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兵法三十六計

索引 兵法三十六計

『兵法三十六計』(へいほうさんじゅうろっけい、三十六計)は、魏晋南北朝時代の中国の兵法書。兵法における戦術を六段階の三十六通りのに分けてまとめたものである。魏晋南北朝時代の宋の将軍檀道済は著者http://history.news.163.com/09/0907/10/5IJPRKI600011247.htmlhttp://www.chinanews.com/cul/news/2009/07-31/1799137.shtml。「三十六計逃げるに如かず」の語源である。.

56 関係: 偸梁換柱南斉書反客為主反間計声東撃西孫子 (書物)守屋洋宋 (南朝)上屋抽梯中国三笠書房以逸待労仮痴不癲仮道伐カク彬州市ディスカヴァー・トゥエンティワンダイヤモンド社兵法書囲魏救趙借屍還魂借刀殺人知的生きかた文庫瞞天過海空城計笑裏蔵刀美人計無中生有隔岸観火遠交近攻順手牽羊調虎離山魏晋南北朝時代趁火打劫鈴木博走為上関門捉賊釜底抽薪金蝉脱殻苦肉計集英社連環計陝西省暗渡陳倉抛セン引玉李代桃僵樹上開花檀道済欲擒姑縦混水摸魚指桑罵槐...戦術易経擒賊擒王故事打草驚蛇1941年 インデックスを展開 (6 もっと) »

偸梁換柱

偸梁換柱(とうりょうかんちゅう)は兵法三十六計の第二十五計にあたる戦術。 「梁を偸(ぬす)み、柱に換(か)う」。 「偸梁換柱」は、中国の諺の「偸天換日」と同じ意味で、一般的には、いかさまによって物事をごまかすことを言う。 三十六計では、梁に使うような太さの木材を誤って柱に使えば建物が倒壊してしまうことから、敵国の王や重臣が無能な人間に入れ替えられるように工作して弱体化すること、あるいは、陽動作戦を繰り返して敵の布陣を崩し、自軍が攻撃しやすい「梁」の部分を生じさせることを言う。さらには、敵の布陣の「柱」の部分を同盟軍や第三の敵軍に押し付けてしまい、自軍の相対的立場をさらに優位にすることを狙った戦術を指すこともある。 秦の始皇帝の次の皇帝は末子の胡亥であったが、史記はその即位は、宦官の趙高が胡亥と宰相の李斯を巻き込んで始皇帝の遺書を改竄、始皇帝の長子で太子であった扶蘇を偽勅で自殺させることによってなされたとしている(異説あり)。趙高は、即位後の胡亥を酒色に溺れさせ、自ら政治の実権を完全に掌握。そこで有力者、敵対者をことごとく粛清したため、人材の枯渇と政治混乱を招き、陳勝・呉広の乱をきっかけとして、秦は中国統一後(紀元前221年)、わずか15年(紀元前206年)で滅亡してしまった。 中国では、この趙高の振る舞いを、「秦に滅ぼされた趙の王族として復讐を行なった」と解釈する説が根強くあって、「偸梁換柱」の一例であるとされている。 Category:三十六計.

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南斉書

『南斉書』(南齊書、なんせいしょ)は、中国南朝の斉について書かれた歴史書。梁の蕭子顕が書いた紀伝体の史書。二十四史の内の一つ。原名は『斉書』であったが、李百薬の『北斉書』に鑑みて、宋の時に手直しされた。 本紀8巻、志11巻、列伝40巻の合計59巻(一説には著者である蕭子顕の自叙1巻があったものの、紛失して59巻になったと言われている)。高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南斉の歴史が記されている。また、北朝に関しては「魏虜伝」に記載されている。 蕭子顕が斉の高帝の孫に当たることから、記事の内容は詳細を究めており、趙翼の『廿二史劄記』は隠諱・直書に優れているとしてその公正さを評価するが、同書の執筆対象である斉の旧皇族が書いた歴史書であることから、公正さは期待できないという厳しい評価を下す歴史学者もいる。趙翼も高帝の子は大勢いるのに、蕭子顕が自分の実父である豫章王蕭嶷のために、列伝一巻の編纂(列伝第三)を行ってその人物を賞賛した事は、親孝行ではあるが歴史家の執筆態度としては相応しくないと批判している。『南史』が編纂された後は読まれる事が少なくなったと言う。.

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反客為主

反客為主(はんかくいしゅ)は三十六計の三十計である。「客を返して主(あるじ)と為す」 敵にいったん従属あるいはその臣下となり、内から乗っ取りをかける計略。時間をかけて行うべきものとされる。.

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反間計

反間計(はんかんけい)は兵法三十六計の第三十三計にあたる戦術。 敵の間者(スパイ)や内通者を利用する計略を言う。すなわち、敵の間者に偽情報が流れるように工作して、その結果、敵内部の離間や粛清を図ったり、敵に我の望む行動をとらせるよう仕向ける。敵の間者を直接に脅迫ないし買収して、いわゆる二重スパイとすることも含む。 中国戦国時代で最高の名将といわれる燕の楽毅は、大陸最強の超大国・斉に攻め入って瞬く間に七十余城を攻め落とし、残るは即墨と莒の二都市のみとなったが、即墨には田単が、莒には襄王が篭って固く守っていたのでなかなか攻め落とせなかった。そうしている間に、燕本国では昭王が亡くなり、代わって恵王が即位したが、恵王は太子の頃から楽毅と仲が悪かった。このことに目を付けた田単は、斉に潜り込んでいた燕の間者を利用して「楽毅がわずか二城をいつまでも攻め落とせないのは、そのことを理由に斉に留まって民衆を手懐け、燕から独立して斉王となる野心があるからだ」という情報が恵王に伝わるように仕組んだ。それを聞いた恵王はさもありなんと納得し、騎劫を送って楽毅を本国に呼び戻した。帰国すれば殺されることが確実である楽毅は趙へと亡命し、名将楽毅を失った燕軍は田単率いる斉軍に負けつづけ、ついに斉の七十余城を全て奪回されてしまった。 このように、敵の間者を逆用して敵の内部を混乱させ戦力を殺ぐ離間策は反間計の例である。.

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声東撃西

声東撃西(せいとうげきせい)は兵法三十六計の第六計にあたる戦術。「東に声して西を撃つ」の意味。.

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孫子 (書物)

孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ 『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。 『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。.

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守屋洋

守屋 洋(もりや ひろし、1932年5月19日 - )は、中国文学者。SBI大学院大学 教授。宮城県生まれ。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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上屋抽梯

上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)は三十六計の第二十八計。「屋(おく)に上げて梯(はしご)を抽(はず)す。」屋根に上らせてから梯子を外せば敵は下りたくとも下りられない。飛び降りれば怪我をする。すなわち敵の自縄自縛を促しそれに乗じる計略。 たくみな宣伝・説得によって敵を欺き、そそのかして行動させる。そして、援助や補給が断たれる状況、逃げられない状況に敵を追い込んで自傷行為に及ばせたり、攻撃して損害を与える。敵に実力以上の行動をさせることが要点。この計は、敵を利益で操ること、「梯子」に乗りやすい情況をあらかじめ作ってやることが肝心。策を仕掛ける側が「梯子」をかけてやるか、「梯子」があると示して気づかせてやらねばならない。 日本語の慣用表現「梯子を外す、梯子を外される」は上屋抽梯の語に由来する。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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三笠書房

株式会社三笠書房(みかさしょぼう、MIKASA SHOBO CO., LTD.)は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。.

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以逸待労

以逸待労(いいつたいろう、逸を以て労を待つ)は兵法三十六計の第四計にあたる戦術。これは我が方が局面の主導権を握ることの重要性を示す語である。(単に「動かずに待っていろ」と勧める策と解するのは誤り).

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仮痴不癲

仮痴不癲(かちふてん、痴を仮りて癲わず)は兵法三十六計の第二十七計にあたる戦術。 愚か者を装って相手に警戒心を抱かせず、時期の到来を待つ。 なお、「痴」は、将本人の痴呆や老衰など演技することも指すが、愚かな作戦行動を故意に行うことや、軍事力を隠蔽して低く見せることで敵を油断させて後に叩く戦術も指す。(静不露機,雲雷屯也) 「癲」は狂うことであるが、この語は、偽装は「癲」でなく「痴」によらなければならないことも示している。すなわち、「癲」を演じて、是非善悪、損得が一切関係ないように動き続ければ、何らかの偽装で行っているのではないかと敵に看破されやすい。「痴」つまり「知らない、分かっていない、気づいていない」を前提にしつつ、振舞いとしては合理的である(ただし愚かな結果にはなっている)ほうが、第三者から見て自然であるため、より敵を欺きやすい。.

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仮道伐カク

仮道伐虢(かどうばつかく)は、兵法三十六計の第二十四計にあたる戦術。読み下し「道を仮(か)りて虢(かく)を伐(う)つ」である。.

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彬州市

彬州市(ひんしゅう-し)は中華人民共和国陝西省咸陽市に位置する県級市。政府所在地は城関街道西大街51号 陝西省人民政府。.

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ディスカヴァー・トゥエンティワン

株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン(英字:Discover 21, Inc.)は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。ビジネス書・自己啓発書を刊行する。取次を通した新刊委託ではなく直接取引を行う。勝間和代、喜多川泰などを見出した。字数の少ない本の出版・マーケティングを得意とする。大人向けの絵本エッセイも出版コンテンツとしている。2010年にニーチェのアフォリズムを基に刊行された『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦編訳)は、119万部を突破した。.

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ダイヤモンド社

株式会社ダイヤモンド社(ダイヤモンドしゃ、DIAMOND,Inc.)は、日本の主に経済やビジネスなどの書籍や雑誌、小説を出版している出版社である。 日本で最初のビジネス誌で草分け的存在の「東洋経済新報」(現「週刊東洋経済」)から遅れること約20年後に、「ダイヤモンド」を創刊して設立。本誌は日本初の出版社系週刊誌となる。本社は東京都渋谷区に所在する。.

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兵法書

兵法書(へいほうしょ)あるいは兵書(へいしょ)とは、戦争などにおいて兵の用い方を説いた書物。主な兵法書として古代中国の孫子、呉子、六韜などが知られる。.

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囲魏救趙

囲魏救趙(いぎきゅうちょう、魏を囲んで趙を救う)は、兵法三十六計の第二計にあたる戦術。.

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借屍還魂

借屍還魂(しゃくしかんこん、屍を借りて魂を還す)は兵法三十六計の第十四計にあたる戦術。 亡国の復興などすでに「死んでいるもの」を持ち出して大義名分にする計略。または、他人の大義名分に便乗して自らの目的を達成する計略。さらに、敵を滅ぼして我が物としたものを大いに活用してゆく計略も指す。 由来は、中国の八仙の一人、鉄拐李(鉄拐の李)の伝説。彼はもとは李玄という仙人だったが、幽体離脱している間に彼が死んだと思った弟子に体を火葬されてしまい、他人の死体に戻って復活して名を鉄拐李と改めたという話。 捕虜となった敵軍を助命して利用するケース、攻城戦の最前線で堀を埋める作業を行わせたり、野戦において督戦隊を使って強いて突撃させ敵の前線と捕虜が交戦を始めるや敵ごと弓射するというような戦術が借屍還魂に当たる。.

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借刀殺人

借刀殺人(しゃくとうさつじん)は兵法三十六計の第三計。「刀を借りて人を殺す」である。.

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知的生きかた文庫

知的生きかた文庫(ちてきいきかたぶんこ)とは三笠書房から出版されている文庫本のレーベル。.

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瞞天過海

天過海(まんてんかかい)とは、中国の兵法書に挙げられる兵法の一つで、「天を瞞(あざむ)きて海を過(わた)る」と訓読し、何食わない顔で敵を騙す兵法・計略を指す。 唐の張士貴が、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)の際、第二代皇帝・太宗が海を恐れて乗船を拒んだのに対して、船に土を盛り陸上の屋敷のように仕立てて、天子(皇帝)を欺いて乗船させ、海を渡らせたという故事にちなむ。.

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空城計

城計(くうじょうけい)または空城の計(くうじょうのけい)は兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。 あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。敵方に見破られた場合は全滅の危険性があり、心理戦の一種である。 野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされる。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。例えば、敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち自ら敵を引き入れようとすれば、優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒する。『追うこと百里ならば将を失い、五十里ならば兵の伴ばを失う』とある通り、敵が罠を仕掛け待ち構えているところに入るというのは、全滅もありえるほど危険だからである。 『三国志演義』では蜀の諸葛亮が野戦で魏に敗れた際、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。 史書においては三国志に付けられた注釈で魏の郭沖が語った故事として前述のモデルとなった諸葛亮が城門を開け放ち司馬懿を退けた話が記録される他、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、驚いた曹操軍は乱れて退却し始めた。暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達するも、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中が静まりかえっているからだった。指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。 北斉の北徐州刺史・祖珽は陳の攻撃を受けた際、城門を開放し、守備兵を降ろして城内を静めさせ、人や鶏・犬の往来を禁じた。陳の軍勢は城内が無人ではないかと考えて備えを設けなかった。祖珽が兵に叫ばせ鼓を響かせたところ、陳の軍勢は驚いて遁走した。 唐代、吐蕃が河西に侵攻し瓜州を陥落させた。瓜州刺史・張守珪が州城を再建しようとした際にもまた吐蕃軍が襲撃してきた。城中に防御の備えはほとんど無く、みな闘志を失っていた。張守珪は「敵は多勢、我々は無勢、被害は甚大で矢石を以て持ち応えることもできない。臨機の手段によるべきである」と言い、城上で将士との宴席を設けた。吐蕃の軍勢は城中に備えがあるのではないかと疑い、敢えて攻めずに去った。 日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。1573年、三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田信玄率いる武田軍に大敗し、壊滅状態で浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外にかがり火をたかせ、太鼓を叩かせた」ところ、それに警戒した武田軍は兵を引き挙げ、浜松城は落城を免れた。これは武田軍の指揮官の山県昌景や馬場信春が、信玄の教えによって中国古来の孫子・六韜・三略などの兵法に通じており、「空城計」(及び関門捉賊や欲擒姑縦)をよく知っていたためであるとされる。.

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笑裏蔵刀

笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)は、兵法三十六計の第十計にあたる戦術。読み下し「笑裏(しょうり)に刀(かたな)を蔵(かく)す」である。中国の諺の「口蜜腹剣」と同意。 敵を攻撃する前段階として、まずは友好的に接近したり講和停戦して慢心させる作戦を指す。 『孫子』「行軍篇」は「謙虚な言葉遣いでありながら軍備を増しているものは、進撃するつもりである。突然に講和を申し込んでくるものは、謀略である」と言う。.

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美人計

美人計(びじんけい)は兵法三十六計の第三十一計にあたる戦術。 色仕掛けで相手の戦意を蕩かせてしまう計略。勢いのある相手と正面からぶつかり合うのは愚策である。敵が強いのであれば美人を献上するのが良い。相手に服属するのに土地を献上すれば戦国時代に六国が秦に服属したときのようになり、金銀財宝を献上すれば宋が遼や金に服属したときのようになるだろう。土地や財宝ではなく、美人を献上して敵将をこれに溺れさせれば、その敵将の野心や攻撃心を挫くとともに肉体を衰弱させることができる。また、土地や財物と違い、味方に負担がかからない。そして、敵の末端の兵士は報酬として得るものがないので主君を恨むように仕向けることができる。 春秋時代末期に越が呉に滅ぼされそうになったとき、呉王の夫差に対して越の范蠡が美女西施を送り、やがて逆に呉を滅ぼしてしまったという故事がある。.

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無中生有

無中生有(むちゅうしょうゆう)は、三十六計の第七計。「無中に有(ゆう)を生ず。.

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隔岸観火

岸観火(かくがんかんか、岸を隔てて火を観る)は兵法三十六計の第九計にあたる戦術。.

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遠交近攻

遠交近攻(えんこうきんこう)は、兵法三十六計の第二十三計にあたる戦術。「遠きと交わり近きを攻める」の意味。.

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順手牽羊

順手牽羊(じゅんしゅけんよう)は、兵法三十六計の第十二計にあたる戦術。読み下し「手に順(したが)いて羊を牽(ひ)く」である。.

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調虎離山

調虎離山(ちょうこりざん、調(はか)って虎を山から離す)は兵法三十六計の第十五計にあたる戦術。 『孫子』に「城攻めは下策である」と書かれているように、敵が有利な地形にいるところに出向いて戦うのは、自ら敗北を求める愚行である。このような場合、敵を本拠地から誘い出し、味方が有利な地形で戦うようにすることが望ましい。これを調虎離山の計と呼ぶ。.

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魏晋南北朝時代

魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。.

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趁火打劫

趁火打劫(ちんかだこう)は、三十六計の第五計。「火に趁(つけこ)んで劫(おしこみ)を打(はたらく)く.

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鈴木博

鈴木博(すずきひろし).

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走為上

走為上(そういじょう)は兵法三十六計の最後の計。「走(に)ぐるを上(じょう)と為(な)す」、逃げるのが最善の策である、という意味。南斉書の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」と「三十六計逃げるに如かず」の語源である。.

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関門捉賊

関門捉賊(かんもんそくぞく)は兵法三十六計の第二十二計。「門(もん)を関ざして賊を捉(とら)う」「関門」すなわち敵の退路を断ってきっちりと追い込んで、「捉賊」包囲殲滅する戦術。.

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釜底抽薪

釜底抽薪(ふていちゅうしん)は、三十六計の第十九計。「釜底の薪を抽(ぬ)く」。 北斉の魏収の文「抽薪止沸, 剪草除根」が由来とされる。同義語、断根枯葉(だんこんこよう)。 釜の水を沸かせるのは薪の火力であり、燃料の薪を引き抜いてしまえば、沸騰は止まる。 兵站、大義名分など敵軍の活動の源泉を攻撃破壊することで、敵の活動を制し、あわよくば自壊させんとする計略。懐柔や脅迫で、敵軍の個々の勢力を離反させることや、将兵を離間して兵士の逃亡を促して、敵の勢力を削ぐことも含む。いたづらに正面攻撃を行わず、まず致命的弱点を探してそこを討てという意味もあわせている。 紀元3世紀、いわゆる「官渡の戦い」で、前半、10万の袁紹の軍に対して少数精鋭の曹操はよく戦ったものの、袁紹が豊富な兵糧をたのみに持久戦術に切り替えたため、人数物量で劣る曹操軍は窮地に立たされた。ここで、袁紹の配下だった許攸は、袁紹に家族を刑死させられたため、曹操側に降って、袁紹軍の兵糧基地は烏巣にあってその守備は貧弱なことを教えた。すかさず曹操は5千の手勢を率いて烏巣を奇襲。袁紹の兵糧をごっそり奪い、運べぬ残りは焼き払ってしまった。 曹操が烏巣を攻めたことを知って慌てた袁紹の配下は、烏巣を守備していた淳于瓊を救援する案と曹操の本陣を攻撃する案とで割れた。袁紹は、淳于瓊救援を主張していた張郃、高覧の二将を、懲罰的に曹操の本陣攻撃に振り向けたが、彼らは本気で戦わず、仕舞いには曹操に投降してしまった。さらに、淳于瓊救援軍も曹操に撃破されて、烏巣の兵糧を失った袁紹軍は崩壊した。 翌年、袁紹は、再び曹操を攻めたが多勢に無勢のためあっさり敗退して、翌々年、失意のうちに没した。袁紹の息子たちは、公孫康(こうそんこう)を利用した曹操の計略(隔岸観火の例とされる)によって根絶やしとなり、華北は魏が掌握することとなった。 Category:三十六計 Category:三国志.

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金蝉脱殻

金蝉脱殻(きんせんだっこく)は、兵法三十六計の第二十一計。「金蝉、殻を脱す」と読み下す。 敵軍が太刀打ちできないほど強大で、抵抗するほど損害が拡大するような状態のため、一時撤退して体制を立て直したいとする。この際、何の策もなく撤退すると敵軍の追撃を受ける危険性があるが、金蝉脱殻の計はこのような状態において安全に撤退するための策である。すなわち、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、あたかも現在地に留まっているように見せかけておいて主力を撤退させるのである。撤退の場合だけでなく、戦略的な目的で主力を移動させたい場合にもそのまま使える手段である。.

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苦肉計

苦肉計(くにくけい、くにくのけい)とは、兵法三十六計の第三十四計にあたる戦術。人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す計略である。日本では苦肉の策(くにくのさく)、苦肉の計(くにくのけい)、苦肉の謀(くにくのはかりごと)ともいう。.

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集英社

株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.

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連環計

連環計(れんかんけい、れんかんのけい)とは、中国の兵法書に挙げられる兵法の一つで、あたかも鎖の環が連なり合うように、複数の兵法を連続して用いるものである。複数の計で大きな効果を狙ったり、複数の勢力を連立させる等して敵内部に弱点や争点をつくりだし足の引っ張り合いをさせる兵法である。.

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陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.

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暗渡陳倉

暗渡陳倉(あんとちんそう)は、三十六計の第八計。訓読は「暗(ひそ)かに陳倉に渡る」。陳倉は地名である。.

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抛セン引玉

抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)は、兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。読み下し「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」であり、日本の諺の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。 本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうよう仕向けることを言う。転じて、自分にとっては捨ててもよいものを囮として、敵を誘き寄せる作戦を指す。.

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李代桃僵

李代桃僵(りだいとうきょう、李(すもも)が桃の代わりに僵(たお)れる)は兵法三十六計の第十一計にあたる戦術。 桃(高い価値がある果実)の木を守るために、李(桃より価値が低い果実)の木が倒れる。 損害を受けざるを得ないときには、不要な部分を犠牲にして、全体の被害を少なく抑えつつ勝利するように図る戦術のこと。 孫臏が斉の田忌に仕えたとき、威王が主催する競馬大会が開かれていた。田忌と威王にはそれぞれ上・中・下の三種類の馬がいたが、それぞれの実力は伯仲し、勝負の行方は知れない状態だった。そこで孫臏は威王の上・中・下の馬に対して下・上・中の順番で当てるように献策し、その結果最初の一頭は負けたが後の二頭は勝ったので勝負は田忌の勝ちとなった。田忌は大いに面目をほどこし、以後孫臏の知略を信頼するようになった。 上の孫臏の話は競馬で田忌に例示したのだが、北宋の蘇洵の「権書」などで解説されているように、真意は軍事の計略を示すものである。すなわち、敵の上軍には己の下軍をあて、敵の中軍には己の上軍をあて、敵の下軍には己の中軍をあてる。このようにすれば、己の下軍は犠牲となって敵の上軍に屠られるが、全体では我軍が二勝一敗となって最終的に勝利する結果となると言うものである。 ハンニバルはカンナエの戦いで、敵の中央突破に備え、中央には弱兵を置いて層を厚くし、その左右に強兵を置いた。果たして中央で敵を食い止めている間に、味方の強兵が左右の敵を蹴散らし、更に別働隊の騎兵が後ろに回りこみ包囲が完成。敵は大混乱に陥り、2倍の敵を殲滅する大勝を収めた。 りたいとうきよう.

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樹上開花

樹上開花(じゅじょうかいか)は三十六計の二十九計。「樹上に花を開(さか)す。」 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く計略。.

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檀道済

檀 道済(たん どうせい、? - 436年3月)、東晋末から宋初頭にかけての武将。檀韶・檀祗の弟。本貫は高平郡金郷県。宋の建国者である劉裕に仕え、宋第2代皇帝・少帝の後見になったが、のちにその武名を恐れた文帝によって殺害された。『三十六計』の著者http://history.news.163.com/09/0907/10/5IJPRKI600011247.htmlhttp://www.chinanews.com/cul/news/2009/07-31/1799137.shtml。.

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欲擒姑縦

欲擒姑縦(よくきんこしょう、擒(とら)える事を欲するならまず逃がせ)は兵法三十六計の第十六計にあたる戦術。 もし敵と十分な戦力差が無いならば、窮鼠猫を噛む事態を避けねばならないので、敵をわざと逃がして気が弛んだところを捕えるのが良い。追いすぎれば敵は踏みとどまって必死に反撃するが、逃げ道を与えてやればそちらに向かって逃げようとする。敵を追い詰めてはならない。敵の闘志を殺ぎ、力を失わせてからであれば容易くこれを捕えることができる。 孫子ではこれを「窮寇は追うなかれ」と表現しているのがこの事に当たる。 「姑縦」とは、敵を自由にして以後あずかり知らないという趣旨ではなく、敵の動きを捕捉しつつも急迫しないという意味である。『三国志』において蜀の軍師である諸葛亮は雲南征伐の際に南蛮王孟獲を捕えては逃がすことを繰り返しながら進軍し、七度目に逃がされたときについには孟獲も諸葛亮に心服した(七縦七擒の故事)。これは孟獲を容易く破ってみせることで武威を現し、解放してみせることで寛容性を示して南蛮一帯の諸族を一気に心服させたものであり、兵法ではない。 軍事的には、そもそも諸葛亮には、孟獲を追跡して占領地を拡大する目的があった。すなわち、分散している敵を集合させて包囲殲滅を狙ったり、あるいは逆に敵を分散させて戦闘単位を細分して各個撃破を狙ったり、もしくは本拠地を特定しようとする目的があってはじめて「姑縦」するのであって、原則としては捕虜を意味も無く再び放ってはならない。 呉の楚侵攻で、呉軍が楚軍を破り清発川に追い詰めたところで、呉の孫武は追撃の手を緩めさせた。「今追い詰めれば敵は死狂者となって戦う。しかし半分が川を渡るまで待てば、その半数は戦えず、残りの半数もなんとか逃げようとして戦わない」と見てのことであり、そのとおりに呉軍は大勝した。 Category:三十六計 Category:三国志.

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混水摸魚

混水摸魚(こんすいぼぎょ)は三十六計の第二十計。「水を混ぜて魚を摸(と)る」 水をかき混ぜて魚が混乱しているときに、その魚を狙って捕まえるという意味。 敵の内部を混乱させて(混水)、弱体化したり、作戦行動を誤らせたり、我の望む行動を取らせるよう仕向ける戦術。趁火打劫を主に敵の外患に乗じて攻めることを主眼にすると解すれば、混水摸魚は敵の内患を作出してそれに乗じるものとも言える。 『六韜』に「全軍の兵が動揺して、兵の心が一つにまとまらず、敵が強力であることを恐れ、戦争をするのは不利だと語りあい、互いに聞き耳を立て盗み見をして、噂話がやまず、互いに惑わし、法令が守られず、将軍が軽んじられているならば、その軍が弱い証拠である」とある。間者(反間計含む)を使って宣伝して人心を混乱させてこのような状況に敵を追い込んでから叩くことを狙う。 なお、この過程は直接の戦闘行為を目標に限らなくてもよく、劉備が、呉姫(孫尚香/孫仁)を娶ったり、故意に複雑な条件で交渉したりすることで、孫権を煙に巻いて、荊州の租借地を広げて西川も奪ったことなども、この混水摸魚の計の例だとされる。.

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指桑罵槐

指桑罵槐(しそうばかい)は、中国の兵法書「三十六計」の計略の一つである。三十六計中の二十六計にあたり、味方に対して行う計略だとされている。書き下して「桑を指して槐(エンジュ)を罵る」ともいう。.

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戦術

戦術(せんじゅつ、Tactics)は、作戦・戦闘において任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する術である。そこから派生して言葉としては競技や経済・経営、討論・交渉などの競争における戦い方をも意味するようになる。理論的・学問的な側面を強調する場合は戦術学とも言う。.

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易経

『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物。『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』は植物である『蓍』の茎の本数を用いた占いである。商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立した。易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされている。 中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。.

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擒賊擒王

擒賊擒王(きんぞくきんおう)は、三十六計の第十八計。 『敵を虜にしたければ、その王を捕らえるべきである(そうなれば敵軍はただの賊と同じだ)』 敵の主力を叩き、指揮官、中心人物を捕らえられれば、(末端の部隊といちいち交戦せずとも)敵を弱体化できるという、攻撃目標選択の妙と、効果判断の重要性を教える計略。 この語は、唐の詩人杜甫(とほ)の「前出塞(ぜんしゅつさい)」にある「射人先射馬 擒敵先擒王」(人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を擒えんとすれば先ず王を擒えよ)が出所である。 唐の玄宗はしきりに出兵し、各所での戦いも長引くことが多く、兵士も民衆も疲弊していた。それに対し「前出塞」は、敵の指揮官など要点を突けば消耗を少なくして目的を達成できる。そういった戦略戦術もなくいたずらに攻めるだけでは、敵味方の死傷者が多くなってしまう、という歌である。 自軍が攻め勝って優勢にあるときに、戦利品を奪うことに気を取られて、敵の精鋭部隊や首魁を始末することを忘れるなら、虎を自由にして山に帰すようなものである。敵軍の旗の位置ではなく、その動きを見て、敵の主将の位置を判断しなければならない、とされる。なお、本来の語は、「射人先射馬 擒敵先擒王」であり、将自身を捕らえずとも、その手足となっている副官級の人々を捕らえるという方式(射人先射馬)もあわせて示している。.

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故事

故事(こじ)とは、大昔にあった物や出来事。また、遠い過去から今に伝わる、由緒ある事柄。特に中国の古典に書かれている逸話のうち、今日でも「故事成語」や「故事成句」として日常の会話や文章で繁用されるものをいう。 故事成語/故事成句(こじ せいご/こじ せいく)とは、故事をその語源とする一群の慣用語句の総称。本来の中国語ではただ「成語」というが、日本では故事を語源とするものをその他の熟語や慣用句と区別するために、このような呼び方となった。 ものごとのいわれ(由来)や、たとえ(比喩)、おもい(観念)、いましめ(標語)など、面と向かっては言い難いことを婉曲に示唆したり、複雑な内容を端的に表したりする際に便利な語句で、中には日本語の単語として完全に同化したもの(「完璧」「矛盾」など)や、日本語のことわざとして定着したもの(「井の中の蛙大海を知らず」「虎の威を借る狐」など)も多い。 以下には日本でも繁用される主な故事成語を五十音順にあげた。.

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打草驚蛇

打草驚蛇(だそうきょうだ)は、中国の故事成句の一つ。また兵法三十六計の第十三計にあたる戦術。読み下しは草を打って蛇を驚かす(くさをうって へびをおどろかす)。 成句自体の意味は、草むらの中では不意に棒で草を払ったりすると蛇を驚かせる、つまり何が出てくるかわからないということ。不用意・不必要な行いは逆に思わぬ対抗措置を招くことがあるという戒めで、日本では藪蛇(やぶへび)ともいう。これが転じて、三十六計では戦地の状況がよく分からない場合には偵察を出して反応を探るという意味で用いられている。 『孫子』「行軍篇」においても、軍団の近くに険しい地形や池・窪地・山林・草木の繁茂した場所があれば慎重かつ入念に偵察するようにせよと伏兵に対する警戒を呼びかけている部分がある。 たそうきようた.

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1941年

記載なし。

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