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弁官

索引 弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

71 関係: 史 (律令制)参議名家 (公家)吉川弘文館大納言大蔵省大臣 (日本)太政官太政官符太政官牒外記季禄宮内省官宣旨寛平小槻奉親小槻氏少納言岩波書店中務省中納言三事兼帯平安時代五位蔵人延喜式式部省従四位刑部省善がい訴訟事件品官公卿補任兵部省勧修寺流四等官神祇官羽林家鎌倉時代非参議頭弁衛門府養老律令要劇料馬料諸大夫議政官近衛府藤原伊周蔵人頭院政東京大学出版会...森田悌権官正七位正五位正六位永延永祚 (日本)民部省治部省源希源昇春宮坊日野家時服10世紀12世紀1983年1986年2009年2011年2014年 インデックスを展開 (21 もっと) »

史 (律令制)

史(し)とは、日本律令制において神祇官・太政官(弁官局)に設置された大史・少史の総称。四等官の4番目である主典(さかん)に相当する。官位相当は神祇官の大史は正八位下、同少史は従八位上であるのに対して、太政官の大史は正六位上、同少史は正七位上とそれよりも高く位置づけられている。定員は神祇官は大少各1名(全2名)、太政官は左右弁官局に大少各2名(全8名)。 古くから文筆を掌る官を「史(ふひと/ふみひと)」と呼び、この職に就いた渡来人系の氏族に対して史の姓が授けられる事があった。 律令制においては、上級者の命令を受けて公文書の記録・作成を掌り、公文書の内容を吟味して上級者の判断を仰ぎ、読申することを職掌とした。 太政官の史は、弁官が率いる弁官局に属しており、同局が左右に分かれていることから、左大史・右大史・左少史・右少史に各2名合わせて8名存在することから八史(はちし)とも呼ばれた。後に弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇るものが現れるようになり、これを特に大夫史(史大夫)と呼んだ。小槻奉親が五位の左大史に就任して以後、小槻氏(壬生家・大宮家)は代々にわたって大史上席(官務)を務めたため、「官務家」と称され、太政官の記録・文書の伝領保存の任にあたるようになる。 史は、六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・近衛将監・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年、上﨟者(在職年数の長い者)1名が従五位下に叙された(巡爵)。史8名のうち五位左大史(大夫史)1名が別格で、六位の史は左大史1人、右大史2人、左少史2人、右少史2人の計7人であるため、右少史に任じられた者は左少史・右大史を経て左大史に昇進し、史を計七年間務めて叙爵されることになる。六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・検非違使衛門尉などから叙爵した者と同様に史から五位に叙された者は受領に任じられる資格があり、叙爵後一定の待機期間の後、受領に任じられた。 左大史の辞令(口宣案)の例  「長興宿禰記」 上卿 中御門中納言 文明十八年七月十二日 宣旨 從五位上小槻時元 宜任左大史 藏人頭左中辨藤原元長奉 (訓読文)上卿 中御門中納言(中御門宣胤 45歳 従二位権中納言) 文明18年(1486年)7月12日 宣旨  従五位上小槻時元(大宮時元 18歳) 宜しく左大史に任ずべし、蔵人頭左中辨藤原元長(甘露寺元長 31歳 正四位上)奉(うけたまは)る.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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名家 (公家)

名家(めいけ、めいか)とは、鎌倉時代以降に成立した公家の家格のひとつで、羽林家と同列で、半家の上の序列に位置する。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大蔵省

旧大蔵省庁舎(現・財務省庁舎) 大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance, MOF)は、明治維新から2001年(平成13年)1月6日まで存在した日本の中央官庁である。後継官庁は財務省と金融庁。前近代の律令制による大蔵省も奈良時代の大宝律令から明治維新まで存続していたため、「大蔵省」という名称は1300年の長きにわたって用いられたことになる。.

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大臣 (日本)

大臣は、重要な国務に携わる高官。時代や制度により、その内実と読みが変遷する。.

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太政官

太政官.

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太政官符

太政官符(だいじょうかんぷ.

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太政官牒

太政官牒(だいじょうかんちょう)とは、太政官から僧綱・寺社などの直接管理下にない組織に対して送付する公文書のこと。単に官牒(かんちょう)とも称する。平安時代に盛んに用いられた。 牒は、公式令においては主典以上の官人が官司に対して上申する際に用いられる文書形式であったが、後に僧綱や寺社と官司とが文書の遣り取りを行う際にも用いられるようになった。太政官からの命令は通常は太政官符が用いられるが、寺社とは直接的な被官関係を有しないために太政官符よりも命令色の薄い太政官牒が替わりに用いられた。 差出相手の下と本文冒頭において「牒」という1文字をそれぞれに加え、更に書止には「故牒」の文字が加えられ、日付の次に太政官牒を作成した弁官と史が署名が記された。.

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外記

外記(げき)は律令制において朝廷組織の最高機関・太政官に属した職の一つである。四等官の中の主典(さかん)に相当する。唐名は外史・門下起居郎・門下令史。和訓は「とのおおいしるすつかさ」。.

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季禄

季禄(きろく)とは律令制における官人俸禄体系の1つ。皇親の時服に相当する。在京の職事官及び大宰府・壱岐対馬両国に勤務する官人に限り、官位相当に応じて年2回支給された。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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官宣旨

官宣旨(かんせんじ)とは、弁官下文(べんかんくだしぶみ)とも呼ばれ、平安時代に太政官上卿の口宣を弁官が諸国・寺社に対して発給する下文。官符・官牒の代用として用いられた。.

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寛平

寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.

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小槻奉親

小槻 奉親(おつき の ともちか、応和3年(963年)-万寿元年12月(1025年1月))は、平安時代中期の官人。算博士小槻忠臣の子。正五位下左大史兼算博士。.

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小槻氏

小槻氏(おつきうじ/おづきうじ)は、「小槻」を氏の名とする氏族。 第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、平安時代から小槻宿禰姓を称した。.

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少納言

少納言(しょうなごん/すないものもうし)は、日本の朝廷の最高機関である太政官の職の一つ。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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三事兼帯

三事兼帯(さんじけんたい)とは、五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼帯すること。蔵人佐(五位蔵人で検非違使佐を兼ねる)が弁官に就任して、実現されることが多い。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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五位蔵人

五位蔵人(ごいのくろうど)は、律令制下の日本における官職(令外官)の一つ。蔵人所の次官で、蔵人頭の次位にあたる。定員は2~3名で、五位の殿上人の中から、家柄がよく学識才能のある者が特に選ばれた。 五位蔵人という言葉が歴史上に出てくるのは、『職事補任』宇多院の項の分注に「仁和四年十一月廿七日、始置五位蔵人二人、止六位二人」とあり、源湛・藤原敏行の2名が五位蔵人に補任されたのが初見で、これ以後頻出している。これ以前にも五位蔵人は存在していたが、無位の蔵人もあり、蔵人8人の位階は必ずしも一定しなかった。当時は五位と六位の間に身分上明確な一線が引かれ、官人の行動や儀制面で大きな差があったため、蔵人を一括することが困難であったとともに、蔵人所の職掌も次第に分化し、身分の高低が密接に関係するようになった。このことが五位蔵人の設置と、それに伴う機構の整備を生んだ理由と考えられる。 これ以後、五位蔵人が四位に、六位蔵人が五位に昇進した場合が、新しい位階のまま蔵人に留まることは許されず、位階と蔵人の職が不可分のものとなり、五位蔵人及び六位蔵人は官職名とみなされるようになった。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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刑部省

刑部省(ぎょうぶしょう)は、古代日本の律令制下の八省の一つ、もしくは明治時代の省庁の一つ。.

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善がい訴訟事件

善愷訴訟事件(ぜんがいそしょうじけん)とは、承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善愷が、同寺の壇越である少納言登美直名を告訴した事件。翌承和13年(846年)に入り、事件の訴訟そのものの是非を巡って朝廷内において問題となり、弁官伴善男によって告発された当時の同僚の弁官5人全員が弾劾を受けて処罰された。.

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品官

品官(ほんかん)とは、日本の律令制において各官司の四等官の体系に属しない官職の総称を指す。 中国の律令制にも「品官」と呼ばれる官職群は存在するが、この場合従九品以上の官品に属する全ての官職(日本で言う職事官)を指すものであり、日本の品官の名称そのものは中国のそれに由来しているものの、意味合いが全く違うものである(ただし、日本においても職事官の意味での「品官」という語も用いられていたという説がある)。 日本の品官は組織上はどこかの官司に属しているものの、四等官とは別に専門性の高い職掌を有した別局を構成し、かつ官位令において官位相当が定められているものである。代表的な品官としては中務省に属する侍従や内記・監物、刑部省に属する判事などが挙げられる。 中国の律令制にも別局は存在するものの、官司を統括する「長官」と通判を行う「次官」の指揮下に別局を統括する「判官」が置かれているという三判制の原則があり、また検勾制による監督を受けていたが、日本の四等官と品官の間にはそのような関係は存在しなかった。これは日本の律令制が省・職・司・寮それぞれに一定の独立性を持たせたこと、加えて律令制以前に存在していた独立していた官司(監物・判事など)を従来の独立性を維持させたまま、強引に特定の省の管轄に加えたために生じたとされ、特に朝廷内部の事務一般を管轄した中務省には多くの品官が集中することになった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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兵部省

兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.

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勧修寺流

勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。.

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四等官

四等官(しとうかん、字音仮名遣:しとうくわん)または四等官制( - せい)は、律令制において各官司の中核職員が4等級で構成されていたことを表す用語。元は中国律令に現れ、律令制を支える精緻な官僚システムの基礎制度として機能した。日本も律令制開始と同時に四等官制を導入している。.

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神祇官

祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ).

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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非参議

非参議(ひさんぎ)とは、以下のことを意味する。.

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頭弁

頭弁(とうのべん)とは日本の官制において、弁官を兼帯した蔵人頭に対する呼称の事である。頭中将が近衛中将の兼帯であったのに対して、頭弁は(左右)中弁の兼帯であったと解されることが多いが、特に平安時代末期以前には大弁と蔵人頭との兼帯例も見られ、以後も稀ながらそうした事例が存在する。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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養老律令

養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.

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要劇料

要劇料(ようげきりょう)とは、律令制の日本において官人に対して払われていた手当の1つ。.

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馬料

料(めりょう/うまのりょう)は、日本の律令制において官人に支給された令外の禄(給与)の一部。.

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諸大夫

諸大夫(しょだいぶ)は、日本の古代から中世、近世にかけての官人の階層の名称。.

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議政官

議政官(ぎせいかん).

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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東京大学出版会

一般財団法人東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい、英称:University of Tokyo Press)は、東京大学の出版部に当たる法人。東京大学総長を会長とし、東京大学の活動に対応した書籍の出版を主に行う。.

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森田悌

森田 悌(もりた てい、1941年4月12日 - )は、日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。文学博士。 1965年、東京大学文学部国史学科を卒業。1967年、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。.

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権官

権官(ごんかん)は、朝廷の官職について、正規の員数を越えて任命する官職。「権」は「仮」という意味。平安時代に多用された。ちなみに奈良時代には員外官(いんがいかん)が任命された。 平安時代には、公卿においては多数の権官が存在し、権官の席は常時誰かに占められていたとも言える。その理由としては、藤原氏をはじめとして名家の子弟や家長などは、一定の年齢に達すると、その実力とは別に、自動的に官位が与えられるのが慣習となっていたが、官職には定員が決まっていたため、定員外の権官として官職を授けざるを得なかったという事情がある。 権官と正規の官のあいだで、例えば、大納言と権大納言を較べると、両者ともに同格の権力を有した場合と、一方は実権を持つが、他方は名前だけの官職であった例などがある。 大宰帥や国司のような地方官の権官は、左遷の形をとった実質的な流刑として任命されることがある。実質的流刑としての大宰権帥や権守・権介は実権を持たないが、一方で通常の職務を執行するために実権を伴う権官が赴任することもあり、職名だけでは区別がつかないため体面を気にするものもいた(平惟仲)。また公廨稲を支給するために勤務実態のない権官に就けることもあった。 高田与清(たかだともきよ)の『官職今案』によると、南北朝時代以降は、大納言や中納言は権官ばかりで正員がなくなった。 二官八省のカミ(大臣、卿)には権官はない。 江戸時代の武家官位は権官と同様に定員外で、また格式のみで実質はともなわない。ただしあくまで権守や権参議ではなく守や参議の名義で叙任され、納言は権官として任じられる。また将軍家は大臣・大将にも任じられている。 明治初期の太政官制では実務官吏としての権官が多数任命されている。.

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正七位

正七位(しょうしちい)は、日本の位階における位の一つ。従六位の下、従七位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正六位

正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.

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永延

永延(えいえん)は、日本の元号の一つ。寛和の後、永祚の前。987年から989年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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永祚 (日本)

永祚(えいそ)は、日本の元号の一つ。永延の後、正暦の前。989年から990年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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民部省

民部省(みんぶしょう)は、.

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治部省

治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.

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源希

源 希(みなもと の まれ/のぞむ)は平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、大納言・源弘の六男。.

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源昇

源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。.

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春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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時服

時服(じふく)は、毎年、春と秋とに、または夏と冬とに、朝廷から衣服の資を名目として皇親以下諸臣に支給された禄である。皇親に支給されたものをとくに王禄と呼び、特に対象を女王とする場合には女王禄と称した。.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1983年

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1986年

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2009年

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2011年

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2014年

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