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易経

索引 易経

『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物。『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』は植物である『蓍』の茎の本数を用いた占いである。商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立した。易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされている。 中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。.

146 関係: 加藤大岳劉キン (学者)十二消息卦占星術南宋南北朝時代 (中国)古文史記堀池信夫多年生植物夏 (三代)天人相関説天体天文太初暦太玄経太陰太陽太極太極図孔子孔穎達安岡正篤宋 (王朝)山縣初男山海経岩波文庫両儀中国丸山松幸三統暦三易三浦國雄三浦梅園平住専安京房二進法五経五経正義五行思想亀甲今井宇三郎伊藤東涯伏羲張載佐藤一斎...佐野学形而上学徳間書店後漢北宋マメ科ノコギリソウメドハギトカゲピタゴラスピタゴラス教団周公周礼周易周敦頤キク科ジオマンシー儒教内藤湖南写本八卦六十四卦先天図前漢四季四象 (易)王弼 (三国)神農程頤竹簡筮竹算木緯書経学経書甲骨文字白川静聖人道教荀子風水飯島忠夫馬王堆漢墓角川学芸出版角川ソフィア文庫訓詁学高田眞治講談社学術文庫魏 (三国)貝塚茂樹賈公彦黄帝黄帝内経黄老思想郭店一号楚墓閏月藤原書店邵雍鄭玄重澤俊郎致知出版社金谷治老荘思想陰陽陰陽五行思想陶希聖林泰輔揚雄欧陽脩正字武内義雄殷墟河図洛書津田左右吉朝日選書本田済朱子学朱熹戦国時代 (中国)明治書院春秋左氏伝新城新蔵新釈漢文大系文王 (周)1993年 インデックスを展開 (96 もっと) »

加藤大岳

加藤 大岳(かとう だいがく、1907年 - 1983年10月25日)は、易学者。 熊崎健翁に師事。「昭和の易聖」と呼ばれる易学の大家で、その理論は「大岳易」と呼ばれる一つの流派を確立。門下からは、三須啓仙などの易者を多数輩出した。 紀元書房の創設者の一人でもある。.

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劉キン (学者)

劉 歆(りゅう きん、? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者、目録学者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯、新では嘉新公。陽城侯・劉向の第3子。兄に劉伋と劉賜がいる。子に劉畳(新の伊休侯)、劉棻(新の隆威侯)、劉泳(新の伐虜侯)がいる。前漢の宗室の身分である。後に、名を秀に、字を穎叔と改める。.

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十二消息卦

十二消息卦(じゅうにしょうそくか)とは、漢易において1年12月二十四節気に易の卦を配したものをいう。 1年のあいだに陰陽の気が消息する様子を爻を用いて表し、冬至に一陽生じ、陽気が徐々に盛んになって消滅していく。陽気が極まると夏至に一陰生じ、陰気が徐々に盛んになり陽気は消滅していく。 Category:易.

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占星術

占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。.

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南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

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古文

古文(こぶん)は、漢字の書体の一種。広い意味での篆書系統の文字である。 広義には秦の小篆以前に使われていた文字を指すが、狭義には後漢の許慎による字書『説文解字』や魏の「三体石経」に「古文」として使われている文字、さらに出土文物である六国の青銅器・陶器・貨幣・璽印や長沙仰天湖楚墓竹簡・信陽楚墓竹簡・楚帛書といった文書に使われている文字を指す。.

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史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。.

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堀池信夫

堀池信夫(ほりいけ のぶお、1947年4月9日- )は、中国思想史学者、筑波大学名誉教授。 静岡県富士宮市生まれ。1971年東京教育大学漢文学科卒、75年同大学院博士課程中国古典学単位取得退学。75年筑波大学専任講師、1984年助教授、89年「漢魏思想史研究」で筑波大文学博士、およびサントリー学芸賞受賞。1998年筑波大哲学・思想学系教授・大学院人文社会科学研究科教授、99年哲学・思想学系学系長、02年大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻専攻長。11年定年退職、筑波大学名誉教授。06年日本学術会議連携会員。.

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多年生植物

多年生植物のツルニチニチソウ 多年生植物(たねんせいしょくぶつ)とは、個体として複数年にわたって生存する植物のことである。多年生宿根草や木本植物がそれにあたる。しばしば草本(いわゆる草)に対して用いられる言葉であり、「多年草」と呼ぶことがある。.

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夏 (三代)

夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 )は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。.

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天(Tiān、てん、あま)は、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。.

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天人相関説

天人相関説(てんじんそうかんせつ)とは儒教で主張される教義の一で、天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという思想。 董仲舒 (紀元前176年? - 紀元前104年?)) 前漢の儒学者、董仲舒は『春秋繁露』で森羅万象と人の営みには密接な関係があると説き、それを1年の月数は人体の12節に、五行は五臓に、昼夜は覚醒と睡眠に対応すると論じた。天文で人の運命を読むのも即ち天人が相関関係にあるがゆえであり、帰する所、人体は全宇宙の縮図にして小宇宙であると説いた。天子が行う政治も天と不可分のものであり、官制や賞罰も天に則って行うべきであるという。.

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天体

天体(てんたい、、)とは、宇宙空間にある物体のことである。宇宙に存在する岩石、ガス、塵などの様々な物質が、重力的に束縛されて凝縮状態になっているものを指す呼称として用いられる。.

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天文

天文(てんもん).

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太初暦

太初暦(たいしょれき)は中国暦の一つで、漢の武帝、太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法。治暦者の鄧平や方士の落下閎らによって編暦され、秦代から使われていた顓頊暦を改めた。太初暦は三統暦の補修を経ながら、後漢の章帝元和二年(85年)の改暦に至るまで190年間、施行された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒)日とし、1朔望月を(≒)日とする八十一分法を採用している。 太初暦の特徴は、音律と暦を結びつけて理論構築されている点にあり、黄鍾(音程名)の律管(音程を調律する竹管)の容積81寸から、日法である1朔望月の日数の分母81が導き出されている。よって、太初暦を八十一分律暦とも言う。 また顓頊暦が10月を年始としていたのを、太初暦では立春正月を年始とすることに改め、冬至を11月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用した。 なお『史記』の著者、司馬遷も初期の改暦議論に参加しており、『史記』暦書・暦術甲子篇に載せられている四分暦は、この時、司馬遷が編纂して採用されなかった暦ではないかと考えられている。.

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太玄経

『太玄経』(たいげんきょう)または『太玄』は、前漢末の揚雄の撰述による『易経』に似た書物。易が陰陽の二爻を6つ重ねた六十四卦によるのに対し、天地人の三才を4つ重ねた八十一首から構成される。.

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太陰

太陰(たいいん).

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太陽

太陽(たいよう、Sun、Sol)は、銀河系(天の川銀河)の恒星の一つである。人類が住む地球を含む太陽系の物理的中心尾崎、第2章太陽と太陽系、pp. 9–10であり、太陽系の全質量の99.86%を占め、太陽系の全天体に重力の影響を与えるニュートン (別2009)、2章 太陽と地球、そして月、pp. 30–31 太陽とは何か。 太陽は属している銀河系の中ではありふれた主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。推測年齢は約46億年で、中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し、主系列星として存在できる期間の半分を経過しているものと考えられている尾崎、第2章太陽と太陽系、2.1太陽 2.1.1太陽の概観 pp. 10–11。 また、太陽が太陽系の中心の恒星であることから、任意の惑星系の中心の恒星を比喩的に「太陽」と呼ぶことがある。.

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太極

陽勾玉巴(寿の字巴) 道教のシンボルともなった陰陽魚の太極図 周敦頤『太極図説』に描かれた最初の太極図。朱子学によって重視された。 太極(たいきょく、簡体字:太极 ピンイン:tàijí、タイチー)とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念である。道教や儒教(宋学・朱子学)に取り入れられた。.

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太極図

太極図(たいきょくず、正体字: 太極圖、簡体字: 太极图、Pinyin: tàijítú、Wade-Giles: t'ai⁴chi²t'u²、英: Yin Yang)は、太極を表すための図案。陰陽太極図や陰陽魚とも呼称される。 『易経』繋辞上伝にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず(易有太極、是生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦)」に由来し、宋易(宋代から興起した朱子学系統の易学)や道教において重視された。 太極図は歴史上、下記のようにさまざまに描かれてきた。ただし、どの図においても太極自体は○(円)で表された。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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孔穎達

孔穎達(くえいたつ、 574年(建徳3年) - 648年(貞観22年))は、中国初唐の学者である。冀州衡水(河北省)の出身、字は仲達、孔子の32世の孫と称している。漢音では「こうえいたつ」であるが、日本では平安時代以来の慣行で呉音の「くえいたつ」「くようだつ」で読み習わしている。 隋の煬帝の大業初(605年)、科挙の明経科に及第する。後、大学助教となる。唐になって、国子博士となり、国子監祭酒となり、また皇太子の侍講などになる。 彼は、しばしば諫言を述べたので、太宗李世民に信任されるようになった。魏徴と共に隋史の修撰に参画したことにより、名を残すこととなった。また、最も著名な業績は、「五経正義」170巻の撰述である。太宗は、儒教の流派が多く存在し、経典の解釈がさまざまにされていたのを統一させる目的で、孔穎達らに五経の義疏の撰述を命じ、完成したのが本書である。 これによって、儒教の経典のテキストの解釈が統一された。また、以後は、明経科の科挙試を受験する者に対して、この書を国定の教科書のような位置づけにしたため、受験者には便利であった。ただ、こういった気風によって学問の自由な発展は阻害される結果となった。.

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安岡正篤

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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山縣初男

山縣 初男(やまがた はつお、1873年(明治6年)8月31日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。別号は三志園、海城。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる村上市編(1992), p.722.

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山海経

『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。.

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岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.

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両儀

両儀(りょうぎ)とは、『易』の宇宙生成論において使われる概念。万物の根源である太極から生じた二極である。その解釈は一様ではないが、天と地だという説と陰と陽だという説がある。 両儀は『周易』繋辞上伝にある「易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦 八卦定吉凶 吉凶生大業」(易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず)に由来する。根元の太極から万物を象徴する八卦に至る中間の過程として表れる。 両儀からは四象が生じるが、その四象は、漢易では春夏秋冬の四季あるいは木火土金水の五行、宋易では陰陽二画の組み合わせ(画像:Taiyang.png太陽・画像:Shaoyin.png少陰・画像:Shaoyang_4.png少陽・画像:Taiyin.png太陰)とされる。 Category:易.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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丸山松幸

丸山 松幸(まるやま まつゆき、1934年10月24日 - )は、中国思想史学者、東京大学名誉教授。台北生まれ。.

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三統暦

三統暦(さんとうれき)は中国暦の一つで、劉歆が太初暦を補修して作った太陰太陽暦による天体暦。王莽の新と後漢で用いられ、後漢の章帝の元和二年(85年)の改暦に至るまで使われた。従来の月日の配当に加え、日月食の予報や五惑星の位置計算が導入され、天体暦としての性格が強い中国の暦の規範となった。班固の『漢書』律暦志に記載されている。 三統とは、天統=夏、地統=殷、人統=周というように「三」を周期に王朝が循環するという三統説に由来する。劉歆はこの三統説に形而上学的な意味を付与し、五行説と組み合わせてさまざまな現象を解釈した。これによって三統暦では、暦と五声十二律や度量衡が連動して扱われている。 天体暦として予報のため食周期135月が導入されたり、紀年のため木星の運行を144年に一次(天球の十二分の一区画)を超えて145次とする超辰法、暦元をきわめて遠い過去に置いて暦計算する上元積年法が行われている。 category:中国暦 category:暦法.

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三易

三易(さんえき)とは、古代中国における卦を用いた占いの書である連山(れんざん)・帰蔵(旧字体:歸藏、きぞう)・周易(しゅうえき)の総称。.

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三浦國雄

三浦 國雄(みうら くにお、1941年7月 - )は、中国哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。四川大学文化科技協同創新研発中心教授。.

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三浦梅園

三浦 梅園(みうら ばいえん、享保8年8月2日(1723年9月1日) - 寛政元年3月14日(1789年4月9日))は、日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。諱は晋(すすむ)。.

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平住専安

平住 専安(ひらずみ せんあん、生年不詳 - 享保19年8月7日(1734年9月4日))は、元禄年間から宝永年間にかけて伊予吉田藩(伊達氏、現・愛媛県宇和島市吉田町)にて御殿医を勤めた儒医で、儒学者、朱子学者(崎門学脈(山崎闇斎)、浅見絅齋-山本復斎門下)、本草学者でもあった。名は「周道」。字は「専安」。号は「専庵」、「専菴」、「建春山人」、「橘墩」、「橘館」、「静斎」、「季直」と称した。.

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京房

京 房(けい ぼう、紀元前77年-紀元前37年)は、前漢の人。字は君明。東郡頓丘の人。元の姓は李であったが、自ら京氏に改姓した。易経の大家。.

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人(ひと、にん、じん) 現代中国語では、rén と読む。.

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二進法

二進法(にしんほう)とは、2 を底(てい、基(base)とも)とし、底の冪の和で数を表現する方法である。 英語でバイナリ (binary) という。binaryという語には「二進法」の他に「二個一組」「二個単位」といったような語義もある(例: バイナリ空間分割)。.

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五経

五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。 ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」を含めた形で読まれた。 現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。.

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五経正義

『五経正義』(ごきょうせいぎ)は、中国・唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達等が太宗の貞観年間より高宗の永徽年間にかけて撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。宋代には経注と合刻されて『十三経注疏』に収められた。 儒教の経典を研究する経学においては、漢魏が、本文としての「経」に対する「注」の時代であり、南北朝時代が、その「注」に対する「義疏」の学問が盛行した時代である。南朝と北朝とでは、それぞれ奉ずる注が異なっており、諸説紛紛たる様であった。 太宗は、儒教の盛大なる様を誇示し、なおかつ南北の諸説を統一しようという意図を持って、孔穎達に代表される多くの学者を動員して、『五経義訓』(後の『正義』)を撰せしめた。その意図するところは、南北諸説の統一にあったのだが、結果的には南人の奉ずる注・疏を多く採用することとなった。 また、本書が出現したために、科挙を受験する諸生は専らこれを暗記するのみとなってしまい、他の注や義疏が忘れ去られる結果となり、かえって唐代の経学は本書によって停滞してしまったと言える。 対象とした注と底本は以下の通りである。 category:経書 Category:注釈書 Category:7世紀の書籍.

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五行思想

250px 五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。 また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。 西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。.

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亀甲

亀甲(きっこう・かめのこう・かめのこ・かめこう・きこう)とは、カメの甲羅のこと。転じて、六角形状のものを表す。.

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今井宇三郎

今井 宇三郎(いまい うさぶろう、1911年 - 2005年)は、中国思想史学者。 1939年東京文理科大学卒、筑波大学教授、筑波大学哲学思想学系初代学系長。1961年「宋代易学の研究」で東京教育大学文学博士。1975年定年退官。大東文化大学教授をへて追手門学院大学教授。 易学が専門だが、『菜根譚』の注釈でも知られる。.

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伊藤東涯

伊藤 東涯(いとう とうがい、寛文10年4月28日(1670年6月15日) - 元文元年7月17日(1736年8月23日))は、江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。異母弟に同じく儒学者の伊藤介亭がおり、母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・元蔵、東涯と號し、又慥々齋と号す、諡は紹述先生。.

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伏羲

伏羲氏と女媧氏 馬麟画) 伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・庖犧・包犧・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は風。兄妹または夫婦と目される女媧(じょか)と共に、蛇身人首の姿で描かれることがある。.

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伝(でん、zhuan、傳)とは、儒教の基本経典となる六経に対する注釈書。記(き)と呼ばれるものもあり、合わせて伝記(でんき)ともいう。伝説上、孔子および孔子の直弟子(七十子、特に子夏)から伝承され、その系譜を受けたものによってなされた注釈をいう。このため伝統的な儒教では伝に孔子の思想が込められていると考えられ、経の次に重要な書物とされた。実際には戦国末期・秦・漢初の儒家たちによって編纂されたものである。 また宋代になると漢唐の注釈は批判されるようになり、従来の伝は否定されるようになり、自らが孔子の道統を継いでいるとする自負によって「伝」の名のもとに新たな注釈が作られた。 後には権威ある伝は経とまとめて一つの書物とされ、五経の一部となっている。.

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張載

張載(ちょう・さい、1020年 - 1077年)中国・北宋時代の儒学者。字は子厚、横渠先生と称された。宋学において、いわゆる「気の哲学」(唯物論)を創始したことで知られる。.

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佐藤一斎

佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。.

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佐野学

佐野 学(さの まなぶ 1892年2月22日 - 1953年3月9日)は日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。.

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形而上学

形而上学(けいじじょうがく、μεταφυσικά、Metaphysica、Metaphysics、métaphysique、Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。対立する用語は唯物論である『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目。.

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徳間書店

株式会社徳間書店(とくましょてん、Tokuma Shoten Publishing Co., Ltd.)は、日本の出版社。エンタテインメント分野が中心。 カルチュア・コンビニエンス・クラブの連結子会社。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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律(りつ)は、以下の様々な意味で使用されている。.

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地(チ、ジ、つち)とは、土、陸、場所、下などを指す。比喩、抽象、哲学などの意味で使われる場合もある。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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マメ科

マメ科(まめか、 )は、被子植物に含まれる分類群の1つで、いわゆるマメの仲間を含む。 マメ科・ネムノキ科・ジャケツイバラ科に3分する説もあったが、ジャケツイバラ科が他の2科を内包する側系統であり、系統的には否定された。.

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ノコギリソウ

ノコギリソウ(鋸草)は、キク科ノコギリソウ属の1種である。葉形から鋸草、別名ノコギリバナ(鋸花)、羽衣の故事からハゴロモソウ(羽衣草)とも称される。また、ゴコウソウ(蜈蚣草)、ユウエンソウ(蚰蜒草)、漢名でキ(蓍)と書き、蓍草とも。.

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メドハギ

メドハギはハギ属の雑草で、真っすぐに立つ姿が特徴的である。薬草としても使われるほか、独特の利用が知られる。.

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トカゲ

トカゲ(蜥蜴、石竜子)は、有鱗目トカゲ亜目に分類される爬虫類の総称。.

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ピタゴラス

ピタゴラス(、Pythagoras、Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、古代ギリシアの数学者、哲学者。「サモスの賢人」と呼ばれた。ピュタゴラスとも表記される。.

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ピタゴラス教団

日の出を祝うピタゴラス(:en:Fyodor Bronnikov画) ピタゴラス教団(ピタゴラスきょうだん、Pythagorean Order)は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社。ピュタゴラス教団とも。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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周公

周公(しゅうこう)は、周代の畿内諸侯(邦君)の称号。武王の弟である周公旦を初代とする。周公の一族は召公や毛伯らとともに周王朝の有力政治家を輩出した。.

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周礼

周礼(しゅらい)は、儒家が重視する経書で、十三経の一つ、『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つである。 周公旦が書き残したものとされるが、実際には戦国時代以降に周王朝の理想的な制度について記したものと見られ、実際の金文資料や他の先秦の文献に見られる制度とは食い違いを見せている。 『十三経注疏』には、後漢の鄭玄注、唐の賈公彦疏が付けられた『周礼注疏』が収められている。.

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周易

周易(しゅうえき)は易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術である。「易」の意味は、変化、蜥蜴、日月、など、昔から諸説ある。伝説によると易経は周王朝時代に成立した、中国で最初の書物とされているが、易経の繋辞伝は漢の時代に成立したものなので、伝説以上のものではない。中国哲学研究者の三浦國雄はその著書において、易経について、 もともとこれは、おみくじのような断片的な占いのことばだったはずですが、一冊のテキストに編集されていく過程でずいぶん化粧をほどこされ、いつの間にか『易経』などと呼ばれて神聖な儒教の経典の仲間入りどころか、そのトップに祀り上げられたのです。 「化粧をほどこされ」たと述べたのは、漢の時代に繋辞伝をはじめとする注釈が書かれたことを指していて、これでこの書物もずいぶんらしくなったのですが、それでも卜筮の書というその性格が否定されたわけではありませんでした。 と語っている。 易経は、古い時代からの卜辞の集積から爻辞が生まれ、次いで卦名、卦辞が作成されるといった変遷を経て成立したものであることが、近年の出土資料からはっきりしてきた。そういった考察をまとめた研究の1つに、元勇準の「『周易』の儒教経典化研究: 出土資料『周易』を中心に」がある。また1977年に安徽阜陽双古堆の西漢汝陰候墓から出土した、阜陽漢簡『周易』には卦辞爻辞に対して卜辞が付けられていて、詳細な占筮の書として使用されていたことを裏付けている。 従って台湾の邵詩譚や徐世大などの「周易の本文は卜筮のために書かれたものではない」という説は今日では成立の余地が殆んどない。 易経は周易の原文である爻辞、卦画、卦名、卦辞に十翼と呼ばれる附文を加えたものである。古くは十翼は孔子の作と伝説的に言われてきたが、十翼の文体は孔子の時代の文体よりはるかに新しく、漢代以降の文体であることは、現代の学者の認めるところである。古くは北宋の欧陽脩が既に孔子説を否定している。 また周易とは別に易の名を持つ占術に、断易や五行易とよばれる占術がある。これは易卦の爻に十干十二支を付加し、その五行の消長によって吉凶を断じるものである。ただ五行易の原典の1つである易冒では、易卦の爻に変化するものがない鎮静卦における占断は易卦の卦辞に従うとしており、断易もまた周易から切り離されたものではない。.

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周敦頤

周敦頤・『晩笑堂竹荘畫傳』より 周 敦頤(しゅう とんい、天禧元年(1017年) - 熙寧6年6月7日(1073年7月14日))は北宋の儒学者。現在の湖南省永州市道県に位置する道州営道の出身。字は茂叔、号は濂渓。.

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キク科

イワニガナ(ジシバリ) クリサンセマム(青はネモフィラ) キク科(キクか、学名:、保留名:)は、被子植物真正双子葉類に属する1分類群である。もっとも進化し、もっとも分化している植物とされる。.

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ジオマンシー

プトまたはシリアで1241年から1242年に Muhammad ibn Khutlukh al Mawsuli が製作したジオマンシー用装置。ダイヤルを回すとドットのパターンが無作為に現れるので、それを解釈する。 (大英博物館) ジオマンシーまたはゲオマンシー(geomancy、ギリシア語: γεωμαντεία)は、土や石や砂を手に握り、それを地面に投じてできたパターンを解釈して行う占いの一種である。土占いとも。最も広く流布したジオマンシーの方式では、16種類の形を再帰的にあてはめて解釈し、占星術的解釈とからめて行うことが多い。 アフリカおよび中世とルネサンス期のヨーロッパで流行し、社会のあらゆる階級で行われた。17世紀まで本や論文が出版されていたが、オカルトが流行らなくなると共に出版も下火になった。近年、John Michael Greer の作品などで再び注目されるようになり、主なオカルトサークルでジオマンシーが行われるようになっている。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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写本

13世紀ヨーロッパの彩色写本 写本(しゃほん、Manuscript)とは、手書きで複製された本や文書、またはその行為そのものを指して示す用語。時に、原本(オリジナル)である正本(しょうほん・せいほん)と対応させて、それを書き写した書写本であることを強調するために用いられることもある。.

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八卦

八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易における8つの基本図像。すなわち、.

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六十四卦

六十四卦(ろくじゅうしけ、ろくじゅうしか)は、占いのひとつで儒教の基本経典でもある易で用いられる基本図象。 より基本的な図象である八卦を二つ重ねたもので、それぞれの組み合わせには、一つ一つ占いの文句が付せられ、それが卦辞として書かれている。さらに各卦の6爻、一つ一つにも占いの文句が爻辞としてつけられており、『易経』には全部で64の卦辞、384の爻辞が設けられている。.

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先天図

先天図(せんてんず)とは、北宋の儒学者邵雍が考えた易卦の生変に関する学説にもとづく次序や方位によって八卦および六十四卦を配した図である。邵雍はこの図の原作者を天地自然に象って八卦を創り出した伏羲とし、それを復元したと考えた。一方、現行『周易』における卦の配列、すなわち従来の易伝によって示された次序や方位によって卦を配列した図は後天図(こうてんず)と呼ばれ、その作者は周の文王とされる。 先天図における八卦の生成分化 先天図における卦の生成過程は太極から始まる宇宙生成論を表すとして朱子学において重視された。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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四季

四季(しき)は、四つの季節、すなわち春・夏・秋・冬のこと。世界中の温暖大陸性気候、温暖海洋性気候および季風気候の多くの国々で存在している自然現象の一つ。.

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四象 (易)

四象(ししょう)とは、『易』の宇宙生成論において使われる概念。その解釈は歴史的に一様ではない。主として漢易では四時(四季)あるいは五行とし、宋易では陰陽2爻を2画組み合わせた画像:Taiyang.png太陽・画像:Shaoyin.png少陰・画像:Shaoyang_4.png少陽・画像:Taiyin.png太陰とする。.

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王弼 (三国)

王 弼(おう ひつ、226年 - 249年)は、中国三国時代の魏の学者・政治家。字は輔嗣。兗州山陽郡の人。祖父は王凱。父は王業。兄は王宏。 王弼は何晏らと共に「玄学」を創始したとされている。『三国志』では鍾会の伝に付された裴松之の注に、西晋の何劭の書いた伝が引用されている。.

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神農

農 神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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程頤

程 頤(てい い、1033年 - 1107年)は、中国北宋時代の儒学者。字は正叔。伊川先生と称された。兄の程顥とともに朱子学・陽明学の源流の一人で、兄とあわせ「二程子」と呼ばれる。.

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竹簡

竹簡(ちくかん)は、東洋において紙の発明・普及以前に書写の材料として使われた、竹で出来た札(簡)。木で作られたものを木簡という。ごく特殊な例として、封禅のために玉で作成した「玉簡」も用いられた。公式文書では通常長さは一尺。紙普及後も、紙の代用として、あるいは荷札などの標識として長く用いられた。 簡をバラバラにならないよう紐でまとめ、編むことを「書を編む、編集」といい、編まれた簡を「一編の書」といい、編まれた書を巻いたものを「一巻の書」という。また簡を紐で束ねたものを「一冊」とする。冊は板(簡)を紐で束ねた象形文字である。ちなみに板を束ねた(並べた)構造物を「柵」という。 一般に竹黄(竹の内側部分)を書写面とするが、竹青(竹の外側部分)に書写されている場合もある。 竹簡が利用されたのは古代のことではあるが、故事・成語などの中では書写素材としての竹簡は健在である。孔子が易経を繰り返し読んで、綴じたひもが3回切れた故事から、本を熟読することを「韋編三絶」というが、「韋」とは「経」(たていと)に対する「緯」(よこいと)の意味で韋編とは横糸で綴じた編綴簡を意味する。革紐ではない。「韋編三絶」とは、何度も切れるほど『易経』を愛読したという意味である。歴史に名を留めることを「名を竹帛に垂れる」というが、名が竹簡や絹に記され、残ることを表現したものである。小役人を刀筆の吏というが、この「刀」は簡を作ったり、削って文字を訂正するための小刀である。 紙の普及に伴い、中国では東晋の桓玄の命によって公の場から竹簡が排除されたと言われている。だが、代わって竹で作られた紙である竹紙が作られ、現在も一部分野で用いられている。 遺跡等から出土して歴史・文字等の重要な史料となっている。木簡(木牘)とを竹簡を合わせて「簡牘」と呼ぶ。.

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筮竹

竹。右は350mlビール缶(サイズ比較用) 筮竹(ぜいちく)とは、易占において使われる50本の竹ひごのようなものである。長さは35cmから55cm程度のものが多く、両手で天策と地策に分けるときに扇形に開きやすいよう、手元に当たる部分をやや細く削ったものもある。算木とともに、易者のシンボルとして知られている。竹でないものもすべて含めて筮(めどき)と呼ぶ。 『繋辞伝』に「蓍之徳圓而神卦之徳方以知」とあることから、古くは蓍(シ、めどぎ。キク科の多年草であるノコギリソウを指す)の茎を用いていたことが分かる。しかし、『繋辞伝』は蓍という植物の神秘を説くものではない。周易の基本は数にあるので筮の材質は何でも良い。蓍の精油は西洋において媚薬として知られていたものであるが、無論、易の神秘の西洋魔術を混同すべきではない。ほかにメドハギも使われたという。 筮の数は大衍の数、即ち50であるが、占いに用いるときは一を太極に象(かたど)り、49を用いる。大衍の数の由来には定説がないが、天数25と地数30の和より天地に共通する五行を除くという鄭玄の説が尤もらしい。.

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算木

楊輝の三角形 算木(さんぎ)または算筹(さんちゅう)とは中国数学や和算で用いられた計算用具である。縦または横に置くことで数を表した。算木に基づく算木数字も使われた。算木を用いた計算法を籌算という。.

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緯書

緯書(いしょ)とは漢代、儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物。「緯」とは「経」(たて糸)に対する「よこ糸」であり、経書に対応する書物(群)を指して緯書と称している。 七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対して緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する。 狭義の緯書は、経書の注釈として、経書の内容に従って書かれた書物を指しているが、緯書は、天文占など未来記としての讖記(しんき)と同様の内容を含むものも含んでいる。よって、広義では、緯と讖とを総称して緯書と呼んでいる。また、讖緯(しんい)の説、讖緯思想という呼ばれ方もする。 前漢末から後漢にかけて隆盛し、後漢では内学とまで呼ばれた。緯書の原本は隋の煬帝により禁書処分されて散逸し、三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)に『易緯』、『詩緯』が逸文として断片的に残る。そのうち鄭玄の注に、辛酉革命説の記述がある。また神話や伝説、迷信などを含む一方、天文や暦法、地理などの史料を豊富に含んでいる。.

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爻(こう)は、易の卦を構成する基本記号。長い横棒(─)と真ん中が途切れた2つの短い横棒(--)の2種類がある。経では前者を剛、後者を柔と呼ぶが、伝では陽、陰とする。陽爻と陰爻は対立する二面性を表し、陽爻は男性・積極性などを、陰爻は女性・消極性などを表す。これらを3つ組み合わせた三爻により八卦ができ、六爻により六十四卦が作られる。このように陽爻と陰爻を組み合わせることにより事物のさまざまな側面を説明する。なお朱子学系統の易学、宋易において爻を2つ組み合わせてできるものを四象といい、それぞれ画像:Taiyang.png太陽・画像:Shaoyin.png少陰・画像:Shaoyang_4.png少陽・画像:Taiyin.png太陰と呼ぶ。 経には六十四卦の爻ごとに爻題と爻辞が付されている。爻題は必ず2字で構成され、1字は爻の順序を表し、もう1字は爻の性質、すなわち剛(陽)か柔(陰)かを表す。爻の順序は下から上であり、1番下の爻から「初・二・三・四・五・上」と名付けられる。一方、爻の性質は数字によって表され陽爻には九、陰爻には六が用いられる。そして爻辞にはそれぞれの爻が示す占いの言葉を書き記している。例えば、乾卦の初爻であれば、「初九、潜龍勿用」というように書かれており、「初九」が爻題、「潜龍勿用」が爻辞である。なお爻題は初爻と上爻では順位・性質の順番であるが、二爻から五爻では性質・順位の順になる(例えば六二、九四というように)。 こう.

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経学

経学(けいがく)は、旧中国(王朝時代の中国)において、儒教の聖典である経書の権威を是認し、その前提の下に経書に現れた聖王ないし聖人の発言趣旨を解読しようとする学問。経書の注釈、ないしそれに類する総合的論究を指す場合が一般的であるが、より広く経書の成立や学説の継承などについて研究する場合、さらに拡大しては古典世界の解明も含まれる場合がある。現在では、経学的権威を認めず、形態的に旧来の経学研究に類似する研究を行う場合も、経学の名で呼ばれる場合がある。 経学の歴史は3分される。第1は漢代を代表とするものであり、第2は宋代を代表とするものであり、第3は清朝を代表とするものである。ただ、第3の清朝経学は漢代経学と同一であるとする立場があり、これに従うと経学の歴史は漢代と宋代との2区分となる。概括すると、漢代経学は経書の字句解説を主とする訓詁学(後、漢代の訓詁に注釈を施す義疏学が発展し、それを総じて訓詁義疏学と呼ぶ場合もある)とされ、宋代経学は経典の趣旨(義理)を分析する義理学であるとされる。.

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経書

経書(けいしょ)は、儒教でとくに重視される文献の総称。経典(儒家経典)ともいう。 もともとは聖人の著作のみを指すが、後世には意味が拡大され、賢人の著作や言行録、一部の注釈類も経書として扱われるようになった。経書は中国の伝統的な図書分類法である四部分類において大分類の1番目に挙げられている。具体的には戦国以来の六経(楽経は早くに亡び、五経となった)、五経・四書(四書五経を参照)・十三経を指す。また経書の注釈を主とする研究を、経学と呼ぶ。 「経」には織物の「たていと」の意味があり、織布を織るとき、経を固定し、それを基幹として織り上げていくことから、古今を貫通して不動の基幹となる古典をも表すようになったという説が生まれた(『説文解字』に記載)。これにより漢代には、経に対応する緯(よこいと)の「緯書」という文献も作られた。.

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甲骨文字

文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。 漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。 殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。 2017年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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白川静

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。.

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聖人

聖人(せいじん[漢音]、しょうにん[呉音])とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。.

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道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

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荀子

荀子(じゅんし、紀元前313年? - 紀元前238年以降)は、中国の戦国時代末の思想家・儒学者。諱は況。尊称して荀卿とも呼ばれる。漢代には孫卿とも呼ばれた。.

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風水

水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御する思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。.

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飯島忠夫

飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、東洋史学者。 長野県松代町(現長野市)出身。小学校卒業後、母校で雇として教えるかたわら、旧松代藩上級藩士長谷川昭道に漢学を師事、1901年上京し旧制錦城中学に編入、翌年卒業、臨時お茶の水第一教員養成所に入り、1904年卒業し学習院中等科教授、37年まで務めた。東京帝国大学選科修了。帝大では上田万年に師事した。1929年「支那古代史論」で東京帝大文学博士。中国古代史、暦法研究のほか、郷土の人物として佐久間象山も研究した。.

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馬王堆漢墓

王堆漢墓(まおうたいかんぼ)は、湖南省長沙市芙蓉区にある紀元前2世紀の墳墓。利蒼(- 紀元前186年)とその妻子を葬る。1972年の発掘時、利蒼の妻の遺体が未だ生けるが如き状態だったことで知られる。また副葬品にも貴重な工芸品や帛書が含まれ、中国古代史研究にとって多くの重要な資料を提供した。.

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角川学芸出版

角川学芸出版(かどかわがくげいしゅっぱん)は、日本の出版社・KADOKAWAと角川文化振興財団の共通ブランド。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川学芸出版についても解説する。.

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角川ソフィア文庫

角川ソフィア文庫(かどかわソフィアぶんこ、Kadokawa Sophia Bunko)は、株式会社KADOKAWAが、角川学芸出版ブランドで発刊している学術書を軸とした文庫レーベル。.

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訓詁学

訓詁学(くんこがく)とは、中国の伝統的な言語学のうち、語の意味を研究する分野をいう。とりわけ漢以前の古書に見られる古代語を研究した。その著作は古代の書籍に注釈する形のものと、語を集めて分類し語義を分析したもの(義書)がある。.

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高田眞治

治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、支那思想学者、元東京帝国大学教授。 大分県宇佐町生まれ。1920年東京帝国大学漢学科卒、水戸高等学校教授、24年京城帝国大学予科教授、28-30年ドイツに留学、30年東京帝大助教授、米国、中華民国に留学、帰国後1934年教授、1936年文学博士となる。また1932年に漢学会を設立し、『漢学会雑誌』を創刊、国家主義的思潮に沿って東京帝大支那哲学文学科を指導、敗戦により教員不適格とされ、1948年退職。56年大東文化大学教授、63年定年となる。長い沈黙を経て、『詩経』の全注釈を上梓した。子は中国文学者の高田淳。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

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貝塚茂樹

貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年(明治37年)5月1日 - 1987年(昭和62年)2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者。専攻は古代中国考古学。京都大学名誉教授。文学博士。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。旧姓は小川、貝塚は1945年(昭和20年)に入り婿した妻の実家の姓である。.

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賈公彦

賈 公彦(か こうげん、生没年不詳)は、唐の儒家・。唐州永年(現河北省邯鄲市)に生まれる。太常博士を務め、周礼注疏や儀礼注疏の編纂に携わった。.

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黄帝

帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年).

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黄帝内経

『黄帝内経』(黄帝内剄、こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。 2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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黄老思想

老思想(こうろうしそう)は、中国、戦国時代から漢代初期にかけて流行した道家の一学派の思想であり、その学問を黄老の学という。黄老道(こうろうどう)とも言う。黄帝を始祖とし老子を大成者としたことからこのように称される。 君主が天道に背く君主の勝手な行動をとることを禁じ、また秩序維持のために社会に過度に干渉することは避け、さらに統治にかかるコストを下げるべきとする考えであり、漢代初期においては最も影響力をもった思想であった。 『黄帝四経』や『老子』をその思想的根拠・教典とする。『史記』によれば、斉の稷下の学者である慎到・田駢・接予・環淵らがその代表的人物である。また、『史記』老子韓非子列伝では申不害や韓非子を「黄老に本づき刑名をたっとぶ」とあり、法家の刑名思想を黄老に由来すると考えている。そこで黄老刑名の学とも呼ばれる。 漢代初期においては曹参・汲黯・田叔といった人物がいる。また景帝の母である竇太后は黄老の書を好んだという。『史記』楽毅列伝に曹参に到るまでの黄老の学の系譜が書かれており、河上丈人→安期生→毛翕公→楽瑕公→楽臣公→蓋公→曹参となっている。このうち、楽臣公と蓋公は実在が確かめられる人物である。 1973年、長沙馬王堆漢墓三号墓から出土した『経法』『十六経』『称』『道原』といった帛書は『黄帝四経』と呼ばれ、黄老思想の貴重な研究材料となっている。.

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郭店一号楚墓

郭店一号楚墓(かくてんいちごうそぼ)とは、中国湖北省荊門市にある陵墓。 1993年に発掘調査が行われ、大量の竹簡が発見された(郭店楚簡)。その中には、儒家にかかわる未発見の文献や『老子』などが含まれており、中国思想の常識を覆すものであった。 出土した器物の特徴などの観点からみて、紀元前300年頃の楚の貴族の墓である。 また、1994年香港のブラックマーケットに出現した竹簡(「上海博物館蔵戦国楚竹書」。放射性炭素による年代測定の結果は紀元前308年±65年とされる)も、郭店一号楚墓から盗掘されたものとの考えもあるが、詳細は不明である。.

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舜。 舜(䑞、しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。 舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。 堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。 そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。 この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。 帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。 南風歌という歌を作ったと言われている。 陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。 ちなみに白川静は舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。.

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閏月

閏月(うるうづき / じゅんげつ)とは、太陰太陽暦において加えられる「月」のこと。これによって一年が13か月となる。.

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藤原書店

株式会社藤原書店(ふじわらしょてん)は、日本の出版社。主に、歴史、経済学、社会学、女性学等の社会科学全般の専門書や、教養書の出版をしている。.

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邵雍

邵雍(しょう・よう、1011年 - 1077年)は、中国・北宋時代の儒学者。字は堯夫、諡を康節という。.

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鄭玄

鄭 玄(てい げん、127年(永建2年) - 200年(建安5年))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。字は康成。祖父は鄭明。父は鄭謹。子は鄭益(字は益恩)。孫は鄭小同(字は子真)。.

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重澤俊郎

重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1990年5月21日)は、中国哲学者。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部支那哲学科卒。第三高等学校教授、1942年京都帝大文学部助教授、50年「経学研究」で京大文学博士、京都大学教授、70年定年退官、名誉教授。.

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致知出版社

致知出版社(ちちしゅっぱんしゃ)は、東京都渋谷区に本社を置く日本の出版社である。.

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金谷治

金谷 治(かなや おさむ、1920年2月20日 - 2006年5月5日)は、日本の東洋学者。専門は中国哲学、特に中国古代思想史。三重県伊賀市出身。.

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老荘思想

老荘思想(ろうそうしそう)は、中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。 老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。 『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。.

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陰陽

陽(いんよう、拼音: yīnyáng、英: yin - yang)とは、中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つのカテゴリに分類する思想。陰と陽とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる 。 このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行説を構成した。.

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陰陽五行思想

陽五行思想(いんようごぎょうしそう)とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。.

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陶希聖

陶 希聖(とう きせい)は、中華民国の社会学者・政治学者・法学者・政治家。当初は中国共産党に属したが、後に中国国民党に転向する。また、汪兆銘(汪精衛)に随従して日本との和平工作に従事したが、汪兆銘政権成立直前に離脱したことでも知られる。名は彙曽だが、一般には字の希聖で知られる。.

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暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、.

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林泰輔

林 泰輔(はやし たいすけ、1854年(安政元年) - 1922年(大正11年))は、日本の漢学者。下総の人。号は進斎。 東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。その甲骨文の研究は羅振玉にも影響を与え、甲骨学の大成に貢献した中西 P.812貝塚(書道全集) PP..13-14。.

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揚雄

揚 雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳5年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。.

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欧陽脩

欧陽 脩(おうよう しゅう、欧陽修とも、景徳4年6月21日(1007年8月6日) - 熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日))は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。.

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正字

正字(せいじ)とは、漢字の書写において正規の字体で書かれた文字を指す。正字体、時に正体ともいう。.

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武内義雄

武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9日 - 1966年(昭和41年)6月3日)は、日本の東洋学者・中国哲学研究者。東北帝国大学名誉教授。三重県生まれ。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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殷墟

殷墟(いんきょ)は古代中国殷王朝後期の首都の遺構。中華人民共和国河南省安陽市の市街地西北郊、殷都区に位置する。.

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河図洛書

河図洛書(かとらくしょ)は、古代中国における伝説上の瑞祥である河図(かと)と洛書(らくしょ)を総称したもの。略して図書(としょ)ともいう。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。儒教において、八卦や洪範九疇の起源と考えられて重視された。.

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津田左右吉

津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の歴史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる。栄典は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章。.

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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朝日選書

朝日選書(あさひせんしょ-)は朝日新聞社(現:朝日新聞出版)刊行の選書シリーズ。 1974年に創刊以来、文学・歴史・政治・思想・経済・芸術・科学史などの各分野の書き下ろしと、新古典での改訂再刊もある。 これまで刊行されたうち、91の書籍が、朝日オンデマンド・ブックス(オンデマンド版)として復刊されている。 (著) 易―中国古典選〈10.

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本田済

本田 済(ほんだ わたる、1920年1月7日 - 2009年9月21日)は、中国哲学者。 三重県生まれ、京都府宇治市出身。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒。1964年「易経の思想史的研究」で京都大学文学博士。1949年高槻高等学校教諭、1952年大阪市立大学文学部助教授、1965年教授、1980年定年退官、名誉教授、梅花女子大学教授、1983年学長。号は鬳斎(けんさい)。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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朱熹

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.

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月(つき、Mond、Lune、Moon、Luna ルーナ)は、地球の唯一の衛星(惑星の周りを回る天体)である。太陽系の衛星中で5番目に大きい。地球から見て太陽に次いで明るい。 古くは太陽に対して太陰とも、また日輪(.

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戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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春秋左氏伝

『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字:春秋左氏傳、)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。.

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新城新蔵

新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日『日本近現代人物履歴事典』274頁 - 1938年(昭和13年)8月1日)は日本の天文学者・東洋学者、理学博士。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前における東洋天文学研究の権威であった。第8代京都帝国大学総長。.

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新釈漢文大系

『新釈漢文大系』(しんしゃくかんぶんたいけい)は、明治書院で出版する中国古典を網羅した「漢文大系」。 古代中国から宋代までの、著名な思想・歴史・文芸古典を、完訳・解説する。.

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文王 (周)

文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 - 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。.

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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