランダ軍主計将校ステヴィンはオランダ人である。。 イタリアの天文学者、哲学者、物理学者であるガリレオ・ガリレイよりも早く落下の法則を発見し、また、ヨーロッパで初めて小数を提唱したとして名高い。また、力の平行四辺形の法則の発見者としても名高い。.
新しい!!: 16世紀とシモン・ステヴィン · 続きを見る »
シャルル9世 (フランス王)
ャルル9世(Charles IX de France, 1550年6月27日 - 1574年5月30日)は、ヴァロワ朝第12代フランス王(在位:1561年 - 1574年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、フランソワ2世の弟、アンリ3世の兄である。.
新しい!!: 16世紀とシャルル9世 (フランス王) · 続きを見る »
シャー
ャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王の称号。古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に由来する。もともとイラン系の王の称号であったが、イスラーム時代以降はイラン系のみならずイラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク・モンゴル系の王侯でも称号や人名などに使われるようになった。また「シャーハンシャー」 شاهنشاه shāhan-shāh とはパフラヴィー語のシャーハーン・シャー šāhān-šāh 「šāh-ān(「王」の複数形)+šāh(王);"諸王の王"、"王の中の王"の意味」のアラビア語転写ないしアラビア語形である。.
シャイバーニー朝
ャイバーニー朝(シャイバーニーちょう、、、)は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国、ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝、とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。また、ホラズム地方のウルゲンチを首都とした政権もシャイバーニー朝であるが、こちらはウルゲンチのシャイバーニー朝、もしくはヒヴァ・ハン国と呼んで区別する。シャイバーン朝とも表記される。.
新しい!!: 16世紀とシャイバーニー朝 · 続きを見る »
シュマルカルデン戦争
ュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg)は、神聖ローマ帝国内において1546年7月10日に勃発し1547年5月23日にまで戦われた戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。.
新しい!!: 16世紀とシュマルカルデン戦争 · 続きを見る »
シュラフタ
ュラフタ、シラフタ、シュリャーフタ(ポーランド語:Szlachta;ルーシ語:Шляхта)は、ポーランド王国で法的特権参政権を持つ社会階級、ないしそこに所属する「貴族」。のちにその資格がポーランド・リトアニア連合、ポーランド・リトアニア共和国、ポーランド立憲王国のポーランド、リトアニア、ルーシ(ウクライナ・ベラルーシ)の各地方に拡大した。 伝統的に、シュラフタ階級になれた者は地主であったとされ、19世紀末まで政治的そして法的特権を交渉により獲得し維持していた。各シュラフタは貧富の差や職業上の上下関係はあるものの、平等な政治的権利を持っていた。 ポーランド・リトアニア連合におけるシュラフタは、古代ローマにおいて寡頭支配を行ったローマ市民と類似する。シュラフタは社会階級ではなく、どちらかといえばヒンドゥー社会のカースト制度におけるクシャトリヤのような世襲身分だった。便宜的に「ポーランド貴族」と呼ばれることもある。 シュラフタは国会(セイム)と元老院(セナト)を構成し、国会議員から選出・信任され国王によって任命される、首相に相当する大法官、および大元帥に相当する王冠領大ヘトマン(大法官と王冠領大ヘトマンはしばしば兼任された)、そして大法官が率いる、内閣に相当する評議会、および王冠領大ヘトマンが率いる(軍備の大半は非常設の)国会軍を設けていた。この貴族共和政の議会制度によってシュラフタは時にポーランド国王兼リトアニア・ルーシ大公をもしのぐ権力を持ち、立憲君主制を基礎としてそれを改革改良、あるいは時に改革改良の是非をめぐる激しい政治闘争を展開しながら中世から近世にかけての東欧の政治・文化に置いて大きな影響力を与えた。1918年のポーランド第二共和国成立時にシュラフタの制度は廃止された。.
新しい!!: 16世紀とシュラフタ · 続きを見る »
シラー
ラー.
シビル・ハン国
ビル・ハン国(シビル・ハンこく)は、15世紀から16世紀末まで西シベリアに存在した、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の系統に属すテュルク系国家。ジョチ・ウルスが分裂して、成立した4つの国のうちの一つ(ほかにカザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国)。.
新しい!!: 16世紀とシビル・ハン国 · 続きを見る »
シベリア
       シベリア連邦管区        シベリア        広義の(歴史的)シベリア シベリア(Siberia 、Сибирь )は、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域である。漢字表記で西比利亜又は西伯利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 一般的には極東分水嶺(サハ共和国東縁)より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域(極東ロシア)は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の共和国・自治管区は存在するが、独立国家は存在しない。主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ヤクーツクがある。広義のシベリアはさらに、エカテリンブルク、ハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。現在ではロシア語話者が人口の大半を占めるが、サハ語などのテュルク諸語や、ウラル語族に属する言語が多く分布している。.
シェール・シャー
ェール・シャー(ウルドゥー語:شیر شاہ سوری、Sher Shah、1486年 - 1545年5月22日)は、スール朝の創始者(在位:1539年12月 - 1545年5月22日)。一時期はムガル帝国を崩壊に追い込むほど圧倒し、今日のアフガニスタン、パキスタン、北インドを支配する帝国を築いた。自らを「真のスルターン」、「諸王の王」と称した。「トラの王」の名前も知られる。.
新しい!!: 16世紀とシェール・シャー · 続きを見る »
シクストゥス5世 (ローマ教皇)
トゥス5世(Sixtus V、1521年12月13日 - 1590年8月27日)は、16世紀後半のローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)。本名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)。教皇領の治安回復、ローマ教皇庁の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市ローマを現代に近い形に整備した。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。.
新しい!!: 16世紀とシクストゥス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »
シク教
金寺院 アムリトサルの黄金寺院とシク教徒 シク教(シクきょう、パンジャーブ語:ਸਿੱਖੀ、)は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。 世界で五番目に大きい宗教で、約3000万人の信者がいる。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。.
システィーナ礼拝堂
ティーナ礼拝堂(システィーナれいはいどう、Cappella Sistina)は、ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂。サン・ピエトロ大聖堂北隣に位置するその建物とともに、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ペルジーノ、ピントゥリッキオら、盛期ルネサンスを代表する芸術家たちが内装に描いた数々の装飾絵画作品で世界的に有名な礼拝堂である。とくにローマ教皇ユリウス2世の注文でミケランジェロが1508年から1512年にかけて描いた天井画と、ローマ教皇クレメンス7世が注文し、ローマ教皇パウルス3世が完成を命じた、1535年から1541年にかけて描いた『最後の審判』はミケランジェロの絵画作品の頂点とされている。 もともとバチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂を1477年から1480年にかけてローマ教皇シクストゥス4世が建て直させた建物で、その教皇名(Sisto IV)にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられた。この建て直し時には、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオらの芸術家たちが、一連の内装フレスコ壁画を手がけている。壁画に描かれているのは『旧約聖書』からの「モーセの生涯の物語」ならびに『新約聖書』からの「キリストの生涯の物語」と、歴代のローマ教皇の肖像画で、これらは1482年から1483年8月にかけて描かれた作品となっている。落成したシスティーナ礼拝堂で最初のミサを執り行ったのはシクストゥス4世だった。このミサは聖母被昇天に捧げられたもので、システィーナ礼拝堂を聖母マリアに奉献することを表明する式典でもあった。 シクストゥス4世以降、システィーナ礼拝堂は宗教的施設とローマ教皇執務室という二つの役割を果たしてきた。現在ではローマ教皇を選出する会議であるコンクラーヴェの会場としても使用されている。.
新しい!!: 16世紀とシスティーナ礼拝堂 · 続きを見る »
シサク
(Sisak、ドイツ語: Sissek, ハンガリー語: Sziszek, イタリア語: Siscia)は、クロアチア中央部の都市。シサク=モスラヴィナ郡の行政中心地。クパ川、サヴァ川、オドラ川の合流地点に位置し、首都ザグレブの南東57kmにある。.
ジャワ島
18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、, )は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。.
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ(伊:Giambattista della Porta 、1538年 - 1615年2月4日)は、ルネサンス期のイタリア、ナポリの博学者、医師である。中世の魔術師・錬金術師と近代の科学者との間の存在である。 裕福な家に生まれ、家庭で教育をうけた。1558年に出版された著者『自然魔術』には、実験を重視する近代の科学的方法の萌芽と言うべき多くの記述がある。例えば「カメラ・オブスクラ(画家用のピンホールのある暗室)のピンホールにレンズを用いると、像が鮮明になる」ことなどが記述されていた。ナポリで出版された『自然魔術』(ラテン語)は各国語に翻訳されてベストセラーとなった。1560年には自然科学の最初の学会ともいえるOstiosi(怠け者たちの会:Academia Secretorum Naturaeとも)を自宅に開き、科学実験を行ったが、時の教皇パウルス5世により禁止された。1563年に暗号解読術の著書を、1586年に『観相術』を出版した。文芸の分野でも20ばかりの悲劇・喜劇を創作し、後の人々に影響を与えた。 category:暗号研究者 Category:16世紀の学者 Category:イタリアの学者 Category:イタリアの光学技術者 Category:イタリアの医師 Category:イタリア・ルネサンスの人物 Category:ナポリ王国の人物 Category:1538年生 Category:1615年没.
新しい!!: 16世紀とジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ · 続きを見る »
ジャン・ボダン
ャン・ボーダン ジャン・ボダン(Jean Bodin、1530年 - 1596年)は、フランスの経済学者、法学者。ボーダンとも表記される。弁護士。.
新しい!!: 16世紀とジャン・ボダン · 続きを見る »
ジャン・カルヴァン
ャン・カルヴァン(Jean Calvin、1509年7月10日 - 1564年5月27日)は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(一)」法学会雑誌 49(2), 2009, 首都大学東京である。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。 カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。.
新しい!!: 16世紀とジャン・カルヴァン · 続きを見る »
ジャンボローニャ
ョバンニ・ボローニャの肖像」ヘンドリック・ホルツィウス画 ジャンボローニャ(Giambologna、1529年 - 1608年8月13日)は、後期ルネサンスまたはマニエリスムの彫刻家。生まれたときの名前はジャン・ブローニュ (Jean Boulogne)で、間違ってジョバンニ・ダ・ボローニャ (Giovanni da Bologna) またはジョバンニ・ボローニャ (Giovanni Bologna)と称されることもある。.
新しい!!: 16世紀とジャンボローニャ · 続きを見る »
ジャック・ルフェーヴル・デタープル
ジャック・ルフェーヴル・デタープル(Jacques Lefèvre d'Étaples, 1450年? - 1536年)は、16世紀に活躍したフランスの神学者、人文主義者である。聖書をフランス語に訳したことで知られる。ファーベル・スタプレンシス (Faber Stapulensis) というラテン語名もある。 フランスのピカルディー出身。パリ大学で学び、教師となった。古代哲学への関心から、ピコ・デラ・ミランドラの著作やヘルメス文書などフィレンツェのネオプラトニズムから影響を受けた。また聖書原典の研究を進め、カトリックの司祭として教会内部の改革を志していた。1521年頃からギヨーム・ファレルらとともに、パリ近郊にあたるモー(Meaux)司教区を拠点に改革運動を起こしたが、カトリック側から弾圧を受け、1525年にストラスブールへ逃れた。 この前後、新約聖書を1523年にパリで刊行し、旧約聖書を1530年にアントウェルペンで刊行した。 その後フランスに戻り、晩年はマルグリット・ド・ナヴァール(フランソワ1世の姉、アンリ4世の祖母にあたる)の保護を受けて過ごした。1534年、ルフェーヴルのもとをジャン・カルヴァンが訪れ、ギリシア語を学んだという。 その他、クザーヌスを敬愛し、クザーヌス全集を刊行した。ルフェーヴル自身はカトリックの信仰から離れなかったが、弟子の中にはプロテスタントになった人物も多い。 Category:カトリック教会の神学者 Category:フランスの神学者 Category:聖書翻訳者 Category:16世紀の学者 Category:ヴァロワ朝の人物 Category:ルネサンス・ユマニスト Category:1450年生 Category:1536年没.
新しい!!: 16世紀とジャック・ルフェーヴル・デタープル · 続きを見る »
ジャック・カルティエ
ャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491年12月31日 - 1557年9月1日)は、フランス・ブルターニュ地方サン・マロ出身のブルトン人探検家・北米への侵略者。セントローレンス湾とセントローレンス川岸にヨーロッパ出身者として初めて到達し、イロコイ族の言葉からその周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られる。 北米大陸へ3度の探検を行い、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口に到達、現在のケベックに上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いた。.
新しい!!: 16世紀とジャック・カルティエ · 続きを見る »
ジュネーヴ
ュネーヴ(Genève、Geneva)はスイス西部、レマン湖の南西岸に位置する都市(コミューヌ)。フランス語圏に属し、ジュネーヴ州の州都である。.
新しい!!: 16世紀とジュネーヴ · 続きを見る »
ジュゼッペ・アルチンボルド
ュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo、1526年 - 1593年7月11日)は、イタリア・ミラノ出身の画家。マニエリスムを代表する画家の1人とされる。 静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られる。.
新しい!!: 16世紀とジュゼッペ・アルチンボルド · 続きを見る »
ジョチ・ウルス
ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.
新しい!!: 16世紀とジョチ・ウルス · 続きを見る »
ジョルダーノ・ブルーノ
ョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる。.
新しい!!: 16世紀とジョルダーノ・ブルーノ · 続きを見る »
ジョルジョ・ヴァザーリ
ョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511年7月30日 - 1574年6月27日)は、イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。ミケランジェロの弟子。芸術家の列伝でも知られる。.
新しい!!: 16世紀とジョルジョ・ヴァザーリ · 続きを見る »
ジョルジョーネ
ョルジョーネ(Giorgione、1477年/1478年頃 - 1510年)は、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家。ジョルジオーネとも表記される。本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco) 。形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実にジョルジョーネの絵画であると見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。その人物像と作品の記録がほとんど残っておらず、ジョルジョーネは西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人となっている。.
新しい!!: 16世紀とジョルジョーネ · 続きを見る »
ジョン・ノックス
ョン・ノックス(John Knox、1510年 - 1572年11月24日)は、スコットランドの牧師、スコットランド宗教改革の指導者、長老派教会の創立者である。スコットランドのセント・アンドルーズ大学で教育を受ける。 ノックスはジョージ・ウィシャートなどの初期改革者の影響を受けて、スコットランド教会の改革に着手した。 彼は、1546年の教会と政治に関わる事件に巻き込まれる。キャンドル・ビートンの殺人事件と、スコットランド摂政の介入である。翌年フランス軍に捕えられ、19ヶ月間フランスの軍艦で奴隷として働かされるが、1549年に捕虜交換で釈放され、イングランドに追放された。 ノックスはそこで、イングランド国教会の牧師として、エドワード6世に仕えて、王室付属牧師となる。ここでイングランド国教会祈祷書の作成に影響を与えた。また彼はイングランドで最初の妻と出会い、結婚した。だがメアリー・チューダーが王位に就いてローマ・カトリックを再建したため、ノックスは大陸に亡命することになった。 ノックスは、最初ジュネーヴに滞在し、それからフランクフルトに移った。ジュネーヴでジャン・カルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得た。また彼は新しい礼拝式文も作成した。それはスコットランド宗教改革の教会において採用された。彼はジュネーヴを去ってフランクフルトのイギリス亡命者教会に向かうが、結局、礼拝観に関する相違のためにイングランド国教会と袂を別つ事になる。 ノックスはスコットランドに帰還し、スコットランド宗教改革を導いた。彼は、スコットランドのプロテスタント貴族と協力関係にあった。この宗教改革運動は、革命とも言い得る。 ノックスは、スコットランド信条を作成し、改革派の教会を建て上げた。スコットランド女王メアリー・スチュアートの治世下で、プロテスタント宗教改革の指導者としての働きを続けたのである。ノックスはメアリー・スチュアートと何度も会談し、ローマ・カトリックの習慣をやめるように諭した。 ノックスは最後の日まで御言葉の説教をし続けた。.
新しい!!: 16世紀とジョン・ノックス · 続きを見る »
ジョン・ディー
ョン・ディー(、1527年7月13日 - 1608年または1609年)は、イギリス・ロンドン生まれの錬金術師、占星術師、数学者。.
新しい!!: 16世紀とジョン・ディー · 続きを見る »
ジョン・フィッシャー
ジョン・フィッシャー、ハンス・ホルバイン画 ジョン・フィッシャー(John Fisher, 1469年 - 1535年6月22日)は、イングランドの聖職者。カトリック教会・聖公会で聖人。 イングランドのビヴァリーで生まれる。ケンブリッジ大学で学び、人文主義的教養を身につけた。1501年にケンブリッジ大学副総長、1503年に神学教授、翌1504年には総長に就任した。また同年、イングランド王ヘンリー7世によりロチェスターの司教に命じられた。 フィッシャーが大学を指導した時代は学問研究が盛んであり、1505年にヘンリー7世の母マーガレット・ボーフォートの支援でクライスツ・カレッジ、1511年にはセント・ジョンズ・カレッジがそれぞれ設立された。また、人文学者エラスムスを同大学へ招いたのも彼であった。 ヘンリー8世の離婚問題が生じた時、トマス・モアと共に離婚に反対した。また、王がローマ教皇を頂点とする教会から分離して自らを首長とするイングランド国教会の設立をしようとした時も反対の立場を貫いた。そのため、ロンドン塔に反逆者として監禁された。 獄中、ヘンリー8世が再度、国教会の首長として自分を認めるよう強要したにもかかわらず、フィッシャーは強固に応じなかったため王の怒りを買い、斬首刑に処された。首はロンドン橋上で晒され、遺体はロンドン塔内に葬られた。ローマ教皇パウルス3世により、枢機卿に叙任する通知がイングランドに届いた直後の処刑だった。 1886年、モアと同時に教皇首位権援護の殉教者として列福され、死後400年の1935年には、モアと共に列聖され聖人となった。 Category:イングランドの枢機卿 Category:テューダー朝の人物 Category:カトリック教会の聖人 Category:聖公会の聖人 Category:キリスト教の殉教者 Category:ルネサンス・ユマニスト Category:刑死した人物 Category:1469年生 Category:1535年没.
新しい!!: 16世紀とジョン・フィッシャー · 続きを見る »
ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ
ョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家である。一般に「パレストリーナ」と呼ばれるが、ジョヴァンニが名、ピエルルイージが姓。パレストリーナは後述のように生地である。カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」ともいわれる。.
新しい!!: 16世紀とジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ · 続きを見る »
ジェロラモ・カルダーノ
ェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501年9月24日 - 1576年9月21日)は、16世紀のイタリアの人物。ジローラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano)との表記もある。 ミラノで生まれ、ローマで没した。一般に数学者として知られている。本業は医者、占星術師、賭博師、哲学者でもあった。.
新しい!!: 16世紀とジェロラモ・カルダーノ · 続きを見る »
ジェームズ1世 (イングランド王)
ェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。.
新しい!!: 16世紀とジェームズ1世 (イングランド王) · 続きを見る »
ジェーン・グレイ
ェーン・グレイ(Jane Grey、1537年10月12日? - 1554年2月12日)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位:1553年7月10日 - 19日)。異名に九日間の女王(ここのかかんのじょおう、)がある。 数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、今日のイギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている。 父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。母方の祖母がヘンリー8世の妹でプロテスタントのメアリー・テューダーだったことがジェーンの王位継承権の根拠となった。.
新しい!!: 16世紀とジェーン・グレイ · 続きを見る »
ジグムント2世
ムント2世アウグスト(Zygmunt II August, 1520年8月1日 - 1572年7月7日)はポーランド王、リトアニア大公(在位1548年 - 1572年)。ジグムント1世の長男、母はボナ・スフォルツァ。.
新しい!!: 16世紀とジグムント2世 · 続きを見る »
ジグムント3世
ムント3世(Zygmunt III、1566年6月20日 - 1632年4月19日)はポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1587年 - 1632年)、ヴァーサ朝第4代のスウェーデン王(在位:1592年 - 1599年)。スウェーデン王ヨハン3世と、王妃でポーランド王ジグムント1世の娘カタジナの長男。スウェーデン王としてはシギスムンド(Sigismund)と称される。.
新しい!!: 16世紀とジグムント3世 · 続きを見る »
ジズヤ
ヤ(jizya または jizyah、アラビア語: جزْية、トルコ語:cizye)は、イスラム諸王朝における人頭税。.
スペイン
ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.
スペイン帝国
'''黄金の世紀'''におけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年-1640年) スペイン帝国(スペインていこく、)は、スペインとその植民地・属領などの総称である。カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国がナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した1492年以降、1898年の米西戦争に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間を指す。「帝国」の名称はその広大な統治領域に由来する(共和制のもとでのローマ帝国のごとし)。君主号(皇帝)とは無関係である。1868年から1874年は革命政権の支配の下で、国王は空位となり、やがて共和制に移行した。 とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de Oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。.
新しい!!: 16世紀とスペイン帝国 · 続きを見る »
スルターン
ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.
新しい!!: 16世紀とスルターン · 続きを見る »
スレイマン1世
レイマン1世(,, I. Süleyman.、 1494年11月6日 - 1566年9月7日)は、オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年 - 1566年)。9代皇帝セリム1世の子。 46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしばスレイマン大帝と称される。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー、, Kanuni)」のあだ名で知られている。 名前のスレイマン(Süleyman)とは、ユダヤ教やキリスト教と共にイスラム教でも聖典とされる旧約聖書に記録された古代イスラエルの王、「ソロモン王」のアラビア語形である「スライマーン」(سليمان, Sulaymān)のトルコ語発音である。 またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれにバヤズィト1世がアンカラの戦いでティムールに敗れた直後にエディルネで君臨したバヤズィト1世の長男スレイマン・チェレビーを1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。.
新しい!!: 16世紀とスレイマン1世 · 続きを見る »
スレイマニエ・モスク
レイマニエ・モスク (Süleymaniye Camii) は、オスマン帝国の旧都イスタンブールにあるモスク。1557年完成で、オスマン建築(トルコ建築)の最高傑作のひとつと言われる。イスタンブールの旧市街にある7つの丘のひとつの頂上に位置する。スレイマン・モスクともいう。.
新しい!!: 16世紀とスレイマニエ・モスク · 続きを見る »
スロベニア
ベニア共和国(スロベニアきょうわこく、Slovenija: )、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で 、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。.
新しい!!: 16世紀とスロベニア · 続きを見る »
スール朝
ール朝とは、1539年から1555年の間にかけて、北インドを支配したインドの王朝である。王朝を創始したのは、ビハール南部を根拠地においていたシェール・ハーン・スーリー(即位後シェール・シャー)である。デリー・スルターン朝のひとつに数える研究者もいる。.
スーフィズム
ーフィーの回旋舞踊 スーフィズム(صوفية, )とは、イスラム教の神秘主義哲学である。.
新しい!!: 16世紀とスーフィズム · 続きを見る »
ストラスブール
トラスブール(仏・Strasbourg ストラズブールアルザス語:Schdroosburiシュトロースブーリ、アレマン語:Strossburiシュトロースブリ、Straßburg シュトラースブルク)は、グラン・テスト地域圏の首府である。バ=ラン県の県庁所在地でもある。 フランス北東部の、ライン川左岸に位置する。河川港を抱える交通の要衝である。対岸にはドイツの都市ケールが存在するが、シェンゲン協定によってパスポートチェック無しで自由に行き来できる。2007年6月10日にはTGV東ヨーロッパ線が開業し、パリ東駅と2時間20分で結ばれた。.
新しい!!: 16世紀とストラスブール · 続きを見る »
ストックホルムの血浴
トックホルムの血浴 ストックホルムの血浴(デンマーク語:Stockholms blodbad)とは、デンマーク王クリスチャン2世が1520年に行なったスウェーデン人に対する処刑ないし粛清である。.
新しい!!: 16世紀とストックホルムの血浴 · 続きを見る »
ステファン・バートリ (ポーランド王)
テファン・バトルィまたはバートリ・イシュトヴァーン(ポーランド語表記:Stefan Batory;ハンガリー語:Báthory István;ルーマニア語:Ştefan Báthory, 1533年9月27日 - 1586年12月12日)は、トランシルヴァニア公国の統治者(在位:1571年 - 1586年)、後にポーランド・リトアニア共和国の女王アンナ・ヤギェロンカの共同統治王(在位:1576年 - 1586年)。ハンガリーの大貴族バートリ家のソムリヨ系統出身。多くの歴史家に最も優れた選挙王と評価されている。.
新しい!!: 16世紀とステファン・バートリ (ポーランド王) · 続きを見る »
ステガノグラフィー
テガノグラフィー(steganography)とは、データ隠蔽技術の一つであり、データを他のデータに埋め込む技術のこと、あるいはその研究を指す。クリプトグラフィー(cryptography)がメッセージの内容を読めなくする手段を提供するのに対して、ステガノグラフィーは存在自体を隠す点が異なる。.
新しい!!: 16世紀とステガノグラフィー · 続きを見る »
スフォルツァ家
フォルツァ家(Sforza)は、15世紀~16世紀のイタリアにおいてミラノなどを支配した家である。傭兵隊長上がり、と侮られることもあったが、宮廷に学者や芸術家を集め、学芸を保護し、ルネサンスのパトロンとして知られる。フランスの侵攻により、ミラノを追われる。(イタリア戦争の項を参照)その後、ハプスブルク家の支援を受け、イル・モーロの子が一時ミラノ公を継ぐ。名のスフォルツァとはフランチェスコの父であるムツィオ・アッテンドロの呼び名で、強制的な人物を意味する。.
新しい!!: 16世紀とスフォルツァ家 · 続きを見る »
スイス
イス連邦(スイスれんぽう)、通称スイスは中央ヨーロッパにある連邦共和制国家。永世中立国であるが、欧州自由貿易連合に加盟しているほかバチカン市国の衛兵はスイス傭兵が務めている。歴史によって、西欧に分類されることもある。 ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタインに囲まれた内陸に位置し、国内には多くの国際機関の本部が置かれている。首都はベルンで、主要都市にチューリッヒ、バーゼル、ジュネーヴ、ローザンヌなど。.
スウェーデン
ウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。西にノルウェー、北東にフィンランドと国境を接し、南西にカテガット海峡を挟んでデンマークと近接する。東から南にはバルト海が存在し、対岸のロシアやドイツとの関わりが深い。法定最低賃金は存在しておらず、スウェーデン国外の大企業や機関投資家に経済を左右されている。.
新しい!!: 16世紀とスウェーデン · 続きを見る »
スコットランド
ットランド()は、北西ヨーロッパに位置するグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成するカントリーの一つ。1707年の合同法によってグレートブリテン王国が成立するまでは独立した王国(スコットランド王国)であった。 スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、本島と別に790以上の島嶼部から構成される。 首都のエディンバラは第2の都市であり、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴーは、人口の40%が集中する。 スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、国際私法上の1法域を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は、連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。しかしスコットランドは独立国家ではなく、国際連合および欧州連合の直接の構成国ではない。.
新しい!!: 16世紀とスコットランド · 続きを見る »
スタンチク
タンチク(、1480年頃-1560年頃)はポーランドの歴史のなかで最も有名な宮廷道化師。彼はアレクサンデル、ジグムント1世老王、ジグムント2世アウグストという三代の王に仕えた。 歴史家たちはこの道化師の本名をスタニスワフ・ゴンスカ(Stanisław Gąska)と推定しており、スタンチク()はスタニスワフの愛称(「スタニスワフちゃん」の意味)。また、ゴンスカ()は、実際はスタンチクの同僚の道化師でその実力の点でスタンチクに少々劣っていた人物の名だったと主張する歴史家もいる。 スタンチクはいつも、ただの芸人であることをはるかに超えた存在だったと考えられている。知性と政治哲学者としての才能にあふれ、ポーランドの現在と未来の状況について、周囲の者に畏敬の念を起させるほどであった。彼が発する気の利いた冗談は政治と宮廷の時事問題に関連しており、彼は自らの道化師としての仕事を通じて、風刺という手段を用いながら同時代の人々に対する批判と警告を行った。スタンチクの発言と冗談は、ウカシュ・グルニツキ、ヤン・コハノフスキ、マルチン・クロマー、ミコワイ・レイといった同時代の著述家や歴史家の多くによって記録されており、彼らはみなスタンチクを真実のために見せかけの偽り事と戦った人物として称賛している。 最も広く知られている逸話は王の狩猟の行事のときのものである。1533年、ジグムント1世王はリトアニアから巨大な熊を取り寄せた。この熊は首都クラクフ近郊の近くにあるに放され、これを王が狩ることになっていた。この狩りの最中、熊が王、王妃、その側近たちからなる一団に向かって突進をし、一同は恐慌をきたして大混乱に陥った。王妃ボナはこのときの落馬で流産をしてしまった。スタンチクが熊にかまわず逃げてしまったことで、王が怒ってのちにスタンチクを批判した。このときスタンチクはこう言った「檻に入れられている熊を放すことのほうが馬鹿げたことでしょ!」この発言は、王のプロイセン公領に対する政策への当てこすりであった。プロイセン公領はポーランドに征服されていたが、王国の直轄領にはなっておらず、属領として一定の自治権が与えられた状態だったのである。.
新しい!!: 16世紀とスタンチク · 続きを見る »
ズッコケ三人組
ッコケ三人組(ズッコケさんにんぐみ)は、那須正幹原作の児童文学シリーズ。及びその主人公である3人の渾名(トリオ名)。.
新しい!!: 16世紀とズッコケ三人組 · 続きを見る »
セバスティアン1世 (ポルトガル王)
バスティアン1世(Sebastião I, 1554年1月20日 - 1578年8月4日)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の王(在位:1557年 - 1578年)。「待望王」(o Desejado)と呼ばれる。 ジョアン3世の五男(第8子)ジョアン・マヌエルと、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の娘フアナの子。父ジョアン・マヌエルの母カタリナはカルロス1世の妹、母フアナの母イサベルはジョアン3世の妹であり、セバスティアンの両親は父方と母方の双方で従姉弟の関係にあった。.
新しい!!: 16世紀とセバスティアン1世 (ポルトガル王) · 続きを見る »
セリム1世
リム1世(1465年10月10日 - 1520年9月22日)は、オスマン帝国の第9代皇帝(在位:1512年 - 1520年)。.
新しい!!: 16世紀とセリム1世 · 続きを見る »
セリム2世
リム2世(トルコ語:II.Selim、1524年5月28日 - 1574年12月12日)は、オスマン帝国の第11皇帝(スルタン)(在位1566年 - 1574年)。軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンであり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた“Selim”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)。そのため、「酒飲み」「酔っ払い」(Sarhoş Selim)の渾名で呼ばれる。 父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される林『オスマン帝国500年の平和』、172頁。また、詩人としての一面も持ち合わせていたクロー『スレイマン大帝とその時代』、367頁。.
新しい!!: 16世紀とセリム2世 · 続きを見る »
セントローレンス湾
ントローレンス湾 (セントローレンスわん、Gulf of Saint Lawrence) はカナダ南東部に位置する湾であり、セントローレンス川を経由して五大湖から大西洋への湖水の出口。ここに注ぐセントローレンス川の河口は世界最大の規模である。また大西洋と、工業地帯である五大湖周辺を結ぶ重要な航路でもある。 湾は北はラブラドル半島、東はニューファンドランド島やサンピエール島、南はノバスコシア半島やケープブレトン島、西はガスペ半島に囲まれている。湾内の島にはアンティコスティ島やプリンスエドワード島、マドレーヌ諸島、ケープブレトン島、サンピエール島、ミクロン島がある。セントローレンス川に加え、ミラミチ川 (Miramichi River)、ナタシュカン川 (Natashquan River)、ロメーヌ川 (Romaine River)、レスティゴーシュ川 (Restigouche River)、マーガリー川 (Margaree River)、ハンバー川 (Humber River) などが流入している。支湾として、シャルール湾 (Chaleur Bay)、フォーチュン湾 (Fortune Bay)、ミラミチ湾 (Miramichi Bay)、セントジョージズ湾 (St.
新しい!!: 16世紀とセントローレンス湾 · 続きを見る »
セブ島
ブ島()は、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、南北に225kmにわたって伸びる細長くて大きな島である。面積は4422km。周囲はマクタン島、バンタヤン島、マラパスカ島、オランゴ島など小さな島々に囲まれている。 東にカモテス海とカモテス諸島をはさんでレイテ島、ボホール海峡を挟んでボホール島、西にタノン海峡を挟んでネグロス島、南にシキホル島、北にビサヤン海を臨む。 全島とその属島がセブ州で、島の東海岸中央部にある人口72万の州都セブ、マンダウエ市をはじめ6つの都市があり、マニラ首都圏(メトロ・マニラ)に次ぐ大都市圏、メトロ・セブを形成している。州全体の人口は3,356,137人(2000年調査)で、うち300万人がセブ島に住んでいる。ほとんどの人はセブアノ語を話し、これはビサヤ諸島の共通言語になっている『地球の歩き方 フィリピン2016~2017』(ダイヤモンド社)。 マクタン島は風光明媚で風通しがよく、一般に言うセブ・リゾートはここマクタン島を指す場合が多く、外国からの移住者も多い。1521年のマゼラン上陸でスペイン統治が始まるとともに、フィリピンを世界史の表舞台へと導くきっかけとなった。統治者らは宗教、食文化をはじめとする生活スタイルや建築様式に至るまで大きな影響を及ぼし、フィリピン全土へ浸透させていった。セブ市は最初にスペインによる植民地化がされた植民都市でありその名残である建造物や史跡が随所に残る。セブ・シティは現在のフィリピンのオリジンでもある。また、昔ながらの大きな市場カルボンマーケットがあるほか、観光客相手の巨大ショッピング・モールやリゾートホテルがセブ市やマクタン島に多数ある。.
セイム
イム.
ソンガイ帝国
ンガイ帝国(Songhay、1464年–1590年)は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国である。ソンガイ帝国の歴史は、イスラム的伝統が優位にたつ王の治世とソンガイ的伝統が優位にたつ王の治世が交互に繰り返されている。前者はアスキア・ムハンマド1世(位1493年 - 1528年)と(位1549年 – 83年)の治世であり、後者は、スンニ・アリ大王(位1464年–93年)やその後のスンニ朝の王たちの治世である。.
新しい!!: 16世紀とソンガイ帝国 · 続きを見る »
ソッツィーニ派
ッツィーニ派は、自由思想家レリオ・ソッツィーニが唱え、その甥のファウスト・ソッツィーニが展開した精神運動。三位一体説や予定説、キリストの贖罪、原罪の教義、キリストの神性を否定し、教会と国家の分離(政教分離)を主張した。ソッツィーニ主義と呼ばれ、またその一団はポーランド兄弟団と呼ばれた。或いは小改革派教会ともいう。.
新しい!!: 16世紀とソッツィーニ派 · 続きを見る »
ソコルル・メフメト・パシャ
ルル・メフメト・パシャ(Sokollu Mehmed Paşa, 1506年 - 1579年10月11日)は、オスマン帝国の大宰相(首相)。スレイマン1世に見出され、セリム2世、ムラト3世の3代に渡って仕えた。その功績は大きく、名宰相との呼び声が高い。.
新しい!!: 16世紀とソコルル・メフメト・パシャ · 続きを見る »
タナロット寺院
タナロット寺院 タナロット寺院(インドネシア語:Pura Luhur Tanah Lot)は、インドネシア・バリ島中西部の海岸にある寺院でバリ六大寺院のひとつ。干潮時には陸続きとなり、歩いて渡ることができる。夕暮れ時には美しいシルエットを形成し、多数の観光客が訪れている。エルニーニョ現象による海面の上昇などが原因で、海岸の浸食が進んでいたが、日本のODAによる景観を再生するプロジェクトが行われている。名前の由来は、真ん中の土地という意味のトゥンガ・ロットが変化したものといわれている。また、通称ロックテンプルとも呼ばれている。.
新しい!!: 16世紀とタナロット寺院 · 続きを見る »
タペストリー
16世紀頃のフランス製と推測されるタピストリー、 ''L'Astronomie'' タペストリーを織る機、パリのゴブラン工場にて タペストリー()は、壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種。タペストリーは英語で、中期英語ではといい、仏語のタピスリ()からきている。製織の技術では日本のに相当するものである。しかし、規模、用途、材料、様式などは東洋のものとはかなり異なり、完成までに3年を要する作品もある大変に高価な物だった。最盛期は中世末期であり、現在では、ゴブラン織とも呼ばれる。 現代では織物に印刷したものもある。.
新しい!!: 16世紀とタペストリー · 続きを見る »
ターリコータの戦い
ターリコータの戦い(Battle of Talikota)とは、1565年1月に行われた南インドのヴィジャヤナガル王国とデカンのデカン・スルターン朝(ムスリム5王国)との戦闘。ヴィジャヤナガル王国の衰退につながる戦いで、インドにおける重要な戦いでもある。.
新しい!!: 16世紀とターリコータの戦い · 続きを見る »
タブリーズ
タブリーズ(تبریز; Tabrīz)はイラン北西部の都市。東アーザルバーイジャーン州(東アゼルバイジャン州)の州都。人口は約140万人でイラン第4位。.
新しい!!: 16世紀とタブリーズ · 続きを見る »
タフマースブ1世
タフマースブ1世(Tahmasb I, شاه تهماسب یکم, 1514年3月3日 - 1576年5月14日)は、サファヴィー朝の第2代シャー(在位:1524年 - 1576年)。初代シャー・イスマーイール1世の息子で、即位直後と治世前期の内憂外患に苦しめられたが、多くの時間を費やして困難を切り抜け、サファヴィー朝の基盤を固めた。.
新しい!!: 16世紀とタフマースブ1世 · 続きを見る »
タイムトラベル
タイムトラベル(time travel)は、SF文学や映画などのフィクション作品の題材として用いられる表現であり、通常の時間の流れから独立して過去や未来へ移動すること。日本語で時間旅行(じかんりょこう)とも呼称する他、移動の様態によって「タイムスリップ」「タイムワープ」「タイムリープ「タイムリープ」は一般的に「自分自身の意識だけが時空を移動し、過去や未来の自分の身体にその意識が乗り移る」という意味で使われており、自分自身が意識・身体とも時空を移動することを意味する「タイムトラベル」と使い分けられていることが多い。この意味における「タイムリープ」では、自分自身が産まれてから死ぬまでの時間が過去や未来への移動範囲の限界となる。また、同一時空に同一人物が2人以上存在する矛盾も発生しない。ただし一部の作品においては「タイムトラベル」と同じ意味で「タイムリープ」と表現されているものもある。」「タイムトリップ」など多様な表現がなされる。.
新しい!!: 16世紀とタイムトラベル · 続きを見る »
タイ王国
タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。 国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。 2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している。 2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。 同年12月1日にワチラーロンコーンが国王に即位した。 2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された。.
タウングー王朝
タウングー王朝(タウングーおうちょう、Triều Taungoo)は、14世紀頃から1752年まで存在したビルマ人の王朝である。.
新しい!!: 16世紀とタウングー王朝 · 続きを見る »
サマルカンド
マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀とサマルカンド · 続きを見る »
サハラ交易
ハラ交易(サハラこうえき)または サハラ縦断交易(サハラじゅうだんこうえき、)は、地中海沿岸諸国と西アフリカのあいだの交易で、先史時代から存在したが、最盛期は8世紀より16世紀後期に亘る。キャラヴァン・ルート (隊商路) の位置と交易量の盛衰を問う前に、このような交易がそもそもどのような形で存在したのかを考えることが重要である。サハラ砂漠(Saharaは砂漠の意)は地中海経済とニジェール盆地経済を隔てる、人間に適さない空間である。フェルナン・ブローデルは、『世界の大局観』において、このような区域は、大西洋と同様に、利得が損失を遥かに上回るというような例外的な状況に限って、縦断の価値があることを指摘している。しかし、大西洋と異なり、サハラ砂漠は、地域的な交易を行う人々にとって、自分たちの国であった。 イスラーム時代の交易は、ヒトコブラクダのキャラヴァンによって行われた。これらのラクダは、キャラヴァンへと集められる前に、マグリブまたはサヘルの草原において、何ヶ月間も肥育された。14世紀の探検家で、キャラヴァンに同行したイブン・バットゥータによれば、キャラヴァンの平均的な規模は、一隊当たり千頭のラクダから成るが、1万2千頭に及ぶものもあったという。キャラヴァンには、砂漠に詳しく、仲間の遊牧の民に通行の安全を保証させるベルベル人のガイドが高い報酬を得て付添った。キャラヴァンの成功は不確実であり、細心の手配が必要だった。キャラヴァンは旅程すべてに必要な水を運んで旅することが出来ないため、オアシスがなお何日も先のうちに使い走りがオアシスに先回りし、水を確保するようにした。.
新しい!!: 16世紀とサハラ交易 · 続きを見る »
サポヤイ・ヤーノシュ
ポヤイ・ヤーノシュ サポヤイ・ヤーノシュ(Szapolyai János, Zápolya János, Ivan Zapolja, Ján Zápoľský, 1487年2月2日1540年7月22日)は、ハンガリー王国の対立王。即位以前はトランシルヴァニアの領主であった。父はサポヤイ・イシュトヴァーン、母はチェシン公国の統治者プシェミスワフ2世の娘ヤドヴィガ。.
新しい!!: 16世紀とサポヤイ・ヤーノシュ · 続きを見る »
サラマンカ学派
ラマンカ大学 / サラマンカ学派の拠点となった サラマンカ学派(サラマンカがくは / 西:Escuela de Salamanca、英:School of Salamanca)は、16世紀から18世紀にかけてスペイン王国のサラマンカ大学を拠点として活動したスコラ学あるいは神学・哲学の学派である。.
新しい!!: 16世紀とサラマンカ学派 · 続きを見る »
サライ
ライ.
サラゴサ条約
子午線(緑) サラゴサ条約(サラゴサじょうやく、Treaty of Zaragoza)は1529年4月22日にポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。 条約はカスティーリャ(スペイン)とポルトガルのアジアにおける勢力圏を分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したためにおこった「モルッカ問題」を解決する試みとなった。紛争は1520年に両国の遠征隊が太平洋に到着したときからはじまった。このときには、東方において子午線はまだ定められていなかった。.
新しい!!: 16世紀とサラゴサ条約 · 続きを見る »
サン・バルテルミの虐殺
ン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St.
新しい!!: 16世紀とサン・バルテルミの虐殺 · 続きを見る »
サン・ピエトロ大聖堂
ン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂などと表記されることもある。 カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.
新しい!!: 16世紀とサン・ピエトロ大聖堂 · 続きを見る »
サビニの女たちの略奪
ャンボローニャ作「サビニの女たちの略奪」。フィレンツェのロッジア・ディ・ランツィにある。 サビニの女たちの略奪(サビニのおんなたちのりゃくだつ、The Rape of the Sabine Women)とは、古代ローマの伝説的挿話の1つである。なお、この場合の "rape" はラテン語の "Raptio" にあたり、「強姦」よりも「誘拐」などに近い意味合いである。日本語では他に、サビニ女性の略奪、サビニの娘たちの掠奪、サビニ族の女達の誘拐、サビニのおとめの拉致、などともいう。 ローマがロームルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が少なかった。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要だった。ローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めたが、交渉は不首尾に終わった。そこでローマ人はサビニ人に奸計を仕掛け、大量の未婚女性を略奪した。不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちはローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなった。こうしてサビニ人女性を誘拐婚することにより、ローマは国を維持発展させるための次世代を得ることに成功した。後にサビニは女性たちを奪回するためにローマと戦争を起こすが、既に子を産んでいたサビニ人女性たちは子供と引き離されることを拒み、戦争の中止を訴えた。 ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』やプルタルコスの『対比列伝』(II、15 および 19)で語られており、ルネサンス期以降の芸術作品の主題として好んで使われた。これは、この挿話が古代ローマ人の大胆さと勇気を示す例であるとともに、女性の受難場面や、半裸の群像が強烈な激情を発して苦闘する様を描くという芸術的挑戦として捉えられたためである。似たような古典古代の主題としては、ラピテースとケンタウロスの戦い、テーセウスのアマゾーンとの戦いなどがある。.
新しい!!: 16世紀とサビニの女たちの略奪 · 続きを見る »
サファヴィー朝
ファヴィー朝(ペルシア語:صفويان Safaviyān)は、16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)。.
新しい!!: 16世紀とサファヴィー朝 · 続きを見る »
サフィエ・スルタン
ーフィエ・スルタン(Sâfiye Sultan, 1550年 - 1618年)は、ムラト3世の妃で、メフメト3世の母である。本名はソフィア・バッフォ(Sofia Baffo)。ムラト3世の生母であるヌール・バヌの親戚にあたる。.
新しい!!: 16世紀とサフィエ・スルタン · 続きを見る »
サアド朝
アド朝(サアドちょう; Saadi)は、16世紀初頭から1659年までモロッコを支配したシャリーフ系王朝。サード朝もしくはサーディー朝とも呼ばれる。オスマン帝国の拡大を阻止したことと、ソンガイ帝国を滅ぼしたことで知られる。.
サカテカス銀山
サカテカス銀山(-ぎんざん)とは、メキシコの銀山。 メキシコ中央部に位置し、16世紀中ごろに発見された。19世紀までは世界の銀の20%を産出した。ここで産出したメキシコ銀は太平洋のアカプルコ貿易で、フィリピンや中国にまで運ばれた。アンデスのポトシ銀山とともに2大鉱山と呼ばれた。 Category:銀山.
新しい!!: 16世紀とサカテカス銀山 · 続きを見る »
唐寅
山路松声図 唐寅(とう いん、1470年-1523年)は、中国明代に活躍した文人である。書画に巧みで祝允明・文徴明・徐禎卿と並んで呉中の四才と呼ばれた。字は伯虎、仏教に心を寄せたことから六如と号した。唐解元とも呼ばれるが他の3人とは違って、官職につくことができなかった。.
内閣大学士
内閣大学士(ないかくだいがくし、満州語:dorgi yamun i aliha bithei da)は、中国明朝および清朝に存在した官職名。殿閣大学士とも呼称され、任官者は中堂という尊称を受けていた。 なお、日本と現代中華圏の内閣制度の呼称はここに由来する。.
新しい!!: 16世紀と内閣大学士 · 続きを見る »
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。.
出雲阿国
出雲阿国 出雲の阿国像(京都市東山区) 出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) - 没年不詳)は、安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。 一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。 なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 978-4-473-03530-1、198頁-205頁。.
啓迪集
啓迪集(けいてきしゅう)は、戦国時代の医師曲直瀬正盛(道三)の医学書。全8巻。正式名称は「察証弁治啓迪集」。.
八十年戦争
八十年戦争(はちじゅうねんせんそう、Tachtigjarige Oorlog)は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある『スペイン・ポルトガルを知る事典』(平凡社)や『世界史B用語集』(山川出版社)等で、オランダ独立戦争の名称も並称されている。。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。.
新しい!!: 16世紀と八十年戦争 · 続きを見る »
八丈島
八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。.
典院
典院(てんいん)とは、正教会の修道司祭のうち、高位の修道司祭の称号であり、修道院を管轄する修道院長たる修道司祭の称号である。日本ハリストス正教会の訳語。ギリシャ語の原義は「指導者」など。.
克肖者
克肖者(こくしょうしゃ)とは正教会で聖人に付される称号。日本正教会による訳語。正教会において最も一般的な聖人の称号であり、亜使徒、致命者、廉施者、登塔者、佯狂者なども含めた正教会の聖人の総称としても用いられるが、修道士であった聖人に用いられる事が多い。女性の聖人に「克肖」の称号が用いられる場合には克肖女(こくしょうじょ)と呼ばれる。 英語の"Venerable"はカトリック教会では尊者に相当するが、正教会の克肖者とカトリック教会の尊者とでは全く意味合いが異なる。.
前田利家
前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.
前田氏
前田氏(まえだし)は、日本の氏族の一つ。戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。通字は「利」(とし)。.
動乱時代
動乱時代 (大動乱、スムータ、Смутное время, Smutnoye Vremya)は、ロシアの歴史で、1598年のリューリク朝フョードル1世の死去から1613年のロマノフ朝創設までの時代を指す。 1601年から1603年にかけて、ロシアは、当時の人口の3分の1に相当する200万人が死ぬというに見舞われた。また、1610年から1613年にかけてはツァーリ不在のに陥った。さらに1605年から1618年にかけてのロシア・ポーランド戦争で、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に占領され、民衆の蜂起が起こり、皇位簒奪者、皇位僭称者が次々現れた。.
勅許会社
勅許会社(ちょっきょがいしゃ、Chartered company)は特許会社とも呼ばれ、主にイギリス・オランダなどの西欧諸国で国王・女王の勅許または国家行政の特別許可状をもらい設立された貿易を主とする会社で、特に植民地獲得への貿易、植民地の経済支配の目的で作られ、そうした経済活動はリスクが大きかったので、会社設立の見返りとして経済貿易に関する独占権を与えられたもの。イギリス東インド会社、オランダ東インド会社などがある。.
国立古美術館
ムゼウ・ナシオナル・デ・アルテ・アンティガ()は、ポルトガル・リスボンにある国内で最も重要な美術館。頭文字をとってMNAAと呼ぶのが一般的である。.
新しい!!: 16世紀と国立古美術館 · 続きを見る »
四大奇書
四大奇書(しだいきしょ)とは、中国で元代から明代にかけ、俗語体で書かれた4つの長編小説の総称。「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」という意味である。「四大奇書」は清代前期の書店が販売促進用につけたキャッチフレーズであり、その名は清中期の乾隆年間(1736年 - 1795年)に芥子園刊本において確立した。 「四大奇書」に挙げられているのは『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』の4作品である。だが、本場中国では清中期になってから『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を加えたものを「四大名著(中国語版)」と呼ぶようになり、「四大奇書」よりこちらの方が一般的である。.
四国平定
四国平定(しこくへいてい)は、戦国時代末期に豊臣秀吉が天下統一事業の一環として行った長宗我部氏との一連の戦い。.
四国攻め
四国攻め(しこくぜめ)は、安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。その前段階である、本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。.
倭寇
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.
噴火
火山噴火 リダウト山の大噴火 噴火(ふんか、)とは、火山からマグマや火山灰などが比較的急速に地表や水中に噴き出すことである。火山活動(かざんかつどう、)の一つで、マグマの性質によって、規模や様式にさまざまなものがある。気象庁では、火口から固形物が水平あるいは垂直距離でおよそ100 - 300mの範囲を越したものを「噴火」として記録することになっている。.
知行合一
知行合一(ちぎょうごういつ、ちこうごういつ)は、中国の明のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能であるとする考え。論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっている。 王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、知っている以上は必ず行いにあらわれると述べた。真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を悪むが如し」と説く。例えば、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと判断するわけではないのである。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。 江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹や幕末の頃の陽明学者や維新の志士たちに大きな影響を与えた。 知行合一は「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。.
石山合戦
石山本願寺推定地の石碑 石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。.
石山本願寺
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院である。戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており、後世「石山本願寺」というようになった。 他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居 - 中世,城郭や屋敷地の周囲に防御のためにめぐらした土塁。(『大辞林』第三版、他。)で囲まれた「寺内町」を有する点である教学研究所 編『教如上人と東本願寺創立』第一部「教如上人とその周辺」第二節「大坂本願寺」P.14。。.
新しい!!: 16世紀と石山本願寺 · 続きを見る »
石田三成
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.
石見銀山
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。.
王子と乞食
『王子と乞食』(おうじとこじき、)は、アメリカの作家マーク・トウェインが1881年に発表した児童文学作品である。16世紀のイングランドを舞台に、実在の若き国王エドワード6世を主人公とした冒険譚で、トウェインはこの作品を通して、子どもの視点で16世紀のイングランドの世情を痛烈に皮肉った。 日本語訳は、1899年(明治32年)巌谷小波らにより『乞食王子』の訳題で文武堂から、1927年(昭和2年)村岡花子により『王子と乞食』の訳題で平凡社から公刊された。なお、題名の「乞食」が差別用語に当たるとして、近年の日本語訳では「こじき」と平仮名表記したり、『王子と少年』としたりする例も存在する。.
新しい!!: 16世紀と王子と乞食 · 続きを見る »
王世貞
王世貞 王 世貞(おう せいてい、1526年 - 1590年)は、中国・明の学者、政治家。字は元美、号は弇州山人(えんしゅうさんじん)。南直隷太倉(江蘇省)出身。官は刑部尚書に至った。.
王直
王直または汪直(おうちょく、生年不詳 - 嘉靖38年12月25日(1560年1月22日))は、中国の明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。王直はあだ名で、本名は王鋥(おうとう)と言い、徽王や老船主とも称した。.
王陽明
王 陽明(おう ようめい、成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)は、中国の明代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。.
琉球王国
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.
破門
(はもん)は.
神品致命者
品致命者(しんぴんちめいしゃ)とは、正教会の伝統において神品(主教・司祭・輔祭)でかつ致命者(信仰の為に死んだ聖人)である者を言う。日本正教会の訳語。.
新しい!!: 16世紀と神品致命者 · 続きを見る »
神器譜
器譜(しんきふ) は、明時代末の銃器解説書。 著者は趙士禎で、豊臣秀吉による朝鮮出兵で日本の火縄銃に悩まされた明国軍を知識面で支援するためのものである。1598年以降1603年までに4種が成立した。.
神聖ローマ帝国
聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.
新しい!!: 16世紀と神聖ローマ帝国 · 続きを見る »
神聖ローマ皇帝
聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.
新しい!!: 16世紀と神聖ローマ皇帝 · 続きを見る »
祝允明
嵆康酒会詩』 祝 允明(しゅく いんめい、1460年 - 1526年)は、中国明代の書家、文人、官吏 ブリタニカ国際大百科事典。 字は希哲、号は枝山・枝指生。(現蘇州市)出身。多指症のため生まれつき右手の指が6本あった 国立故宮博物院。1492年郷試に合格したが、進士の試験には落第し続けた。1514年広東省興寧県(現興寧市)の県令を経て、1521年首都南京の応天府の通判に任ぜられたが、病気を理由に1年足らずで帰郷した。 詩文をよくし、唐寅・文徴明・徐禎卿とともに「呉中四才子」の一人に数えられる。.
祇園祭
祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。 祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。.
禁書目録
禁書目録(きんしょもくろく、ラテン語:Index Librorum Prohibitorum)とは16世紀から20世紀の半ばまでカトリック教会によって作成された書物のリストで、カトリック教会と信徒に対して危険を及ぼすとみなされた書物が掲載された。禁書目録の目的は信徒を、非道徳あるいはカトリック信仰を脅かす書物から守ることにあった。禁書目録は単に出版後の本だけを対象としていたわけではなく、カトリック信徒が著作を行うときはあらかじめ検閲を受けさせることも習慣として行われた。.
福島正則
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.
私掠船
私掠船(しりゃくせん、Privateer, )とは、戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。.
種子島
大隅諸島(薩南諸島、北部) 種子島(たねがしま)は、九州の鹿児島県に属し、大隅諸島を構成する島の一つ。 県内有人離島の中で最も東に位置し、人口(29,282人)は奄美大島に次いで2番目に多く、面積は444.30km2で、奄美大島、屋久島に次いで3番目に大きい。日本では、10番目の面積を持つ。標高は最高点は回峰(まわりのみね)の282.4mで、海側から見ると殆ど平らにしか見えない。1936mある隣の屋久島と比べると対照的である。中心都市は西之表市。.
立河原の戦い
立河原の戦い(たちかわのはら(たちがわら)のたたかい)は、1504年11月13日(永正元年9月27日)に武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲(伊勢宗瑞)らの連合軍との間で行われた合戦である。 長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いであったが、この戦いに勝利した上杉朝良は結果的に上杉顕定に降伏した。.
新しい!!: 16世紀と立河原の戦い · 続きを見る »
第一次パーニーパットの戦い
一次パーニーパットの戦い(だいいちじパーニーパットのたたかい、英語:The First Battle of Panipat)は、1526年4月21日にパーニーパット(パーニーパト)において、ムガル帝国の創始者であるバーブル とローディー朝の王イブラーヒーム・ローディーとの間で行なわれた戦い。なお、戦闘は4月21日以前の小競り合いも含めている。 この戦いでは、少数兵力ながら鉄砲や大砲という火器を有効に用いたバーブル軍が勝利をおさめ、バーブルによるムガル帝国が建国されるきっかけとなった。.
新しい!!: 16世紀と第一次パーニーパットの戦い · 続きを見る »
第一次ウィーン包囲
一次ウィーン包囲(だいいちじウィーンほうい、Erste Wiener Türkenbelagerung)は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くにわたって神聖ローマ帝国の皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。 ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。 歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は1699年まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめることにもなった。.
新しい!!: 16世紀と第一次ウィーン包囲 · 続きを見る »
第二次パーニーパットの戦い
二次パーニーパットの戦い(だいにじパーニーパットのたたかい、英語:The Second Battle of Panipat)は、1556年11月5日にパーニーパット(パーニーパト)において、ムガル帝国のバイラム・ハーンとスール朝の武将ヘームー(ヒームーとも)との間に行われた戦い。この戦いにおける勝利はアクバルの治世がムガル帝国の黄金期となる端緒となった。.
新しい!!: 16世紀と第二次パーニーパットの戦い · 続きを見る »
策彦周良
『集古十種』より 策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日(1501年4月19日) - 天正7年6月30日(1579年7月23日))は、戦国時代の臨済宗の禅僧、外交官。号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。.
管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
米沢市上杉博物館
米沢市上杉博物館(よねざわしうえすぎはくぶつかん、Yonezawa city Uesugi Museum)は、山形県米沢市に所在する文化施設「伝国の杜」に位置する市立の博物館である。本項では、併設の置賜文化ホールについても記述する。.
新しい!!: 16世紀と米沢市上杉博物館 · 続きを見る »
細川幽斎
細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.
細川忠興
九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.
細川ガラシャ
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年〈1563年〉- 慶長5年7月17日〈1600年8月25日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教信徒(キリシタン)。 子に、於長(おちょう: 前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら: 稲葉一通室)などがいる。 明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い。.
新しい!!: 16世紀と細川ガラシャ · 続きを見る »
細川高国
細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.
細川氏
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.
細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.
細川政権
細川政権(ほそかわせいけん).
細川政権 (戦国時代)
細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.
新しい!!: 16世紀と細川政権 (戦国時代) · 続きを見る »
細川晴元
細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.
細胞
動物の真核細胞のスケッチ 細胞(さいぼう)とは、全ての生物が持つ、微小な部屋状の下部構造のこと。生物体の構造上・機能上の基本単位。そして同時にそれ自体を生命体と言うこともできる生化学辞典第2版、p.531-532 【単細胞生物】。 細胞を意味する英語の「cell」の語源はギリシャ語で「小さな部屋」を意味する語である。1665年にこの構造を発見したロバート・フックが自著においてcellと命名した。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田政権
織田政権(おだせいけん)は、織田信長が政権を獲得していた天正元年(1573年)〔実質的には永禄11年(1568年)〕から天正13年(1585年)まで成立していた日本の武家政権である。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
経済
経済(けいざい、οικονομία、oeconomia、economy)とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動を指す。.
痴愚神礼讃
『痴愚神礼讃』(ちぐしんらいさん、希:Morias enkomion、羅:Stultitiae Laus)は、ネーデルランド出身のルネサンス人文主義者デジデリウス・エラスムスのラテン語による諷刺文学である。1509年に執筆され、1511年に初版刊行された。訳題は他に『愚神礼賛』、『痴愚礼賛』などがある。.
新しい!!: 16世紀と痴愚神礼讃 · 続きを見る »
甲子士禍
子士禍(こうししか・カプチャサファ・갑자사화)とは、李氏朝鮮第10代国王、燕山君の独裁政治の中で起こった粛清事件である。他の士禍とは性格をやや異にし、士林派だけでなく、国王(君主)に反対する勲旧派の一部の勢力も弾圧の対象となった。 1498年(燕山君4年)の「戊午士禍」によって煩わしい士林派を一掃した燕山君は、自らの周囲に追従者ばかりを侍らせて、権力者の欲望のままに、背徳的で反社会的な行為を繰り返した。奢侈な生活により破綻した国家財政に充当するために税金を課したり、官吏の功臣田の削減などの政策により、民衆だけでなく宮廷内の良識派の官僚たちにも王政の変革を望む機運が生じていた。 燕山君の行動がさらに狂的な様相を帯びるようになるのは1503年(燕山君9年)頃からで、翌1504年(燕山君10年)に入ると、外戚を中心とした宮中派と議政府によった府中派との対立を利用して権力の掌握を狙った側近のと宦官(内侍)のが、燕山君に生母(廃妃)尹氏の賜死の経緯を告げ口し、亡き母の遺品を見せた。燕山君はこれに逆上し、賜死にかかわった関係者のすべての調査と処罰を命じた。こうして、7ヶ月以上にわたる過酷な疑惑の追及が行なわれ、勲旧派、士林派を問わず、賜死事件に関連した多くの要人(貴人 嚴氏、貴人 鄭氏)が死刑、流刑に処された。勲旧派の巨頭・韓明澮もこの時「剖棺斬屍」(:ko:부관참시)に処された。生母尹氏の賜死を実行した張本人であり燕山君の祖母でもある仁粹大王大妃もこの時点で病死している。 この国王自身による「恐怖政治」は、開国以来の課題であった王権と臣権の関係に重大な影響をもたらし、朝鮮王朝史上最初の臣下による政変を引き起こした。燕山君は1506年(燕山君12年)9月2日に朴元宗・・らによる宮廷クーデター(中宗反正、ko)により王位を剥奪、そして燕山君に封じられ、およそ3ヵ月後に流刑先の江華島で死亡した。.
甲相駿三国同盟
駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)からとも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。.
新しい!!: 16世紀と甲相駿三国同盟 · 続きを見る »
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
町衆
衆(まちしゅう/ちょうしゅう)とは、室町時代から戦国時代にかけての、特に土倉などの京都の裕福な商工業者である。応仁の乱後の京都復興においての重要な階層である。自治と団結を進め、文化を作った。主に法華経を信仰する。その本山が本能寺である。 平安時代の京童などを継承する概念で近世、江戸時代の町人へと継承される。 今日では「まちしゅう」と読まれることが多いが、『節要集』『日葡辞書』などの同時代史料によれば「ちょうしゅう」と発音されていたようである。.
画家
Jost Ammanによる木版画(1568年) 画家(がか)は、絵画を制作する者の総称である。日本画や洋画など、画風や画材・作成スタイルなどによって、様々なタイプの画家が存在する。画家たちで形成されるコミュニティー(社会)を画壇(がだん)という。.
画家・彫刻家・建築家列伝
『画家・彫刻家・建築家列伝』(がか・ちょうこくか・けんちくかれつでん(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori 、Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects)は、16世紀のイタリア人画家、建築家のジョルジョ・ヴァザーリが書いた芸術家の伝記。タイトルは略されて「Vite」、「Lives」と呼ばれることもある。日本では部分訳が出版されており『美術家列伝』、あるいは『芸術家列伝』と呼ばれることが多い。 「芸術文学の古典としてもっとも有名で、もっとも研究された本 」、「イタリアルネサンスを語る上でもっとも影響力のある書物の一つ」、「芸術史を最初に構築した文書の一つ」と言われ、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語、日本語など各国語に全訳、部分訳されている。.
新しい!!: 16世紀と画家・彫刻家・建築家列伝 · 続きを見る »
熊本市
本市(くまもとし)は、日本の熊本県にある市の一つ。同県の県庁所在地、また日本最南端の政令指定都市である。.
燕山君
燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、成化12年10月7日(1476年10月24日) - 正徳元年11月6日(1506年11月20日)、在位:1494年12月29日 - 1506年9月2日)は李氏朝鮮の第10代国王。名は㦕(りっしんべんに隆)(ユン、융)(以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第11代国王中宗の異母兄。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君とされる。.
異端
端(いたん、heresy あるいは heterodoxy)とは、.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
牡丹亭
牡丹亭(ぼたんてい、)は、明代の劇作家湯顕祖の代表作。55幕。「牡丹亭還魂記」、「還魂記」ともいう。.
狩野内膳
狩野 内膳(かのう ないぜん、元亀元年(1570年) - 元和2年4月3日(1616年5月18日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の狩野派の絵師。内膳は号、名は重郷(しげさと)。通称は久蔵、幼名は九蔵。法名は一翁、或いは一翁斎。息子は日本初の画伝『丹青若木集』を著した狩野一渓。風俗画に優れ、「豊国祭礼図」「南蛮屏風」の作者として知られる。.
狩野光信
狩野 光信(かのう みつのぶ、永禄8年(1565年、永禄4年(1561年)説もある) - 慶長13年6月4日(1608年7月15日))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野永徳の長男。狩野探幽は弟・孝信の子供で甥に当たる。名は四郎次郎、通称は右京進。子の貞信も右京進と称し、両者を区別のため後に古右京とも呼ばれた。.
狩野永徳
狩野 永徳(かのう えいとく、天文12年1月13日(1543年2月16日) - 天正18年9月14日(1590年10月12日))は、安土桃山時代の絵師。狩野派(室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心にあった画派)の代表的な画人であり、日本美術史上もっとも著名な画人の1人である。現存する代表作に『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などがある。.
狩野派
狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館 狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。.
狂えるオルランド
えるオルランド(くるえるオルランド、Orlando Furioso)は、ルドヴィーコ・アリオストによるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌、3万8736行に及ぶ大長編。サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュとパラディンの活躍を背景にオルランドの失恋と発狂、エステ家の起源が語られている。 内容的には、マッテーオ・マリーア・ボイアルドの未完に終わった叙事詩、『恋するオルランド』(Orlando Innamorato、1495年に発行)の続編という形式をとっている。アリオストは、歴史に忠実に物語を作成することはなく、また地理的な精度も大雑把。そもそもスペインのイスラム教徒がフランスへ侵攻してくるのはシャルルマーニュの父親、ピピン3世の時代であり、またシャルルマーニュの活躍した8世紀であるのにもかかわらず火縄銃が登場する。ことに東方世界への理解は甚だ怪しく、カタイ(契丹に由来する古代中国をモデルとした国)の姫の名前が西洋風に「アンジェリカ」だというように、時代考証は非常におおらか。 また、魔法使いや怪獣のたぐいも頻出し、アストルフォなどは月へ旅行したりもする、今日ではファンタジーでおなじみのヒッポグリフなどが初登場したのはこの物語である。複雑にいくつかのエピソードが縦糸と横糸のように絡みあい、全体として統一的な物語を形成するスタイルをとっている。 形式はイタリアのロマンスで比較的使われたオッターヴァ・リーマ(abababccのリズムで韻を踏む)を採用。 中心となるテーマとしてシャルルマーニュとパラディンのロマンスを描くとともに、エステ家の起源を語り、賛美することがあげられる。もっとも、アリオストがエステ家を心から崇拝していたわけではない様で、『風刺詩』ではたびたび主人であるイッポリット・デステへの不満を匂わせてもいる。.
新しい!!: 16世紀と狂えるオルランド · 続きを見る »
直江兼続
江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.
直江状
江状(なおえじょう)は、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽文書ではないが後世に大幅に改竄されたとする説がある。.
相模国
模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
盛期ルネサンス
盛期ルネサンス(せいきるねさんす、英語:High Renaissance)は、美術史において、イタリアのルネサンス芸術の最盛期(1450年〜1527年)を指す言葉である。前期はメディチ家が支配するフィレンツェによるフィレンツェ派、後期はローマ教皇ユリウス2世による芸術家たちをパトロンとした時期で、活動の中心は、それまでのフィレンツェからローマに移った。このユリウス2世や、後のメディチ家出身の教皇レオ10世などはルネサンス教皇と呼ばれる。 一般に、盛期ルネサンス絵画は1490年代後半に現れたとされている。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期である。 その頂点は、絵画においては、ミケランジェロやラファエロがバチカンに描いた絵画とされる。建築では、1502年に古代ローマ建築の本格的復古を告げるテンピエットをドナト・ブラマンテが建てたこと。彫刻では、静力学と運動の理想のバランスを特徴とする、ミケランジェロの『ピエタ』、『ダビデ像』が挙げられる。またヴェネツィアでは、ジョルジョーネや若きティツィアーノの、落ち着いた雰囲気・鮮やかな色彩が盛期ルネサンスの好例とされる。 広義にとらえるなら、盛期ルネサンスは創造性豊かな天才の大爆発と言えるだろう。超一流とは言えないかも知れないが、多くの画家たちがこの時期に活動した。たとえば、フラ・バルトロメオやマリオット・アルベルティネッリは、彼らの絵画技法の完全な調和と全体の抑制が注目に値する作品群を制作した。また、後期のミケランジェロやアンドレア・デル・サルト、コレッジョの作品に見られる、長く伸びたプロポーションと誇張されたポーズは、美術史において後期ルネサンスと見なされるマニエリスムの到来を予感させるものである。 その盛期ルネサンスも、1520年のラファエロの死と1527年のローマ略奪によって終焉をもたらされた。16世紀イタリアでは、イタリア戦争がこの時代に頂点に達し、盛期ルネサンスはイタリアでの活力が失われ、同時にヨーロッパ諸国へと拡散していったのである。.
新しい!!: 16世紀と盛期ルネサンス · 続きを見る »
白羊朝
白羊朝が赤、薄オレンジがウズン・ハサンの征服地、黄緑が属国 白羊朝(はくようちょう、ペルシャ/アゼリー語:آق قویونلو)は、チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラム王朝(1378年 - 1508年)。王朝の基礎となったのはトゥルクマーンと呼ばれるテュルク系遊牧民で、バヤンドル部族から出た君主を中心とする部族連合をもととする遊牧国家であった。日本語名として広く用いられている白羊朝は、トルコ語でこの部族連合がアク・コユンル(Akkoyunlu)、すなわち「『白い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称である。.
隆慶帝
隆慶帝(りゅうけいてい)は、明朝の第13代皇帝。諱は載垕(さいこう)(垕の字は后の下に土)。廟号は穆宗(ぼくそう)。日本では在位中の元号から一般的に隆慶帝と称されている。.
隕石
隕石(いんせき、)とは、惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたもののこと平凡社『世界大百科事典』1988年版 vol.2, p.42 「隕石」。武田弘 + 村田定男 執筆培風館『物理学辞典』1992、 p.108 「隕石」。 「隕」が常用漢字に含まれていないため、「いん石」とまぜ書きされることもある。昔は「天隕石」「天降石」あるいは「星石」などと書かれたこともある。.
銀
銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.
莫登庸
莫 登庸(マク・ダン・ズン、Mạc Đăng Dung、1483年? - 1541年9月12日)は、ベトナム莫朝の初代皇帝。諡号は莫太祖(Mạc Thái Tổ マク・タイ・トー)。.
莫朝
莫朝(マクちょう、ばくちょう、、1527年 - 1677年)は、ベトナムの北部を支配した王朝である。.
聚楽第
聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。.
選帝侯
ハインリヒ7世時代) 選帝侯(せんていこう、Kurfürst)は、神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。.
選挙君主制
選挙君主制(せんきょくんしゅせい)は、君主を世襲によらず選挙によって選出する政治体制のこと。.
新しい!!: 16世紀と選挙君主制 · 続きを見る »
聖人
聖人(せいじん[漢音]、しょうにん[呉音])とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。.
聖ヨハネ騎士団
聖ヨハネ騎士団(せいヨハネきしだん)は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。 本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロドス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis.、Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。.
新しい!!: 16世紀と聖ヨハネ騎士団 · 続きを見る »
聖ワシリイ大聖堂
聖ワシリイ大聖堂(露:Собор Василия Блаженного)はロシアの首都、モスクワの赤の広場に立つロシア正教会の大聖堂。正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂」(Собор Покрова что на Рву、詳細は#名称・記憶を参照)。 「聖ワシリー大聖堂」「聖ヴァシーリー大聖堂」「聖ワシーリー寺院」とも日本では表記される。 1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、カザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる。1990年にユネスコの世界遺産に登録された。 ゲームソフト等で有名なテトリスでは、ロシア文化をイメージとした背景や音楽等がよく用いられており、聖ワシリイ大聖堂もしばしば背景画像やパッケージとして使われている。 「クレムリンの聖ワシリイ大聖堂」といった説明がされる事もあるが、大聖堂はクレムリンの城壁の内側には位置していないため誤りである。聖ワシリイ大聖堂が位置する赤の広場はクレムリンの城壁の外側にある。.
新しい!!: 16世紀と聖ワシリイ大聖堂 · 続きを見る »
聖アウグスチノ修道会
聖アウグスチノ修道会の会章 聖アウグスチノ修道会(せいアウグスチノしゅうどうかい、Ordo Sancti Augustini,略称: O.S.A.)は、聖アウグスティヌスの作った会則に基づいて修道生活を送っていた修道士のグループが、13世紀半ばに合同して成立した修道会。ドミニコ会やフランシスコ会、カルメル会と並ぶ托鉢修道会として知られる。.
新しい!!: 16世紀と聖アウグスチノ修道会 · 続きを見る »
聖公会祈祷書
祷書(Book of Common Prayer はキリスト教の一派であるイングランド国教会から始まった世界の聖公会教会が広く使っている礼拝の式文の集大成である。.
新しい!!: 16世紀と聖公会祈祷書 · 続きを見る »
聖餐論
聖餐論(せいさんろん)とは、キリスト教において、聖餐(聖体)の聖礼典(秘跡・機密)に関する教義上の捉え方に対する神学的な議論のことである。ここでは、各キリスト教諸教派における聖餐論の相違について述べる。.
聖母の出現
聖母の出現(せいぼのしゅつげん、Marian apparition、聖母の顕現)とは、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事を言う。なお、聖母マリアがこのように特定人物や、一般大衆の前に姿を持って出現することを顕現(けんげん)とも言う。.
新しい!!: 16世紀と聖母の出現 · 続きを見る »
道化師
お祭りの道化師 トマス・モア一家の肖像画。後列右から2人目がモア家お抱えの道化ヘンリー・パテンソン。1592年 道化師(どうけし、中国語:小丑)または道化(どうけ)は、滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称。大道芸やサーカスのクラウン 、中世ヨーロッパの宮廷道化師、歌舞伎の道化方、幇間など、世界各地にさまざまな形がある。.
華県地震
華県地震(かけんじしん)は、1556年1月23日(旧暦嘉靖34年12月12日)の朝、明の陝西省(現在の中華人民共和国陝西省)で起きた地震。近年の調査によると震源は陝西省の華山付近で、規模はマグニチュード8.0と推定。明嘉靖関中大地震(みんかせいかんちゅうだいじしん)・陝西地震(せんせいじしん)ともいう。 「明実録」という書物によると、この地震による死者は朝廷に報告されたものだけで83万人、実際はそれをさらに上回る死者数を出したとされ、人類史上最悪の震災を引き起こした。この地域は当時も今も窰洞(ヤオトン)と呼ばれる横穴式住居が多く、それらが地震に伴う液状化現象で一斉に崩壊して被害を大きくしたと考えられている。震源から840kmもの広範囲にわたって破壊され、ある地域では人口の60%が死亡した。 Category:中国の地震 Category:16世紀の地震 Category:明朝 Category:陝西省の歴史 Category:渭南市 Category:1556年の中国.
菜根譚
菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。別名「処世修養篇」(孫鏘(そん しょう)の説)。洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。 その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。中国ではあまり重んじられず、かえって日本の加賀藩儒者、林蓀坡(はやし そんぱ、1781年-1836年)によって文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読され、仏典に準ずる扱いも受けてきた。また実業家や政治家などにも愛読されてきた。尊経閣文庫に明本が所蔵されている。 菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。 「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)などの人生の指南書ともいえる名言が多い。.
顕如
顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.
西遊記
西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園) 京劇の『西遊記』 『西遊記』(さいゆうき、、、)は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述。 『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。.
西暦
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.
西欧
西欧(せいおう).
首都
ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.
覇権
覇権(はけん)あるいはヘゲモニー(hegemony)とは、特定の人物または集団が長期にわたってほとんど不動とも思われる地位あるいは権力を掌握すること。それによる地域あるいは国家の統治を覇権統治という。それに成功した国や人物は、覇者と呼ばれる。 但し、覇権を得る過程はいわゆる既定路線や全体的同意によるものであってはならず、相対的に有利な立場にある者が武力、権力、財力などの力(power)の行使によってその敵対的立場にある者を制し、勝利あるいは事実上の最優位の立場を獲得することによってでなければそれは覇権とは称されない。 覇権や覇権主義にしても、組織を巨大化する方策として有効な手段であるため、一概に悪とは言えない。第二次大戦下、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシがこの用語を多用したことから一般に広まったとされる。覇権は、被支配者の「同意に基く」支配を強調した統治体系という理解が一般的である。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
騎士戦争
騎士戦争()は、1522年秋から1523年春にかけて、宗教改革期のドイツ南西部で起きた戦乱。 (1481-1523)とウルリヒ・フォン・フッテン(1488-1523)が在地の騎士を率いてトリーア大司教に対して起こした争いである。.
許仲琳
許 仲琳(きょ ちゅうりん)は、中国明朝の小説家・著作家。神怪小説『封神演義』の最も古い版本には許仲琳の名が記されており、『封神演義』作者説を持つ人物の一人である。だが『封神演義』以外では特に伝記は残されておらず、低層の知識人である可能性や、誰かの仮構した名前である可能性も指摘されている。また「鐘山逸叟」と号していることから、南京に住んでいたとする説もある。 Category:明代の人物 Category:中国の小説家 Category:中国の著作家.
言継卿記
『言継卿記』(ときつぐきょうき)は、戦国期の公家、山科言継の日記。1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。 一年分をまとめて冊子にして、表紙の扉の表には甲子・土用入など注意を要する日付を列記し、扉の裏には天皇の年齢と「御哀日」、自身の家族の年齢と「衰日」を列記している。 なお山科言継は上泉信綱と親しく来訪の記録がある。また、言継は医療にも精通しており、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。 現在、京都大学や東京大学史料編纂所などに保管されている。.
高台寺
台寺、髙臺寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。 霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。.
魔女狩り
女狩り(まじょがり、chasse aux sorcières、Hexenverfolgung、witch-hunt)は、魔女または妖術の被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と結託してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。 かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。 妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会にみられる人類学的事象であり、20世紀以降もアフリカ、パプアニューギニア、インドなどで妖術の容疑者に対する迫害が行われたことが報告されている。それら非ヨーロッパ諸国の現代の魔女狩りとヨーロッパの歴史的魔女狩りとの類似点に鑑み、魔女狩りの定義を拡大適用して時代や地域の限定から解き放つ必要が生じている。.
豊後国
豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豊臣秀次
豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.
豊臣政権
豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.
貴婦人の和約
レイマン大帝 B・ファン・オルレイ画 貴婦人の和約(きふじんのわやく、仏:Paix des Dames;独:Damenfriede)は、1529年8月3日に神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国およびスペイン)とフランスとの間で結ばれた、イタリア戦争の一環であるコニャック同盟戦争を終結させるための講和条約。カンブレーの和約(仏:Paix de Cambrai;独:Friede von Cambrai)とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と貴婦人の和約 · 続きを見る »
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。.
新しい!!: 16世紀と賤ヶ岳の戦い · 続きを見る »
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
越前一向一揆
越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。 天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。.
新しい!!: 16世紀と越前一向一揆 · 続きを見る »
足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.
足利義維
足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(※実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方・平島公方と呼ばれた。.
足利義輝
足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.
足利義栄
足利 義栄(あしかが よしひで)は、戦国時代の室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月 - 9月)。.
足利義昭
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.
足利義晴
足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.
足利晴氏
足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。.
践祚
践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。.
鹿児島市
かごしま県民交流センター 鹿児島市(かごしまし)は、九州の南部に位置する市であり、鹿児島県の県庁所在地でもある。 鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観がイタリアのナポリからヴェズーヴィオ火山を望む風景に似ていることから、『東洋のナポリ』と称される。.
黎朝
黎朝(レちょう、れいちょう、、1428年 - 1527年、1532年 - 1789年)は、黎利(レ・ロイ、)によって建てられたベトナムの王朝である。 ベトナム史において「黎朝」が2度存在したため、10世紀に黎桓の建てた王朝を前黎朝()とし、こちらを後黎朝()と呼んで区別することがあるが、一般的に「黎朝」といえば19年しか続かなかった前黎朝でなく、前期後期あわせて250年を超える後黎朝を指す。また、莫氏()の簒奪による一時断絶を境に前期(初黎朝、)と後期(中興黎朝 、)に分ける。.
黒田孝高
黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.
黒田長政
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.
黒死館殺人事件
『黒死館殺人事件』(こくしかんさつじんじけん)は、小栗虫太郎の長編探偵小説。 全編、膨大な衒学趣味(ペダントリー)に彩られており、夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫(筆名:塔晶夫)『虚無への供物』とともに、日本探偵小説史上の「三大奇書」、三大アンチミステリーに数えられている。.
新しい!!: 16世紀と黒死館殺人事件 · 続きを見る »
黄金の自由
金の自由(おうごんのじゆう、ラテン語:Aurea Libertas アウレア・リベルタス、ポーランド語:Złota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族共和国または貴族民主主義とは、ポーランド王国およびルブリン合同(1569年)後のポーランド・リトアニア共和国において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議会)を構成し、国王を選挙によって選出していた(選挙王政)。.
新しい!!: 16世紀と黄金の自由 · 続きを見る »
近世
近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.
錬金術
ウィリアム・ダグラス作 『錬金術師』 錬金術(れんきんじゅつ、خيمياء alchemia, alchimia alchemy)とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。 古代ギリシアのアリストテレスらは、万物は火、気、水、土の四大元素から構成されていると考えた。ここから卑金属を黄金に変成させようとする「錬金術」が生まれる。錬金術はヘレニズム文化の中心であった紀元前のエジプトのアレクサンドリアからイスラム世界に伝わり発展。12世紀にはイスラム錬金術がラテン語訳されてヨーロッパでさかんに研究されるようになった。 17世紀後半になると錬金術師でもあった化学者のロバート・ボイルが四大元素説を否定、アントワーヌ・ラヴォアジェが著書で33の元素や「質量保存の法則」を発表するに至り、錬金術は近代化学へと変貌した。 錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており、実験道具が発明された。これらの成果も現在の化学に引き継がれている。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。.
露梁海戦
露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。 露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献では成功した作戦として記述されている。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。.
胡宗憲
胡 宗憲(こ そうけん、生年不詳 - 1565年3月)は、中国、明代の武将である。字は汝貞、号は梅林。諡は襄懋。 徽州績渓県の生まれ。1538年に科挙に合格、1553年に御使となり、趙文華、厳嵩の下で働き、北方防備などを務める。 浙直総督となり、朱紈、戚継光、兪大猷らとともに中国沿岸部で密貿易などを行っていた倭寇(後期倭寇)の討伐を行う。1556年には倭寇の頭目であった徐海を下し、1557年には同郷であった王直を懐柔して逮捕する。胡宗憲は王直の助命と海禁政策の緩和を嘆願するが、明の官僚の命で王直を処刑する。 王直逮捕の功績で太子太保となるが、福建で倭寇の活動が活発になると結託を疑われ逮捕され、獄中で自殺。 『籌海図編』の編者とされることがあるが、誤りである。中国の政治家胡錦濤は末裔とされる。.
蘭陵笑笑生
蘭陵笑笑生(らんりょうしょうしょうせい、簡体字表記:兰陵笑笑生、本名不明、生没年不詳)は中国、明代の小説家。文人。中国四大奇書の一つ『金瓶梅』の作者。『金瓶梅』が中国文学史上の傑作にも拘わらず、その実像はまったくわからない。中国では「蘭陵笑笑生は誰か」かは、現在にいたるまで論争が続いている。 蘭陵笑笑生は生きていたと推定される中国明代の、他の文人であったのではないかという別人説もある。中国金瓶梅学会の元副会長を務めた研究員、呉敢によれば、王世貞、賈三近、屠隆、李開先、徐渭、王稚登らが蘭陵笑笑生と同一人物ではないかという説を挙げている。.
新しい!!: 16世紀と蘭陵笑笑生 · 続きを見る »
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
新しい!!: 16世紀と関ヶ原の戦い · 続きを見る »
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
関東地方
関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.
関東管領
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.
薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
鄭舜功
鄭舜功(ていしゅんこう、生没年不詳)は、中国明後期の探検家。現在の広東省深圳市の出身。戦国時代の日本を調査し、日本の資料を分析して編纂された百科事典『日本一鑑』(または『日本一鑑 桴海図経』、中国のまたの名『捍海図経』)編者であり、後の写本が発見され、戦国時代日本の研究の重要資料とされている。 また、その一節が(軽重はともかく)尖閣諸島問題の話題の一つにもなっている。.
自由意志
自由意志(じゆういし、free will、freier Wille、libre arbitre、liberum arbitrium)とは、他から束縛されず自らの責任において決定する意思。言い換えれば、行為者の自由な意志のこと。.
金瓶梅
『金瓶梅』(きんぺいばい、)は、明代の長編小説で、四大奇書の一つ。著者は蘭陵の笑笑生ということになっている。万暦年間(1573年 - 1620年)に成立したと考えられている。序にあるように猥書すなわち官能小説として知られ、しばしば発禁処分をうけた 。タイトルの『金瓶梅』はストーリーの中心となっている3人の女性、潘金蓮、李瓶児、春梅(龐春梅)の名前から1文字ずつ取ったものである。 『金瓶梅』は『水滸伝』の 第二十三話から二十七話までの武松のエピソードを敷衍させたものであり、『水滸伝』からのスピンオフ作品である。『水滸伝』の武松の虎退治のエピソードを入り口とし、そこに登場する武松の兄嫁の潘金蓮は姦通した後殺されずに姦夫の西門慶と暮らし始めるという設定となっている。ストーリーが『水滸伝』から分岐した後は、富豪の西門慶に、金蓮も含めて6人の夫人やその他の女性がからみ、邸宅内の生活や欲望が展開してゆく。『水滸伝』同様に北宋末を舞台とするが、綿密かつ巧みに描写されている富裕な商人の風俗や生活には、明代後期の爛熟した社会風俗が反映している。.
金襴の陣
金襴の陣(きんらんのじん、Field of the Cloth of GoldまたはField of the Golden Cloth、Le Camp du Drap d'Or)は、フランス、カレー近郊バランゲム(en)の平原で行われたイングランド王とフランス王の会見、あるいはその際に設けられた会場を指す。「錦野の会見」とも呼ばれる。1518年の英仏条約を受けて両君の親交を深めるため、ここで1520年6月7日から6月24日にかけてヘンリー8世とフランソワ1世の会見が行われた。なお英語におけるField of the Cloth of Goldは、特定の金の布地とは関係ないことから一種の語法違反であるが、少なくとも18世紀以降の英語に浸透している呼称である。.
長宗我部元親
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.
新しい!!: 16世紀と長宗我部元親 · 続きを見る »
長崎
長崎(ながさき).
長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方北西端に位置する県である。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など、数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから、海岸線の長さは47都道府県中第2位もしくは第1位である(※「地形」節にて詳説)。.
長崎港
長崎水辺の森公園 長崎港(ながさきこう)は長崎県長崎市に位置する港湾である。港湾管理者は長崎県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。.
長篠の戦い
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。 決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。.
新しい!!: 16世紀と長篠の戦い · 続きを見る »
長谷川等伯
長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。 能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。 楓図(旧祥雲寺障壁画のうち)智積院蔵 松林図(右隻) 松林図(左隻).
新しい!!: 16世紀と長谷川等伯 · 続きを見る »
長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
長老派教会
長老派教会(ちょうろうはきょうかい、Presbyterianism, Presbyterian Church)は、キリスト教のプロテスタント、カルヴァン派の教派。長老教会、長老派とも訳される。.
新しい!!: 16世紀と長老派教会 · 続きを見る »
鉄砲伝来
鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わったこと、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わった。年代については、1542年説、1543年説やそれ以前とするなど、諸説ある。.
雪舟
雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))は、室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。 現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。このほか、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。.
雪村
雪村(せっそん、永正元年(1504年)? - 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。.
陰シツ録
『陰騭録』(いんしつろく)とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生き、74歳で亡くなった袁了凡(えん りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自分から運命を創造してゆくことを悟った体験を書き記した書物である。善書の一種であり、『了凡四訓』とも呼ばれる。 “陰騭”という語は、『書経』洪範篇にある、「王(周の武王)箕子(重臣の名)を訪ふ、すなはち言ひて曰く、『ああ箕子、これ天、陰に下民を騭(さだ)め、その居を相協(しょうきょう)す』」(意味:天は冥々の中に生民の住むべきところを定め、その住居をする大地をもととのえて下さる)という言葉に由来している。.
陶晴賢
陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。 晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。.
陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
陸上自衛隊
上自衛隊(りくじょうじえいたい)は日本の自衛隊のうちの陸上部門にあたる組織である。また、官公庁の一つであり、防衛省の特別の機関の集合体である。 略称陸自(りくじ)、英称 Japan Ground Self-Defense Force (JGSDF)。諸外国からは Japanese Army(日本陸軍の意)に相当する語で表現されることがある。.
新しい!!: 16世紀と陸上自衛隊 · 続きを見る »
陽明学
王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.
暦
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、.
暗殺
リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.
投影法
投影法(とうえいほう)とは、もともとは「光をあてて影を映し出す」方法のことだが、ラテン語から来た用語(例えば英語: projection)で、「原義:前に投げ出す」の訳語として用いられ、“projection”の多義にしたがって、意味が広がった。.
柳成龍
柳成龍(りゅう せいりゅう、朝鮮語読み:リュ・ソンニョン、1542年 - 1607年6月7日(大統暦万暦三十五年五月十三日))は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した。字は而見。号は西厓、諡は文忠。派閥は東人(分裂後南人)。柳仲郢の二男。.
柴田勝家
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。.
恩寵
恩寵(おんちょう)とは、めぐみいつくしむこと。.
提督
提督(ていとく) 提綱監督の意。.
李卓吾
李贄(李卓吾)の肖像画 李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) - 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は中国明代の思想家、評論家。陽明学左派に属する。 原名は林 載贄(りん さいし)。後に姓を李と改める。また1566年、即位した隆慶帝朱載垕の避諱により「載」字を除き、李 贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。.
李如松
李 如松(り じょしょう、1549年(嘉靖28年) - 1598年(万暦26年))は、明代の武将。.
李珥
李 珥(り・じ、イ・イ、1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユㇽゴㇰ)、字は叔献(しゅくけん、スコㇴ)。大韓民国では『東方の聖人』と呼ばれている。朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。李滉の主理説に対し主気説を展開した。朝鮮王朝に仕え、政界においても各方面で積極的な政治改革案を提議した。 大韓民国では5000ウォンの紙幣の肖像画である。.
李舜臣
李 舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン、이순신、1545年4月18日(明暦: 嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日)は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされるが、党争の影響でしばしば讒言を受け、また、抗命したことで兵卒に落とされるなど浮き沈みが激しく、元均の戦死で復権したが、露梁海戦で戦死した。死後に贈られた謚は忠武公(충무공)。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
李滉
李 滉(り こう / イ ファン、ユリウス暦1501年12月24日(大統暦弘治十四年十一月二十五日) - ユリウス暦1570年12月24日(大統暦隆慶四年十二月初八日))は李氏朝鮮の儒学者。字は景浩(キョンホ)。号は退渓、陶翁、清涼山人、真宝人。李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称される。.
李時珍
李時珍、生家にて 李時珍(り じちん、1518年7月3日(正徳13年5月26日) - 1593年(万暦21年))は、字を東璧、号を「瀕湖仙人」といい、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』や、奇経や脈診の解説書である『瀕湖脈学』、『奇経八脈考』を著した。.
東大寺大仏殿の戦い
東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。.
新しい!!: 16世紀と東大寺大仏殿の戦い · 続きを見る »
東山
東山(ひがしやま、とうざん).
松林図屏風
松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)は、安土桃山時代の絵師・長谷川等伯の代表作。紙本墨画、六曲一双、各縦156.8cm横356.0cm(本紙部分のみ)の屏風画である。「美術史上日本の水墨画を自立させた」と称される、近世日本水墨画の代表作の1つ。国宝。東京国立博物館蔵。.
新しい!!: 16世紀と松林図屏風 · 続きを見る »
松永久秀
松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。.
桶狭間の戦い
今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.
新しい!!: 16世紀と桶狭間の戦い · 続きを見る »
楊廷和
楊廷和(よう・ていわ、1459年-1529年)は明代の官人。字は介夫。号は石齋、諡は文忠。父は楊春、官位は湖広省提学僉事に至る。子に楊慎がいる。現在の四川省成都市新都区の出身であるが、祖籍は江西省廬陵県。.
楊応龍の乱
楊応龍の乱(ようおうりゅうのらん)は、1591年(万暦19年)から1600年(万暦28年)にかけて明の播州で起きた反乱。播州の乱とも呼ばれる。明朝の万暦帝の治下における万暦の三征の一つ。.
新しい!!: 16世紀と楊応龍の乱 · 続きを見る »
楽市・楽座
楽市・楽座(らくいち・らくざ)は、日本の安土桃山時代(戦国時代 後期)において、織田信長や、豊臣秀吉の豊臣政権や各地の戦国大名などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政策である。楽市令、「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。.
新しい!!: 16世紀と楽市・楽座 · 続きを見る »
檄文事件
檄文事件(げきぶんじけん, affaire des placards, 1534年10月18日)は、16世紀フランス王国の宗教改革期に起こった事件。これをきっかけにプロテスタントへの弾圧が強化された。.
正徳帝
正徳帝(せいとくてい)は、明朝の第11代皇帝。諱は厚照(こうしょう)。廟号は武宗 (ぶそう)。日本では治世の元号から一般に正徳帝と称されている。 弘治帝が立て直した国勢を再び衰退させ、明朝滅亡の要因を作り出した皇帝であると言える。.
正親町天皇
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.
新しい!!: 16世紀と正親町天皇 · 続きを見る »
武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.
死刑
死刑(しけい)は、対象者(死刑囚)を死亡させる刑罰である。抽象的な表現として「極刑(きょっけい)」あるいは「処刑(しょけい)」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
殉教
殉教(じゅんきょう)とは自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。キリスト教の歴史でよく用いられる言葉であるが、キリスト教以外の宗教でも見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。なおキリスト教の一教派である正教会(日本ハリストス正教会)では殉教との語を使わず、致命(ちめい)・致命者の語を用いる。.
比叡山焼き討ち (1571年)
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。.
新しい!!: 16世紀と比叡山焼き討ち (1571年) · 続きを見る »
毛利元就
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.
毛利輝元
毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。.
水墨画
水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.
永禄の変
永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある。.
永正の錯乱
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.
新しい!!: 16世紀と永正の錯乱 · 続きを見る »
江口の戦い
江口の戦い(えぐちのたたかい)は、天文18年(1549年)6月12日から6月24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶軍と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦いである。江口合戦とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と江口の戦い · 続きを見る »
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
河越城の戦い
河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。本稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。.
新しい!!: 16世紀と河越城の戦い · 続きを見る »
法華一揆
法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。.
洛中洛外図
洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵である。2点が国宝、5点が重要文化財に指定される(2016年現在)など、文化史的・学術的な価値が高く評価され、美術史や建築史、および都市史や社会史の観点から研究されている。戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて制作された。現存するものの中で良質なものは30〜40点とされる。.
新しい!!: 16世紀と洛中洛外図 · 続きを見る »
清原宣賢
清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。.
清洲会議
三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵 清洲城模擬天守 清洲会議(きよすかいぎ)は、安土桃山時代の天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある。.
湯顕祖
湯 顕祖(とう けんそ、1550年9月24日(嘉靖29年8月14日) - 1616年7月29日(万暦44年6月16日))は、中国明代の劇作家。字は義仍。江西臨川の人。シェイクスピアとほぼ同時期を生きたため、「中国のシェイクスピア」とも言われる。湯の戯曲は当時の昆劇の曲律に合わないため歌いにくく、レーゼドラマと見なされることもある。湯自身も演じやすさより文学的効果のほうにこだわったらしく、「演者の喉を切っても構わない」と言ったと伝えられる。.
服部半蔵
服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。 もともとの先祖は、伊賀国花垣村余野(現伊賀市)に居住し、そこで代々伊賀流忍者の首領を務めてきた一族とされる。.
服部正成
服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。 松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。.
朝鮮
統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.
本草学
本草学(ほんぞうがく)は、中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である。.
本草綱目
本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者は明朝の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓された。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及ぶ。 慶長12年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上している。これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる。 2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.
本願寺
本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。 各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。16世紀末期に東西に分裂、東側は20世紀後期に発生したお東騒動の影響で更に分裂した。東西分裂前の本願寺については本願寺の歴史を参照のこと。.
本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).
新しい!!: 16世紀と本能寺の変 · 続きを見る »
朱子学
朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.
有馬晴信
有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴から偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名。.
最後の審判
最後の審判(さいごのしんぱん、Last Judgement)とは、ゾロアスター教およびアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰である。.
新しい!!: 16世紀と最後の審判 · 続きを見る »
最後の審判 (ミケランジェロ)
『最後の審判』(さいごのしんぱん、イタリア語 Giudizio Universale)は、ルネサンス期の芸術家ミケランジェロの代表作で、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画である。1541年に完成した。.
新しい!!: 16世紀と最後の審判 (ミケランジェロ) · 続きを見る »
戊午士禍
戊午士禍(ぼごしか、ムオサファ、무오사화)とは、李氏朝鮮王朝中期(15世紀末 - 16世紀半ば)に、前後4回にわたって起こった「士林派」に対する政治的迫害事件(のちに「四大士禍」と呼ばれる)のうち、燕山君(在位:1494年~1506年)の時代に最初に起こった士禍で、燕山君の即位した干支をとって「戊午士禍(ぼごしか)」、また史草が発端となったので「戊午史禍(ぼごしか)」ともいう。.
戚継光
右 右 戚 継光(せき けいこう、拼音:Qī Jì-guāng、嘉靖7年十月初一日(西暦で1528年11月12日) - 万暦15年十二月初八日(西暦で1588年1月2日)は、中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。.
成聖者
三成聖者のイコン。(16世紀、プスコフ) 成聖者(せいせいしゃ、Святитель)とは正教会の聖人の称号。主教(総主教・府主教・大主教を含む)であった聖人にこの称号が付されて記憶される。.
戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.
戦国自衛隊1549
『戦国自衛隊1549』(せんごくじえいたい1549)は、角川映画制作の日本映画。配給は東宝。原案は半村良、原作は福井晴敏。2005年(平成17年)6月11日に日本で全国公開された。 1979年(昭和54年)の『戦国自衛隊』のリメイク的な作品であるが、前作とはストーリー、キャラクターともにかなり異なる。また、2組目の自衛隊が故意にタイムスリップするという独自の展開もある。 キャッチコピーは「消滅するのは、歴史か?俺たちか?.
新しい!!: 16世紀と戦国自衛隊1549 · 続きを見る »
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
新しい!!: 16世紀と戦国時代 (日本) · 続きを見る »
明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明応の政変
明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.
新しい!!: 16世紀と明応の政変 · 続きを見る »
明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.
海瑞
海瑞像 海 瑞(かい ずい ハイルイ:Hăi Ruì、正徳九年(1514年) - 万暦十五年(1587年))は中国明中期の政治家。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された。清廉潔白な官僚として評価を得ている人物である。.
海瑞罷官
『海瑞罷官』(かいずいひかん、、「海瑞の罷免」)は、呉晗が1961年に発表した京劇戯曲。 1959年4月、上海で湘劇(湖南省の地方劇)を見た毛沢東が、海瑞の「直言敢諫」精神を宣伝するように秘書の胡喬木に指示したことを受け、当時の北京市副市長・清華大学教授の明代史研究者である呉晗は、『海瑞を論ず』等の歴史エッセイを発表していた。これを読んだ北京京劇団団長の馬連良が呉晗に海瑞を描いた戯曲執筆を依頼、呉晗は初めは京劇の素人だからとためらったが、結局執筆を引き受けた。何回かの書き直しの後、1960年11月に完成した。題名は、当初は『海瑞』だったが、友人の勧めで『海瑞罷官』とした。『北京文芸』1961年1月号に掲載され、北京京劇団によって1961年2月11日より上演された。 「罷」とは職を辞めさせられることで、タイトルは「海瑞の免職」というほどの意味である。作品の内容は明の時代、正義派の官吏の海瑞が、巡撫に任ぜられて赴任した土地で、民衆を苦しめる悪徳地方官僚を懲罰して民衆を冤罪から救済し、地方官僚が民衆から没収した土地を民衆に返還したため、地方官僚の陰謀で官職を罷免されるが、罷免の直前に悪徳官僚処刑を断行したというもの。呉晗は、海瑞が嘉靖帝を諫める上訴をして罷免された嘉靖45年の物語は、すでに上海で上海京劇院院長周信芳らによって劇化された『海瑞上疏』があるので、地方官僚の陰謀で罷免された隆慶3年冬の物語を取りあげたのである。上演された舞台は著名な歴史学者が京劇戯曲を書いたという新鮮さと馬連良らの演技で成功したが、京劇の玄人からはあまり好評ではなく、上演は長続きしなかった。 1965年11月10日、姚文元は、上海の日刊紙『文匯報』に、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文()を発表した。この論文は、『海瑞罷官』の冤罪取り消し(平冤獄)と土地の民衆への返還(退田)は、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配・人民公社解体を主張するもので、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃するものであった。当初、なぜ突然この劇を批判したのか姚の真意を疑うものが多かったが、姚の意図は毛沢東の意向を受け、呉晗の上司である彭真を失脚に追い込むことであった。毛沢東はさらに1965年12月21日内部談話で「姚文元の文章もいい。(中略)しかし急所にあたってはいない。急所とは“罷官”だ。嘉靖皇帝は海瑞を罷免した。59年我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も“海瑞”だ」と述べ、強引に本来は無関係だった『海瑞罷官』と彭徳懐罷免を結びつけた。この毛沢東の談話で『海瑞罷官』は彭徳懐解任を批判・影射した作品だという印象が急速に形成された。 結果として、この論文が文化大革命の序幕となり、その後まず彭真を始め、陸定一、羅瑞卿、楊尚昆の四人が失脚し、続いて劉少奇国家主席も失脚した。呉晗は文革中の1968年に投獄され獄中で死亡した(死因不明)。.
海賊
海賊旗(ジョリー・ロジャー) ジョン・ラカムの海賊旗 海賊(かいぞく、)とは、船舶や沿岸を襲撃することによって、金品を強奪する盗賊を指す。.
浄土真宗
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.
浅間山
浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。.
斎藤道三
斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.
新世界
緑の地域(南北アメリカ大陸やオーストラリア周辺)が大航海時代の新世界 新世界(しんせかい、New World)あるいは新大陸(しんたいりく、New Continent)とは、大航海時代に欧州人が新たに発見した土地に対する呼称である。.
新約聖書
『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはキリストが生まれる前までを旧約聖書、キリスト生誕後を新約聖書がまとめている。.
新暦
新暦(しんれき)とは改暦が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。日本ほか東アジアの諸国においては太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言う。.
新撰犬筑波集
『新撰犬筑波集』(しんせんいぬつくばしゅう)は、室町時代後期の俳諧連歌撰集。撰者は山崎宗鑑。1冊。 大永4年(1524年)以降の成立。山崎宗鑑のものに後代次々と増補されていったと考えられ、異本が多く収録内容も多様である。俳諧連歌集としては『竹馬狂吟集』に次ぐ最初期の撰集で、近世以降、特に俳諧連歌集の祖とされ有名になった。江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えたという。 慶長・元和の頃の刊本では『犬筑波集』表記。しかし写本では『俳諧連歌』『俳諧連歌抄』と呼ばれており、『犬筑波集』は当初からの呼称ではない。「犬」は連歌からの俳諧連歌に対する卑称で、『犬筑波集』は連歌集たる『新撰菟玖波集』に対する表現となっている。 収録される俳諧連歌は、「付句」と「発句」から構成される。また「付句」は四季に、「発句」は四季・恋・雑に部類分けされている。卑俗な滑稽を狙って卑猥な表現を直接的に歌っており、連歌への反意・批判の意図が感じられるとされる。 Category:室町時代の歌集 Category:16世紀の書籍 Category:16世紀の詩 Category:俳諧集.
新しい!!: 16世紀と新撰犬筑波集 · 続きを見る »
方広寺
方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。.
文彭
文彭(ぶん ぽう、男性、弘治10年(1497年) - 万暦元年(1573年))は、中国明代の書家、画家、篆刻家である。明代四大家のひとりである文徴明の長子であり、文嘉は弟にあたる。特に篆刻に優れた業績を遺した。江蘇蘇州の人。 字は寿承、号は三橋、漁陽子、三橋居士。南京国子監博士・北京国子監博士を歴任したので文国博と称された。.
文徴明
文徴明(ぶん ちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年11月28日) - 嘉靖38年2月20日(1559年3月28日))は、中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。 長洲県(江蘇省蘇州市)の人。幼名を壁または璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。.
文化
文化(ぶんか、)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。.
文嘉
文嘉(ぶん か、男性、1501年 - 1583年)は、中国明代の書家、画家、文人である。明代四大家のひとりである文徴明の次男であり、文彭は兄にあたる。江蘇蘇州の人。 字は休承、号は文水。 諸生のときに烏程県の教員をして、後に学正(文官)となる。文家の家学をよく継承し山水画を得意とし、石刻は明代の第一といわれた。また書画や器物の鑑定家として活躍した。.
文禄・慶長の役
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.
新しい!!: 16世紀と文禄・慶長の役 · 続きを見る »
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本一鑑
日本一鑑(にほんいっかん)とは、明の鄭舜功が戦国時代の日本に関して情報を収集し編纂した研究書で、日本百科全書である。全3部16巻。.
日本二十六聖人
日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。.
新しい!!: 16世紀と日本二十六聖人 · 続きを見る »
旧約聖書
旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は、ユダヤ教の聖典であるタナハを元に書かれたキリスト教の正典である。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての『新約聖書』を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」である。そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、単に聖書と呼ばれる。『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。.
旃檀林
吉祥寺にある「旃檀林」の額 旃檀林(せんだんりん)は、1592年に駿河台の吉祥寺内に設けられた学寮を指す。.
摺上原の戦い
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、戦国時代の1589年7月17日(天正17年旧暦6月5日)に、磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝し、南奥州の覇権を確立した。.
新しい!!: 16世紀と摺上原の戦い · 続きを見る »
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
悪魔
悪魔(あくま)とは、特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在をあらわす言葉である中村元、福永光司、田村芳朗、今野達、末木文美士 編 『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年、p.6。 悪魔は、仏教では仏道を邪魔する悪神を意味し、煩悩のことであるとも捉えられる。キリスト教ではサタンを指し、神を誹謗中傷し、人間を誘惑する存在とされる。サタン以外の西洋文化の悪霊(デーモン)も現代日本語では一般に悪魔と呼ばれたりする。イスラム教においては悪魔はシャイターン、イブリースと呼ばれる。 宗教によっては神に敵対するものを指し、他宗教の神々への蔑称ともなる(後述)。.
悪魔の偽王国
『悪魔の偽王国』(あくまのぎおうこく、あくまのにせおうこく、Pseudomonarchia Daemonum)はヨハン・ヴァイヤーの主著『悪魔による眩惑について』(De praestigiis daemonum)の1577年の第五版に付された補遺である。原題は「デーモン(悪霊)の偽君主国」の意であり、地獄の悪霊たちを神聖ローマ帝国の封建体制を思わせる位階秩序をもつものとして記述している。 このグリモワールには『ソロモンの小鍵』の第一章である『ゴエティア』と同様に悪魔の一覧と召喚するのに適した時間と儀式が記されている。『ソロモンの小鍵』の現存する既知の写本は17世紀以降のもので、本書はそれ以前の16世紀に書かれたものである。しかし『ゴエティア』の原形の成立年代についてはっきりしたことは判明しておらず、いずれが先行する文献かは意見が分かれる。フレッド・ゲティングズは『悪魔の事典』の中で、『ソロモンの小鍵』の初期の版は15世紀初頭に遡ると仮定し(「グリモア」の項参照)、『悪魔の偽王国』は『レメゲトン』の初期の版を基に作られたと記している(『プセウドモナルキア・ダエモヌム』の項参照)。ジョゼフ・ピーターソンは、レジナルド・スコットが英訳した『悪魔の偽王国』には『ゴエティア』と同様にプルフラスの記載がないことから、『悪魔の偽王国』にプルフラスの脱落した版が存在した可能性を指摘し、その版が現行の『ゴエティア』の編成に影響を与えた可能性を示唆した。 『ゴエティア』で紹介される72の悪魔と『悪魔の偽王国』で紹介される69の悪魔のうち68体は共通しているが、その順番や特徴の一部は異なる。 『ゴエティア』には登場するが『悪魔の偽王国』に記述されていない4人の悪魔は ウァサゴ、セエレ、ダンタリオン、アンドロマリウス。 逆に『悪魔の偽王国』には登場するが『ゴエティア』に記述のない悪魔はプルフラスである。 その他の違いとして『ソロモンの小さな鍵』が悪魔に印章を対応させているのに対し、 『悪魔の偽王国』にはその記載がない。 著者のヴァイヤーはこれを書くにあたり Liber officiorum spirituum, seu Liber dictus Empto.
新しい!!: 16世紀と悪魔の偽王国 · 続きを見る »
改革派教会
改革派教会 (かいかくはきょうかい、ドイツ語Reformierte Kirche 英語:Reformed churches)はキリスト教プロテスタント教派のうち、フルドリッヒ・ツヴィングリを指導者としてスイスのチューリヒに始まり、ジュネーヴのフランス人ジャン・カルヴァンを中心とした世代に体系づけられたスイス宗教改革の神学と、それに基づく段階的な会議制を特徴とした教会組織を、自覚的に、しかし時には批判的に受け継ぐ教派の総称であり、かつ各個教会の呼称である。カルヴァン主義の教会政治と教理を採用する教会として「カルヴァン派」という通り名が用いられることがあるが、現在の神学と組織の多様性を考えて、総称としては一般的に「改革派教会」という用語が用いられることが多い。一教派として「改革派教会」という場合と区別し、以下に述べる神学的な意味を強調して「改革教会」という日本語を用いることもある。すなわち、「改革(派)教会」とは元来、神の言(ことば)によって改革された(完了形としてのreformed, reformierte)教会という意味であり、後の理解によれば同時に、神の言によって「常に改革される教会」Ecclesia reformata semper reformanda(ラテン語)であるという意味である。後者の自覚は、伝統を受け継ぎながらも時に適って更新される公的な信仰告白の、歴史的世界的な多様性の事実に現れている。これが、一冊のアウグスブルク信仰告白を共通して持つルター派教会やその他の諸教会との区別であると説明されることもある。.
新しい!!: 16世紀と改革派教会 · 続きを見る »
政略論
『政略論』(せいりゃくろん、Discorsi )は、政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリによる、1517年に完成した政治学の古典的著作である。原題は『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』(Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio)であり、日本では『ローマ史論』、『リウィウス論』、『ディスコルシ』とも呼ばれる。.
政治
本記事では政治(せいじ)とは何かについて解説していく。.
政治学
政治学の領域図は''Modern Political Analysis''(ロバート・ダール著、1963年)に基づくもの。政治学は関連する3つの対象領域をもつ。図は3つの対象領域の関係性を表したものである。ある一定の権力(青部分)から見ると、この権力はある一定の価値(赤部分)に基づいて、ある一定の領域(黄部分)に影響を及ぼしていることを表している 社会関係図は池田義祐の研究に基づく。政治が成立する社会の基礎にはさまざまな関係が存在している。とくに政治と関連が深いのは図でいう上下関係の部分である 政治学(せいじがく、politics, political science, political studies,また特に科学性を強調する場合はscience of politicsというこの場合の「科学性」は何をどれだけ数値化することで検証対象にし得るかという問題に収斂されていることが多い。)は、政治を対象とする学問分野。なお政治学の研究者を政治学者と呼ぶ。日本では主に法学部で研究・教育が行われているが一部の私立大学では政治学と経済学両方の修養が国家統治にとって有用とされた経緯から政治経済学部で教えられている。 大別すると広義の政治哲学と広義の政治過程論の二領域にわたるが、狭義には政治過程論のみを指す。.
懐疑主義
懐疑主義(かいぎしゅぎ、、)とは、基本的原理・認識に対して、その普遍妥当性、客観性ないし蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義(Dogmatismus)ないし独断論という。懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない、あるいは無神論へとつながる破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍妥当性及び客観性ないし蓋然性ある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語られることが多い。 経験的な証拠が欠如している主張の真実性、正確性、普遍妥当性を疑う認識論上の立場、および科学的・日常的な姿勢は科学的懐疑主義と呼ばれる。.
懲ヒ録
『懲毖録』(ちょうひろく)は、17世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。文禄・慶長の役を記録したもので、重要な資料として、韓国の国宝第132号に指定されている。.
敦賀市
敦賀市(つるがし)は、福井県南西部(嶺南地方)の敦賀湾に面する市である。原子力発電所が多く立地する都市、昆布の加工地として知られている。.
教皇
教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.
教皇マルチェルスのミサ曲
教皇マルチェルスのミサ曲(きょうこうマルチェスのミサきょく、Missa Papae Marcelli)は、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナが作曲したミサ曲。.
新しい!!: 16世紀と教皇マルチェルスのミサ曲 · 続きを見る »
慶長大地震
慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年 - 1615年)に日本列島で起こった地震。慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されている。 なお、1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、慶長豊後地震を9月1日とするものもある。また、1605年の慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され、さらに従来三陸沖が震源とされてきた1611年の慶長三陸地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出されるなど、震源域に諸説あって不明なものも多い。.
新しい!!: 16世紀と慶長大地震 · 続きを見る »
慶長伊予地震
慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に伊予国(現在の愛媛県)で発生した地震である。慶長伊予国地震とも呼ばれる。.
新しい!!: 16世紀と慶長伊予地震 · 続きを見る »
慶長伏見地震
慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。 京都では伏見城1594年築の指月伏見城であり、桃山丘陵にある現在の伏見桃山城とは異なる。2015年に瓦が発掘された。桃山丘陵の麓、巨椋池が広がる湿地帯のすぐ側にある小さな丘で地盤が弱かった。現在の地名は京都府京都市伏見区桃山町秦長老。天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超える。.
新しい!!: 16世紀と慶長伏見地震 · 続きを見る »
慶長豊後地震
慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人。 この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。ただし、これらの島は実在自体が未確認であり、瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。.
新しい!!: 16世紀と慶長豊後地震 · 続きを見る »
手取川の戦い
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破したとされる合戦である。.
新しい!!: 16世紀と手取川の戦い · 続きを見る »
曲直瀬道三
曲直瀬道三像(杏雨書屋蔵) 曲直瀬 道三(まなせ どうさん、永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)、翠竹庵(すいちくあん)、啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源氏、のち橘氏。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔があり、後に2代目「道三」を襲名している。.
新しい!!: 16世紀と曲直瀬道三 · 続きを見る »
智積院
名勝庭園 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。.
10月13日
10月13日(じゅうがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から286日目(閏年では287日目)にあたり、年末まであと79日ある。.
新しい!!: 16世紀と10月13日 · 続きを見る »
10月16日
10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。.
新しい!!: 16世紀と10月16日 · 続きを見る »
1420年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1420年 · 続きを見る »
1431年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1431年 · 続きを見る »
1436年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1436年 · 続きを見る »
1440年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1440年 · 続きを見る »
1443年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1443年 · 続きを見る »
1444年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1444年 · 続きを見る »
1448年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1448年 · 続きを見る »
1450年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1450年 · 続きを見る »
1451年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1451年 · 続きを見る »
1452年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1452年 · 続きを見る »
1453年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1453年 · 続きを見る »
1455年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1455年 · 続きを見る »
1456年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1456年 · 続きを見る »
1459年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1459年 · 続きを見る »
1460年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1460年 · 続きを見る »
1460年代
1460年代(せんよんひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1460年から1469年までの10年間を指す十年紀。.
新しい!!: 16世紀と1460年代 · 続きを見る »
1462年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1462年 · 続きを見る »
1463年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1463年 · 続きを見る »
1465年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1465年 · 続きを見る »
1466年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1466年 · 続きを見る »
1468年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1468年 · 続きを見る »
1469年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1469年 · 続きを見る »
1470年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1470年 · 続きを見る »
1471年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1471年 · 続きを見る »
1472年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1472年 · 続きを見る »
1473年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1473年 · 続きを見る »
1474年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1474年 · 続きを見る »
1475年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1475年 · 続きを見る »
1476年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1476年 · 続きを見る »
1477年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1477年 · 続きを見る »
1478年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1478年 · 続きを見る »
1479年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1479年 · 続きを見る »
1480年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1480年 · 続きを見る »
1481年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1481年 · 続きを見る »
1483年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1483年 · 続きを見る »
1484年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1484年 · 続きを見る »
1485年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1485年 · 続きを見る »
1486年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1486年 · 続きを見る »
1487年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1487年 · 続きを見る »
1488年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1488年 · 続きを見る »
1489年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1489年 · 続きを見る »
1490年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1490年 · 続きを見る »
1491年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1491年 · 続きを見る »
1492年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1492年 · 続きを見る »
1493年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1493年 · 続きを見る »
1494年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1494年 · 続きを見る »
1495年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1495年 · 続きを見る »
1496年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1496年 · 続きを見る »
1497年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1497年 · 続きを見る »
1498年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1498年 · 続きを見る »
1499年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1499年 · 続きを見る »
1500年
15世紀最後の年である。.
新しい!!: 16世紀と1500年 · 続きを見る »
1501年
金曜日から始まる。16世紀最初の年。.
新しい!!: 16世紀と1501年 · 続きを見る »
1502年
土曜日から始まる。.
新しい!!: 16世紀と1502年 · 続きを見る »
1503年
日曜日から始まる。.
新しい!!: 16世紀と1503年 · 続きを見る »
1504年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1504年 · 続きを見る »
1506年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1506年 · 続きを見る »
1507年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1507年 · 続きを見る »
1508年
土曜日から始まる。.
新しい!!: 16世紀と1508年 · 続きを見る »
1509年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1509年 · 続きを見る »
1510年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1510年 · 続きを見る »
1511年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1511年 · 続きを見る »
1512年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1512年 · 続きを見る »
1513年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1513年 · 続きを見る »
1514年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1514年 · 続きを見る »
1515年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1515年 · 続きを見る »
1516年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1516年 · 続きを見る »
1517年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1517年 · 続きを見る »
1518年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1518年 · 続きを見る »
1519年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1519年 · 続きを見る »
1520年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1520年 · 続きを見る »
1521年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1521年 · 続きを見る »
1522年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1522年 · 続きを見る »
1523年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1523年 · 続きを見る »
1524年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1524年 · 続きを見る »
1525年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1525年 · 続きを見る »
1526年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1526年 · 続きを見る »
1527年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1527年 · 続きを見る »
1528年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1528年 · 続きを見る »
1529年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1529年 · 続きを見る »
1530年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1530年 · 続きを見る »
1531年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1531年 · 続きを見る »
1532年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1532年 · 続きを見る »
1533年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1533年 · 続きを見る »
1534年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1534年 · 続きを見る »
1535年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1535年 · 続きを見る »
1536年
ユリウス暦の.
新しい!!: 16世紀と1536年 · 続きを見る »
1537年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1537年 · 続きを見る »
1538年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1538年 · 続きを見る »
1539年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1539年 · 続きを見る »
1540年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1540年 · 続きを見る »
1541年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1541年 · 続きを見る »
1542年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1542年 · 続きを見る »
1543年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1543年 · 続きを見る »
1544年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1544年 · 続きを見る »
1545年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1545年 · 続きを見る »
1546年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1546年 · 続きを見る »
1547年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1547年 · 続きを見る »
1548年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1548年 · 続きを見る »
1549年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1549年 · 続きを見る »
1550年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1550年 · 続きを見る »
1551年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1551年 · 続きを見る »
1552年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1552年 · 続きを見る »
1553年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1553年 · 続きを見る »
1554年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1554年 · 続きを見る »
1555年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1555年 · 続きを見る »
1556年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1556年 · 続きを見る »
1557年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1557年 · 続きを見る »
1558年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1558年 · 続きを見る »
1559年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1559年 · 続きを見る »
1560年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1560年 · 続きを見る »
1561年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1561年 · 続きを見る »
1562年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1562年 · 続きを見る »
1563年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1563年 · 続きを見る »
1564年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1564年 · 続きを見る »
1565年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1565年 · 続きを見る »
1566年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1566年 · 続きを見る »
1567年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1567年 · 続きを見る »
1568年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1568年 · 続きを見る »
1569年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1569年 · 続きを見る »
1570年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1570年 · 続きを見る »
1571年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1571年 · 続きを見る »
1572年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1572年 · 続きを見る »
1573年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1573年 · 続きを見る »
1574年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1574年 · 続きを見る »
1576年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1576年 · 続きを見る »
1577年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1577年 · 続きを見る »
1578年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1578年 · 続きを見る »
1579年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1579年 · 続きを見る »
1580年
金曜日から始まる。.
新しい!!: 16世紀と1580年 · 続きを見る »
1581年
日曜日から始まる。.
新しい!!: 16世紀と1581年 · 続きを見る »
1582年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1582年 · 続きを見る »
1583年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1583年 · 続きを見る »
1584年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1584年 · 続きを見る »
1585年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1585年 · 続きを見る »
1586年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1586年 · 続きを見る »
1587年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1587年 · 続きを見る »
1588年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1588年 · 続きを見る »
1589年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1589年 · 続きを見る »
1590年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1590年 · 続きを見る »
1591年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1591年 · 続きを見る »
1592年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1592年 · 続きを見る »
1593年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1593年 · 続きを見る »
1594年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1594年 · 続きを見る »
1595年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1595年 · 続きを見る »
1596年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1596年 · 続きを見る »
1597年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1597年 · 続きを見る »
1598年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1598年 · 続きを見る »
1599年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1599年 · 続きを見る »
1600年
400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.
新しい!!: 16世紀と1600年 · 続きを見る »
1602年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1602年 · 続きを見る »
1603年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1603年 · 続きを見る »
1604年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1604年 · 続きを見る »
1605年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1605年 · 続きを見る »
1606年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1606年 · 続きを見る »
1607年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1607年 · 続きを見る »
1608年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1608年 · 続きを見る »
1609年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1609年 · 続きを見る »
1610年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1610年 · 続きを見る »
1611年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1611年 · 続きを見る »
1612年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1612年 · 続きを見る »
1614年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1614年 · 続きを見る »
1615年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1615年 · 続きを見る »
1616年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1616年 · 続きを見る »
1617年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1617年 · 続きを見る »
1618年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1618年 · 続きを見る »
1619年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1619年 · 続きを見る »
1620年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1620年 · 続きを見る »
1621年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1621年 · 続きを見る »
1623年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1623年 · 続きを見る »
1624年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1624年 · 続きを見る »
1625年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1625年 · 続きを見る »
1626年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1626年 · 続きを見る »
1629年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1629年 · 続きを見る »
1632年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1632年 · 続きを見る »
1637年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1637年 · 続きを見る »
1642年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1642年 · 続きを見る »
1650年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1650年 · 続きを見る »
1654年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1654年 · 続きを見る »
1655年
記載なし。
新しい!!: 16世紀と1655年 · 続きを見る »
17世紀
ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.
2003年
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.
新しい!!: 16世紀と2003年 · 続きを見る »
2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.
新しい!!: 16世紀と2005年 · 続きを見る »
39箇条
39箇条(さんじゅうきゅう かじょう、The Thrity-Nine Articles)は、イングランド国教会が16世紀の神学論争の終止符を打つために、議会で受け入れた教義要綱である。この要綱で、カトリック教会、アナバプテスト派、改革派教会に対してイングランド教会の教理的立場を明らかにした。聖公会大綱とも呼ばれる。 聖公会の教義的立場を明確にする箇条ではあるが、全ての聖公会の教会が信徒に同意を義務付けるものではない。日本聖公会はその設立時に採用を見合わせた。.
95か条の論題
95か条の論題(95かじょうのろんだい、95 Thesen)は、1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。 一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されており、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられて印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。.
新しい!!: 16世紀と95か条の論題 · 続きを見る »
9世紀
船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.