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51系

索引 51系

51系.

12 関係: 吉野鉄道電機51形電気機関車小田原急行鉄道51形電車国鉄51系電車国鉄C51形蒸気機関車国鉄D51形蒸気機関車国鉄DD51形ディーゼル機関車国鉄ED17形電気機関車国鉄EF51形電気機関車近鉄モト51形電車近江鉄道モハ51形電車阪神51形電車阪急51形電車

吉野鉄道電機51形電気機関車

吉野鉄道電機51形電気機関車(よしのてつどうでんき51がたでんききかんしゃ)『鉄道史料』第7号 p.39は、吉野鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が保有した電気機関車の1形式である。吉野鉄道の大阪電気軌道による吸収合併、大阪電気軌道を中心とした私鉄統合によって関西急行鉄道を経て近畿日本鉄道へ承継され、関西急行鉄道時代以降はデ51形としてそのまま吉野線となったかつての吉野鉄道線を中心に運用された。.

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小田原急行鉄道51形電車

小田原急行鉄道51形電車(おだわらきゅうこうてつどう51がたでんしゃ)は、小田急電鉄の前身である小田原急行鉄道と東京急行電鉄(大東急)で使用されていた電車である。小田急の旅客車両の歴史上で唯一、木造車体を有する車両である。 本項では、以下単に「小田急」と表記した場合は小田原急行鉄道をさすものとする。また、本項では小田急に入線後から東急合併後、相模鉄道(相鉄)に譲渡されるまでについて記述する。.

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国鉄51系電車

モハ54005 オリジナルのノーシルノーヘッダー車。オリジナルの51系は扉間の窓が6個ある。51系電車(51けいでんしゃ)は、1936年から1943年にかけて鉄道省が製造した3扉セミクロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。当初新製されたのはモハ51形、モハ54形、モハユニ61形、クハ68形、クロハ69形の5形式であるが、後に40系や42系からの編入改造車を多く含むようになったため、同一形式の中で車体形状や窓配置などが異なるグループが多数存在するようになった。本項では、51系の登場から終焉まで、他形式からの改造による編入も含めて、時系列的に紹介する。.

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国鉄C51形蒸気機関車

C51 5(2006年5月14日、青梅鉄道公園) C51形蒸気機関車(C51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院(1920年、鉄道省に改組)が1919年に開発した、幹線旅客列車用の大型(のちには中型)テンダー式蒸気機関車である。 当初18900形と称したが、1928年6月にC51形と改称された。愛称はシゴイチ。.

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国鉄D51形蒸気機関車

D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。 主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。 この他に、台湾総督府鉄道向けに32両、胆振縦貫鉄道(1944年(昭和19年)に国有化)向けに5両(再掲)が製造され、戦後はソビエト連邦サハリン州鉄道向けに30両、台湾鉄路管理局向けに5両、朝鮮戦争における国連軍向けの標準軌仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及ぶ。 また、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両(200号機)が継承され、翌1988年(昭和63年)には東日本旅客鉄道(JR東日本)で1両(498号機)が復籍し、この2両が動態保存されている。JR東日本の498号機は復籍後初仕業で来日中のオリエント急行を牽引して復活、西日本の200号機は2017年に山口線のやまぐち号で、本線運転に復帰した。 「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。また、「デコイチ」という愛称もある。.

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国鉄DD51形ディーゼル機関車

DD51形ディーゼル機関車(DD51がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)によって1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)にかけて製造されたディーゼル機関車である。.

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国鉄ED17形電気機関車

ED17形は、日本国有鉄道(国鉄)並びにその前身となる鉄道省が、1930年(昭和5年)から1950年(昭和25年)にかけて、旅客用電気機関車等の改造により製作した直流用電気機関車である。 ED17 1 本項では、本形式の改造種車となったED13形、ED50形、ED51形及びED52形についても記述する。.

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国鉄EF51形電気機関車

EF51形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が輸入した大型の直流用電気機関車である。.

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近鉄モト51形電車

モト75形77・78大阪市交通局形密着連結器を装着する側の妻面を向かい合わせにして連結している。こちらの妻面に識別用として水色の帯が入れられていることに注意。 近鉄モト51形電車(きんてつモト51がたでんしゃ)は近畿日本鉄道が製造した事業用電車の1形式である。 改番や改造を経てモト75形として2両が現存する。.

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近江鉄道モハ51形電車

近江鉄道モハ51形電車(おうみてつどうモハ51がたでんしゃ)は、近江鉄道が1941年(昭和16年)「私鉄車両めぐり(83) 近江鉄道 下」 p.279に電動貨車の改造名義で新製した電車(制御電動車)である。1978年(昭和53年)に銚子電気鉄道へ譲渡され、同社デハ700形電車として運用された「近江鉄道電車沿革史」 p.147。 本項では、モハ51形の種車となった電動貨車デユワ101形電車について記述するとともに、銚子電気鉄道へ譲渡された後の動向についても詳述する。.

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阪神51形電車

阪神51形電車(はんしん51がたでんしゃ)は、かつて阪神電気鉄道が保有していた鉄道車両(後に路面電車車両)で、阪神本線開業時に製造された1形の増備車として登場した。後に当形式の一部の車両の電装品を換装したことから61形と呼ばれる車両も登場したが、本項では一括して紹介する。.

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阪急51形電車

阪急51形電車(はんきゅう51がたでんしゃ)は、阪急電鉄の前身である阪神急行電鉄時代の1920年から1923年にかけて38両が製造された、木造車体の電車である。 1920年の神戸線開通に際して設計された15m級3扉車体の本格的高速電車で、厳密には51・63・75・81・87(当初は300)の5形式に分かれるが、同一グループとして一体となって運用され続けた車両であることから、本項で一括して説明することとする。また、本形式のうち試験的に鋼体化改造を実施された51と78を、その後本形式の610系への改造に際して1形の台車及び電装品と換装して整理改番のうえ登場した98形についても、本形式と同一グループの車両であることから本項で併せて紹介する。 後の今津線。箕面有馬電気軌道が灘循環電気軌道の特許路線と連絡する十三~伊丹~門戸間の路線を建設することで、阪神間の新規路線開業と自社の鉄道ネットワーク形成を意図したことから始まる。この路線の特許申請は灘循環側の半年遅れとなる1913年2月に認められ、計画は順調に動き出したかに見えたが、第一次世界大戦前の不況に両社がメインバンクとしていた岩下清周率いる北浜銀行が1914年3月に破綻、灘循環側は全株式を同銀行に担保として預けていたことから資金繰りがつかなくなり、事業の続行が不可能な形勢に追い込まれてしまった。 この情勢を見た阪神電気鉄道が灘循環電気軌道の特許を譲受すべく乗り出したところ、計画が宙に浮いた格好となった箕面有馬側が「1 灘循環電気軌道を阪神が買収した場合は十三~門戸間の建設費を阪神側で実費弁償する」「2 灘循環電気軌道の特許区間を阪神と箕面有馬の両社で共同経営する」「3 灘循環電気軌道を箕面有馬が買収する」の3案を提示した。阪神側は箕面有馬側の提案を検討して新興の箕面有馬に新線建設の余力なしと判断したことから第3案で同意、1916年6月の株主総会で灘循環電気軌道の合併を議決し、難航していた資金繰りも、箕面有馬の大株主の一人が300万円を低利融資することで解決したことからいよいよ建設に取りかかろうとした矢先に、事態の急転に慌てた阪神電気鉄道が株主総会の無効確認訴訟を起こして建設阻止を企てるという事態が発生した。訴訟は大審院 まで持ち込まれたものの、いずれも箕面有馬側が勝訴してこの問題も決着、1917年2月に灘循環電気軌道所有の路線特許譲受も認可されて、新線建設問題もようやく前進することとなった。 翌1918年には社名も従来の観光地への遊覧路線の色彩の強い箕面有馬電気軌道から、都市間連絡のインターアーバンへの脱皮を図るべく阪神急行電鉄に変更、路線建設も当初の伊丹経由を塚口経由に修正するなどの手直しはあったものの順調に進み、1920年7月16日に十三~神戸(上筒井)間が開業、梅田~十三間は既存の宝塚線に乗り入れる形となったが、ここに阪神間連絡の新ルートとして神戸線が開業した。車両もインターアーバンにふさわしい高速電車タイプの車両を投入することとなり、本形式が製造されることとなった。-->.

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