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三十人政権

索引 三十人政権

三十人政権(さんじゅうにんせいけん、Thirty Tyrants)とは、ペロポネソス戦争に敗れたアテナイで成立した寡頭政の政権。三十人僭主(さんじゅうにんせんしゅ)とも呼ばれる。三十人僭主という呼び名が最初に使われたのは、アテナイの弁論作家ポリュクラテスが民主派のトラシュブロスを讃えた弁論だと言われている。 およそ1年で崩壊した。メンバーには過激派の急先鋒クリティアス、穏健派の、アポロドーロスの息子カリクレスなどがいた。.

29 関係: 寡頭制ペロポネソス戦争メトイコイリュシアストラシュブロス (将軍)トゥキディデスプロタゴラス (対話篇)パウサニアス (スパルタ王)ピレウスフュレーアテナイアテーナイのアポロドーロスエレウシスカリクレス (政治家)カルミデスギリシア史クリティアス (三十人僭主)クセノポンスパルタ第七書簡紀元前403年紀元前404年貴族藤縄謙三恐怖政治恩赦桜井万里子民主政戦史 (トゥキディデス)

寡頭制

寡頭制または寡頭政(かとうせい、ὀλῐγ-αρχία.)は、全部または大半の政治権力を、特定の少数の人々が握っている政体。少数者支配の体制であり、対比語は多頭制(多数支配)である。寡頭制は君主制や独裁制のほか共和制や民主制でも存在する。なお権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、4名の場合はテトラルキアともいう。.

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ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路 ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、Πελοποννησιακός Πόλεμος、Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年)は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。.

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メトイコイ

メトイコイ(Μέτοικος)は、古代ギリシアにおいて外国人を指す言葉。単数形はメトイコス。語源は、メタ(ともに)とオイコス(家)の合成である「ともに住む者」という語から来ている。メタは移動の意味もあり、動詞のメトイケオーもしくはメタオイケオーは「移り住む」という意味になる。日本語では居留外国人、メティックなどの表記もある。 古典期のアテナイにおいては、市民、メトイコイ、奴隷の3つの身分があった。メトイコイとは、次のような外国人を指す。アテナイに一定期間滞在し、村落の行政単位であるデーモスに登録され、参政権や不動産所有権(エンクテシス)はなく、人頭税(メトイキオン)を納め、兵役に服し、公共奉仕(レイトゥルギア)に指名される人々である。.

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リュシアス

リュシアス(Λυσίας,, 紀元前445年頃 - 紀元前380年)は、古代ギリシアの弁論作者(ロゴグラフォス)で、アッティカ十大雄弁家の一人。アテナイで活躍した。.

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トラシュブロス (将軍)

トラシュブロス(ギリシャ語:Θρασύβουλος, 紀元前440年頃 - 紀元前388年)は、アテナイの将軍で民主政支持者。寡頭政の政権である三十人僭主と戦った。旅行家のパウサニアスは『ギリシア案内記』において、トラシュブロスをアテナイの名士で最優秀の人物と評している。 トラシュブロスはスティリア区の出身で、紀元前411年にアテナイ海軍の将軍を務めた。ペロポネソス戦争でアテナイはスパルタに敗れ、和平締結後に親スパルタの寡頭政政権である三十人政権が成立した。トラシュブロスはテーバイに亡命し、三十人政権の恐怖政治によってアテナイの貴族、富裕層や対立勢力は粛清され、在留外国人であるメトイコイたちも財産没収や処刑の憂き目にあった。 三十人政権への批判が高まり、トラシュブロスは民主派の指導者として内戦を始める。まずアッティカ北部のフュレーの要塞を占拠し、寡頭派の討伐軍を撃退する。トラシュブロスは味方を増やしてペイライエウスのムニキアへ進軍し、勝利を重ねる。のちにスパルタ軍が寡頭派の支援に到着すると民主派は苦戦し、トラシュブロスはメトイコイや奴隷たちに支援を呼びかけ、彼らに市民と同等の税負担の特権(イソテレイア)を与えると約束した。 内戦は、スパルタ王のパウサニアスによって調停され、結果的にアテナイは民主政に戻った。トラシュブロスは大赦を与えて和解を進めるとともに、ペイライエウスから帰った民主派の全参加者に市民権を認めようとしたが、実現はしなかった。紀元前401年にエレウシスに逃れていた三十人政権とも和解し、トラシュブロスは民主政側で内戦に参加した非市民に以下のような報奨を提案し、実現した。.

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トゥキディデス

トゥキディデス(古典ギリシア語の母音の長短を考慮して音訳するとトゥーキューディデース。その他、トゥキュディデス、ツキジデスなどとカナ表記される。希:Θουκυδίδης、ラテン文字表記:Thukydides/Thucydides、紀元前460年頃 - 紀元前395年)は、古代アテナイの歴史家で、オロロス(Olorus)の子である。.

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プロタゴラス (対話篇)

『プロタゴラス』(プロータゴラス、Πρωταγόρας、Protagoras)とは、プラトンの初期対話篇の1つ。副題は「ソフィストたち」。.

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パウサニアス (スパルタ王)

パウサニアス(希:Παυσάνιας、ラテン文字転記:Pausanias、在位:紀元前445年 - 紀元前428年、紀元前409年 - 紀元前394年)はアギス朝のスパルタ王である。 パウサニアスは先王プレイストアナクスの子で、次代の王アゲシポリス1世の父である。戦争の際の不手際により裁判にかけられてプレイストアナクスが追放された時に、パウサニアスは叔父クレオメネスの後見の下で名目的にではあるが王位についた。紀元前428年にスパルタに呼び戻されると再びプレイストアナクスが王位につき、紀元前409年のプレイストアナクスの死後にパウサニアスは再び王位についた。 パウサニアスはペロポネソス戦争の最後を指導した。彼は紀元前405年に共同統治者のアギス2世と共にアテナイ封鎖を指揮し、アテナイを降伏に追い込んだ。ペロポネソス戦争の後、アテナイでは親スパルタの寡頭政府三十人政権が成立したが、将軍トラシュブロスら民主派が反旗を翻した。紀元前403年にパウサニアスは民主派を粉砕するために軍と共にアッティカへ送られた。彼はアテナイの民主派と矛を交えはしたものの、クセノポンによればかねてより対立していた将軍リュサンドロスへの嫉妬から、またパウサニアスによればアテナイの窮状を哀れんで手ぶらで戻り、三十人政権から手を引き、アテナイの党派抗争を仲裁した。これによって息を吹き返したアテナイの民主派によってアテナイでは民主政が復活した。この件でパウサニアスはスパルタで告訴されたが無罪を勝ち取った。 コリントス戦争に際して、紀元前394年にパウサニアスとリュサンドロスはそれぞれ一軍を率いてボイオティアに侵攻した。しかし、パウサニアス隊の遅延のためにリュサンドロス隊はハリアルトスの戦いで敗れ、リュサンドロスは戦死してしまった。戦いの後に到着したパウサニアスは一度はボイオティア軍と戦おうとはしたが、トラシュブロス率いるアテナイ軍の接近を知り、挟み撃ちを恐れてテバイと休戦条約を結んで戦死者の遺体を回収して帰った。援軍が間に合わずにリュサンドロスを死なせてしまったこと、戦いもせずに帰ったこと、さらにためにアテナイの民主派への協力的な態度から、パウサニアスは死刑の宣告を受けたが、刑の執行の前にテゲアに亡命した。.

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ピレウス

ピレウス(Πειραιάς / Pireás)は、ギリシャのアッティカ地方にある港湾都市で、アテネの首都圏を構成する。古代にはペイライエウス (Πειραιεύς / Peiraieús)と呼ばれ、アテナイの外港都市として発展した。アテネ市中心部から南西12km、サロニコス湾の東に位置する。今日ではエーゲ海の島々への船が、ピレウス港から出ていて、エーゲ海クルーズの拠点である。ピレウスは2011年時点ではギリシャ第4の都市であり、アテネ首都圏ではアテネに次いで人口が多い。はギリシャ最大の港で、年間2000万人が利用するヨーロッパ最大且つ世界第2位の旅客港である。貨物でも年間140万TEUを誇り、ヨーロッパ上位10港且つ東地中海最大である。1896年と2004年のアテネオリンピックで会場となった。 現代ギリシャ語での発音は であり、ピレアスと転記される。このほか、ピレエウス、ピラエウス、ピレエフスなどとも表記される。.

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フュレー

フュレー(組、φυλή、Phyle)は、古代ギリシアの諸都市国家(ポリス)における行政的・軍事的構成区分を表す言葉。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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アテーナイのアポロドーロス

アテーナイのアポロドーロス(Απολλόδωρος ο Αθηναίος,, Apollodorus of Athens, 紀元前180年頃 - 紀元前120年以降)はアスクレピアデスの子で、古代ギリシアの文法学者。長母音を省略してアテナイのアポロドロスとも表記される。 ストア派の哲学者であるバビロンのディオゲネス(:en:Diogenes of Babylon)、パナイティオス(:en:Panaetius)ならびに文法学者のサモトラケのアリスタルコス(:en:Aristarchus of Samothrace)の弟子だった。紀元前146年頃、アレクサンドリアを離れ(あるいは追放され)、おそらくペルガモンで長く過ごした後、アテーナイに定住した。 アテーナイのアポロドーロスには、以下のような著作がある。.

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エレウシス

レウシス(Ἐλευσίς / Eleusis)は、古代ギリシアのアテナイに近い小都市。ギリシア神話に登場する女神デーメーテールの祭儀の中心地として知られる。また、古代の悲劇詩人アイスキュロスの生誕地でもある。 現在はエレフシナ(現代ギリシャ語: Ελευσίνα / Elefsina)と呼ばれる。ギリシャ共和国アッティカ地方に属する基礎自治体(ディモス)であり、西アッティカ県の県都である。.

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カリクレス (政治家)

リクレス(Χαρικλῆς / Charicles、生没年不明)は、紀元前5世紀アテナイの政治家である。 カリクレスはアポロドロスの子である。ペロポネソス戦争中の紀元前415年のヘルメ像破壊事件においてカリクレスはその調査官の一人の一人になり、紀元前413年には春の始まりと共にアルゴスより兵を集めた後、シケリアへの増援として向かうデモステネスに彼らを渡すという任を受け、ペロポネソス半島へと30隻の艦隊とともに派遣された。カリクレスとデモステネスはアルゴスで合流してケルキュラへと向い、ケルキュラに守備隊を配置した後にカリクレスは帰国した。ペロポネソス戦争の敗戦後、スパルタの支援で紀元前404年に三十人政権が発足すると、カリクレスはその一員となった。ところが、紀元前403年にトラシュブロスら民主派がアテナイの外港ペイライエウスに篭って三十人政権に挑戦し、鎮圧に向った三十人政権の中心人物クリティアスはペイライエウスでの戦いで戦死した。他の三十人政権のメンバー(恐らくカリクレスも含まれている)はエレウシスに逃れて傭兵を集めたが、それを察知した民主派の攻撃を受けた後、放免された。その後カリクレスがどうなったのかについては史料は沈黙している。 また、三十人政権時代にソクラテスの政治家批判の発言を聞いたカリクレスはクリティアスと共にソクラテスに若者との会話を禁じたとも言われる。.

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カルミデス

『カルミデス』(カルミデース、Χαρμίδης、Charmides)とは、プラトンの初期対話篇の1つ、またその中の登場人物。副題は「節制について」。.

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ギリシア史

『ギリシア史』あるいは『ヘレニカ』(Ἑλληνικά、Helleniká)は、古代ギリシアの著述家クセノポンが著した歴史書である。原著は全7巻で、トゥキディデスの『戦史』を引き継いで、紀元前411年から紀元前362年までの約50年にわたるギリシアの各ポリスの動向を扱っている。.

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クリティアス (三十人僭主)

ライスクロスの子クリティアス(Κριτίας,英:Critias, 紀元前460年頃 - 紀元前403年)は、プラトンの母親の従兄で、アテナイの哲学者・政治家である。ソクラテスの弟子にあたり、アテナイの三十人僭主政治(三十人政権)の指導者となった。母親は、弁論家・政治家アンドキデス(Andokides, 紀元前440頃(467?)–390頃)の父レオゴラス(Leogoras, 紀元前5世紀)の母の姉妹である。プラトンや賢者ソロンとの血縁については、クリティアス (プラトンの曾祖父)参照のこと。.

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クセノポン

ノポン クセノポン(クセノポーン、Ξενοφών、Xenophon、紀元前427年?-紀元前355年?)は、古代ギリシアの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身。クセノフォンとも。 クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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第七書簡

『第七書簡』(だいななしょかん、Ἐπιστολή ζ'、Epistula VII、Epistle VII, Seventh Epistle, Seventh Letter)は、プラトンの『書簡集』中の書簡の1つ。 『書簡集』全体の半分以上を占める程の文量の多さ、歴史的・哲学的記述の豊富さ、また自叙伝のごときその内容から、対話篇以外における、プラトン個人に関する最も信頼できる文献資料とされ、プラトン研究の文献においては、とても頻繁に参照・引用される。.

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紀元前403年

紀元前403年は、ローマ暦の年である。当時は、「マメルキヌス、ウアルス、ポティトゥス、ルルス、クラッスス、フススが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元351年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前403年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前404年

紀元前404年は、ローマ暦の年である。当時は、「ウォルスス、コッスス、フィデナス、アムブストゥス、マルギネンシス、ルティルスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元350年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前404年と表記されるのが一般的となった。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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藤縄謙三

藤縄 謙三(ふじなわ けんぞう、1929年12月15日 - 2000年10月4日)は、西洋古典学者、主にホメロスからエウリピデスまでの古代ギリシアの思想史及び社会史の研究や、ギリシア史学史研究の著述を行った。京都大学学術出版会の〈〉発足刊行にも、中心的な役割を果した。 新潟県生まれ。1953年京都大学文学部史学科卒、1955年同大学院文学研究科修士課程終了。博士課程退学後、大阪府立大学教育学部助手、教養学部助手、講師、助教授を経る。1970年に京都大学助教授、1979年教授(西洋史学第一講座)を経て、1993年の停年退官、名誉教授。京都女子大学教授も務めた。2000年春に、トゥキディデス『歴史.1』を刊行するが、同年秋に没した。 なお2巻目は2003年に、弟子にあたる城江良和訳で刊行。他に弟子は南川高志(古代ローマ史専攻、京都大学教授)らがいる。.

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恐怖政治

恐怖政治(きょうふせいじ)とは、.

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恩赦

恩赦(英:Pardon、おんしゃ)とは、行政権(又は議会)により国家の刑罰権の全部又は一部を消滅若しくは軽減させる制度のことを言う。赦免復権とも。 現在はその権限が行政機関に帰属する例が多いが、フランスなどのように議会(立法機関)に一般的な恩赦の権能を与え、行政機関に個別的な恩赦の権能を与える仕組みになっていることもある。現在、共和制・君主制、大統領制・議院内閣制の政体の差に関係なく、多くの国で行われているhttp://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20170309/frn1703091130003-n1.htm。.

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桜井万里子

櫻井 万里子(さくらい まりこ、1943年7月26日 - )は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。ロンドン大学キングズ・カレッジ客員教授。専門は古代ギリシア史。博士(文学)(東京大学、1999年)(学位論文「古代ギリシア社会史研究」)。 単著の『古代ギリシアの女たち』や『ソクラテスの隣人たち』で、女性やメトイコイ(在留外国人)をテーマとした動機として、スタンフォード大学の客員研究員としてカリフォルニアに住んだ際のカルチャーショックをあげている。.

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民主政

民主政(みんしゅせい、democracy)とは、ルソーの『社会契約論』によれば、その執政体(政府)の構成員が市民全体の半数以上であるような統治のことである。.

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戦史 (トゥキディデス)

『戦史』(せんし、Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου、History of the Peloponnesian War、ペロポネソス戦争史)は、古代ギリシアのアテナイ出身の歴史家トゥキディデスが著した歴史書である。.

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