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バーベンベルク家

索引 バーベンベルク家

バーベンベルク家(Haus Babenberg)は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってプシェミスル朝及びハプスブルク家に代わられるまでオーストリア辺境伯およびオーストリア公としてオーストリア(オーストリア公国)を支配した。.

73 関係: 山川出版社ノルマン人マルガレーテ・フォン・バーベンベルクマイン川ハプスブルク家ハインリヒ (東フランケン)ハインリヒ1世 (ドイツ王)ハインリヒ2世 (オーストリア公)ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ7世 (ドイツ王)ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトバン (称号)バンベルクポッポ1世リウドルフ (フリースラント辺境伯)ルートヴィヒ4世 (東フランク王)ルイトポルト家レオポルト (バイエルン公)レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)レオポルト5世 (オーストリア公)レオポルト6世 (オーストリア公)ロベール家ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)ボヘミアトリーアヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)ヘルマン2世 (シュヴァーベン大公)ヘルマン6世 (バーデン=バーデン辺境伯)ヘッセン州プシェミスル朝テューリンゲンの君主一覧テューリンゲン州テオドラ・アンゲリナテオドラ・コムネナ (オーストリア公妃)テオドロス1世ラスカリスフランケン大公フランケン地方フランス王国フライジングのオットーフリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯)フリードリヒ1世 (オーストリア公)フリードリヒ2世 (オーストリア公)ドイツダヌィーロ・ロマーノヴィチアルヌルフ (バイエルン公)アルヌルフ (東フランク王)アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンウンルオッホ家...エルンスト2世 (シュヴァーベン大公)オーストリアオーストリア君主一覧オーストリア公国オットー1世 (ザクセン公)オットー3世 (シュヴァーベン大公)オタカル2世カペー家カロリング朝ギーゼラ・フォン・シュヴァーベングトケレドゲルトルート・フォン・ザクセンゲーザ2世コンラディン家スラヴォニア辺境伯部族大公成瀬治1248年880年886年892年976年 インデックスを展開 (23 もっと) »

山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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ノルマン人

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ(同項目を参照)。.

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マルガレーテ・フォン・バーベンベルク

マルガレーテ・フォン・バーベンベルク(Margarete von Babenberg, 1204年または1205年 - 1266年10月29日)は、名目上のオーストリア女公(在位:1252年 - 1260年)。マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(Margareta von Österreich)とも。.

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マイン川

マイン川(Main)は、ドイツを流れる河川の1つである。バイエルン州に水源があり、ドイツ国内を東からフランケン地方を抜けて西に横断し、ヘッセン州のマインツでライン川に合流する。全長は524キロ。ライン川右岸の支流中、最長の川である(マース川を除く全支流中ではモーゼル川に次いで2番目)。 流路は、中央ヨーロッパの大きな河川としては珍しく東から西に向かって流れる。川筋に沿ってフランケンの中低山地、歴史的な小都市、ヴュルツブルクの独特なシルエット、フランケンワインの産地が点在する。河口のすぐ上流には、多くの橋が架かり、フランクフルトの中心街を結んでいる。 マインツ旧市街の向かい側、ヴィースバーデンのマインツ=コストハイム地区でライン川に合流する。.

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ハプスブルク家

ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.

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ハインリヒ (東フランケン)

東フランケン公ハインリヒ(ドイツ語:Heinrich, ? - 886年8月28日)は、バーベンベルク家出身の東フランケンの公(dux)または辺境伯Reuter, AF, p. 112。「princeps militiae」(軍事指揮官)とも記述されている。チューリンゲン公ポッポ2世の兄弟でありReuter, AF, p. 55、グラープフェルト伯ポッポの子または孫と考えられている。 884年、皇帝カール3世の命により、ザクセンに侵攻したノルマン人を撃退した堀越 他、p.

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ハインリヒ1世 (ドイツ王)

ハインリヒ1世(Heinrich I., 876年 - 936年7月2日)は、ザクセン公(在位:912年 - 936年)および東フランク王(ドイツ王、在位:919年 - 936年)。ザクセン朝の初代国王。それまでのフランク王国において行われてきた分割相続の慣例を廃し、世代を越えた永続的な国家領域を形成する基礎を築いた。また、マジャル人に対する防衛戦に成功し、北方のデーン人、東方の西スラヴ人と戦い、王国領土を拡張させた。.

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ハインリヒ2世 (オーストリア公)

ウィーンにあるハインリヒ2世像 ハインリヒ2世ヤゾミルゴット(Heinrich II.

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ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ3世(Heinrich III., 1017年10月28日 - 1056年10月5日)は中世ドイツの王(在位:1028年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1039年 - 1106年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1046年 - 1056年)。ザーリアー朝第2代のローマ皇帝で初代コンラート2世の子。西ヨーロッパのローマ皇帝としては最盛期を現出した。統治は父帝が死去した1039年からで、皇帝戴冠までの7年間は「ローマ王」を名乗った。以後、皇帝戴冠前のドイツ君主の称号として「ローマ王」が定着する。黒王とも呼ばれる。皇帝としてはハインリヒ「2世」であるが、皇帝でなかった東フランク王ハインリヒ1世から数えて「3世」とするのが一般的である。.

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ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ4世(Heinrich IV., 1050年11月11日 - 1106年8月7日)はローマ王(在位:1053年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1080年 - 1106年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1084年 - 1106年)。ザーリアー朝第3代皇帝で、第2代皇帝ハインリヒ3世(黒王)の子。フランケン公(在位:1056年 - 1076年)、バイエルン公でもあった(在位:1077年 - 1096年)。帝国の統治機構にも関わる聖職叙任権の問題を巡って教皇グレゴリウス7世と激しく対立、ローマから教皇を追いやったもののローマ皇帝が持つ神権の失墜は避けられないものとなった。ローマ皇帝としてはハインリヒ「3世」であるが、皇帝ではない東フランク王ハインリヒ1世から数えて「4世」とするのが一般的である。.

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ハインリヒ7世 (ドイツ王)

ハインリヒ7世(Heinrich VII., 1211年 - 1242年2月10日(2015年12月閲覧))は、ローマ王(在位:1220年 - 1235年)。ホーエンシュタウフェン朝第6代の王で、シチリア王とローマ皇帝を兼ねるフリードリヒ2世の長男。母はアラゴン王女コンスタンサ(コンスタンツァ)。ハインリヒの在位中も父フリードリヒはローマ皇帝として健在だったが、ローマ王からは退位していた。そのためハインリヒのローマ王位は皇太子を意味するだけでなく実際に中世ドイツの統治を行う君主としての性質があった。しかし実際には皇帝管理下の「ドイツ総督」に過ぎず、王権を求めたハインリヒは父との確執を深めて反乱を起こし廃位された。このため正統の国王として認められず、通常は「ハインリヒ(7世)」と括弧書きされる西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁。異母弟にコンラート4世、サルデーニャ王エンツォ、アンティオキア公フリードリヒ3世、マンフレーディらがいる。さらに異父兄にハンガリー国王ラースロー3世がいる。.

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ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト

ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト(Heinrich von Schweinfurt, 970年頃 - 1017年9月18日)は、シュヴァインフルト伯、ノルトガウ辺境伯(在位:994年 - 1004年)。従弟である年代記編者メルゼブルクのティートマールにより「東フランクの誇り」といわれた。.

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バン (称号)

バン(ハンガリー語 bán、ドイツ語・ラテン語 、英語 )またはバーンは、、特にクロアチア・スラボニア地方の歴史的総督の称号。 ハンガリー王国がクロアチアを支配していたとき、クロアチア人たちの認識として、ハンガリー王はクロアチアのバン(総督)を兼ねていると言う歴史認識をしていた。同君連合とされる場合もある。.

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バンベルク

バンベルク(Bamberg )は、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地。バンベルクは、大学都市であり、大司教の都市であり、ビールの都であり、行政都市である。この街は、人口約20万人の人口密集地域の中規模中心都市であり、オーバーフランケン地方の重要な中心地である。 見応えのある旧市街は、ドイツでも最もすばらしく無傷に保存された歴史的な市街地であり、1993年にユネスコの世界遺産に登録された。 バンベルクを象徴する建造物旧市庁舎.

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ポッポ1世

ポッポ1世(Poppo I., ? - 839年/841年)は、グラープフェルト伯(在位:819年 - 839年)。上ラインガウ伯ハイムリヒの息子で、ロベール家のカンコル(Cancor)の子孫にあたり、バーベンベルク家(ポッポ家)に属する。 838年から839年にかけて、東フランク王ルートヴィヒ2世が皇帝ルートヴィヒ1世に対し反乱を起こした際に、ラーンガウ伯ゲープハルト、メッツ伯アダルベルトおよびマインツ大司教オドガリウスとともにポッポは皇帝側につき、ルートヴィヒ2世と争った。 ポッポはハインリヒ、チューリンゲン公ポッポ2世およびエギノの父と考えられている。.

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リウドルフ (フリースラント辺境伯)

リウドルフ(Liudolf, ? - 1038年4月23日)は、ブルノン家出身のデルリンガウ伯でフリースラント辺境伯。彼はブラウンシュヴァイクの創始者ブルン1世(1015年または1016年没)とギーゼラ・フォン・シュヴァーベンとの息子。母ギーゼラはシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘で、バーベンベルク家のシュヴァーベン公エルンスト1世と2度目の結婚を、後に皇帝となるコンラート2世と3度目の結婚をした。このためリウドルフは、シュヴァーベン公エルンスト2世やヘルマン4世、とりわけ皇帝となるハインリヒ3世、さらにはフランス王アンリ1世の婚約者であったマティルデ・フォン・フランケンの父違いの兄弟に当たる。 リウドルフはゲルトルート(? - 1077年7月21日)という女性と結婚したが、彼女の出自については、学問上議論の的となっている(外部リンク参照)。 彼の子供は、以下の通り。.

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ルートヴィヒ4世 (東フランク王)

ルートヴィヒ4世(Ludwig IV.

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ルイトポルト家

ルイトポルト家(Luitpoldinger, Luitpoldings)は、中世ドイツにおいてバイエルン大公を輩出した諸侯の家系である。ルイトポルディング家、アルヌルフィング家ともいわれる。.

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レオポルト (バイエルン公)

レオポルト4世(Leopold IV., 1108年頃 - 1141年10月18日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1136年 - 1141年)及びバイエルン公(在位:1139年 - 1141年)。オーストリア辺境伯としてはレオポルト4世。オーストリア辺境伯レオポルト3世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスの次男。最初のオーストリア公ハインリヒ2世の弟。シュヴァーベン大公フリードリヒ2世とローマ王コンラート3世の異父弟にあたる。.

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レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

レオポルト3世 レオポルト3世(Leopold III., 1073年 - 1136年11月15日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1095年 - 1136年)。オーストリア辺境伯レオポルト2世の子としてメルクに生まれる。事績はあまり多く知られていない人物と評される一方で、貴賎、聖俗問わず声望は高かったという、p.129。。後に列聖され、レオポルト聖伯とも呼ばれる。 1095年より辺境伯となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘でハインリヒ5世の姉アグネス(シュヴァーベン大公フリードリヒ1世の未亡人)と結婚し、バーベンベルク家の地位を高めた。1122年のヴォルムス協約締結においては政教両者の仲介に当たった。ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶すると、次のドイツ王候補としてあげられたが、この推薦は辞退した。 教会へのパトロンとしていくつかの大修道院を設立したことでも知られる。クライン・マリアツェル修道院前掲 。、1114年設立の(前身は1113年)、そして自身の子オットーのためにオーストリア最初のシトー会修道院であるハイリゲンクロイツ修道院を創設した。 1136年に死去。狩猟の最中に何らかの理由により死去したとされる前掲 。。そして自身の設立したクロスターノイブルクのクロスターノイブルク修道院に埋葬された。1485年、インノケンティウス8世により列聖された。1663年より、ニーダーエスターライヒ州とウィーンの守護聖人となって崇敬を集めている。 accessdate.

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レオポルト5世 (オーストリア公)

有徳公レオポルト5世 レオポルト5世(Leopold V, ? - 1194年)は、バーベンベルク家の第2代オーストリア公(在位:1177年 - 1194年)。有徳公(der Tugendhafte)と呼ばれた。ハインリヒ2世と妃テオドラ・コムネナの子。 第3回十字軍に参加し、そのときに自身の功績を示すために自分の軍旗を掲げたが、その軍旗をイングランド王リチャード1世に引き摺り下ろされたため、リチャード1世に対して恨みを抱くようになった。 この十字軍参加の折、敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、上から赤・白・赤のオーストリアの国旗のデザインになった。 この経緯から、第3次十字軍が終わった後にイングランド本国に帰還しようとしていたリチャード1世を逮捕し、その身柄を神聖ローマ皇帝であったハインリヒ6世に引き渡した。そして、莫大な身代金を受け取ることでリチャード1世を釈放している。 しかしサラーフッディーン(サラディン)と並び「獅子心王」とまで称される英雄リチャード1世を逮捕したことは、ローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買うことになり、レオポルト5世は破門されてしまった。そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去した。 遺体はハイリゲンクロイツ修道院の集会室に埋葬されている。1188年に彼がこの修道院にもたらした聖十字架は現存しており、1982年に専用のチャペルに安置されて以来一般にも公開されている。.

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レオポルト6世 (オーストリア公)

レオポルト6世(Leopold VI., 1176年 - 1230年7月28日)は、バーベンベルク家の第4代オーストリア公(在位:1198年 - 1230年)。第2代オーストリア公レオポルト5世とハンガリー王ゲーザ2世の娘イロナの次男で、第3代オーストリア公フリードリヒ1世の弟。.

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ロベール家

ベール家(Robertiens)は、西フランク王国のカロリング朝後期の9世紀末から三度王位に就き、987年フランスのカペー朝を開いた家系。以後のヴァロワ朝・ブルボン朝にも血脈を繋いでいるので、フランス革命期とナポレオン時代とを除いたルイ・フィリップまで、千年近くフランスの王権を握った。.

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ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)

タール3世(Lothar III., 1075年6月 - 1137年12月3日)はザクセン公(在位:1106年 - 1137年)、ローマ王(在位:1125年 - 1137年)及びイタリア王(在位:1125年 - 1137年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1133年 - 1137年)。国王選挙によって選ばれたズップリンブルク家のドイツ君主であるが、ズップリンブルク家の王位は1代限りであった。ローマ皇帝としてはロタール「2世」であるが、イタリア王ロターリオ2世及びロタリンギア王ロタール2世との区別のため「3世」とされることが多い。.

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ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)

ヴァーツラフ1世(Václav I, 1205年 - 1253年9月22日)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1230年 - 1253年)。オタカル1世とハンガリー王ベーラ3世の娘コンスタンシアの次男。シロンスク公ヘンリク2世妃アンナは姉、後に列聖されたアネシュカは妹に当たる。プラハの聖アネシュカ修道院に埋葬された。.

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ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

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トリーア

トリーア(Trier, Trèves )は、ドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州の都市。人口は約10万人(2005年)。トリアーとも表記される。 かつては舞台ドイツ語式発音に基づいてトリール、トリエルと呼ばれたが、近年では現在の標準ドイツ語の発音に近い「トリーア」が主に用いられる。.

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ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)

ヘルマン1世(Hermann I., 1155年頃 - 1217年4月25日)は、テューリンゲン方伯(在位:1190年 - 1217年)。ルードヴィング家出身。父はテューリンゲン方伯、母はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の娘。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の甥に当たる。.

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ヘルマン2世 (シュヴァーベン大公)

ヘルマン2世(Hermann II., 生年未詳 - 1003年5月4日)は、シュヴァーベン大公(在位:997年 - 1003年)。コンラート1世の子。母親はマルヒタール伯アダルベルトの娘ユーディト、またはシュヴァーベン大公リウドルフの娘リヒリントとされる。 父コンラート1世の後を継いで997年シュヴァーベン大公となった。1002年神聖ローマ皇帝オットー3世が独身のまま亡くなると、ローマ王候補の一人として名のりをあげた(母がシュヴァーベン大公リウドルフの娘であるなら、オットー大帝の曾孫にあたる)。オットー3世の葬儀の時点では多くの王国有力者の支持をうけ優勢であったが、結局バイエルン大公ハインリヒ4世がマインツ大司教ヴィリギスの主導によりハインリヒ2世として即位するに至った。ハインリヒ2世は諸国を巡回して諸侯から即位の承認を得たのち、シュヴァーベンに行軍し、ヘルマン2世にも王として承認させた。ハインリヒ2世はさらに、ヘルマン2世が前帝オットー3世の了解のもと大公領の首都として造営にあたっていたストラスブールを再び司教座教会に返還させ、大公直轄もしくは大公の家臣が管轄していた領地も国王に忠実な伯にゆだねるなど、シュヴァーベンにおける大公の権力の縮小をはかった。.

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ヘルマン6世 (バーデン=バーデン辺境伯)

ヘルマン6世(Hermann VI, 1225年 - 1250年10月4日)は、バーデン=バーデン辺境伯(在位:1243年 - 1250年)。ツェーリンゲン家で、オーストリア公を称した。バーデン=バーデン辺境伯ヘルマン5世とライン宮中伯ハインリヒ5世の娘イルムガルトの長男、ルドルフ1世の兄。 1248年、オーストリア公フリードリヒ2世の姪ゲルトルートと結婚、オーストリア公国とシュタイアーマルク州の相続権を要求したが、1250年に25歳の若さで死去し、息子のフリードリヒ1世と弟のルドルフ1世がバーデンを継承した。.

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ヘッセン州

ヘッセン州(Land Hessen)は、ドイツに16ある連邦州のひとつ。州都は、州南西部に位置するヴィースバーデン。経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルトである。グリム兄弟の生地ハーナウを起点として北へ、グリム童話ゆかりの地を結ぶドイツ・メルヘン街道や、木組み建築の町、アルスフェルトなどの観光地がある。.

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プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。.

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テューリンゲンの君主一覧

テューリンゲンの君主一覧では、現在のドイツ・テューリンゲン州を支配した王・公爵・伯・辺境伯・方伯の一覧を記述する。.

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テューリンゲン州

テューリンゲン州(Freistaat Thüringen)は、ドイツを構成する16の連邦州のひとつである。ドイツ再統一時に誕生した新連邦州5州の一つ。州都はエアフルト。 ドイツ語のStaatは英語のstateと同根の単語で、帝政ドイツ時代に「州」の意味で使用されていた。帝政崩壊後のヴァイマル共和政時代以降、これに代わりLandが使われ始めた。現在、多くの州はLandを使用するが、テューリンゲン州、バイエルン州、ザクセン州が"Freistaat"を称している。.

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テオドラ・アンゲリナ

テオドラ・アンゲリナ(Theodora Angelina, 生没年不詳)は、バーベンベルク家のオーストリア公レオポルト6世の妻。イサキオス・コムネノス(東ローマ帝国マヌエル1世コムネノスの甥の子)と皇女アンナ・アンゲリナ(皇帝アレクシオス3世アンゲロスの子)の唯一の子。.

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テオドラ・コムネナ (オーストリア公妃)

ハインリヒ2世の2人の妻、ゲルトルート・フォン・ザクセンとテオドラ・コムネナ テオドラ・コムネナ (Theodora Komnena、? - 1184年1月2日)は、オーストリア公ハインリヒ2世の2度目の妃。 東ローマ帝国の皇族アンドロニコス・コムネノス(皇帝ヨハネス2世コムネノスと皇后ピロシュカの次男)の次女として生まれた。テオドラの幼年期についてはわずかしか知られていない。ハインリヒとの結婚は、神聖ローマ皇帝コンラート3世がコンスタンティノープルに滞在した際、皇帝マヌエル1世コムネノスとの間で取り決められたという。 ハインリヒとの間には3子が生まれた。.

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テオドロス1世ラスカリス

テオドロス1世ラスカリス(ギリシア語:Θεόδωρος Α' Λάσκαρης (Theodōros I Laskarēs)、1175年頃 - 1222年)は、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の建国者で、その初代皇帝。 コンスタンティノポリスの大貴族の家に生まれ、1199年にアレクシオス3世アンゲロスの皇女アンナ・アンゲリナと結婚し、第4回十字軍による首都コンスタンティノポリス襲撃(1203年 - 1204年)の間に名を挙げた。コンスタンティノポリス陥落に際し、その直前に即位した兄のコンスタンティノス(「一夜皇帝」)らと共に首都を脱出した。付き従った一団を率いて、ビテュニアに赴いてニカイアに定住。この地が帝国民にとって再出発の場となった。ひとまず十字軍の危険から解放され、コンスタンティノスより権力を譲られて小アジアに新生ローマ国家の建国事業に着手。1206年に「皇帝」の称号を獲得した。 それから数年間、駆け出しの国家を取り巻く第二次ブルガリア帝国などの敵国に付きまとわれる。一方でラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーの打倒運動をしぶとく続け、強敵トレビゾンド帝国皇帝アレクシオス1世を破り、その後も快進撃を続けて、ルーム・セルジューク朝のスルタン、カイホスロー1世に対し逆襲に出る。 1210年、再び帝位を狙う義父アレクシオス3世に唆されたカイホスロー1世は、ニカイア帝国に出兵した。迎え撃ったテオドロス1世は、アンティオキア付近の会戦でカイホスロー1世を敗死させアレクシオス3世を捕縛したことで、その帝位を確定させた。 治世の末期にはビテュニアから小アジアに領土を広げた。政治家として高い資質に恵まれたという証拠はないものの、彼の度胸と武勲によって、東ローマ帝国民は生き長らえることができただけでなく、西欧の侵入に反撃することもできるようになったのである。 アンナ・アンゲリナとの最初の結婚によって、2人の娘をもうけた。長女イレーネー・ラスカリナはヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスと結婚し、次女マリア・ラスカリナはハンガリー王ベーラ4世に嫁いだ。 1212年にアンナ・アンゲリナが崩御すると、テオドロス1世はアルメニア王ルーベン3世の娘フィリッパと再婚した。だが翌年には信仰上の理由から無効とされ、息子コンスタンティノスは廃嫡された。1219年には、ラテン帝国から、ピエール・ド・クルトネーとヨランド・ド・エノーの皇女マリー・ド・クルトネーを皇妃に迎えるが、子宝には恵まれなかった。.

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フランケン大公

フランケン大公(Herzogtum Franken)は、神聖ローマ帝国の部族大公。ドイツ中西部、マイン川流域を支配した。その領域については「フランケン」を参照(ただしバイエルン州内のフランケン地方だけではない。これについては「#領域としてのフランケンについて」を参照)。.

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フランケン地方

Fränkischer Rechen ドイツにおけるフランケン地方の位置 狭義のフランケン地方 フランケン地方(標準Franken、Frangge、Frankn)は、ドイツ中南部から南ドイツの北部に位置する地方名称。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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フライジングのオットー

フライジングのオットー(Otto von Freising、1111年または1114年 - 1158年)はドイツの司教、歴史書記者。日本語ではフライジンクのオットー、オットー・フォン・フライジングなどと表記されるが、本項では以降、「オットー」とのみ表記する。.

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フリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯)

フリードリヒ1世(Friedrich I, 1249年 - 1268年10月29日)は、バーデン=バーデン辺境伯(在位:1250年 - 1268年)。ツェーリンゲン家当主で、祖父はバーデン=バーデン辺境伯ヘルマン5世(ライン宮中伯ハインリヒ5世の婿)、父はヘルマン6世、母はオーストリア公レオポルト6世の孫娘ゲルトルート。叔父はルドルフ1世。 1246年、母方の大叔父のフリードリヒ2世が戦死し、バーベンベルク家は断絶した。父は母がバーベンベルク家の女子相続人だったことからオーストリア公国を請求したが1250年に25歳の若さで死去したため、フリードリヒ1世がバーデンを相続したが、幼いため叔父のルドルフ1世が共同統治者となった。 1267年、ホーエンシュタウフェン朝のシチリア王、エルサレム王のコッラディーノと共にイタリアに遠征したが、1268年8月23日、でシャルル・ダンジューに敗れ、トッレ・アストゥーラにて捕縛、幽閉された。やがてナポリに移され、10月29日、メルカート広場で死刑執行人のドメニコ・プンツォの手によって斬首された。処刑された場所には後年が建てられた。 バーデンは叔父のルドルフ1世が単独統治することになり、オーストリア公国はボヘミア王オタカル2世が獲得したが、オタカル2世は1278年に神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて戦死、ハプスブルク家の家領となった。 Category:バーデン=バーデン辺境伯 Category:オーストリア公 Category:ツェーリンゲン家 Category:刑死した人物 Category:1249年生 Category:1268年没.

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フリードリヒ1世 (オーストリア公)

フリードリヒ1世(Friedrich I., 1175年頃 - 1198年4月16日)は、バーベンベルク家のオーストリア公(在位:1194年 - 1198年)。レオポルト5世とハンガリー王ゲーザ2世の娘イロナの長男。レオポルト6世の兄。.

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フリードリヒ2世 (オーストリア公)

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1211年4月25日 - 1246年6月15日)は、バーベンベルク家最後の第5代オーストリア公(在位:1230年 - 1246年)。第4代オーストリア公レオポルト6世と妃テオドラ・アンゲリナの三男。明確なビジョンもなく対外戦争を繰り返して自国を破滅させたことにより、仇名は喧嘩公(Friedrich der Streitbare)とも闘争公とも呼ばれている。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ダヌィーロ・ロマーノヴィチ

ダヌィーロ・ロマーノヴィチ(古ルーシ語:Данило Романовичъ、ウクライナ語:Данило Романович、意味:ロマンの子ダヌィーロ、1201年 - 1264年)は、リューリク朝の公の1人で、ヴォルィーニ公(在位:1205年 - 1208年、1215年 - 1238年)、ハールィチ公(在位:1238年 - 1261年)、キエフ大公(在位:1239年 - 1240年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公(在位:1238年 - 1250年)であり、初の全ルーシの王(在位:1253年 - 1264年)でもあった。ルーシ年代記においては、「ソロモンに次ぐ人」として謳われている。ハールィチという町からハールィチ・ヴォルィーニ大公国を治めていた事にちなんで「ハールィチのダヌィーロ」(ウクライナ語:Данило Галицький、ダヌィーロ・ハールィツィクィイ)とも呼ばれている。.

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アルヌルフ (バイエルン公)

10世紀のバイエルン公領 バイエルン公アルヌルフ(Arnulf I. von Bayern, ? - 937年7月14日)は、ルイトポルト家出身のバイエルン公(在位:907年 - 937年)である。悪公(der Schlimmeまたはder Böse)と呼ばれる。ドイツ対立王(在位:919年 - 921年)となったともいわれる。.

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アルヌルフ (東フランク王)

アルヌルフ(ドイツ語:Arnulf von Kärnten, スロベニア語:Arnulf Koroški, 850年頃 - 899年12月8日)は、東フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:887年 - 899年)、のち西ローマ皇帝を兼ねた(在位:896年 - 899年)。.

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アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン

アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン(ドイツ語:Agnes von Waiblingen、1072年 - 1143年9月24日)はザーリアー朝の皇族。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と、サヴォイア伯オッドーネの娘ベルタとの間に生まれた娘。ハインリヒ5世の姉。 1089年、シュヴァーベン大公フリードリヒ1世と結婚し、11人の子女をもうけた。.

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ウンルオッホ家

ウンルオッホ家(Unruochinger, Unrochides)は、イタリアで地位を築いたフランク貴族の家系。家名は一族の中で最初の著名な人物であるフリウーリ辺境伯ウンルオッホ2世(9世紀前半)からつけられた。 この一族は、フランク帝国東部の辺境領主であるフリウーリ辺境伯をはじめとする、北イタリアの様々な地位を保持した。フリウーリ辺境伯領は現在のフリウーリよりもはるかに広い領域であり、現在のヴェネト州の大半を含み、西はロンバルディア州のブレシア県まで及んでいた。 しかし、一族の本拠地は現在のフランスのセーヌ川北部およびベルギー南部にあった。また、一族の権力基盤となった修道院はトゥルネー近くのシソワンにあった。 一族出身の著名な人物の一人イタリア王ベレンガーリオ1世は男子継承者を残さなかったが、イヴレーア辺境伯アダルベルト1世と結婚した娘ジゼラを通して、イタリア王ベレンガーリオ2世、アダルベルト2世、そしてブルゴーニュ伯家の祖オット=ギヨームの先祖となった。.

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エルンスト2世 (シュヴァーベン大公)

ルンスト2世(Ernst II, 1010年頃 - 1030年8月17日)は中世ドイツのシュヴァーベン大公(在位:1015年 - 1030年)。バーベンベルク家シュヴァーベン大公エルンスト1世とシュヴァーベン大公ヘルマン2世の娘ギーゼラの子。.

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オーストリア

ーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、、バイエルン語: )、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都は音楽の都といわれたウィーン。 ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。.

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オーストリア君主一覧

ーストリア君主一覧(オーストリアくんしゅいちらん)は、オーストリアの君主の一覧。.

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オーストリア公国

ーストリア公国(オーストリアこうこく、、Osztrák Hercegség、)は、神聖ローマ帝国内の、現在のオーストリア共和国の領域に存在した領邦。1156年の成立から1457年(大公を称したのは1359年)のオーストリア大公国の成立まで、バーベンベルク家、ツェーリンゲン家、プシェミスル家、ハプスブルク家が統治した。.

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オットー1世 (ザクセン公)

ットー1世(Otto I., 851年頃 - 912年11月30日)は、ザクセン公(在位:880年 - 912年)。ザクセン公リウドルフの息子でブルンの弟。オットー貴顕公ないし栄光公(ドイツ語:der Erlauchte)と称される。姉リウトガルトは東フランク王ルートヴィヒ3世と結婚した。.

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オットー3世 (シュヴァーベン大公)

ットー3世(Otto III, Otto von Schweinfurt, 995年頃 - 1057年9月28日)は、シュヴァーベン大公(在位:1048年 - 1057年)、シュヴァインフルト伯(在位:1017年 - 1057年)。 バーベンベルク家出身のシュヴァインフルト伯ハインリヒの息子。1048年のウルムでの会議において、皇帝ハインリヒ3世によりシュヴァーベン大公位を与えられた。 トリノ辺境伯オルデリーコ・マンフレーディ2世の娘エルメンガルトと結婚した。二人の間の娘ユーディトはエッツォ家出身のバイエルン公コンラート1世と結婚、コンラートの死後にポッテンシュタイン伯ボート(アリボ家)と再婚した。オットー3世の死後、エルメンガルトはマイセン辺境伯エクベルト1世と再婚した。.

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オタカル2世

タカル2世(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日ツェルナー『オーストリア史』、153頁)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)、オーストリア公(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世とドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。大空位時代にドイツ王に選ばれたカスティーリャ王アルフォンソ10世は母方の従弟に当たる。ドイツ語名Ottokar、ハンガリー語名Ottokárから、オットカール2世とも呼ばれる。 オーストリアを統治するバーベンベルク家の断絶後、オタカルは彼らの統治下にあったオーストリア、シュタイアーマルクを獲得する。東方においてはドイツ騎士団の征服事業を支援し、東プロイセンに勢力を拡大した。1273年に神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家のルドルフ1世と対立し、1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に敗れ、落命した。 オタカルはオーストリアの重要な支配者の一人として挙げられるが、彼の死後に書かれた年代記には偉大さとともに傲慢な人格も記される。それらの年代記は、19世紀の劇作家フランツ・グリルパルツァーのオタカル像にも影響を与えたツェルナー『オーストリア史』、154頁。.

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カペー家

ペー家(Capétiens)は、フランスのパリ周辺、イル=ド=フランスに起源を持つ王家。2人の西フランク王を出したロベール家の後身である。家名は始祖のユーグ・カペーに由来するが、カペー(capet)とは短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であった。 カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。.

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カロリング朝

ール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領) カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝 カロリング朝(カロリングちょう、Carolingiens, Karolinger)は、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。 フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。 751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。 ピピン3世の子カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。.

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ギーゼラ・フォン・シュヴァーベン

ーゼラ・フォン・シュヴァーベン(Gisela von Schwaben, 990年11月11日 - 1043年2月14日)は、神聖ローマ皇帝コンラート2世の皇后で皇帝ハインリヒ3世の母。コンラディン家のシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘。.

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グトケレド

トケレド氏族の紋章 グトケレド氏族(Gutkeled)は、11世紀、ハンガリーを祖にする貴族。13世紀から16世紀に渡り、その分家一族は中央ヨーロッパ諸国で絶大なる権力を持った。.

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ゲルトルート・フォン・ザクセン

ルトルート・フォン・ザクセン(Gertrud von Sachsen, 1115年4月18日 - 1143年4月18日)は、中世ドイツの女性でバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ10世(傲岸公)の妃。父はザクセン公兼神聖ローマ皇帝ロタール3世、母はリヒェンツァ・フォン・ノルトハイム。.

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ゲーザ2世

ーザ2世 (II.

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コンラディン家

ンラディン家(Konradiner, Conradines)は、中世初期のドイツのフランケン地方にいた一族である。「コンラート家」(Haus Konrad)、ドイツ王を務めたことで「コンラディン朝」(コンラート朝)、フランケン朝とも呼ばれる(同じフランケン朝と呼ばれたザーリアー家とは直接関係はない)。 なお、「コンラディン」は姓ではなく「コンラート」という意味である。当時のフランケン人には姓はなかった。「コンラーディン家」(コンラーディン朝)とも呼ばれる。.

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スラヴォニア

濃い青い部分がスラヴォニア スラヴォニア(、)とは逆Uの字になっているクロアチアの東部の地域であり、ダルマチアの反対側に位置する。中央クロアチア、ダルマチア地方、イストリア地方と共にクロアチア共和国を構成している。ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビナ及びセルビアのヴォイヴォディナと接している。.

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辺境伯

辺境伯(へんきょうはく、)は、ヨーロッパにおける貴族の称号の一種である。 元来はフランク王国が、国境付近に防備の必要上置いた軍事地区(マルク(Mark):辺境地区、辺境伯領)の指揮官として設けられた地方長官の名称である。異民族と接しているため、他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、一般の地方長官である伯(Graf, count)よりも高い地位にある役職とみなされていた。 フランク王国から後の時代ではイングランドではケルト地域(スコットランドやウェールズ)との国境、フランスではムスリムと接するスペイン(スペイン辺境領)、ドイツではハンガリー(マジャール人)と接するオーストリア、スラブ人と接するブランデンブルクなどにおかれた。 時代が下ると、この称号の保有者は、Fürstとほぼ同格、時にはHerzogにも匹敵する世襲の封建諸侯に転化し、諸侯の爵位称号の一種となる。フランスなどドイツ地方以外の諸国では伯のうち実力のあるものが伯よりも格式の高い称号としてMarkgrafを起源とするmarquisを名乗るようになり、この称号は公と伯の中間にある爵位とみなされるようになった。日本語では侯爵と訳されている。 一方ドイツでは、オーストリアやブランデンブルクの辺境伯は辺境地方において勢力を拡大し、有力な領邦君主に成長するに至った。オーストリア辺境伯領はオーストリア大公国の前身となり、ブランデンブルク辺境伯領は選帝侯となったのちにプロイセン公国と同君連合してプロイセン王国となる。これらドイツの辺境伯の称号は、英語で辺境伯をmargraveというように、ドイツ以外の地域で使われる同一語源の称号marquisとは区別されており、日本語でも辺境伯の語が定訳となっている。 辺境伯領と名の付く地域は、いわゆる「辺境」であるとは限らないこともある。バーデン辺境伯領はフランスとの境界に位置し、ドイツの中で見れば周縁部であるとはいえ、古くから交易の要所として栄えた先進地域であった。フランケン地方のアンスバッハ、バイロイト両辺境伯領は、皇帝居城の城代であったニュルンベルク城伯領を発祥とし、古来まぎれもなくドイツ中央部といえるが、ブランデンブルク辺境伯(現在のドイツ東部ブランデンブルク州で、当時はスラブ人と接する「辺境」であった)を本流とするホーエンツォレルン家の分家としてこの地を相続したために、辺境伯の称号を帯びた。 オーストリア、ブランデンブルクの両辺境伯が早くから大公、選帝侯に昇格した他、有力領邦バーデン辺境伯も1806年にはバーデン大公国に昇格して、名目上の称号となっていたモラヴィア辺境伯などを除いては19世紀以降のドイツ圏でこの称号を帯びる領邦は消滅した。.

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部族大公

部族大公(ぶぞくたいこう、英:Stem duke、独:Stammesherzog)とは、10世紀、カロリング朝の断絶および帝国の再興時に中世ドイツに成立した大公。「部族」とはゲルマンの部族であるフランク、サクソン、バイエルン、アラマンニ(シュヴァーベン)を指す。カロリング朝は8世紀に旧来の部族大公領を解体させていたが、9世紀末のカロリング朝の没落とともに、旧来の部族領が王国の分領地と認識されるようになった。この時成立した部族大公領は、フランケン大公領、ザクセン大公領、バイエルン大公領、シュヴァーベン大公領(アレマニア大公領)およびロートリンゲン大公領の5つであったDonald C. Jackman, The Konradiner: A Study in Genealogical Methodology, 1990,, Hans-Werner Guetz, "Dux" und "Ducatus." Begriffs- und verfassungsgeschichtliche Untersuchungen zur Enstehung des sogenannten "jüngeren Stammesherzogtums" an der Wende vom neunten zum zehnten Jahrhundert, 1977.

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成瀬治

成瀬 治(なるせ おさむ、1928年3月8日 - 2016年8月26日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。中近世ドイツ史、特にマルティン・ルターが専門。.

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1248年

記載なし。

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880年

記載なし。

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886年

記載なし。

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892年

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976年

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