47 関係: 吉川弘文館、天授 (日本)、室町幕府、室町時代、守護、寛正、小笠原政康、享年、康暦、人物叢書、今川範忠、征夷大将軍、信濃国、嘉吉、福井市、福井県、織田久長、美作国、結城合戦、結城氏朝、結城持朝、甲斐国、鎌倉公方、駿河国、越前国、足利安王丸、足利義教、足利持氏、足利春王丸、関東、武将、武田信重、水藤真、永享、永享の乱、朝倉孝景 (7代当主)、朝倉家景、朝倉将景、朝倉貞景 (4代当主)、朝倉氏、斯波氏、1380年、1438年、1441年、1463年、7月19日 (旧暦)、9月2日。
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
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天授 (日本)
天授(てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.
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室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
寛正
寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
小笠原政康
小笠原 政康(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。 小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402年)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。 応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。 正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。 永享4年(1432年)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436年)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417年)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。 永享10年(1438年)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440年)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。 嘉吉2年(1442年)、小県郡海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。 信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。.
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享年
享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.
康暦
康暦(こうりゃく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永和の後、永徳の前。1379年から1380年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.
人物叢書
『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.
今川範忠
今川 範忠(いまがわ のりただ)は、室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。 第4代当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。永享5年(1433年)、父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している。 これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる(異説あり)。 康正元年(1455年)には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。 寛正元年(1460年)正月に駿河に帰国、翌年の3月20日に子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
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信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
嘉吉
嘉吉(かきつ)は、日本の元号の一つ。永享の後、文安の前。1441年から1444年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教、足利義勝。.
福井市
福井市(ふくいし)は、福井県北部(嶺北)の都市で、同県の県庁所在地である。施行時特例市。旧足羽郡。.
福井県
福井県(ふくいけん)は、日本海や若狭湾に面する日本の県。県庁所在地は福井市である。.
織田久長
織田 久長(おだ ひさなが、生没年不詳)は、室町時代の武将。父は織田勝久または織田常松・織田常竹。兄弟に織田敏貞、織田敏仁、織田常丈、織田教長?、織田郷広?、織田良信?。正室は朝倉教景女。子に織田敏定、織田常寛、織田達広。養子に織田敏仁。官位は従五位下大和守、近江守、兵庫助、通称は弾正左衛門。法名は常祐。清洲三奉行の1つ藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされる。尾張楽田城主。 横山住雄によると、朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室」とあり、「弾正忠」の官位が見えることから、織田良信の父であるというが、現時点では「弾正忠久長」による発給文書がないため推測の域を出ない。 文安5年(1448年)、『妙興寺文書』の「天祥庵規式案」によると条文に「織田兵庫助久長」とある。 応仁2年(1468年)2月28日、3月27日の「引付記録」に「織田大和守久長」とある。 永正元年(1504年)に尾張丹羽郡に楽田城を築城し、居城としたとされる。また「織田宝岩祐居士」の肖像画は織田久長とも。.
美作国
美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
結城合戦
結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。.
結城氏朝
結城 氏朝(ゆうき うじとも)は、室町時代前期の武将。下総結城氏11代当主。.
結城持朝
結城 持朝(ゆうき もちとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏12代当主。.
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
鎌倉公方
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
越前国
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利安王丸
足利 安王丸(あしかが やすおうまる)は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子。.
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足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.
足利持氏
足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.
足利春王丸
足利 春王丸(あしかが しゅんおうまる/はるおうまる)は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子。.
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関東
関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。.
武将
武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.
武田信重
武田 信重(たけだ のぶしげ)は、室町時代中期の守護大名。甲斐武田氏の第14代当主。.
水藤真
水藤 真(すいとう まこと、1945年3月17日 - )は、日本の日本史学者。 愛知県豊橋市生まれ。1970年東京大学文学部国史学科卒業。1995年「絵画・木札・石造物に中世を読む」で文学博士。福岡市教育委員会、福井市教育委員会朝倉氏址調査委員、国立歴史民俗博物館歴史研究部助教授、教授。1996年東京女子大学文理学部教授。2013年退任。.
永享
永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.
朝倉孝景 (7代当主)
朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、室町時代中期の武将。朝倉氏の7代目当主。当初は祖父や父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」(あさくら としかげ)と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。以下、本項においては原則「孝景」で統一する。.
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朝倉家景
朝倉 家景(あさくら いえかげ)は室町時代中期の武将である。朝倉氏第6代当主。 父は朝倉教景。諱は家景のほかに、為景(ためかげ)が伝わる。一時期は父と同じく教景を名乗ったとも言われる。宝徳2年(1451年)、父に先立って死去。享年49。 家景に関する資料は少なく、事績は充分に分かっていない。『朝倉始末記』でも、上記程度のことしか記載されておらず、同書末にある『日下部系図』でも、「文安三年丙子八月六日足羽北庄神明社再興」と記されているのみである。また群書類従所収の日下部系譜では、家景が飛ばされ、教景(心月)→孝景(英林)となっている。.
朝倉将景
朝倉 将景(あさくら ゆきかげ/まさかげ)は、室町時代中期の武将。越前国鳥羽に領地があったと考えられ、姓を「鳥羽」とすることもある。.
朝倉貞景 (4代当主)
朝倉 貞景(あさくら さだかげ)は、朝倉氏の第4代当主。室町時代中期に越前国で活動した。 第3代・朝倉氏景の子で、幼名を又太郎、通称孫右衛門、下野守。諱を為景とも言う。享年79。嫡子の教景が家督を継ぐ。 第4代・貞景についての資料は乏しく、その事跡は明らかとなっていない。福井県の郷土史家である松原信之は、朝倉氏が本拠地を北庄黒丸(現・福井市中央)から一乗谷に移したのは貞景の代と推測している。 応永18年(1411年)、飛騨守護代の姉小路尹綱が挙兵し、幕府による追討が行われた「飛騨の乱」に際し、越前からも斯波氏の被官(陪臣)であった甲斐氏・朝倉氏が出陣しているが、これは貞景当主の時期に相当する。 子供には、嫡子・教景のほか、北庄家初代・頼景などがいる。.
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朝倉氏
朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.
斯波氏
斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.
1380年
記載なし。
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1438年
記載なし。
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1441年
記載なし。
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1463年
記載なし。
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7月19日 (旧暦)
旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.
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9月2日
9月2日(くがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から245日目(閏年では246日目)にあたり、年末まではあと120日ある。.