31 関係: 南越国、大越、一世一元の制、広南国、チャクリー王朝、ハノイ、ラックガム=ソアイムットの戦い、ピニョー・ド・ベーヌ、フエ、ホーチミン市、ベトナム、ベトナム帝王一覧、嘉隆、嘉慶帝、クイニョン、光中、西山朝、諱、阮福ルァン、阮福景、阮朝、清、明命帝、景興、12月19日 (旧暦)、1777年、1789年、1802年、1804年、1820年、1月15日 (旧暦)。
南越国
南越国(なんえつこく、漢語拼音:Nányuè、広東語イェール式:Nàahm-yuht、)は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤、趙朝とも記す。 首都は番禺(現在の中国広東省広州市)におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西チワン族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦朝滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せることによって建国された。紀元前196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」となるが、紀元前112年、5代君主である趙建徳と漢の間で戦闘が勃発し、武帝により紀元前111年に滅ぼされた。 南越国は嶺南で誕生した初めての封建国家であり、秦の中原地方出身の統治者により先進的な政治制度と生産技術をもたらされ、秦末の乱世の中で嶺南地方に秩序と安定をもたらしたといえる。南越国の歴代君主が推し進めた「和輯百越」政策は、漢族と南越国内部の各民族間の融和をも促進し、同時に漢文化と漢字が嶺南地方へと移入され、嶺南文化に大きな影響を与えることになる。.
大越
大越(だいえつ、ダイベト、)は、1054年 - 1400年および1428年- 1804年までのベトナムの正式な国号。なお1400年~1407年の胡朝は「Đại Ngu (大虞)」を称し、1427年までは明の支配下にあった。 それ以外の時期に関してもこの地域及び同地に存在した国家を指す場合がある。 1802年以後は「越南(ベトナム)」という国号が使われるようになった。.
一世一元の制
一世一元の制(いっせいいちげんのせい)とは、元号を君主(皇帝、天皇、国王)の在位中には変えない制度をいう。.
新しい!!: 嘉隆帝と一世一元の制 · 続きを見る »
広南国
広南国(かんなんこく、クァンナムこく,,1558年 – 1777年)は、ベトナムの後黎朝中期~後期において、重臣の広南阮氏が現在のベトナム南部に築いた半独立国家。阮氏広南国(げん / グエンし - )、あるいは広南朝( - ちょう)とも呼ばれる。.
チャクリー王朝
チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年(タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の改名前の名前である。.
新しい!!: 嘉隆帝とチャクリー王朝 · 続きを見る »
ハノイ
ハノイ( )は、ベトナム社会主義共和国北部に位置する都市で、同国の首都。南部ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。地名の「城舖河内」は、当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。東南アジア有数の世界都市であり、ホーチミン市がベトナム経済の中心地である反面、ハノイはベトナムの政治・文化の中心地と言われることが多い。.
ラックガム=ソアイムットの戦い
ラックガム=ソアイムットの戦い()は、1785年1月18日〜1月19日にベトナム南部で行われた西山軍とシャム軍との戦いである。.
新しい!!: 嘉隆帝とラックガム=ソアイムットの戦い · 続きを見る »
ピニョー・ド・ベーヌ
ピニョー・ド・ベーヌ ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)は、フランスのカトリック宣教師。ピニョー・ド・ベーヌ(Pigneau de Behaine)として知られる。のちのヴェトナム阮朝初代嘉隆帝を補佐した。ベトナム名は百多禄(Pedro)。.
新しい!!: 嘉隆帝とピニョー・ド・ベーヌ · 続きを見る »
フエ
フエ()は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省の省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していた阮朝の首都に定められていた。 フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある新江「フエ」『東南アジアを知る事典』新版、375頁。フエの漢字名の「順化(トゥアン・ホア、Thuận Hóa)」は、14世紀に陳朝が設置した順州・化州に由来する。二つの行政区画のうち、かつてフエの町が属していた「化州」の化の漢字音()が転訛して、町はフエと呼ばれるようになったと考えられている酒井「フエ」『アジア歴史事典』8巻、86頁北川「フエ」『ベトナムの事典』、280,282頁。フランス植民地時代にトゥアン・ホアを訪れた外国人は、町を「スェウナ」「スィネア」「シネア」と呼んでいた。 一部の歴史的建造物がユネスコの世界遺産(文化遺産)に、また宮廷芸能であるニャーニャック(雅楽)が無形文化遺産に登録されている。.
ホーチミン市
ホーチミン市(ホーチミンし、 )は、ベトナム社会主義共和国最大の経済都市で、東南アジア有数の世界都市でもある。市街中心部の旧称はサイゴン()である。.
新しい!!: 嘉隆帝とホーチミン市 · 続きを見る »
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
ベトナム帝王一覧
ベトナム帝王一覧(-ていおういちらん)では、独立王朝に限らず、中国王朝から冊封を受けた人物、王号や中国王朝の官職等を僭称した人物を含め、ベトナムの歴史において政権を樹立したと思われる可能な限りの人物を暫定的に列記している。 2世紀から19世紀にかけて現在のベトナム南中部に存在したチャンパ王国の王についてはチャンパ王の一覧を参照。.
新しい!!: 嘉隆帝とベトナム帝王一覧 · 続きを見る »
嘉隆
嘉隆(かりゅう、ザーロン・Gia Long)は、ベトナム阮朝の嘉隆帝の治世で使用された元号。1802年 - 1819年。.
嘉慶帝
嘉慶帝(かけいてい)は、清の第7代皇帝。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。.
クイニョン
イニョン()はベトナム南中部、ビンディン省の省都。.
光中
光中(こうちゅう)は、ベトナム西山朝(富春朝廷)で阮光平が使用した元号。1788年 - 1792年。.
西山朝
ベトナム、ビンディン省タイソン県 光中皇帝博物館の阮三兄弟像 西山朝(せいざんちょう、タイソン朝、)は、1778年から1802年の間、ベトナムに存在した短期王朝。この期間の一連の出来事は西山党の乱(タイソン党の乱)とも呼ばれる。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
阮福ルァン
阮 福(げん ふくこん、グェン・フック・ルァン、、龍徳2年4月29日(1733年6月11日) - 景興26年9月10日(1765年10月24日))は、広南国の王族。阮 福(グェン・フック・コー、)とも。.
阮福景
阮福景(げん ふくけい、Nguyễn Phúc Cảnh、1780年4月6日 - 1801年)は、ベトナム王子阮福暎(後の嘉隆帝)の長子。皇子景(Hoàng tử Cảnh)とも。7歳のとき、フランス王国のカトリック宣教師ピニョー・ド・ベーヌとともにフランスへ向かい、ヴェルサイユ条約の締結にこぎつけたことで知られる。父より先に死去したためベトナム王位を継ぐことはなく、嘉隆帝が阮福膽を後継者に指名した以降も、阮福景の子孫が王位を継ぐことはなかった。.
阮朝
阮朝(グエンちょう、げんちょう、)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都は順化/トゥアンホア、富春/フースアン(いずれも現在のフエ)。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
明命帝
明命帝(めいめいてい、ミンマンてい、Minh Mạng、1791年5月25日 - 1841年1月20日)は、阮朝の第2代皇帝(在位:1820年-1841年)。初代皇帝である嘉隆帝の第4子。諱は阮福膽(Nguyễn Phúc Đảm)、後に阮福晈(Nguyễn Phúc Kiểu)と改めた。.
景興
景興(けいこう)は、ベトナム後黎朝の顕宗が使用した元号。1740年 - 1786年。.
12月19日 (旧暦)
旧暦12月19日は旧暦12月の19日目である。六曜は赤口である。.
新しい!!: 嘉隆帝と12月19日 (旧暦) · 続きを見る »
1777年
記載なし。
1789年
記載なし。
1802年
記載なし。
1804年
記載なし。
1820年
記載なし。
1月15日 (旧暦)
旧暦1月15日は旧暦1月の15日目である。六曜は先負である。.
新しい!!: 嘉隆帝と1月15日 (旧暦) · 続きを見る »