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板倉勝貞

索引 板倉勝貞

板倉 勝貞(いたくら かつさだ、1801年(享和元年) - 1849年4月18日(嘉永2年3月16日))は、備中国庭瀬藩の第8代藩主。重宣系板倉家9代。 第5代藩主板倉勝喜の五男。養子に板倉勝敬、板倉勝成。官位は従五位下、摂津守。 文政7年(1824)11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天保3年(1832年)閏11月21日、兄の先代藩主板倉勝資の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下摂津守に叙任する。藩政に見るところもなく、嘉永元年(1848年)3月21日に家督を養嗣子の勝成に譲って隠居し、翌年3月16日に死去した。享年49。法号は芳俊院殿功山源運大居士。 かつさた Category:庭瀬藩主 Category:譜代大名 Category:1801年生 Category:1849年没.

18 関係: 天保享年享和庭瀬藩徳川家斉嘉永備中国板倉勝喜板倉勝資板倉勝成板倉勝敬摂津国1801年1832年1848年1849年3月16日 (旧暦)4月18日

天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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享和

享和(きょうわ)は日本の元号の一つ。寛政の後、文化の前。1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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庭瀬藩

庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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板倉勝喜

板倉 勝喜(いたくら かつよし、明和2年10月17日(1765年11月29日) - 天保13年2月17日(1842年3月28日))は、江戸時代中期の大名。備中国庭瀬藩の第5代藩主。重宣系板倉家6代。 第3代藩主板倉勝興の四男。子に板倉勝並(長男)、板倉勝豊(次男)、板倉勝氐(三男)、板倉勝資(四男)、板倉勝貞(五男)、娘(阿部正信正室)。字は利次郎。官位は従五位下、主水佑。 天明5年(1785年)4月25日、嗣子なく没した兄勝志の末期養子となり、家督を継いだ。同年4月28日、将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日、従五位下従五位下主水佑に叙任する。寛政5年(1793年)、陣屋内に清山神社を建て、板倉家中興の祖である板倉重昌・重矩の父子を祭祀した。 享和3年(1803年)、家督を三男の勝氐に譲って隠居し、五男の勝貞の藩主時代の天保13年(1842年)に没した。享年78。法名は心月院殿廓天源喜大居士。 かつよし Category:庭瀬藩主 Category:譜代大名 Category:1765年生 Category:1842年没.

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板倉勝資

板倉 勝資(いたくら かつすけ、寛政元年(1789年) - 嘉永元年8月17日(1848年9月14日))は、備中国庭瀬藩の第7代藩主。重宣系板倉家8代。 第5代藩主板倉勝喜の四男。正室は朽木倫綱の娘。子に板倉勝敬(長男)。官位は越中守。 文化2年(1805年)12月8日に先代藩主で兄の勝氐が早世したため、翌文化3年(1806年)3月19日に跡を継いだ。文化8年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月11日、従五位下越中守に叙任する。有能な人物で殖産興業や民政に尽力し、凶作に備えて義倉を設置した。また、藩校の誠意館を創設して藩士子弟の教育化に努めた。 天保3年(1832年)閏11月21日、弟の勝貞に家督を譲って隠居した。弘化2年(1845年)8月に剃髪して愚山と号した。嘉永元年(1848年)8月17日、60歳で死去した。法号は督応院殿麒鳳源麟大居士。墓所は愛知県西尾市貝吹町の長円寺。 庭瀬藩の歴代藩主の中では有能な人物で、治績も残したため、中興の英主と言われている。 かつすけ Category:庭瀬藩主 Category:譜代大名 Category:1789年生 Category:1848年没.

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板倉勝成

板倉 勝成(いたくら かつしげ、1821年4月27日(文政4年3月25日) - 1848年7月25日(嘉永元年6月25日))は、備中国庭瀬藩の第9代藩主。重宣系板倉家10代。 陸奥磐城平藩主安藤信由の次男で、兄に幕末の老中安藤信正がいる。官位は従五位下、越中守。通称は鋭次郎、脩次郎。初名は信中。 先代藩主板倉勝貞の養子となっていた勝敬が早世したため、代わって養嗣子となり、嘉永元年(1848年)3月21日に養父の隠居により家督を継いだ。しかし同年6月25日に28歳で死去し、跡を養嗣子の勝全が継いだ。法号は天徳院殿峰山源照大居士。 かつしけ Category:三河安藤氏 Category:庭瀬藩主 Category:譜代大名 Category:磐城平藩の人物 Category:1821年生 Category:1848年没.

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板倉勝敬

板倉 勝敬(いたくら かつたか、文政5年(1822年) - 弘化2年(1845年))は、備中国庭瀬藩の世嗣。第7代藩主・板倉勝資の長男。 父の跡を継いだ叔父の第8代藩主・板倉勝貞の養子となる。しかし、家督相続前の弘化2年(1845年)に、24歳で早世した。代わって、陸奥国磐城平藩から板倉勝成が養子に迎えられ、嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 かつたか Category:1822年生 Category:1845年没.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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1801年

19世紀最初の年である。.

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1832年

記載なし。

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1848年

記載なし。

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1849年

記載なし。

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3月16日 (旧暦)

旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.

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4月18日

4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.

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