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高適

索引 高適

適(こう せき、生年不詳 ‐ 765年)は、中国唐代の詩人。字は達夫。諡は忠。.

24 関係: 吐蕃中国文学代宗 (唐)侍御史ベン州刺史哥舒翰玄宗 (唐)粛宗 (唐)詩人一覧藩鎮長安李リン李白李林甫杜甫河南省河北省滄州漢詩765年

吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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中国文学

中国文学(ちゅうごくぶんがく)とは、中国語で書かれた文学のこと。それらの作品や作家を研究する学問のこと。.

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代宗 (唐)

代宗(だいそう)は、唐朝の第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫(り よ)。.

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侍御史

侍御史(じぎょし)は、秦から前漢以降の官職名。主に監察、弾劾の官である。 前漢においては、御史大夫の二人の丞(副官)のうちの一人である御史中丞に統率され、定員15人であった。公卿の上奏を受領し、内容を調べて弾劾した。天子のもとに侍して、皇宮・宮城内・畿内を監督した。侍御史には繍衣直指という、武帝により置かれた大事件や討伐の際にのみ任命され、地方に派遣されて獄を治める職もあった。 後漢では秩六百石で、治書侍御史2人と侍御史15人が御史台に居て御史中丞に率いられた。治書侍御史は法律に明るい者が任命され、天下より上がってくる判断に苦しむ事例を法律に照らして是非を決めた。侍御史は不法を弾劾し、公卿の上奏を受領し、内容を調べて違反があれば弾劾した。宮殿内の儀礼を監督する者は、殿中侍御史と称せられた。群臣が集まる祭祀や朝会の際には、2人が群臣の儀礼を監視し、違反があれば弾劾した。『宋書』百官志によると漢においては職掌により五曹に分かれていた。 魏、晋以降も存続し、曹はしばしば増減、改廃された。定員は魏においては8人、晋では9人、宋では10人だった。また魏は殿中において違法を摘発する殿中侍御史2人を置いた。『宋書』によると六品官であった。 それ以降の王朝でも官僚の監察、弾劾を職務とする官として存続し、唐代宋代には台院と呼ばれ、殿中侍御史(殿院)、監察御史(察院)とともに、三台と称せられた。元代になると、中央だけでなく、行台にも侍御史が設置された。明代には、三台のうち察院のみが存続し、侍御史は廃止された。.

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ベン州

ベン州.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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哥舒翰

哥舒 翰(かじょ かん、 生年不詳 - 至徳2載(757年))は、テュルク系突騎施(テュルギシュ、西突厥の主流となっていた部族)出身の唐の将軍。吐蕃との戦いで活躍したが、安史の乱で敗北し、捕らえられ殺害された。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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玄宗 (唐)

宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.

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粛宗 (唐)

粛宗(しゅくそう)は、唐朝の第10代皇帝。当初の諱は嗣昇(ししょう)であったが、後に浚(しゅん)、璵(よ)と次々と改名を繰り返し、即位時は亨(きょう)であった。生母の楊氏は楊貴妃とは別人である。.

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詩人一覧

詩人一覧(しじんいちらん)は、主な詩人の一覧である。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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藩鎮

藩鎮(はんちん)とは、中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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李リン

李璘(り りん、? - 757年)は、唐の皇族。 第9代皇帝である玄宗の16子で第10代皇帝粛宗の異母弟。母は郭順義。生母は幼時に死去したため、異母兄の粛宗に養育された。容貌が醜く斜視だったが、聡明で学問好きで、開元13年(741年)、永王に封じられる。宮中で育ったため、人事に疎かった。 安史の乱が起こると、天宝15載(757年)、玄宗に命じられ、江南・山南・嶺南などの4道節度使兼江陵大都督に任命され、江陵に赴任する。 江陵には、江南からの租賦が充満しており、数万の募兵を集め、永王は独占し、半独立した政権を築く。さらに、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗、蔡駉の進言に従い、江南に自立し、唐王朝から次第に離脱を図るようになった。霊武にいた兄の粛宗は、すでに即位しており、この報告を聞き、永王に勅使を派遣して父の玄宗に謁見することを命じたが、永王は勅命を聞かなかった。永王の子である襄城王偒が勇敢で力があったため、軍を握った。襄城王偒は反乱を考え、金陵を奪うように勧めたと伝えられる。永王は5,000人の兵を率い、季広琛、渾惟明、高仙琦を将に任じた。 永王の長史であった李峴は、病気を理由として辞職し、粛宗のもとに赴いた。粛宗は、高適を、彼とともに永王の件を謀らせる。高適は情勢を分析し、永王が必ず敗北すると語った。粛宗は、高適を淮南節度使、来瑱を淮南西道節度使に任命し、江東節度使である韋陟ともに対処を命じる。 独断で兵を率いて、長江に沿って東に赴いた永王を呉郡太守兼江南東路采訪使である李希言が書面でとがめると、永王は渾惟明を派遣して、李希言のいる呉郡を攻撃させる。また、武将の季広琛に命じて、広陵を攻撃した。渾惟明は、李希言に命じられ丹陽を守った元景曜と閻敬之を破る。閻敬之は戦死し、元景曜は降伏した。季広琛も広陵長史・淮南采訪使の李成式に命じられて防戦を行った李承慶を降伏させる。高適、来瑱、韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。 757年、粛宗は宦官の啖廷瑤を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。そのため、季広琛、渾惟明、馮季康、康謙は逃亡してしまい、永王は、制止することはできなかった。李成式の軍は篝火も盛大に並べたため、永王の軍は篝火を焚く。永王はこれを見て、唐軍が河を渡ったと思い、家族や配下とともに逃亡する。夜明けとともに、唐軍が河を渡っていないことが判明したため、軍を率い、船に乗って晋陵へと逃亡する。 唐軍の間諜が永王の逃亡を報告し、李成式の将、趙侃が河を渡ったため、永王は息子の襄城王偒と武将の高仙琦に命じて攻撃させる。趙侃は迎え撃ち、李銑が援軍に来て、襄城王偒は矢を受け、軍は壊滅する。永王は高仙琦ら残兵とともに、南方に逃れる。大庾嶺にて、江西采訪使・皇甫侁が遣わした兵に敗れ、襄城王偒は戦死し、永王は戦いの最中に矢に当たったために捕らえられた。このとき兄の粛宗は永王を避難先の蜀に送るように命じたが、皇甫侁自身の判断で永王はそのまま斬られた。薛鏐らも皆、殺された。 同時に永王の幕僚だった李白も連坐されたが、後に解放された。 皇甫先は永王の家族を蜀に帰したが、独断で永王を殺したために、粛宗に罷免された。.

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李白

李 白(り はく、、、701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。.

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李林甫

李 林甫(り りんぽ、? - 天宝11載(752年))は、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠との権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。 李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の5世孫にあたり、李淵のいとこにあたる長平王・李叔良の孫。絵画の名手として知られた李思訓の弟・李思誨の子にあたる。兄は李林宗、子に李岫、李崿、李嶼、李崒がいる。.

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杜甫

成都杜甫草堂 杜甫 杜甫の像 杜 甫(と ほ、、712年(先天元年) - 770年(大暦5年))は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。また晩唐期の詩人・杜牧の「小杜」に対し「老杜」と呼ばれることもある。.

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河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

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河北省

河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.

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滄州

滄州(そうしゅう)は中国にかつて存在した州。北魏から隋初にかけて同名の滄州が設置されているが、別の行政区画である。.

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

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765年

記載なし。

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