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若江城

索引 若江城

若江城(わかえじょう)は南北朝時代(1382年)から安土桃山時代(1583年)の約200年間にわたって河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)に所在した日本の城(平城)。畠山氏の河内経営の拠点で、河内国の経営を担当した守護代遊佐氏が歴代城主となった。.

179 関係: 城下町南北朝時代 (日本)南朝 (日本)台風司祭吹田城堤防堺市大坂城大和川大和国大般若波羅蜜多経大阪府天王寺安土桃山時代岸和田城嶽山城上御霊神社三好実休三好三人衆三好義継三好長慶三好政長三好政権三宅氏三角州平城康暦の政変井戸佐久間信盛征夷大将軍御霊合戦俊徳街道・十三街道信貴山城応仁の乱土塁土一揆ルイス・フロイス和泉国キリシタン八尾城六角義賢国一揆犬田城の戦い玉串川神功皇后神保氏稲沢氏第二寝屋川筒井順永...管領細川元有細川頼之細川成之細川政元細川政権 (戦国時代)細川晴元紀伊国織田信長瓦葺き畠山基国畠山尚順畠山義就畠山義豊畠山義英畠山高政畠山氏畠山満家畠山満慶畠山政国畠山政長畿内発掘調査遊佐長直遊佐長教遊佐氏顕如馬借高屋城高野山豊臣秀吉豊臣秀次足利義満足利義昭近鉄奈良線近鉄バス能登国赤沢朝経蓮如野崎城 (河内国)長瀬川 (大阪府)若江城の戦い若江城の戦い (室町時代)若江岩田駅若江三人衆若江八人衆若江鏡神社若江郡暗殺東大阪市松永久秀楠根川楠木正儀正覚寺 (大阪市平野区)水害江口の戦い池田勝正池田氏河内十七箇所河内国河内街道河内湖洗礼名本丸本願寺本能寺の変明応の政変明智光秀斎藤氏新開池日本の城日本の城一覧日本の歴史摂津国支城教会1379年1382年1385年1398年1406年1408年1410年1412年1421年1429年1433年1457年1460年1461年1462年1464年1465年1467年1471年1473年1475年1477年1483年1485年1486年1490年1492年1493年1497年1499年1500年1504年1506年1507年1537年1546年1548年1549年1551年1560年1569年1570年1571年1573年1574年1576年1577年1581年1583年1972年206年 インデックスを展開 (129 もっと) »

城下町

山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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台風

宇宙から見た台風(平成16年台風第18号) 日本の南にある3つの台風(平成18年台風7, 8, 9号)。2006年8月7日。 台風(たいふう、颱風)は、北西太平洋に存在する熱帯低気圧のうち、低気圧域内の最大風速が約17m/s(34ノット、風力8)以上にまで発達したものを指す呼称 気象庁 2016年9月3日閲覧。。強風域や暴風域を伴って強い雨や風をもたらすことが多く、しばしば気象災害を引き起こす。.

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司祭

司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.

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吹田城

吹田城(すいたじょう)は大阪府吹田市の吹田駅付近にあった日本の城。城郭に関しては不明な点が多く、平山城だけの一城説や平山城と居城との複合説が指摘されている。.

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堤防

堤防(ていぼう)とは、人家のある地域に河川や海の水が浸入しないように、河岸や海岸に沿って土砂を盛り上げた治水構造物のことである。一部は、土手(どて)とも呼ばれる。 鳥取市鹿野).

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

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大和川

大和川河口付近の航空写真 大和川(やまとがわ)は、奈良県および大阪府を流れ、大阪湾に注ぐ一級水系の本流。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大般若波羅蜜多経

『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)とは、唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典。通称は『大般若経』(だいはんにゃきょう)で、『般若経』(はんにゃぎょう)と略称することもある。全16部(会)600巻に及ぶ膨大な経典群である。大正蔵220。.

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大阪府

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。府庁所在地は大阪市。.

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天王寺

あべのハルカス あべのキューズモール 四天王寺 天王寺(てんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部の地域名称。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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岸和田城

岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。.

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嶽山城

嶽山城(だけやまじょう)は、元弘2年(1332年)に楠木正成が築城した南河内の日本の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれる。楠木七城の一つ。 上赤坂城・下赤坂城や千早城の正面入口にあたり、峰続きの南西には金胎寺城が、更に南西には烏帽子形城があった。現在は城のあった辺りにかんぽの宿富田林がある。 城跡の比定地ではかんぽの宿の建設に伴い1983年度に発掘調査が実施されたが、城の遺構と同時期の遺物は見つかっていない。かんぽの宿の西側にも城域が広がっていた可能性があるが、調査がおこなわれておらず詳細は不明である。北側には千畳敷という小字名の緩やかな傾斜地があり、畠山が練兵場としていたという伝承が残る。戦国時代前期は山岳寺院を城郭として利用していた事例が多くあり、嶽山城においても龍泉寺を城郭の中心としていたと想定されている。文献での記載は『多聞院日記』にある永正4年(1507年)に畠山義英が嶽山城に拠ったとする記述が最後であり、戦国時代末期まで城が機能していたと判断する材料は乏しいとする。.

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上御霊神社

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。.

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三好実休

三好 実休(みよし じっきゅう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の次男。.

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三好三人衆

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.

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三好義継

三好 義継(みよし よしつぐ)は、戦国時代の武将・大名。河内の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。.

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三好長慶

三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.

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三好政長

三好 政長(みよし まさなが)は、戦国時代の武将。三好氏の一族。三好勝時の三男で新五郎、勝長の弟。子に宗渭、為三、娘(池田信正室)。宗三の名でも知られる。分家出身ながら細川晴元の側近として台頭し権勢を振るったが、後に本家と対立して敗死した。.

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三好政権

三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある。.

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三宅氏

三宅氏(みやけし)は、日本の氏族のひとつ。 三宅氏には多くの流派がある。.

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三角州

ナイル川デルタ。世界最大級の三角州地形である。 三角州(さんかくす、三角洲とも、Delta)とは、河川によって運ばれた土砂が河口付近に堆積することにより形成された地形である。枝分かれした2本以上の河川(分流)で囲まれた三角形に近い形をしており、ギリシア文字のデルタ()に似ていることから、デルタ、デルタ地帯とも呼ばれる。.

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平城

平城(ひらじろ、ひらじょう)は、平地に築かれた城をいう。江戸時代の軍学者により分類された地勢による城郭分類法の一つである。.

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康暦の政変

康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。.

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井戸

戦国時代の井戸。井桁を備え、つるべと桶で使用する。 井戸(いど)は地下水、温泉、石油、天然ガスなどをくみ上げるため、または水を注入するために、地面を深く掘った設備である。 一般に「井戸」といった場合には地下の帯水層から地下水を汲み上げるために地層や岩石を人工的に掘削した採水施設を指すことが多い河野伊一郎著 『地下水工学』鹿島出版会 p.43 1989年野本寛一編『食の民俗事典』柊風舎 p.531 2011年。以下、地下水を汲む井戸を中心に説明する。.

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佐久間信盛

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御霊合戦

御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文正2年(1467年、後に応仁に改元)1月18日から19日にかけて現在の京都府京都市上京区上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した。この合戦が応仁の乱開始の契機となり、本格的な戦乱の幕開けとなった。.

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俊徳街道・十三街道

西俊徳地蔵(大阪市生野区勝山北) この付近は「桑津街道」「鶴橋街道」「俊徳街道」が交わる、かつての交通の要所であった。俊徳街道は手前-右奥方向。ここのすぐ西に「御勝山古墳」がある。 十三街道(じゅうさんかいどう)あるいは 俊徳街道(しゅんとくかいどう) と呼ばれる道は、大阪府大阪市の玉造駅付近あるいは四天王寺南門付近から、奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道のこと。 古くは、大阪・玉造と玉祖神社を結ぶ道として、『玉祖道』とも呼ばれた。中世には 『十三峠道』 あるいは 『俊徳道(しゅんとくみち)』 、明治時代以降の近世には 『十三街道』『俊徳街道』 と呼ばれるようになった。厳密には、十三街道と俊徳街道は別の街道であるが、地理的・歴史的に一体と見なす場合が多いため、本頁では『俊徳街道・十三街道』とする。.

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信貴山城

信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町信貴畑にあった日本の城である。木沢長政・松永久秀の居城となった。 信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた。信貴山中腹には、朝護孫子寺がある。また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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土塁

土塁(どるい、earthwork fortification)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。.

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土一揆

土一揆(つちいっき・どいっき)は、室町時代中期から後期にかけて発生した民衆の政治的要求活動をいう。.

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ルイス・フロイス

ルイス・フロイス( 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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キリシタン

リシタン(吉利支丹、Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。.

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八尾城

八尾城(やおじょう)は、かつて河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)にあった日本の城。南北朝時代から安土桃山時代にかけて存在したが正確な所在はわかっていない(後述)。 河内国八尾の豪族・八尾別当顕幸が室町時代初期に築城したとされており、八尾別当顕幸は南朝方に味方していたが、敗れて北朝方によって占領された。 延元2年(1337年)に南朝方の高木遠盛らの軍勢が八尾城の奪還を企図し猛攻をかけた。その際に城内の建設物は悉く焼失した。その後、八尾城は再建された。 イエズス会の報告では、戦国時代末期に八尾城は織田信長の家臣となった切支丹武将の池田丹後守教正の居城であった。その頃の城下には切支丹がいたという。その後、八尾城は廃城となったのか史料には見えない。.

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六角義賢

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく じょうてい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。.

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国一揆

国一揆(くにいっき)は南北朝時代、室町時代の領主層による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。国一揆が形成される要因のひとつとして外部からの政治的圧力の介入などが挙げられ、それらに対抗する為の軍事的共同形態的な結び付きが強く、目的が達成される、あるいは脅威が去った際には国一揆は解体される。代表的な国一揆として播磨の国一揆、伊賀惣国一揆、加賀一向一揆などが挙げられる。.

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犬田城の戦い

城の戦い(いぬたじょうのたたかい)は、文明15年(1483年)9月中に河内北部の犬田城(現在の大阪府枚方市中宮)で発生した戦いである。畠山義就と畠山政長が河内の領有権を巡り争い、この戦いで勝利した義就が河内領有を確定させた。.

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玉串川

玉串川(たまくしがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。.

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神功皇后

功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.

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神保氏

保氏(じんぼうし)は、本姓惟宗氏で、上野国多胡郡辛科郷神保邑が名字発祥の地という。家紋は「竪二引両」。越中国の越中神保氏が有名。.

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稲沢氏

沢氏(いなさわし)は日本の氏族のひとつ。稲澤氏とも表記する。.

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第二寝屋川

二寝屋川(だいにねやがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の一級河川。.

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筒井順永

筒井 順永(つつい じゅんえい、 応永26年(1419年) - 文明8年4月5日(1476年5月7日)は、室町時代後期の武将。大和の国人筒井氏当主で、興福寺衆徒でもある。筒井順覚の末子。順弘、成身院光宣、尊覚、実憲らの弟。子に順尊、成身院順盛、箸尾為国室。舜良坊。 嘉吉元年(1441年)、長兄の順弘と次兄の光宣が摂津河上五ヶ関代官職を巡って争い、順弘が敗れて行方をくらますと、相国寺僧侶だった順永は還俗、筒井氏当主となった。初め光宣は納得しなかったが、後に和睦して共に順弘と対峙した。以降、順永は光宣と行動を共にするようになる。 嘉吉3年(1443年)に順弘が越智家栄の力を借りて筒井城に復帰するも殺害され、代わって大乗院門跡経覚が五ヶ関を直接支配下に置こうと古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らが光宣・順永兄弟を打ち破り、筒井城に追い込んだが文安2年(1445年)に光宣兄弟も反撃、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、享徳3年(1454年)に両派は和解した。 河内守護畠山氏のお家騒動では弥三郎を支持した為、康正元年(1455年)に弥三郎に勝利した畠山義就に攻められ、領地は没収されたが、長禄3年(1459年)に管領細川勝元によって幕府から赦免された。これを機に順永は小泉館で小泉今力丸と小泉重栄を討ち取り、領土を取り戻した。翌年、義就が将軍足利義政によって家督を弥三郎の弟・政長に替えられると順永は政長に従い義就追討軍に参加(嶽山城の戦い)、応仁の乱で引き続き大和で義就方の越智家栄・古市胤栄らと戦ったが文明8年(1476年)に死去、享年58。 死後、嫡男の順尊が後を継いだが、翌文明9年(1477年)に義就が河内を制圧すると大和も義就派が占拠、順尊は没落する事になる。 しゆんえい Category:室町時代の人物 Category:大和国の人物 Category:還俗した人物 Category:1419年生 Category:1476年没.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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細川元有

細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。和泉半国の守護。細川藤孝(幽斎)の祖父にあたる。 長禄3年(1459年)、細川常有(つねあり、細川教春の弟)の四男として生まれる。兄に細川頼常(よりつね)、細川政有(まさあり、将軍・足利義政より「政」の字を賜う)がいる。初めは兄の政有が家督を継承していたため、し禅僧として建仁寺に入って雪渓源猷と号した。文明12年(1480年)に還俗し、その翌年に政有が死去したため、父の命令で家督を継ぐことになった。 明応4年(1495年)、同じ和泉半国守護(下守護)であった細川政久(まさひさ)と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。しかしこのため、明応9年(1500年)9月2日に畠山尚順によって居城の和泉岸和田城を攻められることとなり、城は落城して戦死した。享年42。 死後は嫡男の元常が跡を継いだ。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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細川成之

細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.

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細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

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細川政権 (戦国時代)

細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.

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細川晴元

細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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日本の閑谷学校講堂(国宝)の窯変瓦の屋根 米国の瓦の一例。スペイン・コロニアル様式の瓦屋根。S型瓦が用いられている。(アメリカ合衆国テキサス州) 瓦(かわら、)は、屋根葺きに用いられる代表的な建材である小学館『日本大百科全書』「瓦」平井聖 執筆。。.

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瓦葺き

葺きの町並み(佐賀県伊万里市 鍋島焼の里) 八幡山城の出土瓦 瓦葺き(かわらぶき)は、陶器製(粘土瓦)や石(石瓦)、セメント(セメント瓦)、金属製(銅瓦など)のものを用いた、全世界で行われている瓦を用いた屋根仕上げ。建材である瓦で屋根を葺いたもの。.

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畠山基国

山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。畠山義深の嫡男。子に満家、満慶がいる。「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人、第6代管領、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した。.

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畠山尚順

山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより「尚順」の読みについては、「順」の字を受けた遊佐順盛の読みから、前者が有力である。遊佐順盛についてはを参照。)は、戦国時代の武将、守護大名。室町幕府紀伊・河内・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。 畠山政長の子。稙長、長経、政国、晴熙(はるひろ)の父。初名は尚慶(ひさよし/ひさのり)、後に尚順と名乗るが、更に父・政長の1字を取って尚長(ひさなが)と改名した。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍・足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。号は卜山。法号は勝仙院竜源徳陽。 生涯を通して足利義稙の有力な与党として活動した。明応の政変で父政長を殺され、紀伊での逼塞を余儀無くされたが、流浪の義稙を支持して宿敵の畠山義豊を討ち、細川政元に抵抗し続けた。義稙の将軍復帰後は領国へ下向し、実効支配を確立しようとしたが、紀伊で謀反を起こされ没落。その後出奔した義稙に呼応するも、復帰を果たせぬまま死去した。.

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畠山義就

山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って、従兄弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。.

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畠山義豊

山 義豊(はたけやま よしとよ)は、戦国時代初期の武将、守護大名。河内守護。畠山氏の一派である総州家当主で、畠山義就の次男で修羅の弟、義英の父。 初名は基家(もといえ)、のち父の「義」の字を取って義豊に改名(時期は不明)。通称は次郎、官位は弾正少弼。.

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畠山義英

山 義英(はたけやま よしひで)は、戦国時代の武将。畠山義豊の嫡子。畠山義就を祖とする畠山氏総州家の4代当主で義就の孫に当たる。子に義堯。通称は次郎、上総介。 明応3年(1494年)に8歳で元服。早い元服は父が同族で尾州家(畠山政長を祖とする)の畠山尚順と対立していて、万が一の場合に備えて行った処置と見られる。明応8年(1499年)に父が尚順に敗れて戦死したことにより家督を継承、領国河内から出奔したが、間もなく庇護者の細川政元が尚順を破ったため河内へ戻った。 最初は政元の傀儡として過ごしていたが、永正元年(1504年)頃から赤沢朝経と薬師寺元一の謀反など細川氏の内訌が起こり激しくなると、義英は政元からの独立を模索し、同年尚順(改め尚長)と和睦し、息子の畠山勝王をその猶子とさせたが、永正3年(1506年)に政元と和睦した赤沢朝経の攻撃を受けて没落した。翌永正4年(1507年)6月の永正の錯乱で政元が暗殺されると混乱に乗じて河内高屋城へ入城したが、12月に尚長が和睦を破り政元の養子細川澄元と結び、これに応じた澄元の部将赤沢長経に籠城していた嶽山城を攻められ、永正5年(1508年)に陥落して逃亡した。 河内を奪った尚長が澄元から将軍足利義稙・細川高国・大内義興一派に替えると義英は足利義澄・澄元らと結んで尚長との戦いを継続、永正8年(1511年)に一時河内を奪い返すが、義澄の急死、澄元が船岡山合戦で高国らに敗北すると旗色が悪くなり、河内を再び尚長に奪われた。永正10年(1513年)に尚長に敗北してからは逼塞、永正17年(1520年)3月に尚長の嫡男稙長を破り高屋城を奪うも5月に奪い返され、大永元年(1521年)10月に高国と対立して出奔した義稙を擁立した尚長と再度和睦したが、11月に稙長に敗北した記録が残っている。 以後は徴証が知れないが、興福寺大乗院門跡の日記の大永2年(1522年)4月30日条に「畠山濃州他界」という記録があり、大永3年(1523年)3月にもう一人の息子(嫡子)の義堯が観心寺に判物を発給していることから大永2年に没した畠山濃州が義英ではないかとされている。 義英政権では守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。.

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畠山高政

山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代の紀伊・河内国の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。.

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畠山氏

山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武蔵国を本貫地とする武家の一族。主に桓武平氏系と清和源氏系の2家系があるが、両者は間接的な血縁関係である(後述)。読みには他に「はたやま」もある。 室町時代には畠山金吾家が大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)などの畿内およびその周辺国に該当する重要な地域を守護として治め、また幕府の管領として国の政務を執った。しかし、家督争いにより、総州家と尾州家に分かれて、応仁の乱勃発の一因となり、その後も激しく争い続けた。 また、北陸の越中の守護も兼ね、分家は能登の守護を代々世襲する。著名な末裔として実業家の畠山一清がいる。.

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畠山満家

山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。.

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畠山満慶

山 満慶(はたけやま みつのり)は、室町時代の守護大名。室町幕府相伴衆、越中・紀伊・河内・能登守護。能登畠山氏の初代当主。畠山基国の次男で、満家の弟。子に畠山義忠、畠山教国(のりくに)がいる。 詳しい生誕年は不明だが、元服時には室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱を賜って満慶(または満則)と名乗る。 応永13年(1406年)に父が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄満家に代わって畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408年)に義満が死去すると、満慶は家督を兄に返還することとした。このことは当時、「天下の美挙」と言われた。このため、兄は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、同年には満慶を初代とする能登畠山氏が創設された。 しかし義満の長男で第4代将軍の足利義持とは不仲だったようで、義持と対立していた足利義嗣が上杉禅秀の乱に呼応して反乱を起こそうとすると、満慶は義嗣を援助しようとしたため、義持の命令により捕らえられ、剃髪して蟄居するように命じられた。 永享4年(1432年)6月27日に死去。長子の義忠が家督を継いだ。また、次子は第6代将軍足利義教(義持の弟)から偏諱を賜って教国と名乗り、御供衆の一人となっている。.

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畠山政国

山 政国(はたけやま まさくに)は戦国時代の武将。紀伊・河内・越中の守護大名、戦国大名。畠山尾州家の出身。.

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畠山政長

山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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発掘調査

掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.

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遊佐長直

遊佐 長直(ゆさ ながなお)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。.

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遊佐長教

遊佐 長教(ゆさ ながのり)は、戦国時代の武将。尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。同国若江城主。.

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遊佐氏

遊佐氏(ゆさし)は、日本の氏族。南北朝時代に三管領と呼ばれた畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護代を務めた。.

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顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

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馬借

借(ばしゃく)は、馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者。主に平安時代から戦国時代にかけて活躍した。.

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高屋城

屋城(たかやじょう)は、大阪府羽曳野市古市にかつてあった日本の城。三管領の畠山氏の本拠地である。本丸は天皇陵に治定されている古墳(高屋築山古墳)があり、立ち入りが禁止されている。二の丸、三の丸は住宅地となっている。.

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高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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近鉄奈良線

奈良線(ならせん)は、大阪府東大阪市の布施駅と奈良県奈良市の近鉄奈良駅とを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 一般的には難波線と大阪線大阪上本町駅 - 布施駅間を含めた大阪府大阪市中央区の大阪難波駅から近鉄奈良駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下、特記のない限り運転系統としての奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)について記述する。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はA - 近畿日本鉄道、2015年8月19日。色は赤であり、2015年9月から順次案内などに導入された。.

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近鉄バス

近鉄バス株式会社(きんてつバス)は、大阪府・京都府を営業地域としてバス事業を行う日本の会社である。近畿日本鉄道(現:近鉄グループホールディングス)から乗合バス事業等を、近鉄観光バスから貸切バス事業を継承。近鉄グループホールディングスの連結子会社である中間持株会社近鉄バスホールディングスの完全子会社。.

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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赤沢朝経

赤沢 朝経(あかざわ ともつね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。家系は小笠原氏の庶流赤沢氏。家督を譲った後は澤蔵軒宗益(たくぞうけん そうえき)と称した。.

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蓮如

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。.

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野崎城 (河内国)

野崎城(のざきじょう)は、大阪府大東市にあった日本の城。.

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長瀬川 (大阪府)

長瀬川(ながせがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大和川分水として疎水百選に選ばれている。.

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若江城の戦い

若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)に河内国若江城で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦である。.

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若江城の戦い (室町時代)

若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明9年(1477年)10月9日に河内若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)にあった若江城で東軍と西軍が衝突した。.

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若江岩田駅

| 若江岩田駅と駅出入口の地下道、高架工事前 若江岩田駅(わかえいわたえき)は、大阪府東大阪市岩田町四丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線の駅。駅番号はA10。.

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若江三人衆

若江三人衆(わかえさんにんしゅう)は、三好義継が若江城主であったころにそれを補佐した3人の家老。.

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若江八人衆

若江八人衆(わかえはちにんしゅう)は、豊臣秀次の家臣団の通称。後に石田三成に仕えたものが多く、その多くが関ヶ原の戦いで戦死した。.

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若江鏡神社

若江鏡神社(わかえかがみじんじゃ)は東大阪市若江南町にある神社。.

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若江郡

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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東大阪市

東大阪市(ひがしおおさかし)は、大阪府中河内地域に位置する市である。人口は約50万人であり、大阪市および堺市の両政令指定都市に次ぐ府内第3位の人口を擁する中核市である。大阪都市圏の中心都市に属する。.

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松永久秀

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。.

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楠根川

楠根川(くすねがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の一級河川。.

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楠木正儀

楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将。南朝の有力武将楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。.

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櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。.

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正覚寺 (大阪市平野区)

正覚寺(しょうがくじ)は、大阪市平野区加美正覚寺にある単立寺院。山号は成等山(じょうとうさん)。奇数日の午前9時半と午後1時半に一般参詣できる。.

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水害

水害(すいがい)とは、水による災害、すなわち洪水や高潮など、水によりもたらされる個人的・社会的被害の総称。水災(すいさい)。これを制御することを治水と呼ぶ。.

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江口の戦い

江口の戦い(えぐちのたたかい)は、天文18年(1549年)6月12日から6月24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶軍と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦いである。江口合戦とも呼ばれる。.

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池田勝正

池田 勝正(いけだ かつまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。摂津池田氏当主、池田城主。.

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池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族の一つ。諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とする氏族。.

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河内十七箇所

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内街道

河内街道(かわちかいどう)は、河内国(大阪府)内を通る街道。.

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河内湖

河内湖(かわちこ)は、河内国北部・現在の大阪府東部にあった湖である。現在は河内平野になっている。.

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洗礼名

洗礼名(せんれいめい、baptismal name, Christian name)とは、キリスト教徒が洗礼を受けるときにつけられる名前。英語からの転写でクリスチャン・ネームとも。各教派で異なる呼び名がある。.

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本丸

本丸(ほんまる)とは、日本の城の中核となる曲輪(くるわ)の名称である。一の曲輪・本曲輪・一の丸(『日葡辞書』)とも称される。中世城郭では、本城、実城(みじょう)、詰丸などと呼ばれ、城によって呼び名が異なる。日本の中世考古学においては主郭(しゅかく)と呼称される。 また、比喩的に、物事の本質、組織の中核を指すために用いることがある。.

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本願寺

本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。 各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。16世紀末期に東西に分裂、東側は20世紀後期に発生したお東騒動の影響で更に分裂した。東西分裂前の本願寺については本願寺の歴史を参照のこと。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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斎藤氏

斉(セイ)」は「ととのえる」の意味で別の漢字であるが、江戸時代に「斎」の略字として「斉」が使用された(なお、簡体字ではそれぞれ「斋」と「斉」となり、共通性がさらに失われている)。 斎藤氏(さいとうし、)は、日本の姓氏のひとつ。。。 平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされる。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。。。 斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。.

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新開池

新開池(しんかいいけ)は、かつて河内国に広い範囲(現在の大阪府大阪市鶴見区東南部、 東大阪市北西部、大東市南西部)で存在した大きな池。江戸時代に行われた大和川の付け替え工事と新田開発により消滅した。.

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日本の城

日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 姫路城(世界遺産・現存天守) 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。.

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日本の城一覧

日本の城の一覧(にほんのしろのいちらん)は、日本の城(および朝鮮半島の倭城)の都道府県ごとの一覧索引である。財団法人日本城郭協会が選定した100名城の一覧については「日本100名城」を参照のこと。また、天守を主とする「画像」の一覧については、「日本の城の画像」を参照のこと。.

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日本の歴史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。 各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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支城

支城(しじょう)とは、本城を守るように配置された補助的役割を持つ出城・砦・陣屋などのことを指す。枝城(えだじろ)などとも呼ばれた。戦国時代には、本城・支城間に支城網(しじょうもう)と呼ばれる多彩な連絡網が形成されるようになった。.

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教会

教会(きょうかい).

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1379年

記載なし。

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1382年

記載なし。

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1385年

記載なし。

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1398年

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1406年

記載なし。

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1408年

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1410年

記載なし。

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1412年

記載なし。

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1421年

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1429年

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1433年

記載なし。

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1457年

記載なし。

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1460年

記載なし。

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1461年

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1462年

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1464年

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1465年

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1467年

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1471年

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1473年

記載なし。

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1475年

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1477年

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1483年

記載なし。

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1485年

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1486年

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1490年

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1492年

記載なし。

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1493年

記載なし。

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1497年

記載なし。

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1499年

記載なし。

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1500年

15世紀最後の年である。.

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1504年

記載なし。

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1506年

記載なし。

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1507年

記載なし。

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1537年

記載なし。

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1546年

記載なし。

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1548年

記載なし。

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1549年

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1551年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1569年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1571年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1574年

記載なし。

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1576年

記載なし。

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1577年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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1583年

記載なし。

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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206年

記載なし。

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