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小笠原忠真

索引 小笠原忠真

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名、茶人。信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩の初代藩主。.

73 関係: 側室即非如一古市了和古河城大名宮本伊織宮本武蔵安土桃山時代寛文小倉城小倉北区小倉藩小笠原家茶道古流小笠原忠知小笠原忠脩小笠原忠雄小笠原秀政小笠原真方小笠原長宣小笠原長安小笠原長弘島原の乱上野焼市松姫下総国侍従徳川家康徳川家光徳川家綱徳川秀忠従四位保寿院信濃国北九州市円照院福岡県福聚寺 (北九州市)糠漬け細川忠利登久姫隠元隆き豊前国黒田光之黄檗宗齢昭院近衛府茶人人物一覧茶道蜂須賀忠英...蜂須賀至鎮長崎市松平信康松平頼元松平重直松本藩正室江戸幕府江戸時代本多忠政明石城明石藩播磨国敬台院慶長10月18日 (旧暦)12月3日1596年1615年1667年2月28日 (旧暦)3月26日 インデックスを展開 (23 もっと) »

側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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即非如一

即非如一(そくひ にょいつ、万暦44年5月14日(1616年6月27日)- 寛文11年5月20日(1671年6月26日))は、江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏。字は即非。.

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古市了和

古市 了和(ふるいち りょうわ、? - 明暦3年10月18日(1657年11月23日))は、江戸時代の茶人。小笠原家茶道古流、古市(ふるいち)流4代家元。名は勝元、俗名源右衛門。了和、乗覚とも号す。竹中太膳太夫了益の孫、了誉の三男。古市紹意の養子となる。 古田織部と親交があり、茶は織部の傳を得ていたと言われる。また蹴毬を飛鳥井雅章に学び名手の誉れがあり、徳川秀忠上洛の折、上覧に供したことがある。 古市了和の門人に、小笠原家の執政をしていた下條三郎兵衛一以があったため、後に小笠原忠真に推挙され茶堂頭として仕官することになる。以降、古市家の代々は茶道頭として幕末まで小笠原家に仕えた。 小倉城下立法寺に葬られた。法名は至信院乗覚居士。.

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古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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宮本伊織

宮本 伊織(みやもと いおり 慶長17年10月21日(1612年11月13日) - 延宝6年3月28日(1678年5月18日)、)は、江戸時代初期の武士。諱は貞次(さだつぐ)。剣豪宮本武蔵の養子として知られるが、出自や養子の経緯に関しては諸説ある。.

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宮本武蔵

宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書『五輪書』は外国語にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小倉城

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた鎌倉時代または戦国時代から江戸時代の日本の城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。.

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小倉北区

足立公園から見る小倉市街の夜景 紫川に架かる常盤橋 小倉北区(こくらきたく)は、北九州市を構成する7区の行政区の一つである。北九州市の中心地区であり、小倉駅や北九州市役所がある。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原家茶道古流

小笠原家茶道古流(おがさわらけさどうこりゅう)は、豊前国小倉藩(福岡県北九州市)で伝えられた茶道の流派。小笠原古流などとも呼ばれる。流祖は古市胤栄とされ、千利休を祖としていない流派である。古流とは、後に侘び茶を完成した千利休よりも古い起源であるという意味で、後世になって名付けられたものと考えられる。同門組織として未得会がある。.

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小笠原忠知

小笠原 忠知(おがさわら ただとも、慶長4年7月21日(1599年9月10日)- 寛文3年7月29日(1663年8月31日))は、豊後杵築藩主、のち三河吉田藩の初代藩主。忠知系小笠原家初代。 信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。母は登久姫(松平信康の娘)。正室は多賀光定の娘。子は長矩(長男)、長敦(次男)、長定(三男)、長秋(四男)。官位は従五位下、壱岐守。幼名は虎松丸。 慶長15年(1614年)から寛永8年(1631年)まで旗本として信濃国高井郡5000石に入封した。寛永2年(1625年)に書院番頭、翌年12月に大番頭、寛永9年(1632年)4月には奏者番となった。同年9月、兄の小笠原忠真が豊前小倉藩主になったとき、杵築に4万石を与えられ大名に列した。以後、竹中重義改易時の府内藩在番、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功を挙げた。藩政においても植林政策に功を挙げている。正保2年(1645年)7月14日、5,000石加増の上で三河吉田に加増移封された。侘び茶を求め「茶の湯」の千家を再興させた千宗旦を招請したが、明暦元年(1655年)、高齢の宗旦に代わって遣わされた「千宗旦四天王」と言われる高弟で後に茶道宗徧流を興した山田宗徧を小笠原家に召し抱える。 三河吉田藩主時代、豊橋向山の大池を郡代長谷川太郎左衛門に掘削させ、この大池より水を引いて吉田城の惣濠(外堀)を水堀にした。その水は堀を通り、豊橋吉田方地区の灌漑用にも用いたと言う。 寛文3年(1663年)7月29日、65歳で死去し、跡を長男・長矩が継いだ。法号は一峰定水天真院。墓所は豊橋市の臨済寺。 たたとも Category:三河吉田藩主 小 Category:松本藩の人物 Category:1599年生 Category:1663年没.

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小笠原忠脩

小笠原 忠脩(おがさわら ただなが)は、江戸時代初期の武将。信濃松本藩の世嗣。小笠原秀政の長男。徳川家康の外曾孫に当たる。.

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小笠原忠雄

小笠原 忠雄(おがさわら ただたか/ただかつ)は、豊前小倉藩の第2代藩主。小笠原家宗家3代。.

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小笠原秀政

小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃守護小笠原氏の末裔。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、信濃松本藩の初代藩主となる。小笠原宗家初代。.

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小笠原真方

小笠原 真方(おがさわら さねかた、慶安5年4月20日(1652年5月27日)- 宝永6年7月5日(1709年8月10日))は、豊前小倉新田藩(千束藩)の初代藩主。 豊前小倉藩主・小笠原忠真の四男。母は永貞院。正室は黒田長興の娘。官位は従五位下、備後守、備中守。幼名は千助。 寛文11年(1671年)9月23日、兄の小倉藩主・小笠原忠雄より1万石を分与されて、支藩である小倉新田藩を立藩した。しかし藩政においては家老、並びに本家の小倉藩によって執り行なわれた上、自身は領地に赴かずに篠崎館に住んだので篠崎殿と称された。 宝永6年(1709年)7月5日、参勤交代で船により帰国途中の讃岐国小豆島の坂手浦において、暴風雨のために船が遭難し、溺死した。享年58。跡を甥で養嗣子の貞通が継いだ。墓所は北九州市小倉南区の開善寺。 *01 さねかた Category:海難死した人物 Category:1652年生 Category:1709年没.

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小笠原長宣

小笠原 長宣(おがさわら ながのぶ、寛永8年(1631年) - 寛文3年1月10日(1663年2月17日))は、豊前国小倉藩の世嗣。初代藩主・小笠原忠真の次男。母は本多忠政の娘・亀姫。正室は松平乗寿の娘。官位は従五位下、大和守。 正保3年(1646年)、兄の長安が廃嫡されたため嫡子となり、同年叙任する。しかし、家督を継ぐことなく寛文3年(1663年)に33歳で死去した。代わって異母弟の忠雄が嫡子となり、家督を継いだ。 なかのふ Category:小倉藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1631年生 Category:1663年没.

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小笠原長安

小笠原 長安(おがさわら ながやす、元和4年(1618年) - 寛文7年閏2月5日(1667年3月29日))は、豊前小倉藩の世嗣。初代藩主・小笠原忠真の長男。母は本多忠政の娘・亀姫。子は娘(松平定長正室)。官位は従五位下、兵部大輔。 播磨明石藩(のち豊前小倉藩)嫡子として生まれ、寛永15年(1638年)叙任する。しかし、家督を継ぐことなく正保3年(1646年)に廃嫡された。代わって、弟の長宣が嫡子となった。 寛文7年(1667年)、50歳で没した。 なかやす Category:小倉藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:廃嫡された人物 Category:1618年生 Category:1667年没.

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小笠原長弘

小笠原 長弘(おがさわら ながひろ)は、室町時代後期(戦国時代)の武士。石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の温湯城を本拠とする国人・石見小笠原氏の第9代当主。.

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島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。.

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上野焼

上野焼(あがのやき)は福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器。 江戸前期に高名な茶人でもあった大名、細川忠興が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工、尊楷(上野喜蔵)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まり。最初の窯は皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つで、これらは上野古窯と呼ばれる。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれた。明治期には衰退の様相を見せたが、1902年に復興、1983年には通産省(現在の経産省)指定伝統的工芸品の指定を受けた。 上野焼の特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることである。また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出すのが特徴で、絵付けはまず用いていない。.

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市松姫

市松姫(いちまつひめ、1627年? - ?)は、江戸時代前期の女性。福岡藩第3代藩主、黒田光之の正室。院号は寶光院(ほうこういん)。 小倉藩初代藩主小笠原忠真の長女で、母は本多忠政の娘・亀姫。 異父兄姉(父親同士は兄弟)に小笠原長次、繁姫、同父母兄弟に小笠原長安・小笠原長宣、異母弟に小笠原忠雄・小笠原真方・小笠原長弘がいる。 正保4年(1647年)に福岡藩主・黒田忠之の嫡男・光之の正室となった。婚儀の折、黒田家からは粟田口吉光の短刀(博多藤四郎・重文)が小笠原家に贈られた。 子女に、筑姫(酒井忠挙正室)、黒田綱之、市之助、福岡藩4代藩主黒田綱政、直方藩主黒田長清。 墓所は福岡市博多区崇福寺、東京都渋谷区祥雲寺、和歌山県高野山奥の院。藩主正室の供養墓としては巨大な墓標である。 Category:福岡藩主の正室 Category:府中小笠原氏 Category:黒田氏 Category:17世紀生.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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保寿院

保寿院(ほうじゅいん、慶長2年(1597年) - 慶安2年11月24日(1649年12月27日))は、熊本藩初代藩主細川忠利の正室。小笠原秀政の次女。母は登久姫(松平信康の娘)。名は千代姫。 慶長13年(1608年)、第2代将軍徳川秀忠(大叔父に当たる)の養女として、小倉藩主細川忠興の世子となっていた忠利と縁組し、慶長14年(1609年)4月24日、豊前国中津城に輿入れした。元和5年(1619年)、長男細川光尚を産んだ。 慶安2年(1649年)、江戸で死去した。享年53。熊本県熊本市の妙解寺に葬られた。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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北九州市

北九州市(きたきゅうしゅうし)は、福岡県の北部にある政令指定都市。関門海峡に面し、九州島最北端に位置する。.

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円照院

円照院(えんしょういん、慶長2年(1597年) - 寛永20年10月18日(1643年11月29日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。姫路藩主本多忠政の次女。母は松平信康の次女・熊姫。小笠原忠脩正室、後に小倉藩主・小笠原忠真正室。実名は亀姫(かめひめ)。 曽祖父徳川家康の養女となり、松本藩の世嗣・小笠原忠脩に嫁いだが、元和元年(1615年)4月、夫が大坂夏の陣で戦死した。 家康の命により、元和2年(1616年)12月、忠脩の同母弟・忠真に再嫁した。 寛永20年(1643年)に47歳で死去し、浅草海禅寺に葬られた。法名は円照院華陽宗月大姉。.

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福岡県

福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方北部にある県。県庁所在地は福岡市。2017年現在の人口は約511万人で、全国の都道府県中9位である。.

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福聚寺 (北九州市)

福聚寺(ふくじゅじ)は、福岡県北九州市小倉北区寿山町にある黄檗宗の寺院。山号は広寿山。本尊は釈迦如来。.

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糠漬け

洗って盛り付けた糠漬け 糠漬け(ぬかづけ)とは、米糠を使った漬物のこと。乳酸菌発酵させて作った糠床(ぬかどこ)の中に野菜などを漬け込んで作る糠味噌漬け(ぬかみそづけ)、どぶ漬け、どぼ漬けとも呼ばれるものと、大根を漬けた沢庵や糠ニシン、糠サンマのように材料に塩と糠をまぶして漬けたものの双方を呼ぶ。 糠床で作る糠漬けでは、一般に胡瓜、茄子、大根といった水分が多い野菜を漬け込むことが多い。このほかにも肉、魚久田孝、宮本浩衣、坂尻誠ほか、 日本水産学会誌 Vol.67 (2001) No.2 P.296-301, 、ゆで卵、蒟蒻など多様な食材が利用される。あまり漬かっていないものは「浅漬け」「一夜漬け」と呼ばれ、長く漬かったものは「古漬け」「ひね漬け」などと呼ばれる。.

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細川忠利

水前寺成趣園内にある細川忠利の像 細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名、豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩の初代藩主。.

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登久姫

登久姫(とくひめ、天正4年(1576年) - 慶長12年10月18日(1607年12月7日))は、岡崎信康(徳川家康長男)の長女。母は徳姫(織田信長の娘)。信濃松本藩初代藩主・小笠原秀政の正室。法名は峯高院。.

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隠元隆き

元隆琦の上陸地に建つ記念碑(右) - 京都府宇治市 隠元 隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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黒田光之

黒田 光之(くろだ みつゆき)は、筑前福岡藩の第3代藩主。.

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黄檗宗

檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする。本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。.

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齢昭院

齢昭院(れいしょういん、生年不詳 - 承応4年1月17日(1655年2月23日))は、阿波徳島藩第2代藩主・蜂須賀忠英の正室。父は小笠原忠脩。母は亀姫。養父は信濃松本藩主・小笠原忠真。弟は小笠原長次。名は繁。息子で阿波徳島藩第3代藩主・蜂須賀光隆の正室・金姫は姪にあたる。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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茶人人物一覧

茶人人物一覧(ちゃじんじんぶついちらん)は、茶人(茶道に通じた人)の一覧。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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蜂須賀忠英

蜂須賀 忠英(はちすか ただてる)は、阿波徳島藩の第2代藩主。.

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蜂須賀至鎮

蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。阿波国徳島藩初代藩主。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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長崎市

佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.

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松平信康

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。.

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松平頼元

松平 頼元(まつだいら よりもと)は、常陸額田藩の初代藩主。 寛永6年(1629年)7月14日、常陸水戸藩の初代藩主・徳川頼房の四男として生まれる。寛文元年(1661年)、兄・光圀から額田領を与えられ、額田藩の初代藩主となった。和歌を好み、歌集「粛山集」を著している。また、一尾伊織に師事して茶道を学んだ。 元禄6年(1693年)4月28日に死去した。享年65。家督は長男の頼貞が継いだ。.

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松平重直

松平 重直(まつだいら しげなお)は、江戸時代前期の譜代大名。出羽上山藩第2代藩主、摂津三田藩主、豊後竜王藩主、豊後高田藩初代藩主。杵築藩能見松平家3代。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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本多忠政

本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫の熊姫である郡 p.20。.

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明石城

城の天守台 明石城(あかしじょう)は日本の城。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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敬台院

敬台院(きょうだいいん、文禄元年(1592年)『幕府祚胤伝』では慶長17年(1612年)生まれ、元和2年(1616年)婚姻とあるが、それでは息子である忠英よりも年下になってしまうため誤記と思われる。なお、『徳川実紀』元和六年二月二十六日条では、嫁いだ時期を慶長5年(1600年)正月としており、相違は無い。 - 寛文6年1月4日(1666年2月7日))は、徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の正室。父は小笠原秀政。養父は徳川家康。母は登久姫(松平信康の娘)。幼名は万姫、お虎。子に蜂須賀忠英、三保姫(池田忠雄正室)、正徳院(水野成貞正室)がいる。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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10月18日 (旧暦)

旧暦10月18日は旧暦10月の18日目である。六曜は先負である。.

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12月3日

12月3日(じゅうにがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から337日目(閏年では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。.

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1596年

記載なし。

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1615年

記載なし。

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1667年

記載なし。

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2月28日 (旧暦)

旧暦2月28日は旧暦2月の28日目である。六曜は大安である。.

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3月26日

3月26日(さんがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から85日目(閏年では86日目)にあたり、年末まであと280日ある。.

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