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琉球侵攻

索引 琉球侵攻

琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった『琉球国由来記』「西来禅院記」「」。.

89 関係: 口永良部島名護良豊大隅国天龍寺太政官外間守善奄美大島奄美群島尚寧王山崎二休山川漁港島津忠恒島津氏崇元寺与論島中山世鑑三司官平田増宗今帰仁村今帰仁朝容廃藩置県仙台藩征夷大将軍徳川家康徳川秀忠徳川氏徳之島トカラ列島喜安円覚寺 (那覇市)具志頭朝盛倭寇球陽琉球の摂政琉球在番奉行琉球国由来記琉球王国竜雲鎖国運天港菊隠宗意西来院駿府高良倉吉謝名利山謝恩使豊臣秀吉鹿児島鹿児島県...龍福寺薩摩藩肝付兼篤那覇港恩納村村尾重侯樺山久高江戸江戸城江戸上り江戸幕府沖縄県沖縄県の歴史沖縄本島沖永良部島朱印船明治浦添城海禁文禄・慶長の役日明貿易慶賀使慶長15世紀1602年1603年1609年1610年1611年1879年2月26日3月16日3月25日3月4日3月7日 (旧暦)4月5日 (旧暦)8月28日 インデックスを展開 (39 もっと) »

口永良部島

口永良部島(くちのえらぶじま)は、屋久島の西方約12kmに位置する島。 近隣の屋久島や種子島などとともに大隅諸島を形成し、島はひょうたん型をしており全域が屋久島国立公園となっている。温泉が豊富にあるほか、島の周辺は魚釣りのポイントも多いため、1年を通して観光客が訪れている。なお、「口永良部島(くちえらぶじま(2015年5月30日閲覧))」は鹿児島県熊毛郡屋久島町の大字にもなっており、全島がこれに該当する『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.978。 火山島であり火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。.

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名護良豊

名護 良豊(なご りょうほう、1551年 (嘉靖30年) - 1617年(万暦45年))は琉球王国の政治家。三司官。馬氏小禄殿内三世で童名は太良金、号を汝舟といい、与湾大親の孫: (大浦添親方) の孫。唐名は馬 良弼(ば りょうひつ)。正式な呼称は名護親方良豊。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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太政官

太政官.

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外間守善

外間 守善(ほかま しゅぜん、1924年(大正13年)12月6日 - 2012年(平成24年)11月20日)は、日本の言語学者、沖縄学の研究者。沖縄学研究所所長、法政大学名誉教授。伊波普猷の後継者として、琉球文学・文化研究の第一人者。.

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奄美大島

奄美大島(あまみおおしま)は、九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島(おおしま。奄美方言でうしま)ともいう。.

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奄美群島

奄美群島(薩南諸島南部) 奄美群島(あまみぐんとう)は、南西諸島の内薩南諸島南部にある島嶼群である。鹿児島県奄美市および大島郡の区域をいう。「奄美群島」が正式名称となっているが、未統一だったころの奄美諸島(あまみしょとう)がまだ用いられることもある。長さ約200km、面積約1250km、人口約12万人。全域が亜熱帯気候に属し、固有種を含めて、珍しい生き物も多数生息する。.

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尚寧王

尚寧王(しょうねいおう、1564年(嘉靖43年) - 1620年10月14日(万暦48年/泰昌元年9月19日))は琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王(在位1589年 - 1620年)。.

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山崎二休

山崎 二休(やまざき にきゅう、天文23年(1554年)-寛永8年(1631年))は、琉球王国の医師。北陸越前の人。号は二休、名は守三。.

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山川漁港

山川漁港(やまがわぎょこう)は、鹿児島県指宿市の鹿児島湾入口部に位置する山川湾の地形を利用してつくられた漁港。 山川湾は砂嘴によって外洋と区切られているため波が入りにくく、古くから港として利用されてきた。砂嘴の形状が鶴のくちばしに似ていることから江戸時代には「鶴の港」と呼ばれており、現在でも台風接近時などには避難港として利用されている。.

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島津忠恒

島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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崇元寺

崇元寺石門 霊徳山崇元寺(そうげんじ)は、沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺で、1527年に創建されたとされている。 沖縄戦により焼失・全壊したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており重要文化財で歴史的建造物に指定されている。かつては尚氏王統の霊を祭る寺であったが、太平洋戦争で焼失した。昭和30年代頃までは宗元寺跡に木造で図書館が造られ、いつも多くの人々が利用していた。その頃の門の中の様子は、まず入ると右手が小山の様になっており上には木魔王の木が林の様に立っていた。そこから下へ小さな滝が池に流れ落ち、池には鯉やカメ等がいた。反対側の左奥には階段を上った先に、なぜか紅葉が一本植えられていて、子どもの頃はなぜこの木は冬になると葉が赤くなるのだろうと不思議であった。(その頃の沖縄には紅葉する木々は見なかった)しかし、その図書館も、小山も滝も、その紅葉もすべて取壊され、門だけが残こり、現在は公園として整備されている。.

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与論島

奄美群島(薩南諸島南部)。図の左下角に位置する。 与論島(よろんじま)は、奄美群島のひとつで、鹿児島県最南端の島である。.

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中山世鑑

『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)は、薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史である。羽地朝秀が王命により編纂。1650年成立。全6巻。和文体で書かれている。正史としての性格上、神話的な琉球開闢説話など正確な歴史とは言い難い。和暦の採用や、源為朝(鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする(『琉球神道記』、『保元物語』、『平治物語』などを参考にしたと見られる)記述がある。為朝が琉球へ逃れ、その子が舜天になった事の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。.

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三司官

三司官(さんしかん)は、琉球王国の宰相職のことである。漢訳で法司と言い、「世あすたべ」とも言った。 三司官は首里王府の実質的な行政の最高責任者である。三司官の上には摂政(シッシー)が存在するが、辣腕をふるった羽地朝秀などを例外とすれば、通常は形式的な儀礼職であり、行政の実務は三司官が取り仕切った。三司官は三人制で投票により親方(ウェーカタ)の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。 三司官の職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族(サムレー)が昇進できる最高の位階であった。 代表的な三司官には蔡温がいる。.

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平田増宗

平田 増宗(ひらた ますむね)は戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の家老・老中。.

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今帰仁村

今帰仁村(なきじんそん)は、沖縄県国頭郡の村。.

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今帰仁朝容

今帰仁 朝容(なきじん ちょうよう、1582年 - 1609年)は琉球王国第二尚氏王統の人。尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の五世で、唐名は向克祉、童名を真市金という。北山監守。 薩摩藩の琉球侵攻で戦死したとされる事が多い。死去した日が薩摩の今帰仁城占領の翌日であることからの推定だが、琉球侵攻の一次史料である薩摩側史料の市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、琉球側史料の喜安『喜安日記』、どちらにも今帰仁で戦闘があったとは書かれていない(守備兵が逃げ出して無人だった今帰仁城は、占領後に火を放たれている)。死去と薩摩の占領が無関係とは考えにくいことが推定につながっているが、責任からの自決か、逃亡時に事故にあったかは定かではない。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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一回遣欧使節(撮影:ナダール) 侍(さむらい)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)祗候・伺候:[しこう] 謹んで貴人のそば近く仕えること。する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳之島

奄美群島(薩南諸島南部) 徳之島(とくのしま)は、南西諸島の奄美群島に属する離島の1つであり、島内には鹿児島県大島郡徳之島町、伊仙町、天城町の3町がある。 県内では奄美群島は奄美大島を中心とする、奄美地方という地区に含まれる。面積は約247.77 km2、周囲およそ80km。日本では北方領土の色丹島よりやや小さく、14番目の面積を持つ。ニウエと面積がほぼ同じである。人口約27,000人の島である。 合計特殊出生率の高さでは、国内第1位から第3位を島内の3町が占めている。ただし人口そのものは減少している。主要な産業はサトウキビ、ジャガイモ、ショウガ、果樹などの農業、キハダマグロ、ソデイカ、カツオ、イセエビ類などの近海漁業、黒糖を原料とした菓子、黒糖焼酎製造など。.

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トカラ列島

中之島の夜明け。フェリーとしまより撮影 宝島港の壁画。背後に女神山を望む。2007年5月 ステレオ空中写真(1978年)国土航空写真 吐噶喇列島(とかられっとう)は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群。行政区域は全島が鹿児島県鹿児島郡十島村である。.

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喜安

喜安(きあん、永禄8年12月29日(1566年1月20日) - 承応2年閏6月18日(1653年8月10日))は、17世紀琉球で活躍した日本の茶人。 和泉国堺に生まれるが、父親が街角の占者に運勢を占わせたところ、「この地では大成しない。成長してから南国に赴けば、必ずや富貴の身となり、栄華に包まれるであろう」といわれたという。幼少から聡明であったといい、千利休の弟子である康印に師事し、茶の湯を教授される。また和歌や漢詩に通じた。 1600年に35歳で琉球に渡る。それから数年で王宮にも名が届き、尚寧王の侍従に取り立てられる。1609年の薩摩の琉球侵攻では、捕虜となった王に付き従い、薩摩側との折衝役を務めた。江戸での徳川秀忠への拝謁にも同行している。1611年の帰国後には御茶道職に任ぜられ、以後、日本式の茶道が琉球に広まった。薩摩には度々交渉で渡り、晩年には親方の位も授けられている。病没するまで御茶道職にあり、その死後も同職は琉球王府の官職として続いた。 尚豊王の時代に、薩摩との開戦前から王の帰国までの2年半を回想した『喜安日記』を著している。過去の軍記物語の影響下に書かれているが、薩摩侵攻に関する重要な史料で、同事件を琉球側の視点で記した唯一の史料である。.

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円覚寺 (那覇市)

円覚寺跡(総門・放生池・放生橋) 円覚寺(えんかくじ、琉球語:ウフティラ)は沖縄県那覇市の首里城北面にかつて存在した臨済宗の寺院。.

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具志頭朝盛

具志頭 朝盛(ぐしちゃん ちょうせい、万暦6年(1578年)5月20日 - 万暦38年(1610年)8月21日)は、琉球王国第二尚氏王統の摂政。尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の四世で、唐名は尚宏、童名を思次郎金という。家譜や史書などで采地名の「具志頭」に接頭美称辞「大(読みはウフ)」を付して「大具志頭王子朝盛」と表記されることもある。7代尚寧王の弟。.

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倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.

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球陽

『球陽』(きゅうよう)は、1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である。.

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琉球の摂政

琉球の摂政(りゅうきゅうの しっしー/せっせい)は、琉球の王府における官職の一つである。国相、王相、諸司代ともいった。 琉球の摂政は三司官の上に立つ琉球で最高位の官職であり、国家の政治を行う(「聴邦政」)のが任務であった。史書では義本王代に英祖が任命されたのを最初としている。のち第一尚氏王統では程復、王茂、懐機といった中国人がこの職についた。第二尚氏王統では、6代尚永王代までは任官が知られず。7代尚寧王のときに、具志頭王子、菊隠、佐敷王子が任官されている。 金武王子朝貞以降は常設化されたが、実際的な政務は三司官が執っており、形式化したとも見なされる。ただし向象賢・羽地按司朝秀のように積極的に実務に関わり、政治改革を推し進めた者もいる。基本的に王族である王子・按司位の者から選ばれ、按司の者が就任する場合は、摂政就任に伴い位階も陞り、王子位となった。.

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琉球在番奉行

琉球在番奉行(りゅうきゅうざいばんぶぎょう)は、江戸時代に薩摩藩が琉球王国を間接統治するために、現在の沖縄県那覇市に常駐させた役職者。.

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琉球国由来記

琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)は琉球王国の王府が編纂させた地誌である。王府が編纂した体系的な最初の地誌で、康熙52年(1713年)に国王へ上覧された。沖縄を研究する上で欠くことのできない資料と言われている。.

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

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竜雲

雲(りゅう うん)は中華民国、中華人民共和国の軍人・政治家。中華民国時期の滇軍(雲南軍、雲南派)の指導者の1人。国民政府期の雲南省政府主席である。字は志舟、元名は登雲。彝族出身。彝族名は、納吉鳥梯。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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運天港

運天港(うんてんこう)は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある重要港湾である。対岸の名護市の屋我地島に跨る羽地内海一帯の小さな港区も含んでいる。港湾管理者は沖縄県。 沖縄本島北部の本部半島では本部港と並んで主要な港だが、重要港湾に指定されているのはこの港だけである。.

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菊隠宗意

菊隠 宗意(きくいん そうい、? - 1620年)は、17世紀琉球王国の僧侶。「球陽国師」号を授けられた事から、菊隠国師と通称される。.

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西来院

西来院、西來院(せいらいいん).

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駿府

駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.

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高良倉吉

良 倉吉(たから くらよし、1947年10月1日 - )は、沖縄県の歴史学者。琉球大学名誉教授。専門は琉球史。特に琉球王国の内部構造、アジアとの交流史を研究する。.

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謝名利山

謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。三司官として対日本外交で強硬姿勢をとり、1609年の琉球侵攻の後、処刑される。 謝名親方(じゃなうぇーかた)の呼び方で一般に知られる。唐名は鄭迵(ていどう)。.

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謝恩使

謝恩使(しゃおんし)とは、東アジアにおいて朝貢国または属国の国王が即位した際に、宗主国に対して謝恩のために派遣する使節をいう。 江戸時代、琉球国王の冊封の際に幕府へと派遣された使節である謝恩使については江戸上りを参照。 Category:江戸時代の外交 Category:琉球王国の国際関係.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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鹿児島

鹿児島(かごしま).

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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龍福寺

龍福寺(りゅうふくじ・りょうふくじ).

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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肝付兼篤

肝付 兼篤(きもつき かねあつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。喜入肝付氏初代当主。.

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那覇港

那覇港(なはこう)は、沖縄県那覇市にある港湾。港湾管理者は沖縄県・那覇市・浦添市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の那覇港管理組合が行っていて、港湾法上の重要港湾に指定されており、中核国際港湾にも指定されている。また、港則法上の特定港でもある。 沖縄県の玄関口として国際コンテナ航路を含む50以上の航路を持ち、40以上の島々の経済活動を支えている港。2001年度(平成13年度)における取扱貨物量は外国貨物が120万トン、内国貨物850万トンで合計970万トンの貨物を扱っている。 アメリカ軍にだけ恩典を与えるガントリークレーン料金引き下げ問題などが議員から次々と指摘された。アメリカ軍関係貨物が大半を占めるにもかかわらずクレーン使用料を引き下げるのは、アメリカ軍への「思いやり予算」を増すだけで時期尚早であるというのが問題の内容。.

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恩納村

恩納村(おんなそん)は、沖縄県内、沖縄本島の中央部に位置する村である。 日本屈指のリゾート地であり、東シナ海の海岸に沿って走る国道58号線沿いには多くの大型リゾートホテルが立ち並ぶ。アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領やロシアのプーチン大統領などの世界の首脳も、2000年の九州・沖縄サミットの際には当村のホテルに滞在した。.

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村尾重侯

村尾 重侯(むらお しげあり / しげきみ)は、初め祁答院氏、のち島津氏に仕えた戦国武将。薩摩入来院氏の一族。.

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樺山久高

樺山 久高(かばやま ひさたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。樺山忠助の次男。樺山善久の孫。 武芸だけでなく、和歌や蹴鞠にも造詣の深い教養人であったといわれている。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸上り

江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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沖縄県

沖縄県(おきなわけん)は、日本で最も西に位置する県。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地は那覇市。.

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沖縄県の歴史

沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。.

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沖縄本島

沖縄島の地形図。 沖縄本島(おきなわほんとう)、または沖縄島(おきなわじま)は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であり 『日本歴史地名大系』「総論 自然環境」(2002年)p.23上段 - 中段、また東シナ海と太平洋(フィリピン海)の間に位置する南西諸島においても最大の島である。.

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沖永良部島

沖永良部島の位置(図中、左下。赤丸内) 沖永良部島(おきのえらぶじま)は奄美群島の南西部に位置する島、鹿児島県大島郡に属し、九州本島から南へ552km、沖縄本島から北へ約60km、北緯27度東経128度付近に位置する。和泊町と知名町の2町からなり平成24年1月1日現在の和泊町人口(男3495)(女3601)計7096人、知名町人口(男3366)(女3305)、計6671人両町の合計人口13767人(2012年)。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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朱印船

朱印船(しゅいんせん)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。 朱印船(荒木船).

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浦添城

浦添城(うらそえじょう、浦添城跡)は、沖縄県浦添市にある城(グスク)跡。1989年(平成元年)8月11日、国の史跡に指定されている()。.

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海禁

海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

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慶賀使

慶賀使(けいがし)は、ある国(または藩)に慶事があった際に別の国(または藩)から慶賀のために派遣される使節のことである。 江戸時代、幕府将軍襲職の際に琉球から派遣された使節である慶賀使については江戸上りを参照。 Category:江戸時代の外交 Category:琉球王国の国際関係.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1602年

記載なし。

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1603年

記載なし。

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1609年

記載なし。

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1610年

記載なし。

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1611年

記載なし。

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1879年

記載なし。

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2月26日

2月26日(にがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から57日目にあたり、年末まであと308日(閏年では309日)ある。.

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3月16日

3月16日(さんがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から75日目(閏年では76日目)にあたり、年末まであと290日ある。.

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3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

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3月4日

3月4日(さんがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から63日目(閏年では64日目)にあたり、年末まであと302日ある。.

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3月7日 (旧暦)

旧暦3月7日(きゅうれきさんがつなのか)は旧暦3月の7日目である。六曜は先負である。.

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4月5日 (旧暦)

旧暦4月5日(きゅうれきしがついつか)は旧暦4月の5日目である。六曜は友引である。.

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8月28日

8月28日(はちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。.

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