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初期フランドル派

索引 初期フランドル派

初期フランドル派(しょきフランドルは)、または初期ネーデルラント派(しょきネーデルラントは)は、15世紀から16世紀にかけて北方ルネサンス期(アルプス以北の北ヨーロッパの美術運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)のブルゴーニュ領ネーデルラントで活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語。初期フランドル派は、フランドル地方のトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめただけでなく、西洋美術史上の観点からも極めて重要な美術運動である。 初期フランドル派の作品には最後期ゴシック様式である国際ゴシックの影響がみられるが、1420年代初頭に活躍したロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクが、国際ゴシック様式をさらに発展させた。美術運動としての時代区分は、少なくとも前述のロベルト・カンピン(1375年頃 - 1444年)とヤン・ファン・エイク(1395年頃 - 1441年)が活動した1420年代初頭から、ヘラルト・ダフィト(1460年頃 - 1523年)の死去まで続くとされているSpronk (1996), 7。ただしその終焉を、八十年戦争のきっかけとなったネーデルラント諸州のスペイン・ハプスブルク家に対する反乱 (en:Dutch Revolt) が起きた1566年あるいは1568年とする研究家も多い。初期フランドル派の活動時期はイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。しかし中央イタリアの古典古代の復興(ルネサンス人文主義)を背景とするイタリアルネサンス絵画とは別個の美術様式であるとみなされている。初期フランドル派の画家たちは、それまでの北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響とを融合させた作品を産みだした。その結果、作品の美術様式としては初期ルネサンスと後期ゴシックの両方にカテゴライズされることもある。 初期フランドル派の重要な芸術家として、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ディルク・ボウツ、ペトルス・クリストゥス、ハンス・メムリンク、フーホ・ファン・デル・フース、ヒエロニムス・ボスらの名前が挙げられる。このような初期フランドル派の芸術家たちによって、美術における自然主義的表現と、美術作品とその観覧者に一体感を持たせるような仮想画面空間の構築手法 (en:Illusionism (art)) は飛躍的な進歩をみせ、さらに作品に複雑な寓意を持たせる技法が発展していった。絵画作品としてはキリスト教の宗教画や小規模な肖像画が多く、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれなかった。風景画は独自の発展を遂げており、単独で描かれることもあったが、16世紀初頭までは肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かった。支持体に木板を使用して油彩で描かれた板絵が多く、一枚の板からなる作品、あるいは複数枚の板を組み合わせた三連祭壇画や多翼祭壇画などが制作されている。初期フランドル派の芸術家たちは、絵画作品以外にも彫刻、タペストリー、装飾写本、ステンドグラスなども制作しており、美術史上重要な作品も多い。 初期フランドル派の活動時期はブルゴーニュ公国がヨーロッパ中に大きな影響力を持っていた時代とも合致する。当時のネーデルラントはヨーロッパ政治経済の中心地であり、また、高い芸術的技能を誇る高級品の一大産地でもあった。徒弟制度と工房を活用した制作手法によって多くの芸術品を生産することが可能で、諸国の王侯貴族からの直接注文、公開市場のどちらにも良質な作品を供給することができた。極めて多くの芸術作品がこの時期に制作されたが、16世紀半ばにオランダを中心に発生したビルダーシュトゥルム(en)と呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)で多くの作品が破壊されたために、現存しているのはわずか千点あまりに過ぎない。さらに、1600年代半ばのマニエリスムの勃興とともに初期フランドル派の作品は流行から外れ、大衆からの人気がある作品群ではなくなった。その結果、現在に伝わる初期フランドル派の作品に関する公式な資料、記録がほとんど存在せず、もっとも重要視される芸術家の情報でさえもほとんど伝わっていないという事態が生じた。初期フランドル派が再評価され始めたのは19世紀半ばになってからのことで、その後美術史家たちの一世紀以上にわたる研究により、作者の特定、こめられた寓意や象徴の解釈、主要な芸術家の生涯などが解明されつつある。しかしながら、重要な作品の作者については今なお大きな議論の的となっている。.

209 関係: 偶像崇拝十字架降架 (ファン・デル・ウェイデンの絵画)古代ローマの通貨古典古代受胎告知 (ヤン・ファン・エイク)壁龕大アントニオス大航海時代大英博物館大英図書館宮廷画家宰相ロランの聖母宗教改革巡礼年輪年代学人文主義者彫刻快楽の園地図学北ヨーロッパ北方ルネサンスナンシーの戦いペトルス・クリストゥスナショナル・ギャラリー (ワシントン)ペストミュンヘンミラフロレスの祭壇画ミニアチュールミケランジェロ・ブオナローティミケル・シトウマリー・ド・ブルゴーニュマリア・フォン・エスターライヒマルティン・ルターマルティン・ショーンガウアーマルグリット・ドートリッシュマーチャーシュ1世マーガレット・オブ・ヨークマニエリスムマクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)マサチューセッツ大学マサチューセッツ大学アマースト校ネーデルラント連合王国ハンス・メムリンクハールレムメルキオール・ブルーデルラムメトロポリタン美術館モナ・リザヤン・ファン・エイクヤン・ファン・スコーレルヤン・ホッサールト...ユリウス2世 (ローマ教皇)ヨハン・ホイジンガヨース・ファン・ワッセンホフヨアヒム・パティニールラファエロのカルトンラファエロ・サンティライデンリチャード2世 (イングランド王)リンブルク兄弟ルネサンスルーヴル宮殿ルートヴィヒ・ティークルッカの聖母ルイ1世・ダンジュールカレプリカレオナルド・ダ・ヴィンチレオノール・デ・ヴィゼウロマネスク建築ロングショットロヒール・ファン・デル・ウェイデンロベルト・カンピンヴィクトリア (イギリス女王)ボヘミアトリノ=ミラノ時祷書トゥルネーヘラルト・ダヴィトヘントヘントの祭壇画ヘールトヘン・トット・シント・ヤンスブラック家の祭壇画ブリュッセルブルッヘブルゴーニュ公国ブルゴーニュ領ネーデルラントパトロンヒエロニムスヒエロニムス・ボスビザンティン美術ピーテル・ブリューゲルテューダー朝テンペラティモテオスの肖像ディルク・ボウツディプティクフランドルフランス革命フランス革命戦争フラスコフリードリヒ・シュレーゲルフルドリッヒ・ツヴィングリフーベルト・ファン・エイクフーゴー・ファン・デル・グースファン・デル・パーレの聖母子フアン・デ・フランデスフィリップ2世 (ブルゴーニュ公)フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)フィレンツェフェリペ2世 (スペイン王)フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロドレスデンの祭壇画ニュルンベルクベリー公のいとも豪華なる時祷書ベルギー独立革命分業アミアンアラスアラスの和約 (1435年)アルノルフィーニ夫妻像アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)アルトゥル・ショーペンハウアーアルブレヒト・デューラーアルプス山脈アルテ・ピナコテークアルス・ノーヴァアントウェルペンアンブロシウス・ベンソンアンドレア・マンテーニャアーケード (建築物)イコノクラスムイコンイザヤ書イザボー・ド・バヴィエールイザベラ・オブ・ヴァロワイザベル・ド・ポルテュガルイサベル1世 (カスティーリャ女王)ウルムウィーンエルヴィン・パノフスキーエングレービングエドワード4世 (イングランド王)オランダ黄金時代の絵画オークカルヴァン主義カレル・ヴァン・マンデルカンブレーの聖母キリスト磔刑と最後の審判ギヨーム・デュファイクロスボウクエンティン・マサイスケルンケンジントン宮殿コンラート・ヴィッツゴシックゴシック建築ゴシック様式シモン・マルミオンシャルル (ブルゴーニュ公)シャルル5世 (フランス王)シャルル6世 (フランス王)シュヴァーベンシュテファン・ロッホナーシエーナシスティーナ礼拝堂ジャン1世 (ベリー公)ジャン・フーケジャン・カルヴァンジョルジョ・ヴァザーリジョヴァンニ・ベッリーニジル・バンショワジェームズ4世 (スコットランド王)スペイン・ハプスブルク朝スヘルトーヘンボスステンドグラスタペストリータンパク質八十年戦争図像学国際ゴシック神聖ローマ帝国祭壇画第二次世界大戦美術商絵画館 (ベルリン)画家・彫刻家・建築家列伝無原罪の御宿り版画盛期ルネサンス遠近法聖家族聖ルカ組合聖ヴェロニカ聖遺物聖母の被昇天聖母を描く聖ルカ風俗画風景画装飾写本読書するマグダラのマリア辺獄薔薇物語肖像金羊毛騎士団板絵油彩木版支持体教会の聖母子時祷書 インデックスを展開 (159 もっと) »

偶像崇拝

偶像崇拝(ぐうぞうすうはい、)とは、偶像を崇拝する行為である。.

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十字架降架 (ファン・デル・ウェイデンの絵画)

『十字架降架』あるいは『十字架降下』(じゅうじかこうか、Kruisafneming、Descendimiento de la cruz)は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが1435年ごろに描いた絵画。オーク板に油彩で描かれた板絵で、現在はマドリードのプラド美術館が所蔵している。磔刑に処せられたキリストを描いた作品で、十字架から降ろされたキリストの遺体を抱えている二人の男性はアリマタヤのヨセフとニコデモであると考えられている。 この絵画の制作年度が1435年ごろと推測されている根拠のひとつは、作風にある。また、作者のファン・デル・ウェイデンがこの時期に富と名声とを獲得しており、それらはこの作品がきっかけとなってもたらされたものと考えられているためでもある。ファン・デル・ウェイデンの初期の絵画で、師と考えられているロベルト・カンピンのもとでの徒弟期間を終えて間もなくの作品である。この作品にはカンピンの影響が如実に見られ、とくに彫刻のような硬い表質感と、赤、白、青を多用して鮮やかに彩られた写実的な人物の顔の表現に顕著となって表れている。『十字架降架』はファン・デル・ウェイデンが世界的な評価を得ようと意識して描いた大作であり、依頼主であるルーヴェンの弓射手ギルドがノートルダム・フオーリ・レ・ムーラ礼拝堂に献納することにちなんで、キリストの身体はクロスボウを模った「T」の形で描かれている。 美術史家たちはこの作品について、キリスト磔刑を描いたフランドル絵画の中でもっとも影響力があったことはまず間違いなく、完成後200年の間に何度も模写され、大規模な絵画の模範と見なされていたと高く評価している。キリストの死を深く嘆き悲しむ人々の、衝撃的ともいえる感情表現と精緻な空間表現がさまざまな評価となって表れた作品でもある。.

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古代ローマの通貨

本項では、共和政ローマとローマ帝国の西半部における古代ローマの通貨について述べる。主な貨幣としては、アウレウス(金貨)、デナリウス(銀貨)、セステルティウス(青銅貨)、デュポンディウス(青銅貨)、アス(銅貨)がある。それらは紀元前3世紀の中ごろから紀元3世紀の中ごろまで使われた。 ギリシアに影響を受けた地域ではこれらの貨幣も流通したが、同時にその地方独自の貨幣も発行しており、それらを Roman provincial coins などと呼ぶ。 3世紀になると、デナリウス貨の代わりとして倍の価額の銀貨アントニニアヌス貨が発行されたが、ディオクレティアヌス帝が通貨改革を行った際に廃止され、新たにアルゲンテウス(銀貨)やフォリス(銀を混ぜた青銅貨)が発行された。通貨改革後、ローマの貨幣はソリドゥス金貨と小額の青銅貨が主となった。この傾向は西ローマ帝国の終焉ごろまで続いた。.

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古典古代

古典古代(こてんこだい、Classical Antiquity)は、ヨーロッパ史(西洋史)において古代ギリシア・ローマ時代を指す名称である。この時代に生み出された文化・文明が現在のヨーロッパ文化の基盤になっていることに由来し、「古典的」という修飾句を冠することで他の古代(文化・文明)と区別したものである。 古典古代の文化は、先行して繁栄していた古代オリエントの文化(エジプト文明およびメソポタミア文明)からの大きな影響(文字や鉄器の使用など)を受けて成立し、地中海世界(特にその北半分)を中心に発展した。この地域からはアレクサンドロスの帝国およびローマ帝国が台頭し、オリエント世界をも統合する大帝国を現出した。言語的側面から見れば、古典古代文化は古代ギリシア語およびラテン語による文化であった。 古典古代の終焉は、古代末期の終了に伴う古代文化の崩壊と中世初頭の開始を以ってとされ、これ以後の西ヨーロッパ世界は、ローマ帝国末期から次第に力を増してきたキリスト教とゲルマン人の文化に支配されることになった(中世の始まり)。古典古代の文化的遺産は東ローマ(ビザンツ)に継承され、8世紀以降はアラビア語への翻訳を通じてイスラーム世界に引き継がれた。ここで古典古代文化は哲学・自然科学の研究の面で独自の発達を遂げ、十字軍・レコンキスタによる西欧世界との接触・交流の開始により、再び西欧へと「逆輸入」されることになり、12世紀ルネサンス、(14世紀以降の)イタリア・ルネサンスの成立につながった。この結果、古典古代文化はキリスト教・ゲルマン人文化に加え現代にいたるヨーロッパ文化の基盤とみなされるに至っている。.

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受胎告知 (ヤン・ファン・エイク)

『受胎告知』(じゅたいこくち(Annunciatie、Annunciation))は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年から1436年ごろにかけて描いた絵画。ワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている。もとは板(パネル)に油彩で描かれた作品だったが、19世紀にカンバスに移植された。三連祭壇画を構成する左翼内側のパネルではないかと考えられており、残りのパネルは1817年以前から不明となっている。『受胎告知』は非常に複雑で難解な作品で、描かれているものが何を意味しているのか(図像学)は現在でも美術史家の間で議論となっている。 大天使ガブリエルが聖母マリアに神の子を身ごもることを伝える、新約聖書ルカ伝の1章26節から38節の「受胎告知」の場面を描いた作品で、ガブリエルの口もとにはマリアに伝えた「おめでとう、恵まれた方よ (AVE GRÃ. PLENA)」が書かれている。マリアはガブリエルから一歩退いて「主の侍女を見守りたまえ (ECCE ANCILLA DÑI)」と控えめに応えた言葉が、天上の神に見えるよう上下逆さまにされてマリアの口もとに書かれている。左上の窓からは聖霊が人間にもたらすという7つの賜物 (en:Seven gifts of the Holy Spirit) が7本の光明となって、聖霊を象徴するハトとともに降り注いでいる。「神が人間を救済しようとする、まさにその瞬間を捉えた絵画である。キリストの顕現のもと、法が支配していた古い時代は神の恵みに満ちた新しい時代へと変革した.

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壁龕

イタリアルネサンスの画家フィリッポ・リッピの絵。壁がんを背景にした聖母子像(1440年代) 壁龕(へきがん)またはニッチ(niche)は、古典的建築意匠の一種。 エクセドラまたはアプスとも。 なお「ニッチ」という用語は建築物のへこみという意味以外にも、岩のへこみや隙間などを指すこともある。 つまり「ニッチ」は狭い場所一般を指すと考えられ、そこから生態系における相対的位置を表すニッチという用法が生まれた。.

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大アントニオス

聖大アントニオス(Αντώνιος, Antonius、251年頃 - 356年)、あるいは大アントニオは、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人。修道士生活の創始者とされる。ラテン語から聖アントニウスとも表記される。正教会では勤行者克肖者聖大アントニイと記憶される。.

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大航海時代

大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。.

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大英博物館

大英博物館(だいえいはくぶつかん、British Museum)は、イギリス・ロンドンにある博物館である。.

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大英図書館

大英図書館(だいえいとしょかん、、略称: )は、イギリスの国立図書館である。英国図書館とも訳されるの例にあるように、国立国会図書館では主にこちらの名称が用いられている。。世界最大級の1億5000万点以上もの資料を所蔵する、世界で最も重要な研究図書館であり、世界的な図書館の一つである。ロンドンのに本館、ウェスト・ヨークシャーのに分館が置かれている。古今東西のあらゆる言語の書籍を収集しているほか、雑誌、新聞、パンフレット、録音、特許、データベース、地図、切手、版画、絵画、その他多くの資料を保存している。その2500万冊以上の網羅的なコレクションを数で上回るのは、今やワシントンD.C.のアメリカ議会図書館のみであるオンライン版のブリタニカ百科事典のから確認できる。。このコレクションに含まれる作品には、紀元前1600年頃の時代にまで遡るものもある。大英博物館図書館といくつかの他の国立図書館との合併により1973年に設立された大英図書館は、文化・メディア・スポーツ省に従属し、法定納本制度の下で、イギリスおよびアイルランドで出版されたすべての図書を1部ずつ受け取り、イギリスの全国書誌を作成する。.

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宮廷画家

宮廷画家(きゅうていがか)は、王侯貴族の依頼に応じて作品を制作する芸術家。雇い主たる王侯貴族から固定給を受けていることが多く、雇い主以外からの美術品制作依頼を受けることが制限されている場合もあった。また、とくに中世後期においては近侍 (en:valet de chambre) の地位が伴うことがあった。 一般的に、宮廷画家は固定給と宮廷内における正式な地位、さらには邸宅も与えられることもあったが、それぞれの宮廷画家が与えられた待遇にはさまざまな差異が見られる。宮廷に雇われた芸術家は、そのメンバーに様々な制約を課していたギルドからの束縛を受けることなく、宮廷からの依頼による美術作品を制作することができた。また、ヤン・ファン・エイクやディエゴ・ベラスケスのように、外交官や行政官としての役割を兼務していた宮廷画家もいる。 イスラム文化圏、とくに14世紀から17世紀では、装飾写本の挿絵(ミニアチュール)作家が、キリスト教文化圏での宮廷画家と同じような位置づけだった。シャーを初めとする支配者階級の多くが宮廷内に工房やアトリエを設置し、カリグラフィー、ミニアチュール、製本などの工芸品制作にあたらせた。キリスト教圏以上に宮廷からの後援が大規模な芸術活動に不可欠で、政権交代や君主の嗜好の変化が、芸術の発展に多大な影響を与えることもあった。リザ・アッバースィー (en:Riza Abbasi) や、アブド・アル=サマド (en:Abd al-Samad) といったペルシアのミニアチュール作家 (en:Persian miniature) は、宮廷からの依頼で多くの美術品を制作している。 あらゆる時代の君主は、自身の、あるいは自身が統制できる工房を所有していることが多く、高品質のタペストリ、磁器、陶器、絹織物などの工芸品を制作させていた。とくに中国とビザンツ帝国でこの傾向が強い。宮廷画家がこれらの工芸品のデザインに関係することもあり、たとえばペルシア帝国、オスマン帝国、ムガル帝国で制作された絨毯 (en:Oriental rug) には、装飾写本のミニアチュールと酷似したものがある。このことから、ミニアチュールのデザインが、宮廷から絨毯職人へと送られていたのではないかと考えられている。17世紀のフランスでも、ルイ14世の宮廷画家だったシャルル・ル・ブランは国立ゴブラン織工房 (en:Gobelins Manufactory) の責任者も兼任しており、王族の依頼に応じてタペストリのデザインに携わっていたという記録が残っている。ル・ブランはルイ14世の宮廷で重要な地位を占め、その作風はフランスのみならず、ヨーロッパ諸国の芸術に大きな影響を与えた。.

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宰相ロランの聖母

『宰相ロランの聖母』(さいしょうロランのせいぼ(De Maagd van kanselier Rolin、La Vierge du chancelier Rolin)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1435年ごろに描いた絵画。パネルに油彩で描かれ、現在パリのルーブル美術館に所蔵されている。 『宰相ロランの聖母』はブルゴーニュ公フィリップ2世のもとでブルゴーニュ公国宰相だったニコラ・ロラン (en:Nicolas Rolin) からの依頼で描かれた。オータンにあったロランの教会区教会ノートルダム・ドゥ・シャステルへの奉納肖像画(教会や修道院などの宗教施設に献納する絵画のこと。聖書を題材にした宗教絵画が多く、献納者自身の肖像画がともに描かれる (en:Donor portrait))で、ロランが画面左に聖母子と向かい合って描かれている。ノートルダム・ドゥ・シャステルが1793年に焼失した後はオータン大聖堂に所蔵されていたが、1805年にルーブル美術館へと移された。.

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宗教改革

フスの殉教 宗教改革(しゅうきょうかいかく、Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。 ルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。.

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巡礼

巡礼(じゅんれい、pilgrimage)とは、 日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教の聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動のことスーパーニッポニカ「巡礼」星野英紀 執筆。.

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年輪年代学

年輪年代学(ねんりんねんだいがく、英語:dendrochronology)とは、樹木の年輪パターンを分析することによって、年代を科学的に決定する方法である。アリゾナ大学のA・E・ダグラスによって、20世紀に発明・発展された。本法を適用することで樹木の年代は正確に暦年単位で決定することができる。.

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人文主義者

人文主義者(じんぶんしゅぎしゃ)とは、ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。特に、15世紀-16世紀に活動したフランス人の影響が大きいため、日本ではフランス語のまま「ユマニスト」(humaniste)と表現されたりもする。英語では「ヒューマニスト」(humanist)、イタリア語で「ウマニスタ」(Umanista)など、各言語の相当語彙でも共有・表現される概念だが、人道主義・博愛主義などの意味で用いられる場合と区別するために、「ルネサンス・ヒューマニスト」(Renaissance humanist)などと表現されたりもする。人文学者(じんぶんがくしゃ)とも。.

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彫刻

彫刻(ちょうこく)とは、木、石、土、金属などを彫り刻んで、物の像を立体的に表すこと。または、それらの表面に書画や図版などを掘り込むこと。あるいは美術的な鑑賞を目的として、様々な素材を用いて立体的に制作された芸術作品のこと。また、その表現領域を指す。以下では西洋美術の概念における、芸術作品としての彫刻(スカルプチャー、英語:sculpture)について述べる。 硬い素材を彫り刻む技法も彫刻(カーヴィング、carving)と呼び、それに対して、可塑性素材を盛りつけて形を作る技法を彫塑(モデリング、modeling)という。彫塑で作られた作品を特に塑像と呼び分けることもある。 使われる素材は、石、木、土、フェルト、石膏、紙、繊維、金属(鉄、銅など)、樹脂、ガラス、蝋など、多種にわたり、また、複数の素材を組み合わせる作品も多い。 彫刻の対象(モチーフ)は元来、人間や身近な動物など具体物であった(具象彫刻)が、20世紀になると、心象を表したもの(抽象彫刻)も多く制作されるようになった。 現在では、表現が多様化し、従来の彫刻の概念では収まらないケースもあり、それらを「立体」、「立体アート」と呼ぶこともあるほか、表現が設置空間全体へ拡散したものは、特に「空間表現」や「インスタレーション」と呼び分けられる。.

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快楽の園

『快楽の園(かいらくのその、Tuin der lusten、El jardín de las delicias)』、または『悦楽の園(えつらくのその)』は、初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボスが描いた三連祭壇画。ボスが40歳から60歳の1490年から1510年の20年間のいずれかの時期の作品で、1939年からスペインのマドリードにあるプラド美術館に所蔵されている。ボスの作品の中でも最も有名な作品で、かつ最も大がかりな作品であるSnyder 1977, 96。この絵画はボスが画家としての最盛期にあったときに描かれ、この作品のように複雑な寓意に満ち、生き生きとした表現で描かれているボスの作品は他に存在しないBosing, 60。.

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地図学

地図学(ちずがく、英語:cartography)とは、地図または地球儀を作成するための研究である。地図製作法(ちずせいさくほう)ともいう。また地図学といった場合、工学方面では、地図を使った測量、読図などの技術を研究する測量学的な研究を指す。 英語の cartography はギリシア語の (chartis、地図)と (graphein、記述する)に由来する。地図は伝統的に、紙とペンを使って作成されたが、コンピュータの出現と広がりが地図製作に革命をもたらした。現在、大部分の商業的で高級な地図は、3つの主な種類のソフトウェアの1つを用いて作成されている。すなわち、CAD、GIS、および地図製作に特化されたソフトウェアである。 地図は空間データの視覚化のための道具として機能する。空間データは測定から得られ、データベースに保存することができる。データベースから、空間データを多様な目的のために抽出することができる。この分野における現在の傾向は、アナログな地図製作方法から、デジタル的に操作することができるダイナミックで双方向的な地図作成の方向に移り変わってきている。地図作成の過程は、客観的な現実の状態があり、抽象概念のレベルを加えることによってその現実の状態を信頼できる形で表現できるという前提に基づいている。 現代の高等教育では、測量学や都市工学、地理学関係の専門課程科目として研究・教育がされている。.

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北ヨーロッパ

南ヨーロッパ 北ヨーロッパ(きたヨーロッパ)は、ヨーロッパの北部地域である。日本では北欧(ほくおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは、国や国際機関などにより異なる。最も広い場合は、イギリスとアイルランド、そしてドイツやロシアのバルト海沿岸部も含まれる。.

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北方ルネサンス

『アルノルフィーニ夫妻像』 ヤン・ファン・エイク,(ナショナル・ギャラリー (ロンドン), 1434年) 北方ルネサンス(ほっぽうルネサンス、Noordelijke renaissance、Northern Renaissance)は、狭義には北ヨーロッパでのルネサンス運動を指し、広義ではイタリア以外でのヨーロッパにおけるルネサンス運動全体を指す美術史用語。 1450年終わりになるまでイタリアでのルネサンス人文主義はイタリア以外のヨーロッパ諸外国にはほとんど影響を及ぼさなかったが、15世紀後半にはルネサンス運動は全ヨーロッパに波及した。その結果、「ドイツ・ルネサンス」、「フランス・ルネサンス」、「イングランド・ルネサンス」、「ネーデルラント・ルネサンス」、「ポーランド・ルネサンス」など、それぞれの国でルネサンスの影響を受けた多種多様な芸術運動が展開された。 フランスではフランス王フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチらイタリアの芸術家を宮廷に迎え、莫大な費用をかけてルネサンス様式の宮殿を造営し、フランス・ルネサンスのきっかけを作った。 15世紀のブルッヘ、16世紀のアントワープのような当時の経済中心都市との交易は、ネーデルラント諸国とイタリア双方にとって、大きな文化的交流をもたらした。しかしネーデルラントでは芸術、特に建築の分野において後期ゴシックの影響が依然として大きく、画家たちがイタリアの絵画を模範としはじめていたのに対し、バロック期になるまで、後期ゴシック建築の様式から抜け出ることはなかった。 一部の地域では政治体制が中央集権だったこともあり、イタリア・ルネサンスの影響をほとんど受けずに独自のルネサンス様式が発展した。イタリアやドイツでは独立都市国家が大きな力を持っていたが、中央ヨーロッパ、西ヨーロッパでは国民国家が出現し始めていた。北方ルネサンスは16世紀の宗教改革と密接に関係している。対国内、対国外ともにプロテスタントとローマ・カトリック教会との長期にわたる対立が、ネーデルラントなどのルネサンス運動に影響を与え続けた。.

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ナンシーの戦い

ナンシーの戦い(ナンシーのたたかい、仏:Bataille de Nancy)は、1477年1月5日、ロレーヌ公国の都市ナンシー郊外で、ブルゴーニュ公シャルルとロレーヌ公ルネ2世との間で起こったブルゴーニュ戦争最後の戦い。決戦となったこの戦いではルネの軍勢が勝利した。切り刻まれたシャルルの遺体が確認されたのは3日後だった。.

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ペトルス・クリストゥス

絵画館(ベルリン) ペトルス・クリストゥス (Petrus Christus, 1410年/1420年 - 1475年/1476年)は、1444年からブルッヘで活動した初期フランドル派のオランダの画家。.

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ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

National Gallery of Art ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(、略称は)は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.にある国立美術館である。日本では、ワシントン・ナショナル・ギャラリーなどとも呼ばれる。.

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ペスト

ペスト(, )とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。黒死病(, )とも。.

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ミュンヘン

ミュンヘン(München,, バイエルン語: Minga)は、イーザル川河畔にありバイエルンアルプスの北側に位置する都市。ドイツの連邦州であるバイエルン州最大の都市であり、同州の州都でもある。.

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ミラフロレスの祭壇画

『ミラフロレスの祭壇画』(ミラフロレスのさいだんが(Miraflorestriptiek、Miraflores-Altar))、または『聖母の三連祭壇画』(せいぼのさんれんさいだんが)』は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが1442年から1445年ごろに描いた三連祭壇画。1850年以来ベルリンの絵画館が所蔵している。祭壇画を構成する3枚のパネルの大きさはすべて同じ71cm x 43cmで、左翼には聖家族、中央パネルには磔刑に処せられたキリストの遺体を掻き抱く聖母マリア(ピエタ)、右翼にはマリアの前に復活した姿を表すキリストが描かれている。これは左から順番にキリストの誕生、死、復活を時系列順に表したものとなっているがChipps Smith, p.172、すべてマリアを中心とした構図となっている。この作品には非常に多様な色調の顔料が使用されている。なかでも白色、赤色、青色の色使いが際立ち、特に中央パネルのキリストの身体描写は、ファン・デル・ウェイデンの特徴とも言える感情豊かな表現となっている。 当時描かれた他の祭壇画と同様に『ミラフロレスの祭壇画』にも多くの宗教的象徴表現がみられる。どのパネルも最上部が丸いアーチ状のフレームで縁どられ、縁飾りの下部ならびに上部のスパンドレル(三角小間)にはゴシック調の格子飾りが施されている。さらに画面を囲むようにして、一見レリーフ彫刻に見える装飾があり、これも複雑な宗教的寓意を表しているLane, p.655。この扉のようにも見える縁飾りに表現された様々な寓意を始め、『ミラフロレスの祭壇画』は当時の画家たちに大きな影響を与えた作品だった。.

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ミニアチュール

ミニアチュール(フランス語:miniature)または彩画(さいが)・細密画(さいみつが)とは、古代・中世の絵付き写本に収録された挿絵である。語源はラテン語のminium(鉛丹)。初期の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなむ。中世のミニアチュールは小さいものが多かったため、「minute(微細な)」などが語源であると誤解され、小さいサイズのイラストを指してミニアチュールと呼ばれるようになった。ミニアチュールの翻訳語として細密画という表現が採用されたのもこれに由来する。.

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ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる。 ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。 ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェので、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。 ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえるMichelangelo.

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ミケル・シトウ

ミケル・シトウ (Michael(Michel/Michiel/Miguel) Sittow 、1468年頃 - 1525年/1526年)は初期フランドル派の画家。レバル(現在のエストニア、タリン)出身で、画家としての生涯のほとんどをカスティーリャ女王イサベル1世やハプスブルク家などの宮廷画家としてスペイン、ネーデルラントで送った。シトウはこの時代でもっとも重要なフランドル派画家とみなされている 。.

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マリー・ド・ブルゴーニュ

聖母教会のマリーの墓 マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne, 1457年2月13日 - 1482年3月27日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国最後の君主、(名目上の)ブルゴーニュ女公(在位:1477年 - 1482年)。後の神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家のマクシミリアン1世の妻。領民たちからは「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われていたという。.

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マリア・フォン・エスターライヒ

マリア・フォン・エスターライヒ(Maria von Österreich, 1505年9月17日 - 1558年10月17日)は、ハプスブルク家のフィリップ美公とカスティーリャ女王フアナの三女。ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世の王妃。.

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マルティン・ルター

マルティン・ルター(Martin Luther 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者である。 1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。.

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マルティン・ショーンガウアー

マルティン・ショーンガウアー(Martin Schongauer 1448年頃 - 1491年2月2日)は、ドイツの画家、版画家。絵は生前から高く評価され、版画は広く流布された。.

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マルグリット・ドートリッシュ

マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d'Autriche, 1480年1月10日 - 1530年12月1日)は、オーストリア大公女、ブルゴーニュ公女。 フランス王シャルル8世の妃、スペイン(カスティーリャ=アラゴン)のアストゥリアス公フアンの妃、サヴォイア公フィリベルト2世の妃となった後、ネーデルラント17州の総督を務めた。.

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マーチャーシュ1世

マーチャーシュ1世(I., 1443年2月23日 - 1490年4月6日)は、ハンガリー王(在位:1458年 - 1490年)。ボヘミア王(対立王)でもあった(在位:1469年 - 1490年)。「正義王」の異名がある。フニャディ・マーチャーシュ(Hunyadi Mátyás)、マティアス・コルヴィヌス(Matthias Corvinus Huniades)とも呼ばれる。コルヴィヌスあるいはコルウィヌスは「烏(corvus コルウス)の人」を意味するラテン語名で、フニャディ家の烏(カラス)の紋章に由来し、それはヴァイダフニャド城の別名に由来する。1479年にはオーストリア大公国の支配権も得る。 王軍を常備軍として設置し、中央集権化を進めて、中世ハンガリーの最盛期を築いた。ルネサンス文化を奨励したことでも知られる。ハンガリーの1000フォリント紙幣には、マーチャーシュの肖像が印刷されている。.

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マーガレット・オブ・ヨーク

マーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York)は.

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マニエリスム

マニエリスム (Manierismo; Maniérisme; Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた。.

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マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)

マクシミリアン1世(Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1508年 - 1519年)、ローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)、オーストリア大公。 自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝(Maximilian der Große)と称される。また武勇に秀でな体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。.

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マサチューセッツ大学

記載なし。

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マサチューセッツ大学アマースト校

5つの大学から構成されるマサチューセッツ大学システム(UMassシステム)の旗艦校であり、現在約90の学部と約65の大学院プログラムを提供している。マサチューセッツ大学アマースト本校は他のキャンパスに比べ入学資格が厳しく、比較的レベルも高い。 マサチューセッツ州にはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などの名門校があり、また本校が所在するアマースト町周辺にキャンパスを構えるアマースト大学、スミス大学、マウント・ホリヨーク大学など、近隣五大学からなるファイブカレッジ・コンソーシアム(英語サイト)のメンバーである。 The Times of Londonが2011年にリリースした世界大学ランキングでは19位にランクインしている。イギリス紙「タイムズ」が2010年に発表した世界大学ランキングにおいて56位に選出されている。 とくに、コンピュータ科学、経営学、ナノテクノロジー、高分子科学などの分野では全米でも評価が高い。.

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ネーデルラント連合王国

ネーデルラント連合王国(ネーデルラントれんごうおうこく、Verenigd Koninkrijk der Nederlanden、Royaume-Uni des Pays-Bas、Vereinigtes Königreich der Niederlande、United Kingdom of the Netherlands)は、ナポレオン戦争中にフランス帝国領となっていたネーデルラントに、1815年のウィーン会議によって成立した国家。正式な国名はネーデルラント王国(Koninkrijk der Nederlanden、Royaume des Pays-Bas、Königreich der Niederlande)である。 その領域は現在のオランダとベルギーとルクセンブルクに相当し、フランス革命戦争以前のネーデルラント連邦共和国と南ネーデルラント、およびリエージュ司教領から作られた。この新しい国の国王には、共和国の総督を代々務めてきたオラニエ=ナッサウ家の当主が就いた。.

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ハンス・メムリンク

マールテン・ファン・ニーウウェンホーフェの肖像 1487 ブルッヘ、メムリンク美術館 ハンス・メムリンク(Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年)は、15世紀フランドルの画家。 15世紀後半にブルッヘで活躍した画家。ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。 ドイツのフランクフルト近郊ゼーリゲンシュタットの生まれだが、主にフランドルのブルッヘで活動している。生年ははっきりしていない。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと推定され、1465年にはブルッヘの市民権を得ている。ファン・エイクの影響が感じられる宗教画のほか、寄進者像を中心とした肖像画にも優れたものが残っている。メムリンクの作品には、師のファン・デル・ウェイデンのような激しい情感の表出は見られず、画面は静寂感に満ちている。細部の精密描写は北方絵画全般に見られる特色だが、メムリンクは、金属製の鎧の表面に映った鏡像までも執拗に描写している。 代表作の一つに『聖女ウルスラの聖遺物箱』がある。これは聖遺物箱の表面にメムリンク筆のパネル画を取りつけたものである。.

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ハールレム

パールネ川 ハールレム (Haarlem) は、オランダの北ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)であり、州都が置かれている都市。ニューヨークのハーレム地区の名称は、このハールレムに由来する。ハーレムとも表記される。.

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メルキオール・ブルーデルラム

メルキオール・ブルーデルラム (Melchior Broederlam (1350年頃 - 1409年以降))は初期フランドル派の画家。イーペル出身と言われ、1381年から1409年にかけてブルゴーニュ公フィリップ2世らに仕えていた記録が残されている。ほぼ確実にブルーデルラムの作品であろうと考えられているのは板に描かれた祭壇画のわずか一作品だけで、西洋絵画史上その他のブルーデルラムの作品は確認されていない。.

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メトロポリタン美術館

メトロポリタン美術館(メトロポリタンびじゅつかん、The Metropolitan Museum of Art、通称:The Met)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。5番街(ミュージアム・マイルの区間)に面するセントラル・パークの東端に位置する。.

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モナ・リザ

『モナ・リザ』(La Gioconda、La Joconde)は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。上半身のみが描かれた女性の肖像画で、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」といわれている。 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。ポプラ板に油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと考えられている。もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品だが、現在はフランスの国有財産であり、パリのルーヴル美術館が常設展示をしている。しばしば「謎」と表現される画題の不確かさ、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。.

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ヤン・ファン・エイク

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck、1395年頃 - 1441年7月9日)は、初期フランドル派のフランドル人画家。 主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパでもっとも重要な画家の一人と見なされている。 わずかに残る記録から、ファン・エイクは1390年ごろの生まれで、おそらくマースエイク出身だと考えられている。ファン・エイクの幼少期についてはほとんど伝わっていないが、ブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた1425年ごろからの記録は比較的整理されて残っている。フィリップ3世の宮廷に出仕する以前は、エノー、ホラント、ゼーラントを支配していたバイエルン公ヨハン3世に仕えていた。当時のファン・エイクはすでに自身の工房を経営しており、ハーグのビネンホフ城の再装飾の仕事に従事していたこともある。1425年ごろにブルッヘへと移住したファン・エイクはフィリップ3世に認められ、宮廷画家、外交官としてその宮廷に仕えるようになった。その後、トゥルネーの画家ギルドの上級メンバーに迎えられ、ロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった、初期フランドル派を代表する画家たちと親交を持った。.

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ヤン・ファン・スコーレル

ヤン・ファン・スコーレル (Jan van Scorel, 1495年 - 1562年12月6日)は、オランダの画家。イタリア・ルネサンスをオランダへ紹介した。.

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ヤン・ホッサールト

ヤン・ホッサールト(Jan Gossaert、1478年頃 - 1532年10月1日)はルネサンス期のフランドル人画家。出身地のモブージュからヤン・マビューズ (Jan Mabuse) ともいわれる。1503年にアントウェルペンの芸術家ギルド聖ルカ組合に加入を許されたときには自身のことをイェンニン・ファン・ヘネホウ (Jennyn van Hennegouwe) と呼称していた。.

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ユリウス2世 (ローマ教皇)

ユリウス2世(Julius II 1443年12月5日 - 1513年2月21日)は、16世紀初めのローマ教皇(在位:1503年 - 1513年)。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしたが、その治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。.

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ヨハン・ホイジンガ

ヨハン・ホイジンガ(壮年期) ヨハン・ホイジンガ、またはハウジンハ(Johan Huizinga、1872年12月7日 - 1945年2月1日)は、オランダの歴史家。サンスクリット文献研究から歴史研究に転じた。『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』などの著作で知られる。.

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ヨース・ファン・ワッセンホフ

ヨース・ファン・ワッセンホフ (Joos van Wassenhove) (1410年頃 - 1480年頃))は初期フランドル派の画家。画家としてのキャリア後期はイタリアのウルビーノ公国で活動し、「ヘントのユストゥス (Justus / Jodocus of Ghent)」として知られる。 画家で画家・彫刻家・建築家列伝の著者でもあるヴァザーリや歴史家グイチャルディーニの著書に「ヘントのユストゥス」として名前が挙がっているが、当時のヘントの公式記録を精査してもワッセンホフの消息はまったく分からない。16世紀のフランドル人年代記作家は、ヴァザーリのわずかで不確かな情報を拡大解釈してワッセンホフがフーベルト・ファン・エイクの弟子だったと記述している。ヘントに存在した芸術家のギルドである聖ルカ組合の組合員名簿から、15世紀にヨース (Joos)、ヨドクス (Jodocus) という名前の芸術家が6人いたことが分かっている。しかしこれら6人の芸術家の作品は残っておらず、ワッセンホフの作品と比較することが出来ないため、6人のうちの誰がワッセンホフなのかは判断できない。 1465年から1474年にかけてワッセンホフは、ヴァザーリが記録を残し、現在はウルビーノの国立マルケ美術館に所蔵されている『12使徒の聖体拝受 (Comunione degli apostoli)』を描いた。この絵画はウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの依頼でコーパス・クリスティ組合のために描かれたもので、絵画中にモンテフェルトロの姿が当時ウルビーノ宮廷に使節として訪れていたペルシア人カテリノ・ゼノとともに描かれている。この絵画の存在が、ワッセンホフが1426年に死去したフーベルト・ファン・エイクの弟子ではなかったことの証明で、もっと後期の画家、例えばディルク・ボウツなどに師事していたと考えられる。 ワッセンホフの画面構成力、素描技術は同時代のほかのフランドル派の画家たちと比べて優れているとはいえない。肖像画に見るべきものはあるが、そこに描かれた人物の性格や感情の表現力に欠けている。技術的にはウィーンの美術史美術館に何枚かの肖像画が所蔵されているヘールトヘン・トット・シント・ヤンスとよく比較される。フィレンツェの書籍販売業者で、ダ・モンテフェルトロの古物収集趣味の多くを満たしたと考えられるウェスパシアヌスという男の記録に、ウルビーノ公が近年建設したウルビーノの宮殿を飾るために、古代の偉人、著名人の肖像画を描くことが出来る有能な画家をネーデルラントに求めたと明記されている。現在パリのルーブル美術館とウルビーノの国立マルケ美術館が所蔵するモーゼやアリストテレスなどを描いたこれら28枚の肖像画の作者こそが、ヨース・ファン・ワッセンホフだと考えられている。 しかしながら28枚の肖像画と、『12使徒の聖体拝受』とでは作風に相違点が見られる。これは肖像画を描くにあたって、ワッセンホフがイタリアルネサンスの巨匠フォルリやラファエロの父ジョヴァンニ・サンティらの作品を研究し、自身のそれまでのフランドル風絵画にイタリア的絵画技法を融合させた結果だと考えられている。後にラファエロは一連の肖像画を絶賛しただけでなく、ヴェネツィアのアカデミア美術館にはラファエロの手による模写まで存在している。 ジェノヴァのサンタ・マリア・ディ・カステッロ修道院に『受胎告知』(1451年)の壁画があり、作者のユストゥス・ダルマーニャ (Justus d'Allamagna) はワッセンホフと同一人物ではないかという説がある。しかしながら根拠のある説ではなく、『受胎告知』の作風や色使いからするとダルマーニャは確実にドイツ南方の出身で、ウルビーノの同名のヘントのユストゥス=ヨース・ファン・ワッセンホフはネーデルラントの生まれである。.

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ヨアヒム・パティニール

ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 、1480年頃 - 1524年10月5日)は初期フランドル派の画家。現在のベルギー南部(ワロニア地方)の出身で、歴史絵画、風景絵画を多く描いた。フランドルの風景画家ヘッリ・メット・デ ブレス (en:Herri met de Bles) の叔父ではないかとされており、北方ルネサンス風景絵画の先駆者とみなされている。.

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ラファエロのカルトン

『ラファエロのカルトン』は、ルネサンス盛期の芸術家ラファエロ・サンティが描いた、ヴァチカン宮殿システィーナ礼拝堂の特別な儀典のときにのみ内装に飾られるタペストリの制作用下絵(カルトン)カルトン(cartone、karton)とは厚紙を意味し、転じて美術作品制作時に下準備として厚紙などに原寸大で描かれた下絵を意味する用語である。「ラファエロのカルトン」は「ラファエロの(描いたあらゆる)下絵」を意味することになるが、展示先のヴィクトリア&アルバート博物館が『ラファエロのカルトン(The Raphael Cartoons)』と呼称していることから、一連のシスティーナ礼拝堂のタペストリ用下絵を示すことが多い。。原寸大で10点のカルトンが描かれたが、現存しているのはイギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵する7点のみで、1865年からはロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館への貸与絵画として一般公開されている。『福音書』と『使徒行伝』のエピソードをモチーフとして、ローマ教皇レオ10世の依頼で1515年から1516年にかけて描かれた。このカルトンをもとにした版画も流通し、当時ラファエロの競争相手と目されていたミケランジェロが描いた『システィーナ礼拝堂天井画』などと並んでルネサンス期の芸術に多大な影響を及ぼした作品のひとつで、ルネサンス期、バロック期のあらゆる芸術家たちに非常によく知られていた作品だった。18世紀から19世紀には「現代美術のパルテノン彫刻」として高く評価されていた。.

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ラファエロ・サンティ

ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。一般的には単にラファエロと呼ばれ、日本ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエル(Raphael)などという表記ゆれが見られる。ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。 ラファエロは異例なほどに大規模な工房を経営しており、37歳という若さで死去したとは考えられないほどに多数の作品を制作した。多くの作品がヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に残されており、とくに「ラファエロの間」と総称される4部屋のフレスコ画は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっており、もっとも有名な作品の一つの『アテナイの学堂』も「ラファエロの間」のうち「署名の間」と呼ばれる部屋のフレスコ壁画である。ローマでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそラファエロのものだが、下絵以外の大部分は工房の職人が手がけたもので、ラファエロが最後まで自身で手がけたものよりも品質の面で劣るといわれている。ラファエロは存命時から高い評価を受けた影響力の高い芸術家だったが、ローマ以外の地ではラファエロの絵画やドローイングをもとにした版画でよく知られていた。ラファエロの死後、年長だが長命を保ったミケランジェロの作品が18世紀から19世紀にいたるまで西洋絵画界により大きな影響を与え続けたが、ラファエロの穏やかで調和に満ちた作品も非常に優れた模範的作風であると評価されていた。 マニエリスム期の画家、伝記作家ヴァザーリの著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述を嚆矢として、ラファエロのキャリアは3期に大別されることが多い。ウルビーノで活動していたキャリア初期、フィレンツェの伝統的絵画の影響が見られる1504年から1508年にかけての4年間、そして死去するまでの二人のローマ教皇とその側近に緊密な後援を受けていたローマでの輝ける12年間である。.

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ライデン

ライデン(蘭: Leiden 、レイデンとも表記する)は、オランダ南ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)。アムステルダムの南西36kmに位置する。オランダ最古の大学都市であり、画家レンブラントの生地である。日本ではシーボルトコレクションを所蔵する日本博物館シーボルトハウスや国立民族学博物館があることでも有名である。.

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リチャード2世 (イングランド王)

リチャード2世(Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)は、プランタジネット朝最後のイングランド王(在位:1377年6月22日 - 1399年9月29日)。父はイングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの長男エドワード黒太子、母はその妃ジョーン・オブ・ケント。 幼少で即位したため治世初期は貴族達の補佐を受け、成長してからは専制のため側近を重用したことが周囲の反発を招き1度挫折した。やがて反対派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクーデターによって王位から追放・幽閉された末に死去、プランタジネット朝は断絶した。.

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リンブルク兄弟

リンブルク兄弟またはランブール兄弟 (オランダ語:Gebroeders van Limburg, フランス語:Frères de Limbourg)は、フランドルのミニアチュール画家の兄弟。ナイメーヘンの生まれとされる。ポル(Pol)、ヨハン(Johan、Hennequinまたはjanとの記述も)、ヘルマン(Herman)の3人。15世紀初頭のフランスとブルゴーニュ公国で活動した。彼らは中世後期の装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』を描いたことで知られる。 兄弟の祖父はヨハンネス(Johannes de Lymborgh)といい、おそらくランブール(現在のベルギー・リエージュ州の町)からヘルレ公国の首都ナイメーヘンへ移ったとされる。ヨハンネスの息子アルノルトは公国の宮廷で、木彫り職人として働いていた。1385年頃、アルノルトは公家お抱え画家の、申し分ない一族の出身の妻メヒテルトを娶った。ヘルマン(1385年頃生まれ)が長男で、続いてポル(フランス語の文献ではPolleke、Polequinという記載もある。1386年か1387年生まれ)、ヨハン(1388年頃生まれ。フランス語の文献ではJohanneke、Jacquemin、Gillequinとも記載あり)が生まれた。さらにその下には弟ルトヘル(Rutger)とアルノルト(Arnold)、妹グレタ(Greta)がいた。 1398年頃、父アルノルトが亡くなり、兄弟は、当時のフランスとブルゴーニュ宮廷で最も重要な画家、叔父ジャン・マルエルによって送り出された。ヘルマンとヨハンは、パリで金細工工芸を学んだ。1399年終わりに彼らはナイメーヘンへ戻ったが、その頃戦争に巻き込まれていたブリュッセルで捕らえられてしまった。兄弟の母は身代金を払えなかった。地元の金細工師ギルドが彼らの身代金にあてるため金を集め始めたが、すぐにブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が、お抱え画家である彼らの叔父ヤンに免じて身代金を支払った。2人の少年たちは1400年5月に解放された。 現存する記録から、1402年2月にポルとヨハンがフィリップ豪胆公と契約し、4年間をかけ高級な聖書の装飾の仕事にかかった。これはフランス国立図書館所蔵のBible Moraliséeであるかもしれない。議論の余地もなく、リンブルク兄弟の最初の作品であった。兄弟が作品を完成する前に、豪胆公が死んだ。 ヘルマン、ポル、ヨハンはのち1404年に、死んだ豪胆公の兄ベリー公ジャンの元で働きだした。彼は、芸術、特に本の贅沢な収集家であった。兄弟の最初の課題は時祷書の装飾をすることであった。これが現在メトロポリタン美術館所蔵の『ベリー公の美しき時祷書』(Belles Heures du Duc de Berry)である。 この仕事は1409年に完成し大いにベリー公を満足させた。ベリー公は、時祷書のためのさらに野心的な計画を兄弟に命じた。これが『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』(Très Riches Heures du Duc de Berry)で、中世後期の装飾写本として絶頂期のものと広く言われている物である。たぶん世界一価値のある本であろう。これはフランス・シャンティイ(オワーズ県の町)にあるコンデ美術館に所蔵されている。 ポルは特にベリー公と仲が良く、宮廷内で私的随行員valet de chambreの地位を与えられていた(叔父ヤンもブルゴーニュ宮廷で同じ地位を与えられていた)。ベリー公はポルに、宝石とブールジュの邸宅を与えた。ポルは若い女性ジレット・ラ・メルシエールに恋をしたが、彼女の両親は賛成しなかった。ベリー公はジレットを閉じこめ、王の命令があった時だけ自由にした。1411年、ポルとジレットは結婚した。しかし結婚生活で子供に恵まれなかった(結婚当時花嫁は12歳、花婿は24歳であった)。 1416年初め、ベリー公と、リンブルク兄弟が死んだ(兄弟は少なくとも30歳を超えていた)。死因は不明である。『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は未完成のまま残された。時祷書がアンジュー公ルネの所有となった時、確認できない芸術家(おそらくバーテルミー・ファン・エイクであるといわれる)が1440年代に有名なこの暦を完成させる仕事に関わった。1485年には、サヴォイア家の物となっていた時祷書をジャン・コロンブが完成させた。 リンブルク兄弟の作品は、大部分が目につかなくなり、19世紀まで忘れ去られていた。それにもかかわらず彼らはミニアチュール絵画のかなたに発展した、次世代の画家らの手本となった。兄弟は北ヨーロッパの伝統のもとで仕事をしたが、イタリアからの影響が見られない。.

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ルネサンス

レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.

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ルーヴル宮殿

ルーヴル宮殿(ルーヴルきゅうでん、Palais du Louvre、)は、かつて歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿。パリのセーヌ川右岸に位置し、西側のテュイルリー庭園と東側のサンジェルマン・ロクセロワ教会の間にある。ルーヴル宮殿の北側はリヴォリ通り (en:Rue de Rivoli) に面し、南側はフランソワ・ミッテラン通り (en:Quai François Mitterrand) に面している。中世に建築が始められ、16世紀以降増改築を繰り返されてきた。1682年にフランス王ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。ルーヴル宮殿は1682年以降も、アンシャン・レジームが終焉する1789年まで、名目上、あるいは公式な政庁として使用されていた。その後ルーヴル宮殿内にルーヴル美術館が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。 現在のルーヴル宮殿は広大な両翼と4棟の主たる建造物で構成されている。数世紀にわたって幾度も増改築が繰り返されてきた結果、全体としての建築様式は統一されているとは言えない。建造物の総面積は約40ヘクタールで、ナポレオン1世時代に完成したクール・カレ(方形中庭)と、ナポレオン3世時代に整備が開始されたさらに広いクール・ナポレオン(ナポレオン中庭/ナポレオン広場)の二面の大きな中庭がある。このクール・ナポレオンは西側でカルーゼル広場に面している。 ルーヴル宮殿の構成は、中世からルネサンス期に建造された、クール・カレを囲む建築物や翼棟とセーヌ河岸に沿って長く伸びるグランド・ギャルリ(大展示室)で構成される通称「旧ルーヴル」と、19世紀以降に建造された、クール・ナポレオンの北側と南側に沿って延びる建築物と翼棟、1871年に焼失したテュイルリー宮殿の遺構となるテュイルリー庭園から構成される通称「新ルーヴル」に大別される。現在ではルーヴル宮殿全体の総床面積のうち、約60,600平方メートル以上が美術品の展示場所として使用されている。.

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ルートヴィヒ・ティーク

right ルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck、 1773年5月31日-1853年4月28日)はドイツのロマン主義を代表する作家・詩人・編集者。.

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ルッカの聖母

『ルッカの聖母』(ルッカのせいぼ、Luccamadonna、Lucca-Madonna)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1436年に描いた絵画。板に油彩で聖母子を描いた板絵で、フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館が所蔵している。 『ルッカの聖母』は、19世紀始めの時点ではパルマ公およびルッカ公カルロ2世が所有していた絵画で、ヤン・ファン・エイク晩年の作品のひとつである。聖母マリアのモデルは、ファン・エイクの妻マルフリートだといわれており、ファン・エイクはマルフリートの肖像画も描いている (en:Portrait of Margaret van Eyck)。 描かれている聖母マリアは、古代イスラエルの王ソロモンの12体の獅子像彫刻があったといわれる玉座を思わせる、四体の獅子の飾りがある玉座に座っている。マリアのひざに座る幼児キリストという聖母子像は図像学では「上知の座 (en:Seat of Wisdom)」とよばれる構成で、美術作品としてはよく見られる構図である。「上智の座」は、中世後期に出版された聖書に関する一種の百科事典である『人類救済の鑑 (en:Speculum Humanae Salvationis)』にも記載されている。 ファン・エイクのほかの作品やその同時代の多くの宗教絵画と同じく、『ルッカの聖母』でマリアは教会の祭壇になぞらえて描かれている。大きな身体つきで、あまり立体感を持たせずに描かれたマリアは膝にキリストを乗せている。この作品でマリアは、キリストの復活を祝うミサの典礼の中心である祭壇と同じ役割を与えられているのである。裸身のキリストの下には白い布が敷かれ、マリアは豊麗な色合いのドレスを身にまとっている。画面右の壁面の窪みには聖職者が手を清める聖水盤のようなボウルが置かれているなど、ミサを連想させるモチーフが多く描かれている。マリアが座る椅子に比べると部屋は非常に狭く描かれ、この場所が小さな礼拝堂であることを示唆している。 Purtle, p. 110。.

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ルイ1世・ダンジュー

ルイ1世・ダンジュー(Louis I d'Anjou, 1339年7月23日 - 1384年9月20日)は、百年戦争期のフランスの王族。フランス王ジャン2世と妃ボンヌの次男。ヴァロワ=アンジュー家の祖。兄にシャルル5世、弟にベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)がいる。イタリア語名はルイージ1世・ダンジョ(Luigi I d'Angiò)。 ポワティエ伯(在位:1350年 - 1384年)、アンジュー伯(在位:1356年 - 1360年)、アンジュー公(在位:1360年 - 1384年)、メーヌ伯(在位:1356年 - 1384年)、トゥーレーヌ公(在位:1370年 - 1384年)、名目上のナポリ、エルサレムの王およびプロヴァンス伯(在位:1382年 - 1384年)。また、コンスタンティノープルの皇帝(ラテン帝国の皇帝)も称し(在位:1383年 - 1384年)、1380年のプロヴァンス遠征以降はプロヴァンス伯とともにフォルカルキエ伯にもなる。1370年にメーヌ伯領をトゥーレーヌ公領と交換した。.

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ルカ

ルカ(Λουκᾶς, Lukas, ギリシア語発音でルカス, 福音記者ルカ)は新約聖書の『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』の著者とされる人物。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。カトリック教会での記念日は10月18日、正教会での記憶日は4月22日(5月3日)である。西方世界では医者及び画家の守護聖人とされる。日本語表記では、「路加」とも書かれる。.

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レプリカ

韓国の博物館に展示されている七支刀のレプリカ サイエンス・ミュージアムに展示されている階差機関2号のレプリカ レプリカ()とは複製品のこと。 本来は「オリジナルの製作者自身によって作られたコピー(複製品)」を指していたが、現在では製作者かどうかは問わないことが多い。 ローマ帝国では、ハドリアヌス帝の時代には職業的な複製業が成立し、ギリシア時代のほとんどの作品のレプリカが作られた。原作が失われてしまった場合は、レプリカが学術的・芸術的に重要な価値を持つ。.

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レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルドのサイン レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci、 )1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) で、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残し、「万能人 (uomo universale)」 という異名などで親しまれている。.

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レオノール・デ・ヴィゼウ

レオノール・デ・ヴィゼウ(Leonor de Viseu, 1458年5月2日 - 1525年11月17日)は、ポルトガル王ジョアン2世の王妃。.

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ロマネスク建築

マネスク建築(ロマネスクけんちく、Romanesque architecture)は、中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。ロマネスク建築の建築物は大陸全体で見られ、帝政ローマ建築以来初めての汎ヨーロッパ建築様式とも言える。 ロマネスクという言葉は、美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語である。直訳すると「ローマ風の」という意味であるが、当初は「堕落し粗野になったローマ風の様式」という蔑称としての側面が強く、その芸術的・建築的価値が評価されるようになるのは20世紀になってからである。.

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ロングショット

ングショット (Long Shot) は、映画において被写体とカメラの距離が非常に遠いショット。また、被写体の全体が見えたり、被写体が周辺環境で小規模に見えるようなショットのこと。途中に中黒を入れたロング・ショットと記載されたり、脚本中においては英語での頭文字を合わせてLSと記載されることもある。 劇場の内側の舞台を観客の視点から見た視界と同じような視界と考えると、理解しやすい。人物をロングショットで撮ると、立っている人間は完全にフレーム内に収まる。 フルショットやエスタブリッシング・ショットと同じ意味で使われる。.

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ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

ヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden、1399年/1400年 - 1464年6月18日)は、初期フランドル派の画家。現存しているファン・デル・ウェイデンの作品の多くは、キリスト教的主題が描かれた祭壇画と肖像画である。伝わっているその生涯は平穏でとくに大きな出来事などは起こっていないが、当時もっとも成功しており、国際的な名声を得ていた画家だった。その作品はイタリアやスペインへも持ち込まれ、ブルゴーニュ公フィリップ3世のようなネーデルラントの貴族階級や、諸外国の王侯貴族からの絵画制作依頼を受けていた。15世紀後半には、フランドルの宮廷画家ヤン・ファン・エイクを凌ぐまでに高い評価を得ている。しかしながら17世紀になってバロック美術が台頭し、絵画の潮流が変化していくとともにファン・デル・ウェイデンの名声は低くなり、18世紀半ばにはほとんど忘れ去られた画家となっていた。しかしその後200年の間に、徐々にではあるがファン・デル・ウェイデンの再評価が進み、現在ではロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する三大巨匠であり、15世紀の北方絵画においてもっとも影響力があった画家とみなされている。 1695年と1940年に当時の記録文書が失われ、ファン・デル・ウェイデンの生涯についてはわずかなことしか分かっておらず不明な点が多いCampbell (1998), 392。現在のベルギーにあたる、 ブルゴーニュ領ネーデルラントのトゥルネーで1399年か1400年に生まれた。出生名はロジェ・ド・ラ・パステュールで、父はヘンリ・デ・レ・パストゥール、母はアニエス・デ・ワットルローである。ファン・デル・ウェイデンは1426年ごろにエリザベト・ホッファールと結婚しており、1436年にはブリュッセルの公式画家となった。このときに自身の名前をフランス風からオランダ風の「ファン・デル・ウェイデン」に改めたと考えられている。これら以外のファン・デル・ウェイデンの生涯は二次的資料から推測するほかなく、議論の的となっているものもある。しかしながら、現在ファン・デル・ウェイデンの作品とされている絵画が真作かどうかの議論になることはまずない。逆に19世紀では、現在ファン・デル・ウェイデンの真作とされている作品が、他の画家の作品であると考えられていたことも多かった。 ファン・デル・ウェイデンは自画像を描いておらず、重要な作品の多くが17世紀後半に失われてしまっている。ファン・デル・ウェイデンのものと見られる最初期の記録は1427年からで、1427年から1432年にかけてロベルト・カンピンのもとで修行をしていたというものである。そして間もなく師のカンピンの技量を上回り、最終的にはカンピンの作品に影響を及ぼすまでに優れた技術を身につけたといわれるが、ファン・デル・ウェイデンがカンピンの弟子だったという説にも異論がないわけではない。徒弟期間を終えたファン・デル・ウェイデンは、トゥルネーの芸術家ギルドの聖ルカ組合にマイスターとして登録されている。1435年に移住したブリュッセルでも、その卓越した技術と感情豊かな筆使い、色彩感覚はすぐさま高い評価を受けるようになった。1435年には代表作の一つ『十字架降架』を描きあげ、北ヨーロッパでもっとも人気があり、影響力の高い画家であるという評価を不動のものとした。 ファン・デル・ウェイデンは人物像を描くときに、実在の人物をモデルにした。その観察力は非常に高かったが、表情などモデルの特定の要素を優雅に理想化して描くことも多く、とくに三連祭壇画に描かれた人物像にその傾向が強い。つねに豊麗で温かみのある色使いで感情豊かな人物像を描いているが、作品に感じられる哀愁感と写実主義でも高く評価されている。ファン・デル・ウェイデンの肖像画の多くは上半身のみで斜め前を向いた作品で、宗教的な祭壇画と同じように好んでよく描いている。ファン・デル・ウェイデンは異例なまでに多くの色と様々な色調を用いて絵画を描いた。もっとも優れた作品では一箇所として同じ色調は見られず、白色でさえも様々な階調で塗り分けられている。.

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ロベルト・カンピン

ベルト・カンピン (Robert Campin、1375年頃 - 1444年4月26日)は、初期フランドル派の画家。日本語ではロバート・カンピン、ロベール・カンピン(カンパン)と表記されることもある。初期フランドル派最初の偉大なる画家とされることも多く「フレマールの画家 (Master of Flémalle)」という異名がある。カンピンの記録は当時のものとしては比較的整理されてはいるが、間違いなくカンピンの作品であるといえるものは現在一つもない。フレマールに存在していた作品群がカンピンの描いたものではないかと想定されていることが「フレマールの画家」といわれる理由だが、このことは百年以上にわたり議論の的になっている。.

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ヴィクトリア (イギリス女王)

ヴィクトリア(、1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)。 ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の孫。エドワード7世、ドイツ皇后ヴィクトリア、 ヘッセン大公妃アリスの母。2017年現在のイギリス女王であるエリザベス2世の高祖母にあたる。 世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。在位は63年7か月にも及び、歴代イギリス国王の中ではエリザベス2世に次ぐ長さである。.

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ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

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トリノ=ミラノ時祷書

『洗礼者ヨハネの誕生』、「画家 G」(トリノ)http://www.convivialiteenflandre.org/fiches_histoire_art/vaneyck/enluminure_vaneyck.php Enlarged details, and commentary in French。。 『トリノ=ミラノ時祷書』(トリノ=ミラノじとうしょ、Turijn-Milaan-Getijdenboek、Ore di Torino)は、15世紀に制作が開始されたが、後に分割されて最終的には未完成に終わった装飾写本の分冊。厳密な定義からすると時祷書とは必ずしもいえないが、その並外れて高い品質と美術史上の重要性、さらに交錯した制作過程と後年にたどった歴史によって有名な作品である。この時祷書には、1420年ごろにヤン・ファン・エイクとその兄フーベルト・ファン・エイクが描いた、あるいはこの二人と関係がある芸術家によるものと思われる挿絵(ミニアチュール)が含まれている。さらにその後10年以上経ってから、バーテルミー・デックも数点のミニアチュールを追加したと考えられている。数箇所の場所に分割して所蔵されていたが、そのうちトリノで保管されていたものが1904年に火事にあって焼失してしまい、現在では白黒写真しか残っていないものがある。.

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トゥルネー

トゥルネー トゥルネー(Tournai, オランダ語:Doornik)は、ベルギーのワロン地域、エノー州の市。面積213.75平方キロ、人口67,341人(2004年1月)。ベルギー最古の町であり、フランク王国初代のクロヴィス1世が生まれた地であるため、フランス揺籃の地とも言われる。世界遺産も2件登録されている。フランス国境に近い。.

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ヘラルト・ダヴィト

ヘラルト・ダヴィト (Gerard David,1460年頃 - 1523年8月13日)は、初期フランドル派の画家。初期オランダ・ルネサンス期に活躍した。.

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ヘント

市庁舎 鐘楼 ベギン会小修道院 ヘント(Gent、Gand、Ghent古くは) は、ベルギー・フランデレン地域のオースト=フランデレン州にある都市で、同州の州都。(ベルギーの言語事情についてはベルギー#言語を参照)。 南東に位置するブリュッセル、北東に位置するアントウェルペンに次ぐベルギー第3の都市。南西に位置するフランスのリールにも近い。花の都市という異名を持つ。日本では、英語(Ghent)あるいはドイツ語(Gent)由来のゲント、フランス語(Gand)由来のガンの名で呼ばれることも多い。 フーベルト・ファン・エイクとヤン・ファン・エイクの代表作である「神秘の子羊」を所蔵することでも知られている。.

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ヘントの祭壇画

翼を畳んだ状態。 『ヘントの祭壇画』(ヘントのさいだんが、Gents altaarstuk)または、『神秘の子羊』『神秘の子羊の礼拝』(Het Lam Gods)は、複雑な構成で描かれた非常に大規模な多翼祭壇画。.

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ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス

ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス((Geertgen tot Sint Jans)(1465年頃 - 1495年頃))は初期フランドル派の画家。神聖ローマ帝国領(ハプスブルク家)の北部ネーデルラントの出身で、諸外国ではほかに 「ヘールトヘン・ファン・ハールレムGeertgen van Haarlem」などさまざまに呼ばれることがある。トット・シント・ヤンスが生きていた当時の記録は残っておらず、最初に名前が出てくるのは後世の画家・美術史家カレル・ヴァン・マンデルが1604年に執筆した『画家列伝 (Het Schilderboeck)』である。 ヴァン・マンデルの著作『画家列伝』では、トット・シント・ヤンスは、北部ネーデルラントで最初に油彩を用いた画家の一人アルベルト・ファン・アウワーテルの弟子ではないかとされている。どちらの画家もハールレム在住だった。シント・ヤンスは聖ヨハネ騎士団の平修士ではなかったかと考えられており、騎士団のために祭壇画を描いた記録が残っている。『画家列伝』ではトット・シント・ヤンスは騎士団には直接参加していないが、その通名である「シント・ヤンス Sint Jans」は騎士団の名前の「聖ヨハネ Sant Johannes」にちなんで名づけられたとしている。.

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ブラック家の祭壇画

『ブラック家の祭壇画』(ブラックけのさいだんが、Triptyque Braque)は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが1452年ごろに描いた三連祭壇画。オーク板に油彩で描かれた板絵で、現在はパリのルーヴル美術館が所蔵している。左翼パネルに描かれているのは洗礼者ヨハネ、中央パネルに描かれているのは聖母マリア、イエス・キリスト、福音記者ヨハネ、右翼パネルに描かれているのはマグダラのマリアである。 この作品の依頼主は、トゥルネーのジャン・ブラック、あるいは1452年に若くして急逝したジャンを偲んだ妻カテリナ・ド・ブラバンではないかと考えられている。また、『ブラック家の祭壇画』は、ファン・デル・ウェイデンが個人の依頼で手がけた三連祭壇画のなかで、唯一現存している作品であるBlum, p.30。.

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ブリュッセル

ブリュッセル市庁舎 ブリュッセル( 、 、 、 )は、ベルギーの首都である。名称は「沼、湿地(bruoc、bruc、broek)」、「家(sella、zele)」という単語から来ている。ブリュッセル単独で、ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうちの一つ、ブリュッセル首都圏地域(、)を構成している。 人口116万人(2014年)。他の2つの地域と比べて面積は161km2と相対的に狭いが、約30km2の森林地域を除いて、その領域のほとんどが市街化されている。ユーロクリアと国際銀行間通信協会に加え、ロスチャイルド系グループ・ブリュッセル・ランバート本部と本部まで抱える、欧州有数の世界都市である。2013年に行われたアメリカのダウ・ジョーンズらによる調査は、ブリュッセルを世界24位の金融センターと評価している。 16世紀より欧州郵便網(帝国郵便)の起点であった歴史を持つ。1893年、フレンチ・コロニアル・ユニオンのジョゼフ・シェレが国際植民地学院の設立を提唱し、翌年に議会の承認を得た。学院は、植民地の行政・法制を比較研究する目的でブリュッセルにおかれた。戦後にブリュッセルはNATO の原点となり、現在では欧州連合の主要機関とアメリカ合衆国通商代表部の事務所が置かれている。.

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ブルッヘ

ブルッヘまたはブリュッヘ、ブルグ、ブラヘなど(フラマン語(オランダ語):Brugge )、ブリュージュ(仏語:Bruges )、ブルージュ(英語:Bruges )は、ベルギー北西部、フランデレン地域の都市で、ウェスト.

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ブルゴーニュ公国

ブルゴーニュ公領 ブルゴーニュ公国(ブルゴーニュこうこく、仏:État bourguignon エタ ブルギニョン)は、14世紀から15世紀のフランス東部からドイツ西部にかけて存在した、ブルゴーニュ公領(Duché de Bourgogne)を中心とする、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)の支配領域ないしその支配体制をいう。なお正確にはブルゴーニュ公爵領と隣接するブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ地域圏)とは区別を要する。.

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ブルゴーニュ領ネーデルラント

ブルゴーニュ領ネーデルラント(ブルゴーニュりょうネーデルラント:蘭 Bourgondische Nederlanden)は、1384年から1477年までブルゴーニュ公爵が治めた低地諸国の諸領地の総称である。現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクとフランス北部、ドイツ西部を含んでいた。.

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パトロン

パトロン(patron)とは、後援者、支援者、賛助者、奨励者、または特権を持つ人や財政支援をする人をいう。現代でのパトロンは、必ずしも金銭援助に限るわけではなく、パトロンの人脈や影響力によって貢献するケースもある。後援、支援、賛助、奨励の行為そのものは、パトロネージュ(パトロネージ/パトロネッジ/パトロネジ/パトロナージュ)(patronage、patronage)と呼ぶ。 美術史や音楽史においてのパトロネージュは、王や教皇、資産家が、音楽家、画家や彫刻家等に与えた支援を指す。また、教会聖職禄授与権、得意客が店に与えるひいきや愛顧、また守護聖人を指すこともある。.

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ヒエロニムス

ウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420年9月30日)は、キリスト教の聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られる。四大ラテン教父のひとりであり、正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされる(カトリックでは教会博士)。日本ハリストス正教会での呼称は克肖者イエロニムである。.

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ヒエロニムス・ボス

ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 、1450年頃 - 1516年8月9日)は、ルネサンス期のネーデルラント(フランドル)の画家。初期フランドル派に分類される。本名はイェルーン・ファン・アーケン(Jeroen van Aken)。オランダ語でイェロニムス・ボス(Jheronimus Bosch )、ドイツ語でヒエローニュムス・ボシュと発音するが、日本ではヒエロニムス・ボッシュと表記されることもある。.

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ビザンティン美術

ビザンティン美術(ビザンティンびじゅつ)は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国で発達した美術の体系。古代のギリシア美術、ヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系を産んだ。日本ではビザンツ美術と呼ぶことも多い。 コンスタンティノス9世夫妻のモザイク画.

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ピーテル・ブリューゲル

ピーテル・ブリューゲル(, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)は、16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。 同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。.

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テューダー朝

テューダー朝(テューダーちょう、英語:Tudor dynasty)は、イングランド王国(1485年 - 1603年)およびアイルランド王国(1541年 - 1603年)の王朝。チューダー朝とも。薔薇戦争を勝ち抜き、ヨーク朝を倒して王位を得た。女系を通じてランカスター朝に繋がる。.

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テンペラ

テンペラは、乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具、及び、これによる絵画技法。テンペラは混ぜ合わせるという意味のラテン語Temperareを語源としている。 西洋の絵画で広く行われてきた卵テンペラには、油彩画のような黄変・暗変を示さないという特徴があり、経年による劣化が少なく、数百年前に制作された作品が今日でも鮮明な色彩を保っている。.

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ティモテオスの肖像

『ティモテオスの肖像』(ティモテオスのしょうぞう、Timotheus)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1432年に描いた絵画。オーク板に油彩で描かれた板絵で、『レアル・スーヴェニール』あるいは単に『男性の肖像』と呼ばれることも多い。描かれている男性が誰なのかは伝わっていないが、当時よく描かれていた理想に基づく架空の人物ではなく、その外貌から実在の人物だと考えられているSmith, p.42。『ティモテオスの肖像』は1857年にロンドンのナショナル・ギャラリーが購入し、以来ナショナル・ギャラリーに常設展示されている 。 描かれている男性は謎めいた表情を浮かべており、漂う雰囲気とその外観とは不釣り合いな印象を与えている。男性の容貌は「地味で素朴」と表現されているが、物思いにふける内省的な表情にも見える。多くの美術史家が男性の表情に悲哀が見られることを指摘しており、美術史家エルヴィン・パノフスキーはこの悲しみがおそらく「孤独」から来ていると解釈している。 画面下部には石を模した欄干のようなものが描かれ、その表面に三行の銘が記されている。とくに二行目の銘は石に刻まれているように見える錯視的効果を与える手法で描かれているPanofsky, p.80。銘の一行目にはギリシア語で「TγΜ.ωΟΕΟς」と読める銘が記されている。この文言が何を指しているのかについては諸説あるが、『ティモテオスの肖像』という作品名の由来となっている。二行目にはフランス語で「Léal Souvenir」(忠臣の追悼)と記されており、この作品が描かれている男性の死後に追悼の意をこめて制作されたことを示している。三行目にはファン・エイクの署名と制作年が法律文書のような文体で記されている。描かれている男性の素性が判明していないとはいえ、ブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷画家だったヤン・ファン・エイクが肖像画を描くに足る、ブルゴーニュ宮廷の重要人物だったと推測されている。 19世紀の美術史家ヒッポリト・フィアンス・ゲヴァルトはギリシア語で記された「ティモテオス」が、古代ギリシアの詩人、音楽家であるミレトスのティモテオス (en:Timotheus of Miletus) だと推測した。20世紀の美術史家エルヴィン・パノフスキーも、ティモテオスという名前を持つ著名な古代ギリシア人を精査した。そして、歴史上著名な「ティモテオス」の多くは宗教家あるいは軍人であり、この作品に描かれている男性が着用している衣服とは合致しないとして、消去法の結果ゲヴァルトと同じく音楽家のミトレスのティモテオスのことであると結論付けている。パノフスキーはミレトスのティモテオスが、フィリップ3世の宮廷で高く評価されていたと考えていた。ただし、現在の研究家たちは、三行目に法律文書のような文体で記された銘から、描かれている男性はフィリップ3世の法律顧問官だったのではないかとするものも多いWood, p.650。 『ティモテオスの肖像』は、直接的あるいは間接的に何度も模写された。銅板に描かれたよく似た肖像画がベルガモやトリノで見つかっているほか、ファン・エイクの弟子といわれるペトルス・クリストゥスが1446年に描いた『カルトゥジオ会修道士の肖像』には、『ティモテオスの肖像』のような彫刻風の銘が記された欄干が画面最下部に描かれている。.

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ディルク・ボウツ

ディルク・ボウツ (Dirk Bouts(Dieric、Dieric、Dierickとも)(1410年/1420年頃 - 1475年))は初期フランドル派の画家。オランダ人画家・伝記作家カレル・ヴァン・マンデルが1604年に書いた『画家列伝 (Het Schilderboeck)』によれば、ボウツはハールレムに生まれ、1468年からは画家としてルーヴェンを中心に活躍した。ヴァン・マンデルは『画家列伝』のなかでボウツのことを「ハールレム出身のディルク」「ルーヴェン出身のディルク」と二つの異なった名称で書いてしまっている。ボウツの前半生についてはほとんど分かっていないが、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに大きな影響を受けており、ウェイデンの弟子だった可能性もある。ボウツの名前が最初に記録されているのは1457年のルーヴェンで、1475年に死去するまでここで活動していた。 ボウツは北ヨーロッパで最初に遠近法における消失点を表現した画家の一人で、それは1464年から1467年の作品『最後の晩餐』で見ることが出来る。ボウツの作品は洗練されているとは言いがたく表現に生硬なところがあるが、表現力は非常に豊かで、バランスよく構成され色彩に満ちたものになっている。.

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ディプティク

ディプティク(またはディプティック、ディプティカ、二連板、対幅形式、diptych, 国際音声記号:, アメリカ英語:)は、古代ローマの二つ折りの書字板や二連祭壇画など、蝶番で繋がった2枚の平板を持つあらゆるものを指す。語源はギリシア語のδίπτυχο で、di-(2)+ptychē(折り重なる)。古代世界では、ノートの記録や時間・方角を計るのに大変重宝された。また、ディプティクという言葉はテーマがリンクする連続した2冊の本(二部作)を比喩的に言う時にも用いられる。 古代末期(:en:Late Antiquity)には、ローマの執政官(コンスル)になる個人を讃えるために作られたconsular diptychを起源とする、表紙が装飾された象牙製ディプティク(書字板)は重要な美術形式だった。ローマ帝国末期のもので現存するほとんどはディプティクである。中世以降、多くの板絵(またはパネル画)、は、小型の個人用の携帯用のものから巨大な祭壇画(二連祭壇画)まで、ディプティクの形式をとっていた。 伝統的なディプティクは年輪を刻んだツゲ材製で、ラッカーもしくはワニス処理を施されていた。中には象牙製のもの(読みやすく、すり減ることも少ないので木製のものより優れていた)、あるいは金属製のもの(頑丈で、象牙より安価だが、読みにくかった)もあった。.

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フランドル

フランドル(Vlaanderen、Flandre、Flandern)は、旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。.

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フランス革命

フランス革命(フランスかくめい、Révolution française, French Revolution)は、18世紀(1789年5月5日 – 1799年11月9日)にフランス王国(ブルボン朝)で起きた市民革命。 世界史上の代表的な市民革命で、前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命。フランス革命戦争を通して、カリブ海から中東まで戦争が波及した。歴史家はフランス革命を世界史の中で最も重要な出来事の一つであると見なしている。 1787年にブルボン朝の絶対王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わった。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立に至る(1799年11月9日のブリュメール18日のクーデター)。一般的には1787年の貴族の反抗から1799年のナポレオンによるクーデターまでが革命期とされている。 フランスの王政とアンシャン・レジームが崩壊する過程で、封建的諸特権が撤廃されて近代的所有権が確立される一方、アッシニア紙幣をめぐって混乱が起こった。.

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フランス革命戦争

アルコレの戦い ナイルの海戦 フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、Guerres de la Révolution française, French Revolutionary Wars)は、1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争である。当初はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認する意味をもっていた。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。.

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フラスコ

フラスコ (Frasco、Flask)は化学実験で使う口の小さい容器(試験管の一種)で、蒸留や攪拌に用いる。 主としてガラスで出来ている。溶液を正確に計量するために用いるメスフラスコ、アルコールランプで加熱するのに適する丸底フラスコや、ナスフラスコ、机の上に固定しておくことができ、溶液の保存に便利な三角フラスコ、平底フラスコ、三ツ口フラスコ、セパラブルフラスコ、微生物培養時に通気を確保できる坂口フラスコ、バッフル付きフラスコなどがある。 透明(白色)が一般的であるが、遮光性が必要な操作の場合のためには褐色のものを用いる。.

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フリードリヒ・シュレーゲル

フリードリヒ・シュレーゲル フリードリヒ・シュレーゲル(Karl Wilhelm Friedrich von Schlegel, 1772年3月10日 - 1829年1月11日)はドイツ初期ロマン派の思想家・文芸評論家・詩人・小説家。 文学、哲学、歴史、政治、宗教を包括する彼の思想の領域は広大であり、特にカトリックへの改宗はその思想内容に大きな謎を与えている。彼のロマン主義理論と思想研究は、19世紀のドイツ文学界に多大な影響を与えた。.

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フルドリッヒ・ツヴィングリ

ハンス・アスパーによるフルドリッヒ・ツヴィングリの肖像画(1531年) フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli、1484年1月1日 - 1531年10月11日)は、スイス最初の宗教改革者。スイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分においてルターと意見を異にしていた。彼らはマールブルク会談で多くの論点について合意したが、聖餐論で一致することができなかった。カトリック諸州との内戦の中で戦死した。47歳だった。 ルターと並んで宗教改革の初期の立役者の一人だが、ルターと対立したことや、これもルターとは違い志半ばにして戦死したことなどからルターほどの知名度はない人物である。ツヴィングリの残したものは、今日も改革派教会の信仰告白、礼拝、教会などの内に見る事が出来る。他の名として「フルドライヒ」(Huldreych)と表記されたり、ウルリヒ(Ulrich)と表記されることもある。.

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フーベルト・ファン・エイク

フーベルト・ファン・エイク (Hubert van Eyck、1385年から1390年頃 - 1426年9月18日)は初期フランドル派の画家。弟は同じく初期フランドル派の画家であるヤンで、ヤン以外の弟ランベルト、妹マルフリートも画家だった。間違いなくフーベルトが一人で完成させたと確定している作品は存在していないが、初期フランドル派の礎を築いた傑出した芸術家として、何世紀にもわたって高く評価されてきた 。.

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フーゴー・ファン・デル・グース

Portinari Altarpiece フーゴー・ファン・デル・グース(フラマン語:Hugo van der Goes、日本語表記揺れ:ヒューホー・ファン・デル・フース、ほか。1440年頃 - 1482年)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家時代のフランドル伯領の都市ヘント(現在のベルギーのヘント)生まれの画家。初期フランドル派、第2世代の巨匠として知られる。.

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ファン・デル・パーレの聖母子

『ファン・デル・パーレの聖母子』(ファン・デル・パーレのせいぼし(Madonna met kanunnik Joris van der Paele))は初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが描いた絵画。オーク板に油彩で描かれた大きな作品で、1434年の秋に制作依頼を受け、1436年に完成した。この作品は依頼主の自身が所属する教会に対する献身と、後に自身が埋葬されるブルッヘの聖ドナトゥス協同教会 (en:St. Donatian's Cathedral) での墓碑祭壇画としての使用を目的として制作依頼されたものと考えられている。複雑で精緻な空間描写、寓意表現がなされている作品で、中東製の絨毯が描かれた幾多のルネサンス期の絵画 (en:Oriental carpets in Renaissance painting) のなかでも白眉といえる作品であり、後の装飾写本にも大きな影響を与えた作品である。絵画における仮想的空間描写 (en:illusionism) を革新した作品で、1432年に兄フーベルト・ファン・エイクと共作した『ヘントの祭壇画』以降の作品において、ヤン・ファン・エイクの徹底した写実主義が如実に表れている大作の一つだと見なされている。 ブルッヘ出身の聖職者ヨリス・ファン・デル・パーレから、自身の墓碑祭壇画用にとの依頼で制作された作品で、聖会話の構成で描かれた最初期の絵画作品の一つである。アダムとイヴの彫刻などで飾られた玉座に座り、幼児キリストを膝にした聖母マリアが描かれている。マリアが座る玉座に表現されているアダムとイヴはキリストの磔刑ならびにキリストの復活の予兆であり、そのほかに旧約聖書のエピソードも画面中に表現されているBorchert (2011), p.146。敬虔な雰囲気の屋内でマリアは中央に位置し、その周りを小さく囲むように、右側に依頼主ファン・デル・パーレの守護聖人である聖ゲオルギウスが中世の壮麗な騎士の甲冑に身を包んだ姿で、左側にはブルッヘ聖堂参事会の守護聖人である聖ドナトゥス (en:Saint Donatian) が描かれている。 描かれている二人の聖人の名前が、青銅を模した画面最下部の縁にラテン文字で刻まれている。聖ゲオルギウスは、自身の前にひざまずいて描かれたこの絵画の依頼主たる律修司祭ファン・デル・パーレと聖母に敬意を表して脱帽した姿で描かれている。白いサープリス (en:surplice) を着用したファン・デル・パーレが手に持ち、読み上げているのは時祷書であるRothstein, p.49。.

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フアン・デ・フランデス

フアン・デ・フランデス(Juan de Flandes, 1460年頃 - 1519年以降)は、初期フランドル派の画家。1496年から1519年まで、スペインを中心に活動した。デ・フランデスの本名は伝わっていないが、その作品の裏面に「Juan Astrat」という銘があり、ここから「ヤン・ファン・デル・スタート」(Jan van der Staat)のような名前ではないかと推測されている。また、1480年にヘントでマスターの資格を得た「Jan Sallaert」という画家もデ・フランデスではないかと考えられている。 デ・フランデスは1460年ごろにフランドルに生まれた。ヨース・ファン・ワッセンホフやフーゴー・ファン・デル・グースら、当時フランドルのヘントで活動していた画家たちの作風とデ・フランデスの作風がよく似ているために、ヘントのすぐ近くで修行を積んでいたとされる。デ・フランデスの記録は、カスティーリャ女王イサベル1世の宮廷に仕えてからしか残っていない。1496年から1498年の記録に「宮廷画家」として名前が現れるのが最初で、その後イサベル1世が死去する1504年まで女王の宮廷画家の地位にあった。デ・フランデスの作品は王族を描いた優れた肖像画がほとんどで、その多くは 21.3 cm x 16.7 cm 程度の大きさのパネルに描かれた多翼祭壇画で、現在は散逸してマドリードの王室パネル絵コレクションとなっている。 デ・フランデスはイサベル1世の死後、1505年から1507年までサラマンカの教会の仕事を請け負った。その後はパレンシアを拠点に活動し、大聖堂のために大きな背障などの制作を行った。1519年11月にはデ・フランデスの妻が未亡人になったことの記録が残っている。晩年には宗教絵画を集中的に描き、スペイン以外で残っている絵画はほとんどがこの時期の作品となっている。パレンシアの教会のために描いた大きな祭壇画から散逸したパネル絵が、現在プラド美術館とワシントン・ナショナル・ギャラリーに4枚ずつ所蔵されている。 デ・フランデスの作品は、ヘントの初期フランドル派の作風と、スペイン絵画やスペイン風景画が融合したものになっており、特に祭壇画のそれぞれのパネル絵でその傾向が強い。色彩感覚に優れ、「使いづらい色を好んで使用し」そして「空間表現、光彩表現は洗練されているが、晩年の空間表現手法はマニエリスムに近いものになっている.

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フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)

フィリップ2世(フランス語:Philippe II, 1342年1月15日 - 1404年4月27日)は、ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公(在位:1363年 - 1404年)。ヴァロワ=ブルゴーニュ家の祖。「豪胆公」(le Hardi ル・アルディ)と呼ばれる。フランス王ジャン2世(善良王)とボンヌ(ボヘミア王ヨハン(盲目王)の王女)の四男。シャルル5世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世の弟。.

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フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)

フィリップ3世(Philippe III, 1396年7月31日 - 1467年6月15日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の第3代ブルゴーニュ公(在位:1419年 - 1467年)。ブラバント公(在位:1430年 - 1467年)、エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯(在位:1432年 - 1467年)、ルクセンブルク公(在位:1443年 - 1467年)でもあった。「善良公」(le Bon ル・ボン)と呼ばれる。ジャン1世(無怖公)と妃で下バイエルン=シュトラウビング公・エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯アルブレヒト1世の娘マルグリット・ド・バヴィエールの長男。 イングランドとフランスが死闘を繰り広げる百年戦争において、初めはイングランドの同盟者でありながらほとんど手を貸さず独自に領土拡大政策を進め、フランスが反撃を開始すると徐々にフランスへ接近、やがてイングランドから離れてフランスと和睦、百年戦争がフランス優位になる転換点を作った。.

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フィレンツェ

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。.

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フェリペ2世 (スペイン王)

フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。 1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。.

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フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

フェデリーコの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ作) 妻バッティスタ・スフォルツァの肖像(ピエロ・デッラ・フランチェスカ作) フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)はイタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する一方、周囲に多くの文化人を集め、ウルビーノ宮廷に優雅なルネサンス文化を栄えさせた。フェデリーコ3世とも。 フェデリーコは1444年にウルビーノ伯を継いだ(のち1474年にウルビーノ公に陞爵した)。ウルビーノ自体は小国であり、軍人として教皇領、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長として活躍し、一度も負けたことのない名将として名を馳せていた。領国支配でも寛容であり、貧窮の者を助け、住民の声をよく聴いたため、すべての住民に慕われたという。 槍試合で片目を失い、そのためピエロ・デッラ・フランチェスカによる有名な作品を初めとして、ほとんどの肖像画が横顔で描かれている。 今日に名を残すのは、フェデリーコ在位当時の文化遺産やウルビーノ宮廷に集まった多くの文化人のためである。フェデリーコはアリストテレスやリウィウス、プルタルコスなどの古典文芸を愛読し、各地から写本を系統的に収集した。その蔵書はバチカン図書館をしのぐともいわれた。ブルクハルトは、ウルビーノの宮廷が全ヨーロッパで最も洗練されていたと賞賛している。.

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ドレスデンの祭壇画

『ドレスデンの祭壇画』(ドレスデンのさいだんが(Het Dresdener Drieluik、Dresdner Marienaltar))、または『聖母の三連祭壇画』(せいぼのさんれんさいだんが)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1437年に描いた絵画。オーク板に油彩に描かれた小さな三連祭壇画で、左翼が33.1cm x 13.6cm、中央パネルが33.1cm x 27.5cm、右翼が33.1cm x 13.6cm の大きさとなっている。 現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館が所蔵する『ドレスデンの祭壇画』は、ファン・エイクが制作した現存する唯一の三連祭壇画であり、肖像画以外の絵画作品として、署名とファン・エイクの座右の銘である「ALC IXH XAN (我に能う限り)」が記された唯一の作品である。制作当時のままの額装の三枚のパネル内面はブロンズを模して彩色されたフレームに囲まれ、その縁には主として聖母被昇天に関する文言が記されている。また、両翼のフレームには、描かれている二人の聖人への献辞が記されている。 また、両翼内面のフレームには紋章が描かれており、損傷しているもののイタリアの有力一族ジュスティニアニ家 (en:Giustiniani) のものだと考えられている。ジュスティニアニ家は14世紀半ばごろから、ブルッヘとの交易で財と地位をなした一族だった。ただし『ドレスデンの祭壇画』の依頼主が、具体的にジュスティニアニ家の誰であるのかは確定していない。また、個人的な祈祷用として制作されたのか、あるいは各地を行脚する聖職者の携帯用祭壇画として制作されたのかも分かっていない。.

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ニュルンベルク

ニュルンベルク(標準ドイツ語:Nürnberg 、バイエルン語:Niamberg、上部フランケン語(東フランケン語):Nämberch)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市。 人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハと共にフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。.

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ベリー公のいとも豪華なる時祷書

ベリー公時祷書(1月) ベリー公のいとも豪華なる時祷書(ベリーこうのいともごうかなるじとうしょ、)は、中世フランスの王族ベリー公ジャン1世が作らせた華麗な装飾写本である。.

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ベルギー独立革命

ベルギー独立革命(ベルギーどくりつかくめい、フランス語:Révolution belge、オランダ語:Belgische Revolutie、ドイツ語:Belgische Revolution)は、1830年8月に生じたブリュッセルでの反乱に始まる、ベルギーのネーデルラント連合王国からの独立戦争を指す。ベルギーが国民国家としてだけでなく、ローマ・カトリックの国家としての独立を得るためのものであった。ネーデルラント(オランダ)王ヴィレム1世は、1839年のロンドン条約で列強による圧力をかけられるまでは、ベルギーを国家として認めることを拒否していた。 ネーデルラントは1813年にナポレオンの支配から脱却。1814年の英蘭条約では「ネーデルラント連合州」「ネーデルラント連合」の名前が使用された。1815年のナポレオンのワーテルローでの敗北後、ウィーン会議はオラニエ=ナッサウ家の王国を成立させた。その王国は、旧ネーデルラント連合州(ネーデルラント連邦共和国)と旧オーストリア領ネーデルラントを結合させ、フランスの北に緩衝地帯となる強力な国を作ることを目的としていた。ネーデルラントがナポレオンにより支配されていた間にイギリスが接収した、オランダの植民地セイロンとケープ植民地をそのまま領有する代償に、新しいネーデルラントの王国はこの南の諸州を手に入れることになった。.

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分業

分業(ぶんぎょう、英:division of labor)とは、複数の人員が役割を分担して財(モノ)の生産を行うことである。もともとは経済学の用語であったが、現代では幅広く社会関係全般に適用して使われている。.

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アミアン

アミアン(Amiens )は、フランスの北部に位置するコミューン。ソンム県の県庁所在地である。 2008年度の統計において、人口約135,000人のアミアンはフランス国内都市中第28位だった。都市圏人口は274,700人で、国内第32位だった。 アミアンは、運河、『北の小さなヴェネツィア』と称される水上庭園(fr)、そしてアミアン大聖堂で有名である。.

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アラス

アラス(Arras)は、フランス北部、オー=ド=フランス地域圏の都市。パ=ド=カレー県の県庁所在地。かつてのアルトワ地方に属す。LGV北線が停車する。.

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アラスの和約 (1435年)

アラスの和約(英:Treaty of Arras、仏:Traité d'Arras)は、百年戦争中の1435年9月21日にフランスとブルゴーニュが結んだ講和条約。ブルゴーニュはそれまで同盟していたイングランドから離脱してフランスと和睦、百年戦争の帰趨を決定した。 和約が締結されたフランス北部の町アラスで、本来イングランド・フランス・ブルゴーニュの和睦締結のため開催されたアラス会議(英:Congress of Arras)についても説明する。.

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アルノルフィーニ夫妻像

『アルノルフィーニ夫妻像』(アルノルフィーニふさいぞう (Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw、The Arnolfini Portrait))は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた絵画。合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画である。日本では『アルノルフィーニ夫婦像』、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれることもあり、精緻な油絵の嚆矢として、西欧美術史で極めて重要視されている作品である。 二人の人物の全身像が描かれた絵画で、イタリア人商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ (en:Giovanni Arnolfini) とその妻を、フランドルのブルッヘにあった夫妻の邸宅を背景として描いた作品だとされている。作品にこめられた寓意性、独特の幾何学的直交遠近法、背面の壁にかけられた鏡に映し出される反転した情景など、西洋美術史上でも極めて独創的で複雑な構成を持った作品で、婚姻契約の場面を記録するために描かれた珍しい絵画であると見なす美術史家もいる。 美術史家エルンスト・ゴンブリッチは「イタリアのルネサンスにおけるドナテッロやマサッチオの作品と同じように、新たな境地を開いた革命的といえる作品である。魔法のように現実の室内がパネルに再現されている。事物をありのままにとらえることが出来る、完璧な観察眼を持った史上最初の芸術家である」としている。作者ファン・エイクのサインが1434年の日付とともに記され、同じくファン・エイクと兄のフーベルト・ファン・エイクが描いた『ヘントの祭壇画』とともに、パネルに描かれた油絵としてはもっとも古く、かつ有名な絵画である。ロンドンのナショナル・ギャラリーが1842年に購入し、それ以来ナショナル・ギャラリーが所蔵している。 ファン・エイクは半透明で艶のある薄い顔料を幾層にも塗り重ねる手法で『アルノルフィーニ夫妻像』を仕上げた。生き生きとした色調はこの作品に現実味を与え、アルノルフィーニの世俗的な財産と富裕さを描き出している。ファン・エイクは、それまで主流だったテンペラよりも油彩のほうが乾燥時間が長くかかることを利用して、まだ濡れている絵具層のうえから新たな絵具を乗せて混ぜ合わせる技法を用いた。この技法によって、微妙な陰影を作り出し、三次元の形状を絵画に表現することに成功したのである。さらにファン・エイクは油絵具の使用によって、様々なモチーフの表面が持つ質感を正確に描きあげた。また、『アルノルフィーニ夫妻像』には、画面左側の窓から射し込む光が、直接、あるいは拡散して、室内のモチーフの表面に反射している様子が描かれている。このことから、背景の鏡の脇に吊り下げられているロザリオの珠の一つ一つに表現されているハイライトのような細部の描き分けに、拡大鏡を使用したのではないかと考えられている。 『アルノルフィーニ夫妻像』に見られる錯視的技法は、当時の絵画としては懸絶した水準にある。細部にわたる詳細表現だけではなく、特に室内の空間を表現する光の表現が「屋内の様子とそこにいる人間の描写として、これ以上に説得力あふれるものはない」と言われている。この作品がどのような情景を描いたものなのかについては、様々な説がある。美術史家クレイグ・ハービソンは「15世紀にファン・エイクが描いた、現存する唯一の当時の一般家庭の室内を表した絵画で、この作品がいかなる情景を描いたのかは正確にはわからない。確実にいえそうなのは、日常生活を描いた最初の風俗画ではないかということだ」としている。.

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アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)

ン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(, 1819年8月26日 - 1861年12月14日)は、イギリス女王ヴィクトリアの夫。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子でザクセンの公()。ドイツ語名はアルブレヒト()。 初代ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の次男。ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公アウグストの孫。 サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝初代イギリス国王エドワード7世、ドイツ皇后ヴィクトリア、ヘッセン大公妃アリスの父。 女王エリザベス2世の高祖父。 イギリス女王の夫として、議会から唯一公式に「プリンス・コンソート」()の称号を認められた人物である。.

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アルトゥル・ショーペンハウアー

アルトゥル・ショーペンハウアー(、ショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも)1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。 仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学、実存主義の先駆と見ることもできる。フリードリヒ・ニーチェへの影響は有名であるが、その他にもリヒャルト・ワーグナー、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、エルヴィン・シュレーディンガー、アルベルト・アインシュタイン、ジークムント・フロイト、オットー・ランク、カール・グスタフ・ユング、ジョーゼフ・キャンベル、レフ・トルストイ、トーマス・マン、ホルヘ・ルイス・ボルヘスなど様々な学者、思想家、文筆家に影響を与え、その哲学は現代思想においても受け継がれている。.

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アルブレヒト・デューラー

アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。同名の父・アルブレヒトは、ハンガリーからドイツ南部に移住してきたマジャル人金銀細工師である。.

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アルプス山脈

アルプス山脈最高峰 モンブラン山 ツェルマットから見たマッターホルン山 アルプス山脈(アルプスさんみゃく、 アルペース、、、、)は、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である。オーストリア、スロベニアを東端とし、イタリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、スイス各国にまたがり、フランスを南西端とする多国にまたがっている。アルプ(スイスの高山山腹の夏季放牧場;,,)がいっぱいであるからアルプスであると考える説と、ケルト語の alp「岩山」を語源とし、ラテン語を経由したと考える説がある。最高峰のモンブランは標高4,810.9m(2007年)で、フランスとイタリアの国境をなし、ヨーロッパの最高峰でもある。 アルプス山脈はヨーロッパの多数の河川の水源地となっており、ここからドナウ川、ライン川、ローヌ川、ポー川、といった大河川が流れ出て、それぞれ黒海、北海、地中海、アドリア海へと注ぐ。.

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アルテ・ピナコテーク

アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek、旧絵画館)はドイツの国立美術館である。バイエルン州ミュンヘンにある、世界でも最古の部類に属する公共美術館である。もとはバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の収蔵品を市民を対象に展示する目的で作られた。以後、バイエルン王国のドイツ帝国への編入を経て、国有化され、現在にいたる。「ピナコテーク」という単語はギリシア語に由来しており、「絵画の収蔵所」という意味を持つ。.

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アルス・ノーヴァ

アルス・ノーヴァ(Ars nova)は、14世紀のフランスで栄えた音楽様式。1322年頃にフィリップ・ド・ヴィトリによって書かれた、新しいリズムの分割法と記譜法を論じた音楽理論書『Ars nova (新技法)』にその名が由来する。 これに対して、より以前の音楽様式はアルス・アンティクア(Ars antiqua)と称される。 シンコペーションやイソリズムを用いた高度なリズム技法が発達し、それに伴い記譜法の改良が進んだ。セミブレヴィスよりも小さい音価を持つ音符であるミニマが導入され、マクシマ、ロンガ、ブレヴィス、セミブレヴィス、ミニマという幅広い音価の音符が使用された。さらに各音符の分割には、従来の三分割法(完全分割)と共に、二分割法(不完全分割)が対等に認められた。分割の方式は作品の最初に置かれたメンスーラ記号によって示され、それが現代の拍子記号の元となった。また、2/3の音価を意味する赤い音符も使用された。「完全」パッセージが赤い音符で書かれた場合はシンコペーションが生じる(ヘミオラと言える)(例1)。「不完全」パッセージにおいては三連符が生じる(例2)。.

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アントウェルペン

アントウェルペン州内のアントウェルペン行政区の位置 Stadhuis van Antwerpen) ルーベンスの三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物 アントウェルペン(,, )は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市(首都圏地域の人口を合わせればブリュッセル市が最大)。英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルス(アンベルス)も日本語の表記においてよく用いられる。2012年1月1日の総人口は502,604人。面積は204.51 km2, 人口密度は2,457.56人/km2である。.

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アンブロシウス・ベンソン

アンブロシウス・ベンソン(フラマン語:Ambrosius Benson、イタリア語:Ambrogio Benzone、1495年/1500年頃 - 1550年)は、初期フランドル派に分類されるイタリア人画家。 ベンソンが描いたと考えられている絵画が多く現存しているが、ベンソンの生涯に関する記録はほとんど残っておらず、作品に署名も残していない。宗教画を多く残しているが、依頼に応じて肖像画も描いた。古典作品から題材をとった作品もあり、『ルクレツィアの死』にみられるように衣服や背景描写は古代のものではなく当時流行していた表現で描いている。ベンソンは大規模な工房を主宰し、その作品はヨーロッパ諸国に流通するなど経済的にも成功を収めた画家だった。ベンソンの作品はとくにスペインで人気があり、マドリードのプラド美術館にはベンソンの作品が多く所蔵されている。 また、19世紀に「ベンソンの模倣者」と呼ばれる画家たちが制作したパスティーシュで、ベンソンの名前は有名になった。とくにベンソンが何点も描いたマグダラのマリアとペルシアのシビュラは幾度も模倣され、19世紀の画商の間でも人気が高い作品となっていった。21世紀現在でもベンソンは高く評価されており、ロンドンのナショナル・ギャラリーやパリのルーヴル美術館などの有力な美術館が所蔵しているほか、2009年にサザビーズが開催したオークションではベンソンの『聖母子』が高値で落札されている。.

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アンドレア・マンテーニャ

アンドレア・マンテーニャ ---- ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・芸術家・彫刻家列伝』より アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431年 - 1506年9月13日)は、イタリアルネサンス期の画家。 ゴシック期、ルネサンス期のイタリアの絵画は、都市ごとに独自の発達をとげ、シエナ派、ヴェネツィア派などと都市の名を冠して分類される。マンテーニャはパドヴァ派の代表格と見なされる画家である。.

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アーケード (建築物)

アーケード(英語:arcade)は、柱で支えられる連続したアーチやヴォールトを用いた通路や歩道、または一続きのアーチが覆う歩道等の道路を指す言葉である。.

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イコノクラスム

イコノクラスム(iconoclasm, εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である(英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。 キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。.

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イコン

イコン(εικών, Икона, Icon, Ikon)とは、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による(ειは中世・現代ギリシャ語では「イ」と読む)。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ。.

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イザヤ書

『イザヤ書』(―しょ)は、旧約聖書の一書で、三大預言書(『イザヤ書』、『エレミヤ書』、『エゼキエル書』)の一つ。聖書自身の自己証言と伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤに帰される。プロテスタント教会の一般的な配列では旧約聖書の23番目の書にあたる。.

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イザボー・ド・バヴィエール

イザボー・ド・バヴィエール(Isabeau de Bavière, 1370年頃 - 1435年9月24日)はフランス王妃。シャルル7世の母。ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公(バイエルン=インゴルシュタット公)シュテファン3世の長女。曽祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世。結婚前はドイツ名でエリーザベト・フォン・バイエルン(Elisabeth von Bayern)と呼ばれていた。フランス語形はエリザベート・ド・バヴィエール(Elisabeth de Bavière)。.

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イザベラ・オブ・ヴァロワ

イザベラ・オブ・ヴァロワ(Isabella of Valois, 1389年11月9日 - 1409年9月13日)は、イングランド王リチャード2世の2番目の王妃。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの次女で、フランス名はイザベル・ド・ヴァロワ(Isabelle de Valois)またはイザベル・ド・フランス(Isabelle de France)。ブルターニュ公ジャン5世妃ジャンヌ、ブルゴーニュ公フィリップ3世妃ミシェル、ギュイエンヌ公ルイ、トゥーレーヌ公ジャン、イングランド王ヘンリー5世妃カトリーヌ、フランス王シャルル7世の姉。.

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イザベル・ド・ポルテュガル

イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal, 1397年2月21日 - 1471年12月17日)は、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の3度目の妃。ポルトガル語名ではイザベル(Isabel)。ポルトガル王ジョアン1世と王妃フィリパ(ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘)の次女。ブラガンサ公アフォンソ1世は異母兄、ドゥアルテ1世、コインブラ公ペドロ、エンリケ航海王子は同母兄、ポルトガル軍総司令官ジョアン、フェルナンド聖王子は同母弟。.

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イサベル1世 (カスティーリャ女王)

イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica, 1451年4月22日 - 1504年11月26日)は、トラスタマラ朝のカスティーリャ女王(在位:1474年 - 1504年)。夫フェルナンド2世と共にカトリック両王と称される。.

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ウルム

ウルム大聖堂とその周辺 ドナウスタジアム停留所のシュトラーセンバーン車両 大聖堂ヘスクールトリップ 大聖堂よりドナウを望む ウルムの風景(1900年頃) ウルム(アレマン語・標準Ulm)は、ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州南部に属する都市。 世界で最も高い尖塔を有するウルム大聖堂、ルネ・デカルトが直交座標系を思いついた地、物理学者アルベルト・アインシュタインの出生地として知られる。人口は約12万人(2004年末)。.

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ウィーン

ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.

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エルヴィン・パノフスキー

ルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky, 1892年3月30日 - 1968年3月14日)はドイツ出身の美術史家。英語読みでアーウィン・パノフスキーとする表記もある。アルブレヒト・デューラーを中心とする北方ルネサンス研究で知られるほか、彼が理論化をすすめたイコノロジー(図像解釈学)は、20世紀の美術史学にとって「様式論」と並ぶ最も重要な方法論となった。 1892年にハノーファーに生まれ、ミュンヘンやベルリンで学んだあと、イタリア・ルネサンス絵画とデューラーの関係を扱った論文でフライブルク大学から哲学博士号を取得(1914年)。1926年、新設されたハンブルク大学で美術史の正教授に就任。このとき同大学の哲学教授だったエルンスト・カッシーラーと深く交流したほか、美術史家アビ・ヴァールブルクの知遇を得たMichael A. Holly: Panofsky and the Foundations of Art History (Cornell UP, 1984)。ドイツ時代の重要な研究には、『デューラーのメランコリアI 起源と類型の一史的考察』(F・ザクスルとの共著、1923年)や『イデア』(1924年)、『象徴形式としての遠近法』(1927年)、などがある。 1931年、ニューヨーク大学の客員教授として初めてアメリカ合衆国に渡り、以後数年間、ドイツとアメリカを往復する生活が続いたあと、1933年のナチスによるユダヤ人公職追放を機にアメリカに永住する。翌1934年にはプリンストン高等研究所教授に迎えられた。1962年に同所を退くまで様々な主題で著作を残し、1968年、プリンストンで没する。 アメリカ時代の代表的な著作には、その後の美術史学を長く決定づけるマニフェストとなった『イコノロジー研究』(1939年)を筆頭に、デューラー研究の集大成となった『アルブレヒト・デューラー』(1943年)、『ゴシック建築とスコラ哲学』(1951年)、『初期ネーデルラント絵画』(1953年)、『墓の彫刻 古代エジプトからベルニーニに至る変遷』(1964年)と、その研究主題は広範囲に及んだ。 息子のヴォルフガング・パノフスキーは素粒子物理学を専門とする物理学者。.

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エングレービング

ングレービング(engraving)とは版画の凹版技法のひとつで、ビュランという先端にダイアモンド用の固い刃のついたノミのような器具を使い、銅版に線を彫る。そして、その溝にインクを埋め、それを刷って作品にする版画技術。鮮明な線が特徴とされる。エッチングより成立は早い。ただ単に金属やガラスを削ること、あるいはそれによる彫金作品を意味することもある。ビュラン彫り。 印刷におけるエングレービング(engraving)とは、銅版を写真製版やグレーバーで彫刻し、インキをつめて紙に転写する印刷技法で、熟練した高度な技術が必要とされる。細かい線や文字などの再現性がよく、最高級印刷の分類に属する。世界のVIPや王室などに利用され、企業でも信頼の証として使用されている。最近では偽造防止の観点からも注目を浴びる。よって、高級ブランドのタッグなど用途は様々である。また、印字部分が盛り上がるのも特徴。最近は銅版印刷により高級グリーティングカードなどに使用されている。.

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エドワード4世 (イングランド王)

ドワード4世(Edward IV, 1442年4月28日 - 1483年4月9日)は、イングランド国王(在位:1461年 - 1483年、ただし1470年から1471年にかけて数か月の中断がある)。 薔薇戦争(1455年 – 1485年/1487年)の第一次内乱に勝利したことにより、ランカスター家のヘンリー6世を廃位して、ヨーク朝を開いた。ウォリック伯リチャード・ネヴィルの反乱(第二次内乱)により短期間だが王位を追われて、ヘンリー6世の復位を許すが、反撃に成功して王位を取り戻している。 だが若くして急死したため、弟のリチャード3世による簒奪を許し、テューダー朝がヨーク朝を倒す結果を招いた。.

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オランダ黄金時代の絵画

『真珠の耳飾りの少女』ヨハネス・フェルメール(マウリッツハイス美術館 (1665年 - 1666年頃)) オランダ黄金時代の絵画(オランダおうごんじだいのかいが)は、オランダが世界的な影響力を持っていた、ネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)の終わりから17世紀(オランダ黄金時代)を中心として、オランダ人画家たち、あるいはオランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画。八十年戦争でスペインからの独立を宣言したネーデルラント連邦共和国は当時のヨーロッパで最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家だった。連邦共和国を構成した北部の州は、南部の州に比べると芸術分野で優っているとはいえなかった。しかし戦争による混乱と住民の大規模な移動はそれまでの君主制やカトリック的伝統の破壊につながり、オランダ芸術はこれらの大きな変革の結果、素晴らしい成果となって結実した。 オランダ黄金時代の絵画はヨーロッパ全体でみるとバロック絵画の時代と合致し、なかにはバロック絵画の特徴がみられるものもある。しかし、バロック絵画の典型的な特徴である対象の理想化や壮麗な画面構成はほとんどなく、隣国であるフランドルのバロック絵画の影響も見られない。この時代に制作された有名なオランダ絵画の多くは、伝統的な初期フランドル派から引き継いだ細部にわたる写実主義の影響を強く受けている。 この時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたことであり、画家の多くがさまざまなジャンルに特化して絵画を描いた。このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年のフランスのオランダ侵略までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。.

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オーク

ーク(、、)はブナ科 コナラ属(学名:Quercus)の植物の総称。落葉樹であるナラ(楢)の総称。.

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カルヴァン主義

ルヴァン主義(カルヴァンしゅぎ、Calvinism)とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践である。 宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンにちなんでカルヴァン主義と名づけられている。このプロテスタントのキリスト教は、改革派の伝統、改革派信仰、改革派神学と呼ばれる。 改革派の伝統は、マルチン・ブツァー、ハインリヒ・ブリンガー、フルドリッヒ・ツヴィングリなどの神学者によって進展し、また、トマス・クランマーら英語圏の宗教改革者にも影響を与えた。 それでも、ジャン・カルヴァンの大きな影響と信仰告白、教会の議論における役割のため、これは17世紀から、一般にカルヴァン主義として知られている。 今日、この語はカルヴァンが初期の指導者であった改革派教会の教理と実践を意味する。またこの神学体系は予定説と全的堕落の教理により、最もよく知られている。 日本語では「カルビン主義」表記で知られる。.

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カレル・ヴァン・マンデル

レル・ヴァン・マンデル (Karel van Mander、1548年5月 - 1606年9月2日)は、フランドル生まれのドイツ人画家、詩人。ネーデルラントの画家たちの伝記作家としてもっともよく知られている。芸術家としてのヴァン・マンデルは北方マニエリスム様式 (en:Northern Mannerism) に属し、重要な役割を果たした画家である。.

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カンブレーの聖母

『カンブレーの聖母』(カンブレーのせいぼ(Vierge de Cambrai または Notre-Dame de Grâce))は1340年ごろに描かれた作者未詳の絵画。後期ビザンチン美術様式の作風で、おそらくはシエナ派の画家の作品でありUpton (1989), 52、慈愛の聖母とよばれる、幼児キリストに頬を寄せる聖母マリアという構図で描かれている。1300年ごろにトスカーナで描かれた絵画作品がもとになっているとされる『カンブレーの聖母』は、1440年から1450年ごろにフィレンツェで制作された彫刻作品と同様に、15世紀の芸術家たちに広く影響を与えたParshall (2007-8), 19。14世紀から15世紀にかけて、イタリアや北方ヨーロッパの画家たちに何度も模写された作品で、とくにフィリッポ・リッピが1447年に描いた『玉座の聖母 (en:Madonna and Child Enthroned (Filippo Lippi))』が有名である。 1450年に、神聖ローマ帝国の一部でブルゴーニュ公が統治していたカンブレーに持ち込まれ、現在でもカンブレー大聖堂が所蔵している。当時の民衆から、芸術家の守護聖人である聖ルカが描いた聖母マリアの肖像画をもとにして、この『カンブレーの聖母』が描かれたと信じられていた。このため、『カンブレーの聖母』は聖遺物であると見なされ、この作品を鑑賞するためにカンブレーを訪れる人々には、神が奇跡をもたらすといわれていたAinsworth, 139Evans, p. 582。 『カンブレーの聖母』が持つ美術史上の価値は極めて高い。伝統的なビザンチン美術と、クアトロチェント (en:Quattrocento) と呼ばれる1400年代のイタリア美術との掛け橋といえる作品であり、15世紀のネーデルラント美術(初期フランドル派)の作品にも大きな影響を与えている。オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノープルが陥落すると、ブルゴーニュ公フィリップ3世は十字軍の派遣でオスマン帝国に対抗しようと企図した。フィリップ3世は、十字軍を募るための宴である「雉の饗宴 (en:Feast of the Pheasant)」を開催し、十字軍派遣に対する支援の一環として『カンブレーの聖母』の複製画制作をネーデルラントの画家たちが担当している。しかしながら、この十字軍遠征は実行に移されることはなかったAinsworth (1998), 259。.

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キリスト磔刑と最後の審判

『キリスト磔刑と最後の審判』(キリストたっけいとさいごのしんぱん、Crucifixion and Last Judgement diptych)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1430年から1440年ごろに描いたとされる絵画。 二枚のパネルから構成されるディプティクで、最終的な仕上げの多くが、後世の画家かファン・エイクの工房によってなされたと考えられている。この作品は初期フランドル派の画家たちが描いた板絵のなかでも傑作の一つとされており、稀に見る構成の複雑さ、詳細に表現された寓意、そして高い絵画技法によって高く評価されている。装飾写本の挿絵であるミニアチュールの制作手法で描かれており、パネルの大きさはそれぞれ 56.5 cm × 19.7 cm という小作品で、個人的な祈祷に使用する聖像として依頼、制作されたものだと考えられている。 左翼に描かれているのはキリスト磔刑である。前景に嘆き悲しむキリストの弟子と親族たち、中景は兵士と処刑の見物人が群れを成し、そして画面上部には磔刑に処せられた三名の身体が描かれている。背景には青い空と彼方のエルサレムの町並みが見える。右翼に描かれているのは最後の審判である。画面下部に地獄の光景、中部には大天使ミカエルと死から甦って審判を待つ人々、そして上部には聖人、預言者、聖職者、聖母マリアらを従えた玉座のキリスト (en:Christ in Majesty) が描かれている。ほかに画面上には、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語で書かれた銘も記されている"".

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ギヨーム・デュファイ

デュファイ (左)とバンショワ ギヨーム・デュファイ(またはデュフェ、Guillaume du Fay、1400年頃-1474年11月27日)はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家である。「ギヨーム・デュ・ファイ」(またはデュ・フェ、Guillaume Du Fay、Du Fayt) とも表記される。音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠である。.

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クロスボウ

ボウ(crossbow)は、西洋で用いられた弓の一種であり、専用の矢を板ばねの力で弦により発射する武器である。引き金を持ち、狙いが定めやすい。漢字圏で弩(ど、おおゆみ)と呼ばれるものとは構造がほぼ同一となっている。ヨーロッパでボルト、クォレル(またはクォーラル;quarrel)などと呼ばれる太く短い矢を発射する。木でできた台(弓床)の先端に交差するように弓が取り付けてある。通常の弓よりは飛距離は優れるが、構造上短くて矢羽の少ない矢を使用するため、慣性がかかりにくく弾道が比較的不安定となる。45度に曲射しても長弓や合成弓ほど射程は伸びない。 日本語のボウガン(bowgun)は和製英語で、株式会社ボウガンの商標名。新聞やニュース番組などでは用いず、ボウガンを和訳したらしき洋弓銃(ようきゅうじゅう)という呼称が使われる。また、機械弓と呼ぶこともあるが、これはクロスボウだけを指すのではなく、もう少し広い意味でも使われる。その他、クロスボウを訳した中国語で十字弓という呼称もある。 クロスボウ(右上)とその矢(下)・巻き上げ器(左)ビクトリア&アルバート博物館所蔵.

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クエンティン・マサイス

ンティン・マサイス(Quentin Massys,Quinten Massijs、1465/66年 - 1530年)は、フランドルの画家。その生涯を通じて、主に宗教画、風俗画、肖像画等を多く描き、その作風はイタリア・ルネサンスと北方ルネサンスとの融合といえる。 1465年あるいは1466年にルーヴェンで生まれ、父親は腕の立つ鍛冶屋であった。1507年に完全に独立した画家となるまでのマサイスの経歴には不明な点が多い。おそらくはルーヴェンのディルク・ボウツの工房で修業した。1491年にアントワープに移り同地の画家組合に親方として登録、この頃より大画家としての名声を得た。1492年頃に最初の妻と結婚し、3人の子をもうけた。1508年に再婚し、さらに10人の子をもうけ、その中にはフォンテーヌブロー派の影響を強く受けた画家ヤン・マサイスがいる。同名の孫(ヤンの息子)もやはり著名な画家である。1530年に疫病で没した。 マサイスは、当初はウェイデン、ボウツ、グースらの影響を受けた宗教的題材を描いていたが、次第に風俗的絵画へと移っていった。画風も技巧的で優雅なものとなり、アントワープにおける代表的なマニエリスム様式の画家になった。マサイスがイタリア絵画、特にダ・ヴィンチに深く傾倒していたのは明らかであり、それは例えばスフマートの技法やカリカチュア、肖像画の構図に見て取れる。またファン・エイクの伝統的手法からも多くを学んでいたようである。晩年には画力の衰えが見られ、絵に感傷的傾向が強まっていった。 マサイスの風俗画には、道徳教訓的な内容がしばしば見られる。いわゆる人間の不徳、生命の儚さの告発であり、マサイスは絵画史におけるこのジャンルの開拓者とみなされている。例えば代表作『両替商とその妻』や『不釣り合いなカップル』は、エラスムスの著作との関連が指摘される。後者のモチーフは、『痴愚神礼讃』の一節「小娘に惚れこんで、うぶな若僧そこのけの狂気沙汰をやってのける」(渡辺一夫訳)にあたるものである。(マサイスはエラスムスと知己であり、彼の肖像画も描いている。)またそれらの風俗画にはグロテスクへの偏愛が見て取れ、ダ・ヴィンチと同じく若者と老人の組み合わせに妙味を感じていたようである。.

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ケルン

ルン大聖堂内部 第二次世界大戦による荒廃 ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風、京都市左京区岡崎公園 ケルン(Köln 、Kölle 、 )はドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次いで4番目に大きな都市である。ノルトライン=ヴェストファーレン州とヨーロッパでは1,000万人以上が住む大都市圏の一つである内では最大の都市である。ケルン市街地はライン川の両岸にまたがる。市内にはケルン大聖堂 (Kölner Dom) があり、カトリック教会のケルン大司教の拠点がある。ケルン大学(Universität zu Köln) は欧州でも最古で最大の大学の1つである。.

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ケンジントン宮殿

ンジントン宮殿 18世紀初頭に作られた版画ジャン・キップ作 キングズ・ギャラリー ケンジントン宮殿(Kensington Palace)は、イギリスの首都ロンドンに存在する宮殿。ウェストミンスターの西方ケンジントン・ガーデンズ内にある。 現在はイギリス王室の構成員であるケンブリッジ公爵家(ケンブリッジ公爵と夫人のキャサリン妃、ジョージ王子とシャーロット王女)、グロスター公爵リチャード、マイケル王子夫妻などが居住している。.

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コンラート・ヴィッツ

ンラート・ヴィッツ(Konrad Witz)はドイツの画家。生まれは、1400年から1410年の間頃で、生地はおそらくヴュルテンベルク王国のロットヴァイル。1445年冬か1446年の春にスイスのバーゼルで死去。主にスイスで活動した。1434年からバーゼルで活動している。.

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ゴシック

ック (Gothic) は、もともと12世紀の北西ヨーロッパに出現し、15世紀まで続いた建築様式を示す言葉である。ゴティック、ゴチック(Gotik)とも表記される。 「ゴシック」は第一に建築様式を示す言葉として使われるが、この用語は絵画や彫刻など美術全般の様式にも適用される(ゴシック美術)。さらにゴシックの概念は、ゴシック時代(12世紀後半から15世紀)の美術のみならず哲学や神学、政治理論などの知的領域の様式にも適用され、精神史的文脈において「ゴシック精神」という概念が提唱されている。 今日のポピュラーカルチャーにおいてもゴシックという言葉は広く使われている。そこでゴシック的とみなされているものは、例えば闇、死、廃墟、神秘的、異端的、退廃的、色で言えば「黒」といったイメージである。そのような現在流布している多様なゴシックの表象は、歴史上ゴシックがもともと意味していたものとは必ずしも合致しない。総じてゴシックという言葉は多義的で曖昧であると言える。.

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ゴシック建築

ック建築(英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、フリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。.

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ゴシック様式

ック様式(ゴシックようしき Gothic Style)とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。当時は既にゴート族と称される集団は存在しなかったが、「ゴート族」という言葉はしばしばゲルマン人全体を指して用いられ、アルプス以北のドイツ語を話す人々(Tedeschi)のことを指し示して使われたからである。そして「ゴート族」と言った場合には、ローマ帝国と古典芸術を破壊した蛮族という批判的な見方が含まれていた。 しかしこの様式に対する認識は間違いである。ゴシック様式はフランスのイル・ド・フランス地方から始まって各地へ広まった様式であり、ゴート族またはドイツ語を話す人々が創始した様式ではない。また、この様式が創始された時代の者たちは「現代様式」や「フランス様式」と言い表している。 ルネサンス期以後ゴシック様式は蔑まれ、一部その使用され続けたところもあるにせよ(ゴシック・サバイバル)、ほとんど採用されなくなった。しかし、18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスにおいてゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるゴシック様式再興運動が活発化する。以後ゴシック様式が再考されて再び脚光を浴びるようになり、名前が由来するところの侮蔑的な意味合いはなくなった。.

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シモン・マルミオン

モン・マルミオン (Simon Marmion,1425年頃 - 1489年11月24日/25日)は初期フランドル派の画家、装飾写本作家。現在のフランスのアミアン出身だが、当時のアミアンはブルゴーニュ公国に属していた。.

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シャルル (ブルゴーニュ公)

ャルル(Charles de Valois-Bourgogne, 1433年11月10日 - 1477年1月5日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の事実上最後のブルゴーニュ公(在位:1467年 - 1477年)。Charles le Téméraire(シャルル・ル・テレメール シャルル勇胆公:豪胆公、無鉄砲公、突進公、猪突公、軽率公などとも訳されるが、仏語のニュアンスとしては「無謀な君主」といった低い意味合いが強い)と呼ばれる。ブルゴーニュ公の称号はその後も継承されたが、ブルゴーニュ公国はシャルルの死とともに崩壊した。.

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シャルル5世 (フランス王)

ャルル5世(Charles V, 1338年1月21日 ヴァンセンヌ - 1380年9月16日 ボテ=シュル=マルヌ城)は、フランス・ヴァロワ朝第3代の王(在位:1364年 - 1380年)。賢明王(ル・サージュ、le Sage)と呼ばれる。中世末期の行政機構の研究家フランソワーズ・オトランはシャルル5世を税金の父と呼ぶ。最初にドーファン(Dauphin)の称号を有した王太子である。.

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シャルル6世 (フランス王)

ャルル6世(Charles VI, 1368年12月3日 - 1422年10月21日)は、フランス・ヴァロワ朝の第4代国王(在位:1380年 - 1422年)。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(le Bienaimé)、狂気王(le Fol, le Fou)と呼ばれた。1385年にイザボー・ド・バヴィエールを王妃に迎えている。.

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シュヴァーベン

在のドイツの行政範囲におけるシュヴァーベンの範囲(赤) ドイツ内におけるシュヴァーベンの位置。青はバーデン=ヴュルテンベルク州、赤はバイエルン州内のシュヴァーベン行政管区 シュヴァーベン(標準Schwaben、Schwobe、Schwobm)は、ドイツ南西部の地域。日本語では「シュワーベン」と音写される場合もある。英語ではスウェイビアまたはスワビア(Swabia)、フランス語ではスワーブ(Souabe)と表記される。おもにシュヴァーベン語を言語とするアレマン系が多く、宗教はカトリックが大部分を占める。.

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シュテファン・ロッホナー

ロッホナー『薔薇垣の聖母』(1450年頃) シュテファン・ロッホナー(Stefan Lochner, 1400年 メーアスブルク - 1451年ケルン)は、ゴシック後期のドイツの画家。 ロッホナーの作風は、ゴシックの鮮やかな色彩を伴う流れるような線と、フランドル派の影響を受けた写実描写ならびにディテールへの繊細なこだわりを融合させたものである。 ロッホナーは主にケルンで活動したが、代表作は町のパトロンたちのために制作した3枚折りのアルターピース(祭壇飾り)だろう(完成は1440年で、ケルン大聖堂にある)。そこには、幼子イエスを崇める町の人々が描かれている。ロッホナーの作風を典型的に表しているものといえば『薔薇垣の聖母』(1450年頃。ケルン、ヴァルラーフ・リヒャルツ博物館所蔵)で、満開の薔薇が咲くあずまやで休んでいる聖母子と、ロッホナー特有の子供の姿をした天使たちが描かれている。 Category:1400年生 Category:1451年没 Category:ドイツの画家 Category:15世紀の美術家.

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シエーナ

ーナ(Siena)は、イタリア共和国トスカーナ州中部にある都市であり、その周辺地域を含む人口約5万3000人の基礎自治体(コムーネ)。シエーナ県の県都である。カナ転記としては「スィエーナ」が現地音に近い。「シエナ」とも表記される。 中世には金融業で栄えた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えた。トスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、またその経済力を背景として、ルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。中世の姿をとどめる旧市街は「シエーナ歴史地区」として世界遺産に登録されている。.

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システィーナ礼拝堂

ティーナ礼拝堂(システィーナれいはいどう、Cappella Sistina)は、ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂。サン・ピエトロ大聖堂北隣に位置するその建物とともに、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ペルジーノ、ピントゥリッキオら、盛期ルネサンスを代表する芸術家たちが内装に描いた数々の装飾絵画作品で世界的に有名な礼拝堂である。とくにローマ教皇ユリウス2世の注文でミケランジェロが1508年から1512年にかけて描いた天井画と、ローマ教皇クレメンス7世が注文し、ローマ教皇パウルス3世が完成を命じた、1535年から1541年にかけて描いた『最後の審判』はミケランジェロの絵画作品の頂点とされている。 もともとバチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂を1477年から1480年にかけてローマ教皇シクストゥス4世が建て直させた建物で、その教皇名(Sisto IV)にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられた。この建て直し時には、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオらの芸術家たちが、一連の内装フレスコ壁画を手がけている。壁画に描かれているのは『旧約聖書』からの「モーセの生涯の物語」ならびに『新約聖書』からの「キリストの生涯の物語」と、歴代のローマ教皇の肖像画で、これらは1482年から1483年8月にかけて描かれた作品となっている。落成したシスティーナ礼拝堂で最初のミサを執り行ったのはシクストゥス4世だった。このミサは聖母被昇天に捧げられたもので、システィーナ礼拝堂を聖母マリアに奉献することを表明する式典でもあった。 シクストゥス4世以降、システィーナ礼拝堂は宗教的施設とローマ教皇執務室という二つの役割を果たしてきた。現在ではローマ教皇を選出する会議であるコンクラーヴェの会場としても使用されている。.

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ジャン1世 (ベリー公)

ャン1世(Jean Ier, 1340年11月30日 - 1416年3月15日)は、ベリー公およびオーヴェルニュ公(在位:1360年 - 1416年)、ポワティエ伯(在位:1357年 - 1416年)。「華麗公」(le Magnifique)と呼ばれる。フランス王ジャン2世(善良王)と妃であったボヘミア王ヨハン(盲目王)の王女ボンヌの三男。兄にフランス王シャルル5世(賢明王)とアンジュー公ルイ1世が、弟にブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)がいる。.

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ジャン・フーケ

ャン・フーケ(Jean Fouquet, 1415年 / 1420年頃 - 1478年 / 1481年頃)は、15世紀のフランス人画家。板絵と装飾写本に優れた作品を残し、肖像ミニアチュール (en:portrait miniature) に革新をもたらした。イタリアに旅し、当時勃興しつつあった初期ルネサンスをフランスに紹介した最初の芸術家である。.

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ジャン・カルヴァン

ャン・カルヴァン(Jean Calvin、1509年7月10日 - 1564年5月27日)は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(一)」法学会雑誌 49(2), 2009, 首都大学東京である。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。 カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。.

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ジョルジョ・ヴァザーリ

ョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511年7月30日 - 1574年6月27日)は、イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。ミケランジェロの弟子。芸術家の列伝でも知られる。.

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ジョヴァンニ・ベッリーニ

ョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430年頃 - 1516年)は、イタリアルネサンス期の画家。画家一族で知られるベッリーニ家の中で最も重要な画家である。 ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠である。父のヤーコポ・ベリーニ、兄のジェンティーレ・ベリーニもそれぞれ高名な画家である。また、パドヴァ派の大画家マンテーニャは義兄弟にあたり(ジョヴァンニの姉ニコロシアはマンテーニャと結婚)、ベリーニ兄弟の画風は、マンテーニャの硬質で理知的な絵画からも影響を受けている。1460年作の『ピエタ』は伝統的な画材であるテンペラを用い、硬質な画風にはマンテーニャの影響がみられるが、1480年頃から新しい技法である油彩を用い、柔和な表現と華麗な色彩が特色の、ヴェネツィア派風の作風に移行する。 ジョヴァンニの生年は不明だが、1430年頃と推定され、没年である1516年には80代半ばの高齢であったが、晩年に至っても筆力は衰えなかったことが、現存する作品からうかがえる。彼は長い画業の間に多くの聖母子像を残した。それらは、伝統的な図像に則りながらも、ごく普通の母子の肖像画のような人間味と親近感を与えるものである。 カクテルのベリーニの名前は彼に由来する。.

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ジル・バンショワ

ル・バンショワ(右)とギヨーム・デュファイ ジル・バンショワ(Gilles de BinchoisまたはBins, 1400年頃〜1460年9月20日)はネーデルラントの作曲家でブルゴーニュ楽派初期の一員。15世紀初頭で最も有名だった作曲家の一人。しばしば同世代のジョン・ダンスタブルやギヨーム・デュファイの陰に隠れがちではあるものの、バンショワ作品はしばしば他の作曲家たちによって、作曲の素材として借用されたり引用されたりしていることからすると、おそらく同時代の誰よりも影響力の大きい作曲家だったに違いない。.

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ジェームズ4世 (スコットランド王)

ェームズ4世(James IV, 1473年3月17日 - 1513年9月9日)は、スコットランド王(在位:1488年 - 1513年)。ジェームズ3世とデンマーク王クリスチャン1世(スウェーデンとノルウェーの王も兼ねた)の娘マーガレット(マルグレーテ)の子。.

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スペイン・ハプスブルク朝

'''黄金の世紀'''と呼ばれたスペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年 - 1640年) スペイン・ハプスブルク朝は、16世紀初めから17世紀末まで続いた、ハプスブルク家によるスペイン統治時代を指す。ハプスブルクのスペイン語名によりアブスブルゴ朝とも呼ばれる。 この時代、スペインはアメリカ大陸や太平洋(フィリピン、マリアナ諸島)に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、またヨーロッパにおいてもネーデルラント、フランシュ=コンテ、北イタリア(ミラノ公国)、南イタリア(ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ)などを支配下に置いた。カルロス1世はまた神聖ローマ皇帝を兼ねた。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域を支配()するだけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも併せ持つことになった。.

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スヘルトーヘンボス

ヘルトーヘンボス('s-Hertogenbosch; )またはデン・ボス(Den Bosch; デンボスとも記述される)は、オランダ南部に位置する都市または広域行政区。北ブラバント州の州都。 ブラバント公アンリ1世の猟場であったことから、's-Hertogenbosch「公爵の森」と名付けられた。ただし、現代のオランダ語の日常会話では Den Bosch の方がよく使われる。 同広域行政区には、近隣の市町村 Bokhoven、Deuteren、Dieskant、Empel、Engelen、Gewande、Hintham、Kruisstraat、Maliskamp、Meerwijk、Orthen、Oud-Empel、ロスマーレンも含まれる。.

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ステンドグラス

Les Andelys)ノートルダム寺院のステンドグラス Cathédrale Notre-Dame de Strasbourg) のステンドグラス(バラ窓) 簡潔な模様が多くなった近代のステンドグラス ステンドグラス (stained glass) は、エ字形の断面を持つ鉛のリムを用いて着色ガラスの小片を結合し、絵や模様を表現したもの。ガラスに金属酸化物を混入することで着色している。教会堂や西洋館の窓の装飾に多く用いられる。外部からの透過光で見るため、人の目に非常に美しく写る。装飾を否定するモダニズム建築全盛の時期になるとあまり用いられなくなったが、今日では再びステンドグラスが見直され、公共建築、住宅、教会などに採用されている。ガラス工芸として、ランプの傘などにも用いられる。.

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タペストリー

16世紀頃のフランス製と推測されるタピストリー、 ''L'Astronomie'' タペストリーを織る機、パリのゴブラン工場にて タペストリー()は、壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種。タペストリーは英語で、中期英語ではといい、仏語のタピスリ()からきている。製織の技術では日本のに相当するものである。しかし、規模、用途、材料、様式などは東洋のものとはかなり異なり、完成までに3年を要する作品もある大変に高価な物だった。最盛期は中世末期であり、現在では、ゴブラン織とも呼ばれる。 現代では織物に印刷したものもある。.

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タンパク質

ミオグロビンの3D構造。αヘリックスをカラー化している。このタンパク質はX線回折によって初めてその構造が解明された。 タンパク質(タンパクしつ、蛋白質、 、 )とは、20種類存在するL-アミノ酸が鎖状に多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生物の重要な構成成分のひとつである生化学辞典第2版、p.810 【タンパク質】。 構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から億単位になるウイルスタンパク質まで多種類が存在する。連結したアミノ酸の個数が少ない場合にはペプチドと言い、これが直線状に連なったものはポリペプチドと呼ばれる武村(2011)、p.24-33、第一章 たんぱく質の性質、第二節 肉を食べることの意味ことが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではないようである。 タンパク質は、炭水化物、脂質とともに三大栄養素と呼ばれ、英語の各々の頭文字を取って「PFC」とも呼ばれる。タンパク質は身体をつくる役割も果たしている『見てわかる!栄養の図解事典』。.

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八十年戦争

八十年戦争(はちじゅうねんせんそう、Tachtigjarige Oorlog)は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある『スペイン・ポルトガルを知る事典』(平凡社)や『世界史B用語集』(山川出版社)等で、オランダ独立戦争の名称も並称されている。。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。.

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図像学

図像学(ずぞうがく、英語:iconography)は、絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問。イコノグラフィー。icon はギリシャ語のエイコーン(εικών、形の意味)に由来する語(イコン参照)。 洋の東西を問わず、近代以前の美術作品は、今日の美術のように作家の個性や美そのものを目的とするというよりも、その作家の属する社会において、成員ならば了解可能なモチーフの組み合わせによって、社会的、宗教的などのメッセージを表出する性格が顕著であった。そうしたモチーフは、例えば西欧において百合は「純潔」を、犬は「忠誠」を表すといった例がよく知られている。また、百合を持っているのは聖母マリア、蛇と翼の付いた杖を持っているのはヘルメース(メルクリウス)などと、人物とその持ち物が関連付けられていることも多く、これをアトリビュートという。これらは当時の作家の所属した社会において、作品を制作する際の約束事であり、それを守ることによって作品の表出するメッセージは、社会の成員にとって了解可能なものとなっていた。.

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国際ゴシック

国際ゴシック(こくさいゴシック)は、ゴシック美術のうち、14世紀後半から15世紀前半にかけてブルゴーニュ、フランス、北イタリアで発達した様式を指す。その後、この様式が西ヨーロッパ全域に広がっていったことから、19世紀末にフランスの美術史家ルイ・クラジョ(en)によって「国際ゴシック」と名付けられたクラジョがこの術語を導入したのは、もともとはルネサンスのルーツがフランスにあることを主張するためだったようである。。 この様式は、ドイツ語で weicher Stil すなわち「柔和様式」と呼ばれていることに窺えるが、宮廷文化(文学における宮廷恋愛など)の影響を受けている。国際ゴシックは聖母など宗教的題材における表現の深化を特徴としており、このことは、原色を積極的に盛り込むことで従前よりも鮮やかなものとなった色づかいや、全体に縦に引き伸ばされ先行のゴシック様式よりも静的かつ厳粛なフォルムに改まった人物造形、細部への非常なこだわり(たとえば着物の生地やドレープなど)、動植物をはじめとする自然のつぶさな観察に表れている。一方、国際ゴシックはこの時代の不安を反映してある種の陰鬱さに突き動かされたものともなっており、なまなましい死の表現に執着がみられる。また、国際ゴシックは教会美術以外へも進出していき、その享受者は宮廷に伺候する社会の上層であったが、彼らは15世紀に勃興した都市住民の注文を取り次ぐこともできた(貴族に加えて商人も美術品を楽しむようになった)。 芸術家が各地を移動したのはもちろんのこと、装飾写本など持ち運びの可能な作品も欧州全土を巡り、王侯と上級貴族に各地で共通する美意識を形成した。そのためこうした宮廷のエリートに向けて作られた作品には国ごとの多様性はあまり見られない。国際ゴシックの主要な流行源は、北フランス、ブルゴーニュ公国、プラハ(神聖ローマ皇帝カール4世の宮廷が置かれていた)、イタリアである。イングランド国王リチャード2世とボヘミア王女アンとの結婚など、王侯の結婚はこの様式の拡大を助けた。 国際ゴシックはもともとは宮廷的洗練を有する様式だったが、勃興しつつあった商人階級や中小貴族の依頼になるものはいくぶん粗野であった。北ヨーロッパでは、「後期ゴシック」としてのこの様式は特に装飾要素で用いられつづけ、16世紀初期にも依然としてみることができる。結局装飾表現ではとってかわられることがないままルネサンス美術にいたった。国際ゴシックという術語は美術史家の間でもいくらか用法に幅があり、この語の利用が避けられることもある。国際ゴシックという術語は「多くの場合(中略)あまり役に立たないが、というのも差異や変遷の詳細を誤魔化してしまいがちだからである」とする評も存在する。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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祭壇画

祭壇画(さいだんが)またはアルターピース(altarpiece)は、教会の祭壇飾りのこと。具体的には、宗教的題材を描いた絵もしくはレリーフを、教会の祭壇背後の枠の中に取り付ける。祭壇画はしばしば2つないしそれ以上の分かれたパネルから成り、パネルは板絵(en)の技法で作られる。パネルが2つなら二連祭壇画 、3つなら三連祭壇画、それ以上なら多翼祭壇画と呼ばれる。彫刻群を祭壇の上に置くこともあるし、場合によっては、祭壇そのものを指すこともある。 もし祭壇が聖歌隊席と区切られていなければ、祭壇画の表裏に絵を描くこともできる。内陣障壁、背障も一般に飾られる。 有名な例としては、.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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美術商

美術商(びじゅつしょう)、またはアートディーラー(Art Dealer)とは、美術家から美術品を仕入れ、それをコレクターなどの顧客に販売する業者である。また、他の業者やコレクター、オークションなどから美術品を買い取って、さらに他業者への転売も行う者もある。規模は百貨店の美術部や商社系ギャラリーなど大きなものから、先祖代々続く古美術商、美術愛好家やビルオーナーなど個人が営業するギャラリーまで、大小さまざまである。 絵画を扱う美術商は画商ともいう。また、美術商が自前の作品展示・販売スペース(ギャラリー)を持っている場合は画廊やギャラリー、あるいはギャラリスト(Gallerist)などと呼ばれることもある(かつて日本では、自前の店を持つ美術商のことを、画廊を持たない美術商である「旗師」に対し、「箱師」という俗称で呼んだ)。ギャラリスト(画廊主)は、自前のスペースを持ち、自ら見出した契約作家を育成しギャラリーで最高の状態で展示するというリスクを抱えながら、美術家をプロモートし美術家と共に歩んで美術を育成する存在であり、単に作品を安く買い高く転売することを目的とするブローカーやディーラーとは区別すべき存在である。ギャラリストは、いい美術品を求める顧客と美術品を売りたい作家を仲立ちし、結果、社会と美術界をともに発展させる仕事といえる。 それぞれの美術商には分野や時代、地域などの専門分野があり、たとえば古美術を扱う美術商や、現存作家や物故作家など比較的最近の作品を扱う美術商などがいる。茶道具と現代美術といった異なる分野を同時に扱う美術商はめったにいない。質や専門性、信頼性を保つためには、画廊としての専門分野や取り扱い作家や見識を決め、それに沿った企画展示をすることで顧客に訴えることも重要である。 美術商は、価値を見抜くために、すぐれた美術を数多く見て「見る眼」を鍛えておくこと、また、見る眼と資金を持つ顧客といった良質の販売ルートを抑えることが望ましい。.

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絵画館 (ベルリン)

絵画館(かいがかん、Gemäldegalerie)は、ドイツのベルリンにある美術館。ベルリン美術館を構成する美術館の一つで、ポツダム広場の西、ティーアガルテン地区の文化フォーラム(Kulturforum)に位置している。13世紀から18世紀のヨーロッパ諸国の芸術品の収蔵では世界有数の美術館であり、所蔵されているコレクションには、アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナッハ、ヤン・ファン・エイク、ラファエロ、ティツィアーノ、カラヴァッジオ、ピーテル・パウル・ルーベンス、レンブラント、ヨハネス・フェルメールら巨匠の名作が含まれている。絵画館は1830年に開館し、その後1998年に新築された。.

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画家・彫刻家・建築家列伝

『画家・彫刻家・建築家列伝』(がか・ちょうこくか・けんちくかれつでん(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori 、Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects)は、16世紀のイタリア人画家、建築家のジョルジョ・ヴァザーリが書いた芸術家の伝記。タイトルは略されて「Vite」、「Lives」と呼ばれることもある。日本では部分訳が出版されており『美術家列伝』、あるいは『芸術家列伝』と呼ばれることが多い。 「芸術文学の古典としてもっとも有名で、もっとも研究された本 」、「イタリアルネサンスを語る上でもっとも影響力のある書物の一つ」、「芸術史を最初に構築した文書の一つ」と言われ、英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語、日本語など各国語に全訳、部分訳されている。.

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無原罪の御宿り

無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり、Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae)とは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによってフスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』244頁、教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義である。新要理書編纂特別委員会/編、日本カトリック司教協議会/監修(2003年)『カトリック教会の教え』106頁 - 107頁、カトリック中央協議会、ISBN 9784877501068。無原罪懐胎(むげんざいかいたい)とも言う。 1854年に正式に信仰箇条として宣言決定された(バチカンのウェブサイト)。.

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版画

画(はんが)とは、印刷を行う紙以外に、彫刻や細工を施した版を作り、インクの転写・透写等によって複数枚の絵画を製作する技法、またはそれにより製作された絵画のこと。版画はその版の仕組みから大きく4つに分類される。凸版画、凹版画、平版画、孔版画である。また、印刷する版面の種類によって木版画、銅版画、石版画に分類される。.

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盛期ルネサンス

盛期ルネサンス(せいきるねさんす、英語:High Renaissance)は、美術史において、イタリアのルネサンス芸術の最盛期(1450年〜1527年)を指す言葉である。前期はメディチ家が支配するフィレンツェによるフィレンツェ派、後期はローマ教皇ユリウス2世による芸術家たちをパトロンとした時期で、活動の中心は、それまでのフィレンツェからローマに移った。このユリウス2世や、後のメディチ家出身の教皇レオ10世などはルネサンス教皇と呼ばれる。 一般に、盛期ルネサンス絵画は1490年代後半に現れたとされている。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期である。 その頂点は、絵画においては、ミケランジェロやラファエロがバチカンに描いた絵画とされる。建築では、1502年に古代ローマ建築の本格的復古を告げるテンピエットをドナト・ブラマンテが建てたこと。彫刻では、静力学と運動の理想のバランスを特徴とする、ミケランジェロの『ピエタ』、『ダビデ像』が挙げられる。またヴェネツィアでは、ジョルジョーネや若きティツィアーノの、落ち着いた雰囲気・鮮やかな色彩が盛期ルネサンスの好例とされる。 広義にとらえるなら、盛期ルネサンスは創造性豊かな天才の大爆発と言えるだろう。超一流とは言えないかも知れないが、多くの画家たちがこの時期に活動した。たとえば、フラ・バルトロメオやマリオット・アルベルティネッリは、彼らの絵画技法の完全な調和と全体の抑制が注目に値する作品群を制作した。また、後期のミケランジェロやアンドレア・デル・サルト、コレッジョの作品に見られる、長く伸びたプロポーションと誇張されたポーズは、美術史において後期ルネサンスと見なされるマニエリスムの到来を予感させるものである。 その盛期ルネサンスも、1520年のラファエロの死と1527年のローマ略奪によって終焉をもたらされた。16世紀イタリアでは、イタリア戦争がこの時代に頂点に達し、盛期ルネサンスはイタリアでの活力が失われ、同時にヨーロッパ諸国へと拡散していったのである。.

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遠近法

遠近法(えんきんほう、perspective)は、広義には絵画や作図などにおいて、遠近感を持った表現を行う手法を指す。ここでは特に、目に映る像を平面に正確に写すための技法である「透視図法」(透視法、線遠近法ともいう)について記す。 透視図法によって描かれた図のことを透視図という。英語では「遠近法」「透視図法」「透視図」などを総称して perspective(パースペクティブ)といい、日本では遠近法、透視図のことをパースと称することが多い。(例:「建築パース」「パースがきつい」など) 遠近法の2大特徴として.

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聖家族

洗礼者聖ヨハネ(左)(人物の設定には異説あり)前景に三角形の構図で聖人を描き、後景の大きな領域に風景を配している。 聖家族(せいかぞく、)は、幼少年時代のイエス・キリストと養父ヨセフ、聖母マリアのことであり、キリスト教美術の主題のひとつであった。 聖家族をモチーフとした作品の創造は、15世紀から17世紀のルネサンス美術・バロック美術において盛んであった。よく描かれたのは『マタイによる福音書』が伝える聖母のエジプト逃避で、旅の途上で休憩するマリア母子が豊かな風景画として描かれた。後の画家は、この画題に幼い洗礼者ヨハネや他の聖人を配した。 『エジプトへの逃避』(ティントレット、1583-1587年、サンロッコ大信徒会所蔵) 16世紀のイタリア美術はフランドル絵画の影響により風景画の技法が発達し、とくに宗教画でその技法が取り入れられた。ティントレットの『エジプトへの逃避』はその影響が強くみられ、背景に神秘的な情感を持たせた作品となっている。.

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聖ルカ組合

'''聖ルカ組合'''(1730年ごろに出版された銅版画) ハールレムの聖ルカ組合の理事たち(1675年) 聖ルカ組合(Sint-Lucasgilde、Guild of Saint Luke)とは、近代初期のヨーロッパ、特にネーデルラントで画家など芸術家のギルドのほとんどに共通してつけられた名称である。聖ルカの名称はダマスコのヨハネによって聖母の肖像を描いたとされた芸術家の守護聖人ルカにちなむ。 最も有名な聖ルカ組合はアントワープで設立され、1795年まで存続したが末期にはギルドとしての独占的地位を失っていた。アントワープを含む多く都市の自治政府は都市内の同業者の活動を規制する権利をギルドに与えた。そのため芸術家は芸術家のギルドの親方資格を取得しなければ、弟子をとったり作品を売ったりして生計を立てることができなかった。.

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聖ヴェロニカ

ヴェロニカ(Veronica、生没年不明)は、カトリック教会・正教会の聖人。祝日は7月12日と2月4日。 言い伝えによると、ヴェロニカはベレニケ(Berenice)ともいい、エルサレムの敬虔な女性であった。彼女は、十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩くキリストを憐れみ、額の汗を拭くよう自身の身につけていたヴェールを差し出した。キリストは彼女の申し出を受けて汗を拭き、ヴェールを彼女へ返した。すると、奇跡が起こった。ヴェールには、キリストの顔が浮かび上がっていたのである。この伝承から、絵画や彫像の聖ヴェロニカは、聖顔布を手にした姿で表される。.

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聖遺物

fr)が所蔵する聖ウルスラの聖遺物。 ディジョンの宗教芸術美術館所蔵の聖ベニーニュの聖遺物。 フランスのティーレンバッハ小修道院の聖母聖堂所蔵の聖遺物。 en) の聖血。 聖遺物(せいいぶつ、Reliquiae)は、キリスト教の教派、カトリック教会において、イエス・キリストや聖母マリアの遺品、キリストの受難にかかわるもの、また諸聖人の遺骸や遺品をいう。これらの品物は大切に保管され、日々の祭儀で用いられてきた。聖遺物のうち聖人の遺骸については、正教会での不朽体に相当する。古代から中世において、盛んに崇敬の対象となった。.

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聖母の被昇天

isbn.

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聖母を描く聖ルカ

『聖母を描く聖ルカ』(せいぼをえがくせいルカ(Saint Luke Drawing the Virgin))は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた絵画。芸術家の守護聖人ルカが幼児キリストを抱く聖母マリアを描いている場面が描かれており、ブリュッセルの芸術家ギルド聖ルカ組合のために1435年から1440年にかけて制作した作品である。オーク板に油彩とテンペラで描かれた板絵で、絵画の師であるロベルト・カンピンのもとでの修行を終えた後に、ブリュッセルの公式画家に任命された当初の作品の一つと考えられている。この作品を所蔵するボストン美術館は、「アメリカ合衆国に存在する北ヨーロッパ絵画でもっとも重要な作品である」と位置づけている。 ファン・デル・ウェイデンは、この作品に多くの宗教的寓意を内包させている。聖母マリアの座る椅子の肘掛には、アダムとイヴの堕罪 (en:Fall of Man) の彫刻が表現されているが、これはマリアとキリストが贖罪で果たす役割の象徴である。マリアはダマスク織の天蓋の下に座っているが、実際に座っている場所は玉座ではなく足を置くステップで、これはマリアの謙虚さを表している。画面最右部の小部屋には、ルカを象徴する膝を折った雄牛と、ルカが書いたとされる福音書がページを開いた状態で描かれている。背景のロッジアの「閉ざされた庭 (en:hortus conclusus)」は、聖母の純潔を意味している。また、ファン・デル・ウェイデンは聖母子を極度に理想化せずに実在の人間らしく描写している。さらに、聖人の頭上に通常描かれる光の輪である円光がない、くつろいだ雰囲気の空間として描かれているなど、当時の写実主義の影響を受けていることが見て取れる。 『聖母を描く聖ルカ』は、同じく初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1435年ごろに描いた絵画『宰相ロランの聖母』をもとにしている。ファン・デル・ウェイデンのアプローチは正統的なものとなっており、ルカが聖母を銀筆で描いている様子など、ファン・デル・ウェイデンが専門的技量を有していたことをうかがわせる。銀筆は高度な技術が必要な道具で、ファン・デル・ウェイデン自身の技量と自信とを物語っているのである。ルネサンス美術において「聖母(子)を描く聖ルカ」というモチーフは、この作品とよく似ているロベルト・カンピンの祭壇画とともにこの『聖母を描く聖ルカ』が嚆矢となっている。 この作品に描かれているルカはファン・デル・ウェイデンの自画像ではないかと考えられている。これは芸術家がときおり用いる手法で、自身の作品の登場人物の顔として自画像を描くことによって、画業が自身の天職であることを宣言し、さらに芸術の守護聖人との一体感を示すという意味があった。 ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』と同様に、『聖母を描く聖ルカ』にも橋にもたれかかる二人の人物が遠景に描かれている。この二人の人物が特定の誰かを描いているのかについては諸説あるがCampbell, p.54、マリアの父母である聖ヨアキムと聖アンナとする説がある。どちらの人物もモチーフに描かれている聖母子と聖ルカには背を向けており、このことは二人の人物が聖ルカとこの作品を観る者よりも超然とした立場にいることを示唆している。 『聖母を描く聖ルカ』が絵画界に与えた影響は広範囲に及ぶものだった。一部の学者が唱えているようにこの作品がブリュッセルの聖ルカ組合の礼拝堂にあったのだとすれば、多くの芸術家たちが目にすることができ、模写をすることが可能だったと考えられる。『聖母を描く聖ルカ』には複数の複製画が存在し、長きにわたってどの作品がファン・デル・ウェイデンの真作であるのかが明確にはなっていなかった。ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(1483年ごろ)、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館(1475年 - 1500年ごろ)、ブルッヘのグルーニング美術館(制作年不明)に『聖母を描く聖ルカ』を模写した複製画が所蔵されているIshikawa。また、裁断された断片、あるいは一部を模写した複製画が、ブリュッセル、カッセル、バリャドリッド、バルセロナに残っている。 20世紀初頭には複数の美術史家が、ファン・デル・ウェイデンが描いたオリジナルの『聖母を描く聖ルカ』はおそらく既に失われており、現存するものはすべて複製画であるとする学説を唱えていたEisler, Colin Tobias (1961).

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風俗画

俗画(ふうぞくが、Genre painting, petit genre)は、庶民の普段の生活を描写し日常生活のさまざまな面を描いた作品のことである。表現は写実的なものから理想化あるいは想像されたものまで様々である。親しみ易く、感傷的な主題が多いこともありブルジョワ階級や中産階級に昔から人気のあるジャンルだった。風俗画を表すプティ・ジャンル(petit genre)の "petit" (小さな)は 歴史画などの偉大なジャンル(grand genre)の "grand"(大きな)に対して付けられたものである。 風俗の主題はほぼすべての美術の伝統に見られる。古代エジプトの王墓の装飾には、宴、レクリエーションや農作業の様子が描かれている。中世の時祷書(『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』)のような祈祷書にも農民の日常生活が描かれている。フランドルのルネサンスの画家ピーテル・ブリューゲル(父)は農民やその生活を主題とした多くの絵を描いた。彼の影響で北ヨーロッパでは風俗画が流行するようになる。17世紀にネーデルラントで風俗画を専門とした多くの画家の中にはアドリアーン・ファン・オスターデ、イサーク・ファン・オスターデ、ダヴィッド・テニエルス、アルバート・カイプ、ヨハネス・フェルメール、ピーテル・デ・ホーホがいる。彼らの一般的に小さめの絵は、購入者層の中産階級の人々の家に飾るのに相応しいものであった。 イタリアでは、オランダの画家ピーテル・ファン・ラールが1625年にローマに来たことにより風俗画 "派" と呼ぶべきものが隆盛をみる。ラールがイル・バンボッチオというあだ名で呼ばれたため、彼の追随者はバンボッチャンティと呼ばれた。彼の影響を受けた多くの画家の中にはギアコモ・セルチ、アントニオ・シフロンディ、ジュゼッペ・クレスピがいた。 ルイ・ル・ナンは17世紀フランスで風俗画を手がけた代表的作家である。フランスでは18世紀、日常生活を描くことへの興味が更に高まる事となる。もっともその描写にはヴァトーやジャン・オノレ・フラゴナールの感傷的なものからジャン・シメオン・シャルダンの入念な写実主義まで幅があった。 イギリスではウィリアム・ホガースが庶民についての話を連作で描いた作品に、社会風刺や教訓を盛り込んだ。ウィリアム・フリスはイギリスの最も有名な風俗画で、同時代の人々からも尊敬を集めていた。イギリスの風俗画家には他にオーガスタス・エッグ、ジョージ・ヒックス、ウィリアム・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、デイヴィッド・ウィルキーがいる。 スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤは風俗画を人間の条件(人間として生きていくこと)の暗い記録手段として利用した。 中国では漢代の画像石などに原初的な図像が認められる。唐代以降、士女図が描かれ、北宋末期には張択端が首都汴京の市街風物を《清明上河図》として描き、以後中国の風俗画の画題として受け継がれた。日本では平安、鎌倉時代に絵卷物などの一部に風俗的な表現が見られるが、中世以降独立した画題として成立する。洛中洛外図、 遊楽図などが描かれ、近世初期風俗画として隆盛する。遊里に取材する美人風俗画は江戸時代には浮世絵として発展した。日本の浮世絵には、余暇を楽しむ人や働く人の姿が多く描かれている。特にこれらの作品は18世紀に描かれた。 アメリカの本当の意味での最初の風俗画家は、ドイツ移民のジョン・ルイス・クリメルである。ウィルキーやホガースから学んだ彼は1812年から1821年のフィラデルフィアの生活のちょっとユーモラスな情景を描いた。 19世紀に歴史画、宗教画が衰退するにつれ、画家は自分の身の回りの生活に画題を求めるようになった。ギュスターヴ・クールベのような写実主義の画家は、それまでは "重要な" 主題にしか使われなかったような巨大なカンバスに日常生活を描き常識を覆した。歴史画自体も社会の重大な出来事ばかりでなく、歴史時代を舞台として大人物のプライベートな姿や、普通の人の日々の生活を描いたりと変化して来ていた。続いて印象派やピエール・ボナール、エドワード・ホッパー、デイビッド・パークといった20世紀美術の芸術家が日常生活を描くようになると、「風俗画」という言葉は現代美術の中では、伝統的な写実的なテクニックで描かれた逸話的またはセンチメンタルな作品のことを指すようになった。アメリカの画家アーニー・バーンズやノーマン・ロックウェルのようなイラストレーターはより新しいタイプの風俗画の代表といえるかもしれない。 風俗画には、庶民の日々の生活が映し出されているので、過去の時代を知る貴重な資料となっている。.

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風景画

『印象・日の出』クロード・モネ1872年 風景画(ふうけいが)は山、渓谷、木々、河川、森などの景観を描いた絵画である。多くの場合空が描かれ、天候が記述される。.

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装飾写本

装飾写本(そうしょくしゃほん、illuminated manuscript) は多くの場合宗教的なテクスト写本に装飾頭文字(イニシャル)や装飾的な縁取り、装飾頁(カーペット頁)などの華麗な飾りを付けたものである。代表的なスクリプトとしては中世のケルト教会修道僧によって作成されたケルト装飾写本がある。 中世のキリスト教世界では聖書にギリシャ・ローマ起源の具象的、写実的な挿絵を加えた挿絵写本(イラストレイテッド・マニュスクリプト)も数多く作成されたが、装飾写本(イルミネイテッド・マニュスクリプト)は文様を中心とする写本をいう。中世の修道院などで専門の写本修道僧が聖書写本に装飾を加えたものである。デリンジャーは『装飾写本ーその歴史と制作』(1970年)で と述べている。 代表的な中世の装飾写本としてはアイルランドに始まるケルト教会系の修道院で作成されたケルト装飾写本があり、ヘブリデス諸島のアイオナ修道院で作成された『ケルズの書』、ノーサンブリアのリンデスファーン修道院で作成された『リンデスファーン福音書』、アイルランドのダロウ修道院で作成された『ダロウの書』などが現存する。これらケルト系装飾写本は渦巻・組紐・動物など奇怪なケルト的文様を駆使したもので、その他ブリテン諸島に残る装飾写本とともに「ヒベルノ・サクソン装飾写本」と呼ばれることもある。 10世紀から12世紀に作られた装飾写本には、ケルト風を基本としながらアカンサスの葉のモチーフなどロマネスク様式を取り入れた装飾文字が多く見られる。また、文字の中に物語の一場面を取り込んだ装飾文字も現れるようになった。ゴシック期と呼ばれる13世紀以降には、パリを中心に世俗の写本家が装飾写本を制作するようになった。それ以前に比べ写本は小型化し、描かれる動物、植物の表現はより写実的になっている。ルネサンス期にはフィレンツェやヴェネツィアなどイタリア方面で、コルヌコピアや葡萄唐草など古代ローマ風の文様を取り入れた装飾写本が発達した。.

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読書するマグダラのマリア

『読書するマグダラのマリア』(どくしょするマグダラのマリア(Maria Magdalena leest、The Magdalen Reading)は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが15世紀に描いた絵画。オリジナルはオーク板に油彩で描かれた板絵で、もともとはより大きな祭壇画だったが、後にその祭壇画が複数枚に裁断されてしまったものである。この『読書するマグダラのマリア』は、その裁断された祭壇画の現存する断片の三枚のうちの一つで、1860年以来ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している。正確な制作年度は不明だが、1435年から1438年ごろに完成を見たのではないかと考えられている。 透き通るような肌、高い頬骨、楕円の目をもつ、当時の絵画作品の典型ともいえる理想化された上流階級の女性が描かれた作品である。描かれている女性は聖女マグダラのマリア(以下単なる「マリア」は「マグダラのマリア」を指す)とされており、その根拠として伝統的なキリスト教芸術でマリアを意味する香油壷が画面前面の床に描かれていることがあげられる。この作品ではマリアは読書に没頭しており、過去の罪業を悔悛し赦された観想的な生活を送る人物として表現されている。カトリックの伝統的教義ではマグダラのマリアはイエスの足に香油を注いだベタニアのマリア、ならびに罪の女 と同一視されている。図像学ではマグダラのマリアは本とともに描かれ、沈思しているその様子は涙にくれているか、あるいは目を背けて描かれることが多いとされている。ファン・デル・ウェイデンは、マリアの衣服のしわや質感、マリアの後方に立つ人物が持つロザリオの水晶、室内の様子など、細部にわたる非常に精緻な描写でこの作品を仕上げている。 『読書するマグダラのマリア』の背景は、長い間オリジナルの状態から暗色一色で厚く塗りつぶされてしまっていた。しかしながら1955年から1956年にかけて作品の洗浄が行われ、描かれていたマリアの後ろに立つ男性と裸足でひざまずく女性、そして窓越しの外の風景が元通りに修復された。背景に描かれている二人の人物像が一部しか残っていないのは、『読書するマグダラのマリア』がオリジナルの祭壇画から切断された作品であるためである。リスボンのカルースト・グルベンキアン美術館 (en:Museu Calouste Gulbenkian) には聖ヨセフの頭部が描かれているとされる『聖ヨセフの頭部』と聖カタリナを描いたとされる『聖女の頭部』と呼ばれる『読書するマグダラのマリア』の3分の1程度の大きさの2点の板絵が所蔵されており、この2点の板絵がオリジナルの祭壇画から切断された断片の一部ではないかと考えられている"".

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辺獄

辺獄(へんごく、リンボ、Limbus、Limbo)は、カトリック教会において「原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所のこと。中世の西方教会の神学者たちが死後の世界について考える際に分けられたもので、いわゆる「地獄」や「煉獄」と混同されることもあるがこれらとは異なるものであり、イエス・キリストが死後復活までの間にとどまった場所(父祖の辺獄)、および洗礼を受ける前に死亡した幼児が行く場所(幼児の辺獄)と考えられてきた。 辺獄は、聖書にはもちろんカトリック教会のカテキズムにも明確に書かれていないため、カトリック教会の公式教義ではなく「神学上の考えられる仮説」として残されている。.

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薔薇物語

『薔薇物語』(ばらものがたり、Le Roman de la Rose)は、中世13世紀フランスの寓意的な物語である。.

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肖像

肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真、彫刻である。それぞれ肖像画(絵画)、肖像写真(写真)、肖像彫刻と呼ばれる。肖似性(類似)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。.

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金羊毛騎士団

金羊毛騎士団(きんようもうきしだん、、、)は、ブルゴーニュ公フィリップ善良公によって作られた世俗騎士団。英語に基づいてゴールデン・フリース騎士団、フランス語に基づいてトワゾン・ドール騎士団とも。.

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板絵

『ヘントの祭壇画 (1432年)』初期フランドル派の代表的な画家フーベルト・ファン・エイクとヤン・ファン・エイク兄弟が24枚の板の両面に描いた多翼祭壇画 板絵(いたえ)またはパネル絵(パネルえ)、パネル画(パネルが)は、一枚あるいは組み合わされた数枚の木製のパネル(板)の上に描かれた絵画。キャンバスが普及する16世紀半ばまでは、フレスコ画に使用された壁や装飾写本のミニアチュールに使用された羊皮紙に比べて、絵画制作にもっともよく使用された支持体だった。板に描かれた各国の伝統的絵画は多く存在し、現在でも板に描かれる絵画もあるが、板絵という用語は西欧で描かれた絵画を意味することが一般的となっている。.

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油彩

油彩(ゆさい)には、以下の2つの意味がある。.

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木版

木版(もくはん)とは、版木/板木(はんぎ)とも呼ばれ、印刷のために文字や絵画などを反対向きに刻した板。木版印刷や木版画制作に用いられる。.

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支持体

支持体(しじたい、Support)とは、絵画の塗膜を支える面を構成する物質である。本来は塗装の用語であり、これは絵画が塗装の特殊な一形態であることを物語っている。地塗りを施す場合もあれば、地塗りを施さない場合もある。基底材とも言う。.

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教会の聖母子

『教会の聖母子』(きょうかいのせいぼし(Madonna in de kerk、Madonna in der Kirche))、または『教会の聖母』(きょうかいのせいぼ)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1438年から1440年ごろに描いたといわれている絵画。オーク板に油彩で描かれた板絵で、ゴシック様式の聖堂内で幼児キリストを抱く聖母マリアをモチーフとした小作品である。貴石をちりばめた宝冠を被るマリアが腕に抱く幼児キリストをあやし、キリストはマリアを見つめながらマリアの衣服の胸元を握りしめている。13世紀の伝統的なビザンチン様式のエレウサのイコンを思わせる衣装を身につけたマリアは、この作品では天界の女王として描かれている。 背景の身廊にあるアーチ状の飾り格子にはマリアの生涯を表現した木製彫刻が描かれており、壁龕には同じようなポーズで幼児キリストを抱くマリアの彫刻が見える。ドイツ人美術史家エルヴィン・パノフスキーは、背景の彫刻からマリアとキリストが生身となって抜け出てきたような構図になっているとしているHarbison (1995), 99。画面右の入り口には、賛美歌集を手にして賛美歌を歌う二人の天使が描かれている。聖母マリアを表現したビザンチン美術作品の多くと同じく、ヤン・ファン・エイクも『教会の聖母子』でマリアを非常に大きな象徴的人物像として描いた。さらにヤン・ファン・エイクは、教会の窓から降りそそぐ光を入念に描いている。きらめくように室内を照らし出し、マリアの背後の床に二箇所のスポットを作り出す光の描写が、マリアの処女性と神の恵みを表現しているのであるSmith, p.64。 多くの美術史家が、『教会の聖母子』はもともと2枚の板で構成されていたディプティクの左パネルであり、現存していない右パネルには、依頼主の肖像画 (en:donor portrait) が描かれていたのではないかとしている。ヤン・ファン・エイクとほぼ同時代人の「1499年の画家」(en:Master of 1499) と呼ばれる画家とヤン・ホッサールトが描いたと言われる、『教会の聖母子』を複製したディプティクが二点現存しているが、それぞれの右パネルに描かれている内容は全く異なっている。1499年の画家のヴァージョンの右パネルには室内でひざまずいて祈りを捧げる依頼主が描かれており、伝ホッサールトのヴァージョンには屋外で聖アントニオスとともに祈る依頼主が描かれている。どちらの複製もヤン・ファン・エイクのオリジナルに大きな修正を加えており、より新しいスタイルの作品に仕上がっている。ただし、両作品ともに「オリジナルが持つ宗教的美しさは完全に失われている」といわれているKoch (1967), p.48.

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時祷書

時祷書(じとうしょ、horae, primer, book of hours)は、現存するものの中ではもっとも多く存在している中世装飾写本である。内容はそれぞれ異なっているが、祈祷文や詩編を集成し、内容に合わせた挿絵をつけて、ローマ・カトリック教会のキリスト教徒としての信仰・礼拝の手引きとして編集したものである。 通常はラテン語で書かれていたが、一部もしくは全体がヨーロッパの日常語で書かれている例もある。数百点の時祷書が今日まで残っており、世界中の図書館や個人のコレクションの中に散在している。 通常、時祷書と呼ばれる中世の写本は、聖務日課書(修道院で伝えられた礼拝について書いた本)を短縮したものである。時祷書は、修道院制度の要素を信徒としての生活に組み込みたいと考えた一般信徒のために編纂されたものである。定時の祈りには、基本的に数編の賛美歌の朗読・唱和に規定の祈りの言葉が伴った。 通常の時祷書の内容は以下のようなものである。.

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