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ユリウス3世 (ローマ教皇)

索引 ユリウス3世 (ローマ教皇)

ユリウス3世(Julius III,1487年9月10日 - 1555年3月23日)はルネサンス教皇の最後の1人ともいわれるローマ教皇(在位:1550年2月7日 - 1555年3月23日)。本名、ジャン・マリア・デルモンテ(Giovanni Maria Ciocchi del Monte)、もしくはジョバンニ・マリア・ギオッチ。1545年に始まったトリエント公会議の第1会期の指導的人物であり、教皇としても第2会期を開会しているが、諸侯の政治的思惑から十分な成果をあげられないまま公会議を閉会させるに至った。.

49 関係: 司教司教枢機卿大司教マルケルス2世 (ローマ教皇)モーリッツ (ザクセン選帝侯)ルネサンス教皇レジナルド・ポールローマローマ劫掠ヴィラ・ジュリア国立博物館ボローニャトリエント公会議パルマ公国パヴィーアパトロンパウルス3世 (ローマ教皇)ピウス4世 (ローマ教皇)フランス王国ファルネーゼ家インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテイエズス会オッターヴィオ・ファルネーゼカール5世 (神聖ローマ皇帝)クレメンス7世 (ローマ教皇)コロンナ家コンクラーヴェザクセン君主一覧ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラジョヴァンニ・ダ・パレストリーナジョアシャン・デュ・ベレー公会議主義神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝教皇教皇領1487年1512年1520年1527年1536年1545年1547年1550年1551年1553年1555年2月7日3月23日9月10日

司教

司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・韓国語では訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。.

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司教枢機卿

司教枢機卿(しきょうすうききょう)はカトリック教会の高位聖職者である枢機卿の位階の一つで、教皇に継ぐ最高位の位階及び称号。その下に司祭枢機卿、助祭枢機卿が位置付けられている。 教会法用語で司教職階ともいう。.

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大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。.

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マルケルス2世 (ローマ教皇)

マルケルス2世(Marcellus II 1501年5月6日 - 1555年5月1日)は、対抗改革期のローマ教皇(在位:1555年4月9日 - 5月1日)。本名はマルチェッロ・チェルヴィーニ(Marcello Cervini)。本名をそのまま教皇名とした最後の教皇。.

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モーリッツ (ザクセン選帝侯)

ン選帝侯モーリッツ モーリッツ(Moritz, 1521年3月21日 - 1553年7月9日)は、ザクセン公(在位:1541年 - 1553年)、ザクセン選帝侯(在位:1547年 - 1553年)。シュマルカルデン戦争で神聖ローマ皇帝カール5世に味方し、選帝侯の位を授かった。.

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ルネサンス教皇

ルネサンス教皇とは、ルネサンス期のローマ教皇で、15世紀後半から16世紀前半に人文主義を受け入れ、ローマにルネサンス文化を花開かせた世俗的な教皇を指してしばしば使われる言葉である。特に王侯貴族のような贅沢な生活にふけった教皇を指す。その堕落したローマ教皇とカトリックはデジデリウス・エラスムスに批判され、マルティン・ルターによる宗教改革を招いた。反面、すぐれた芸術家のパトロンとなり、結果的には多くの芸術的遺産を後世に残したという側面もある。 自身も教養豊かで、アヴィニョン捕囚後のローマ復興に尽くしたニコラウス5世が、ルネサンス教皇の一例である。聖職売買と親族登用で教皇庁を腐敗させたと批判されるボルジア家のアレクサンデル6世や、戦争好きのユリウス2世、余りの浪費に教皇庁の財政破綻を招いたメディチ家のレオ10世の3人がルネサンス教皇の代表格である。その後では、メディチ家出身のクレメンス7世、ミケランジェロに「最後の審判」を制作させ、トリエント公会議を開催したパウルス3世などもルネサンス教皇である。 トリエント公会議以降、カトリック教会側でも改革が推進され、世俗的なものを廃絶させるなどの対抗改革が行われ、かつてのような余りにも世俗的な教皇は出現することはなくなった。.

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レジナルド・ポール

レジナルド・ポール(Reginald Pole, 1500年3月 - 1558年11月17日)は、枢機卿ならびにイギリス史上最後のカトリックのカンタベリー大司教である。イングランドにおいてローマ・カトリック教会の教義を護ろうとし、プロテスタント勢力の徹底的な弾圧で知られるメアリー1世の治世に大司教として活躍した。 レジナルド・ポールは、リチャード・ポールとソールズベリー伯爵夫人(女伯)マーガレット・ポールの三男としてイングランドのスタフォードシャーに生まれる。父リチャードはヘンリー7世の従兄弟にあたる。母マーガレットはエドワード4世の弟クラレンス公ジョージの娘であり、メアリー1世の幼少の頃の保護者、扶養係をつとめた人物である。 生来勉学好きであったレジナルドは神学者を目指し、生涯の多くの時間をそれに費やす。1512年から1519年頃まで、オックスフォード大学マグダラン・カレッジにてトマス・リナカーなどに学ぶ。1515年には15歳にして学士号を取得、また20代前半はイタリアのパドヴァやローマなどで学術的交流を深める。これらの学費は、彼に好感をもっていた又従兄弟のヘンリー8世がまかなった。 当初は、親密な関係にあったレジナルドとヘンリー8世だが、1526年に始まる国王の離婚騒動が起きると対立関係に陥ってしまう。そのころ遊学先から帰国したレジナルドは、ヘンリー8世からこの問題に関して支援を求められたが、ローマ教会の教義を信ずる神学者としてレジナルドはそれを拒否せざるを得なかった。そして彼は再びイタリアへ旅立つ。 1536年12月にパウルス3世より枢機卿に任ぜられ、1545年のトリエント公会議開会時には3人が任命された議長の一人をつとめ、会議を巧みに取り仕切った。このような活躍により、1549年の教皇パウルス3世没後、次期教皇の有力候補とも目されたが、結局デルモンテ枢機卿(ユリウス3世)に僅差で敗れた。 1553年にヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの子メアリー・チューダーがイングランド女王メアリー1世として即位すると、レジナルドは教皇により母国に派遣される。メアリー1世のもとでカトリック復興に精を出し、1556年、ついにレジナルドはカンタベリー大司教に任命される。その後、イタリア南部ナポリでスペインと対立する教皇パウルス4世の下、スペインと同盟関係にあったイングランドも非難され、それに伴いレジナルドも異端者扱いされてしまう。そんな波乱の人生を生き抜いたレジナルドが息を引き取ったのは、メアリー1世の死の直後であった。 Category:カンタベリー大司教 Category:イングランドの枢機卿 Category:バチカンの外交官 Category:テューダー朝の人物 Category:スタッフォードシャー出身の人物 Category:1500年生 Category:1558年没.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ劫掠

ーマ劫掠を描いた銅板画 Johannes Lingelbach''作) ローマ劫掠(ローマごうりゃく、Sacco di Roma)は、1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。 この頃、イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた(イタリア戦争)。1515年にはフランス王フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。 1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。 1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。 モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。 ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。 カール5世自身はカトリック教徒であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられた。 なお、フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、1532年に公爵位を授与され、フィレンツェ公国を成立させた。.

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ヴィラ・ジュリア国立博物館

ヴィラ・ジュリア国立博物館 (ヴィラ・ジュリアこくりつはくぶつかん、Museo Nazionale Etrusco di Villa Giulia)は、ローマにある、エトルリア美術を収蔵展示する博物館である。.

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ボローニャ

ボローニャ(Bologna)は、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約39万人の基礎自治体(コムーネ)。エミリア=ロマーニャ州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。 アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マーテル・ストゥディオルム)がある。.

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トリエント公会議

トリエント公会議(トリエントこうかいぎ Concilium Tridentinum)は教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア領トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。諸事情により、多くの会期が断続的に行われたが、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。トレント公会議(とれんとこうかいぎ)とも。.

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パルマ公国

1639年のパルマ・ピアチェンツァ公国の地図 18世紀後半のイタリア。パルマ公国は濃いピンクの部分 パルマ公国(Ducato di Parma)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年のイタリア統一まで存続した。パルマ・ピアチェンツァ公国、パルマ・エ・ピアチェンツァ公国 (Ducato di Parma e Piacenza) とも。 ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージに教皇領の一部であったパルマとピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。 1731年にアントーニオが跡継ぎのないまま死ぬと、アントーニオの姪エリザベッタを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリア・ハプスブルク家領だったナポリ王国・シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポへと公位が渡った。 ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の死んだ1847年に再び公位がブルボン家に戻された。 1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。.

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パヴィーア

パヴィーア(Pavia)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約7万3000人の基礎自治体(コムーネ)。パヴィーア県の県都。 ミラノの南約30km、ポー川との合流点にほど近いティチーノ川の河畔にあるこの都市には、東ゴート王国やランゴバルド王国が首都を置いた。中世においてはイタリア王権の首都とみなされており、神聖ローマ皇帝は12世紀に至るまでイタリア王としての戴冠式をこの都市で挙行した。1361年に設立されたパヴィーア大学を中心に学問の風土を持つ、閑静な都市である。.

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パトロン

パトロン(patron)とは、後援者、支援者、賛助者、奨励者、または特権を持つ人や財政支援をする人をいう。現代でのパトロンは、必ずしも金銭援助に限るわけではなく、パトロンの人脈や影響力によって貢献するケースもある。後援、支援、賛助、奨励の行為そのものは、パトロネージュ(パトロネージ/パトロネッジ/パトロネジ/パトロナージュ)(patronage、patronage)と呼ぶ。 美術史や音楽史においてのパトロネージュは、王や教皇、資産家が、音楽家、画家や彫刻家等に与えた支援を指す。また、教会聖職禄授与権、得意客が店に与えるひいきや愛顧、また守護聖人を指すこともある。.

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パウルス3世 (ローマ教皇)

パウルス3世(Paulus III、1468年2月29日 - 1549年11月10日)は第220代ローマ教皇(在位:1534年 - 1549年)。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)。イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した事で知られる。.

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ピウス4世 (ローマ教皇)

ピウス4世(Pius IV、1499年3月31日 - 1565年12月9日)は、ローマ教皇(在位:1559年 - 1565年)本名はジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(Giovanni Angelo Medici)。中断していたトリエント公会議を再開し、完了させたことでカトリック改革の推進に大きく寄与した。名字は同じだが、メディチ家との血縁はない。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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ファルネーゼ家

ファルネーゼ家の紋章 ファルネーゼ家(Farnese)は、イタリアの貴族の家系。ローマ教皇、枢機卿、パルマ公などを出したことで知られる。 トスカーナ出身のアレッサンドロ・ファルネーゼが教皇(パウルス3世、在位:1534年 - 1549年)に即位したことで勢力を伸ばした。 パウルス3世はパルマとピアチェンツァを教皇領から切り離し、1545年、ピエール・ルイージが初代パルマ公になり、その後1731年まで、ファルネーゼ家がパルマ公を継いだ。 ローマにアントニオ・ダ・サンガッロ、ミケランジェロが設計したファルネーゼ宮(1515年から建設、現フランス大使館)が、カプラローラにはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラが設計したパラッツォ・ファルネーゼがある。.

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インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ

インノチェンツォ・チョッキ・デル・モンテ(Innocenzo Ciocchi del Monte、1532年 - 1577年11月2日)は、イタリア出身のローマ・カトリック教会の枢機卿。卑しい生れながら教皇ユリウス3世の寵愛を受け、若くして枢機卿となり、悪評にさらされる生涯を送った。.

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イエズス会

イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.

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オッターヴィオ・ファルネーゼ

オッターヴィオ・ファルネーゼ 180px オッターヴィオ・ファルネーゼ(Ottavio Farnese, 1521年10月9日 - 1586年9月18日)は、第2代パルマ公及びピアチェンツァ公(在位:1547年 - 1586年)。初代パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼと、妃ジェローラマ・オルシーニの次男として、ヴァレンターノで生まれた。祖父はローマ教皇パウルス3世、兄は枢機卿アレッサンドロである。 1538年に神聖ローマ皇帝カール5世の庶子マルゲリータと結婚した。フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの未亡人であったマルゲリータは、この年若い花婿を非常に嫌った。しかし、1541年のアルジェでの軍事作戦でオッターヴィオが負傷して帰国すると、マルゲリータの嫌悪感が愛情に変わったという。1547年に父が暗殺されると、パルマ公国はフェランテ・ゴンザーガに占領されたため、失地回復がオッターヴィオの最初の仕事となった。 Category:パルマ公 Category:カストロ公 おつたういお Category:金羊毛騎士団員 Category:1521年生 Category:1586年没.

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カール5世 (神聖ローマ皇帝)

ール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。.

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クレメンス7世 (ローマ教皇)

レメンス7世(Clemens VII, 1478年5月26日 - 1534年9月25日)は、ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。.

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コロンナ家

ンナ家(Colonna)は、中世ローマで力を持ったイタリアの有力貴族。ローマのトラヤヌス帝のコロンナ(円柱)の近くに一族が住んでいた事からこの名となっている。 特に教皇庁がアヴィニョンに移転したアヴィニョン捕囚の時期、オルシーニ家と覇権を争い、ローマは一時荒廃し不穏な状況となった。アヴィニョン捕囚が終わった後もしばしばローマ教皇庁の施策に反対して、反乱を起こすことがあった。 ペトラルカが仕えたことで知られるジョヴァンニ・コロンナをはじめ、枢機卿になった者も多い。15世紀に一族からマルティヌス5世が初めて教皇となった。 ミケランジェロとの友情で知られるヴィットリア・コロンナ、レパントの海戦で教皇庁総司令官、連合艦隊副総司令官となったマーカントニオ・コロンナも一族出身である。.

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コンクラーヴェ

ンクラーヴェ(Conclave)とは「教皇選挙」を意味する言葉で、カトリック教会においてローマの司教たるローマ教皇を選出する選挙システムのこと。Conclave とはラテン語で "cum clavi" (「鍵がかかった」)の意である。 このシステムは、カトリック教会の歴史の中で何世紀もかけて、他国の干渉を防止し秘密を保持するため練り上げられてきたものである。.

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ザクセン君主一覧

ン君主一覧は、中世から近代にかけてドイツのザクセン公国及びザクセン王国の君主の一覧である。.

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ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ

ヴィニョーラの『建築の5つのオーダー』に掲載されていた5種類のオーダーの版画 ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ(Giacomo Barozzi da Vignola、1507年10月1日 - 1573年7月7日)は、16世紀マニエリスムを代表するイタリアの建築家の1人。通称はヴィニョーラ。その最高傑作としては、カプラローラのヴィラ・ファルネーゼとローマにあるイエズス会の教会であるジェズ教会がある。イタリア・ルネサンス様式を西ヨーロッパに広めた3人の建築家の1人とされている(他は、セルリオとパッラーディオ)。.

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ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ

ョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家である。一般に「パレストリーナ」と呼ばれるが、ジョヴァンニが名、ピエルルイージが姓。パレストリーナは後述のように生地である。カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」ともいわれる。.

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ジョアシャン・デュ・ベレー

ョアシャン・デュ・ベレー(Joachim du Bellay, 1522年頃 - 1560年1月1日)は、16世紀フランスの詩人。ピエール・ド・ロンサールとともにプレイヤード派の礎を形成した。.

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公会議主義

公会議主義(こうかいぎしゅぎ、Conciliarism)は、キリスト教・カトリック教会の歴史において公会議にこそ教会内の至上決定権があると唱える思想のことである。 公会議主義のルーツは、13世紀に絶頂に達した教皇権に対する抑止力としての公会議の役割が注目されたことにある。神学者たちの中でも、公会議の権威が教皇権を超えるものであるという認識を持つものが現れ始めた。たとえばオッカムのウィリアムや、パドヴァのマルシリウスといった神学者たちが公会議主義を支持する思想的枠組みを作った。 14世紀に入るとフランス王の圧力によって教皇がアヴィニョンに移動するという事件が起こり(アヴィニョン捕囚)、さらにローマ・アヴィニョンに教皇が並び立つという異常な事態(教会大分裂、西方離教)に至ると、公会議に対して.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝

聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser、Holy Roman Emperor)は神聖ローマ帝国の君主であるローマ皇帝を指し、古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語。実際に用いられた称号ではなく、実際にはローマ人の皇帝(Romanorum Imperator、Kaiser der Römer)と称した。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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教皇領

教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Status Pontificius, イタリア語:Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。.

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1487年

記載なし。

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1512年

記載なし。

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1520年

記載なし。

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1527年

記載なし。

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1536年

ユリウス暦の.

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1545年

記載なし。

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1547年

記載なし。

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1550年

記載なし。

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1551年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1555年

記載なし。

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2月7日

2月7日(にがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。.

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3月23日

3月23日(さんがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から82日目(閏年では83日目)にあたり、年末まであと283日ある。.

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9月10日

9月10日(くがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から253日目(閏年では254日目)にあたり、年末まであと112日ある。.

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