14 関係: 劉裕、南燕、士大夫、孫処、孫恩 (東晋)、孫恩の乱、字、三国志 (歴史書)、広州 (広東省)、盧循の乱、盧毓、裴松之、桓玄、411年。
劉裕
劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。.
南燕
南燕(なんえん、398年 - 410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。.
士大夫
士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。.
孫処
孫 処(孫 處、そん しょ、359年 - 411年)は、東晋末の軍人。字は季高。本貫は会稽郡永興県。.
孫恩 (東晋)
孫 恩(そんおん、? - 402年)は、東晋の人物。字は霊秀。琅邪(現在の山東省諸城市)の人である。 叔父である孫泰は、江南の五斗米道を束ね、王侯とのつながりもあった。そのため東晋での発言力もあったが、反逆の罪で殺された。孫泰の後を継いだ孫恩は、信徒を糾合し、399年、東晋に対して反旗を翻す(孫恩の乱)。 孫恩の乱は、江南の信徒にも広がり、一時は建康に迫る勢いを見せたが、劉裕を始めとする官軍の前に敗北を重ね、その勢力は弱体化する。ついには、臨海で敗れ、402年、海中に身を投じて自殺した。 孫恩亡き後の反乱軍は、妹婿の盧循に引継がれ、反乱し続けていくことになる。 Category:東晋の人物 Category:濰坊出身の人物 Category:4世紀生 Category:402年没 Category:自殺した人物.
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孫恩の乱
孫恩の乱(そんおんのらん)は、中国東晋末期の399年(隆安3年)10月に孫恩が起こした反乱。後の盧循の乱と合わせて、孫恩・盧循の乱と呼ばれることもある。.
字
字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.
三国志 (歴史書)
『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.
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広州 (広東省)
広州(こうしゅう)は、かつて中国に設置された州。現在の広東省広州市一帯に相当する。.
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盧循の乱
盧循の乱(ろじゅんのらん)は、中国東晋末期の402年(元興元年)3月に盧循が起こした反乱。先の孫恩の乱と合わせて孫恩・盧循の乱と呼ばれることもある。.
盧毓
盧 毓(ろ いく、183年 - 257年)は、中国三国時代の魏の政治家。字は子家。父は盧植。兄たちの名は不詳(三人)。子は盧欽・盧珽(『新唐書』宰相世系表は、盧簡を含めた三子とする)。幽州涿郡涿県(現在の河北省涿州市)の人。.
裴松之
裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の人。字は世期。裴珪の子。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟・裴徽の6世の孫に当たるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。.
桓玄
桓 玄(かん げん)は、桓楚の初代皇帝。東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となるが、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。.
411年
記載なし。