ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

吉田兼煕

索引 吉田兼煕

吉田 兼熈(よしだ かねひろ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての神祇官・吉田神社社務・公卿。卜部氏17代・吉田家家祖。吉田卜部氏中興の祖とされる。.

37 関係: 卜部氏南北朝時代 (日本)吉田家吉田神社天授 (日本)室町幕府室町時代宿禰上臈位階征夷大将軍侍従後円融天皇従三位従四位応永カバネ公卿元中神祇官貞和足利義満至徳 (日本)正三位正平 (日本)永和 (日本)朝臣明徳明徳の和約1348年1375年1378年1386年1392年1402年5月3日 (旧暦)6月3日

卜部氏

卜部氏(うらべうじ)は、「卜部」を氏の名とする氏族。 古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。占部・浦部・浦邊とも表記する。.

新しい!!: 吉田兼煕と卜部氏 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 吉田兼煕と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

吉田家

吉田家(よしだけ)は、卜部氏の流れを汲む公家。家格は半家。.

新しい!!: 吉田兼煕と吉田家 · 続きを見る »

吉田神社

吉田神社(よしだじんじゃ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 吉田兼煕と吉田神社 · 続きを見る »

天授 (日本)

天授(てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 吉田兼煕と天授 (日本) · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 吉田兼煕と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 吉田兼煕と室町時代 · 続きを見る »

宿禰

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺))は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた金井清一「スクナヒ コナの名義と本質」1971 。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。.

新しい!!: 吉田兼煕と宿禰 · 続きを見る »

上臈

上臈(じょうろう).

新しい!!: 吉田兼煕と上臈 · 続きを見る »

位階

位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位、身分の序列、等級といった意味広辞苑 第五版 p.121「位階」である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。。.

新しい!!: 吉田兼煕と位階 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 吉田兼煕と征夷大将軍 · 続きを見る »

侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

新しい!!: 吉田兼煕と侍従 · 続きを見る »

後円融天皇

後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。.

新しい!!: 吉田兼煕と後円融天皇 · 続きを見る »

従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

新しい!!: 吉田兼煕と従三位 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 吉田兼煕と従四位 · 続きを見る »

応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

新しい!!: 吉田兼煕と応永 · 続きを見る »

カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

新しい!!: 吉田兼煕とカバネ · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 吉田兼煕と公卿 · 続きを見る »

元中

元中(げんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。弘和の後。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 吉田兼煕と元中 · 続きを見る »

神祇官

祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ).

新しい!!: 吉田兼煕と神祇官 · 続きを見る »

貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 吉田兼煕と貞和 · 続きを見る »

足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 吉田兼煕と足利義満 · 続きを見る »

至徳 (日本)

至徳(しとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永徳の後、嘉慶の前。1384年から1387年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 吉田兼煕と至徳 (日本) · 続きを見る »

正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

新しい!!: 吉田兼煕と正三位 · 続きを見る »

正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

新しい!!: 吉田兼煕と正平 (日本) · 続きを見る »

永和 (日本)

永和(えいわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。応安の後、康暦の前。1375年から1379年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

新しい!!: 吉田兼煕と永和 (日本) · 続きを見る »

朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

新しい!!: 吉田兼煕と朝臣 · 続きを見る »

明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

新しい!!: 吉田兼煕と明徳 · 続きを見る »

明徳の和約

明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。 この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。.

新しい!!: 吉田兼煕と明徳の和約 · 続きを見る »

1348年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1348年 · 続きを見る »

1375年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1375年 · 続きを見る »

1378年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1378年 · 続きを見る »

1386年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1386年 · 続きを見る »

1392年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1392年 · 続きを見る »

1402年

記載なし。

新しい!!: 吉田兼煕と1402年 · 続きを見る »

5月3日 (旧暦)

旧暦5月3日(きゅうれきごがつみっか)は、旧暦5月の3日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 吉田兼煕と5月3日 (旧暦) · 続きを見る »

6月3日

6月3日(ろくがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から154日目(閏年では155日目)にあたり、年末まであと211日ある。誕生花はアマ、クローバー。.

新しい!!: 吉田兼煕と6月3日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

卜部兼熈

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »