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三遊亭圓生 (初代)

索引 三遊亭圓生 (初代)

初代三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1768年(明和5年) - 1838年4月15日(天保9年3月21日)は、落語家。通名、橘屋 松五郎。 多くの同業者から尊敬され浅草堂前に住んでいたために「堂前の師匠」「堂前のおじさん」などと呼ばれた。.

24 関係: 古今亭志ん生 (初代)天保三升家小勝三遊亭圓生三遊亭圓生 (2代目)三遊亭圓盛三遊亭圓遊三遊亭鬼丸三遊派コトバンク全生庵神田 (千代田区)烏亭焉馬落語家金原亭馬生 (初代)東生亭世楽橘家圓喬江戸明和1768年1797年1838年3月21日 (旧暦)4月15日

古今亭志ん生 (初代)

初代古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、文化6年(1809年)(逆算) - 安政3年12月26日(1856年1月21日))は、幕末期に活躍した江戸の落語家。俗称、清吉。俳名、寿耕。通称「八丁荒らしの志ん生」。 小玉屋権左衛門家に丁稚奉公をした後、文政期から初代三遊亭圓生の弟子になり初代三遊亭圓太の名で噺家になった。 のちに初代立花屋圓蔵と圓生の名跡でを争って敗れたため失意の結果旅に出たとされる。1847年に帰京し四谷忍原亭で古金亭真生を披露したが、1836年には既に古金亭志ん生で名乗っており、弘化期には新生、嘉永期では真生を名乗ることもあった。 人情咄を得意とした、得意演目には「お初徳兵衛浮き名の桟橋」「お富与三郎」「小猿七之助」などがありいずれも劇化され8代目市川團十郎が演じ評判になった。「九州吹戻し」は鈴々舎馬風から2両2文で譲り受けたといわれ、そのうまさは誰も真似できなかった、そのため後に三遊亭圓朝は弟子に一切演じるのを禁じた。 俳句も良くし「送り火や飛びつく螽追ひながら」の句を残している。 顔にはあざがあったとされ、また片目か片足が不自由でかごに乗って寄席通いをしたと伝わっている。墓所は墨田区本久寺。 門下には初代蝶花楼馬楽、2代目古今亭志ん生。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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三升家小勝

三升家 小勝(みますや こかつ)は、落語家の名跡。当代は8代目。初代から4代目までは三升亭 小勝(みますてい こかつ)と名乗っていたが、5代目の時に亭号を「三升家」と改めた。升の字は舛とも書く。 「三升」とは歌舞伎役者市川團十郎家の定紋であり(三入子升)、歴代の小勝一門も三升の紋を使用している。初代小勝が7代目市川團十郎と交流があり、三升の紋を借りて「三升亭」の亭号を名乗ったとされるが、近年では紋などは勝手に使ったという説が有力になっている。 もともとは三遊派から生まれた名跡であるが、4代目以降は柳派にあたる人物が襲名している(7代目は6代目に入門したが、師の死後に3代目三遊亭圓歌門下に移籍し、その後三升家小勝を襲名している)。かつては音曲師として名を馳せた三升家勝次郎を始めとして、勝太郎、勝栗、勝蔵、勝好、勝彌など「三升家」の家号を名乗る芸人は多かったが、現在は当代小勝とその弟子の三升家う勝の2人しかいない。.

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三遊亭圓生

三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう)は、落語家の大名跡(みょうせき)の一つ。 三遊派の流祖、本家。江戸・東京において古今の多くの落語家が名乗る「三遊亭」の亭号の源流。6代目の死後、現在に至るまで空き名跡となっている。新字体の表記しか許されないときは「三遊亭円生」とも表記される。 ----.

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三遊亭圓生 (2代目)

2代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、文化3年(1806年、逆算) - 文久2年8月12日(1862年9月5日))は、落語家。本名、尾形 清治郎(清次郎とも)または盤蔵。 本所は竪川に出生。当初は袋物渡世を営んでいた。父は尾形源蔵。最初は初代 三升亭小勝の門下で三升屋しげ次といい声色師だったともいわれる、初代 三遊亭圓生の門下で初代竹林亭虎生、三遊亭花生を経て初代立花屋圓蔵となった。 天保12年(1841年)ころ、2代目 立川焉馬の後ろ盾で2代目三遊亭圓生襲名。 始め四谷に住み頭部の形が木魚に似ているところから「よつもくの圓生」と呼ばれた。後に湯島の大根畑に移った。 弟子には初代 橘屋圓太郎、三遊亭圓朝父子がいる。圓生は圓朝につらく当たり、弟子である圓朝の出し物を先に演じてしまうなどの妨害をしたため、かえって圓朝に創作力が付いたといわれている。他に2代目 立花屋圓蔵、圓次郎(のちの三遊亭圓麗(2代目 三遊亭小圓朝の実父))、桃月庵白酒(のちの5代目 朝寝坊むらく)、三遊亭圓太(のちの初代 三遊亭新朝)、3代目竹林亭虎生(のちの6代目 船遊亭扇橋)、初代 三遊亭圓馬らがいた。 『圓朝全集』の中では、『雨夜の引窓』『畳水練』が圓生作で、他にも『累双紙』も圓生の作だという。落咄の作は2代目 立川焉馬編『昔噺 当世推故伝』(1848年)などでも知られる。怪談咄も得意とし『雪駄直し長五郎』『佐倉宗五郎』なども演じた。芸に対して熱心だったことが三遊亭圓朝の『名人くらべ』に伝えられている。 晩年は病がちになり不如意な生活を送ったが、その際、圓朝は怨みを忘れて手当てを贈った。没後も遺言に従い、三遊派が勢いを盛り返した慶応元年(1865年)3月21日(初代圓生の命日)に本葬を行なった。三遊亭圓志(本名未詳)は養子。盲目の娘は、終生圓朝が世話をしたという。 なお圓生の名跡は圓朝の弟子の初代 三遊亭圓楽が襲名した。.

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三遊亭圓盛

三遊亭 圓盛(さんゆうていえんせい)は、落語家の名。.

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三遊亭圓遊

三遊亭 圓遊(さんゆうてい えんゆう)は落語家の名跡である。三遊派の系統から生まれた名である。当代は5代目。 初代とされている圓遊は本来は3代目である。過去2人の圓遊は売れなかった訳ではなく、きちんと名を残した落語家が名乗っているのだがこの「3代目」圓遊が珍芸「ステテコ」で大人気を博し、あまりにも売れたためこのステテコの圓遊が初代ということで完全に定着した。.

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三遊亭鬼丸

三遊亭 鬼丸(さんゆうてい おにまる)は落語の名跡。当代は180年ぶりの名跡復活とのことだが実際は不明。 文化・文政時代からある古い名前で古くは東亭鬼丸という初代三笑亭可楽の門人に確認できる。過去に東亭、三笑亭など亭号もさまざまで当代も代数不明。.

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三遊派

三遊派(さんゆうは)は、江戸(東京)落語の一派。.

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コトバンク

kotobank(コトバンク)は朝日新聞社が主体となってとりまとめたインターネット百科事典。新聞社が提供するウェブサイトの特色として報道記事中の用語解説を強化し、朝日新聞サイト掲載記事にリンクする朝日新聞「新用語解説サイト「kotobank」(コトバンク)を4月23日に開設 - asahi.com提供サービス」2009年4月22日 。 2009年4月23日の正式発足時は、同社と講談社、小学館、朝日新聞出版の各社が提供するものを核とした44辞書・事典の計43万項目を網羅する。VOYAGE GROUPがサイト構築と運営を担当し、オーバーチュアの検索エンジンとインターネット広告システムを利用、検索連動型広告(キーワード広告)を収益源とする。 2011年3月より朝日新聞とジェネシックスがiPhone向け電子辞書プラットフォームアプリ「kotobank for iPhone」の配信を開始ECナビ「」2011年3月29日。.

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全生庵

前 全生庵(ぜんしょうあん)は、東京都台東区谷中五丁目にある臨済宗国泰寺派の寺院。山号は普門山。本尊はかつて江戸城の守り本尊だった葵正観世音菩薩。開基は山岡鉄舟。 落語を代表する名人・初代三遊亭圓朝の墓があり、毎年8月11日近辺に、本庵、落語協会、円楽一門会のそれぞれが本庵にてイベントを開催する。.

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神田 (千代田区)

(かんだ)は、東京都千代田区北東部の地区の地名である。旧東京市神田区。.

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烏亭焉馬

烏亭 焉馬(うてい えんば、寛保3年(1743年)- 文政5年6月2日(1822年7月19日))は、江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖とも言われる。本名は中村英祝。和泉屋和助の通称があったが、住まいの相生町の堅川をもじった「立川焉馬」や、親交のあった5代目市川団十郎をもじって「立川談洲楼」または「談洲楼焉馬」と名乗ることもあった。また、狂歌においては、「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」の号を用いることもあった。.

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落語家

落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。 落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。.

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金原亭馬生 (初代)

初代 金原亭馬生(きんげんてい ばしょう、? - 1838年8月26日)は、落語家。俗称を銀次郎。号は家猿、牡丹。実弟は歌舞伎役者の4代目坂東三津五郎(11代目守田勘彌)。 初代三遊亭圓生に入門し、三遊亭圓遊(本来の初代、または三遊亭圓勇)を名乗り、後に初代金原亭馬生襲名。道具入芝居掛続物の元祖となった。弟の4代目三津五郎や2代目關三十郎の物真似が得意だったという。 天保時代には大名屋敷に呼ばれ余興で噺家による芝居を上演しておりこれが鹿芝居のルーツといわれている。.

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東生亭世楽

東生亭または三笑亭 世楽(とうしょうてい/さんしょうてい せらく)は落語の名跡。当代は200年ぶりの名跡復活とのことだが実際は不明。「世楽」の読みも実際は不明。2013年5月に初代三笑亭夢丸門下の三笑亭月夢が「3代目三笑亭世楽(さんしょうていせらく)」として襲名し、翌年「3代目東生亭世楽(とうしょうていせらく)」となる。.

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橘家圓喬

橘家圓喬(たちばなや えんきょう)は落語の三遊派の名跡。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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1768年

記載なし。

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1797年

記載なし。

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1838年

記載なし。

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3月21日 (旧暦)

旧暦3月21日は旧暦3月の21日目である。六曜は大安である。.

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4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

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