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10世紀

索引 10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

683 関係: 劉知遠劉承祐ちょう然十二使君の乱千載不決の議南唐南詔南漢古墳時代古今和歌集古マタラム王国古典期右大臣受領参議壬生忠岑大宰府大師 (僧)大和源氏大理国大鏡大江山大日本国法華験記天台宗天台座主天徳 (日本)天暦の治天満宮太原市太宗 (宋)太平広記太平御覧太祖 (高麗王)太政大臣女院女房契丹契丹文字安和の変安倍晴明安珍・清姫伝説対馬国寛和の変寛朝尊勝仏頂小野好古小野道風左大臣丁部領丁朝...中国の宰相中国の書家一覧中関白家丹波康頼丹波国七福神布袋世宗 (遼)世紀世界創造紀元三上山三跡三武一宗の法難一条天皇平安時代平将門平将門の首塚平維茂平貞盛年表乾元大宝五代十国時代延喜延喜の治延喜式延喜格延暦寺廃仏毀釈弥勒菩薩弓裔後古典期後周後ウマイヤ朝後唐後百済後高句麗後蜀後梁後漢後漢 (五代)後期チャールキヤ朝後撰和歌集後晋律令制往生要集信貴山信貴山縁起信濃国土佐日記医師医心方北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全北宋北アメリカ大陸北野天満宮北漢園城寺圓教寺ペチェネグペルシア語ペシャーワルミェシュコ1世マヤ文明ノルマン人ノルマンディー公ノルマンディー公国ノルウェーマロツィアマーディアマドラサマクデブルクマグリブマケドニア王朝 (東ローマ)マケドニア朝ルネサンスマジャル人マスウーディーチャンパ王国チャンデーラ朝チュニジアチョーラ朝チアパス州ハムダーン朝ハンガリーハンガリー王国ハーラル1世ハーラル1世 (デンマーク王)ハインリヒ1世 (ドイツ王)ハカム2世ハザールハスダイ・イブン・シャプルトハタ・ヨーガバルセロナ伯バーベンベルク家バグダードバシレイオス2世バスラポルノクラシーポワトゥーポーランドポーランド王国ムイッズムゥタズィラ学派ムカデメリュジーヌメッカメキシコメギスティス・ラヴラ修道院メスキータモラヴィア王国モースルユーラブルグント王国ユーグ・カペーヨハネス12世 (ローマ教皇)ヨハネス1世ツィミスケスランス・オ・メドーラーシュトラクータ朝リュートプランド (クレモナ司教)リュジニャン家リウドルフ (シュヴァーベン大公)リウドルフィング家ル・ピュイルーン文字ルーヴル美術館ルーダキールーシ・ビザンツ条約 (907年)ルーシ・ビザンツ条約 (911年)レヒフェルトの戦いレイフ・エリクソンレオン (スペイン)レオン王国レオーン6世ロマノス1世レカペノスロマノス2世ロロロベール1世 (西フランク王)ロベール2世 (フランス王)ロベール家ロスヴィータロサンゼルス・カウンティ美術館ワズィールヴァリャーグからギリシャへの道ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)ヴィンランドヴィクトル・ヴァスネツォフヴォルガ・ブルガールボヘミア君主一覧ボゴミル派トミスラヴ (クロアチア王)トロンハイムトンガトニナトゥールーン朝ブハラブラチスラヴァブルガリアブルグントのアーデルハイトブルゴーニュ地域圏ブワイフ朝プラハプラハのアダルベルトプラティーハーラ朝プーシキン美術館プシェミスル朝パンジャーブパールシーヒンドゥー教ヒシャーム2世ピャスト朝テオファノテオファヌデンマークデンマーク君主一覧デーンロウデカン高原フランケン大公フランケン朝フランス王国ファーラービーファーティマ朝フェルドウスィードニエプル川ドイツニューファンドランドニケフォロス2世フォカスホラーサーンホーフブルク宮殿ダキーキーベラサグンベルト・ド・ブルゴーニュベレンガーリオ1世ベトナム呉越呉朝和名類聚抄アミールアメリカ大陸アラヴィー朝アリストテレスアルル王国アル・ラーズィーアルプテギーンアルベリーコ1世・ディ・スポレートアルシングアル=アズハル大学アレッポアンナ (キエフ大公妃)アンティオキアアッバース朝アトスのアサナシオスアトス山アブル・ファラジュ・イスファハーニーアブー=アブドゥッラーアブド・アッラフマーン3世アブドゥル・ラフマーン・スーフィーアフマド・イブン・ファドラーンアフガニスタンアイスランドアキテーヌ公アクスム王国アグラブ朝アシュアリー学派アストロラーベアストゥリアス王国アゼルスタン (イングランド王)イラクインドイングランドイーゴリ1世イブン・スィーナーイフリーキヤイフシード朝イベリア半島イェリング墳墓群イクターイシュトヴァーン1世イスマーイール・サーマーニーイスマーイール・サーマーニー廟イスマーイール派ウラジーミル1世ウィーンウイグルエル・エスコリアル修道院エッセンエドレッドエジプトエスファハーンオリガ (キエフ大公妃)オルドーニョ2世オーラヴ1世 (ノルウェー王)オーストリアオットー1世オットー1世 (神聖ローマ皇帝)オットー2世 (神聖ローマ皇帝)オットー3世オットー3世 (神聖ローマ皇帝)オビエドカペー朝カナウジカラハン朝カライ派カリーラとディムナカリフカロリング朝カアバカイロカスピ海カスティーリャ王国ガリリャーノ川ガリシア州ガルシア1世 (レオン王)ガズナ朝キリストキエフキエフ大公キエフ大公国キスユラブルグント王国ギヨーム1世 (アキテーヌ公)クリュニー修道院クレモナクレタ島クロアチアクロアチア王国 (925年 - 1102年)クーファクディリ王国グリーンランドグレゴリウス5世 (ローマ教皇)グジャラート州コルドバ (スペイン)コンラート (ロートリンゲン公)コンラート1世 (ドイツ王)コンラディン家コンスタンティノス7世ゴーム老王ザフラー宮殿シメオン1世シメオン・メタフラストシャルトルシャルトル学派シャンルウルファシャー・ナーメシュラバナベラゴラシルウェステル2世 (ローマ教皇)シヴァシーア派ジャワ島ジャイナ教ジャウハルスヴャトスラフ1世スーダ辞典ズィヤール朝セン淵の盟ゾロアスター教タヌーヒータイラ2世サンティアゴ・デ・コンポステーラサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路サーマーン朝サブク・ティギーンサアディア・ベン・ヨセフ哲学者冷泉天皇円珍円融天皇内裏内覧写本公田六国史前蜀国立故宮博物院四体液説皇朝十二銭石敬トウ王建 (前蜀)王朝国家班田収授法琵琶湖神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝神明裁判科学者科挙秋萩帖空也空海穆宗 (遼)紅葉伝説紅葉狩 (能)紀友則紀貫之経典田堵燕雲十六州百科事典百鬼夜行銭鏐花山天皇隅田川隅田川 (能)鎮守府将軍聖宗 (遼)聖ヴィート大聖堂聖ヴォロディームィル大聖堂道成寺荘園整理令荒田菅原道真西宮記西フランク王国西暦馮道説話高麗議会豊島郡 (武蔵国)負名鳳翔県趙匡胤趙普黒石述律皇后近江国蜻蛉日記郭威赤毛のエイリーク関白開封市藤原定子藤原実頼藤原師輔藤原仲平藤原伊尹藤原伊周藤原佐理藤原忠平藤原利仁藤原兼家藤原兼通藤原秀郷藤原純友藤原隆家藤原道兼藤原道綱母藤原道隆藤原道長藤原頼忠藤原詮子藤原時平藩鎮醍醐天皇自印聖像金陵長安長徳の変酒呑童子良源耶律堯骨耶律突欲耶律阿保機陰陽師陳橋の変陳摶柴栄枕草子李存勗李嗣源李イク李克用李茂貞東丹国東京国立博物館東ローマ帝国東フランク王国村上天皇梨壺の五人楊家将演義楊業正教会武士武蔵国殿試比叡山河内源氏沙陀族洛陽市渤海 (国)清少納言清凉寺清涼殿落雷事件源信 (僧侶)源頼光源順源高明源満仲朝鮮半島木母寺朱全忠朱雀天皇成田山新勝寺戸籍戸隠昭宗昭宗 (唐)昌泰昌泰の変浄土教新羅文苑英華日本三代実録日本往生極楽記摂津源氏摂政播磨国教皇慶祚慶長通宝慶滋保胤承平天慶の乱性空景宗 (遼)1000年1002年1003年1005年1007年1010年1014年1015年1016年1017年1020年1021年1025年1027年1031年1037年1038年1千年紀841年845年847年850年852年856年857年858年860年864年865年866年870年871年872年873年876年877年879年880年882年884年885年886年889年890年892年893年894年895年896年897年899年900年901年902年903年904年905年906年907年909年910年911年912年913年914年915年916年917年918年919年920年921年922年923年924年925年926年927年928年929年930年931年932年933年934年935年936年937年938年939年940年941年942年943年944年945年946年947年948年949年950年951年953年954年955年956年957年958年959年960年960年代961年962年963年964年965年966年967年968年969年970年971年972年973年974年975年976年977年978年979年980年981年982年983年984年985年986年987年988年989年990年991年992年993年994年995年996年997年998年999年 インデックスを展開 (633 もっと) »

劉知遠

劉 知遠(りゅう ちえん)は、五代後漢の初代皇帝。廟号は高祖。太原の人。.

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劉承祐

劉 承祐(りゅう しょうゆう)は、五代後漢の第2代皇帝。諡号は隠帝。.

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ちょう然

奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の僧。俗姓は秦氏。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺の観理に三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、983年(永観元年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、986年(寛和2年)に帰国した。翌987年(寛和3年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、989年(永祚元年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。.

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十二使君の乱

十二使君の乱(じゅうにしくんのらん、)は、呉朝の王である呉昌文の死去によって起こった965年から967年にかけての内乱、またはその時代のことである。呉朝に仕えた将軍丁公著の遺児であり、独立勢力を築いていた丁部領(ディン・ボ・リン)によって国土は再統一された。.

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千載不決の議

千載不決の議(せんざいふけつのぎ)は、北宋の太祖趙匡胤の死と、その死後の弟・太宗趙光義(匡義)による帝位継承をめぐる一連の疑惑のことである。載は千載一遇の熟語における用法と同様、年と同義で、「千年を経ても結論が出ない議論」という意味である。.

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南唐

南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は金陵(現在の南京)。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。 十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。文化的・経済的には大いに繁栄していた。.

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南詔

8世紀のアジア 南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国。最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を拡大した。.

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南漢

南漢(なんかん、909年 - 971年)は、唐滅亡後の五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。.

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古墳時代

古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.

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古今和歌集

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。.

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古マタラム王国

古マタラム王国(こマタラムおうこく、Kerajaan Mataram (Hindu);717年 - 929年)は、インドネシアのジャワ島のジョグジャカルタ周辺に8-9世紀に繁栄したヒンドゥー王国。 16世紀以降の「マタラム王国」(イスラム・マタラム又は(新)マタラム王国)と区別するため、「古」をつける場合が多いが、当時の自称は、「マタラム(王)国」であった。.

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古典期

古典期(こてんき;Classic Period (Stage,era))は、メソアメリカ考古学上の時代区分のひとつで、西暦300年頃から西暦900年までを指す。 始期は、グアテマラ・ティカル出土のライデン・プレートにある長期暦の日付(紀元320年)や29号石碑に刻まれた8.12.14.8.15.(紀元292年)頃を目安としている。一方、終期はトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を目安としている。この時期までに古典期マヤの諸都市は放棄された。 ゴードン・ランドルフ・ウィリー(Gordon R.Willey)とフィリップ・フィリプス(Philip Phillips)によって1958年に著されたMethod and Theory in American Archaeologyで、新大陸全体の考古遺跡について編年の枠組みを構築しようと試みた五段階時期区分(石期(Lithic)、古期(Archaic)、形成期、古典期(Classic)、後古典期(Postclassic))の四番目の時期として位置づけられたのが初出である。その後、アンデス文明については、アメリカの人類学者たちやルイスG.ルンブレラスの提唱した編年が用いられるようになったため、現在では主としてメソアメリカのみで使われている編年用語である。 一般的には、テオティワカンの影響の強い前期と、マヤ諸都市国家が争った後期とに分ける。以前はテオティワカンの影響は5世紀から開始すると考えられていたので、わざわざ中期(Middle Classic)を置く考え方もあった。 古典期という名称は、古代ギリシア、ローマの古典古代のイメージでギリシャのようにマヤ諸都市が繁栄した時期というイメージの名称であるため、メソアメリカ全体の時代区分としては問題があると言われている。アンデスと統一するため、前期ホライズン(Early Horizon/メソアメリカ;オルメカ/アンデス;チャビン)、前期中間期(Early Intermediate Period/モンテ・アルバンⅡ期、原古典期、イサパなど/地方発展期.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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受領

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。 実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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壬生忠岑

壬生 忠岑(みぶ の ただみね)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大師 (僧)

大師(だいし)は、中国・日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは諡号である。.

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大和源氏

大和源氏(やまとげんじ)は、清和源氏の一流であり、源満仲の次男の頼親に始まる。.

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大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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大江山

大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山である。標高832m。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽。 酒呑童子伝説で知られる。また、雲海の名所としても知られている。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されている。新・花の百名山に選定されている。.

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大日本国法華験記

『大日本国法華験記』中尾 1983, p. 377.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天徳 (日本)

天徳(てんとく)は、日本の元号の一つ。天暦の後、応和の前。957年から961年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.

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天暦の治

天暦の治(てんりゃくのち)とは、平安時代中期(10世紀中期)の村上天皇の治世を理想した呼称。天暦は村上天皇の治世の元号である。 村上天皇は、946年(天慶9年)に即位した後しばらくは藤原忠平を関白に置いていたが、949年(天暦3年)に忠平が没すると、以後、摂関は置かず天皇親政の形式をとった。後世、村上治世は天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視され、同じく天皇親政が行われたとする10世紀前期の醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれた。 しかし、忠平の後に実際に政務をリードしたのは太政官筆頭である左大臣藤原実頼であり、村上治世を天皇親政の理想の時代とするのは、11世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったのだと考えられている。 Category:平安時代の政治 Category:10世紀の日本.

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天満宮

天満宮(てんまんぐう)は、菅原道真を祭神とする神社である。.

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太原市

太原市(たいげんし、中国語:太原市、英語:Taiyuan)は、中華人民共和国山西省の省都。市域は中国の古都の一つで、2500年の歴史がある。.

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太宗 (宋)

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。.

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太平広記

『太平広記』(たいへいこうき)は、北宋時代に成立した類書のひとつ。『太平御覧』、『文苑英華』、『冊府元亀』とあわせて四大書と称せられる。太宗の勅命を奉じて李昉ら12名が太平興国2年(977年)から翌3年(978年)にかけて編纂したもので、全500巻、目録10巻。.

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太平御覧

『太平御覧』(たいへいぎょらん )は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国2-8年)頃に成立した。.

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太祖 (高麗王)

太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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女房

女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。 尚、内裏で働く女房のうち、天皇に仕えるのは「上の女房」(内裏女房)と呼ばれる女官で、後宮の妃(ひいてはその実家)に仕える私的な女房とは区別される。後宮の妃に仕える女房である「宮の女房」のほとんどが、妃の実家から妃に付けられて後宮に入った人々で、清少納言や紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。かつて、「女房の中に女官としての性格を持つ公的な女房と、私的な女房に分かれる」とする、加納重文と、「全ての女房は、朝廷から位階と禄を受ける公的存在」とする角田文衛による論争が存在したが、今日の研究においては収入面においては、中宮や皇后に仕える女房には、妃自身の封戸や年給からの収入などからも給与を受けていたと考えられるものの、大勢の女房の生活を支えるためには、妃の実家の支援も必要としていたと考えられている。一方、宮中に仕える主立った女房は女叙位は受けていたと考えられるが、全ての女房に女官としての公的な地位を与えられていたのか否かについては、今日でも議論がある。 平安時代中期以降の社会においては、受領階級などの中級貴族の娘が出仕することが多く、そのため教養に優れていた。ひらがなの使用など国風文化に大きな影響を与えた。和歌や和文文学に優れた人物も多く、平安時代から鎌倉時代にかけての、この階層の作者の手になるものを、特に「女房文学」と呼ぶ。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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契丹文字

契丹文字(きったんもじ)は、10-12世紀にかけて、現在の中国北部とモンゴル高原にあたる地域を支配していた半農半牧民族の契丹(キタイ)人によって使用された文字。遼の太祖耶律阿保機が制定したとされる表意文字(契丹大字)と、太祖の弟であった耶律迭剌が制定したとされる表音文字(契丹小字)の2種類の文字が存在する。.

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安和の変

安和の変(あんなのへん)は、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。.

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安倍晴明

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。.

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安珍・清姫伝説

竹のひと節 日高川」 義太夫節『日高川』の場面を描く。楊洲周延画。 安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。.

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対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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寛和の変

寛和の変(かんなのへん)とは、寛和2年6月23日(986年7月31日)に発生した花山天皇の退位・出家及びそれに伴う政変のこと。.

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寛朝

寛朝(かんちょう、かんじょう 『国史大辞典』、916年(延喜16年) - 998年7月13日(長徳4年6月12日))は、平安時代中期の真言宗の僧。父は宇多天皇の皇子敦実親王。真言声明の第一人者でもあった。洛外・広沢池ほとりの遍照寺の住持であったことから「広沢僧正」「遍照寺僧正」とも呼ばれた。 926年(延長4年)祖父宇多法皇の下で出家し、948年(天暦2年)寛空から灌頂を受けた。967年(康保4年)仁和寺別当を経て、貞元2年(977年)6月権律師、同10月権少僧都・法務、11月東寺三長者・西寺別当に補任、加えて広沢房を御願寺として別当に補せられたため、年に六度の賀ありと言われ、986年(寛和2年)真言宗では初めて、また、日本では三番目の大僧正に至った。この間、円融天皇が受戒する際の戒和尚を勤めている。989年(永祚元年)10月26日円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立した。この際の供養の記事が藤原実資の日記小右記に載っており、円融法皇を始めとして多くの公卿が参列したことが分かる。密教の事相・教相に詳しく「金剛界次第」「不動次第」などを著している。また「理趣経」読誦の音調を整備するなど声明に通じ、東密声明中興の祖とされる。 平将門が関東で反乱を起こした際には自ら関東に下向し祈祷をした。その時に祈祷した不動明王を本尊として創建されたのが「成田不動」で有名な成田山新勝寺である。.

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尊勝仏頂

尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)、梵名ヴィキラノーシュニーシャ (विकिरणोष्णीष)は、如来の肉髻(にっけい、頭頂部の椀状の盛り上がり)を神格化した仏の一種、仏頂尊の一尊である。 三昧耶形は独杵鉤(独杵金剛杵をあしらった鉤)。種子はコロン()。梵名に含まれる「ヴィキラナ」とはサンスクリット語で「まき散らす」「(髪などを)振り乱す」の意味。 その霊験を以て、あらゆる罪業、障害などを粉砕する様を表現したものである。ここから除障仏頂、捨除仏頂、摧破仏頂、摧砕仏頂などとも呼ばれる。その姿は、胎蔵界曼荼羅釈迦院では装身具を身に着けた菩薩形で、右手は中指と薬指を曲げて胸に当てる。左手は蓮華を持ち、その華の上に独杵鉤が乗っている。一方、尊勝仏頂曼荼羅では、菩薩形で両手を定印の印相にし、その上に独杵鉤の乗った蓮華を持つ。.

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小野好古

小野 好古(おの の よしふる、884年(元慶8年) - 968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三蹟の一人小野道風がいる。異名は「野大弐」。官位は従三位・参議。.

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小野道風

小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代中期の貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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丁部領

丁先皇像(ニンビン) 丁 部領(ディン・ボ・リン)は、丁朝大瞿越の建国者。後世、丁先皇(ディン・ティエン・ホアン、)と尊称された。.

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丁朝

丁朝(ディンちょう、、966年 - 980年)は、ベトナム北部を支配した王朝。首都は華閭(ホアルー、現在のニンビン省に位置する)。ベトナムで編纂された史書では呉朝がベトナム初の独立王朝とされているが、北ベトナムが真に中国の王朝から独立したのは、丁朝の時代からだとする意見もある。.

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中国の宰相

宰相(さいしょう)は歴代中国の王朝で君主を補佐した最高位の官職。およびその通称。 中国の宰相は歴代王朝によって呼称が異なる。詳細は下表を参照。 表を見れば中国の中央行政機関が六官→三公→三省→内閣→軍機処、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の丞相(秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では尚書省が最も重要で、『周礼』の天、地、春、夏、秋、冬の六官に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=六部)を総覧した。 尚書省の長を尚書令といい、副官を僕射(ぼくや)といった。唐代、太宗が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった。また各部の長官は尚書と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。.

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中国の書家一覧

中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。.

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中関白家

中関白家(なかのかんぱくけ)は、藤原北家の中の、平安時代中期の関白藤原道隆を祖とする一族の呼称。.

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丹波康頼

丹波 康頼(たんば の やすより、延喜12年(912年) - 長徳元年4月19日(995年5月21日))は平安時代の医家。官位は従五位上・医博士、鍼博士、丹波介、左衛門佐。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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七福神

七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁才天とされており、それぞれがヒンズー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている。.

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布袋

中国浙江省杭州市飛来峰石窟造像群中の布袋像 布袋(ほてい、生年不詳 - 917年(?))は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。.

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世宗 (遼)

世宗(せいそう)は、遼の第3代皇帝。諱は兀欲(こつよく)。.

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世紀

世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する"centum")である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。 世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀は、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。 また、天文学では時間的な「量」の単位としてユリウス世紀(.

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世界創造紀元

世界創造紀元(せかいそうぞうきげん)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法。ビザンティン暦(英語:Byzantine calendar)とも呼ばれる。988年に皇帝バシレイオス2世により導入され、1453年の帝国滅亡まで使用された(それ以前のレオーン6世の時代から一部では使用されていた)。 東ローマではいわゆる「西暦」は使用されておらず、当初は古代ローマ時代からの伝統を受け継いで、その年の執政官の名で年を呼んでいた。しかし、541年に官職としての執政官が廃止され名誉称号になってしまうと、15年周期の会計年度であるインディクティオを使用するようになった。ただし、インディクティオは15年周期であるために単に「第3インディクティオ」などとすると、どの年のことなのか分からなくなってしまう可能性があった。そこでこの世界創造紀元が導入されたのである。 実質的にはユリウス暦であるが、月名がラテン語からギリシア語に翻訳されており、また1年の開始が9月1日に置かれていた(ちなみに、インディクティオは9月始まりであった)。世界創造紀元元年は西暦に直すと紀元前5509年~5508年にあたり、旧約聖書の『創世記』にある天地創造についての年を逆算して設定された。 東ローマ帝国における1年の開始は462年頃に9月1日に変更され、537年には公式に9月1日が新年の始まりと制定された。しかし10世紀に至るまで、東ローマ帝国の歴史家たち、たとえば告白者マクシモス、告白者フェオファネス、ゲオルギオス・シュンケロスらは、3月25日を新年の始まりとして使い続け、紀元前5508年を元年として年を数えていた。またローマ帝国が東地中海世界を支配して以来、ラテン語の月名はギリシア語に直して用いられていた。 閏は元来のユリウス暦と同様閏年に、3月1日の6日前を二回にすることで設けられた。すなわち2月24日が二回設けられる。.

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三上山

三上山(みかみやま)は滋賀県野洲市三上にある山。一般には近江富士として知られる。標高432m。ふもとには御上神社や滋賀県希望が丘文化公園がある。.

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三跡

三跡(さんせき)は、書道の大御所三人のこと。三筆は各時代にいるが、この三跡ほどの影響を後世まで与えた人物はいない。字は三蹟とも表記する。また、入木道の三蹟(じゅぼくどうのさんせき)とも言う。.

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三武一宗の法難

三武一宗の法難(さんぶ いっそう の ほうなん 中国語:三武之禍、拼音: sān wǔ zhī huò)とは、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平将門

平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫祖父・平高望の父が葛原親王の場合は4世子孫。。 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。.

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平将門の首塚

大手町にある平将門の首塚 平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。.

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平維茂

平維茂と悪鬼(歌川国芳『武勇擬源氏』) 平維茂と悪鬼(歌川国芳『本朝武者鏡』) 上田市別所の将軍塚、平維茂の墓との伝承があるが、実際には古墳時代の円墳。 国の天然記念物、幹周り日本一将軍杉と手前は保科正之が建てた平維茂の墓碑。 平 維茂(たいら の これもち)は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。.

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平貞盛

平 貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将。平国香(良望)の嫡男。.

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年表

年表(ねんぴょう)とは、歴史上の出来事を起こった年とともに年代順に並べたものである。タイムラインとも言う。 横方向に構成される場合(通常は左から右へと年代が下る)と縦方向に構成される場合がある。通常は歴史年表のことをいうが、科学史年表や音楽史年表のように特定のテーマのみの出来事を扱った年表もある。テーマ別の年表については「年表一覧」を参照のこと。.

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乾元大宝

乾元大宝(乹元大寳、けんげんたいほう)は、958年(天徳2年)に、日本で鋳造、発行された銭貨である。皇朝十二銭のひとつ。『日本紀略』天徳2年3月25日條には、「改銭貨文延喜通寳、為乾元大寳」とある。 直径19mm前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。銭文(貨幣に記された文字)は、時計回りに回読で乾元大寳と表記されている(実際には「乾」の字のつくりが「乞」ではなく「乚」になっている)。裏は無紋である。量目(重量)2.5g程度の銅の鋳造貨である。 乾元大宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が適用されたと考えられている。小型で鉛が75%、あるいはそれ以上を占めるものもあるなど品位は非常に低く、また製作も悪く銭文の文字が読めないものも少なくなく、流通範囲も狭かったらしい。だが、当時の平安貴族には貨幣流通不振の理由が分からず、『日本紀略』によれば天徳2年4月8日には伊勢神宮以下11社に新造の乾元大宝を奉納して流通を祈願している。 963年(応和3年)に、朝廷発行の最後の貨幣として鋳造を終了している。以後自然貨幣として輸入銭や民鋳銭と混用されることとなる。.

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五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.

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延喜

延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを延喜の治と呼ぶようになり、「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。.

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延喜の治

延喜の治(えんぎのち)は、平安時代中期(10世紀前期)の醍醐天皇の治世を理想視した呼称。延喜は醍醐天皇の治世の元号である。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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延喜格

延喜格(えんぎきゃく)は、平安時代の延喜7年(907年)11月に完成し、翌年12月の宣旨によって施行された格。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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弥勒菩薩

弥勒菩薩(みろくぼさつ)、maitreya(マイトレーヤ)、metteyya(メッテイヤ、メッテッヤ)は仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、『中阿含経』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人であり、弥勒は仏陀となるという記別を受け、また阿逸多は仏陀ではなく転輪聖王となるという記別を受けている。 弥勒は音写であり、「慈しみ」(maitrī, mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。 三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。.

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弓裔

弓裔(きゅうえい)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。姓は金、僧号は善宗。隻眼であったことから一目大王との別称もある。 専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。.

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後古典期

後古典期(こうこてんき、Post Classic period(Stage,era))は、メソアメリカの考古学の時代区分。 マヤ文明で日付けの刻まれた最後の石碑であるトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を開始の基準として、900年に置く。この時期までに古典期マヤの中部地域の都市は、ほとんど放棄されていた。 後古典期の終わりは、諸説ある。主なものとしては、アステカ帝国滅亡(1521年)までと考える場合、マヤではペドロ・デ・アルバラードによってグアテマラ高地のが滅ぼされ、スペインのグアテマラ征服が完了したのが1524年なので、この年におく場合である。しかし、フランシスコ・デ・モンテーホのユカタン征服事業も同時進行で行われていたので、それが一応完了してメリダが建設された1542年におく場合も、しばしば終了の年代に挙げられる。インカ征服が1532年であったことに合わせ、おおむね1520 - 1530年代においている。.

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後周

後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単に周であるが、古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。.

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後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう、756年 - 1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝とよぶ。.

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後唐

後唐(こうとう、923年愛宕他 (1997)、p.15 - 936年愛宕他 (1997)、p.16)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は洛陽。.

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後百済

後百済(ごくだら/こうひゃくさい、900年 - 936年)は、後三国時代、挙兵した甄萱が、新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱えて建国した国。 甄萱は、尚州の農民出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわし、新羅により将軍に抜擢された。しかし、甄萱は、将軍の位に不満を持ち、根拠地の西南海で勢力を蓄え、挙兵を準備した。 892年、農民一揆に乗じて挙兵し、武珍州(全羅南道光州)、更に完山州(全羅北道全州)を占領し、当初、「新羅西面都統治指揮兵馬制置、持節都督全武公等州軍事、行全州刺史兼御使中丞、上柱国、漢南郡開国公」と称した。 900年、王となり、国号を百済と定めた。 920年、甄萱は、新羅西部の大耶城を攻略し、更に高麗南端の進礼城に進軍し、高麗との戦端を開いた。当初、勢力は互角であり、922年、後百済は、日本に参戦を要請したが拒絶された。後唐にも朝貢したが、名ばかりの官職しか得られず、実質的な援助はなかった。 926年10月、後百済は、金城を占領し、新羅の景哀王を自殺させた。高麗王王建は、新羅の救援に赴いたが大敗した。同年12月、甄萱は休戦を申し入れ、927年3月、王建はこれを受諾したが、同年5月には再び戦闘が再開された。929年、後百済は、慶尚北道で快進撃を収め、再び日本に援助を要請したが、再び拒絶された。 930年、高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済は大敗した。 934年、甄萱は、再び休戦を要請したが、王建はこれを受け入れず、後百済軍に対して攻撃を続行した。 935年、甄萱の長男の神剣は、次男の良剣と三男の龍剣と共謀して父の甄萱を幽閉し、後継者の予定だった四男の金剛を殺害した。 同年6月、初代後百済王だった甄萱は、娘を連れて高麗に投降した。王建は甄萱に「尚父」の称号を奉り、父親に準ずる敬意を表わして優遇した。 936年6月、甄萱は、自ら息子の神剣を討伐することを王建に請い、王建は甄萱とともに後百済を滅ぼした。甄萱はまもなく死去し、良剣と龍剣は晋州に流され、その後殺害された。同時に、王建は、甄萱の娘婿の朴英規に爵位を与え、甄氏の懐柔に努めた。.

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後高句麗

後高句麗(ごこうくり/こうこくくり、899年 - 918年)は、後三国時代、新羅で叛乱を起こした弓裔が901年に高句麗の復興を唱えて、国号を高句麗と定めたことにちなむが、挙兵から滅亡までの弓裔政権全体を指すことが多い。 弓裔は、899年の挙兵当時、自分が新羅第48代景文王の庶子であることを自称し、901年には、開城に遷都して国号を高句麗と定めた。904年には正式な国号を摩震(摩訶震旦の略)に改め、年号を武泰と定めて国家体制を整備する。更に905年には鉄円(江原道鉄原郡)に遷都し、911年には国号を泰封に改め、年号を水徳万歳と定めた。 後高句麗は、独自の年号や官制を定めるなどし、新羅や後百済に対して優勢を占めており、弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとしたが、しだいに暴君化して部下の反発を買うようになり、918年に最も有力な部下であった王建の革命により王位を奪われて逃亡中に殺された。後高句麗は消滅したが、王建が名づけた国号「高麗」は高句麗の別称であり(正式名称ともいう)、高麗は高句麗の再興を目指す後高句麗の後継国家と言える。ただし、矢木毅は、王建は朝鮮を統一するためには女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために高句麗の継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる。.

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後蜀

後蜀(こうしょく)は、中国の王朝名。現在の四川省に成立した。.

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後梁

後梁 後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した。都は汴州。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢 (五代)

後漢(こうかん)は、中国五代十国時代の王朝(947年愛宕他 (1997)、p.23 - 950年愛宕他 (1997)、pp.23-24.

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後期チャールキヤ朝

リヤーニのチャールキヤ朝(- ちょう、Kalyani Chalukya dynasty)とは、10世紀から12世紀にかけて、インドの西部デカン地方と南インドを支配ヒンドゥー王朝(973年 - 1189年)。後期チャールキヤ朝とも呼ばれる。首都はマーニヤケータとカリヤーニ(現バサヴァカリヤーン)。.

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後撰和歌集

後撰和歌集 巻十二 『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)は、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。体裁は『古今和歌集』に倣い、春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の二十巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。.

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後晋

後晋 後晋(こうしん 936年愛宕他 (1997)、pp.17-18 - 946年愛宕他 (1997)、p.19)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は開封愛宕他 (1997)、p.18。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である愛宕他 (1997)、pp.17,70。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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往生要集

往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。 死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。 一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行について多くの項が割かれている。源信の構想する念仏には観想対象としての仏と、救済するための仏が併存しており、その矛盾的な対立は解消できていない。 また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。.

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信貴山

信貴山(しぎさん)は、奈良県生駒郡平群町に位置する山である。奈良百遊山の一つに選定されている。.

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信貴山縁起

信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。朝護孫子寺が所蔵(原本は奈良国立博物館に寄託されており、当山内の霊宝館では複製を展示)。「信貴山縁起絵巻」とも称する。後述のごとく、表題は寺社縁起絵に属するものであるが、内容は高僧絵伝の範疇に入る。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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土佐日記

『土佐日記』(とさにっき)とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事をジョークを交えて綴ったもので、成立は承平5年(935年)頃といわれる。古くは『土左日記』と表記されていた。.

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医師

医師(いし、doctor)とは、医療および保健指導を司る医療従事者。医学に基づく傷病の予防、診療および公衆衛生の普及を責務とする。 米国では、伝統的に医師は英語で「」と称される。また、専門分野ごとに「内科医 (physician)」と呼ばれたり「外科医 (surgeon)」と呼ばれたりもする。欧米で医師の一般名称「physician」に対して外科医だけが「surgeon」と呼ばれている理由は、中世より「内科学」=「医学」とされており、「内科医」=「医師」であったことによる。「外科医」の仕事は初期の頃は理容師によって行われ、医療補助職として扱われており、現在での義肢装具士や理学療法士等のような存在であったことから、別の名称があてられることになった。すなわち医師である内科医が診察診断を行いその処方に基づいて理髪師(外科医)が外科的治療を薬剤師が内科的治療(投薬)をそれぞれ行うという建前であった。しかし時代が進むにつれ外科医も薬剤師も独自に治療を行うようになり彼らも医者とみなされるようになっていった。その他に、フランス語では médecin(メドゥサン)、ドイツ語では Arzt(アルツト)である。 また、博士の学位を持っていない医師までも doctor と呼ぶことは、日本、英国、オーストラリア、ニュージーランド、等で行われている。ただし、英連邦諸国では、外科医は、学位にかかわらず、今日なお「ミスター」で、「ドクター」とは呼ばない。本来なら「master.

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医心方

医心方(いしんぼう)とは平安時代の宮中医官である鍼博士・丹波康頼撰による日本現存最古の医学書である。.

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北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全

北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝、北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳 全(きたむきさんれいげんき とがくしさん きじょもみじ たいじのでん ぜん)は、明治時代に刊行された紅葉伝説を記した書籍。江戸時代以後に多く見られた大衆的な実録物の形式が取られている。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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北アメリカ大陸

北アメリカ大陸(きたアメリカたいりく、North American continent)、通称北米大陸(ほくべいたいりく)は、現在においては南北アメリカ大陸のうち、パナマ地峡より北側の部分のこと。かつてはローラシア大陸から分かれ、ゴンドワナ大陸から分かれた南アメリカ大陸とは別々に存在していた大陸であった。面積は約2400万平方キロメートルである。.

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北野天満宮

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。.

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北漢

北漢(ほくかん、951年 - 979年)は、中国の五代十国時代に山西省北部を支配した国。十国の一つ。都は太原。.

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園城寺

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。.

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圓教寺

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である古寺を巡る24 (2007)、2頁。山号は書寫山(書写山)書写山 (1991)、1頁。西国三十三所第27番古寺を巡る24 (2007)、2・7頁書写山 (1991)、9頁。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。.

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ペチェネグ

ペチェネグとその周辺国。 ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。10世紀を通じてキエフ・ルーシ,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた。11世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されてドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。 ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である。.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ペシャーワル

ペシャーワル(パシュトー語でپېښور、ウルドゥー語でپشاور、アルファベット表記でPeshawar)は、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州の州都である。また、連邦直轄部族地域(トライバルエリア、FATA)の行政上の中心地である。人口122万人(2007年現在)。 ペシャーワルはペルシャ語で「高地の砦(High Fort)」という意味である。西に50km行けばカイバル峠があり、アフガニスタンとの国境にとても近い。 日本ではペシャワール、ペシャワルとも表記される。.

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ミェシュコ1世

ミェシュコ1世 ミェシュコ1世(Mieszko I, 935年? - 992年5月25日)は、ピャスト朝ポーランド王国の創始者で初代ポーランド公(在位:963年 - 992年)。ポーランド王国の基幹部族となったレフ族(ポラニェ族)の族長シェモミスウの子、レストコの孫、シェモヴィトの曾孫、ピャストの玄孫。 963年に即位する。しかし即位直後からウィエルトやヴォリニアなどのスラヴ系支族とその同盟者のザクセン貴族ヴィヒマン2世(ビルング家、en)の侵攻に悩まされ、バルト海沿岸のポンメルン地方を侵略されてしまった。しかし政治能力に優れた人物で、その後の神聖ローマ帝国の侵略を食い止めるために、ローマ教皇に莫大な貢物を送ってその援助を受け、966年にはカトリックに改宗した。その際、設置されたポズナンの司教座は教皇に直属した。また、ザクセン系の聖職者ではなく、バイエルン系の聖職者から洗礼を受けることで、神聖ローマ帝国の影響下に入ることを巧みに避けた。そしてチェック人が築き上げたチェック(ボヘミア)公国の公女ドゥブラフカを妃として迎えることで同盟を結び、連合してポモージェを奪還し、マウォポルスカ、シロンスクも併合して後のポーランド王国の原型を形作ったのである。3000名を擁するといわれる従士団が統一の大きな推進力となった。 992年に死去し、最初の妻ドゥブラフカ(ボヘミア公ボレスラフ1世の娘、かつてマイセン辺境伯ギュンターの妻であった)との息子ボレスワフ1世が国王として後を継いだ。ドゥブラフカとの間には他に2人の娘をもうけたが、そのうち長女シフィエントスワヴァ(シグリダ)は、最初スウェーデンのエリク6世に嫁ぎ、王妃シグリッドとしてスウェーデン王オーロフを生み、次いでデンマークのスヴェン1世に嫁いで、王妃グンヒルドとしてクヌーズ2世(カヌート大王)を生んだ。 現在ポーランドで発行されている10ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。 Category:ポーランド公 Category:ピャスト家 Category:ポーランド・ズウォティ紙幣の人物 Category:992年没.

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マヤ文明

マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。.

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ノルマン人

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ(同項目を参照)。.

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ノルマンディー公

ノルマンディー公国の紋章 ノルマンディー公(仏:duc de Normandie)は、ノルマンディー公国の君主の称号。フランスのノルマンディー地方を領有していた。.

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ノルマンディー公国

ノルマンディー公国(ノルマンディーこうこく、Duché de Normandie)は、ノルマン人が9世紀にフランスに侵入し、その後、次第に地歩を固めて成立したノルマンディー公の公国である。 ノルマン人(ノースマン、ないしはラテン語のNormanni)は、デンマーク人、ノルウェー人、ノルマン・ゲール人、オークニーヴァイキングおよび デーンロウから来たアングロ・デーン人といった様々な民族からなる。 レーエン関係の設定は、おそらくは伯領として、911年にサン・クレール・シュル・エプト協定によりなされたものである。これは西フランク国王シャルル3世単純王の譲歩によるもので、ノルマン人の首長であるロロに対して与えられた。.

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ノルウェー

ノルウェー王国(ノルウェーおうこく、Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロフィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロで、東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。 国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。この他、ノルウェー本土から約1,000キロメートル (km) 離れた北大西洋上のヤン・マイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。南大西洋にブーベ島を属領として持つ。 による高負担高福祉の福祉国家として知られ、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではスイスに次いで第2位となった(2014年)。.

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マロツィア

マロツィア(Marozia、890年ごろ - 932年から937年)は、10世紀はじめにローマとローマ教皇国の実権を握った女性。父はローマの貴族トゥスクルム伯テオフィラットで、母はテオドラ。テオドラとマロツィアによる支配はポルノクラシーと呼ばれている。.

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マーディア

マーディア (المهدية) は、チュニジア東部のマーディア県の首都である。マディア・マフディアとも。 地中海に面する。人口4万5977人 (2004)。.

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マドラサ

マドラサ(正則アラビア語:, madrasa)とは、イスラーム世界における学院。元々は単純にアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味するだけだったが、11世紀に制度的に確立し、イスラーム世界の高等教育機関として広く普及した。モスクと併設される場合も多く、一般に寄進財産で運営される。近代の世俗教育の普及によって、宗教教育の専門機関となった。 ガンビアのマドラサを中心とする宗教複合施設.

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マクデブルク

マクデブルク(Magdeburg、)はドイツ連邦共和国の都市。ザクセン=アンハルト州の州都。主な宗教はルター派プロテスタント。人口は約万人。.

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マグリブ

マグリブを表す地域 マグリブ(Maghreb、مغرب)は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。ここでは、地域名としてのマグリブについて記す。.

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マケドニア王朝 (東ローマ)

1025年 バシレイオス2世没時のマケドニア王朝東ローマ帝国の版図 マケドニア王朝(マケドニアおうちょう、Μακεδονική Δυναστεία)は、東ローマ帝国中期の王朝(867年 - 1057年)。.

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マケドニア朝ルネサンス

マケドニア朝ルネサンス(マケドニアちょうルネサンス、Macedonian Renaissance)とは、10世紀の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)における古典の復興と文化の高揚を指し、近年使われるようになった用語である。.

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マジャル人

マジャル人の分布及び割合 ルーマニアにおけるマジャル人の割合 マジャル人(マジャルじん、Magyarok)は、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。マジャール人(Magyár)とも呼ばれる。.

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マスウーディー

マスウーディー( المسعودي al-Masʿūdī, Abū al-Ḥasan ʿAlī ibn al-Ḥusayn ibn ʿAlī al-Masʿūdī) は、アラブ人の歴史家、地理学者でアラブのヘロドトスとして知られている。西暦896年バグダード生まれ、956年9月カイロにて死去。 預言者ムハンマドの教友(サハーバ)であったアブドゥッラーフ・イブン・マスウードの子孫。915年頃から末年近くまで各地を旅行してまわった。訪問した場所はペルシア、アルメニア、アゼルバイジャン、カスピ海周辺、アラビア、シリア、エジプト、インダス川、インドの西海岸方面、東アフリカ方面など多方面にわたり、インド洋や紅海、カスピ海、地中海なども航海したと考えられている。更に中国やスリランカなども訪問先に含まれているとする見方もある。晩年はシリアとエジプトに住んだ。旅行をどのように実現したのかは不明であり、マスウーディーが十二イマーム派のシーア派だったことから、10世紀のシーア派の拡大と関連している可能性も推測されるが、証拠は何もない。実際のところは、貿易業者と一緒だったか、彼自身が貿易に従事していたという推定がされている。.

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チャンパ王国

チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.

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チャンデーラ朝

チャンデーラ朝(チャンデーラちょう、英語:Chandela dynasty)は、9世紀初頭から14世紀初頭にかけて、インド中部のブンデールカンド地方 (現マディヤ・プラデーシュ州)に存在したヒンドゥー王朝。ラージプートの王朝でもある。チャンデッラ朝とも呼ばれる。首都はカーリンジャル、カジュラーホー、マホーバー。.

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チュニジア

チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。.

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チョーラ朝

チョーラ朝(チョーラちょう、Chola dynasty)は、9世紀から13世紀にかけて、南インドを支配したタミル系のヒンドゥー王朝(846年頃 - 1279年)。首都はタンジャーヴール、。 チョーラ朝の名が付く南インドの地方政権は、シャンガム文学と呼ばれるタミル古典文学にも記述があって、1世紀から3世紀頃にカーヴェーリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン島遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られているが、一般的にはパッラヴァ朝の封臣であったがタンジャーヴールに興した王朝のことを指す。なお、シャンガム文献のチョーラ朝とこれから記述するチョーラ朝と関係は不明である。.

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チアパス州

チアパス州 (Estado de Chiapas) は、メキシコ南東に位置する州。北はタバスコ州、北西はベラクルス州に接し、西はオアハカ州、東は一部ウスマシンタ川が境界となってグアテマラに接する。南部は太平洋に面する。日本では「チャパス州」と表記されることも多い。 チアパス州の領域は73,887km2(28,528平方マイル)。2010年国勢調査で人口は4,793,406人。 州都はトゥストラ・グティエレス。 チアパス州の住民の多くは貧しい農民である。人口のおよそ3分の1はマヤ・インディオで地方住民の多くはスペイン語を話せない。州の住民の多くが栄養失調に苦しみ、その数は人口の40%以上と推測される。 先古典期後期のイサパ遺跡がある。オルメカ文明とマヤ文明の橋渡し的な役割をになったと注目された。最古の長期暦を刻んだ石碑2号で知られるチャパ・デ・コルソは、州の名称の由来にもなった。マヤ文明の壮麗な宮殿とパカル王の王墓で知られるパレンケ遺跡があり、世界遺産に登録されている。アステカ時代はソコヌスコと呼ばれた。 州章には、チアパス州の主要な観光資源であるスミデロ峡谷と峡谷を流れるグリハルバ川を図案化したものが使用されている。.

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ハムダーン朝

ハムダーン朝(アラビア語: الحمدانيون al-Hamdānīyūn)は、ジャズィーラ地方(現在のイラク北部)からシリア北部を支配したイスラム王朝(890年 - 1004年)。.

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペスト。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。首都のブダペストにはロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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ハーラル1世

ハーラル1世は、古代北欧の王の名のひとつ。英語読みすると「ハラルド」となる。.

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ハーラル1世 (デンマーク王)

ハーラル1世ゴームソン "青歯王"(Harald Blåtand、 ? – 986年?、ハラルド・ゴルムスソンとも)は、デンマークの王(在位:958年? – 985年?)。 父親はデンマーク王ゴーム、母親はテューラ・デーネボーズ。 ノルウェーとデンマークを無血統合した。ザクセン公家のデンマークへの政治的侵入を受け、960年ごろに洗礼を受けてキリスト教を受け入れた。ただし、948年にはシュレースヴィヒ、リーベ、オーフスの半島3都市に既に司教が任命されていたらしい。 Korak Dasgupta, 2010年12月15日閲覧。。←由来の項があるのと、これは一説にすぎないとの記述もあるので、ここでは不要--> デンマークとノルウェーを交渉によって平和的に統一した事績にちなんで、複数の電子機器をつなぐ通信技術のBluetoothの語源となった。 世界遺産イェリング墳墓群には、ハーラルによるデンマークの統一、ノルウェーの支配、デンマークのキリスト教化という三つの功績を記したルーン石碑がある。.

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ハインリヒ1世 (ドイツ王)

ハインリヒ1世(Heinrich I., 876年 - 936年7月2日)は、ザクセン公(在位:912年 - 936年)および東フランク王(ドイツ王、在位:919年 - 936年)。ザクセン朝の初代国王。それまでのフランク王国において行われてきた分割相続の慣例を廃し、世代を越えた永続的な国家領域を形成する基礎を築いた。また、マジャル人に対する防衛戦に成功し、北方のデーン人、東方の西スラヴ人と戦い、王国領土を拡張させた。.

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ハカム2世

ハカム2世(الحكم الثاني、Al-Hakam II、915年1月13日 - 976年10月16日)は、後ウマイヤ朝の第2代カリフ(在位:961年 - 976年)。初代カリフ・アブド・アッラフマーン3世の子。.

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ハザール

ハザール(突厥文字:、Khazar、ヘブライ文字:הכוזרים)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されている。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語、ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。.

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ハスダイ・イブン・シャプルト

ハスダイ・イブン・シャプルト(Hasdai ibn Shaprut、חסדאי בן יצחק בן עזרא אבן שפרוט、حسداي بن شبروط、 915年頃-975年頃) は、後ウマイヤ朝の首都コルドバで活動した医師、学者、政治家で、ユダヤ教徒。.

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ハタ・ヨーガ

ハタ・ヨーガ(हठयोग )はヨーガの一様式ないし一流派である。別名ハタ・ヴィディヤー (हठविद्या) すなわち「ハタの科学」。 ハタ・ヨーガは半ば神話化されたインドのヒンドゥー教聖者が大成したとされる。16世紀の行者のヨーガ論書『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』において体系的に説かれた。 「ハタ」はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉である。教義の上では、「太陽」を意味する「ハ」と、「月」を意味する「タ」という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派とされる。 スヴァートマーラーマは、ハタ・ヨーガとはより高いレベルの瞑想、つまりラージャ・ヨーガに至るための準備段階であり、身体を鍛錬し浄化する段階であると説明する。ムドラー(印相)と、プラーナーヤーマ(調気法)を中心としているが、による浄化法もよく知られている。インドのゴーピ・クリシュナはこのハタ・ヨーガにより解脱を得たとしてその境地を説明する本を著している。 健康やフィットネスを目的とするエクササイズとして20世紀後半に欧米で大衆的な人気を獲得したハタ・ヨーガは、多くの場合、単に「ヨーガ(ヨガ)」と呼ばれる。現在ハタ・ヨーガと呼ばれるものの多くは、19世紀後半から20世紀前半の西洋で発達した体操法などの西洋身体文化に由来し、インド独自の体系として確立した「新しいヨーガ」の系譜で、現代のハタ・ヨーガのアーサナは、伝統のハタ・ヨーガとのつながりは極めて薄いといわれる伊藤雅之 2011.

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バルセロナ伯

バルセロナ伯 (カタルーニャ語:Comtes de Barcelona)は、9世紀から17世紀まで続いたカタルーニャの君主。.

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バーベンベルク家

バーベンベルク家(Haus Babenberg)は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってプシェミスル朝及びハプスブルク家に代わられるまでオーストリア辺境伯およびオーストリア公としてオーストリア(オーストリア公国)を支配した。.

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バグダード

バグダード(/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。日本語では多くの場合バグダッドと表記されるが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。 バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。.

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バシレイオス2世

バシレイオス2世“ブルガロクトノス”(Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος、958年 - 1025年12月25日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:976年 - 1025年)。禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。.

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バスラ

バスラ(アル=バスラ、, al-Baṣrah)は、イラク南東、シャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市。.

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ポルノクラシー

ポルノクラシー(Pornocracy)は、10世紀前半のヨーロッパで起きた、教皇セルギウス3世から教皇ヨハネス12世までの政権(西暦904年 - 963年)を指す。一説によると、ヨハネス11世(在位931年 - 935年)までの30年間のことを指すともされる。日本語訳して「娼婦政治」とも称する。この時代、教皇たちは売春婦などの女性たちにより強い悪影響を受けたとされる。 広義では売春婦による政権、または売春婦の強い影響を受けた政権を指す。 特にテオドラ(Theodora)と娘マロツィア(Marozia)が活躍した。セルギウス3世の内妻であったマロツィアは、ヨハネス11世を生んだといわれる。彼女はテオドラが教皇の地位に指名した教皇ヨハネス10世の殺害を命じたと疑われている。動機は彼女が好んだ教皇レオ6世の、選挙(コンクラーヴェ)における勝利を確実にするためだった。 ローマの政治的権力者として、テオドラとマロツィアが新しいローマ教皇を選ぶ選挙をコントロールしたのは確かであるが、実際彼女たちに持たれたすべての疑いが証明できたかは不明である。この時期の歴史はほとんどクレモナの司教リウトプランドの証言により成り立っている。リウトプランドは教皇ヨハネス12世の統治の転覆に参加した一人でもある。.

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ポワトゥー

アンシャン・レジーム時代のポワトゥーの位置 ポワトゥーの紋章。ポワトゥー伯であったアリエノール・ダキテーヌの紋章に由来する ポワトゥー (Poitou)は、フランス王国の州。その領域は現在のヴァンデ県、ドゥー=セーヴル県、ヴィエンヌ県、シャラント県北部まで及んだ。首都はポワティエである。 ポワトゥーの名は、かつてフランス西岸にあったポワトゥー湾の名残である湿地、ポワトヴァン(Poitevin、カマルグに次いで国内第2の規模の湿地帯)に由来する。 ポワトゥーは様々な起伏からなる異なった地層を共有している。西(低ポワトゥーとヴァンデ)から南東部は古代の山地であり、非常に侵食が進んでいる。冷涼なケイ酸質の丘陵が続く。この地方はボカージュ(fr、ツゲや低木で区切られた草原や畑のこと)が多い。中央部はポワティエのある石灰岩質の台地である。ほぼ平らで、ロワール渓谷へ向けて標高が150mから100mほど下がってゆく。 ポワトゥーは古いパリ盆地とアキテーヌ盆地の移行地帯にあたる。11世紀にはオック語が話されていたが、現在はオート=ヴィエンヌ県の6コミューンを除いてオイル語の話される地方となっている。そしてポワトゥーは伝統的な屋根の境界線である(北部のスレート屋根に対して南部のタイル屋根)。地名の語尾に-ay、-yと付くのは全域で見られるが、-acとなるのは南東でしか見られない。 地方言語として、ロマンス語に属するポワトゥー語・サントンジュ語(オイル語に属す)がある。 Category:フランスの州 (フランス革命以前) Category:ヴァンデ県 Category:ドゥー=セーヴル県 Category:オート=ヴィエンヌ県 Category:シャラント県.

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ポーランド

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合 (EU)、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。 10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけヨーロッパで広大な国の1つであったポーランド・リトアニア共和国を形成。18世紀、4度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。 第一次世界大戦後、1918年に独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。冷戦時代は、ソ連の影響下に傀儡政権の社会主義国とし最大で最も重要なソ連の衛星国の一国となり、政治的にも東側諸国の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と東欧革命を経て、「中欧」または「中東欧」として再び分類されるようになっている。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ムイッズ

ムイッズ(المعز لدين الله 、生没年:932年9月26日 - 975年12月19日)は、ファーティマ朝の第4代カリフ(在位:953年 - 975年)。ファーティマ朝の版図をエジプトにまで拡大させた。.

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ムゥタズィラ学派

ムゥタズィラ学派(المعتزلة、al-muʿtazilah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀初頭から10世紀にかけてのイスラーム世界で大きな影響力を持ち、分散して少数派となった後も思想の一部はシーア派に継承された塩尻「ムゥタズイラ学派」『岩波イスラーム辞典』、959頁。.

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ムカデ

ムカデ(百足、蜈蜙、蜈蚣、蝍蛆)とは、多足亜門 ムカデ綱(=唇脚綱)に属する節足動物の総称。脚の数が多く、運動性に富む捕食性の虫である。英名のCentipedeはラテン語の百(centi)脚(pede)に由来する。.

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メリュジーヌ

の翼を備えた姿で描かれたメリュジーヌ。 メリュジーヌ(メリュジーナとも。Melusine)は、フランスの伝承に登場する蛇女ローズ,松村訳 (2004), p. 431.

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メッカ

メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkah に改めた。.

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メキシコ

メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.

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メギスティス・ラヴラ修道院

メギスティス・ラヴラ修道院(大ラヴラ修道院、Μονή Μεγίστης Λαύρας)は、アトス山で最初に開かれた正教会の修道院。アトス半島の南東に位置する 。 アトスのアサナシオスによって963年に創建。創建にあたっては東ローマ帝国皇帝ロマノス2世の後援を受けた。 修道院内に17の聖堂、修道院外に管理する19の聖堂がある。主聖堂は10世紀に遡るもので、壁面の塗装は16世紀に行われたものである。当初主聖堂は生神女福音を記憶するものであったが、15世紀にアトスのアサナシオスを記憶する聖堂となってこんにちに至っている。 共住修道院として創られ、14世紀まで共住修道院として機能し続けたが、14世紀に独居修道にスタイルが変わる。度重なった地震やオスマン帝国の支配によって、修道院は衰退した。1574年、アレクサンドリア総主教シルヴェストロスが介入し、共住修道形式に戻ったが、1670年には再び独居修道制となった。 1963年にはアトス山の他の全修道院とともに、修道院創建の1000年記念行事が行われた。1980年に再び共住修道形式になった。 多くの皇帝、王達が修道院に多額の寄進をしてきた。アトス山の中でもメギスティス・ラヴラ修道院は豊かな修道院の一つであり、豊富な収蔵品を誇っている。.

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メスキータ

メスキータ (mezquita) とは、スペイン語でモスクという意味で、アラビア語 مسجد ("Masjid") に由来する。しかし、一般的には固有名詞として、スペインアンダルシア州コルドバにあるカトリック教会の司教座聖堂「コルドバの聖マリア大聖堂 (Catedral de Santa María de Córdoba)」を指す場合が多い。本項は、この聖マリア大聖堂について解説する。 メスキータ (Mezquita) は「モスク」(ひざまずく場所)、ムスリム(回教徒)の礼拝堂の意味で、スペインに現存する唯一の大モスクである。アブドールラフマン1世は、グワダルキビール川の流れが変わるコルドバの小高い丘にメスキータの建設を始める。ここは紀元2世紀、戦勝祈願を行ったローマ神殿があったという伝説があり、西ゴート王国時代には聖ヴィアンテ教会があった神聖な場所であった。.

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モラヴィア王国

ワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。 キュリロスの像(モラヴィア地方・オロモウツにある三位一体柱の一部) モラヴィア王国 (Veľkomoravská ríša) は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。.

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モースル

モースル(日本での報道などでの表記は通常モスル,, al-Mawsil, または, アッシリア語:, 'Ninewa')は、イラク北部の中心的な都市。 古代のニネヴェの遺跡と世界有数の石油生産で知られる。バグダードの396km北西にあり、北緯36度22分、東経43度07分。市街はチグリス川の両岸に広がり、5つの橋で結ばれている。ニーナワー県の県都。.

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ユーラブルグント王国

ユーラブルグント王国は、旧ブルグント王国のあった地域のユラ山脈以北に存在した王国。上ブルグント王国、高ブルグント王国、トランスユラニア王国(Transjuranien)とも呼ぶ。現在のスイス中西部にフランスのブルゴーニュ地方東部を含めた地域にあたる。 この地はカロリング朝フランク王国の分裂後、中部フランク王国、さらにロタリンギアの一部であった。ロタリンギア王ロタール2世は、在地貴族の統制のためヴェルフ家のオセール伯コンラート2世を招き、コンラートはこの地で権力を確立した。ロタール2世の死後はメルセン条約により東フランク王国領となったが、その後リブモント条約で分離した。 フランク王国を一時統一したカール3世が888年に死去し、コンラート2世の息子ルドルフ1世 が上ブルグントを継承してブルグント王位につき成立した。933年、ルドルフ2世がウーゴのキスユラブルグント王国を併合し、それ以降は単にブルグント王国と呼び、またそのときアルルを首都としたためアルル王国とも呼ぶ。 王国成立後もジュネーヴ伯やサヴォイア家などの在地貴族の勢力が依然として強く、国王ルドルフ3世は司教に支配権を与え、支配強化をはかった。これが、のちの聖界諸侯領形成につながっていった。1032年、ヴェルフ家の最後の男系の王ルドルフ3世が死去し、ルドルフ3世の姪と結婚したローマ皇帝コンラート2世がブルグント王となり、ブルグント王国は神聖ローマ帝国に併合された。.

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ユーグ・カペー

ユーグ・カペー(Hugues Capet、940年頃 - 996年10月24日)は、ロベール家の出身でフランスのカペー朝を開いた。フランス王(在位:987年 - 996年)。年幼くして家督を相続した当初はその力量からロベール家領の多くを失ったが、カロリング朝が断絶したことにより王位を継承、彼の子孫はしだいに勢力を回復した。以後ヴァロワ朝からブルボン朝へと血統を繋げ、フランス革命からナポレオンの時代を除いた七月王政まで、800年以上フランスの王権を保った。史家の多くはこのユーグ・カペーの王位継承をもってフランク王国が終わりフランス王国が始まったと解釈している。.

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ヨハネス12世 (ローマ教皇)

ヨハネス12世(Ioannes XII、937年 - 964年5月14日)は、ローマ教皇(在位:955年 - 964年)。教会慣用名はヨハネ。.

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ヨハネス1世ツィミスケス

ヨハネス1世ツィミスケス(ギリシア語:Ἰωἅννης Αʹ Τζιμισκής, Iōhannēs I Tzimiskēs, 925年 - 976年1月10日)は、東ローマ帝国中期、マケドニア王朝の皇帝(在位:969年 - 976年)。軍人皇帝として活躍し、東ローマ帝国領を東方へ拡大させた。「ヨハネス」は慣用読みで、中世ギリシア語では「ヨアニス1世ツィミスキス」となる。.

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ランス・オ・メドー

ランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)は、カナダ東部、ニューファンドランド・ラブラドール州のニューファンドランド島最北端にある考古遺跡。1978年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。カナダ国定史跡にも指定されている。語源はフランス語で「くらげの入り江」を意味する L'Anse-aux-Méduses から来ている。ランソメドウズとも。 1960年、ノルウェー人の探検家とその妻で考古学者のが発見した。コロンブスが北米に上陸する以前の年代にバイキングが持ち込んだとされる鉄釘をイングスタッド夫妻が発見し、これによりコロンブスの「新大陸発見(西洋人視点)」説は覆った。.

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ラーシュトラクータ朝

ラーシュトラクータ朝(ラーシュトラクータちょう、英語:Rashtrakuta dynasty)とは、8世紀後半から10世紀後半にかけて、インドのデカン地方を支配したヒンドゥー王朝(753年 - 973年)。首都はマーニヤケータ。.

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リュートプランド (クレモナ司教)

レモナのリュートプランド(Liutprandus Cremonensis、Liutprand von Cremona、920年 - 972年)は、神聖ローマ帝国の外交官・政治家・歴史家・宗教家。東ローマ帝国通として知られた。リュートプランドの表記ゆれとしてリウトプランドやリウドプランドがみられる。.

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リュジニャン家

リュジニャン家(フランス語: Maison de Lusignan、英語: House of Lusignan)は、フランス発祥の一族で、エルサレム王国、キプロス王国およびキリキア・アルメニア王国の国王を輩出するとともに、イングランドおよびフランスにおいても大きな影響力を有した。 この一族はリュジニャン近くポワトゥーで10世紀初頭に興った。11世紀の終わりまでには、一族はリュジニャン城を拠点とする最も有名な下級領主となっていた。12世紀後半には、婚姻と相続を通して、分家がエルサレム王国およびキプロス王国を支配することとなり、一方、13世紀初めには本家はラ=マルシュ伯およびアングレーム伯を継承した。十字軍国家の王として、一族はキリキア・アルメニア王国のヘトゥム朝君主と姻戚関係を持つこととなり、14世紀半ばには婚姻を通してこの王国をも支配下におさめた。しかし、後にアルメニア王家はフランスに亡命、The Advocate: America's Jewish Journal, Volume 44.

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リウドルフ (シュヴァーベン大公)

リウドルフまたはロイドルフ(Liudolf, 930年 - 957年9月6日)は、シュヴァーベン大公(在位:950年 - 954年)。皇帝オットー1世とその最初の妻エドギタの間の長男。皇帝戴冠以前の父王オットー1世に対して反乱を起こした。.

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リウドルフィング家

リウドルフィング家(Liudolfinger, Liudolfings)は、中世ドイツにおいて国王および皇帝を務めたザクセン出身の諸侯の家系である。「オットー家」(Ottonen)、あるいは国王を世襲した家系としてザクセン朝と呼ばれる(同じザクセン朝と呼ばれたズップリンブルク家とは直接関係はない)。.

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ル・ピュイ

ル・ピュイ(Le Puy)はフランスにいくつかある都市の名である。.

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ルーン文字

ルーン文字(ルーンもじ)は、ゲルマン人がゲルマン諸語の表記に用いた古い文字体系であり、音素文字の一種である。成立時期は不明であるが、確認されている最初期のルーン銘文は2世紀あるいは3世紀頃のものである。ラテン文字に取って代わられて使用されなくなったが、スカンディナヴィアでは中世後期まで用いられた。一部の地域ではルーンの知識は初期近代まで民間に残存していた。 「ルーン(rune)」という名称の語源としては、「秘密」を意味するゴート語の runa が挙げられる(cf.

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ルーヴル美術館

ルーヴル美術館(ルーヴルびじゅつかん、Musée du Louvre)は、パリにあるフランスの国立美術館。世界最大級の美術館(博物館)であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部1区のセーヌ川の右岸に位置する。収蔵品380,000点以上。先史時代から19世紀までの様々な美術品35,000点近くが、総面積60,600平方メートルの展示場所で公開されている。世界で最も入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れている。フランスの世界遺産であるパリのセーヌ河岸にも包括登録されている。.

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ルーダキー

ルーダキー(ابوعبدالله جعفربن محمدبن حکیم‌بن عبدالرحمن‌بن آدم رودکی Абӯабдуллоҳ Ҷафар Ибни Муҳаммад Рӯдакӣ、850年代初頭/860年代-870年代黒柳『ペルシア文芸思潮』、17頁 - 940年頃)は、サーマーン朝で活躍したペルシア語の詩人。本名はアブー・アブドゥラー・ジャアファル・ビン・ムハンマド(Abu Abdollah Jafar ibn Mohammad)であるが、出身地にちなんだ「ルーダキー」の号で呼ばれることが多い。ペルシア文学最初期の人物であり、「ペルシア詩の確立者」加藤『中央アジア歴史群像』、27頁「ペルシア文学の父」佐々木「ルーダキー」『岩波イスラーム辞典』収録「ペルシア詩人のアダム」「詩人の帝王」と評される。.

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ルーシ・ビザンツ条約 (907年)

ルーシ・ビザンツ条約は907年にキエフ・ルーシとビザンツ帝国の間に締結された最初の条約。『原初年代記』によれば、この最初の条約はオレグが行ったコンスタンティノープルへの襲撃の結果として結ばれた。学者は概ねこの条約を続く911年の条約への下ごしらえと見ている。 この条約で最も目立つ点は、コンスタンティノープルにおけるルーシ商人の居留について規定されたことである。ルーシ商人は武器を持たず、一回50人を越えない人数、帝国衛兵の同伴付きの規則で特定の門から都市に入ることが許され、到着時には帝国当局の登記を受け、食物の供給および月ごとの扶養手当を半年受け取ることが定められた國本哲男『ロシア原初年代記』p.

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ルーシ・ビザンツ条約 (911年)

ルーシ・ビザンツ条約(ルーシ・ビザンツじょうやく、Русско-византийский договор)は911年にキエフ・ルーシと東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の間に締結された条約。下ごしらえとして907年に結ばれた条約をより発展させるべく結ばれ、両国が10世紀に結んだ条約の中で最も包括的で詳細な物になっている。 条約の文章は『原初年代記』に記録されており、その内容と言葉の表現法は後に東ローマ帝国とイタリアの諸商人共和国の間に結ばれた通商条約と多くの類似点を有している。条約の文章は2つの言語で構成され(片方は東ローマの公用語であるギリシャ語)、東ローマ側においては皇帝レオーン6世がじきじきに署名した。一方のルーシ側の首長(キエフ大公)の座にあったのはオレグである。また、締結式で両側によってなされた演説もそれに記されている。当時ヨーロッパで蛮族とされた者達(ルーシ)との条約の中で、これほどの複雑さと古色を持つ条約はほかにない。 条約はルーシ側使節の名前の列挙で始まり、その名前はもっぱら北欧的なものである。第3項から第7項までは刑法およびルーシがコンスタンティノープルに持つ居留地での生活を規定していて、もし帝国首都でルーシ商人が死んだ場合の遺産継承の条件なども記されている。第8項は海事法について規定されている。その以下の項では捕虜の身代金および相互交換、ルーシ商人が受ける待遇などが詳細に述べられている。.

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レヒフェルトの戦い

レヒフェルトの戦い(レヒフェルトのたたかい、Schlacht auf dem Lechfeld)は、955年8月10日、東フランク王オットー1世指揮下の東フランク軍が、侵入してきた(ハンガリー)の騎馬民族ウゴル系マジャル人(ハンガリー人)を撃退した戦い。.

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レイフ・エリクソン

レイフ・エリクソン (Leif Ericson、古ノルド語:Leifur Eiríksson、970年頃 - 1020年頃)は、アイスランド生まれのノルマン人航海者(ヴァイキング)。赤毛のエイリークの息子。 ヨーロッパ大陸から海を渡ってアメリカ大陸に史上初めて到達したとサガによって伝えられている。「幸運なるレイフ」というあだ名でも知られる。.

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レオン (スペイン)

レオン(León)は、スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州レオン県のムニシピオ(基礎自治体)。レオン県の県都である。2012年の自治体人口は131,680人であり、レオン都市圏の人口は204,212人。.

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レオン王国

レオン王国(Reino de León、Reinu de Llión)は、イベリア半島に存在した王国。レオン・アストゥリアス王国ともいう。 イベリア半島に侵入したイスラム勢力の侵攻で崩壊した西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアス地方に建てたアストゥリアス王国が起源になっている。.

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レオーン6世

レオーン6世の肖像が描かれた銅貨 レオーン6世“ソフォス”または“フィロソフォス”(ギリシア語:Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός, Leōn VI ho Sophos または ὁ Φιλόσοφος, ho Philosophos, 866年9月1日あるいは9月19日 - 912年5月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の第2代皇帝(在位:886年 - 912年)。中世ギリシア語読みでは「レオン」となる。“ソフォス”は「賢者」を、“フィロソフォス”は「哲学者」を意味するあだ名である。 マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世と、彼の二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、エウドキア・インゲリナは867年にミカエル3世がバシレイオス1世に暗殺されるまでミカエル3世の愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと、867年(ミカエル3世の暗殺直後)に生まれたステファノスはミカエル3世の息子である可能性を否定できない。こうした噂は既にレオーンの出生直後から広く流布していたようである。なお兄のコンスタンティノスはバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝の血統は1056年まで存続したことになる。 870年には共同皇帝として戴冠された。872年頃には一時幽閉されていたフォティオスが召喚され、レオーンらバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、879年に、後継者であった兄コンスタンティノスが没したためレオーンがバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、882年に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後に母が没するとバシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に886年7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。 レオーンが復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。すぐに彼は当時コンスタンティノポリス総主教に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。 レオーン6世の治世は、前半はレオーンの復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を振るったとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。レオーンは後に彼にバシレオパトル(「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味)の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。899年にステュリアノスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスはバグダードに亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子のコンスタンティノス・ドゥークスは後に復帰している。 レオーンはフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀のユスティニアヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。 このように、内政面・文化面では功績を残したレオーンだったが、対外関係ではいくつか失敗を犯している。893年に第一次ブルガリア帝国のシメオン1世と開戦した。レオーンは当時ドナウ川北岸にいたマジャル人と同盟してブルガリアを挟撃したが、896年にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。 西方の領域でも敗北が続いた。888年にはミラッツォ沖でイスラーム艦隊に敗北を喫した。902年にはシチリア島で事実上最後の拠点であったタオルミナが陥落した。またエーゲ海の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、904年には帝国第二の都市テッサロニキが襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対してレオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、911年のクレタ島遠征は完全な失敗に終わっている。また907年にはキエフ・ルーシの艦隊がコンスタンティノポリスを攻撃している(:en:Rus'–Byzantine War (907))。一方アナトリア半島東部では帝国の領域をユーフラテス川の東側にまで拡大し、テマ・メソポタミアを設置した。 レオーンには長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起こした。最初の妻テオファノが897年頃に病死すると、898年に年来の愛人ゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、レオーン自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。 901年にはエウドキアも死去。レオーンには未だに子供がいないままだったので、4番目の妃であるゾエ・カルボノプシナ(ヒメリオスの一族)を迎え、905年についに息子のコンスタンティノス(のちのコンスタンティノス7世)が生まれた。当初、側近で学友でもあった総主教のニコラオス1世ミュスティコスはコンスタンティノスの認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが、レオーンがゾエとの正式な結婚に踏み込んだ(「四婚問題」)ために態度を硬化させた。その結果ニコラオス1世は906年のクリスマスおよび翌年の神現祭では、レオーンはハギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた。そのためレオーン6世はニコラオス1世を解任し、自身の信任する修道士エウテュミオスを後任とした。しかしこれはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。 912年5月11日に病死した。コンスタンティノス7世がまだ幼かったため、バシレイオス1世の代から共同皇帝の地位にあったアレクサンドロスが後継者となった。 Category:東ローマ皇帝 Category:マケドニア家 Category:866年生 Category:912年没.

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ロマノス1世レカペノス

マノス1世レカペノス(ギリシア語:Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός, Rōmanos I Lekapēnos, 870年 - 948年6月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:920年 - 944年)。マケドニア王朝開祖のバシレイオス1世同様、アルメニア人農民の子として生まれ、海軍の士官として出世、帝国海軍の司令長官()となった。.

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ロマノス2世

マノス2世(ギリシア語:Ρωμανός Β' (Romanos II)、939年 - 963年3月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位959年 - 963年)。父はコンスタンティノス7世、母はロマノス1世レカペノスの娘ヘレネ。.

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ロロ

の銅像 ルーアンにあるルーアン大聖堂にあるロロの墓 ロロ(Rollo、Rollon、846年頃 - 933年)、洗礼名ロベール(Robert、彼の子孫と区別するためにロベール1世と数えられることもある)は、ノルウェー人、デンマーク人の指導者で、間もなくノルマンディーとして知られるようになったヴァイキングの公国の創始者。恵まれた体格が災いして、馬に乗ると馬を乗り潰してしまうので、いつも徒歩で移動し、「徒歩王」ロロ(Rollon le Marcheur)と渾名された。彼の子孫はノルマンディー公となった(ノルマンディー家)。.

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ロベール1世 (西フランク王)

ベール1世(フランス語:Robert Ier)またはロベルト1世(ドイツ語:Robert I.)(865年頃 - 923年6月15日)は、西フランク王国の国王(在位:922年 - 923年)。アンジュー伯ロベール(ロベール・ル・フォール)の息子で、888年に西フランク王となったウードの弟Schwennicke, Band II, Tafel 10。.

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ロベール2世 (フランス王)

ベール2世(Robert II, 972年3月27日 - 1031年7月20日)は、カペー朝第2代のフランス国王(在位:996年 - 1031年)。「敬虔王」(le Pieux)と呼ばれる。ユーグ・カペーとその王妃であったアキテーヌ公ギヨーム3世の公女アデライードの息子。.

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ロベール家

ベール家(Robertiens)は、西フランク王国のカロリング朝後期の9世紀末から三度王位に就き、987年フランスのカペー朝を開いた家系。以後のヴァロワ朝・ブルボン朝にも血脈を繋いでいるので、フランス革命期とナポレオン時代とを除いたルイ・フィリップまで、千年近くフランスの王権を握った。.

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ロスヴィータ

ヴィータ(Hrotsvit、またはHrotsvitha, Hroswitha, Hrosvit, Roswitha, 935年頃 - 973年頃)は、現ニーダーザクセン州バート・ガンダースハイムのガンダースハイム修道院にいた10世紀ドイツのベネディクト会律修修女、ならびにオットー朝ルネサンス(Ottonian Renaissance)に属するラテン語の劇作家、詩人。 「ロスヴィータ」という名前は、本人の主張によると、「大声」を意味する古ザクセン語だという。「ガンダースハイムのナイチンゲール」とも言われる。古い木版画ではロスヴィータのことを「Helena von Rossow」と記している。 ロスヴィータの作品は教父のみならず、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウス、プラウトゥス、それに自作詩の手本としたテレンティウスといった古典の詩への精通ぶりを示している。ロスヴィータの戯曲のいくつかは俗に「聖典とは認められない福音」と呼ばれている。.

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ロサンゼルス・カウンティ美術館

ンゼルス・カウンティ美術館 (ロサンゼルス郡美術館、Los Angeles County Museum of Art、通称LACMA) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市にある美術館である。美術館としては西海岸最大級の規模を有する。美術館には、伊藤若冲を中心とする日本画の収集家として知られるジョー・プライスが建設を主導し、プライスコレクション約600点のうち約200点を寄託品として収蔵する日本館(:en:Pavilion for Japanese Art)が設置されている。.

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ワズィール

マン朝のワズィールの紋章 ワズィール(وزير Wazīr)は、イスラーム王朝における「宰相」「大臣」などを意味するアラビア語。行政長官として書記官僚(カーティブ)集団を統率した。 近世ペルシア語ではワジーレ(vazīr)、トルコ語ではヴェジール(vezīr)であらわす。ヨーロッパ地域ではトルコ語が変化してヴェズィール(Vizier)と称された。アラビア語の動詞ワザラ(وزر wazara、「重荷を負う」の意)に語源をもとめ、「重責を負うもの」という原義をもつものと解釈する説もあるが、中世ペルシア語のウィチル(vičir)(判決・判官)に語源を求める説もある。.

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ヴァリャーグからギリシャへの道

地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシャへの道」を示す ヴァリャーグからギリシャへの道(ヴァリャギからグレキへの道)(Путь из варяг в греки、Vägen från varjagerna till grekerna、Εμπορική Οδός Βαράγγων - Ελλήνων)は、河川にそってルーシを縦断し、またバルト海を越えてスカンディナヴィア、黒海を越えて東ローマ帝国へも至る水上交易路である。8世紀から13世紀にかけて存在したこの交易路を通して、バルト海沿岸に住むヴァリャーグは、行動範囲を東欧南部やアナトリア半島まで拡大させた。またルーシの商人は、この道をスカンディナヴィアやコンスタンティノープルとの交易のために利用した。ルーシの歴史を記した『原初年代記』では、この道は「из Варягъ въ Грѣкы」(ヴァリャギからグレキへ)と記されている。 (留意事項)以下の「主幹ルート」・「分岐ルート」の名称は、説明上便宜的に用いた用語である。また「ルーシ」はおおよそキエフ大公国の支配領域を指す。地名は現在の現地の言語の転写表記よりも、歴史学的文献等において一般的と思われる表記を優先している。.

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ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)

ヴァーツラフ1世(Václav I, 907年 - 935年9月28日)は、ボヘミア公(在位:921年 - 935年)。ヴラチスラフ1世と妃ドラミホーラの長男。プシェミスル朝の実質的な始祖ボジヴォイ1世の孫で4代目にあたる。チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとしても知られている。.

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ヴィンランド

ヴィンランド(Vinland)は、かつて存在した北アメリカの地名。ヴァイキングのレイフ・エリクソンが名付けたとされる。『赤毛のエイリークルのサガ』(Saga of Eric the Red)および『グリーンランド人のサガ』(Grœnlendinga saga)にその発見と入植の物語が記されている。.

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ヴィクトル・ヴァスネツォフ

'''自画像'''(1873年) ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフ( / ローマ字表記例:Viktor Mikhailovich Vasnetsov, 1848年5月15日 - 1926年6月23日)はロシア帝国の画家。神話や宗教・歴史を題材とした絵画の専門家であり、19世紀のロシア画壇における文芸復興運動の立役者の一人とみなされている。叙事的で壮大な表現や耽美主義的な傾向が見られることから、ロシア象徴主義の一員に数えられることもある。.

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ヴォルガ・ブルガール

ヴォルガ・ブルガール(タタール語:İdel Bolğarı、チュヴァシ語:Атăлçи Пăлхар、ロシア語:Волжская Булгария、英語:Volga Bulgaria)は、7世紀から13世紀にかけて、 ヴォルガ川とカマ川の合流点周辺に存在した国家である。ヴォルガ・ブルガールの領域は、今日のロシア連邦内のタタールスタン共和国とチュヴァシ共和国の領域に相当し、ヴォルガ・タタール人、チュヴァシ人は、ヴォルガ・ブルガール人の末裔とみられている。.

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ボヘミア君主一覧

ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミアの君主であるボヘミア公およびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。 プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。.

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ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。.

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トミスラヴ (クロアチア王)

トミスラヴ(、Tamisclaus、クロアチア公在位:910年頃 - 925年頃、クロアチア王在位:925年頃 - 928年以降)は、クロアチア王国の初代国王である。トミスラヴの治世にクロアチアは第一次ブルガリア帝国と敵対し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と同盟を締結する。最終的にクロアチアはブルガリアと交戦し、926年のボスニア高地の戦闘で戦争は決着した(en)。北方においてはしばしばハンガリー公国との衝突が起こったものの、クロアチアは国境線を維持し、パンノニア公国(en)の崩壊においてある程度の拡大を成功させる。 925年に教皇ヨハネス10世はクロアチアと、ダルマチア地方に置かれたビザンツ帝国のテマ(en:Dalmatia (theme))で行われていた教会典礼でのスラヴ語の使用と宗教裁判権(en)についての議論のためにスプリトで教会会議を開催し、トミスラヴも会議に出席した。ヨハネス10世はスラヴ語の使用を禁止しようとしたが彼の意見は採用されず、宗教裁判権はニン司教(en)グレゴリー(en)に代えてスプリト大司教(en)に与えられた。 トミスラヴについて述べた史料は少なく、正確な即位年と没年は判明していない。.

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トロンハイム

トロンハイム(Trondheim ) はノルウェー中部に位置するノルウェー第3の都市。ソール・トロンデラーグ県に属する。人口は165,191人(2008年1月1日現在)、面積342平方キロ。オーラヴ王が船出をしたと伝承される地で、ノルウェー王国最初の首都。トロンヘイムとも表記される。 市内には歴史的遺産が残されており、中でもオーラヴ2世(オーラヴ・ハラールソン、Olav Haraldsson)を祭るニーダロス大聖堂へは中世から巡礼が盛んに行われた。この町の最も重要なイベントとして、夏至の前後に聖オーラヴ祭(olavsfestdagene)が一週間ほど行われる。また、トロンハイムは国立大学やハイテク産業の研究所が集まる大学都市でもある。 1997年ノルディックスキー世界選手権開催地。.

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トンガ

トンガ王国(トンガおうこく)、通称トンガは、南太平洋に浮かぶ約170の島群からなる国家で、イギリス連邦加盟国のひとつである。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。.

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トニナ

トニナ(Toniná)は、メキシコのチアパス州にある古代マヤの遺跡。今のの東、オコシンゴ盆地の北の斜面に位置する。65キロメートルほど北にはパレンケがある。マヤの低地と高地を結ぶ貿易の要地であったかもしれないMartin & Grube (2000) p.177。 トニナは現代の名で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれた。.

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トゥールーン朝

トゥールーン朝(アラビア語: الطولونيون al-Tūlūnīyūn)は、エジプトおよびシリアを支配したイスラム王朝(868年 - 905年)。.

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ブハラ

ブハラ(;)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人(1995年)。 都市名は、ソグド語では、pwγ'r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近世ペルシア語・チャガタイ語では (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。「ブハーラー」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。 古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。.

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ブラチスラヴァ

ブラチスラヴァ( )は、スロバキアの首都で同国最大の都市である。旧称はドイツ語: プレスブルク、マジャル(ハンガリー)語: ポジョニ、スロバキア語: プレシュポロク、チェコ語: プレシュプルク で、チェコスロバキア第一共和国建国後の1919年に現名称に改称した。.

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ブルガリア

ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。.

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ブルグントのアーデルハイト

ブルグントのアーデルハイト(Adelheid von Burgund, 931/932年 - 999年12月16日)は、イタリア王妃、東フランク王妃、そして最初の神聖ローマ帝国皇后。カトリック教会の聖人。オットー1世大帝の2番目の妃で、皇帝オットー2世の母親、皇帝オットー3世の祖母である。.

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ブルゴーニュ地域圏

ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne)は、フランス東部のかつて存在した地域圏(région)。首府はディジョン。人口は 約162万人、総面積は 31.741 km2(1999年)。ブルゴーニュ・ワインの産地として世界的に有名。英語では「バーガンディ」(Burgundy)、ドイツ語では「ブルグント」(Burgund)と呼ばれる。温暖な気候と平坦で耕作に適した土地など、恵まれた自然条件を活かして古くから農耕が盛ん。域内面積は日本の中国地方と、人口は鹿児島県と同程度。.

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ブワイフ朝

ブワイフ朝 (آل بویه Āl-e Buye) は、現在のイラン・イラクを支配したイスラム王朝(932年 - 1062年)。.

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プラハ

プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha )は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ)と呼ばれる。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。.

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プラハのアダルベルト

プラハの聖アダルベルト (ドイツ語:Adalbert von Prag、チェコ語:Svatý Vojtěch、ポーランド語:Święty Wojciech、956年 - 997年4月23日)は、プラハ司教。バルト海沿岸の古プルーセン人に布教している最中、殉教した。チェコ語での読みはヴォイティエフ、ポーランド語の読みはヴォイチェフ。後にカトリック教会で聖人とされ、ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、プロイセンの守護聖人とされた。.

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プラティーハーラ朝

プラティーハーラ朝(プラティーハーラちょう、英語:Pratihara dynasty)とは、8世紀後半から11世紀初頭まで、北西インドを支配したラージプートのヒンドゥー王朝(750年頃 - 1018年あるいは1036年)。首都はカナウジ。.

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プーシキン美術館

プーシキン美術館(正式名称:国立A.S.プーシキン造形美術館、Государственный музей изобразительных искусств имени А. С. Пушкина, Pushkin State Museum of Fine Arts)は、ロシア、モスクワにある美術館。モスクワの救世主ハリストス大聖堂の北、ヴォルホンカ通りをはさんだ場所にあり、ヨーロッパ最大の美術館であり、収蔵品の数は約10万点でエルミタージュ美術館に次ぐ世界2位。 本美術館は本館のほか、19~20世紀ヨーロッパ・アメリカ美術ギャラリーと呼ばれる別館、青少年芸術教育センターなどの建物から構成されている。このうち本館では、古代エジプトから19世紀初頭フランスまでの各種美術品が所蔵され、19~20世紀ヨーロッパ・アメリカ美術ギャラリーでは、フランスを中心とする印象派およびポスト印象派の絵画作品を中心に展示している。.

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プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。.

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パンジャーブ

1909年のパンジャーブ地図 赤い城(デリー) 時計塔(ファイサラーバード) パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。 インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。.

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パールシー

パールシー、パールスィー(Parsi)はインドに住むゾロアスター教の信者。.

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ヒンドゥー教

ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、Hinduism、हिन्दू धर्म、सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。 英語のHinduは、まずイスラム教徒との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派であるインド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。 同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。西洋では、このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教()、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教()と呼んだ。。 ヒンドゥー教の狭い意味での用法は、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒・ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い川崎信定 『インドの思想』 放送大学教育振興会、1997年。.

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ヒシャーム2世

ヒシャーム2世(965年『スペイン史 1:古代 – 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、山川出版社〈世界歴史大系〉、2008年、索引(人名)、p.86月11日 - 1013年5月18日)は、後ウマイヤ朝の第3代カリフ(在位佐藤健太郎 (2008)、p.91:976年 - 1009年、1010年 - 1013年)。 父は第2代カリフのハカム2世私市 (2002)、p.222。生母はバスク人のスブフ。.

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ピャスト朝

ピャスト朝(Dynastia Piastów)は、ポーランドの王朝。960年頃から1370年まで続いた。王朝としてあるが、初期においてはポーランド的な王家ではなく、グニェズノを主体とする地方侯家であった。1000年にボレスワフ1世がローマ皇帝オットー3世から戴冠および大司教座設置を許可され、その後1025年にローマ教皇ヨハネス19世の許可が下ったことをもってポーランド国家の始まりと見なされる。ここに名前を載せている者で、公には即位したが王位に就かなかった者もいる。.

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テオファノ

テオファノ(Theophano / Θεοφανώ, 941年頃井上(2009) P156 - 978年以降)は、東ローマ皇帝ロマノス2世の皇后。皇帝バシレイオス2世、コンスタンティノス8世およびキエフ大公妃アンナの母親。ロマノスの死後にはニケフォロス2世フォカスの皇后となり、同時にヨハネス1世ツィミスケスの愛人となった。絶世の美女として伝えられ、東ローマ帝国史上最大の悪女ともいわれている。.

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テオファヌ

テオファヌ(Theophanu, 960年 - 991年6月15日)は、神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后。ギリシャ語名のテオファノ(Theophano)、テオファニア(Theophania)という記載もある。.

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デンマーク

デンマーク(Danmark, )は、北ヨーロッパのバルト海と北海に挟まれたユトランド半島とその周辺の多くの島々からなる立憲君主制国家。北欧諸国の1つであり、北では海を挟んでスカンディナヴィア諸国、南では陸上でドイツと国境を接する。首都のコペンハーゲンはシェラン島に位置している。大陸部分を領有しながら首都が島嶼に存在する数少ない国家の一つである(他には赤道ギニア、イギリスのみ)。 自治権を有するグリーンランドとフェロー諸島と共にデンマーク王国を構成している。 ノルディックモデルの高福祉高負担国家であり、市民の生活満足度は高く、2014年の国連世界幸福度報告では第1位であった。.

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デンマーク君主一覧

デンマークの歴代君主。括弧内は、デンマーク王としての在位年を示す。 デンマークの君主制の歴史は深く、日本に次いで世界で2番目に古い君主国ともいわれている。.

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デーンロウ

デーンロウ(Danelaw)は、古英語 Dena lagu に由来する言葉で、9世紀後半以来ヴァイキング(デーン人)の支配下に置かれたイングランド東部地域を意味する。この地域にはアングロ・サクソンの法制とは異質な慣習法や独自の方言、風習が残った。.

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デカン高原

デカン高原の衛星写真 デカン高原(デカンこうげん、英語:Deccan Plateau)は、インド半島の大部分を構成し西ガーツ山脈から東ガーツ山脈にいたる台地。インド共和国のマハーラーシュトラ州、カルナータカ州、アーンドラ・プラデーシュ州、テランガーナ州にまたがる。 デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は190万平方キロメートル、ほぼ平坦で標高は300-600メートルである。 「デカン」の名称はサンスクリット語で「南」を意味する dakshina に由来する。.

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フランケン大公

フランケン大公(Herzogtum Franken)は、神聖ローマ帝国の部族大公。ドイツ中西部、マイン川流域を支配した。その領域については「フランケン」を参照(ただしバイエルン州内のフランケン地方だけではない。これについては「#領域としてのフランケンについて」を参照)。.

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フランケン朝

#リダイレクトザーリアー朝 ふらんけん.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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ファーラービー

アル.

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ファーティマ朝

ファーティマ朝(アラビア語: الدولة الفاطمية al-Dawla al-Fātimīya)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909年 - 1171年)。その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。.

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フェルドウスィー

フェルドウスィー(ペルシャ語: فردوسی, Ferdowsī/Firdawsī、 حکیم ابوالقاسم منصور ابن حسن فردوسى طوسى Hakīm Abū al-Qāsim Manṣūr ibn Ḥasan Firdawsī Ṭūsī 、934年 - 1025年)は、サーマーン朝およびガズナ朝時代に活躍したペルシャ詩人である。イランのホラーサーン中部トゥースの地主階層(デフカーン)の出身で、12世紀初期の『』(Chahar Maghaleh)の作者ニザーミー・アルーズィーによれば、トゥース近郊のタバラーン地区のバージュという大村で生まれたという。土地からの収益だけで不自由なく暮らせるほど大変に裕福であったと伝えられる。正則アラビア語および古典的な近世ペルシャ語風に読んで「フィルダウスィー」(Firdawsī)と呼ばれることもある。 ペルシャ歴代の王や英雄を詠った叙事詩『シャー・ナーメ』(王の書)がその代表作で、30年以上の歳月を費やし約6万対句(バイト)の大作としてヒジュラ暦400年(西暦1009年、1010年)に完成した。アラブ帝国に征服されたペルシャ民族の精神を高揚させるために作ったという。ガズナ朝の君主スルターン・マフムードに献呈したが、その努力を評価されず失意のうちに郷里で没した。タバラーン市街のフェルドウスィー所有の庭園に埋葬されたという。 ちなみに、「フェルドウス」(Ferdows)とは古代ペルシャ語に起源する「パラダイス」の中世ペルシャ語および近世ペルシャ語形で、パラダイス同様「楽園・天国」の意味である。 Category:ペルシア語の詩人 Category:イスラム史の人物 Category:マシュハド出身の人物 Category:サーマーン朝の詩人 Category:ガズナ朝 Category:934年生 Category:1025年没.

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ドニエプル川

ドニエプル川の流域。 ドニエプル川(Дніпро;Дняпро;Днепр)は、ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。 日本語表記は、他にドネプル川、ドニェプル川、ドニェープル川などのバリエーションが見られる。ウクライナ語名やベラルーシ語名に沿って表記されることは少ない。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ニューファンドランド

ニューファンドランド (Newfoundland).

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ニケフォロス2世フォカス

ニケフォロス2世フォカス(ギリシア語:Νικηφόρος Βʹ Φωκάς, Nīkēphoros II Phōkas, 913年 - 969年12月10日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:963年 - 969年)。中世ギリシア語読みでは「ニキフォロス」となる。.

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ホラーサーン

ホラーサーン(、Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィ・ホラーサーン州の州都となっている。.

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ホーフブルク宮殿

連邦大統領公邸 新宮殿 ホーフブルク宮殿(ホーフブルクきゅうでん、独:Hofburg、「王城」の意)は、オーストリアのウィーン中央にある元皇宮宮殿。現在この中にはオーストリアの連邦大統領の公邸や、欧州安全保障協力機構 (OSCE)の常設会議場、オーストリア国立図書館、シシィ博物館、イベントスペース等が置かれている。 640年にわたりハプスブルク家の政治中枢であり居城であった宮殿で、ホーフブルク王宮とも呼ばれる。。シェーンブルン宮殿が夏の離宮で、こちらは冬の主皇宮として使用された。.

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ダキーキー

ダキーキー(ابو منصور محمد بن احمد دقیقی、Abu Mansur Muhammad Ibn Ahmad Daqiqi Tusi、? - 976年?)は、10世紀のペルシアの詩人。10世紀のペルシア文学世界においてルーダキーに次ぐ詩人とされている黒柳『ペルシア文芸思潮』、29-30頁。本名はアブー・マンスール・ムハンマド・イブン・アフマドで、単にダキーキー(دقیقی、Daqiqi/Dakiki/Daghighi)と書かれる蒲生「ダキーキー」『アジア歴史事典』6巻、89頁。 ダキーキーはイランのトゥースで誕生したと考えられているDAQĪQĪ, ABŪ MANṢŪR AḤMAD(Encyclopædia Iranica)。トゥースのほか、アフガニスタンのバルフ、ウズベキスタンのサマルカンドとブハラ、トルクメニスタンのメルヴがダキーキーの出身地として挙げられている。 ダキーキーの生年は930年から940年の間と推定され、932年以後に生まれたと考えられている。 若年時にイラン・中央アジアを支配していたサーマーン朝に従属するチャガーニヤーンの地方領主に宮廷詩人として出仕し、その後サーマーン朝の宮廷に 召しだされてマンスール1世、に仕えた。ヌーフ2世の命令を受け、ダキーキーはペルシアの民族叙事詩の制作に着手する。 ダキーキーの作品として、自然、愛、ワインなどをテーマとする350句ほどの詩が残されている。しかし、ダキーキーの名前を文学史にとどめたのはそれらの詩ではなく、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王書)』に先行する民族叙事詩の制作事業だった。ダキーキーの民族叙事詩はかつてアブー・マンスールが著した散文に基づいており、ムタカーリブの韻律が採用されていた。ダキーキーによる『シャー・ナーメ』はの即位、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の出現、グシュタースプの改宗、アルジャースプとの戦闘までが、およそ1,000の詩で語られている。イスラーム風の名前を持つにもかかわらずダキーキーをゾロアスター教徒と見なす説があるが、この説には多くの疑問が呈されている。フェルドウスィーは『シャー・ナーメ』の序文でダキーキーについて詩を詠み、グシュタースプの治世の段でダキーキーの夢を見たと述べた。 約1,000の句を書き終えた頃、ダキーキーは寵愛していた奴隷に刺殺される。975年から977年にかけての時期でヌーフ2世がダキーキーに命令を下し、977年にフェルドウスィーが『シャー・ナーメ』の執筆に取り掛かったことから、976年頃にダキーキーは殺害されたと推定されている。.

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ベラサグン

ベラサグン(アラビア語/バラーサーグーン・ペルシア語 بلاساغون Balāsāghūn、英語:Balasagun, Balassagun, Balasaghun、中国語簡体字:八剌沙衮、キルギス語:Баласагын)は10世紀から1218年にかけて繁栄したカルルク、カラハン朝、西遼の中心都市。とくに耶律大石によって西遼の首都となり栄えたが、ナイマン王国の王子クチュルクが西遼を乗っ取り、彼を追って来たモンゴル帝国軍によって接収された後は衰微していった。天山山脈の北麓に位置し、今日のキルギスの都市トクマク近郊のブラナ遺跡はベラサグンの遺構と推定されている林「バラーサーグーン」『中央ユーラシアを知る事典』、435-436頁。.

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ベルト・ド・ブルゴーニュ

『ロベール敬虔王の破門』 ジャン=ポール・ロラン作(1875年)、オルセー美術館蔵 ベルト・ド・ブルゴーニュ(Berthe de Bourgogne, 964年頃 - 1010年1月16日)は、ブロワ伯ウード1世の妃、のちフランス王ロベール2世の2番目の妃。父はブルグント王コンラート、母は西フランク王ルイ4世の娘マティルド。名はドイツ名でベルタ(Bertha)とも。.

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ベレンガーリオ1世

ベレンガーリオ1世 (Berengario I, 850年頃 – 924年4月7日)は中世西欧の皇帝(915年 - 924年)。オットー1世以前では最後の皇帝である。フリウーリ辺境伯(874年 - 924年)、イタリア王(888年 - 924年)。カロリング朝イタリア王国の領土支配をかけた戦いでもっとも重要なイタリア出身の領主で、中世の無秩序時代の主人公の一人。後のイタリア王ベレンガーリオ2世は外孫。 ベレンガーリオはフリウーリ辺境伯エーバーハルトと、フランク王ルートヴィヒ1世の娘ギーゼラとの子であり、874年の兄ウンルオッホ3世の死により辺境伯位を継承した。それとともに、スラブ人の襲撃からの帝国の東方防衛のために与えられた軍事力をも得ることとなった。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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呉越

923年頃の勢力地図。ピンクが呉越 呉越(ごえつ 907年 - 978年)は中国・五代十国時代に現在の杭州を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。.

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呉朝

呉朝(ごちょう、、939年 - 968年)は、現在のベトナム北部を支配した王朝。首都は古螺(コロア、現在のハノイ市ドンアイン県)。 ベトナムで編纂された史書『大越史記全書』では、建国者の呉権(ゴ・クエン)は前呉王、呉権の息子である呉昌岌(ゴー・スオン・ガプ)と呉昌文(ゴー・スオン・ヴァン)の2人は後呉王と称されている杉本「呉朝」『アジア歴史事典』3巻収録。.

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和名類聚抄

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.

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アミール

アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。.

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アメリカ大陸

アメリカ大陸(アメリカたいりく)とは、南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をあわせた呼称。両アメリカや新大陸などとも言う。 南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見なすこともできる。なお、広くアメリカ州(米州)というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。 「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。.

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アラヴィー朝

アラヴィー朝は、9世紀から14世紀にかけて、カスピ海南岸地域に勃興した王朝群の総称である。サファヴィー朝の初期の頃まで続いた。.

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アリストテレス

アリストテレス(アリストテレース、Ἀριστοτέλης - 、Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア()と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている立花隆『脳を究める』(2001年3月1日 朝日文庫)。 名前の由来はギリシア語の aristos (最高の)と telos (目的)から 。.

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アルル王国

アルル王国は、旧ブルグント王国のあった地域に存在した王国。ブルグント王国とも呼ぶ。933年、ユーラブルグント王国のルドルフ2世がウーゴのキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を併合して成立した。 この王国がアルル王国と呼ばれるのはアルルを首都としたためである。またアルルを首都とした後のキスユラブルグント王国もアルル王国と呼ばれることがある。地中海からライン川上流域までを領土とし、2015年までのフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール、ローヌ=アルプ地域圏、フランシュ=コンテ地域圏、及びスイス西部とおおよそ一致する。独立した王がいたのは1032年までで、その後は神聖ローマ帝国の構成国家となった。.

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アル・ラーズィー

アル・ラーズィー アブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリヤー・ラーズィー(, (, もしくは Rasis)は、ペルシャの錬金術師、化学者、哲学者、医師、学者。ラテン語化されたラーゼスでも知られる。.

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アルプテギーン

アルプテギーン(الپتگین Alp Tegīn、925年?勝藤「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、262-263頁 - 963年)は、ガズナ朝の建国者(在位:962年 - 963年)。サーマーン朝のグラーム(テュルク系の軍人奴隷)の出身。.

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アルベリーコ1世・ディ・スポレート

アルベリーコ1世・ディ・スポレート(Alberico I di Spoleto、? - 925年)は、カメリーノ侯でスポレート公(在位:898年 - 922年)である。.

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アルシング

アルシング(Alþingi, Alþing, )は、アイスランドの立法府である。.

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アル=アズハル大学

アラビア語では '(جامعة الأزهر (الشريف Jāmiʻat al-Azhar (al-Sharīf) 'と呼ばれる。イスラム教スンナ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の大学の1つである。アル=アズハル学院とも呼称される。.

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アレッポ

アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。 アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。 ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジ、アイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。 かつてレバント貿易で賑わう国際市場であったが、列強の近代鉄道政策がイズミルを選好した。現在、アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。.

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アンナ (キエフ大公妃)

アンナ(ギリシア語:Άννα;古ルーシ語:Анна、963年3月13日 - 1011年あるいは1012年)は、キエフ大公国の大公ウラジーミル1世の妃。東ローマ帝国の皇帝ロマノス2世の娘で、バシレイオス2世の妹。 ウラジーミル1世がバシレイオス2世の援軍をしたことから、バシレイオス2世がウラジーミル1世に縁組させた。 ウラジーミル1世とアンナの結婚でキエフ大公国の国教がキリスト教(東方正教会)になり、正教会の勢力が拡大した。 年代記によれば、美人で気の強い性格だったと言われる。 Category:東ローマ帝国の人物 Category:マケドニア家 Category:ルーシ諸公の后妃 Category:963年生 Category:1010年代没.

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アンティオキア

アンティオキア(ギリシア語: Αντιόχεια)は、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオキアが有名。『口語訳聖書』や、第三版までの『新改訳聖書』ではアンテオケと表記する。 シリアのアンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。一般に用いられる「アンティオキア」はヘレニズム時代以降のギリシャ語発音で、古典ギリシャ語読みの「アンティオケイア」が用いられることもある。ローマ時代はAntiochiaアンティオキーアと呼ばれた。なお現代音では「アンディオヒア」という表記が近い。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アトスのアサナシオス

アトスのアサナシオス(Αθανάσιος ο Αθωνίτης, 920年頃 - 1000年頃)は、東ローマ帝国の修道士。トレビゾンドのアサナシオスとも呼ばれる。アトス山に修道共同体を建設、のちにこれが正教会の修道の一大中心地に発展した。 アサナシオスは現代ギリシャ語転写で、古典ギリシャ語再建音ではアタナシオス。日本正教会では教会スラヴ語表記から転写してアトスの克肖者聖神父アファナシイと呼ばれる。.

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アトス山

アトス山( / )は、ギリシャ北東部・エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。その周辺は正教会の聖地となっており、「聖山」(、Holy Mountain)の名でも呼ばれる。アトス山周辺には現在20もの修道院が所在し、東方正教の一大中心地である。「アトス山」の名は、聖地となっている半島の全域や、修道士たちの共同体についても用いられることがある デイリー新潮 国際 2017年8月18日掲載 2017年9月1日閲覧。 ギリシャ共和国の領内ではあるが「聖山の修道院による自治国家」として大幅な自治が認められており、いわば「独立宗教国」ともいえる存在となっている。1988年にはユネスコによって世界遺産に認定された。.

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アブル・ファラジュ・イスファハーニー

アブル・ファラジュ・イスファハーニー( أبو الفرج الأصفهاني, Abu al-Faraj al-Isfahani、897年 - 967年)は、ムスリムの学者。アブル・ファラジュ(Abu-l-Faraj)とも呼ばれる。中世イスラーム世界で活躍し、大著『歌の書』で知られる。.

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アブー=アブドゥッラー

アブー=アブドゥッラー・アッ=シーイー(ابو عبد الله الشيعي Abū ‘Abd Allāh al-Shī‘ī, ? - 911年/912年)は、9世紀初頭にマグリブ(北アフリカ)で活動したイスマーイール派の教宣員。本名はハサン・イブン=ザカリヤー。 イエメンのサナア出身で、イエメンに布教を広めていたシーア派の一派イスマーイール派に属し、その教宣員となった。893年にイスラム教の聖地マッカ(メッカ)で巡礼にやってきたマグリブの原住民ベルベル人のクターマ族の者と会ったことをきっかけにマグリブでの布教に乗り出し、901年に現在のアルジェリア北東部、セティフと地中海の間にある山地に住むクターマ族の地に入った。 この地に教宣の本拠地を据えたアブー=アブドゥッラーは、周辺のクターマ系諸部族民の間にイスマーイール派の教義を説いて支持を集め、部族から指導権を認められることに成功した。スンナ派を奉ずるイフリーキヤ(現在のチュニジア)の王朝アグラブ朝は自国の西部辺境で興ったイスマーイール派集団を恐れ圧力を加えたが、部族民をイスマーイール派の戦士として組織化したアブー=アブドゥッラーはかえってアグラブ朝に対して攻勢に転じ、周辺の諸都市を次々に征服。909年にアグラブ朝の首都カイラワーンを攻め落としてイフリーキヤを完全に勢力下に収めた。翌910年初頭には現在のモロッコ南部シジルマーサで地元のハワーリジュ派を奉ずるベルベル人に囚われていたイスマーイール派運動の指導者ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)が救出されてイフリーキヤに到着し、自身がマフディー(救世主)にしてカリフであると宣言、イスマーイール派のイマームがカリフとして支配する世襲王朝ファーティマ朝が建国される。 ウバイドゥッラーがカリフに即位すると、イマームが共同体の絶対的な指導力を持つというシーア派の原理に従って、アブー=アブドゥッラーは王朝創建の功労者でありながら、これまでベルベル人に対してふるっていた指導力を奪われ、権力から遠ざけられた。さらに、アブー=アブドゥッラーは、自身の権力喪失に対して不満の意を明らかにしたために、911/912年にカリフによって殺害された。実力者アブー=アブドゥッラーの排除によりウバイドゥッラーは絶対的な権力を獲得し、カリフ専制体制を確立する。 Category:イスラム史の人物 Category:ファーティマ朝 Category:チュニジア史の人物 Category:アルジェリア史の人物.

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アブド・アッラフマーン3世

アブド・アッラフマーン3世(Abd ar-Rahman III、889年 - 961年10月15日)は、後ウマイヤ朝の第8代アミールでもあり、初代カリフでもある。第7代アミール・アブド・アッラーフの孫(アミール在位:912年 - 929年、カリフ在位:929年 - 961年)。.

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アブドゥル・ラフマーン・スーフィー

アブドゥル・ラフマーン・アル・スーフィー (ペルシア語:عبدالرحمن صوفی、アラビア語 ابو الحسين عبد الرحمن بن عمر الصوفي الرازي Abū-al Husayn ‘Abd-al Rahmān b. ‘Umar al-Ṣūfī al-Rāzī、903年12月7日 - 986年5月25日)は、ブワイフ朝時代に活躍したペルシア人の天文学者である。現在のイランの首都テヘランの前身であるレイ出身。著書は『星座の書』、『アストロラーベの使用法』など。ラテン語文献ではアゾーフィ(Azophi)として表れる。.

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アフマド・イブン・ファドラーン

アフマド・イブン・ファドラーン・イブン・アル.

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アフガニスタン

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。.

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アイスランド

アイスランドは、北ヨーロッパの北大西洋上に位置する共和制を取る国家である。首都はレイキャビク。総人口は約337,610人。.

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アキテーヌ公

アキテーヌ公()は、フランスのアキテーヌ地方の君主。アキテーヌ公の所領を表す語として、アキテーヌ、ギュイエンヌ、ガスコーニュの語が使われるが、この3つは厳密な使い分けが必ずしもなされていない。ギュイエンヌはアキテーヌのうちポワトゥーを除く北西部を、ガスコーニュは南西部を示すことが多い。.

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アクスム王国

アクスム王国(アクスムおうこく)は、過去のエチオピア東北部、エリトリア地域に栄えた交易国である。.

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アグラブ朝

アグラブ朝は(あぐらぶ ちょう、Aghalabid Dynasty、الأغالبة 、800年 - 909年)はアッバース朝支配下で現在のチュニジア地方の支配を認められたアグラブ王国(The Aghalabid kingdom)の王朝。国教はイスラーム教スンナ派。首都はカイラワーン。.

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アシュアリー学派

アシュアリー学派(الأشعرية al-Asha`riyya、الأشاعرة al-Ashā`irah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀から10世紀にかけて活躍した神学者アシュアリー(en)を祖とし、マートゥリーディー学派と並ぶスンナ派を代表する学派となっている中村「アシュアリー派」『新イスラム事典』、46頁。.

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アストロラーベ

アストロラーベ(Astrolabe )は平面アストロラーベとも呼ばれ、古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の機器であり、ある種のアナログ計算機とも言える。用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われた。イスラムとヨーロッパの天文学では天宮図を作成するのに用いられた。アラビア文字・اصطرلاب. aṣṭurlāb استرلاب. asturlābなどと綴られるが、ペルシア語ではこれらの綴りで uṣṭurlāb/oṣṭorlāb と読み、トルコ語でも usturlâb となる。 日本語ではアラビア語に近いアストロラーブとの表記もあるが本項目ではアストロラーベに統一する。.

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アストゥリアス王国

アストゥリアス王国(アストゥリアスおうこく、アストゥリアス語: Reinu d'Asturies、スペイン語: Reino de Asturias、ラテン語: Asturorum Regnum)は、イベリア半島にかつて存在した王国。 711年(または712年)、グアダレーテ河畔の戦いでイベリア半島をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が征服し、西ゴート王国が滅亡した。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国した。イスラーム勢力の攻撃を受けるが、722年頃にコバドンガの戦いで勝利して独立を保つと、カンガス・デ・オニスを都として支配を固めた。 アルフォンソ2世の時代にガリシア地方へと版図を拡大し、聖ヤコブを守護聖人とするサンティアゴ大聖堂を設けた。また、カンガス・デ・オニスにかわりオビエドを支配の拠点とした。このころより、イスラーム勢力に対する反撃が進められた。ガルシア1世の時代に、都はオビエドからレオンへと遷された。これ以降の王国はレオン王国と称される。.

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アゼルスタン (イングランド王)

アゼルスタン(英語Athelstan, Æthelstan, 古英語Æðelstan, 895年 - 939年10月27日)はイングランドのサクソン系の王(在位:924年8月2日 - 939年10月27日)。 エドワード長兄王の長男。弟エルフウェルドの死後、王位を継承した。 ウェドモーアの和議以降デーン人に支配されていたデーンロウを奪還し、そのイングランド化を図った。そのこともあって、アゼルスタンの治世にイングランドの政治的統一が進んだ。 外交上はザクセンと結び、異母妹エドギタをザクセン大公・東フランク王ハインリヒの継嗣オットーと婚姻させた。 937年にBrunanburhの戦いに勝利した。 生涯独身で子はなかったため、弟のエドマンド1世が後を継いだ。 Category:イングランドの君主 Category:ウェセックスの君主 Category:ウェセックス家 Category:895年生 Category:939年没.

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イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく、、)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

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イーゴリ1世

イーゴリ1世(古東スラヴ語・ロシア語:Игорь、ウクライナ語:Ігор、865年あるいは877年? - 945年)は、キエフ公国の大公(在位:913年/923年 - 945年)。ルーシの祖というべきリューリクの子とされるが、リューリクの子ではないという説もある。オレグ摂政の死後、キエフ大公国の支配者となった。.

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イブン・スィーナー

イブン・スィーナー(、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー()、980年 - 1037年6月18日)は、イスラム世界を代表する知識人で、哲学者・医者・科学者。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった。 (英語圏では「アヴィセンナ」と読まれる)。「頭領」を意味するシャイフッライース()小林「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』、159頁、「神の証」()ナスル『イスラームの哲学者たち』、16頁の尊称でも呼ばれている。中国との交流が多いトランスオクシアナ地方の生まれで名前のスィーナーが「シナ」の発音に似ていることから彼の出身を中国と関連付ける説、アラビア語において「スィーナー」が「シナイ」を意味する点からユダヤ人と関連付ける説も存在する。 当時の世界の大学者であると同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価され、ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えた。後世の人間は彼を「第二のアリストテレス」、「アリストテレスと新プラトン主義を結びつけた人間」と見なし梶田『医学の歴史』、144頁、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼしたトレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、291頁。 アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並ぶ巨頭として名前が挙げられている。 タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣には、イブン・スィーナーの肖像が使用されている。.

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イフリーキヤ

イフリーキーヤ(إفريقية )は、北アフリカの中西部を指す歴史的地域名。おおよそ現在のチュニジアからアルジェリアの東部あたりを指す。イフリキアと読むこともある。 アラブ人による征服後に用いられるようになったが、イスラム時代の初期には後にマグリブと呼ばれることになる地域、すなわちリビアより西の北アフリカ地域全体を指す広域の地名であった。しかし、9世紀にアグラブ朝が現チュニジアのカイラワーンに興り、チュニジアを中心とする地域を支配するようになるとその領域に限定され、アグラブ朝領と同一の範囲を指す地域名に転化した。以来、チュニジアを中心とする王朝の支配領域をおおよそ指すようになる。中心都市はカイラワーンのほか、アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝が建設したマフディーヤがあった。 のちにハフス朝がチュニスを都にすると、イフリーキーヤの王朝支配領域に対して「チュニスの国」という名称も用いられるようになった。のちにハフス朝をオスマン帝国が征服するとチュニス州になり、その名が西欧の言語に取り入れられてチュニジアという国名が定着する。 Category:イスラム世界史 Category:チュニジアの地理 Category:アラビア語の語句 Category:マグリブ.

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イフシード朝

イフシード朝(アラビア語: الإخشيديون al-Ikhshīdīyūn)は、エジプトを支配したイスラム王朝(935年 - 969年)。.

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イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.

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イェリング墳墓群

イェリング墳墓群(イェリングふんぼぐん、Jelling Mounds, Runic Stones and Church)は、デンマーク、ユトランド半島中部のイェリング近郊で発見された ルーン文字の刻まれた10世紀の石碑で知られる墳墓群で、石碑はデンマークの国家の起源を示す貴重な文字資料である。 1994年に世界遺産に登録された。 イェリングにある最も古い石碑は、デンマークの最初の王とされるゴーム老王とチューラ王妃について刻んだものである。 ゴーム老王とチューラ王妃のものより大きな石碑は、かれらの子であるハーラル青歯王の記念碑である。ハーラル青歯王がデンマークとノルウェーを征服したこととデーン人のキリスト教への改宗を祝って建てられた。石碑は、イェリングの教会墓地にある二つのおおきな古墳の間に建てられている。これらの石碑はノルウェー人の土着宗教とデンマークのキリスト教化の移行期の様相を表している。.

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イクター

イクターあるいはイクター制(アラビア語: إقطاع Iqṭā')は、地方官に与えられる給与制度の一種で、徴税権を地方官に委任するという形式のもの。主にイスラーム圏の諸王朝で施行されていた関西学院大学『社会学部紀要 No.36』(1978年3月)に寄稿された春日雅司教授による論文「」。.

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イシュトヴァーン1世

イシュトヴァーン1世(I.

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イスマーイール・サーマーニー

イスマーイール・サーマーニー(? - 907年)は、サーマーン朝のアミールである。マー・ワラー・アンナフル(統治期間:892年 - 907年)とホラーサーン(統治期間:900年 - 907年)を支配した。イスマーイール時代に、サーマーン朝は全盛期を迎えた。姓はソモニとも表記され、タジキスタンの通貨名に採用されている。.

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イスマーイール・サーマーニー廟

right イスマーイール・サーマーニー廟とは、ウズベキスタン・ブハラにある中央アジア最古のイスラーム建築である。ここに、9世紀末に中央アジアに成立したサーマーン朝の王族が眠っている。サーマーン朝の名君イスマーイール・サーマーニーの名前が付けられているが、名前が示す通りイスマーイールの廟であるかは不明である前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、248頁。 13世紀のモンゴル帝国の襲来の際に廟は砂の中に埋もれており、モンゴル軍による破壊を免れた関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、79頁。1926年に考古学者のビャトキンによって発掘される。.

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イスマーイール派

イスマーイール派(アラビア語: الإسماعيليون al-Ismāʿīliyyūn、ペルシャ語:اسماعیلیان Esmāʿiliyān)、別名7イマーム派は8世紀に起こったイスラム教シーア派の一派である。グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする。.

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ウラジーミル1世

ア1000年記念碑の銅像。八端十字架を掲げている。 ウラジーミル1世(Владимир Святославич)、ヴォロディーミル1世(Володимѣръ Свѧтославичь、Володимир Святославич)955年頃 - 1015年7月15日)は、リューリク朝、キエフ大公国のキエフ大公(在位:978年6月11日 - 1015年7月15日)。スヴャトスラフ1世と彼の母、オリガの鍵番マルーシャとの間の子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キエフ大公国をキリスト教化した。キリスト教(正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人で、亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は7月15日(7月28日)。「太公」、「聖公」、「赤日」とも呼ばれる。.

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ウィーン

ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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エル・エスコリアル修道院

王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院(おうりつサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルしゅうどういん、Monasterio de El Escorial)はスペイン、マドリッド郊外のサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルにある広大な宮殿、修道院、博物館にして図書館の複合施設である。サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルはマドリッドの北西45kmに位置する町(マドリッド県) である。.

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エッセン

ッセン市成立の基礎となった大聖堂で、背後にエッセン市役所が見える Saalbau Villa Hügel Villa Hügel 関税同盟第12立坑 エッセン (Essen) は、ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。人口は約万人。東にはボーフム、西にはミュールハイム・アン・デア・ルール、北にはゲルゼンキルヒェンと隣接するが、これらの市は、いずれもかつてルール工業地帯として鉄と石炭工業によって繁栄した都市である。 2010年の欧州文化首都に選ばれている。.

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エドレッド

ドレッド(Edred, またはEadred, Aedred, 923年頃 - 955年11月23日)は、イングランド王(在位:946年5月26日 - 955年11月23日)。「weak-in-the-feet」としても知られる。.

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エジプト

プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.

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エスファハーン

ファハーン(اصفهان; Eṣfahān) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する『西アジア』、108頁。日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される。 古くからの政治・文化・交通の拠点であり蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる。 町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク1979年のイラン革命でパフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁))などがある新市街のイマーム広場(王の広場)は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。 町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある『西アジア』、111頁。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている上岡『イラン』、291-293頁。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる。.

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オリガ (キエフ大公妃)

聖オリガ(, Ol'ga, ? - 969年7月11日)はキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃。キエフのオリガとも。夫の死後、キリスト教の洗礼を受けた。洗礼名はヘレナ(日本ハリストス正教会の読みではエレナ)。ルーシでは最初期のキリスト教改宗者であり、ルーシでもっとも早い時期に聖人とされた一人である。聖人としては亜使徒の称号をもつ。.

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オルドーニョ2世

ルドーニョ2世 (Ordoño II de León、871年頃 - 924年6月)は、ガリシア王(在位:910年 - 924年)、レオン王(在位:914年 - 924年)。彼は自分の管理化に置かれたレオン王国の領土のみを従属させ、当時イベリア半島の大部分を征服していたイスラム教徒との戦いに首尾よく戦った、精力的で積極的な統治者であった。彼の治世は、戦術的かつスムーズに、アストゥリアス王国から、既に王家の本拠となっていたレオンを首都とするレオン王国への移行を行ったことで特筆される。.

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オーラヴ1世 (ノルウェー王)

ーラヴ1世またはオーラヴ・トリグヴァソン (古ノルド語:Óláfr Tryggvason、ノルウェー語:Olav Tryggvason、960年代 - 1000年9月9日?)は、ノルウェー王 (在位:995年 - 1000年)である。オーラヴはヴァイケン(ヴィングルマーク及びランリケ)の王トリグヴァ・オーラヴソン(en)の息子であり、ノルウェー初代王ハーラル1世“美髪王”の曾孫である。 オーラヴはヴァイキングをキリスト教化する重要な役割を担った。995年にノルウェーで最初の教会を建て、997年にはトロンハイムの町を建設したと言われている。.

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オーストリア

ーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、、バイエルン語: )、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都は音楽の都といわれたウィーン。 ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。.

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オットー1世

ットー1世(Otto I.)と呼ばれる君主、諸侯は、ドイツを中心に歴史上複数存在する。.

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オットー1世 (神聖ローマ皇帝)

ットー1世(Otto I.、912年11月23日 - 973年5月7日)は中世ドイツの王(在位:936年 - 973年)及びイタリア王(在位:951年 - 973年)、並びに西ヨーロッパの皇帝(在位:962年 - 973年)。ザクセン朝第2代の王、初代皇帝で初代国王ハインリヒ1世の子。形骸化して消滅したローマ皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。彼の時代にアブド・アッラフマーン3世から使節があった瀬原、p.

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オットー2世 (神聖ローマ皇帝)

ットー2世(Otto II., 955年 - 983年12月7日)は中世ドイツの王(在位:961年 - 983年)及びイタリア王(在位:980年 - 983年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:967年 - 983年)。ザクセン朝第3代の王で第2代の皇帝。初代皇帝オットー1世大帝とその2番目の妻ブルグントのアーデルハイトの息子。実質的に君主となったのは父帝が死去した973年からである。それまでは父帝の後継者としての共立王、共同皇帝であった。偉大なる父の偉業を受け継いで、その版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが、帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。.

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オットー3世

ットー3世(Otto III.)と呼ばれる君主、諸侯は、ドイツを中心に歴史上複数存在する。.

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オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

ットー3世(Otto III., 980年7月 - 1002年1月23日)は中世ドイツの王(在位:983年12月 - 1002年)及びイタリア王(在位:996年4月 - 1002年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:996年5月 - 1002年)。ザクセン朝第4代の王、第3代の皇帝。第2代皇帝オットー2世とギリシャ皇女テオファヌの子、初代オットー1世大帝の孫。古代ローマ帝国の復興を図った。ローマを首都とした帝国の再興を試みたが、現実に合わず果たせなかった。1002年に21歳で死去。.

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オビエド

ビエド(Oviedo、アストゥリアス語:Uviéu)は、スペイン・アストゥリアス州のムニシピオ(基礎自治体)。アストゥリアス州の州都である。.

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カペー朝

ペー朝の紋章 カペー朝(カペーちょう、dynastie des Capétiens)は、中世フランス王国の王朝。987年から1328年まで続いた。 西フランク王国のカロリング朝の姻戚関係にあり、カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで14代の王が続き、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまでフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。現在のスペイン王家(スペイン・ブルボン家)の祖先であり、現在のルクセンブルク大公家も男系ではカペー家の流れをくむ。.

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カナウジ

ナウジ(Kannauj)は、インドの都市。ウッタル・プラデーシュ州に属する。カーニャクブジャ(Kanyakubja)とも称される。古代から中世にかけて繁栄した北インドの古都。現在の人口は71,530人(2001年)。.

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カラハン朝

ラハン朝(カラハンちょう、ペルシア語: قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁。 カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁。 カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。.

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カライ派

ライ派の祭壇 カライ派(Karaite Judaism, Karaism, (現代ヘブライ語 Qəraʾim; ティベリア・ヘブライ語 Qərāʾîm)は、ラビ的ユダヤ教を避けるユダヤ教の一派。ミクラー(聖書)を受け入れ、ミシュナー・タルムードを受け入れない。 /qr'/は読むという意味で、ミクラーなどの語根でもある。また一方、ラビ・ユダヤ教よりも聖書解釈は深いところもある。 8世紀、バビロニアのラビ・アナン・ベン・ダヴィド Anan ben David を創始者とする。 ミシュナーなどを認めないことは、古代のサドカイ派に通じるところがあり、実際にその起源はサドカイ派に求められるとされる。またイスラム教のムゥタズィラ派からの影響も伺われ、カライ派が確立したこの哲学は後にサアディア・ガオンへ通じ、ラビ・ユダヤ教にも普及した。皮肉にもこうして生まれた近似はカライ派との対立を深めた。サアディアはこうしてカライ派の影響を受けて改革されたラビ・ユダヤ教の論理で、カライ派への攻撃を行うことになった。.

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カリーラとディムナ

『カリーラとディムナ』の原稿 『カリーラとディムナ』(Kalīla wa Dimna)は、アラビア語文学の物語。インドの寓話集『パンチャタントラ』を基盤とした寓話集である。 題名の「カリーラ」と「ディムナ」は物語に登場するヒョウの名前であり、第1編「ライオンと牛」の主人公カラタカ(Karataka)とダマナカ(Damanaka)の名前が転訛したものである。1644年にフランスで『ビドパーイビドパーイはピルパイと表記されることもある。の物語』という題で訳されたが、ビドパーイは物語に登場する哲学者の名前に由来する黒柳『ペルシア文学におけるカリーラとディムナ』、6頁。 イブン・アル=ムカッファが訳した版はアラビア文学最古の散文とされ、アラビア語散文の規範となっている前嶋「カリーラとディムナ」『新イスラム事典』、189頁。 物語は、哲学者バイダバーがインド王の求めに対して、教訓を含んだ物語を語る形式をとっている。寓話には人間と動物が登場し、人間と動物を対等なものとしてみなすインドの精神世界が背景にあると考えられている『カリーラとディムナ アラビアの寓話』、338頁。ペルシア、アラブ世界の人間にはこうした価値観は奇異なものであり、ムカッファ以後にイスラム世界に動物寓話を描く人間がほとんど現れなかった理由とも言われる。 宗教から離れて、人生の幸福を追求する点に物語の特徴がある。.

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カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

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カロリング朝

ール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領) カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝 カロリング朝(カロリングちょう、Carolingiens, Karolinger)は、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。 フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。 751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。 ピピン3世の子カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。.

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カアバ

アバ( Kaʻba または Kaʻaba)は、メッカ(マッカ)のマスジド・ハラームの中心部にある建造物で、イスラーム教(イスラーム)における最高の聖地とみなされている聖殿である。カアバ神殿(カーバ神殿)とも呼ばれる。カアバの南東角にはイスラームの聖宝である黒石(くろいし)が要石として据えられている。 カアバはもとはイスラーム以前(ジャーヒリーヤ)におけるアラブ人の宗教都市であったメッカの中心をなす神殿であったとされる。 「カアバ(カーバ)」とはアラビア語で「立方体」を意味し、形状はその名の通り立方体に近い(縦にやや長い)。.

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カイロ

イロ(القاهرة,, アル・カーヒラ、, コプト語: ⲕⲁϩⲓⲣⲏ,, Cairo)は、エジプトの首都。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つ。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市でもある。.

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カスピ海

ピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である カスピ海(カスピかい、、)は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」دریای خزرと呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」دریای مازندرانとも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名でHazar Deniziと呼ばれる。中国語では現在に至るまで「裏海」(りかい)と呼ばれる。.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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ガリリャーノ川

リリャーノ川(Garigliano)は、イタリア・ラーツィオ州とカンパーニア州との境界を流れティレニア海に注ぐ川である。 カンパーニアの古い行政区分であるテッラ・ディ・ラヴォーロ内部に属していたが、1927年までに行政上の境界が変更されて全ての川筋がラーツィオ州とカンパーニア州の境界となった。.

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ガリシア州

リシア州(Galicia、あるいはGaliza)は、スペインの自治州の1つである。スペイン北西に位置し、南はポルトガル、東はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州に接し、北と西は1490キロメートルの海岸で大西洋とカンタブリア海に面する。州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。自治州政府はシュンタ・デ・ガリシア(Xunta de Galicia)。.

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ガルシア1世 (レオン王)

ルシア1世 (García I de León、870年頃 - 914年)は、初代レオン王(在位:910年 - 914年)。.

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ガズナ朝

ナ朝(ペルシア語: غزنويان Ghaznaviyān)は、現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年/977年 - 1187年)。ガズニー朝ともいう。 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。.

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キリスト

リストは、ヘブライ語のメシア(מָשִׁיחַ)のギリシア語訳 Χριστος (Khristos クリストス、フリストス)からの、日本語における片仮名表記。基督、クリスト、クライスト、ハリストスとも表記される。 本項ではキリスト教における語彙「キリスト」の語義・意義について述べる。.

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キエフ

フ(Київ キーイウ、Киев )は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。.

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キエフ大公

フ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝は三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。 キエフ大公(ウクライナ語:Великий князь Київський)は、9世紀から13世紀にかけてキエフ大公国とその首都キエフを治める君主の称号である。 (本頁の一覧にはキエフ公も含む。).

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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キスユラブルグント王国

ユラブルグント王国(Cisjuranien)は、旧ブルグント王国のあった地域のユラ山脈以南に存在した王国。下ブルグント王国、低ブルグント王国とも呼ぶ。西フランク王国の重臣ボソが独立して成立させた。ボソの王位は皇帝ロタール1世の息子であるシャルルが建国したプロヴァンス王国のものを引き継いでいたため、この王国はプロヴァンス王国とも呼ぶ。.

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ギヨーム1世 (アキテーヌ公)

ヨーム1世(Guillaume Ier d'Aquitaine、875年3月22日 - 918年7月6日)は、ギレム家のオーヴェルニュ伯(ギヨーム2世、在位:886年 - 918年)およびアキテーヌ公(在位:893年 - 918年)。多くの修道院を創設し、910年9月11日にはクリュニー修道院を創建した。敬虔公(Le Pieux)といわれる。.

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クリュニー修道院

リュニー修道院(クリュニーしゅうどういん、正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。フランス語:Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。.

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クレモナ

レモナ(Cremona)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約7万2000人の基礎自治体(コムーネ)。クレモナ県の県都である。 ポー川中流の左岸にある。.

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クレタ島

レタ島(Κρήτη / Kriti; Crete)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。 クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオ(イラクリオン)。.

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クロアチア

アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.

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クロアチア王国 (925年 - 1102年)

アチア王国(Regnum Croatiae、Kraljevina Hrvatska, Hrvatsko Kraljevstvo)は、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀にわたって主権国家として存続していた。 クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニン、ビオグラード、クニン、シベニク、ソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている。 中世クロアチア王国が存在した時代はブルガリア人、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー人との間に起きた様々な衝突と和平、ヴェネツィア共和国とのアドリア海東海岸の支配権を巡る競争によって特徴付けられる。最初の国王であるトミスラヴはハンガリーとブルガリアの侵入を撃退するが、王権は不安定であり、彼の死後に内紛によってクロアチアは衰退する金原「中世のバルカン」『バルカン史』、92-93頁。11世紀後半にクロアチア王国はビザンツ帝国の支配の崩壊を利用して大部分のダルマチアの海岸部の都市を制圧した。この時代にクロアチア王国はペタル・クレシミル4世とドミタル・ズヴォニミルの統治下で最盛期を迎える。 ズヴォニミルの死後に起きた王位を巡る十数年の抗争とグヴォズドの戦いを経て、クロアチア王位はアールパード朝ハンガリー王国に渡る。ハンガリー王カールマーン1世は1102年にビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠され、2つの王国は1つの王冠の元に統合されるLarousse online encyclopedia, "Liée désormais à la Hongrie par une union personnelle, la Croatie, pendant huit siècles, formera sous la couronne de saint Étienne un royaume particulier ayant son ban et sa diète." (in Hungarian)。2つの王国の関係の実像は19世紀に論争の原因となる。現代のクロアチアとハンガリーの歴史学者の多くは、1102年以降のクロアチア王国とハンガリー王国の関係を共通の王を頂く同君連合として捉えているBarna Mezey: Magyar alkotmánytörténet, Budapest, 1995, p. 66。.

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クーファ

ーファ(Kūfa كوفة)はイラクの都市。ナジャフ県に属する。2003年当時の人口は約110,000人大野「クーファ」『世界地名大事典』3、343頁。現在のクーファの市街地は、7世紀に建設されたクーファ遺跡の近郊に位置する太田「クーファ」『岩波イスラーム辞典』、332頁。町の名前はアラビア語で「円形の砂丘」、ナバタイ語で「赤い砂」を意味する花田「クーファ」『新イスラム事典』、209頁。.

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クディリ王国

ャワ中部及び東部の遺跡、地名位置図 クディリ王国(クディリおうこく、Kerajaan Kediri)、クディリ朝(クディリちょう)は、10世紀初頭まで続いた古マタラム王国以後、13世紀のシンガサリ朝以前にインドネシアのジャワ島東部に繁栄していたヒンドゥー教を奉ずる古代王朝で、広義には、古マタラム王国のダクサ王の子孫とされるイサナ家のムプ=シンドク王(位929年 - 947年)がジャワ東部のスメル山とウィリス山の間のワトゥガル地方に本拠地を移してから、1222年にシンガサリ朝を建てたケン=アンロクによって滅ぼされるまでの時期区分をさし、狭義には、アイルランガ(エルランガ)王(位1019年 - 49年)が自らの王国をジャンガラ王国とパンジャル王国に分割したうち、クディリに都したパンジャル王国をクディリ王国、クディリ朝と呼ぶ。しかし通常日本では、前者の時期区分でクディリ朝の時代を捉えるため、本稿でもそのように扱う。.

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グリーンランド

リーンランド(Kalaallit Nunaat「人の島」の意、Grønland「緑の島」の意)は、北極海と北大西洋の間にある世界最大の島(日本の面積の5.7倍)。デンマークの旧植民地。現在はデンマーク本土、フェロー諸島と対等の立場でデンマーク王国を構成しており、独自の自治政府が置かれている。 大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪に覆われる。巨大なフィヨルドが多く、氷の厚さは3,000m以上に達する所もある。居住区は沿岸部に限られる。 カナダとの国境線上にあるハンス島の領有をめぐって、カナダとデンマークの間で係争中である。.

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グレゴリウス5世 (ローマ教皇)

レゴリウス5世の墓碑 グレゴリウス5世(Gregorius V, 972年? - 999年2月18日)は、ローマ教皇(在位:996年5月3日 - 999年2月18日)。ドイツ人初のローマ教皇と言われる。本名はブルーノ1世(Bruno I)。.

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グジャラート州

ャラート州(グジャラート語:ગુજરાત、英語:Gujarat)は、インドの北西部 にある州の一つ。またこの地方の歴史的名称でもある。州の面積は196024平方キロメートル(75755平方マイル)で1,600キロメートルの海岸線を有する。6,000万を超える人口はそのほとんどがカーティヤーワール半島に居住している。.

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コルドバ (スペイン)

ルドバ(Córdoba)は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。 かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。.

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コンラート (ロートリンゲン公)

ートリンゲン大公コンラート(Konrad der Rote, 922年頃 - 955年8月10日)は、ロートリンゲン大公(在位:944年 - 953年)、ヴォルムスガウ伯(在位:941年 - 955年)。父はザーリアー家のヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世、母はシュヴァーベン大公ブルヒャルト2世の娘ヒヒャ、またはドイツ王コンラート1世の娘。ザーリアー朝の始祖コンラート2世は曾孫に当たる。赤公あるいは赤毛公(der Rote)とも呼ばれる。.

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コンラート1世 (ドイツ王)

ンラート1世(Konrad I, 881年 - 918年12月23日)は、フランケン公(在位:906年 - 911年)、及び東フランク王(在位:911年 - 918年)。コンラート若王、小コンラートとも呼ばれる。.

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コンラディン家

ンラディン家(Konradiner, Conradines)は、中世初期のドイツのフランケン地方にいた一族である。「コンラート家」(Haus Konrad)、ドイツ王を務めたことで「コンラディン朝」(コンラート朝)、フランケン朝とも呼ばれる(同じフランケン朝と呼ばれたザーリアー家とは直接関係はない)。 なお、「コンラディン」は姓ではなく「コンラート」という意味である。当時のフランケン人には姓はなかった。「コンラーディン家」(コンラーディン朝)とも呼ばれる。.

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コンスタンティノス7世

ンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”(ギリシア語:Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος, Kōnstantinos VII ho Porphyrogennētos, 905年? - 959年11月9日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:913年 - 920年、944年 - 959年 共同皇帝:920年 - 944年 )。「ポルフュロゲネトス」は「緋色の産室生まれ(皇帝の嫡子)」を意味するあだ名(後述)。帝国史上随一の文人皇帝で、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を築いた。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス7世“ポルフィロエニトス”」となる。.

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ゴーム老王

ーム老王(ゴームろうおう、Gorm den Gamle、? - 958年/959年ごろ、ゴーム・デン・ガムレ、ゴルム王とも)は、デンマークの王。10世紀前半から半ばにユラン半島中部のイェリングを拠点にユラン半島からフュン島にかけてのデンマーク西部一帯を支配したとされ、後に「老齢を人間に与えられた運命の限界までひきのばし」たがため「老王」と渾名された。ハーラル青歯王、スヴェン双髭王、クヌート大王と続くイェリング王権の開祖。イェリングには、妻チューラを「デンマークの誉れ」と讃えたルーン石碑が世界遺産「イェリング墳墓群」の一部として今も遺されている。 現代の欧州王室であるデンマーク王家、ノルウェー王家、スペイン王家、イギリス王家は彼の子孫である(後述)。『週刊ダイアモンド 2016 9/17 36号』 ダイヤモンド.

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ザフラー宮殿

フラー宮殿( アラビア語: المدينهُ الزهراء Madīnat az-Zahrā, スペイン語: Medina Azahara )は、スペインのアンダルシア州コルドバ県コルドバの西北7キロの丘に位置する中世イスラーム建築の宮殿跡。ザフラーとは、アラビア語で「花」を意味する。.

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シメオン1世

メオン1世が刻まれた銅貨 シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨 シメオン1世(Симеон I, 863年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。ボリス1世の三男。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。.

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シメオン・メタフラスト

メオン・メタフラスト(Συμεών Μεταφραστής 現代ギリシャ語:シメオン・メタフラスティス)は、10巻におよぶ中世ギリシャの月課經の著者であり、また聖人の伝承の集成を行った人物。10世紀後半の人物であると推定されている。正教会で聖人。.

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シャルトル

ャルトル()は、フランスの中部に位置する都市で、ウール=エ=ロワール県の県庁所在地である。.

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シャルトル学派

ャルトル学派はフランスのシャルトル大聖堂附属学校で活躍したベルナール(en)を中心とした思想家たちを指す。プラトン哲学やアラビアの自然科学の成果を統合した。 シャルトル大聖堂附属学校の起源は5世紀に遡るが、10世紀、オーリヤックのジェルベールの弟子がシャルトル大聖堂附属学校に赴いて学問を伝え、医学・神学が盛んになった。ジェルベールは後の教皇シルウェステル2世で、アラビアの科学を修めた学者であった。 その後、シャルトルのベルナール(ベルナルトゥス Bernardus Carnotensis、1126没)が現われ、12世紀にはベルナールを中心に学問が隆盛し、当時の学問の中心地パリをしのぐほどになったと言われる。 シャルトル学派は古代の自由学芸(リベラル・アーツ artes liberale 文法、論理学、修辞学、算術、幾何、天文、音楽の7科目)を復興した。三学(文法、論理学、修辞学)は文献研究であり、後の四学は自然現象に対する考察である。 ベルナールは古典古代の学問を巨人に喩え、自分たちは小さな者であるが、巨人の肩に乗ることで巨人よりも多くのもの、遠くのものを見ることができると述べた。また、ベルナールの弟ティエリ:en:Thierry of Chartresはプラトンの「ティマイオス」を元に聖書の創世記を科学的に(奇跡ではなく、因果関係として)解釈しようと試みた。(当時、ラテン語訳で入手可能だったプラトンの著作は、ほぼ『ティマイオス』『パイドン』『メノン』だけであった。) シャルトル学派という呼び方は19世紀の研究者によるもので、やがて「12世紀ルネサンス」の中心として注目されるようになった。しかし、シャルトルで学派と呼べるほど人材が輩出したかどうかには異論もある。(ベルナールは確かにシャルトルで活動したが、ティエリの活動はパリが中心であったという).

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シャンルウルファ

ャンルウルファ(トルコ語:Şanlıurfa)、通称ウルファ(Urfa)はトルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都。アルメニア語ではウルハイ(Urhai)またはルハ(Ruha)、クルド語ではリハ(Riha)と呼ばれ、古代から中世にかけての西洋ではエデッサ(Edessa、en)の名でも知られた。ウルファはメソポタミア北部の街でユーフラテス川の東80kmほどの場所にある大きな盆地に位置する。気候は、夏は極めて暑く乾燥し、冬は涼しく湿潤である。ウルファの住民の多くはトルコ人だが、市街地から離れるとクルド人も多く、アラブ人も若干居住する。.

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シャー・ナーメ

ャー・ナーメ 『シャー・ナーメ』(、Šāh nāmah)とは、叙事詩人フェルドウスィーがペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩。約6万対句にも及ぶ大作である。『王書』とも訳される。.

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シュラバナベラゴラ

ュラバナベラゴラまたはシュラバナベルゴラ(ಶ್ರವಣಬೆಳಗೊಳ, श्रवणबेलगोला )は、インドのカルナータカ州ハーサナ県にある町。マイソールの北に位置する。 ジャイナ教の聖地であり、とくにチャンドラギリおよびヴィンディヤギリという岩山と巨大なゴーマテーシュワラ(バーフバリ)像がよく知られる。.

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シルウェステル2世 (ローマ教皇)

ーリヤックにあるブロンズ像 シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をまたいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。.

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シヴァ

ヴァ(; サンスクリット: 、「吉祥者」の意)はヒンドゥー教のである。現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人であり、特にシヴァ派では最高神に位置付けられている。 トリムルティ(ヒンドゥーの理論の1つ)ではシヴァは「破壊/再生」を司る様相であり、ブラフマー、ヴィシュヌとともに3柱の重要な神の中の1人として扱われているZimmer (1972) p. 124.

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シーア派

ーア派(アラビア語:、ラテン文字転写:)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。.

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ジャワ島

18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、, )は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。.

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ジャイナ教

ャイナ教(ジャイナきょう、जैन、Jainism)は、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。 日本には、兵庫県神戸市中央区に寺院がある。.

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ジャウハル

ジャウハル・アッ=シィキッリー(جوهر الصقلي Jawhar al-Siqillī, ? - 992年)は、ファーティマ朝の将軍。現代エジプト方言ではゴーハル。第4代カリフのムイッズに仕え、エジプトを征服してカイロを建設した。 ジャウハルはシチリア島で正教会のキリスト教徒として生まれ、奴隷としてイフリーキヤ(現在のチュニジア)に送られてこの地を支配するファーティマ朝のカリフに仕えた。やがて出世した彼は第3代カリフ、マンスールの秘書に取り立てられ、さらにマンスールの子ムイッズが即位すると、カリフの深い信任を受け、軍の指揮を委ねられた。ムイッズの即位から5年後の958年には西方への遠征を率い、アンダルス(イベリア半島)の後ウマイヤ朝が支配する北モロッコを席捲して大西洋まで達した。この遠征により、後ウマイヤ朝はアフリカ側にモロッコ北海岸のセウタとタンジールしか維持できないほどの打撃を受けた。 969年にはエジプトを支配するイフシード朝の混乱に乗じ、ベルベル人やシチリア人からなる10万の兵を率いてエジプトに向かった。ジャウハルはまずエジプト北西の港湾都市アレクサンドリアを包囲して無条件で屈服させた。ついで全軍はナイル川に沿って南下し、首都フスタート(現在のカイロ)に迫った。フスタートにいるイフシード朝の支配層はすぐに抵抗する意欲を失い、ジャウハルに無条件降伏した。969年8月5日、フスタートの手前で最後の抵抗を試みたイフシード朝軍の残党を破ったファーティマ朝軍はフスタートに入城した。ジャウハルは抵抗しなかった全ての官僚、イスラム指導者(ウラマー)、市民に安全と財産の保障を宣言し、イスマーイール派を奉ずるファーティマ朝の支配のもとでもスンナ派の信仰を続けることを認めた。 ジャウハルはフスタートを占領し、イフシード朝を滅ぼすとすぐに、フスタートのすぐ北東にカリフを迎えるための新都の建造を始めた。ナイル川に面した河港の政治都市フスタートに対して、そのやや内陸に四角の城壁に囲まれるようにつくられ、カリフと官僚、軍人が住んだこの計画的政治都市はカーヒラ(「勝利」)と名づけられた。これが現在のカイロの起源である。4年がかりで行われた新都の建設と平行して、970年にはカリフのためのモスクとなるアズハル・モスクの建設が着工した。カイロ完成後の973年、イフリーキヤからムイッズが移り、ファーティマ朝の東遷が完了する。 ジャウハルはその間にもシリア方面に進出してパレスチナ、エルサレムを征服し、カルマト派の侵攻を撃退するが、のちにムイッズの不興を買って失脚した。ムイッズの死後、ジャウハルはその子のアズィーズによって登用されるが、シリアへの遠征に失敗して再び政治から遠ざけられ、そのまま死去した。 Category:イスラム史の人物 Category:エジプト史の人物 Category:チュニジア史の人物 Category:ファーティマ朝 Category:都市の建設者 Category:992年没.

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スヴャトスラフ1世

ヴャトスラフ1世(古東スラヴ語:Свѧтославъ Игоревичь;ウクライナ語:Святослав Ігоровичスヴャトスラーウ・イーホロヴィチュ;ロシア語:Святослав Игоревичスヴィタスラーフ・イーガリェヴィチ、942年頃 - 972年)は、キエフ大公国の大公(在位945年 - 972年)。キエフ大公イーゴリ1世とオリガの子。ハザール王国を滅ぼし、キエフ・ルーシの最大版図を築いた。.

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スーダ辞典

ーダ辞典(ギリシア語:Σοῦδα)は東ローマ帝国で編纂された辞書(百科事典も兼ねる)。古代から当代の歴史に関わる約3万語を収録しており、東ローマ帝国の公用語であったギリシア語で記されている。題名の「スーダ」はラテン語(suda)で「城砦」を意味する。 10世紀のマケドニア朝治下の東ローマ帝国では後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる古代ギリシャ文化の復興が進み、皇帝コンスタンティノス7世の下では国家事業として古代の文献の収集、整理が行われていた。このスーダもその文化的興隆の中から生まれたものである。誤伝も多いが、現在では散逸してしまった古代の文献からの引用も多く、資料としての価値が高い。 12世紀のエウスタティオスの書物に引用が見られること、アダムの項目で書かれている年代記がヨハネス1世ツィミスケスの死亡(975年)で終わっていること、バシレイオス2世・コンスタンティノス8世の言及があることから成立は10世紀の後半であるとされる(11世紀のミカエル・プセルロスに関する語句も見られるが後代の挿入とされる)。項目はアルファベット順になっているが同音で異なる文字が同じ箇所に入れてあるなど多少揺れがある。現代になってデンマークの学者のアダ・アドラーが編修したものが刊行されている。.

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ズィヤール朝

ィヤール朝(ペルシア語 زياريان Ziyāriyān 927年 - 1043年/1090年頃)とは、カスピ海南岸、主にイラン北西部ゴルガーン地方からマーザンダラーン(タバリスターン)地方を支配していたイスラム王朝。.

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セン淵の盟

澶淵の盟(せんえんのめい、澶は氵に亶)は、1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。 この時期に、当事国の一方の国号が「遼」と「契丹」との間で何度か入れ替わるが、この記事中では全て「遼」で統一する。.

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ゾロアスター教

ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、 、、、中国語:祆教(けんきょう・シェンジャオ/xiān jiào))は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。.

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タヌーヒー

タヌーヒー (أبو علي المحسن بن علي التنوخي, Abū 'Alī al Muẖassin b. 'Alī al-Tanūkhī,  939年 - 994年) は、ムスリムの法官、著作家。本名はアブー・アリー・アル・ムハッシン。中世イスラム世界の説話を集めた『座談の糧』(نشوار المحاضر nišwār al-muẖāḍara)で知られる。また、『苦あれば楽あり』(الفرج بعد الشدّة al-faraj ba'd al-šiddah) という著書も残している。 バスラの法官の家庭に生まれ育つ。父の死後は造幣局の検査官や公証人などを務めたのち、ブワイフ朝時代のバグダードでハナフィー派に属する法官の地位につく。その頃から『座談の糧』の執筆をはじめ、他の文献からの引用はせず、自ら見聞した話だけを集めた。その後は法官の座から追われて各地を転々としたのち、晩年をバグダードですごしつつ『座談の糧』を書きあげた。完成までには20年がかかったとされ、当時のさまざまな階層や職業の人々についての説話が集められている。.

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タイラ2世

タイラ2世は、インドのデカン地方を支配した後期チャールキヤ朝(カリヤーニのチャールキヤ朝)の初代の君主(在位:973年 - 997年)。.

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サンティアゴ・デ・コンポステーラ

ンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、スペイン北西端部ガリシア州のア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都である。コマルカ・デ・サンティアーゴに属する。ガリシア統計局によると、2012年の人口は95,671人(2010年:94,824人)で、州内ではビーゴ、ア・コルーニャ、オウレンセ、ルーゴに次ぐ5番目の人口規模の街である。住民呼称はcompostelán/-lá、santiagués/-esa、またpicheleiro/-aなどが使われる。本都市を中心に近隣の自治体アメス、ボケイション、ブリオン、テオ、バル・ド・ドゥブラ、ベドラとコマルカ(県と市の中間単位、コマルカ・デ・サンティアーゴ)を構成している。 サンティアゴ・デ・コンポステーラには自治州政府()が置かれ、ガリシア州の政治の中心であると同時に、宗教的には大司教座が置かれている。旧市街は1985年にUNESCO世界遺産に登録されており、また、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地のひとつでもあり、世界遺産に登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着地でもある。 ガリシア語話者の自治体人口に占める割合は35.92%(2011年)。.

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サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路

ンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(サンティアゴ・デ・コンポステーラのじゅんれいろ)は、キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指す。.

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サーマーン朝

ーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873年 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、68頁。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している帯谷知可「イスマーイール・サーマーニー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、54-55頁。このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている江上『中央アジア史』、478-479頁。.

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サブク・ティギーン

ブク・ティギーン(? - 997年/98年)は、ガズナ朝の第4代君主(在位:977年 - 997年/98年)。ガズナ朝の創始者アルプテギーンにグラーム(軍人奴隷)として仕えた。 彼の治世以後のガズナ朝は、世襲制の王朝となり、事実上のガズナ朝の創始者とされている。.

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サアディア・ベン・ヨセフ

アディア・ベン・ヨセフ 世界大百科事典第2版またはサディア・ベン・ヨゼフ ブリタニカ国際大百科事典小項目事典(Saadia Ben Joseph、882年-942年) は、バビロニアのユダヤ教神学者、哲学者、文学者、ヘブライ語文法学者である。.

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哲学者

哲学者とは、広義に、哲学を研究する者のことである。「哲学者(フィロソファー)」という語は、「知恵を愛する者」を意味する古代ギリシャ語のφιλόσοφος(フィロソフォス)に由来する。ギリシャの思想家ピタゴラスによって導入された。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円珍

円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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内覧

内覧.

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写本

13世紀ヨーロッパの彩色写本 写本(しゃほん、Manuscript)とは、手書きで複製された本や文書、またはその行為そのものを指して示す用語。時に、原本(オリジナル)である正本(しょうほん・せいほん)と対応させて、それを書き写した書写本であることを強調するために用いられることもある。.

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公田

公田(こうでん/くうでん/くでん)とは、律令制において公(国家・朝廷)が所有している田地・畑地のこと。なお、その概念は時代によって異なるために注意を要する。.

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六国史

六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。.

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前蜀

前蜀(923年頃) 前蜀(ぜんしょく)は、中国の五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。創始者は王建。.

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国立故宮博物院

国立故宮博物院(こくりつこきゅうはくぶついん)は、中華民国の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している.

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四体液説

四体液説(よんたいえきせつ、または)とは、「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類を人間の基本体液とする体液病理説()である。体液病理説(もしくは液体病理説)とは、人間の身体には数種類の体液(はの訳語で、そのまま「体液」を意味する)があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ(Eucrasia)、バランスが崩れると病気になる(Dyscrasia)とする考え方で、古代インド(アーユルヴェーダ)やギリシャで唱えられた。インドからギリシャに伝わったとも言われる。 四体液説は、西洋で広く行われたギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)の根幹をなしており、19世紀の病理解剖学の誕生まで支持された。どの体液が優位であるかは、人の気質・体質に大きく影響すると考えられ、四体液説と占星術が結びつけられ広い分野に影響を与えた。.

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皇朝十二銭

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称である。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。.

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石敬トウ

石 敬瑭(せき けいとう)は、五代後晋の初代皇帝。廟号は高祖。祖先は沙陀より太原に移住したと言われている。石氏はタシュケントを出自とするいわゆるソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長李克用の率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命されている。.

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王建 (前蜀)

王建(おう けん)は、十国前蜀の初代皇帝。廟号は高祖。 永陵正門(成都市三洞橋西北) 永陵の墓道、正面が陵墓.

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王朝国家

王朝国家(おうちょうこっか)は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。 律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。 11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている。 王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。.

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班田収授法

班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)とは、古代日本において施行された農地(田)の支給・収容に関する法体系である。班田収授法による制度を班田収授制または班田制という。班田収授制は、日本の律令制の根幹制度の一つであり、律令が整備された飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われた。なお、「はんでんしゅうじゅのほう」ともよむ。また、「班田収受の法」と表記することもある。.

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琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」で、滋賀県が管理している例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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神明裁判

明裁判。中央の女性が熱した鉄棒を握って見せているロベール、p.162。 神明裁判(しんめいさいばん)とは、神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは神判西洋史ではほぼ神判と呼ばれるので、西洋の神判の節ではそれに倣う。たとえば、勝田[他]『概説西洋法制史』、バートレット『中世の神判』、山内『決闘裁判』、赤阪『神に問う』などはいずれも「神判」としている。()、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。 試罪法とも。.

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科学者

科学者(かがくしゃ、scientist)とは、科学を専門とする人・学者のことである。特に自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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秋萩帖

秋萩帖(あきはぎじょう)は、平安時代の書の作品の一つで、草仮名の代表的遺品。巻子本、1巻。和歌48首と王羲之尺牘(せきとく)臨書11通が書写されている。伝称筆者は小野道風及び藤原行成。書写年代は不明だが10世紀ないしは11世紀か。国宝。東京国立博物館蔵。 秋萩帖第1紙 秋萩帖第13、14紙.

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空也

也(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。 俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。  .

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空海

海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.

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穆宗 (遼)

宗(ぼくそう)は、遼の第4代皇帝。諱は述律。太宗耶律堯骨の長男。史書によれば、性格は非常に残忍で拷問を好んだとある。.

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紅葉伝説

紅葉伝説(もみじでんせつ)は、長野県の戸隠(とがくし)、鬼無里(きなさ・現、長野県長野市)、別所温泉などに伝わる鬼女にまつわる伝説。平維茂(たいら の これもち)が鬼女・紅葉(もみじ)と戦い、討ち捕る話である。.

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紅葉狩 (能)

『紅葉狩』(もみじがり)は、能の一曲である。平維茂の鬼退治を描く。 観世小次郎信光作。信光は『船弁慶』『鐘巻』(『道成寺』の原型)の作者でもある。本作もまた初期の登場人物が多い、ワキの積極的な関与が見られるなど、劇的構成を目指した比較的新しいスタイルの能である。美しい紅葉の情景、美女一行の姿と舞が前段の見どころ、一転して派手な激闘となる後段との対比が楽しい能である。.

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紀友則

紀友則(百人一首より) 紀 友則(き の とものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代前期の歌人・官人。宮内権少輔・紀有友(有朋)の子。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人。.

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紀貫之

紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。.

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経典

経典(きょうてん、きょうでん、sūtra, スートラ、sutta, スッタ、経)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。.

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田堵

堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。田刀、田頭とも。貞観元年(895年)12月付の元興寺領近江愛智荘(えちのしょう)の検田帳である。田堵の堵は、垣を意味する。また、「田刀」を「田刀禰」の略とみて、元は国司・郡司の下にいて田地の境界画定や勧農を担った刀禰を指していたとする見方もある。.

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燕雲十六州

燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)は、10世紀に遼が後晋から割譲されて支配した16の州のこと。具体的には、朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州・媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州の計16州を指す。 燕は燕京(幽州、現在の北京)を中心とする河北北部、雲は雲州(現在の大同)を中心とする山西北部のことで、燕雲とはこの2州を中心として万里の長城周辺に位置する漢人の定住農耕地帯にあたる。燕雲十六州の名が使われ始めたのは北宋徽宗の時代からである。.

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百科事典

科事典(ひゃっかじてん、encyclopaedia)とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順などに配列し、解説を記した書物のこと広辞苑 第五版 p.2272 百科辞典・百科事典。「百科」と略記されることもある。 thumb.

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百鬼夜行

夜行(ひゃっきやぎょう、ひゃっきやこう)とは、日本の説話などに登場する深夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れ、および、彼らの行進である。.

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銭鏐

銭 鏐(せん りゅう)は、十国呉越の創建者。.

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花山天皇

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。.

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隅田川

隅田川流域図 晴海運河との分岐点である大川端。(隅田川は手前) 両国橋より上流を臨む 隅田川に注ぐ神田川 勝鬨橋から北側の眺め 勝鬨橋 夜景(勝鬨橋) 聖路加タワーからの眺め 隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。.

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隅田川 (能)

14世喜多六平太による「隅田川」の一場面。荻島雄三撮影 『隅田川』 (すみだがわ) は能楽作品の一つである。観世元雅作。 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。.

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鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

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遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.

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聖宗 (遼)

聖宗(せいそう)は、契丹(遼)の第6代皇帝。諱は文殊奴。智勇兼備の名君と伝わる。.

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聖ヴィート大聖堂

聖ヴィート大聖堂 (チェコ語:Katedrála svatého Víta)はチェコのプラハにある大聖堂で、プラハ大司教の司教座聖堂である。 大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ(Vojtěch)大聖堂」である。 プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会である。正面に82メートルの二本の塔、中ほどに99メートルの鐘楼が立っている。大聖堂の内部は、天井の高さ34メートル、幅60メートル、奥行き124メートルの大空間である。.

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聖ヴォロディームィル大聖堂

聖ヴォロディームィル大聖堂 聖ヴォロディームィル大聖堂(ウクライナ語:Володимирський собор)は、ウクライナの首都キエフに位置する正教会の大聖堂である。ウクライナ正教会・キエフ総主教庁に属し、当総主教庁の総主教座である。国重要文化財。聖ウラジーミル聖堂ともいう。.

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道成寺

道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。 拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。.

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荘園整理令

荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.

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荒田

荒田(こうでん)とは、古代・中世において、何らかの理由をもって耕作が放棄されて荒廃した田地を指す。 これに対して未開地(未墾地)は荒地、災害によって一時的に利用が困難となった土地は損田と呼ばれて区別されている。 荒田の発生原因には様々な原因があるが、大きく分けると地味の乏しさなど土地本来の条件による場合と洪水による荒廃(「河成(かわなり)」)などの自然災害に由来するものに分けることが出来る。 律令制においては荒廃田・不堪佃田(ふかんでんでん)などとも呼ばれている。田令によれば、荒廃して3年未満の荒田は年荒(ねんこう)・それ以上のものは常荒(じょうこう)と呼び、常荒田については希望者に賃租(令では、公田6年・私田3年)して特典を付けて再開発を奨励して土地の維持を図っている。だが、平安時代に入ると、荘園の拡大によって租税の徴収が困難になった国司がそうした土地を荒田として届け出る例があった。後に有力な農民や土着した在庁官人などがこの規定を利用して荒田の再開発に乗り出し、私領するようになる(在地領主制)。 更に中世に入ると、名田の成立や国衙や荘園領主による環境整備を伴った「浪人」導入よって荒田に対する積極的な開墾が見られるようになる。その一方で農業生産性の低い土地では、連作が不可能なために人為的に耕作と休耕を繰り返す土地利用も現れたこうした土地を片荒(かたあらし)と呼んだ。片荒による休耕地は放牧地などとして用いられたが、こうした土地に再度鍬を入れて農地として回復させる荒田打(あらたうち)を行うことは困難であった。このため、荒田打を行った土地は新田に準じた権利を認められる場合もあった。 *かつて「かたあらし」は休耕と現作を一年交互にくりかえす田だとされたが、そのような農法はどこにも存在しない。一年の半分を休む一毛作田をさす。 http://hdl.handle.net/2324/17117 category:日本の農業史 Category:日本の律令制 Category:日本の荘園制.

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菅原道真

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.

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西宮記

西宮記(さいきゅうき/せいきゅうき/さいぐうき)は、平安時代に源高明によって撰述された有職故実・儀式書。.

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西フランク王国

西フランク王国(にしフランクおうこく、Francie occidentale, Westfrankenreich)は、西ヨーロッパにかつて存在した王国(843年 - 987年)。フランス王国の原型にあたる。 カール大帝が西ヨーロッパを統一したフランク王国も、大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。帝国分裂を防ぐため、度々帝国整理令が出されるが効果は上がらず、843年、皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)の死後、彼の3人の遺児が帝国を分割統治し、ヴェルダン条約により、正式に帝国は分裂。帝国西部の旧ローマ属州ガリア地方に西フランク王国が、イタリア半島北部を中心に中部フランク王国(ロタール相続領)が、そして帝国東部のゲルマニア地方に東フランク王国が成立。 西フランク王国の初代はシャルル2世(カール2世)、禿頭王とも呼ばれる。地方分権化が進み、王権は当初から弱体で、このことは後のフランス諸王朝の悩み種となる。 987年にルイ5世(ルートヴィヒ5世)の夭折をもってカロリング家の血統は断絶し、王室の姻戚関係にあるカペー朝のユーグ・カペーが継承した。以後はフランス王国と呼ばれる。.

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西暦

西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.

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馮道

馮道(ふう どう、882年 - 954年)は、中国の五代十国時代の政治家。五朝八姓十一君に仕えた。瀛州景城県来蘇里(河北省滄州市)の生まれ。字は可道、号は長楽。長楽郡の名族馮氏の末裔を称した。.

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詞(し)は、中国における韻文形式の一つ、あるいは歌謡文芸の一つ。 宋代に隆盛したので宋詞(そうし)ともいう。唐・五代では曲・雑曲・曲子詞(きょくしし)とも呼ばれた。また詩に対して詩余(しよ)とも言われ、長短不揃いの句で構成されることから長短句(ちょうたんく)ともいう。曲に合わせて詞が書かれたので、詞を埋めるという意味で填詞(てんし)、音楽に合わせるという意味で倚声(いせい)とも言われる。日本語では詩(し)と同音であるため、区別しやすく中国語音からツーと呼ばれることがある。 後代には音楽に合わせて作られるのではなく、前人の作品の平仄に合わせて作られるようになったため、詩と同様、朗読される詩歌の一種となった。.

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説話

説話(せつわ)は、近代に造語された言葉で、明瞭な概念規定なしに国文学・民俗学・民族学・神話学などの領域で使用される。広義には、古くより伝承されて来た話・物語一般を意味する。しかし狭義には、民話(昔話)、伝説を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。 ここでは狭義の意味の説話を説明する。 ドイツ語のメルヘン/メルヒェン(Märchen)、英語のフェアリーテイル(fairy tale)を含んでいる。メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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議会

議会が開かれる議場の例(日本参議院) 議会(ぎかい)は、通常は選挙によって選出された議員によって構成され、法律の制定(立法)などを行う機関(立法府)。近代の議会では通常、選挙民の代表、法律の制定、政府の監視(行政監督権)の3機能を持つ。.

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豊島郡 (武蔵国)

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負名

負名(ふみょう)とは、日本の平安中期ごろから始まる王朝国家体制のもとでの租税収取形態または租税収取を請け負った者をいう。10世紀ごろ、朝廷は律令制に由来する人別支配体制を放棄し、土地課税に基礎をおく支配体制(王朝国家体制)へと移行したが、このとき、課税単位へ編成された土地を名田(みょうでん)といい、名田経営を請け負った者が「負名」と呼ばれるようになった。.

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鳳翔県

鳳翔県(ほうしょうけん)は中華人民共和国陝西省宝鶏市に位置する県。古称を雍州(ようしゅう)と称す。県人民政府の所在地は城関鎮。.

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趙匡胤

趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。.

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趙普

趙 普(ちょう ふ、922年 - 992年)は、中国北宋の政治家。字は則平。諡は忠献。北宋初期の宰相で北宋建国の元勲。しばしば「学究」とあだ名された。 幽州薊(天津市)の人。元は後周の下級役人に過ぎなかったが、当時節度使であった北宋の太祖・趙匡胤の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなった。959年に世宗が急逝し、その後継者となった恭帝が幼少であったために軍部が動揺すると、趙匡義とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国した。 太祖からは左右の手と評されるほどの信頼と重用を受け、枢密使を経て964年には宰相となった。一時は翰林学士・盧多遜の讒言を受けて失脚したが、再び宰相へ復帰し、992年に致仕するまで在職した。 下級役人上がりで教養がないと批判されたが、「沈毅果断、天下を以って己が任と為す」といわれた冷静沈着な名宰相で、盛唐から五代十国時代にかけて戦乱の原因となった節度使の無力化や、文人の登用などを進言し、北宋・南宋合わせて300余年にわたる王朝の基礎を築いた立役者と言われる。 ただし、清廉潔白な人物とは言えず、御史中丞・雷徳驤に強要・収賄を弾劾された際には、社稷の臣であることを理由に却下されている。.

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黒石

黒石(、アル=ハジャル=ル=アスワド、the Black Stone)は、メッカのカアバ神殿の東隅に据えられたムスリムの聖宝である。その由来はアダムとイヴの時代にまで遡るという伝承がある。テクタイトもしくは隕石であるとも考えられている。サウジアラビアのメッカに所在する大モスクであるマスジド・ハラームの中央に位置し、世界のムスリムがその方角を向いて祈る古代の聖なる石造建築、カアバの東隅に据えられた要石である。黒石の直径はおよそ30センチメートル、地面からの高さは1.5メートルである。 巡礼者たちは、ハッジの儀式の一環としてカアバの周囲を回る。このとき、巡礼たちの多くは可能ならば、足を止めて黒石に7度接吻しようと試みる。イスラムの伝承によれば、預言者ムハンマドはかつてそうしたとされている。巡礼者たちは、黒石に触れることができない場合、カアバを7度回るたびに黒石を指差す。.

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述律皇后

淳欽述律皇后(じゅんきんじゅつりつこうごう、乾符6年10月1日(879年10月19日) - 応暦3年6月19日(953年8月1日))は、遼(契丹)の太祖耶律阿保機の皇后。諱は平。小字は月里朶。地皇后、応天皇后ともいう。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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蜻蛉日記

『蜻蛉日記』(かげろうにっき、かげろうのにっき、かげろうにき)は、平安時代の女流日記。作者は藤原道綱母。天暦8年(954年) - 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延3年(975年)前後と推定される。上中下の三巻よりなる。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。.

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郭威

郭 威(かく い)は、五代後周の初代皇帝。廟号は太祖。.

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赤毛のエイリーク

イリーク・ソルヴァルズソン (Eiríkr Þorvaldsson, 950年頃 - 1003年頃) 、通称「赤毛のエイリーク」(Eiríkr hinn rauði, Erik the Red)は、ノルウェー、アイスランドの首領、探検家。ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植した人物とされる。 「赤毛のエイリーク」は個人の特徴を名前の後ろにつけて区別する慣習によるあだ名であるが、『赤毛のエイリークのサガ』や『グリーンランド人のサガ』、『植民の書』など、アイスランド・サガに残る記録により、こちらの呼称で知られるようになった。 妻はヨルンド・ウールヴズソンの娘、ショーズヒルド (Þjóðhildr) 。彼女との間にレイフ (Leifur) 、ソルヴァルド (Þorvaldr) 、ソルステイン (Þorsteinn) の三人の息子と、庶子に娘フレイディース (Freydís) がいたと伝えられている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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開封市

開封市(かいほうし、)は中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。.

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藤原定子

藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ、貞元2年〈977年〉 - 長保2年12月16日〈1001年1月13日〉享年は同時代の公卿・藤原行成の日記『権記』による(『大鏡裏書』『一代要記』は入内の時14歳とするため『権記』の記す享年24と符合する)。『日本紀略』『扶桑略記』『栄花物語』は25とする。)は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。女官に『枕草子』の作者である清少納言がいる。.

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藤原実頼

藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原仲平

藤原 仲平(ふじわら の なかひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政関白・藤原基経の二男。官位は正二位・左大臣。左京一条にある枇杷第を伝領した事から、枇杷左大臣と呼ばれる。.

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藤原伊尹

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。 妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原佐理

藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり)は、平安時代中期の公卿・能書家。太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。.

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藤原忠平

貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.

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藤原利仁

藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁(忌部姓?)の娘婿ともなっていた。.

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藤原兼家

東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。 策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。.

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藤原兼通

藤原 兼通(ふじわら の かねみち)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の次男。官位は従一位・関白太政大臣、贈正一位。.

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藤原秀郷

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。.

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藤原純友

藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下実際に、天慶3年(940年)2月、反乱を起こした純友を懐柔するために、朝廷は純友を従五位下に叙したとされる。・伊予掾。 瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。.

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藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).

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藤原道兼

藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。官位は正二位・関白、右大臣、贈正一位、太政大臣。同母の弟妹に詮子、道長らがいる。 父・兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)。一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄・道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼ばれる。.

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藤原道綱母

藤原道綱母(百人一首より) 藤原道綱母(ふじわら の みちつな の はは、承平6年(936年)? - 長徳元年5月2日(995年6月2日))は、平安時代中期の歌人。藤原倫寧の娘。 『尊卑分脈』に「本朝第一美人三人内也(=日本で最も美しい女性三人のうちの一人である)」と書かれているが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としない。なお、『榻鴫暁筆』(室町時代後期)によれば、他の2人は、藤原安宿媛(光明皇后)と藤原明子 (染殿后)である。 藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けた。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしている。兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづった。晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われているが詳細は不明。『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。 小倉百人一首では右大将道綱母とされている。.

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藤原道隆

藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。 花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨御した。.

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原頼忠

藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。.

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藤原詮子

東三条殿跡・藤原詮子居住地、京都市中京区押小路通釜座西北角 藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。院号は東三条院(ひがしさんじょういん)。 摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。.

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藤原時平

藤原 時平(ふじわら の ときひら)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。本院大臣と号した。 藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去した。その死は怨霊となった道真の祟りと噂された。.

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藩鎮

藩鎮(はんちん)とは、中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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自印聖像

自印聖像(じいんせいぞう、Αχειροποίητος, Спас Нерукотворный, Holy MandylionもしくはImage of Edessa)は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)が、奇蹟によって布に自身の顔の像を写したものと伝えられる正教会のイコン。「自印聖像」は日本正教会での訳語であるが、手にて描かれざるイコン等とも呼ばれる。英語表記などからマンディリオン等とも片仮名で転写される事もあるが、日本正教会ではこの名はほとんど用いられない。 多くの複製が古くから現代に至るまで作成されているが、伝承に伝えられる原本たるイコンの所在は不明となっている。.

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金陵

金陵(きんりょう).

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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長徳の変

長徳の変(ちょうとくのへん)とは長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)とも。.

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酒呑童子

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「酒顚童子」 酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。.

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良源

良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。.

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耶律堯骨

耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)は、契丹帝国(遼)の第2代皇帝。太祖耶律阿保機の次男。.

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耶律突欲

耶律突欲(やりつ とつよく、899年 - 937年)は、キタイ(契丹)帝国の皇太子、東丹国の国王。図欲とも呼ばれる。漢風の姓名は劉倍(または耶律倍)。キタイ帝国初代皇帝・耶律阿保機(太祖)の長男。第2代皇帝太宗の兄。第3代皇帝世宗の父。母は月里朶(ユリド、述律皇后)。モンゴル帝国の中書令の耶律楚材は彼の9世の後裔である。諡号は譲国皇帝、廟号は義宗。.

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耶律阿保機

耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。.

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陰陽師

江戸時代初期の奈良絵本『たまものまへ』より、算木で占いを行う陰陽師の画。京都大学附属図書館所蔵。 陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術など方術や、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。 なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が連声化して「おんみょうじ」となった(「陰」は中国語中古音で「*ʔi̯əm」、中世日本語音で「*wom」なので、連声化するとま行の音になる)ものとされ、また「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目に揚音があったと言われている。.

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陳橋の変

陳橋の変(ちんきょうのへん、陳橋兵變)は、960年に後周領内の陳橋(河南省封丘県)で起こったクーデターである。これによって後周が滅び宋が建国された。.

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陳摶

陳摶(ちん たん)(872年 - 989年)は、五代十国から北宋にかけての道士。しばしば仙人と見なされる。 字は図南。自ら扶揺子を号したが、北宋の太宗が希夷先生の号を贈ったため、陳希夷(ちん きい)とも呼ばれる。睡仙のあだ名もある。 紫微斗数、河洛理数、麻衣相法といった占術の創始者に仮託されている。.

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柴栄

柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝。廟号は世宗。五代で随一の名君とされる。.

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枕草子

王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.

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李存勗

李 存勗(り そんきょく)は、五代後唐の初代皇帝。.

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李嗣源

李 嗣源(り しげん)は、五代後唐の第2代皇帝。.

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李イク

李 煜(り いく)は、十国南唐(江南)の第3代(最後)の国主。後主とよばれる。君主としての政治的能力はほとんどなく、それよりも文学的・芸術的な才能のほうがはるかに優れていた。特に韻文の一種で、勃興しつつあったジャンルである詞の大成者として知られる。父の元宗李璟も芸術方面で評価されているため南唐二主と並称されている。.

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李克用

李 克用(り こくよう、856年 - 908年)は、中国の唐末期の軍閥指導者。後唐の始祖。突厥沙陀部出身。太祖武帝と追号された。李存勗(荘宗)の父で、李嗣源(明宗)の仮父。唐末期に鴉軍と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げ、朱全忠と激しい権力争いを繰り広げたが、中途で病死した。独眼龍の異名を持つ猛将であった。.

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李茂貞

李 茂貞(り もてい)は、唐末から五代十国時代の岐の王。深州博野(現在の河北省保定市蠡県)の出身で初名は宋文通。.

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東丹国

10世紀の契丹と東丹国。 東丹(とうたん, 西暦926年 - ?)は渤海を滅ぼした契丹がその故地に建てた封国。契丹の東部の意。.

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東京国立博物館

東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。館長は銭谷真美。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2017年3月31日時点で、国宝88件、重要文化財636件を含む収蔵品の総数は117,190件(2017年11月時点では国宝89件、重文640件)。これとは別に、国宝55件、重要文化財258件を含む総数3,075件の寄託品を収蔵している。2017年度の陳列総件数は約7,200件。2016年度の来館者数は約191万人である。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東フランク王国

東フランク王国(ラテン語:regnum Francorum orientalium、独:Ostfrankenreich)は9~10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国。ドイツの原型にあたる。 西ヨーロッパは9世紀初頭にローマ教皇から西ローマ皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝によって統一されていた。しかし大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。840年に第2代皇帝ルートヴィヒ1世が崩御すると翌年にフォントノワの戦いが勃発。843年のヴェルダン条約によって帝国は正式に三分割された。その東部分がルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世の統治領域となった東フランク王国である。 ルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は西ローマ帝国の権威を引き継ぐことができなかった。西ローマ帝国として正統だったのは中フランク王国である。しかし中フランク王国はまもなく北イタリアのみを統治するイタリア王国へと縮小した。西フランク王国もまた内憂外患で政情が安定しなかった。そのような状況で東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には西ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって西ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西ヨーロッパ最強だった帝国だが、やがて衰えてイタリアを失い神聖ローマ帝国、そして現在のドイツとなった。 カール大帝の直系であるカロリング朝の統治は911年までだった。西ローマ帝国の理念は女系のザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝に引き継がれていった。 帝国はごく一時期を除いて西フランク王国(フランス)を併合できなかった。これは西ローマ帝国がゲルマン系のドイツとラテン系のフランスに分かれる原因となった。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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梨壺の五人

梨壺の五人(なしつぼのごにん)とは、天暦5年(951年)村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人である。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれた。『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などを行った。 以下の五人である。.

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楊家将演義

『楊家将演義』(ようかしょうえんぎ )は、北宋の楊一族の活躍と悲劇を描いた中国明代の講史小説の総称。単に『楊家将』()とも呼ばれる。.

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楊業

楊業(よう ぎょう、拼音:Yáng Yè、? - 986年)は、中国の五代十国時代から北宋初期にかけての武人。楊継業(よう けいぎょう、Yáng Jìyè)とも言い、また楊老令公と称せられる。本来の名前は重貴であり、并州太原(現在の山西省太原市)の人である。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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殿試

殿試(でんし、満州語:deyen de simnembi)とは、中国の科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。 宋代より始まったもので、既に進士の地位は得ている者たちの順位がこの最終試験によって決められ、後々の処遇に大きく影響した。 殿試は皇帝自らが行う建前だが、実際には朝廷の大臣が試験官を務めた。これを読巻大臣という。読巻大臣は8名であり、その中には内閣大学士が含まれている。 上位より3名はそれぞれ、第1位が状元、第2位が榜眼、第3位が探花と呼ばれ、高官としての将来が約束された。 皇帝自ら行うため時には皇帝の気まぐれに左右されることもあり、趙翼のようにそれで状元を逃した例もあった。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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沙陀族

沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族の開いた突厥を構成した一部族。突厥の崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服して、雲州など現在の山西省北部に定着し、軍閥化して次第に漢化していった。 いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは沙陀人の君主が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国しており、漢人系とされる孟知祥の地方政権である後蜀をはじめ、郭威、柴栄といった君主を戴く後周ですら加藤徹は郭威、柴栄、趙匡胤が漢化した沙陀部出身と推測している。また、岡田英弘も郭威、柴栄、趙匡胤が生粋の漢民族なのか懐疑を示している。、彼ら王朝創始者たちは沙陀族の劉知遠に見出されて沙陀系軍閥の一員として台頭し、やはりこの軍閥の軍事力を背景に建国している。その後全中華を統一した趙匡胤の宋朝もこの後周の国軍から台頭しており、沙陀系軍閥の系譜を濃厚に継承している。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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渤海 (国)

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.

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清少納言

清少納言(せいしょうなごん-->、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。.

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清凉寺

清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。.

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清涼殿落雷事件

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。.

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源信 (僧侶)

源信(げんしん)は、平安時代中期の天台宗の僧。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。 浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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源順

源 順(みなもと の したごう、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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源満仲

JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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木母寺

木母寺(もくぼじ)は、東京都墨田区にある天台宗の寺院。山号は梅柳山。院号は墨田院。本尊は地蔵菩薩・元三大師。.

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朱全忠

朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。諱は初め温であったが、黄巣の乱の際の功で唐朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改めた。.

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朱雀天皇

朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年4月13日(946年5月16日))は第61代天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。.

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成田山新勝寺

成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本の千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院であり、同派の大本山のひとつである。山号を成田山、寺号を新勝寺というが、山号を省略せずに呼ぶのが通常で、寺号のみで呼ぶことは少なく、むしろ山号のみで呼ぶことが珍しくない。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期にあたる天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。 参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、神社仏閣としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、仏閣に限れば全国第1位である。現在ではおおむねこの順位を維持しているが、以前は神社仏閣として川崎大師に次ぐ全国第3位であった。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。.

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戸籍

戸籍(こせき)とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。 かつては東アジアの広い地域で存在していた。21世紀の現在では中華人民共和国(事実上形骸化している)と日本と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。.

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戸隠

戸隠(とがくし).

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昭宗

昭宗(しょうそう)は、東アジアにおける皇帝・王の廟号の一つ。.

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昭宗 (唐)

昭宗(しょうそう)は、唐朝の第22代皇帝。懿宗の七男で、僖宗の弟に当たる。.

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昌泰

昌泰(しょうたい)は、日本の元号の一つ。寛平の後、延喜の前。898年から901年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。.

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昌泰の変

昌泰の変(しょうたいのへん)は、901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。.

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浄土教

浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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文苑英華

『文苑英華』(ぶんえんえいが)は、中国の北宋時代に成立した詩文集。『太平広記』、『太平御覧』、『冊府元亀』とあわせて宋四大書と称せられる。太宗の勅命を奉じて李昉、扈蒙、徐鉉、宋白ら17名が太平興国7年(982年)から雍熙4年(987年)にかけて編纂したもので、全1000巻、目録50巻に及ぶ。 南朝梁代の『文選』の後を継ぐものとして、梁末から唐末に至るまでの約2200人、2万編近くの詩文を中心に採録し、『文選』に倣って文体により55類(38類とも)に分類した。収められた詩文は唐代のものが9割を占める。多人数で短期間に完成させたこともあって、誤字・脱字・重複・転倒など誤りも無数にあるが、現存しない文献も多く、唐代の文献を保存した功績は非常に大きいとされる。明清代に編纂された『古詩紀』『全唐詩』などはほぼ本書に拠って再録されたといい、ほかにも現存する詩文集の校訂にも用いられている。 南宋の嘉泰4年(1204年)になってようやく刊行されており、宋本で現存するものは140巻である。残り860巻を明の隆慶元年(1567年)の刊本によって補い、彭叔夏(南宋)『文苑英華弁証』、労格(清)『文苑英華弁証拾遺』、作者姓名索引を付したものが1966年に中華書局より影印出版(2003年に再影印、ISBN 7101008070)されている。.

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日本三代実録

『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。.

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日本往生極楽記

『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)は、平安時代中期に慶滋保胤(? - 1002年)が編纂した往生伝。成立は寛和年間(985年 - 987年)頃と見られている。 「往生伝」とは、極楽往生をしたものの伝記またはその伝記を集めたもので、『日本往生極楽記』は日本で最古の往生伝とされる。この書は、聖徳太子をはじめとして、皇族から僧・庶民にいたる計45人の極楽往生の伝記を載せ、保胤の浄土信仰に基づいて編纂されたものである。 『日本思想大系7 往生伝・法華験記』 (井上光貞・大曽根章介校注、岩波書店)に所収。 Category:10世紀の書籍 Category:浄土教 Category:日本の伝記 Category:説話 Category:平安時代の文学 Category:平安時代の仏教書 Category:仏教文学.

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摂津源氏

摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある)。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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慶祚

慶祚(けいそ、天暦9年(955年)- 寛仁3年12月22日(1020年1月19日))は、平安時代中期の天台宗の僧。俗姓は中原氏。.

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慶長通宝

慶長通宝(けいちょうつうほう)は、慶長11年(1606年)に江戸幕府によって発行された銅銭(異説もある)。日本では平安時代の皇朝十二銭以来久しく途絶えていた中央政府による鋳造貨幣であるとされる。銭文は「慶長通寳」である。.

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慶滋保胤

慶滋 保胤(よししげ の やすたね、承平3年(933年)以後長保4年10月21日(1002年11月27日)は、平安時代中期の文人・儒学者。字は茂能。唐名は定潭。法名は寂心。父は陰陽家の丹波権介・賀茂忠行であるが、家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。子に忠順がいる。官位は従五位下・大内記。.

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承平天慶の乱

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。.

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性空

性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。 36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。 圓教寺には肖像彫刻・性空像(重要文化財)があり、東京大学史料編纂所は性空像の模本()を所蔵している。.

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景宗 (遼)

景宗(けいそう)は、遼の第5代皇帝。諱は明扆。.

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1000年

月曜日から始まる。また、10世紀および1千年紀における最後の年でもある。.

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1002年

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1003年

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1005年

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1007年

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1010年

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1014年

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1015年

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1016年

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1017年

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1020年

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1021年

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1025年

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1027年

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1031年

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1037年

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1038年

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1千年紀

紀元1千年紀(きげんいっせんねんき)は、西暦紀元による1番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦元年から西暦1000年(1世紀から10世紀)に当たる。.

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841年

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845年

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847年

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850年

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852年

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856年

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857年

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858年

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860年

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864年

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865年

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866年

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870年

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871年

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872年

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873年

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879年

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880年

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882年

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884年

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899年

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900年

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901年

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960年

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960年代

960年代(きゅうひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)960年から969年までの10年間を指す十年紀。.

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961年

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962年

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964年

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970年

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971年

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984年

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989年

丸谷才一『男のポケット』、「空白の年」の章では、「世界中で、ちつとも事件が起らなかつた年」として紹介されている。元文献は「紀元前5000年から現在までを収め」ているイギリスの年表とのことだが詳細は不明。.

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990年

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