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1192年

索引 1192年

記載なし。

118 関係: 十字軍南宋吉川経光壬子天台宗天皇天禧 (西遼)天資嘉瑞好子内親王完顔陳和尚官人官僚宇都宮業綱宇都宮氏富士山小槻季継巻狩中華人民共和国干支平安時代乾祐 (西夏)仏滅紀元建久征夷大将軍徳大寺実定後白河天皇北京市マリー・ド・モンフェラートチンギス・カンムスタンスィルモンフェッラート侯国ユーグ3世 (ブルゴーニュ公)ユダヤ暦リチャード1世 (イングランド王)ルーム・セルジューク朝ヴェネツィア共和国トルイブルゴーニュ公一覧ヒジュラ暦ドクター (ドクター・フー)ドクター・フーアッバース朝アイユーブ朝イングランド王国エルサレム王国オリオ・マストロピエノカリフクルチ・アルスラーン2世コンラート1世 (モンフェラート侯)...スルターンサラーフッディーン儒学者公卿元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)皇族神武天皇即位紀元第3回十字軍紹熙盧溝橋鎌倉幕府鎌倉時代顕真西夏西遼高麗藤原師長金 (王朝)陸象山李朝 (ベトナム)檀君紀元武士武将歌人源実朝源頼朝明宗 (高麗王)明昌 (金)斎宮1127年1131年1138年1139年1142年1146年1148年1156年1180年1183年1185年1190年11月14日 (旧暦)1212年1219年1232年1242年1244年1267年12月16日 (旧暦)12月20日2月1日2月24日 (旧暦)3月13日 (旧暦)4月26日4月28日4月8日7月12日 (旧暦)7月19日 (旧暦)7月3日 (旧暦)8月12日8月21日8月25日8月28日8月9日 (旧暦)9月17日 インデックスを展開 (68 もっと) »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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吉川経光

吉川 経光(きっかわ つねみつ)は、鎌倉時代中期の武士、御家人。吉川氏4代当主。 仁治元年(1240年)に父吉川朝経が死去。この時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。事実、経光は承久3年(1221年)の承久の乱でも鎌倉幕府側として参戦しており、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、本領の駿河国吉河荘、播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝荘の地頭職に任ぜられた。 経光の子らが安芸吉川氏、石見吉川氏、播磨吉川氏、駿河吉川氏、境吉川氏の祖となった。.

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壬子

壬子(みずのえね、じんし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの49番目で、前は辛亥、次は癸丑である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の子は陽の水で、比和である。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天禧 (西遼)

天禧(てんき)は、西遼の末主耶律直魯古の治世に使用された元号。使用年代には異説があり、1178年 - 1211年説及び1168年 - 1201年説がある。.

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天資嘉瑞

天資嘉瑞(てんしかずい、Thiên Tư Gia Thụy, ティエントゥーザートゥイ)は、ベトナム・李朝の高宗李龍𣉙の治世で使われた元号。1186年旧7月 - 1202年旧8月。.

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好子内親王

好子内親王(こうし(よしこ)ないしんのう、久安4年(1148年)頃 - 建久3年7月3日(1192年8月12日))は、平安時代末期の皇族。伊勢斎宮。後白河天皇の第2皇女で、母は高倉三位藤原成子(大納言藤原季成の女)。同母兄弟に以仁王・守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・式子内親王・休子内親王らがいる。 保元3年12月25日(1159年)、異母兄二条天皇の即位に伴い斎宮に卜定され、永暦元年(1160年)9月8日、伊勢に群行(長奉送使は藤原宣房)。永万元年(1165年)6月25日、二条天皇の譲位により在任8年で退下。その帰京は物資の不足により、困窮を極めたという(『顕広王記』)。建久3年(1192年)7月3日、45歳前後で薨去。 Category:日本の内親王 Category:平安時代の女性皇族 Category:鎌倉時代の女性皇族 Category:斎宮 Category:12世紀生 Category:1192年没.

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完顔陳和尚

完顔 陳和尚(かんがん ちんわしょう、1192年 - 1232年)は、中国、金末の軍人。諱は彝、字は良佐だが、小字(幼名)の陳和尚に姓の完顔を付した名前で知られている。ウイグル、ナイマン、羌、漢人など、モンゴルの支配を避けて金に逃げ込んできた亡命者を集めて忠孝軍と名づけた軍団を編成し、混成部隊をよく統率してモンゴル軍との戦いに活躍した。 陳和尚は豊州(現在の内モンゴル自治区)の出身で、父の乞哥は1206年の南宋との戦いに参加して戦死した。金に侵攻したモンゴル帝国が首都の中都(現在の北京)を攻略した1215年頃、20歳ほどだった陳和尚はモンゴル軍に捕えられたが、モンゴルの将軍に気に入られて側近に仕え、北方で数年暮らした。のちにモンゴルによって母が留まっている故郷の豊州に赴いたとき、陳和尚の母とともに豊州にいた従兄の斜烈とともにモンゴル人の監督官を殺害し、母を連れ出して黄河を渡り、南遷した金の都開封に逃走した。これを喜んだ宣宗が斜烈を将軍に取り立てると、陳和尚も従兄にしたがって軍職についた。1225年、斜烈が病中に代理で軍中の裁判を行い、従兄の部下を鞭打ちして死に追いやったことから私憤により不法に越権を行ったと訴えられ、獄に繋がれた。1年半後、斜烈が病没すると、これを惜しんだ哀宗は陳和尚を釈放させ、軍務に復職させた。 1228年、モンゴル軍が侵入してくると陳和尚は自ら望んで先鋒となり、400騎をもって8000の敵を破った。モンゴル軍の侵攻がはじまってからの20年でかつてなかった大勝利の立役者となった陳和尚はこの功績により定遠大将軍、平涼府判官を授けられ、一躍天下に勇名を轟かせて滅亡寸前の金の英雄となった。陳和尚率いる忠孝軍は常に戦いで先鋒を務め、河南・陝西を転戦して連戦連勝した。とくに1231年には倒回谷の戦いで大勝をおさめ、禦侮中郎将に昇った。 しかし、陳和尚の活躍にもかかわらず、1230年から始まったモンゴル帝国の大ハーン、オゴデイ自身が総司令官となって行われた第二次対金戦争によって金は黄河南岸のわずかな領土に追い詰められた。1232年1月(ユリウス暦では1231年末)、開封西南方での三峰山の戦いで、陳和尚も参加する金軍の主力15万の大軍はオゴデイの弟トルイ率いるモンゴルの別働隊に大敗し、鈞州城に逃げ込んだ。さらに鈞州城が破られると陳和尚は逃走したが、逃げ切れないことを悟ってモンゴル軍の陣に赴き、自ら忠孝軍の総領陳和尚であると名乗って処刑された。のちにモンゴルの元王朝が編纂した金の歴史書『金史』は、陳和尚は刑死するにあたっても堂々とした態度であったのでモンゴル軍に感嘆されたと伝えている。 ちんわしよう Category:金代の人物 Category:刑死した人物 Category:1192年生 Category:1232年没.

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官人

官人(かんにん、かんじん、つかさびと)とは官吏・役人を指す言葉。 律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。.

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官僚

官僚(かんりょう、bureaucrat ビューロクラート)とは、一般に、国家の政策決定に大きな影響力を持つ公務員をいう。.

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宇都宮業綱

宇都宮 業綱(うつのみや なりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。宇都宮氏4代当主。宇都宮朝綱の子。 「業綱」は初名で後に「成綱」とも名乗った。そのため、宇都宮成綱と呼ばれることもある。子の朝業は塩谷氏に養子として入嗣し、宇都宮支族としての塩谷氏の祖となった。なお、子にも同名の「業綱」がいる。.

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宇都宮氏

宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。.

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富士山

富士山(ふじさん、Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m2等三角点「富士山」の標高は3775.51mである。最高地点はこの三角点から北へ約12mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61mだけ高い(1991年の観測)。、日本最高峰(剣ヶ峰)日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山『日本百名山』 深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤りである。.

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小槻季継

小槻 季継(おづき の すえつぐ、建久3年(1192年) - 寛元2年9月27日(1244年10月30日))は、鎌倉時代中期の官人。算博士小槻公尚の子。子に秀氏・文世・朝治・守遍がいた。官位は正五位上・左大史。.

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巻狩

巻狩(まきがり)とは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種である。鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である。「巻狩り」とも表記する。.

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中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中华人民共和国、中華人民共和國、People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、China)は、東アジアに位置する主権国家である。 中華人民共和国は、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国である。中華人民共和国は、首都北京市を政庁所在地とする中国共産党により統治されるヘゲモニー政党制である。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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乾祐 (西夏)

乾祐(けんゆう)は、西夏の仁宗の治世で用いられた元号。1170年 - 1193年。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳大寺実定

徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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マリー・ド・モンフェラート

マリー・ド・モンフェラート(Marie de Montferrat, 1192年 - 1212年)はエルサレム王国の女王(在位:1205年 - 1212年)。マリーはフランス語名で、イタリア語名はマリーア・ディ・モンフェッラート(Maria di Monferrato)またはマリーア・ディ・ジェルサレンメ(Maria di Gerusalemme)。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ムスタンスィル

ムスタンスィル(アラビア語: المستنصر بالله ابو جعفر منصور al-Mustanṣir bi-Allāh Abū Ja?far Manṣūr、1192年 - 1242年12月5日)は、アッバース朝第36代のカリフ(在位:1226年 - 1242年)である。ザーヒルの子。.

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モンフェッラート侯国

モンフェッラート侯国(Marchesato del Montferrato)は、イタリア・ポー川沿いのピエモンテ南部とトリノ東部にあった侯国、あるいは侯爵領。1574年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によりモンフェッラート公国に昇格した。.

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ユーグ3世 (ブルゴーニュ公)

ユーグ3世(フランス語:Hugues III, 1142年 - 1192年8月25日)は、ブルゴーニュ公(在位:1162年 - 1192年)。ウード2世とその妻であったシャンパーニュ伯ティボー2世の娘マリーの息子。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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リチャード1世 (イングランド王)

リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド王(在位:1189年 - 1199年)。ヘンリー2世の三男(第4子)。母はアリエノール・ダキテーヌ。妃はベレンガリア・オブ・ナヴァール(ナバラ王サンチョ6世の娘)。 生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた堀米(1974)pp.238-241。.

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ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、Rûm sultanate, Saljūqiyān-i Rūm سلجوقیان روم, 1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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トルイ

トルイ(モンゴル語:、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān) 、モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(大ハーン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイ、ツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。 幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギスの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。.

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ブルゴーニュ公一覧

ブルゴーニュ公一覧(ブルゴーニュこういちらん)では、ブルゴーニュ公(仏:duc de Bourgogne)の称号を持っていた諸侯、君主、王族などを全て挙げる。ブルゴーニュ伯と混同してはならない。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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ドクター (ドクター・フー)

ドクター()は、イギリス・英国放送協会 (BBC) のテレビドラマ『ドクター・フー』に登場する主人公である。 ドクターは瀕死状態になると再生することがあり、再生すると顔や性格が変わってしまうため、主人公の役者交代が可能である。これまで1963年~2017年5月現在に13人の俳優が演じている。.

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ドクター・フー

- 『ドクター・フー』(Doctor Who)は、1963年からイギリスBBCで放映されている世界最長のSFテレビドラマシリーズである。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アイユーブ朝

アイユーブ朝(الأيوبيون、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラーム王朝太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。.

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イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

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エルサレム王国

ルサレム王国(1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。.

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オリオ・マストロピエノ

オリオ・マストロピエロ(Orio Mastropiero、? - 1192年)は、ヴェネツィア共和国の第四十代元首(ドージェ、在任1178年-1192年)。 在任前はヴェネツィアでも一、二を争う大富豪であり、神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世とロンバルディア同盟を結成して対立したこともある。 1178年、ヴェネツィア第四十代元首に選出された。その後は元首評議会の設立など積極的な政治改革を推し進めてヴェネツィア内部を固める一方、対外面においても1187年に東ローマ皇帝・イサキオス2世アンゲロスと同盟を結んで、ヴェネツィア共和国の国際的な立場を維持したのである。 しかしハンガリー王・ベーラ3世との対立に苦しみ、彼と二度にわたって交戦したが、いずれも失敗に終わってしまい、1192年死去した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:12世紀生 Category:1192年没.

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カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

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クルチ・アルスラーン2世

1190年頃のルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン2世(Kilij Arslan II,, 'Izz al-Dīn Qilij Arslān bin Mas'ūd, 、? - 1192年)は、ルーム・セルジューク朝のスルタン(在位:1156年 - 1192年)。 クルチ・アルスラーン2世は在位中、たびたび東ローマ帝国皇帝マヌエル1世コムネノスと戦っている。マヌエル1世コムネノスはアナトリア半島の内陸部の回復を狙って東進しようとし、一方クルチ・アルスラーン2世はアナトリア半島の沿海部を得ようとして西進しようとしていた。マヌエル1世コムネノスはすでにキリキアをアルメニア人政権から奪い、十字軍国家アンティオキア公国を屈服させ、シリアのアレッポのムスリム政権ザンギー朝とも連合しようとしており、ルーム・セルジューク朝を西からだけでなく南からも東からも包囲しつつあった。クルチ・アルスラーン2世は1159年、ザンギー朝の強大な君主ヌールッディーンとの会談から帰る途中のマヌエル1世コムネノスの軍勢を、首都イコニウム(現在のコンヤ)付近で襲っている。1161年には東ローマの軍に破れ、東ローマの首都コンスタンティノープルへ降伏のために出向いている。1173年にはクルチ・アルスラーン2世は東ローマ帝国とつかの間の和平を結び、ヌールッディーンとともにモースルのザンギー朝分家を攻めている。 東ローマとの和平の間も、クルチ・アルスラーンの側もマヌエル1世コムネノスの側も、戦いが再開した場合のための築城や軍勢の育成に余念がなかった。1175年、クルチ・アルスラーンは、ダニシュメンド朝から征服した領土をマヌエル1世コムネノスに譲渡するのを拒み、和平もここで終わった。クルチ・アルスラーンは交渉を行おうとしたが、翌1176年にマヌエル1世コムネノスの軍勢はイコニウムを占領するためルーム・セルジューク朝に侵攻した。ミュリオケファロンの戦いで両軍は激突し、双方が大きな被害を受けたが、東ローマ軍は撤退を強いられルーム・セルジューク朝の戦略的勝利に終わった。クルチ・アルスラーン2世はマヌエル1世コムネノスに再度の和平を交渉したが、この戦い以後東ローマが再びアナトリア東部へ攻め入ることはなかった。 1179年、クルチ・アルスラーン2世は、エルサレムへの巡礼から帰る途中だったシャンパーニュ伯アンリ1世の軍勢を捕らえ、身代金を要求した。東ローマ皇帝が身代金を払いアンリ1世は釈放されたが、この後まもなく没している。 1180年、クルチ・アルスラーン2世はマヌエル1世コムネノスの没後不安定になった東ローマ帝国の政情につけこんでアナトリア半島南部の地中海沿岸を攻撃し、そのほとんどを併合した。さらにヌールッディーンの後シリアで勢力を拡大したサラーフッディーン(サラディン)と同盟を結んだ。1182年にはアナトリア半島北西部の町コティアエウム(現在のキュタヒヤ)を占領し勢力を西へも拡大した。1185年、東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロスと和平を結んだが、翌年クルチ・アルスラーン2世は権力を9人の息子たちに分け与え、息子たちは互いに覇権をめぐって争うようになった。サラーフッディーンのエルサレム占領に刺激された第3回十字軍はルーム・セルジューク朝をも襲い、1189年5月18日には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍により首都イコニウムを奪われた。しかしフリードリヒ1世は1190年にキリキアの川で溺死し、軍勢は解散し、残った騎士らもルーム・セルジューク朝の軍などによって撃破された。 1192年、クルチ・アルスラーン2世は没した。息子であるカイホスロー1世が後を継いだが、他の息子たちもそれぞれの領土を有して割拠しており、以後ルーム・セルジューク朝はしばらく分裂状態に陥る。 Category:ルーム・セルジューク朝の君主 Category:1192年没.

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コンラート1世 (モンフェラート侯)

ンラート1世「コンラート」はドイツ語読みであり、イタリア語では、コッラディーノ(Corradino)と発音される。(Conrad I, 1146年 - 1192年4月28日)は、モンフェラート侯。エルサレム王即位直前に暗殺教団の凶刃に倒れた第3回十字軍側の英雄の一人。通称はコンラド。彼の武勇はイスラム側からは、アル・マルキシュの名で恐れられていた。.

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スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

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サラーフッディーン

ラディン(サラーフ・アッ=ディーン、الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب 、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド一族の出自である。 本名をユースフ(・ブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。サラーフッディーン とは「宗教/信仰()の救い()」を意味するラカブである。同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。.

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儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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第3回十字軍

230px 第3回十字軍(1189年 - 1192年)は、アイユーブ朝の始祖であり「イスラムの擁護者」と目されたサラーフッディーン(サラディン)により征服された聖地エルサレムを、ヨーロッパのキリスト教諸国が奪還するために開始された十字軍。.

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紹熙

紹熙(しょうき)は中国・南宋時代に光宗の治世で用いられた元号。1190年 - 1194年。.

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盧溝橋

盧溝橋(ろこうきょう)は、中華人民共和国北京市の南西約15kmの、豊台区を流れる盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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顕真

顕真(けんしん、天承元年(1131年)- 建久3年11月14日(1192年12月20日))は、平安時代後期の天台宗の僧。 号は宣陽房。父は右衛門権佐藤原顕能。母参議藤原為隆娘。 比叡山で天台教学・密教を学んだあと、1173年(承安3年)大原別所に隠棲した。浄土信仰へ傾き1186年(文治2年)勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされるが、参加者については異説もある。翌1187年(文治3年)勝林院で不断念仏をはじめ、1190年(建久元年)には第61代天台座主に就任した。最勝会(『金光明最勝王経』を講じ、国家の安泰を祈願する勅会)の証義もつとめている。1192年(建久3年)、比叡山円融房で没した。 Category:平安時代の僧 Category:天台座主 Category:勧修寺流 Category:1131年生 Category:1192年没.

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西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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藤原師長

嶋川稲荷(名古屋市瑞穂区)の境内にある尾張配流時代の師長の屋敷跡 藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男。官位は従一位・太政大臣。妙音院太相国と号す。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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陸象山

象山(りく しょうざん、1139年3月26日(紹興9年2月24日) - 1193年1月18日(紹熙3年12月14日))は、南宋の儒学者・官僚。 名は九淵、字は子静。象山は号。諡は文安。江西省金渓の人。朱子と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、江西省の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。 象山の思想は「心即理」ということばで特徴づけられることが多い。朱子学では心を「性」(人が本来持つ善なる本性)と「情」に分け、「性」こそ「理」(ものごとをあるべくしてあらしめる天のことわり)であるとした(すなわち「性即理」)が、象山はこれに対し、心を分析してその中に性・情や天理・人欲を弁別することを良しとせず、心そのものが「理」であると肯定した。象山の思想を心学と称する所以である。これは程明道の「善悪みな天理」という考えを敷衍したものに他ならない。心=理とする思想は、心以外のものに束縛されないことを意味し、これを推してゆけば六経や孔子・孟子その人すらも、そこに先験的な価値を置かない姿勢を導き出す。果たして象山は「六経、みなわが心の注釈なり」と述べて、権威ある六経よりも自らの心を上位に置いた発言をしている。無論象山自身は六経を蔑ろにすることは絶対になかったが、この考えは後の明代に開花する陽明学左派の無軌道とも思える思想を準備することになる。 また13歳の時、「宇宙内の事はすなわち己が分内の事、己が分内の事はすなわち宇宙内の事なり」と書き残しているが、ここには外的現象と心の内を同一視する傾向が見られ、成長につれて象山はこれを深化させていく。すなわち象山の思想は客観を主観の中へと吸収してしまう思想的性格を有する。これは主観唯心論に分類される根拠となっている。 象山自身は明確な師弟関係を持たなかったが、その学統は程明道―謝上蔡と受け継がれてきた「万物一体の仁」に連なるものである。それはやがて明代に至り王陽明へと受け継がれ、「陸王学」あるいは「心学」と呼ばれ一世を風靡するのである。 象山は朱子と全く同じ時間を生きたため、またその兄たちは朱子と親交があったため、しばしば手紙を通じ論争した。互いに相手の学説を非難したが、基本的には尊敬の念をどちらも抱いていたらしい。そのためか1175年に呂祖謙の仲介によって直接会って論ずることもあり、これが中国思想史上、有名な「鵝湖の会」である。朱子が講学していた白鹿洞書院に招かれ講演したこともある。.

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李朝 (ベトナム)

李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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源実朝

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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明宗 (高麗王)

明宗(めいそう、1131年11月8日 - 1202年12月3日)は、第19代高麗王(在位:1170年 - 1197年)。姓は王、諱は晧、諡号は皇明光孝大王。妃は江陵公王温の娘、光靖王后金氏。.

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明昌 (金)

明昌(めいしょう)は中国・金の章宗の治世で用いられた元号。1190年 - 1196年。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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1127年

記載なし。

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1131年

記載なし。

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1138年

記載なし。

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1139年

記載なし。

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1142年

記載なし。

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1146年

記載なし。

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1148年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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1180年

記載なし。

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1183年

記載なし。

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1185年

記載なし。

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1190年

記載なし。

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11月14日 (旧暦)

旧暦11月14日は旧暦11月の14日目である。六曜は赤口である。.

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1212年

記載なし。

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1219年

記載なし。

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1232年

記載なし。

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1242年

記載なし。

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1244年

記載なし。

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1267年

記載なし。

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12月16日 (旧暦)

旧暦12月16日は旧暦12月の16日目である。六曜は先負である。.

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12月20日

12月20日(じゅうにがつはつか、じゅうにがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から354日目(閏年では355日目)にあたり、年末まであと11日ある。.

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2月1日

2月1日(にがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。.

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2月24日 (旧暦)

旧暦2月24日は旧暦2月の24日目である。六曜は先勝である。.

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3月13日 (旧暦)

旧暦3月13日は旧暦3月の13日目である。六曜は先負である。.

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4月26日

4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.

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4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日目)にあたり、年末まではあと247日ある。誕生花は日本サクラソウ、ローズマリー。.

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4月8日

4月8日(しがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から98日目(閏年では99日目)にあたり、年末まではあと267日ある。誕生花はレンゲソウ、フジ。.

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7月12日 (旧暦)

旧暦7月12日は旧暦7月の12日目である。六曜は赤口である。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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7月3日 (旧暦)

旧暦7月3日(きゅうれきしちがつみっか)は旧暦7月の3日目である。六曜は先負である。.

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8月12日

8月12日(はちがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から224日目(閏年では225日目)にあたり、年末まであと141日ある。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月25日

8月25日(はちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から237日目(閏年では238日目)にあたり、年末まであと128日ある。.

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8月28日

8月28日(はちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。.

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8月9日 (旧暦)

旧暦8月9日(きゅうれきはちがつここのか)は、旧暦8月の9日目である。六曜は仏滅である。.

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9月17日

9月17日(くがつじゅうななにち、くがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から260日目(閏年では261日目)にあたり、年末まであと105日ある。.

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