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ヴォイスラヴ・コシュトニツァ

索引 ヴォイスラヴ・コシュトニツァ

ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(Војислав Коштуница / Vojislav Koštunica, 1944年3月24日 -)は、セルビアの政治家。ユーゴスラビア連邦共和国最後の大統領。セルビア共和国首相(セルビア・モンテネグロ時代の2004年から分離独立後の2008年まで)を歴任。現在はセルビア民主党党首。博士号を持つ憲法学者。.

49 関係: 博士モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)ユーゴスラビア連邦共和国ヨシップ・ブロズ・チトーボリス・タディッチベオグラードベオグラード大学コソボスロボダン・ミロシェヴィッチスヴェトザル・マロヴィッチセルビアセルビアの首相セルビア・モンテネグロセルビア共和国 (1992年-2006年)セルビア社会党セルビア民主党 (セルビア)セルビア急進党ゾラン・ジンジッチ党首国際連合首相色の革命連邦欧州連合民主党 (セルビア)政治家憲法10月7日12月28日12月30日1944年1970年1974年1989年1992年2000年2002年2003年2004年2006年2008年2月5日3月14日3月24日3月3日3月7日6月5日7月7日9月24日

博士

博士(はくし、はかせ)は、人類が保有する教育機関・体系の中で与えられる学位のうち最高位のものである(博士の学位参照)。英語からドクターともいい、世界の教育レベルを分類しているISCEDでは最高位のレベル8、欧州資格フレームワーク (EQF) でも最高位のレベル8と定義されている。戦前の日本においては原則として博士号授与機関は帝国大学に限られ、その希少性から「末は博士か大臣か」と詠われるほど市井において高く評価され、学位の保持者に対しては敬意が表されていた。現在でも旧帝国大学(北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大)にて博士号を取得し大学・研究機関・大企業・公共団体などで活躍する割合は人口割合で10,000人に2.7人であり希少性が高く非常に大きな敬意が払われている。後述するように法学、経済学、文学などの文系や、理学、工学、医学、薬学などの理系などの各学問分野に渡っている。 博士 (en:Doctor) の学位は、国によって多少の差異はあるものの国際的に最高位の学位として位置づけられているが、日本では学校教育法第104条により大学など高等教育機関や学位授与機関(日本においては独立行政法人大学評価・学位授与機構)における修士およびそれと同等の学力があると認められた者が、大学院の博士課程あるいは博士後期課程において主軸となる研究テーマについて研究を行い、その内容を学位論文として執筆し、最高学位に相応しいと授与機関から認められることで取得できる(甲博士、通称は課程博士もしくはコースドクター)。また、論文審査により高度な研究能力があると認定された者にも授与されることがある(乙博士、通称は論文博士と称する)。 博士の取得方法としては、上記の甲博士に相当するように博士課程に在籍して学位審査に合格、修了した者に授与される課程博士と、乙博士に相当するように在学しないまま学位審査に合格した者に授与される論文博士がある。また、学位ではないが、名誉称号としての名誉博士なども存在する。外交儀礼上、各国政府要人等が博士号取得者である場合、官名の後に博士閣下と敬称する事例が見受けられる。.

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モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)

モンテネグロ共和国(モンテネグロきょうわこく、セルビア語:)は、ユーゴスラビア連邦共和国および国家連合セルビア・モンテネグロの構成国として1992年から2006年まで存続した国家。モンテネグロは2006年に独立を宣言し、セルビア・モンテネグロは解体された。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)の崩壊の後、連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国は連邦国家ユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)を結成することで合意した。新しい連邦は公式には共産主義による支配を否定し、民主的な国家であるとされた。モンテネグロは2003年までユーゴスラビア連邦共和国の構成国であったが、この時に連邦は国家連合セルビア・モンテネグロへと改変された。国家連合は2006年に解体され、モンテネグロは独立国となった。.

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ユーゴスラビア連邦共和国

ユーゴスラビア連邦共和国のパスポート。2009年12月31日まで有効とされた。 ユーゴスラビア連邦共和国(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、セルビア語・セルビア・クロアチア語:Савезна Република Југославија; СРЈ / Savezna Republika Jugoslavija; SRJ)は、1992年から2003年まで存続したバルカン半島中部の連邦国家である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立していった後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。 2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロ、セルビアの両国はともに独立国となった 。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人、モンテネグロ人であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人、マジャル人、ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった。 ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家とは認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。.

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ヨシップ・ブロズ・チトー

ヨシップ・ブロズ・チトー、またはヨシップ・ブロズ・ティトー(セルビア・クロアチア語: 、1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。 本名はヨシップ・ブロズ。「チトー(Tito)」という名前は、「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタになることもあった。.

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ボリス・タディッチ

ボリス・タディッチ(Борис Тадић・Boris Tadić, 1958年1月15日 - )は、セルビア共和国の政治家、心理学者。セルビア・モンテネグロ時代より同国大統領を8年にわたって務めた。民主党に所属している。2004年7月のセルビア大統領選挙で勝利、2008年2月に再選された。2012年4月に任期途中で辞任(後述)。.

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ベオグラード

ベオグラード(セルビア語:Београд / Beograd、、ハンガリー語では:Belgrád / Nándorfehérvár )は、セルビア共和国の首都であり、最大都市である。ベオグラードはバルカン半島、パンノニア平原の中にあり、ドナウ川とサヴァ川の合流地点に広がっている。2007年の公式の推計による人口は1,756,534人であった。かつてはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であり、旧ユーゴスラビア地域で最大の都市である。また、ドナウ川沿いでは2番目に大きく、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレストに次いで4番目に大きい。 ヨーロッパでも最古の都市の1つであり、考古学的な調査では、同地における人の居住は紀元前6千年紀にまでさかのぼる。ベオグラード広域都市圏の域内はヴィンチャ文化と呼ばれる、ヨーロッパ最大の前史文明の発祥の地である。町はギリシャ人に発見されhttp://p104.ezboard.com/Skordiski/fistorijabalkanafrm27.showMessage?topicID.

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ベオグラード大学

大学の正門 ベオグラード大学の植物園に日本庭園 ベオグラード大学(ベオグラードだいがく、Univerzitet u Beogradu)とは、 セルビアのベオグラードにある大学である。.

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コソボ

ボ共和国(コソボきょうわこく、Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。.

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スロボダン・ミロシェヴィッチ

ボダン・ミロシェヴィッチ(中央)。デイトン合意の調印の場にて スロボダン・ミロシェヴィッチ(Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日)は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。.

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スヴェトザル・マロヴィッチ

ベトザル・マロヴィッチ(セルビア語:Svetozar Marović、1955年3月21日 - )は、モンテネグロの政治家。2003年から2006年まで存在した国家連合セルビア・モンテネグロの大統領を務めた。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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セルビアの首相

ルビアの首相(セルビアのしゅしょう)は、セルビア共和国における行政府の長である。.

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セルビア・モンテネグロ

ルビア・モンテネグロ(Србија и Црна Гора (СЦГ) / Srbija i Crna Gora (SCG).)は、東南ヨーロッパに存在した連邦国家。ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年にユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。.

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セルビア共和国 (1992年-2006年)

ルビア共和国(セルビアきょうわこく、セルビア語:Република Србија / Republika Srbija)は、1990年から1992年までのユーゴスラビア社会主義連邦共和国、1992年から2003年までのユーゴスラビア連邦共和国、2003年から2006年までのセルビア・モンテネグロの構成国である。2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロ国家連合を離脱し独立国家となったことにより、セルビアも独立国家となった。 セルビア社会主義共和国は1990年、ユーゴスラビア共産主義者同盟の崩壊に伴って、社会主義体制を放棄した。新しい憲法が制定され、その中でセルビアはユーゴスラビアの枠内で民主主義体制をとる共和国であるとされた。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が1992年に解消されたのに伴い、ユーゴスラビアに留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、共産主義を放棄し、民主主義に基づく、2国から成る新しいユーゴスラビア連邦を結成することを望んだ。この新しいユーゴスラビアはユーゴスラビア連邦共和国と呼ばれるようになった。セルビア社会主義共和国は1990年より「セルビア共和国」へと改称されていたが、旧共産主義者同盟の政治家らはその後10年間に渡って、ユーゴスラビア共産主義者同盟の下部組織であるセルビア共産主義者同盟を改組したセルビア社会党として政権の座に留まった。セルビアは、その人口および面積でモンテネグロを圧倒しており、事実上、新しいユーゴスラビア連邦において支配的な地位を占めていた。しかし、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、外交等を共通化するほかは、内部的にはそれぞれ独自に機能していた。連邦の政府にはセルビア人と共にモンテネグロ人もいた。.

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セルビア社会党

ルビア社会党(セルビアしゃかいとう、Социјалистичка партија Србије または Socijalistička partija Srbije)は、セルビア共和国の政党。左翼ナショナリズムを掲げる社会主義または民主社会主義政党と考えられている。 1990年、スロボダン・ミロシェヴィッチの指導下でセルビア共和国共産主義者同盟(ユーゴスラビア共産主義者同盟のセルビア部分)とセルビア勤労人民社会主義同盟(統一戦線組織・ユーゴスラビア勤労人民社会主義同盟のセルビア部分)が合同して結成された。同年のセルビア共和国初の複数政党制に基づく自由選挙では250議席中、194議席を獲得し圧勝した。以降、セルビア急進党などの極右民族主義勢力とも提携しながら権威主義的かつ一党優位政党制的な与党としてミロシェヴィッチ政権を支え、クロアチア紛争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争などで政権の大セルビア主義的な政策を支持した。 なお経済・福祉政策では、ユーゴスラビア共産主義者同盟時代の自主管理社会主義を引き継いで市場社会主義を採っていた。その後、徐々に民間セクターを拡大していった。 2000年にミロシェヴィッチが追放される(ブルドーザー革命)と、セルビア社会党も下野し、同年の国民議会選挙では議席を急減させて250議席中37議席を獲得するにとどまった。以降、2003年の議会選挙では22議席、2007年の議会選挙ではさらに後退して16議席と、退潮に歯止めがかからない状態となった。 しかし2008年の議会選挙では党勢をやや回復して20議席を獲得した。選挙後、それまでの民族主義的な政策を抑えて社会主義的な主張を前面に押し出し、福祉政策などを軸にボリス・タディッチ大統領率いる民主党などの穏健派・親欧米派との連立政権を樹立、8年ぶりに小政党ながら与党の一角に復帰することになり党首を副首相とした。ダチッチは党改革を進め「脱ミロシェヴィッチ」をアピールした。 2012年の議会選挙では統一年金党、統一セルビアと組んで44議席と議席を大幅に回復。ダチッチは交渉の末・穏健右派のトミスラヴ・ニコリッチ新大統領が率いるセルビア進歩党に提携相手を切り替え、首相に就任した。 なお社会主義インターナショナルへの加盟を希望しているが、ミロシェヴィッチ時代の独裁的なイメージやボスニア・ヘルツェゴビナの加盟政党からの反対があり、加盟のめどは立っていない。.

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セルビア民主党 (セルビア)

ルビア民主党(セルビアみんしゅとう、セルビア語:Демократска странка Србије または Demokratska stranka Srbije、略称:DSS)は、セルビアの保守政党。穏健な民族主義者とみられている。 1992年、民主党を離党したヴォイスラヴ・コシュトニツァが結成。中道左派化した現在の民主党に対し、セルビアにおける歴史的な民主党の後継者を自認している。だが90年代のあいだは党勢は低迷していた。 しかしコソボ紛争などでスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア社会党の政権が揺らぐなか、2000年に結成されたセルビア民主野党連合において、これまでゾラン・ジンジッチやヴク・ドラシュコヴィッチらが同じ反ミロシェヴィッチ派にもかかわらず互いに政敵で内紛が絶えなかったところで、野党勢力内の政争に縁が薄かったコシュトニツァに白羽の矢が立ち、ユーゴスラビア連邦共和国の大統領選挙でついにミロシェヴィッチを倒した。ミロシェビッチは当初、選挙結果を認めない姿勢を見せていたが、街頭デモに屈することとなった(ブルドーザー革命)。続くセルビアの国民議会選挙では、セルビア民主党や民主党を軸としたセルビア民主野党連合が250議席中、過半数を上回る176議席を獲得して圧勝。うちセルビア民主党は45議席を獲得した。 コシュトニツァはユーゴ大統領としてはセルビア民主党の路線に基づいて民族主義・国家主権を重視する立場だったとされ、親欧米派のジンジッチ・セルビア首相が主導して旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷にミロシェヴィッチの身柄を憲法に違反して移送した際、不快感を示している。 2003年、ユーゴスラビア連邦共和国がセルビア・モンテネグロとなり、連邦政府の役割が縮小されると、こんどはコシュトニツァは実権のあるポストであるセルビアの首相をめざすようになった。同年の国民議会選挙ではセルビア民主党が第2党となり、第1党の極右・セルビア急進党は連立対象にならないため、コシュトニツァがユーゴ大統領から横滑りする形で中道から穏健保守を結集してセルビアの首相となった。しかし2008年の国民議会選挙では民主党、セルビア再生運動、G17プラス、地域政党などが結集した政党連合「ヨーロッパ・セルビアのために」に敗れ、首相ポストも明け渡すこととなった。 現在、保守政党の国際組織・国際民主同盟に加わっている。.

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セルビア急進党

ルビア急進党(セルビアきゅうしんとう、 または Srpska radikalna stranka、略称:SRS)はセルビアの政党。大セルビア主義を掲げる極右の民族主義政党とみられている。 1991年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が解体しセルビア共和国でも民族主義が勃興していくなか、ヴォイスラヴ・シェシェリらによって創設。第二次世界大戦におけるセルビア民族主義ゲリラ組織チェトニックの伝統を引き継ぐと主張した。スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア社会党とは対外姿勢においては民族主義、大セルビア主義では一致していたが、内政においては不一致が多く、連立政権の樹立と離脱を繰り返していた。 ユーゴスラビア紛争、なかでもクロアチア紛争およびボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、セルビア急進党は民兵を組織し、民族浄化にあたった。このためシェシェリ党首はミロシェヴィッチ政権崩壊後の2003年に戦争犯罪および人道に対する罪の容疑で旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送された。しかしシェシェリは党首および国民議会議員には留まっている。 2008年のセルビア大統領選挙においては、収監中のシェシェリ党首に代わってトミスラヴ・ニコリッチを擁立したが、親欧派・中道左派のボリス・タディッチ(民主党)に僅差で敗れた。直後の国民議会選挙では78議席を獲得し、第2勢力となった。しかし選挙後にニコリッチはシェシェリと対立し、セルビア急進党を割ってより穏健なセルビア進歩党を旗揚げした。.

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ゾラン・ジンジッチ

ゾラン・ジンジッチ(Зоран Ђинђић、ラテン文字表記:Zoran Đinđić、Zoran Djindjićと綴られることも、1952年8月1日 - 2003年3月12日)は、セルビア・モンテネグロの政治家。ベオグラード市長、セルビア共和国首相を務めた。また哲学博士でもあった。.

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党首

党首(とうしゅ)は、政党の最高職を指すものである。.

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国際連合

国際連合(こくさいれんごう、United Nations、联合国、聯合國、Organisation des Nations unies、略称は国連(こくれん)、UN、ONU)は、国際連合憲章の下、1945年に設立された国際機関である。 第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえ、1945年10月24日、51ヵ国の加盟国で設立された。主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現である。 英語表記の「United Nations」は、第二次世界大戦中の枢軸国に対していた連合国が自陣営を指す言葉として使用していたものが継続使用されたものであるが、日本語においては誤訳され「国際連合」と呼ばれる。 2017年5月現在の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中では、敵国条項が存在するなど第二次世界大戦の戦勝国の色が強いものの、最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。.

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首相

首相(しゅしょう、英語:prime minister)は、首席の宰相ないし大臣を意味し、特に、議院内閣制において行政府たる内閣において首席の大臣を指す。行政府の長。国家元首やその代理人としての総督よりも儀礼上は下位に位置する。.

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色の革命

色の革命(いろのかくめい)、カラー革命(Color revolutions)、もしくは花の革命(はなのかくめい、Flower revolutions)とは、2000年ごろから、中・東欧や中央アジアの旧共産圏諸国で起こった一連のアメリカ(CIA)主導の政権交代を総体的に指す。色の革命では、その象徴として色や花が当てはめられた。 これらの動きとして挙げられるのは、ユーゴスラヴィア、とくに2000年のセルビアにおけるブルドーザー革命や、2003年グルジアのバラ革命、2004年ウクライナのオレンジ革命、そして暴力が多く用いられたが、2005年キルギスのチューリップ革命がある。いずれも問題とされていた選挙の結果を受けて大群衆が街頭で抗議行動を実施し、反体制派から独裁者とされていたそれぞれの国の指導者の辞任や打倒につながった。 それらの運動の背後ではジョージ・ソロスの主宰する「ソロス財団」が関与するなど、“独裁・圧政的な政権”に対する“民主化ドミノ”(=政治体制親米化)を起こさせたいアメリカ合衆国国務省の存在が繰り返し囁かれている(#ソロス財団とアメリカの影響)。 「色の革命」地図.

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連邦

連邦(れんぽう、)とは、2つ以上の国(州)が1つの主権の下に結合して形成する国家形態である。.

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欧州連合

欧州連合(おうしゅうれんごう、、略称:)は、マーストリヒト条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。 欧州連合では欧州連合条約の発効前に調印されていた単一欧州議定書によって市場統合が実現し、またシェンゲン協定により域内での国境通過にかかる手続きなどの負担を大幅に削減した。さらに欧州連合条約発効後によって外交・安全保障分野と司法・内務分野での枠組みが新たに設けられ、ユーロの導入による通貨統合が進められている。このほかにも欧州議会の直接選挙が実施されたり、欧州連合基本権憲章が採択されたりするなど、欧州連合の市民の概念が具現化されつつある。加盟国数も欧州経済共同体設立を定めたローマ条約発効時の6か国から、2013年7月のクロアチア加盟により28か国にまで増えている。.

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民主党 (セルビア)

民主党(みんしゅとう、Демократска странка または Demokratska stranka、略称:ДС または DS)は、セルビア共和国の政党。社会民主主義を掲げる親EUの中道左派政党。.

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政治家

政治家(せいじか)とは、職業として政治に携わっている者のことである。.

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憲法

憲法(けんぽう)とは、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。一般的に国家は個々の国民に生殺与奪の権利を認めない。なお、法規範ではなく国家の政治的統一体の構造や組織そのものを指す場合もあり(事実的意味の憲法)佐藤幸治『憲法』青林書院 16~17頁、このほか憲法は多義的な概念として論じられる。国家における統治機構や統治者や為政者、また国民の義務や権利に加え、前文に「国」の成り立ちや政府樹立の目的、さらには「神」について記載されたりもする。.

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10月7日

10月7日(じゅうがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から280日目(閏年では281日目)にあたり、年末まであと85日ある。.

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12月28日

12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。.

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12月30日

12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。.

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1944年

記載なし。

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1970年

記載なし。

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1974年

記載なし。

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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2月5日

2月5日(にがついつか)はグレゴリオ暦で年始から36日目に当たり、年末まであと329日(閏年では330日)ある。.

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3月14日

3月14日(さんがつじゅうよっか、さんがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から73日目(閏年では74日目)に当たり、年末まであと292日ある。.

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3月24日

3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。.

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3月3日

3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。誕生花は花桃。.

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3月7日

3月7日(さんがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から66日目(閏年では67日目)にあたり、年末まであと299日ある。.

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6月5日

6月5日(ろくがついつか)はグレゴリオ暦で年始から156日目(閏年では157日目)にあたり、年末まであと209日ある。誕生花はハマナス、シラン。.

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7月7日

7月7日(しちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から188日目(閏年では189日目)にあたり、年末まであと177日ある。誕生花はスイレン、ヒオウギ。.

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9月24日

9月24日(くがつにじゅうよっか、くがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から267日目(閏年では268日目)にあたり、年末まであと98日ある。.

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