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原胤房

索引 原胤房

原 胤房(はら たねふさ、生年不詳 - 文明3年9月9日(1471年10月22日)?)は、室町時代中期の武将。原胤親の子。胤隆、胤継の父。受領名は越前守または越後守。原氏は千葉氏の庶流。九州千葉氏の祖となった千葉宗胤の末裔との説もある。 円城寺尚任とともに千葉氏の執権であったが、両氏ともに千田庄・八幡庄内に所領を有していて領有をめぐり対立していた。享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに始まる享徳の乱の際、当主千葉胤宣と円城寺尚任は上杉氏に、胤房は成氏についたため対立が激化し、胤房は千葉城を襲い、康正元年8月12日(1455年9月23日)に胤宣と尚任を馬加康胤の加担を得て殺害、3日後の15日に胤宣の父胤直を、9月7日に胤直の弟胤賢も討ち千葉氏宗家を攻め滅ぼしたが、11月24日に胤賢の遺児千葉実胤・自胤兄弟を擁立した千葉氏庶流で室町幕府奉公衆の東常縁に敗れ逃亡、馬加康胤も翌康正2年(1456年)に常縁に討ち取られたとされる。 文明3年9月9日(1471年10月22日)に小弓城が上杉氏に攻められた際に戦死した「原越前入道」は受領名との一致などから胤房の事であるとされている。また、これを別人として文明11年(1479年)に91歳の長寿で没したとする説もある。 たねふさ Category:室町時代の人物 category:下総国の人物 Category:生年不明 Category:1471年没.

43 関係: 原氏千田荘千葉実胤千葉宗胤千葉胤宣千葉胤直千葉胤賢千葉自胤千葉氏受領名奉公衆室町幕府室町時代小弓城上杉氏上杉憲忠九州千葉氏享徳享徳の乱康正八幡荘 (下総国)国司鎌倉公方馬加康胤越後国越前国足利成氏関東管領暗殺東常縁武将文明 (日本)10月22日11月24日 (旧暦)1454年1455年1456年1471年1479年8月12日 (旧暦)8月15日 (旧暦)9月7日 (旧暦)9月9日 (旧暦)

原氏

原氏(はらし)は、日本の氏族の一つ。以下の流れがある。.

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千田荘

千田荘(ちだのしょう)は、中世の下総国匝瑳郡にあった荘園。現在の千葉県香取郡多古町付近に相当する。.

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千葉実胤

千葉 実胤(ちば さねたね)は、室町時代中期の武将。武蔵千葉氏初代当主。父は千葉氏嫡流の千葉胤賢。.

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千葉宗胤

千葉 宗胤(ちば むねたね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏の第9代当主。第8代当主・千葉頼胤の長男。.

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千葉胤宣

千葉 胤宣(ちば たねのぶ)は室町時代中期の武将。千葉氏の第18代当主。16代当主千葉胤直の子。17代当主千葉胤将の弟。.

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千葉胤直

千葉 胤直(ちば たねなお)は、室町時代中期の武将、守護大名。千葉氏の第16代当主。父は第15代当主千葉兼胤、母は上杉禅秀の娘。.

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千葉胤賢

千葉 胤賢(ちば たねかた)は、室町時代中期の武将。千葉氏第15代当主千葉兼胤の次男。.

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千葉自胤

千葉 自胤(ちば よりたね)は、室町時代中期から戦国時代前期の武将。武蔵千葉氏第2代当主(室町幕府からは千葉氏当主と認められた)。.

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千葉氏

千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」。.

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受領名

受領名(ずりょうめい)は前近代の日本において、主に武家や神職などの通称(仮名)として用いられた、非公式な官職名のこと。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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小弓城

小弓城(おゆみじょう)は、現在の千葉県千葉市中央区南生実町にあった日本の城。南生実城とも呼ばれる。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉憲忠

上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)は、室町時代中期の武士・守護大名。山内上杉家9代当主。関東管領。5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。.

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九州千葉氏

九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、桓武平氏の末裔の一族である千葉氏の支族の一つ。.

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享徳

享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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八幡荘 (下総国)

八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。 保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」が前身と考えられる。 『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが荘園領主の記載がなく、鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。そして富木常忍は日蓮の没後出家して日常と号し、日蓮のため自邸に建てた法華堂を法花寺と改め第1世貫首となった。 太田乗明の子日高は父の屋敷を本妙寺として日常を後継し第2世貫首となり、後の天文14年(1545年)に古河公方足利晴氏から法花寺・本妙寺の両寺を統合する寺号として贈られたのが今日の法華経寺であるとされている。 元応2年(1320年)には、本妙寺俗別当であった頼胤の嫡孫胤貞から猶子であり第3世貫首の日祐に八幡荘の一部が譲与され(『中山法華経寺文書』元応2年12月1日付千葉胤貞譲状)、以後南北朝時代を通して八幡荘のほとんどの地域が胤貞流千葉氏によって寄進されて(『中山法華経寺文書』観応3年4月25日付千葉胤継寄進状など)法華経寺領として伝えられたとされている。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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馬加康胤

加 康胤(まくわり やすたね)は、室町時代前期の武将。千葉 康胤(ちば やすたね)とも。第14代当主・千葉満胤の次男。 享徳の乱に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主となる。下総千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから「馬加」と称した。また、『千学集抜粋』によれば、常陸国の大掾満幹の養子になったという中根正人「室町中期の常陸大掾氏」(初出:『千葉史学』62号(2013年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7)。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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東常縁

東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。生年については、応永12年(1405年)説、同14年(1407年)説もある。 東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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10月22日

10月22日(じゅうがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から295日目(閏年では296日目)にあたり、年末まであと70日ある。.

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11月24日 (旧暦)

旧暦11月24日は旧暦11月の24日目である。六曜は仏滅である。.

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1454年

記載なし。

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1455年

記載なし。

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1456年

記載なし。

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1471年

記載なし。

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1479年

記載なし。

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8月12日 (旧暦)

旧暦8月12日は旧暦8月の12日目である。六曜は先勝である。.

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8月15日 (旧暦)

旧暦8月15日は旧暦8月の15日目である。六曜は仏滅である。.

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9月7日 (旧暦)

旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。.

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9月9日 (旧暦)

旧暦9月9日は旧暦9月の9日目である。六曜は大安である。.

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