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山崎闇斎

索引 山崎闇斎

山崎闇斎 山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。 諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。 朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。.

93 関係: 劉邦垂加神道ちくま文庫南学古義堂吸江寺吉川神道吉川惟足大義名分天地明察天和 (日本)天神妙心寺孟子孔子実教出版寛永寛文尊王論尊王攘夷山川出版社山本七平左京区三宅尚斎下御霊神社平泉澄幕末京都京都市伊藤仁斎会津藩佐藤直方後漢保科正之土佐国土御門泰福ヘルマン・オームスサルタヒコ儒学者一覧儒教冲方丁内藤湖南出雲路信直元和 (日本)光武帝国学皇學館大学...神仏習合神道生祀田尻祐一郎遊佐木斎鍼医角川書店講談社学術文庫谷省吾谷時中近藤啓吾野中兼山金戒光明寺雅号李淵正親町公通比叡山水戸学江戸江戸時代湘南宗化朱子学明暦易姓革命浪人浅見絅斎支那放伐思想家10月16日12月9日 (旧暦)1619年1642年1655年1665年1682年1月24日9月16日 (旧暦) インデックスを展開 (43 もっと) »

劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

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垂加神道

山崎闇斎 垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)は、江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した神道説。吉川神道や伊勢神道と並ぶ儒家神道のひとつとされる。.

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ちくま文庫

ちくま文庫(ちくまぶんこ)は、株式会社筑摩書房が発行している文庫レーベル。1985年12月より刊行開始した。基本的な装幀(フォーマットならびに安野光雅がデザインした。 ちくま文庫を立ち上げた松田哲夫は安野の教え子である。それが縁で依頼したという。 なお、同音の「チクマ文庫」とは別。.

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南学

南学(みなみまなぶ).

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古義堂

古義堂(こぎどう)は、江戸時代、1662年(寛文2年)京都の堀川出水下る(現、上京区東堀川通出水下ル)に、伊藤仁斎がその生家で開いた儒学を教える家塾。長子の東涯以下、代々その子があとを引き継いで、別名堀川学校ともいわれた。 仁斎は終生いずれの藩にも仕官せず、町の学者としてその生涯を全うした。その塾生数、仁斎の教えただけでも3,000人を数えたともいう。当時、京都を代表する私塾としてその名も高く、1842年(天保13年)には松永家の講習堂と共に町奉行所から表彰を受けたこともある。古義堂の蔵書、書画など約5,500点、約1万冊は、1941年(昭和16年)に天理大学附属天理図書館に所蔵され、『古義堂文庫目録』(天理大学出版部、1956年)として整理され、特別文庫の中に所蔵、公開されている。跡地が「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国の史跡に指定されている。.

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吸江寺

吸江寺(ぎゅうこうじ)は高知県高知市にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。.

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吉川神道

土津神社(福島県耶麻郡猪苗代町)。吉川神道の奥義を極めたとして、吉川惟足から「土津」の霊神号を贈られた会津藩主・保科正之を祀る。 吉川神道(よしかわしんとう)は、江戸時代初期、吉川惟足によって唱えられた神道の説である。.

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吉川惟足

吉川 惟足(よしかわ これたり、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日(1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家。初名は元成と称し、惟足・従時と称した。尼崎屋五郎左衛門と称し、号は視吾堂・相山隠山・相隠士。吉川神道の創始者。姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも伝わる。.

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大義名分

大義名分(たいぎめいぶん)とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。 儒教文化圏では古くから、君臣・父子などの関係(名)には、相応の責任・役割(分)が付随し、それは正当なる人倫の分限に基づいた価値判断(大義)に基づいて正否が定まると考えられていた。このため、古来より現実及び過去の経験的実証的知識の蓄積である史実と「華夷内外」・「是非善悪」といった名分を組み合わせて大義名分の有り様についての議論が行われるとともに、これに基づいた倫理的価値判断をもって現実の事象を評価することが試みられた(ただし、それは時に抽象的にあるいは相対的で価値基準自体が不安定になりがちである)。その理念的源泉は孔子がまとめたとされる『春秋』であり、宋・司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』はこれを継承しようとする試みであった。 日本では儒学者のみならず国学者の間でも様々な説が立てられた(大義名分論)。特にその延長上に位置づけられるのが、幕末の尊王攘夷論である。ただし、尊王論も攘夷論も本来は内に「君臣の義」、外に「華夷の弁」を強調するもので実際の政治体制(幕藩体制)と直ちに対立するものではなかった。しかし、その価値基準は個々の価値判断(大義)に基づくものであったから、社会の安定期には儒教と皇室の権威に基づいた保守的な現状維持論に過ぎなかった尊王攘夷論が、江戸時代後期の政治・社会の不安定期には一転して政治の革新を求める運動に転化することとなり、山縣大弐の『柳子新論』(1759年)や藤田東湖の『正名論』(1791年)のように体制変革に踏み出す主張も現れるようになったのである。更に幕末最末期すなわち尊王攘夷運動終盤には中岡慎太郎のように尊王攘夷論を外圧に対抗して国家の独立を維持するための理念と捉えて本来は排撃すべきである「夷狄」アメリカ合衆国の建国者たちの活躍をその模範とすべしと唱える者まで現れるようになり、現実的な内外認識に合わせて変革思想の合理的解釈と正当化のための理論武装として大義名分論が持ち出されるようになった。.

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天地明察

『天地明察』(てんちめいさつ)は、冲方丁による日本の時代小説である。『野性時代』(角川書店)にて、2009年1月号から7月号まで連載された。第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞を受賞し,第143回直木賞の候補となった。2012年には映画化された。 江戸時代前期の囲碁棋士で天文暦学者の渋川春海の生涯を描く。.

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天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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天神

天神(てんじん、あまつかみ).

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妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.

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孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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実教出版

実教出版株式会社(じっきょうしゅっぱん)は、高等学校用教科書、大学・短期大学・高等専門学校・専修学校・職業訓練施設向けテキスト等を発行している出版社。実務教育出版との関連はない。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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尊王論

錦旗。 尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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山本七平

山本 七平(やまもと しちへい、1921年(大正10年)12月18日 - 1991年(平成3年)12月10日)は、山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活動した。.

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左京区

左京区(さきょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。.

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三宅尚斎

三宅 尚斎(みやけ しょうさい、寛文2年1月4日(1662年2月22日) - 元文6年1月29日(1741年3月16日))は、江戸時代前期の儒学者。名は重固。小字は儀左衛門、後に丹治と改める。佐藤直方・浅見絅斎と共に山崎闇斎門の三傑と称せられる。.

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下御霊神社

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。.

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平泉澄

平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月15日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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伊藤仁斎

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。 諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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佐藤直方

佐藤 直方(さとう なおかた、慶安3年閏10月21日(1650年12月14日) - 享保4年8月15日(1719年9月28日))は、江戸時代の儒学者。幼名は彦七。通称は五郎左衛門、三郎左衛門。父は備後福山藩士土佐藤七郎兵衛。門人に稲葉迂斎、跡部良顕らがいる。 学問を志して京に昇り、山崎闇斎の門に入って研鑽を積み、知識を深めて浅見絅斎、三宅尚斎と並び崎門の三傑と称されるほど台頭したが、闇斎が唱えた垂加神道に批判的であったことから袂を分かち、江戸へ昇った。後、福山藩や厩橋藩主酒井忠挙などに招聘され、講釈に励んだが、享保3年(1718年)には致仕して神田紺屋街に居住し、翌年唐津藩主土井利実に講釈を行いに赴く道中発病して倒れ、翌日没した。 日本の神々だけを中心に考える事に反対し、「自分が生まれた国や父母を、薬売りのようにわがままに自慢するのでは、天下の公理とはいえない」と述べ、家や国を超えた普遍的な宇宙の理(天理・公理)にもとづいて考えるべきだと説いた。 赤穂事件が起こった折、大衆や多くの有識者がその仇討を義挙と礼賛する中、幕府を顧みない愚挙に踏み切った逆臣であると赤穂浪士を弾劾したことで知られる。豪放磊落な人となりで清貧な生活を好み、江戸に在住していた際の困窮していた生活を伝えるエピソードが残されている。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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保科正之

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。また、将軍の「ご落胤」でもある。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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土御門泰福

土御門 泰福(つちみかど やすとみ、明暦元年6月20日(1655年7月23日)-享保2年6月17日(1717年7月25日))は、江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家。土御門泰広の子でその弟隆俊の養嗣子とされているが、実父を隆俊あるいは泰重(泰広・隆俊の父)とする異説もある。子に土御門泰誠・泰連・泰邦ら。一般には土御門神道の祖として知られている。 泰広・隆俊の死により泰重の後継者となり、寛文元年(1661年)の泰重の死によりその家督を継いだ。 土御門家は、代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期に土御門泰重がその座を幸徳井家に譲渡、その後その陰陽師支配の権限を巡る争いから陰陽頭の返上を求める泰重とこれを拒む幸徳井家側との対立が長く続いた。泰福が元服して正六位下蔵人兼近衛将監に任じられた寛文10年(1670年)にも泰福と幸徳井友傳の間で陰陽頭を巡る相論が発生するも、天和2年(1682年)に友傳が35歳で急死、相論の仲裁にあたっていた江戸幕府は友傳の子は幼くて職務が行えないと裁定したため、当時従五位上兵部少輔であった泰福が陰陽頭に就任、継いで翌年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限が与えられた。その後春宮少進に進む。貞享元年(1684年)の改暦に際しては大統暦の実施を主張するも、後には山崎闇斎のもとで同門であった渋川春海の貞享暦が優れていることを認めてこれを実施するように上奏し、元禄2年(1699年)には幸徳井家に圧力をかけて土御門家を陰陽道宗家として仰ぐ事を約束させ、同家を支配下に置いたのである。この功績によって元禄11年(1708年)に従三位に昇り、正徳4年(1714年)に従二位にまで昇進する。 また、山崎闇斎から垂加神道を学び、前述の春海や一条冬経・野宮定縁らと結ぶ。また、その影響を受けて陰陽道と神道を組み合わせた独自の神道理論(土御門神道)を打ち立てた。だが、一方で改暦の実質上の中心であった渋川春海が江戸幕府に召されて天文方に入ったために改暦の中心が江戸に移る結果を招いた。 63歳で死去して、墓所は京都真如堂にある。 Category:江戸時代の公家 やすとみ Category:1655年生 Category:1717年没.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ヘルマン・オームス

ヘルマン・オームス(Herman Ooms, 1937年 - )は、ベルギー出身のアメリカ合衆国の日本学者、カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉教授。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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サルタヒコ

猿田毘古大神(19世紀後期画) サルタヒコを祀る猿田彦神社(三重県・伊勢市) サルタヒコ、またはサルタヒコノカミは、日本神話に登場する神。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。.

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儒学者一覧

儒学者一覧(じゅがくしゃいちらん)は、儒教を研究、実践した人物の一覧である。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冲方丁

冲方 丁(うぶかた とう、1977年2月14日 - )は、日本の小説家、脚本家。日本SF作家クラブ会員。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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出雲路信直

出雲路 信直(いずもじ のぶなお、1650年4月2日(慶安3年3月2日) - 1703年5月5日(元禄16年3月20日))は、江戸時代初期の京都下御霊神社神主。神道学者。山崎闇斎門人。号は八鹽道翁(やしおじのおきな)。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

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国学

国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.

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皇學館大学

明治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿革の項を参照)、大教宣布や近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇學館の源流である『三重県教育史 第1巻』第3章 近代教育の創始 第3節 創設期の中学校、p.

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神仏習合

仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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紙垂を備えた祠(富士山) 京都市内の小祠(卍は仏教における吉祥の印) 祠(ほこら)とは神を祀る小規模な殿舎。語源は神道用語の「ほくら(神庫、宝倉)」の転訛という。小祠(しょうし)、小堂(しょうどう)とも。もともとは古神道に由来する信仰であるが、神仏習合によって道祖神に関連した仏(地蔵菩薩など)も祀るようになった。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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生祀

生祀(せいし)とは、存命中の人間の霊を祀ること。生祠ともいう。功績があった存命中の他者の霊を祀る場合と、自己の霊魂を祀る場合とがある。 平賀源内生祠(広島県福山市鞆町).

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田尻祐一郎

尻 祐一郎(たじり ゆういちろう、1954年 - )は、日本思想史学者、東海大学教授。専攻は日本思想史(近世儒学・国学・神道)。 茨城県水戸市生まれ。1978年東北大学文学部日本思想史学卒、84年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。東海大学文学部助教授、教授。.

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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

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遊佐木斎

遊佐 木斎(ゆさ ぼくさい、万治元年12月16日(1659年1月8日) - 享保19年10月16日(1734年11月11日))は江戸時代中期の儒学者。名は養順、のちに好生と改めた。通称は清兵衛、あるいは次郎左衛門、木斎と号す。.

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鍼医

鍼医(はりい)は、奈良もしくは平安時代から明治時代初期までの日本において鍼もしくは灸を使用して治療(現代では医療行為)を行った職業およびそれに従事していた人の名称で、鍼醫または針医(しんい)とも呼ばれた。なお、例は少ないながら中国でも使用例はあるものの、もっとも多く使用されたのは日本の江戸時代である。現在では医師法第33条により鍼医と名乗る事を規制されており、はり師もしくは鍼灸師として国家資格化されている。なお、名称から「鍼のみを使用する者」との誤解が多いが、実際には「鍼のみ使用するもの」と「鍼と灸を使用する者」それぞれ鍼医を名乗っており、これは中国の古代鍼灸流派から始まっている。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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谷省吾

谷 省吾(たに せいご、1921年9月21日 - 2011年11月5日)は、日本の神道学者。皇學館大学学長を務めた。垂加神道・鈴木重胤の研究に従事した。.

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谷時中

谷 時中(たに じちゅう、慶長3年(1598年) - 慶安2年12月29日(1650年1月31日))は、江戸時代前期の儒学者。生年については1599年(慶長4年)の説もある。名は素有。子に儒学者谷一斎がいる。土佐国の出身。高知では同じ谷姓の谷秦山(谷干城の祖先)と異なり、知られておらず、そのため顕彰されることは殆どない。.

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近藤啓吾

近藤 啓吾(こんどう けいご、1921年(大正10年)12月28日 - 2017年(平成29年)12月25日)は、日本の江戸時代の儒学研究家。東京高等女学校教頭(松平慶民子爵家の家庭教師)の近藤保二郎の長男。金沢工業大学教授。号は紹宇・靖献書屋主人・拾穂書屋主人。字は子発。専門は崎門学・垂加神道(山崎闇斎の唱えた日本学)。 国史学者の文学博士平泉澄の指導を受け、崎門学派の内田周平(号は遠湖・谷門精舎主人)・岡直養(号は彪邨・虎文斎主人、字は子直、次郎と称す)に師事。日本学協会・藝林会・神道史学会・神道宗教学会に所属。.

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野中兼山

野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老・儒学者。谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。 諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。 灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。.

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金戒光明寺

阿弥陀堂 山門 大方丈 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。.

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雅号

雅号(がごう)とは、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のことである。.

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李淵

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。.

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正親町公通

正親町 公通(おおぎまち きんみち、承応2年閏6月26日(1653年8月19日) - 享保18年7月12日(1733年8月21日))は、江戸時代中期の公家。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕えた。垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などをつとめ、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。 公家正親町実豊(権大納言)の長男として京都に生まれる。母は公家藤谷為賢(権中納言)の姫。妹に正親町町子(柳沢吉保の側室)がいる。万治元年(1658年)に叙爵。寛文元年(1661年)従五位上侍従となり、寛文5年(1665年)に元服した。その後、右近衛少将・右近衛中将をへて、延宝5年(1677年)に参議となり、公卿に列する。天和元年(1681年)に正三位権中納言となり、貞享2年(1685年)には従二位に昇進。踏歌節会外弁などをつとめて、元禄6年(1693年)から武家伝奏役をつとめた。元禄8年(1695年)から翌年にかけては権大納言となった。ところが、元禄13年(1700年)に東山天皇から武家伝奏を罷免されてしまう。江戸時代の武家伝奏の任命権は江戸幕府が持っており朝廷が関与出来なかったが、東山天皇は伝奏の人事権は天皇にあるとして幕府に無断で罷免を強行したのである。親幕府派であった関白の近衛基煕は公通の垂加神道に批判的であったためにこの決定を止めなかった。また、幕府でも京都所司代の小笠原長重は江戸に通報することなくこれに同意し、幕閣もこれに対抗措置を取らずに黙認してしまったために、武家伝奏の人事権が朝廷に移ることになった。元禄15年(1702年)に朝廷から将軍徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。宝永2年(1705年)に正二位。さらに正徳2年(1712年)に従一位となった。享保18年(1733年)7月12日に薨去。享年81。 山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することにつとめた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。晩年は絵画と狂歌に没頭した。 子が六人いたが、長男公成と次男公梁は若くして死に、三男実本は裏辻家へ、四男隆叙は四条家へ、五男定俊は野宮家へそれぞれ養子に入ったため、正親町家の家督は末子正親町実連が継いだ。 孝明天皇は公通の来孫に当たる。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校でも水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられた。その「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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湘南宗化

湘南 宗化(しょうなん そうけ、生年不明(1586年頃)- 寛永14年(1637年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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明暦

明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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易姓革命

易姓革命(えきせいかくめい)は、古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。.

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浪人

浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士や侍のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。.

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浅見絅斎

浅見絅斎邸址、京都市中京区錦小路通高倉西入南側 浅見 絅斎(あさみ けいさい、承応元年8月13日(1652年9月15日) - 正徳元年12月1日(1712年1月8日))は、日本の江戸時代の儒学者・思想家。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。.

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支那

支那(シナ)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。現代の中国において、この呼称が悪意的、侮蔑的呼称であるとされることもある。.

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放伐

放伐(ほうばつ)とは、中国史において、次の天子となるべき有徳の諸侯などが、無道な暴君や暗君を天下のために、討伐して都から追放するという行為である。.

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思想家

思想家(しそうか、)は、様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人。.

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10月16日

10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。.

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12月9日 (旧暦)

旧暦12月9日(きゅうれきじゅうにがつここのか)は、旧暦12月の9日目である。六曜は友引である。.

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1619年

記載なし。

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1642年

記載なし。

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1655年

記載なし。

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1665年

記載なし。

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1682年

記載なし。

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1月24日

1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。.

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9月16日 (旧暦)

旧暦9月16日は旧暦9月の16日目である。六曜は赤口である。.

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