182 関係: 古テュルク語、吐火仙、大夏、大暦、大業、太宗 (唐)、娑葛、室点蜜、安西大都護府、射匱可汗、山川出版社、山田信夫 (歴史家)、崩御、丁零、中央ユーラシア、中央アジア、且末、万里の長城、平凡社、乙屈利失乙毘可汗、乙毘射匱可汗、乙毘咄陸可汗、乙毘沙鉢羅葉護可汗、庭州、康居、亀茲、他鉢可汗、伊吾、伊利可汗、佐口透、チュルク語族、チュイ川、バルハシ湖、バイン・ツォクト碑文、バクトリア、パミール高原、ピン音、テュルク系民族、僕射、ホータン王国、咄陸可汗、アラル海、アルタイ山脈、イリ川、ウイグル、エフタル、オグズ、カルルク、カガン、カザフスタン、...、カスピ海、クチャ県、クムル市、ケイ賓、シャフリサブス、シルダリヤ川、スイアブ、ソグド人、タリム盆地、タシュケント、サマルカンド、サーサーン朝、唐、元帥、回鶻、玉門関、突厥、突厥文字、竇栄定、羈縻政策、烏孫、烏質勒、統葉護可汗、疏勒、焉耆、焉耆回族自治県、煬帝、隋、隋の高句麗遠征、莫賀咄侯屈利俟毘可汗、莫賀達干 (突騎施)、遊牧国家、達頭可汗、顕慶、裴矩、西域、西番、言語、高宗 (唐)、高ケイ、高車、高昌、護雅夫、豆盧勣、貞観 (唐)、黄門侍郎、阿史那弥射、阿史那キン、阿史那元慶、阿史那献、阿史那菴羅、阿史那賀魯、阿史那歩真、阿史那氏、阿史那斛瑟羅、阿史那懐道、阿波可汗、蘇定方、蘇禄、薛延陀、葉護可汗、肆葉護可汗、長安、長寿 (武周)、鉄勒、虞慶則、柱国、柔然、東突厥、楊堅、楊弘 (河間王)、楼蘭、永徽、沙鉢羅咥利失可汗、沙鉢略可汗、泥利可汗、木汗可汗、昭武九姓、新唐書、旧唐書、早稲田大学、曷薩那可汗、1967年、1972年、1988年、552年、553年、562年、567年、572年、576年、581年、582年、587年、603年、610年、611年、612年、619年、628年、630年、632年、634年、638年、639年、640年、641年、642年、649年、651年、653年、657年、662年、685年、686年、692年、693年、694年、706年、708年、709年、716年、738年、739年、740年、741年、742年、744年、749年、753年、766年、779年。 インデックスを展開 (132 もっと) »
古テュルク語
古テュルク語とは、東古テュルク語、オルホン・テュルク語とも言い、7世紀~13世紀にかけて東突厥、ウイグル可汗国による碑文が発見されており、記録が残るものの中ではテュルク諸語で最古の例である。 古テュルク語は、突厥文字、ウイグル文字、マニ文字、ブラーフミー文字『』 P.457 「表1 イスラーム化以前の中央アジアにおける言語と文字」の列「古代トルコ語」などの文字で書かれた記録が残っている。.
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吐火仙
吐火仙(とかせん、拼音:Tŭ/Tù huŏ xiān、生没年不詳)は、(テュルギシュ)の可汗。蘇禄の子。名は骨啜(クチュル)。.
大夏
大夏(たいか、拼音:Dàxià)は、中国の歴史書にあらわれる中央アジアの国。また、1038年にタングートの李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した西夏の正式国号も大夏であるが、一般的にはこちらは西夏で通用している。 紀元前1世紀の西域諸国.
大暦
大暦(だいれき)は中国・唐の代宗の治世最後に使用された元号。.
大業
大業(たいぎょう)は、隋の煬帝楊広の治世に行われた年号。605年 - 618年。.
太宗 (唐)
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.
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娑葛
娑葛(漢音:はかつ、拼音:Suōgĕ、? - 709年)は、(テュルギシュ Türügeš)部の首領。烏質勒の子。.
室点蜜
室点蜜(呉音:しちてんみつ、漢音:しつてんびつ、拼音:Shìdiǎnmì、? - 576年頃)は、突厥の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。吐務の子で、伊利可汗の弟、達頭可汗の父。また室點蜜、室點密可汗とも表記される。姓は阿史那氏、別名は瑟帝米(しつていべい)という。ビザンツ史料のディザブロス(Dizaboulos)、ディルジブロス(Dilziboulos)、シルジブロス(Silziboulos)、アラブ史料のシンジブー(Sinjibū)、突厥碑文のイステミ・カガン(- Istemi Qaγan)に当たる人物とされている。.
安西大都護府
安西大都護府(あんざいだいとごふ、拼音:Ānxīdàdōuhùfŭ)は、中国の唐代に西州(現在のトルファン市)および亀茲(現在のクチャ県)に置かれた行政区画。管轄範囲はタリム盆地を中心に東西トルキスタンにおよぶ。北には北庭大都護府がある。.
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射匱可汗
射匱可汗(漢音:しゃきかがん、拼音:Shèkuìkĕhàn、? - 619年頃)は、西突厥の可汗。都六(トゥルク)の子で、達頭可汗の孫、曷薩那可汗の諸父(『旧唐書』では曷薩那可汗の叔父)。姓は阿史那氏。.
山川出版社
山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.
山田信夫 (歴史家)
山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 1987年4月26日)は、日本の東洋史学者。.
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崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.
丁零
丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.
中央ユーラシア
中央ユーラシア(ちゅうおうユーラシア)とは、ユーラシア大陸の中央部分に広がるウラル・アルタイ系の諸言語を用いる諸民族が居住する地域を広く指す文化的な地域概念である。1960年代にハンガリー出身の学者が用い始めて以来、ウラル・アルタイ系の民族の歴史や文化を研究対象とするアルタイ学にとって便利な地域概念として、次第に広く用いられるようになった。 これらの地域の特徴は歴史上、ツングース、モンゴル、テュルク、フィン・ウゴルなどのウラル・アルタイ系の諸言語を話す人々が歴史的に重要な役割を果たしてきたことである。古くは遊牧民、新しくは定住民としてウラル・アルタイ系の人々に様々な文化的影響を与えたイラン系の人々もこの地域の重要な構成員である。また、彼らはロシア人や漢民族などの周辺の大民族と密接に関わってきた。.
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中央アジア
東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.
且末
且末 (しょまつ).
万里の長城
万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.
平凡社
株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.
乙屈利失乙毘可汗
乙屈利失乙毘可汗(呉音:おちくちりしちおちびかがん、漢音:いつくつりしついつひかかん、拼音:Yǐqūlìshīyǐpíkĕhàn、? - 640年)は、西突厥の可汗。沙鉢羅咥利失可汗の子。乙屈利失乙毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗(ばくかとついつひかかん、バガテュル・イビル・カガン)と表記。.
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乙毘射匱可汗
乙毘射匱可汗(漢音:いつひしゃきかかん、拼音:Yǐpíshèkuìkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。莫賀咄乙毘可汗の子。乙毘射匱可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。.
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乙毘咄陸可汗
乙毘咄陸可汗(呉音:おちびとちろくかがん、漢音:いつひとつりくかかん、拼音:Yǐpíduōlùkĕhàn、? - 653年)は、西突厥の対立可汗。乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。欲谷設(よくこくせつ:ユククシャド)というのは官名である。.
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乙毘沙鉢羅葉護可汗
乙毘沙鉢羅葉護可汗(呉音:おちびしゃはちらようごかがん、漢音:いつひさはつらようこかかん、拼音:Yǐpíshābōluóyèhùkĕhàn、? - 641年)は、西突厥の可汗。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子。乙毘沙鉢羅葉護可汗(イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。薄布特勤(『新唐書』では畢賀咄葉護)というのは官名である。.
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庭州
庭州(ていしゅう)は、中国にかつて存在した州。.
康居
紀元前1世紀の西域諸国。 康居(呉音:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。.
亀茲
亀茲(きじ、きゅうし、拼音:Qiūzī)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近にあたり、タリム盆地の北側(天山南路)に位置した。丘茲、屈茲とも書かれ、玄奘の『大唐西域記』では屈支国(くつしこく)と記されている。 紀元前1世紀の西域諸国。.
他鉢可汗
他鉢可汗(漢音:たはつかがん、拼音:Tābōkĕhàn、? - 581年)は、突厥の可汗。木汗可汗の弟。他鉢可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。『隋書』では佗鉢可汗と表記。原音はウルクパル・チュラチュ・マガ・タトパル・カガン。.
伊吾
伊吾(いご、拼音:Yīwú)は、中国の漢代から唐代にかけて存在した歴史的地名。現在の中華人民共和国・新疆ウイグル自治区・クムル市にあたる。現在も伊吾県、伊吾鎮などでその名が残る。漢代は伊吾盧(いごろ)と呼ばれた。.
伊利可汗
伊利可汗(古テュルク語: - Bumïn qaγan、漢音:いりかがん、拼音:Yīlìkĕhàn、? - 552年)は、突厥の土門(トメン、ブミン:万人長)で、初代可汗。大葉護吐務の子。伊利可汗(イリグカガン:Ilig-qaγan)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明(ここでは便宜上、土門とする)。『新唐書』では吐門と表記。.
佐口透
佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.
チュルク語族
チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.
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チュイ川
チュイ川(チュ川、チュー川、Чу, Чүй, Шу, Chu/Chui)は、キルギス北部およびカザフスタン南部を流れる河川。長さはおよそ1067kmである。 チュイ川は天山山脈西部のキルギス山脈北部に発し、イシククル湖の数km近くまで近づいた後北西に流れを変える。狭いボーム峡谷を抜けると、チュイ川は比較的平坦なチュイバレーに入る。ここにはキルギスの首都ビシュケクとカザフスタンの都市シュがある。チュ川の水の大半は、キルギスとカザフスタンの両方でチュバレーでの農業用の水路網へと送られている。 チュバレー内のチュ川は百キロメートル以上にわたりキルギスとカザフスタンとの国境になっている。カザフスタン領内へ入ると、チュ川はステップ内で消滅する。 キルギスタン政府はチュ川およびその支流に多くの水質監視所を設置している。.
バルハシ湖
バルハシ湖の衛星写真 バルハシ湖(Balqash Köli、Озеро Балхаш)は、カザフスタン東部にある湖。中央アジア最大の湖である。 面積は16,996km2で、かつてはアラル海のほうが広かったが、アラル海の縮小・分裂により、バルハシ湖が中央アジア最大となった。アジアではバイカル湖に次ぎ2位、世界では14位。近年では流入量の減少、水質汚染が危惧されている。 長さ605km、最大幅74km。標高342m、貯水量122km3、平均水深5.8m、最大水深25.6m。湖の西半分は淡水だが、東半分は塩湖。 流れ込む川はイリ川などがある。流れ出す川はなく、内陸湖である。11月~4月中旬の間は氷結する。 周辺にはバルハシ、サルイシャガン、レプスイなどの町がある。 Category:内陸湖 Category:塩湖 Category:カザフスタンの湖 Category:カザフスタンのラムサール条約登録地.
バイン・ツォクト碑文
バイン・ツォクト碑文(バイン・ツォクトひぶん)は、モンゴル国のバイン・ツォクト遺跡にある東突厥(第二可汗国)時代の碑文で、(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 - Tonyuquq:暾欲谷、阿史徳元珍)が自らを称えて建てたもの。そのため、トニュクク碑文とも呼ばれる。.
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バクトリア
バクトリアの範囲 バクトリア(Bactria)は、バクトリアーナ(バクトリアナ)、トハーリスターン(トハリスタン)とも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。 現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。.
パミール高原
パミール高原の範囲。 イスモイル・ソモニ峰 パミール高原(パミールこうげん、英語:Pamir Mountains)は西アジア最東端のヒンドゥークシュ山脈の付近にある高原である。パミル高原とも表記する。「パミール」は、ペルシャ語で「世界の屋根」を意味するといわれる。中国では "葱嶺"(そうれい)とも呼ばれていた。 タジキスタン、アフガニスタン及び中国にまたがり、平均標高5000mで中央部は高原状。最高峰はタジキスタンにあるイスモイル・ソモニ峰(7495m)。ゴルノ・バダフシャン自治州にはイラン系アーリア人のパミール人が暮らす。 タクラマカン砂漠を通るシルクロードは、この高原を越えて東西を結んでいた。.
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ピン音
(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.
テュルク系民族
世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.
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僕射
僕射(ぼくや)は、中国の官名。戦国時代には各政府機関のほとんどが設置した次官であった。漢以後、僕射という名称は尚書令の次官である尚書僕射にしか使われなくなる。 隋・唐・五代・宋・金・遼では、皇帝が尚書令に就任したため、尚書僕射が尚書省の実質的長官になる。そしてこの時代、尚書僕射は宰相とほぼ同意に使われた。 日本でも左大臣右大臣の唐名として用いられた。大坂冬の陣直前の方広寺鐘銘事件では幕府側の林羅山が「『右僕射源朝臣』は『源朝臣(徳川家康)を射る』という意味だ」と因縁を付けている。 Category:中国の官名.
ホータン王国
紀元前1世紀の西域諸国。 ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ、Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)。コータン王国とも書かれる。.
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咄陸可汗
咄陸可汗(漢音:とつりくかがん、拼音:Duōlùkĕhàn、? - 634年)は、西突厥の可汗。莫賀設の子。咄陸可汗(テュルク・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は泥孰(でいしゅく)という。大渡可汗(たいとかがん、タルドゥシュ・カガン)とも称した。.
アラル海
アラル海(アラルかい、Арал Теңізі、Orol dengizi、Аральское море、Aral Sea、鹹海)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。.
アルタイ山脈
アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも。.
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イリ川
イリ川(Ile, Ili,ئىلى دەرياسى, Іле, İle, Или, Ил,シベ語: 転写:Ili bira)は、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区の北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン南西部のアルマトイ州にかけて流れる川である。長さ1,439kmのうち815kmがカザフスタン部分を流れる。 天山山脈に源を発し、西に流れバルハシ湖に注ぐ。河口には巨大な三角州がある。中流にはカプシャガイ水力発電所がある。 流域のイリ地方では烏孫、チャガタイ・ハン国、ジュンガルといった遊牧国家が興亡した。 現在、イリ河の上流部(東部)は中国領(新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州)、下流部(西部)はカザフスタン領(アルマトイ州)となっている。 Category:中国の河川 Category:カザフスタンの河川 Category:アジアの河川 Category:アジアの複数の国を流れる河川 Category:カザフスタンのラムサール条約登録地.
ウイグル
ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.
エフタル
フタル(英語:Hephthalite、パシュトー語:هپتالیان)は、5世紀~6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。名称は史料によって異なり、インドではフーナ,シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン),ヘテル(Hetel),ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス(Ephtalites)、アラブではハイタール(Haital)、アルメニアではヘプタル(Hephtal),イダル(Idal),テダル(Thedal)と呼ばれ、中国史書では(ようたつ、Yàndā),囐噠(ようたつ、Yàndā),(ゆうたつ、Yìdá),(ゆうてん、Yìtián)などと表記される。また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。.
オグズ
ペチェネグ汗国とその周辺国。中央右下がオグズ葉護国(OĞUZ YABGULUĞU) オグズ(Oghuz)は、かつて中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族。10世紀以降になると南下してトゥルクマーン(「テュルクに似たもの」の意)という名で呼ばれるようになり、その一部はセルジューク朝などのイスラーム王朝を建てた。.
カルルク
ルルク(古代テュルク語:12px12px12px12px、Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄,葛邏禄,葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラブ語では قارلوق (Qarluq)と記された。.
カガン
ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.
カザフスタン
フスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。.
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カスピ海
ピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である カスピ海(カスピかい、、)は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」دریای خزرと呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」دریای مازندرانとも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名でHazar Deniziと呼ばれる。中国語では現在に至るまで「裏海」(りかい)と呼ばれる。.
クチャ県
3世紀のタリム盆地。盆地北部の茶色部分(Kuqa)が亀茲 クチャ県(-けん、庫車県)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区に位置する県。シルクロード(天山南路)のルート上にあって、古代オアシス都市国家亀茲国の栄えた地であり、歌舞の郷と称される。 石油や天然ガスが豊富な、西部大開発の重要な基地である。.
クムル市
ムル市(クムルし)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区に位置する地級市。哈密市(ハミし)ともいう。.
ケイ賓
紀元前1世紀の西域諸国。 罽賓(けいひん、拼音:Jìbīn)は、かつて北インドのカシミール地方もしくはガンダーラ地方に在ったとされる国。.
シャフリサブス
ャフリサブス(ウズベク語:Shahrisabz/Шахрисабз)は、ウズベキスタンの都市。シャフリサーブス、シャフリサーブズとも表記する。カシュカダリヤ州に属する。サマルカンドの南約80kmに位置する人口約53,000人の町である。高度はおよそ622mある。かつては、中央アジアにおける主要都市だった歴史を誇り、今日では、14世紀にトルキスタンを席巻したティムールが誕生した場所として知られる。町の名前は、(緑の町の意)に由来する。語源については諸説存在するが、街を中心に広がるオアシスが緑にあふれていた様子に由来する説が有力である。 2000年に、15世紀のティムール朝時代に建築された建物の現存する地区がユネスコの世界遺産に登録された。.
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シルダリヤ川
アラル海とアムダリヤ川(下)、シルダリヤ川(上) シルダリヤ川(シルダリヤがわ、Syr Darya/Sīr-Daryā سیردریا)は、天山山脈の2箇所(キルギスと東部ウズベキスタン)に源を発し、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンを通過して北西へ向かって流れ、北アラル海に注ぐ川である。延長は2,212 km。河口の標高は42m。.
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スイアブ
イアブ(Suyab)は、かつて中央アジアに存在した都市。イシク・クル湖の北西、チュー川の沿岸に位置し、キルギス共和国のトクマク付近に存在していたと考えられている『シルクロード事典』、157-158頁長澤「スイアブ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。都市の名前はスーイ川(チュー川)を意味する言葉の「Sūy-āb」に由来すると考えられている松田「スイアブ」『アジア歴史事典』5巻、100頁。唐代の漢語資料では「睢合」「碎葉」「素葉」と音写される。.
ソグド人
ド人(そぐどじん、sogd)は、中央アジアのゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシス灌漑農耕民族。また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行った。近年の研究では、シルクロードを経済的に支配していたといわれている。 居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、マケドニアのアレクサンドロス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のソグド語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド文字を利用し、宗教的にはゾロアスター教、のちに一部がマニ教を信奉して、東方のイラン系精神文化を中国にもたらした。その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナ地方はのちに、ウズベク人南下によるテュルク化が進んでいった。 紀元前2世紀頃のソグド人(ソグディアノイ)の位置。.
タリム盆地
タリム盆地(英語:Tarim Basin,ウイグル語:تارىم ئويمانلىقى,中国語:塔里木盆地)は、中央アジアにある内陸盆地である。東西1,400km、南北550kmにわたって広がり、総面積は560,000km2。現在は中国・新疆ウイグル自治区となっている。.
タシュケント
タシュケント(Toshkent, Тошкент 、Ташкент, Tashkent, )は、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。 都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記では (Tāshkand) であり、タシケントと表記されることも多い。.
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サマルカンド
マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.
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サーサーン朝
ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.
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唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
元帥
元帥(げんすい、(陸軍、空軍)、Admiral of the fleet他(海軍))は、軍隊における階級、又は称号。元帥号とも。階級を示す場合には大将よりも更に上位で軍隊における最上級の階級であり、称号を示す場合には大将または上級大将の階級を持つ者の中から選ばれることが一般的である。広義の元帥には「大元帥・元帥・将帥・次帥・副元帥・代帥」などが区分されることもある。陸海空軍で呼称の異なる元帥を総称しFive-star rankと呼ぶこともある。.
回鶻
回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.
玉門関
玉門関(ぎょくもんかん)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。 元来は漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設された。同じく南西に設置された陽関とともに、西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。宋代になって西域交通が衰え、衰退した。 玉門関は、中国で古代より文化人が辺境の地での戦いや孤独な生活を思い詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須(もち)いん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。 1988年に全国重点文物保護単位に指定され、2014年にはシルクロード:長安-天山回廊の交易路網の構成資産としてUNESCOの世界遺産リスト登録物件に含まれた。.
突厥
突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.
突厥文字
突厥文字(とっけつもじ)は突厥によって古テュルク語の表記に5世紀から用いられたアルファベットであり、代表的なものとしてオルホン碑文に書かれたものがあるため、オルホン文字とも呼ばれる。.
竇栄定
竇栄定(とうえいてい、530年 - 586年)は、中国の隋の軍人。本貫は扶風郡平陵県。.
羈縻政策
羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。.
烏孫
紀元前1世紀の西域諸国。 烏孫(うそん、)は、紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。.
烏質勒
烏質勒(うしつろく、拼音:Wūzhìlè、? - 706年)は、(テュルギシュ Türügeš)部の首領。.
統葉護可汗
統葉護可汗(漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhùkĕhàn、? - 628年)は、西突厥の可汗。射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。.
疏勒
紀元前1世紀の西域諸国。 疏勒(呉音:しょろく、漢音:そろく、拼音:Shūlè)は、かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区カシュガル(喀什)市にあたり、タリム盆地の西端に位置する。漢代から唐代にかけてシルクロード交易の要所として栄えた。玄奘の『大唐西域記』では佉沙国と記されている。.
焉耆
焉耆(呉音:えんぎ、漢音:えんき、拼音:Yānqí)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 バインゴリン・モンゴル自治州 焉耆回族自治県にあたる。玄奘の『大唐西域記』では阿耆尼国(あぎにこく)と記されている。別名イエンチー。 紀元前1世紀の西域諸国と焉耆国の位置(地図右上)。.
焉耆回族自治県
焉耆回族自治県(えんき-かいぞく-じちけん、イェンチー・フェイぞく-じちけん、モンゴル語:)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州に位置する回(フェイ)族の自治県。.
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煬帝
帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.
隋の高句麗遠征
隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた、隋による高句麗への遠征である。.
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莫賀咄侯屈利俟毘可汗
莫賀咄侯屈利俟毘可汗(漢音:ばくかとつこうくつりしひかかん、拼音:Mòhèduōhóuqūlìsìpíkĕhàn、? - 630年)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父(諸父)。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄というのは称号(バガトゥル:Baγatur)と思われる。.
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莫賀達干 (突騎施)
莫賀達干(漢音:ばくかたつかん、拼音:Mòhèdágàn、? - 744年)は、(テュルギシュ Türügeš)部の首領。莫賀達干(バガ・タルカン Baγa Tarqan)というのは官名であり、本名は不明。.
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遊牧国家
遊牧国家(ゆうぼくこっか)とは、遊牧民が支配階層を形成して組織された国家のこと。面的に広がる集約農耕の展開が困難ではあるが、遊牧による牧畜に適した乾燥地帯が広がる中央アジア、イラン高原などに多く存在した。 有史以来、遊牧国家を築いたのは、紀元前9世紀、中央ユーラシアのキンメリアとスキタイである。ただし彼らはその地に安住することはなかったので、国家と呼べるかは謎である。一方イラン高原では、ペルシア系の民族が団結して遊牧国家を築いていく。紀元前6世紀にアケメネス朝が成立し、遊牧国家の基礎が造られた。しかし本格的な遊牧国家としては、8世紀の回鶻可汗国の誕生を待たなくてはならない。回鶻可汗国は遊牧国家としてはじめて都城を建設し、国家体制を整えた。そして、その後に現われたモンゴル帝国の成立によって遊牧国家は完成された。 モンゴル帝国が北ユーラシアを征服し空前の大国家を築いたことは、分裂していた東洋と西洋を結びつけ、世界史と言う言葉が誕生した要因となった。その体制は、パクス・モンゴリカといわれるモンゴル人による覇権と平和の時代を生み出した。しかし広大な国家は、領土が分割相続されたことや、政権を構成する諸部族が分裂抗争するなどにより、緩やかな連合政権の形状を保ちつつも次第に統一政権の形を弱めていき、わずか1世紀あまりで後継諸政権に分裂した。.
達頭可汗
達頭可汗(漢音:たつとうかがん、拼音:Dátóukĕhàn、生没年不詳)は、突厥の西面可汗。室點蜜(イステミ)の子。達頭可汗というのは封号で、姓は阿史那氏、名は玷厥(てんけつ)という。.
顕慶
顕慶(けんけい)は、唐の高宗李治の治世に使用された元号。656年 - 661年。.
裴矩
裴矩(はい く、557年 - 627年)は、中国・隋代より初唐代にかけて活躍した功臣。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の出身。字は弘大、敬と諡される。父の裴訥之は、北斉朝に仕えた。.
西域
西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).
西番
西番、番は、明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の中国人が、隣接するカム地方のチベット人を指して用いた蔑称。 Category:チベットの歴史.
言語
この記事では言語(げんご)、特に自然言語について述べる。.
高宗 (唐)
宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.
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高ケイ
(こう けい、? - 607年)は、中国の隋の政治家。字は昭玄。一名に敏。本貫は渤海郡蓨県。隋の文帝に腹心として仕え、隋の建国と中国の再統一に多大な功績を上げた。統一後も重臣として文帝を補佐し、真の宰相であると評されたが、皇太子楊勇の廃立に反対して失脚。後に煬帝の政治を批判し誅殺された。.
高車
車(こうしゃ、拼音:)は、4世紀から6世紀の中国の五胡十六国時代・南北朝時代にモンゴル高原の北に存在したテュルク系遊牧民の中国での呼び名。または、阿伏至羅(あふくしら、)が自立して建てた阿伏至羅国(阿伏至羅)を指す。.
高昌
昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。.
護雅夫
護 雅夫(もり まさお、1921年3月30日 - 1996年12月23日)は、日本の東洋学者、歴史学者。専攻は古代東洋史(中央アジア・突厥民族研究)。.
豆盧勣
豆盧 勣(とうろ せき、536年 - 590年)は、中国の北周から隋にかけての政治家・軍人。字は定東。本貫は昌黎郡徒河県。.
貞観 (唐)
貞観(じょうがん)は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号。627年 - 649年)。太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功した。貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励されたかたわら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見た。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しい。.
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黄門侍郎
侍郎(こうもんじろう)は、中国の官職における職名の一つ。時代によっては、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)とも呼ばれた。略して黄門(こうもん)ということもある。後代には、門下侍郎(もんかじろう)となった。.
阿史那弥射
阿史那 弥射(呉音:あしな みじゃ、漢音:あしだ びしゃ、拼音:Āshǐnà Míshè、? - 662年)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。室點密可汗の五代の孫。.
阿史那キン
阿史那 昕(あしな きん、ピンイン:Āshǐnà Xīn、? - 742年)は、西突厥最後の可汗。阿史那懐道の子。十姓可汗, 開府儀同三司, 濛池都護となる。.
阿史那元慶
阿史那元慶(あしな げんけい、ピンイン:Āshǐnà Yuánqìng、? - 692年)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。阿史那弥射の子。.
阿史那献
阿史那 献(あしな けん、ピンイン:Āshǐnà Xiàn)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。阿史那元慶の子。.
阿史那菴羅
阿史那 菴羅(あしな あんら、拼音:āshǐnà ànluó、生没年不詳)は、突厥の可汗。他鉢可汗の子。ソグド語による原音はマガ・ウムナ・カガン。.
阿史那賀魯
阿史那 賀魯(呉音:あしな がろ、漢音:あしだ かろ、拼音:Āshǐnà Hèlŭ、? - 659年)は、西突厥の可汗。室點蜜可汗の五世の孫で、曳歩利設射匱特勤(阿史那劫越)の子。可汗号は沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)。.
阿史那歩真
阿史那 歩真(呉音:あしな ぶしん、漢音:あしだ ほしん、拼音:Āshǐnà Bùzhēn、生没年不詳)は、唐の軍人で、西突厥の可汗。阿史那弥射の族兄。.
阿史那氏
阿史那氏(あしなし)は、突厥の君主(可汗)を出した中核氏族。 阿史那氏は突厥の一氏族であり、モンゴル高原西部、アルタイ山脈のあたりに勢力を有した遊牧民であった。6世紀頃突厥の内部で台頭し、土門の称号を称したという。阿史那氏初代伊利可汗は、北周など中国王朝との通商関係を通じてその勢力基盤を築くとともに柔然に従い、ジュンガリアのテュルク族を討ち、これを併合した。伊利可汗は柔然に通婚を求めたが、格下と見下す柔然の拒否を受けて、後に柔然に敵対し、これを討った。その結果、阿史那氏は興安嶺からカスピ海、さらにはカフカースに至る広域な版図を築き、匈奴を凌ぐほどの大規模な遊牧国家を建国した。但し、その権力構造は必ずしも堅固ではなく、各地に君主を置いて分権的支配構造を確立したという。 突厥は大可汗を中心に4人の可汗により分立し、それぞれが征服事業を展開することにより突厥の版図を拡げた。しかし、中央集権的な権力構造の確立と権力の承継体制を構築せず、権力分立体制を敷いたことが、結果として突厥内部の内紛となり、583年、沙鉢略可汗と可汗の位を争い敗北した木汗可汗の子が、西面可汗の達頭可汗に身を寄せ、沙鉢略可汗と達頭可汗の対立が表面化、突厥は完全東西に分裂した。 その結果、阿史那氏は勢力を衰退させ、隋の属国となったり、従来の従属氏族が小国家を形成するなどの分裂を招いた。一時的に勢力を回復させ強盛を誇ったものの、8世紀中頃に滅亡した。 なお、10世紀にペルシア語で書かれたの地理書『世界境域誌』(Ḥudūd al-'Ālam)によると、ハザールの可汗家は「アンサーの子孫に属す(از فرزندان انسا است. az farzandān-i Ansā' ast)」と書かれており、この「アンサー」とは「阿史那」のことではないかと考えられている。.
阿史那斛瑟羅
阿史那 斛瑟羅(あしな こくしつら、ピンイン:Āshǐnà húsèluó、生没年不詳)は、西突厥の可汗。阿史那歩真の子。唐の右玉鈐衛将軍兼濛池都護、継往絶可汗であり、武周の左衛大将軍、竭忠事主可汗、濛池都護、平西軍大総管でもある。.
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阿史那懐道
阿史那 懐道(あしな かいどう、ピンイン:Āshǐnà Huáidào、生没年不詳)は、西突厥の可汗。阿史那斛瑟羅の子。右武衛将軍、十姓可汗、濛池都護、右屯衛大将軍、光禄卿、太僕卿となる。.
阿波可汗
阿波可汗(あはかがん、拼音:Ābōkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。木汗可汗の子。阿波可汗(原音:アパ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は大邏便(たいらへん)という。.
蘇定方
蘇定方(そ ていほう、592年 - 667年)は、中国の唐の軍人。名を烈といい、定方とは字で、字をもって通称される。本貫は冀州武邑県。.
蘇禄
蘇禄(そろく、拼音:Sūlù、? - 738年)は、(テュルギシュ Türügeš)部の首領。アラブ史料ではアブー・ムザーヒム(Abū Muzāhim 競合する奴)、カーカーン・アッテュルク(Khāqān al-Turk トルコ可汗)と呼ばれた。.
薛延陀
薛延陀(せつえんだ、ピンイン:Xuēyántuó)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシアに分布したテュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の有力部族のひとつ。その中心氏族は一利咥氏といい、鉄勒諸部の中でも最も勢力の強い部族であった。.
葉護可汗
葉護可汗(ようこかがん、拼音:Yèhùkĕhàn、? - 587年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の子で、沙鉢略可汗の弟。葉護可汗(原音:ヤブグカガン)というのは称号で、可汗になる前の官位が葉護(ヤブグ:大臣)だったため、葉護可汗と呼ばれる。姓は阿史那氏、名は処羅侯(しょらこう)という。.
肆葉護可汗
肆葉護可汗(漢音:しようこかがん、拼音:Sìyèhùkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の子。肆葉護可汗というのは称号で、正しくは乙毘鉢羅肆葉護可汗(いつひはつらしようこかがん)といい、姓は阿史那氏、名は不明。咥力特勤(てつりきとくきん:テュルク・テギン)というのは官名である。.
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.
長寿 (武周)
長寿(ちょうじゅ)は、武周の武則天の治世に使用された元号。692年 - 694年。.
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鉄勒
鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている。.
虞慶則
虞慶則(ぐけいそく、生年不詳 - 597年)は、中国の隋の軍人。本姓は魚。本貫は京兆郡櫟陽県。.
柱国
柱国(ちゅうこく)とは、古代中国で用いられていた称号・官職の1つ。柱国の上位にあたる上柱国(じょうちゅうこく)についても合わせて説明する。 戦国時代に楚において勲功をあげた将軍に対して、「柱国」「上柱国」の称号を授けたのが由来とされる。その後、更始帝に仕えた李通(『後漢書』李通伝)や後燕の翟檀(『晋書』慕容垂伝)、北魏の長孫嵩(『魏書』長孫嵩伝)に称号の「柱国」と官職の「将軍」を組み合わせた「柱国大将軍」を授けているが、あくまでも雑号将軍の1つとしての位置づけであった。 その位置づけが大きく変わるのは、北魏後期の孝荘帝の時代に柱国大将軍が丞相よりも上位の地位として位置づけられてからで、孝荘帝を擁立した爾朱栄がその功績によって大将軍から柱国大将軍に進められた。その後、東魏の権力を握った高歓や西魏の権力を握った宇文泰に与えられた。その後、宇文泰は有力な将軍である7名にも自分と柱国大将軍の地位を与えたことから、この8名の将軍は「八柱国」と呼ばれた(ただし、実数については異説もある)。八柱国は西魏-北周へと続く軍事門閥の基礎となっていくが、反面北周の成立後には柱国大将軍が八柱国以外の多数の将軍にも与えられた事によって散官化が進み、575年には柱国大将軍の上位として上柱国大将軍が置かれた。 隋になると「大将軍」の称号が外されて散官扱いになり、唐では勲官の最上等(正従二品相当)に位置づけられて明に至るが、清では勲官を廃止したために、上柱国・柱国の称号もともに消滅した。.
柔然
柔然(漢音:じゅうぜん、拼音:)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。『魏書』,『北史』,『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』,『南斉書』,『梁書』などでは(ぜいぜい)、『周書』,『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蠕と表記される。.
東突厥
東突厥(ひがしとっけつ、拼音:Dōng Tūjué)は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力。これに対し、西側の勢力を西突厥と言う。東突厥は大きく分けて3つの時期に分類でき、1つ目が第一可汗国期、2つ目が羈縻(きび)政策期、3つ目が第二可汗国期となる。744年、最後の東可汗が回紇(ウイグル)によって殺されると、東突厥の旧領は回鶻可汗国に取って代わった。.
楊堅
楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。.
楊弘 (河間王)
楊弘(よう こう、? - 607年)は、中国の隋の皇族。河間王。字は辟悪。文帝楊堅の従祖弟にあたる。.
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楼蘭
楼蘭(ろうらん,Loulan,推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)に、かつて存在した都市、及びその都市を中心とした国家である。「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善(中国語名併音shàn shàn・日本語名ぜんぜん)と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見された。 紀元前1世紀の西域諸国。.
永徽
永徽(えいき)は、唐の高宗李治の治世に行われた最初の元号。650年 - 655年。.
沙鉢羅咥利失可汗
沙鉢羅咥利失可汗(呉音:しゃはちらでちりしちかがん、漢音:さはつらてつりしつかかん、拼音:Shābōluódiélìshīkĕhàn、? - 639年)は、西突厥の可汗。咄陸可汗(テュルク・カガン)の弟。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。同娥設(トンガ・シャド Toŋa Šad)という官職に就いていた。.
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沙鉢略可汗
沙鉢略可汗(古テュルク語: - Ϊšbara qaγan、呉音:しゃはちりゃくかがん、漢音:さはつりゃくかがん、拼音:Shābōlüèkĕhàn、? - 587年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の子。沙鉢略可汗(イシュバラカガン:Ïšbara-qaγan)というのは可汗号で、正しくは伊利倶盧設莫何始波羅可汗(いりくろせつばくかしはらかがん、イルキュルシャドバガイシュバラカガン:Il-kül-šad-baγa-ïšbara-qaγan)といい、姓は阿史那氏、名は摂図(せつと)という。.
泥利可汗
泥利可汗(呉音:ないりかがん、漢音:でいりかがん、拼音:Nílìkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。鞅素特勤の子で、木汗可汗の孫。泥利可汗(ニリ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏で、名は不明。.
木汗可汗
木汗可汗(漢音:ぼくかんかがん、拼音:Mùhànkĕhàn、? - 572年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の弟。木汗可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は燕都という。俟斤(イルキン)というのは官職名で、名ではない。『隋書』では木杆可汗と表記。原音はムカンカガン(mwx'nx'γ'n / Muqan Qaghan)。.
昭武九姓
昭武九姓(しょうぶきゅうせい、拼音:Zhāowŭjiŭxìng)とは、中国の南北朝時代から隋・唐時代にかけて、中央アジアのソグディアナ地方に存在していた9つのオアシス都市国家。9つの国王がいずれも昭武を国姓としたことから昭武九姓と呼ばれる。また、その国民の多くがソグド人(胡人)であるため、九姓胡とも呼ばれる。.
新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.
旧唐書
『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.
早稲田大学
大隈重信立像(朝倉文夫作) 登台した学生は退学の内規あり 東京専門学校 大正時代の早稲田大学の正.
曷薩那可汗
曷薩那可汗(呉音:がちさちなかがん、漢音:かつさつなかかん、拼音:Hésànàkĕhàn、? - 619年)は、西突厥の可汗。泥利可汗と向氏との子。曷薩那可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は達漫(ダルマン)という。初めは泥撅処羅可汗(でいけつしょらかがん)と号した。.
1967年
記載なし。
1972年
協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.
1988年
この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.
552年
記載なし。
553年
記載なし。
562年
記載なし。
567年
記載なし。
572年
記載なし。
576年
記載なし。
581年
記載なし。
582年
記載なし。
587年
記載なし。
603年
記載なし。
610年
記載なし。
611年
記載なし。
612年
記載なし。
619年
記載なし。
628年
記載なし。
630年
記載なし。
632年
記載なし。
634年
記載なし。
638年
記載なし。
639年
記載なし。
640年
記載なし。
641年
記載なし。
642年
記載なし。
649年
記載なし。
651年
記載なし。
653年
記載なし。
657年
記載なし。
662年
記載なし。
685年
記載なし。
686年
記載なし。
692年
記載なし。
693年
記載なし。
694年
記載なし。
706年
記載なし。
708年
記載なし。
709年
記載なし。
716年
記載なし。
738年
記載なし。
739年
記載なし。
740年
記載なし。
741年
記載なし。
742年
記載なし。
744年
記載なし。
749年
記載なし。
753年
記載なし。
766年
記載なし。
779年
記載なし。