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テルモピュライの戦い

索引 テルモピュライの戦い

テルモピュライの戦い(テルモピュライのたたかい、)は、ペルシア戦争における戦いの1つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。テルモピレーの戦いなどとも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。 この戦いはアルテミシオンの海戦と平行して行われ、圧倒的な戦力差にも関わらずギリシア軍は優勢であったが、最終的に背後に回り込まれて敗退した。しかし、スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。これは、スパルタ軍の勇猛さと地形をうまく利用したためと言われている。.

46 関係: 古代ギリシア不死隊ペルシア語ペルシア戦争マルドニオスマケドニア王国メディア王国メガラレオニダス1世トラキアヘロドトスプラタイアの戦いパウサニアス (将軍)ヒュダルネス (将軍)テルモピュレテーバイテッサリアテッサロニキテスピアイフランク・ミラーファランクスフォキスアリストデモス (スパルタ人)アルテミシオンの海戦アレクサンドロス1世 (マケドニア王)アテナイアケメネス朝カルネイア祭ガリア人ギリシャギリシア語クセルクセス1世コリントス地峡シモーニデースシケリアのディオドロスジャック=ルイ・ダヴィッドスパルタスパルタ総攻撃サラミスの海戦紀元前480年重装歩兵歴史 (ヘロドトス)300 (コミック)300 〈スリーハンドレッド〉

古代ギリシア

この項目では、太古から古代ローマに占領される以前までの古代ギリシアを扱う。.

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蓼科山 山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことを言い、平地と比べ、傾斜した地形から成る。また、地形学では丘陵や台地よりも高度や起伏が大きいものを指す。.

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不死隊

不死隊(ふしたい)とはアケメネス朝ペルシアの定員一万人の精鋭部隊である。ペルシア戦争期にはヒュダルネスが率いた。 一人の兵士が倒されてもまた別の新しい兵士がすぐに補充され戦闘に加わり戦ったことからヘロドトスがこれを指してアタナトイ(不死の意)、もしくは一万騎兵と呼んだものが起源で、英語でイモータルズ(immortals、隊員はイモータル)、不滅隊などとも呼称される。ただしアタナトイの語についてはペルシア語で随伴者を意味する「アヌーシャ」が転訛した可能性も指摘される。.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ペルシア戦争

アケメネス朝の最大勢力域 ペルシア戦争(ペルシアせんそう、Περσικοί Πόλεμοι)は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。学者によっては勝者の名を冠してギリシア戦争、ギリシャ戦争、あるいはフェアに両陣営の名をとってギリシア・ペルシア戦争(Greco–Persian Wars)、ギリシャ・ペルシャ戦争と呼ばれることもある。 戦争の経緯についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料である。プルタルコスは『ヘロドトスの悪意』について、戦争の歴史的事実がヘロドトス個人の戦争観に歪められていると批判している。.

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マルドニオス

マルドニオス(ギリシア語:Μαρδόνιος、ペルシア語:ムルドゥニヤ、?–紀元前479年)は、アケメネス朝ペルシアの将軍。ペルシア戦争に参加し、プラタイアの戦いでギリシア連合軍によって敗死した。.

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マケドニア王国

マケドニア王国(Μακεδονικό βασίλειο)は、紀元前7世紀に古代ギリシア人によって建国された歴史上の国家である。現在のギリシャ共和国西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と、マケドニア共和国南東部ドイラン・ボグダンツィ・ゲヴゲリヤ及び南西部レセン・オフリド各基礎自治体の一部、ブルガリア・ブラゴエヴグラト州のギリシャとの国境地帯、アルバニアのポグラデツ県・コルチャ県・デヴォル県の一部にまたがる地域にあった。北西ギリシア方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。.

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メディア王国

メディア王国(黄色) 紀元前600年ごろの版図を示したもの。首都エクバタナ(現在のハマダーン州ハマダーン)は地図中央、チグリス川・ユーフラテス川河口とカスピ海のほぼ中間の位置に建設された メディア王国(メディアおうこく、Μηδία, Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたの王国である。首都はエクバタナ。アッシリアが紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプト、リュディア、新バビロニア(カルデア)とともに当時の大国となった。.

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メガラ

メガラ(Μέγαρα / Mégara)は、古代ギリシャのアッティカ西部・メガリスにあった都市国家。メガラーとも表記される。メガラ人が築いた植民市の中には、ビュザンティオン(現在のイスタンブール)がある。 現代のメガラ(Μέγαρα / Mégara)は、ギリシャ共和国アッティカ地方にある都市・基礎自治体(ディモス)の名でもある。.

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レオニダス1世

レオニダス王として伝わる重装歩兵の大理石像(前5世紀) 、スパルタ市考古学博物館蔵 レオニダス1世(Λεωνίδας、ラテン文字転記:Leonidas I、 ?-紀元前480年、在位:紀元前489年–紀元前480年)はアギス朝のスパルタ王である。テルモピュライの戦いに300人のスパルタ兵士と共に参戦し、200万以上と伝えられるペルシア軍にも互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げた。その名声はギリシア中に轟き、スパルタ随一の英雄とされた。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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ヘロドトス

ヘロドトスの胸像 ヘロドトス(ヘーロドトス、Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、紀元前485年頃 - 紀元前420年頃)は、古代ギリシアの歴史家。今日まで伝承されている最初の歴史書、『歴史』の著者であることから、「歴史の父」とも呼ばれる。.

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プラタイアの戦い

プラタイアの戦い(プラタイアのたたかい、プラタイアイの戦いとも、英:Battle of Plataea)は、クセルクセス1世の遠征後の紀元前479年8月、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシアの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシア連合軍が出撃し、これを撃退した戦いである。右翼についたスパルタ軍だけで大半のペルシア兵を討ち取り、それが直接的な勝因に繋がった。.

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パウサニアス (将軍)

パウサニアス(希:Παυσάνιας、ラテン文字転記:Pausanias、? - 紀元前470年)は、スパルタの王族、将軍である。 パウサニアスはアナクサンドリデス2世の子クレオンブロトスの子で、レオニダス1世の甥に当たる。パウサニアスの子プレイストアナクスはプレイスタルコス(レオニダスの子)の後を継いでスパルタ王になった。また、パウサニアスは幼いプレイタルコスの後見人を務めもした。 紀元前479年、パウサニアスはギリシア連合軍を率いて第二次ペルシア戦争のプラタイアの戦いでマルドニオス率いるペルシア軍を破った。 翌年、パウサニアスはビュザンティオンを落とし、ビュザンティオンをペルシアの勢力圏から切り離した(ビュザンティオン包囲戦)。戦いの後、彼は戦いで捕えたペルシア王クセルクセス1世の親族を脱獄したと見せかけて密かに送り返し、それと同時にペルシア王に書状を送った。その中で彼は、クセルクセス1世の娘を娶って婚姻関係を結びたいと申し出、そうすればギリシアをペルシアの支配下に置くと約束し、ついてはそのためにペルシア王に忠実な臣下を小アジア沿岸に派遣するよう求めた。これに対してペルシア王はアルタバゾスを送り、ダスキュレイオン(ヘレスポントス・フリュギア)の太守とした。しかし、この目論見は露見し、また、ビュザンティオンを落とした後のパウサニアスの僭主的な言動は同盟諸国の顰蹙を買い、同盟諸国はアテナイになびいたことによってパウサニアスは告訴された。この時彼はスパルタには帰らずにトロイア地方のコロナイに居を定めたが、スパルタから召喚状が来たので帰国し、裁判にかけられた。この時彼は死刑を求刑されたが、罰金刑で済んだ。 その後、またもやパウサニアスはペルシアとの内通があったことが発覚し、スパルタ当局に逮捕されそうになった。身の危険を感じた彼は先んじてアテナの神殿に逃げ込み、難を逃れようとした。そこで監督官たちは神殿にパウサニアスを閉じ込め、餓死させようとした。後になって彼が運び出された時には既に虫の息であり、すぐに死んだ。.

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ヒュダルネス (将軍)

ヒュダルネス(希:Ὑδάρνης、ラテン文字転記:Hydarnes、古代ペルシア語でウィダルナ、紀元前5世紀)は、アケメネス朝ペルシアの将軍である。ヒュダルネスは同名の父ヒュダルネスの子で、小アジアの太守ティッサフェルネスの祖父である。 ヒュダルネスはペルシア王クセルクセス1世の治世において小アジア沿岸地域一帯の軍司令官を務めていたことがあり、その時スパルタよりダレイオス1世からの使者を殺害した償いとして命を差し出すつもりでスペルティアスとブリスという二人のスパルタ人がスサへと向う途上ヒュダルネスの許に寄った。宴会の席でヒュダルネスは彼らにペルシア王に恭順すれば良い身分を得られると説いたが、彼らはペルシア王に従属してその奴隷になるよりは、戦うことになろうとも自由でい続けたいと言ったという。その後、彼らはクセルクセスに謁見したが、彼らの誇り高い態度に感服したクセルクセスは彼らの命を奪わずに帰した。 紀元前480年のクセルクセスのギリシア侵攻(ペルシア戦争)の際、ヒュダルネスは不死隊という精鋭部隊の指揮を執った。同年のテルモピュライの戦いで不死隊はギリシア連合軍と戦ったが、隘路のために数の有利を活かすことができず数で劣る敵を突破することができなかった。しかし、というトラキス人の道案内を受けて不死隊は間道を通って敵の後ろに回りこむことに成功し、ギリシア連合軍に撤退に追い込み、レオニダス1世率いるスパルタ・テスピアイ軍を全滅させた。続くサラミスの海戦での敗北の後のクセルクセスの撤退の折、不死隊はギリシアに残って戦うことになったが、ヒュダルネスだけは王のそばを離れるのを拒み、王と共にギリシアを発った。その後、クセルクセスはエイオンにたどり着くと自らは海路でペルシアへと帰り、軍をヒュダルネスに委ね、ヒュダルネスはその軍をつれて帰った。.

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テルモピュレ

テルモピュレ(現代ギリシア語: / Thermopyles )は、ギリシャ中東部に位置する地名。古代にはテルモピュライ()と呼ばれた。 カリモドロス山とマリアコス湾に挟まれた狭隘なこの地には、古よりアッティカ・ボイオティアとテッサリアを結ぶ幹線道路が通過し、防衛に適した要衝としてしばしば戦場となった。とくに著名な戦闘は、紀元前480年に行われたテルモピュライの戦いである。 現在は海岸線が後退しているが、現在もアテネから高速道路を使って北上する場合はラミアの手前で必ずここを通過することになる。行政上はギリシア共和国中央ギリシャ地方フティオティダ県ラミア市に属する。.

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テーバイ

テーバイが覇権を握っていた時期(紀元前371年-紀元前362年)の地図。黄色がテーバイとその同盟国。 テーバイ(Θήβαι / Thēbai 発音: )は、古代ギリシアにあった都市国家(ポリス)のひとつ。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたる。 ボイオーティア同盟の盟主となり、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「神聖隊」の活躍も知られている。 またギリシャ神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、オイディプース伝説などの舞台となっている。 長音を略した「テバイ」や、「テーベ」(Thebes)と表記されることもある。.

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テッサリア

テッサリア(Θεσσαλία / Thessalía、Thessaly)は、ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリエス(地方)のひとつである。 テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯である。.

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テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

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テスピアイ

テスピアイ(テスピア)(Thespiae, ギリシャ語:Θεσπιαι., Thespiai)は、古代ギリシアのボイオティアにあったポリス(都市国家)。ヘリコーン山の麓から東のテーバイまで続く丘陵の低い地域から見渡せる平地にあった。 パウサニアスによると、テスピアイで最も崇拝された神はエロスだった。太古のエロスの肖像は未加工の石だったが、テスピアイには多くの美術作品があった。その中には、古代世界の彫刻の中でも有名なものの1つ、プラクシテレスの『エロス』もあって、それを見ようと人々がテスピアイまで詣でてきた。そのエロス像はローマ皇帝カリグラ帝がローマに持ち出し、次代のクラウディウス帝が一度返還したが、再びネロ帝が持ち出した。リュシッポスのエロスのブロンズ像もテスピアイにあった。さらにテスピアイ人はムーサも崇拝していて、ヘリコーン山の聖なる林でムーサを讃える祭を催した。 おそらく古代の砦であったろう廃墟が今も残っている。楕円形の輪郭を持つ砦で、がっしりして、規則的に建っている。東と西の隣接した地面は、この古代都市の範囲を示す土台に覆われている。1882年には、巨大な石のライオン像を含む墓の遺跡がレウクトラ村(:en: Leuctra)に続く道から発掘された。この墓は紀元前5世紀に作られ、おそらくプラタイアの戦いで戦死したテスピアイ兵のためのものであろう。テルモピュライの戦いの時は、戦死した兵は戦場で埋葬された。 歴史の中では、テスピアイは主にテーバイの敵として現れる。紀元前480年のアケメネス朝ペルシアの侵略(第二次ペルシア戦争)の時は、テーバイの示した基準に反抗したボイオティアの数少ない都市の1つで、700人の兵をテルモピュライに送り、スパルタのレオニダス1世とともに戦い、スパルタ軍ともども玉砕した。ペルシアのクセルクセス1世によって町を焼かれた後も、生き延びたテスピアイ人はプラタイアのギリシア連合軍に1,800人の兵力を提供した。ペロポネソス戦争にて、紀元前424年のアテナイのボイオティア侵攻の時は、デリオンの戦い(:en:battle of Delium)でボイオティアを支援するテスピアイ分遣隊は甚大な損失を蒙った。その翌年、テーバイはテスピアイの一時的な衰退につけこみ、テスピアイが掌を返して隣国アテナイに接近したのを非難し、テスピアイの城壁を取り壊した。テーバイは紀元前414年にも民主主義の台頭をやめさせようと干渉した。コリントス戦争ではテスピアイはスパルタ側について、紀元前379年から紀元前372年にかけてテーバイ攻撃の基地としてスパルタに尽くした。しかし紀元前372年にテーバイに降伏し、紀元前371年にはレウクトラの戦いに分遣隊を送ることを強いられた。おそらくその戦いの直後、テーバイはその優位性を利用し、テスピアイを破壊し、住民を追放した。テスピアイが再建されたのは数年経ってからだった。紀元前171年、テーバイへの敵対政策に一致することから、テスピアイは共和政ローマに接近した。その後のテスピアイについては、ストラボンはなかなかの規模の都市だと、大プリニウスは自由都市だったと、それぞれ述べている。 テスピアイの市民はThespiansと呼ばれるが、役者を意味するthespianはこの都市ではなく、伝説上の最初の俳優テスピスに由来する。.

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フランク・ミラー

フランク・ミラー(2008年) フランク・ミラー(Frank Miller、1957年1月27日 - 、アメリカ合衆国メリーランド州出身)はアメリカのコミックライター兼アーティストであり、『デアデビル』シリーズ、『バットマン:ダークナイト・リターンズ』、『シン・シティ』シリーズ等のアメリカン・コミック、グラフィック・ノベルの原作者。アラン・ムーアと並び現代最高のライターとの呼び声も高い。また、2005年には自作の映画化作品『シン・シティ』によって映画監督デビュー(ロバート・ロドリゲスとの共同監督)を果たしている。映画監督としての最新作は2008年公開の『ザ・スピリット』であり、初の単独監督作品でもある。アイルランド系のカトリック教徒。.

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ファランクス

ファランクスの戦闘想像図 ファランクス()は、古代において用いられた重装歩兵による密集陣形である。集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。.

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フォキス

ポーキス(Φωκίς)は、コリンティアコス湾の北部にあった、古代ギリシアの一地方。現代音(カサレヴサ)ではフォキス。名称は現在のフォキダ県(フォキス県)に受け継がれているが、範囲は必ずしも一致しない。 ポーキスという名前は、ポセイドーンの子でこの国の創設者である神話の登場人物ポーコス(Phocus.

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アリストデモス (スパルタ人)

アリストデモス(希:Ἀριστόδημος, ラテン文字転記:Aristodemos, ?-紀元前479年)はペルシア戦争に参加したスパルタの戦士である。 アリストデモスは紀元前480年のテルモピュライの戦いに一旦参加したが、その時重い眼病を患っており、司令官のレオニダス1世の許可を得て、同じく病を患っていたエウリュトスという者と共に後方のアルペノイで床に臥せっていた。テルモピュライでスパルタ軍が玉砕する直前、エウリュトスは戦場に戻って他の兵士と共に戦死したのに対し、アリストデモスは臆して国に帰った。一説によるとアリストデモスはその時伝令を命じられて戦場を離れており、彼は遷延して生き延び、彼と共に伝令を命じられた者は戦場に戻って戦死したという。いずれにせよもう一人は戦死したにもかかわらず、一人のこのこと帰ってきたアリストデモスはスパルタ人たちから激しい糾弾を受けた。彼は「腰抜けアリストデモス」と呼ばれ、誰からも口を聞いてもらえず、火も貸してもらえない言わば村八分のような扱いを受けた。 翌紀元前479年のプラタイアの戦いにアリストデモスは参加し、素晴らしい働き振りを示して汚名を雪いで戦死した。しかし、誰がこの戦いでの一番の勇者であるかを決定する際、アリストデモスは明らかに死を望んで狂乱の状態で戦列から飛び出して大功を立てたのに対し、ポセイドニオスは死を望むこともなく大功を立てたとしてポセイドニオスが一番の勇者であると判断され、アリストデモスは名誉を顕彰されなかった。ヘロドトスはこの判定には嫉妬の念も混ざっているとしている。.

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アルテミシオンの海戦

アルテミシオンの海戦(アルテミシオンのかいせん、希語:Ναυμαχία του Αρτεμισίου)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年、エウボイア島北端部のアルテミシオン沖でアテナイを中心とするギリシア海軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた海戦である。ヘロドトスの『歴史』に詳しく叙述されている。陸戦(テルモピュライの戦い)においてペルシア遠征軍が勝利したため撤退したが、この海戦ではギリシア艦隊は数で勝るペルシア艦隊とほぼ互角に渡り合った。.

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アレクサンドロス1世 (マケドニア王)

アレクサンドロス1世(希:Ἀλέξανδρος Αʹ 、ラテン文字転記:Alexandros I、在位:紀元前498年-紀元前454年)は紀元前5世紀後半のマケドニア王である。彼は形ではアケメネス朝ペルシアに従っていたが、いくつもの対立行動を取った筋金入りの反ペルシアであった。古代オリンピア競技に初めて参加したマケドニア人としても知られる。先代王アミュンタス1世の子。 アレクサンドロス1世の息子には、次代の王アルケタス2世とさらに次代の王ペルディッカス2世(アルケタスを殺して王位についた)、そしてピリッポス(ペルディッカスに反旗を翻し、あるいはメネラオスとも言われる)がいる。.

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アテナイ

アクロポリス、間にアレオパゴス、西にプニュクスがある。 アテナイと外港ペイライエウス アテナイ(: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。名はギリシア神話の女神アテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。.

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アケメネス朝

アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 ハカーマニシュ、Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。.

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カルネイア祭

ルネイア祭(希:Κάρνεια、英:Carnea)は、スパルタにおける重要な宗教祭儀の一つ。アポロン・カルネウスの栄光を称えるために開催された。カルネウスはペロポネソス半島に伝わる古い神格であり、後にアポロンと関連付けられたのだと考えられているが、多くは分かっていない。しかし、カルネウスは「家畜の群れの神」という意味であり、「(穀物や葡萄などの)収穫を司る神」であった。カルネウス信仰の中心地はスパルタであり、そこでは毎年、カルネウス月の7日から15日にカルネイア祭が開催された。この期間中は軍事的行動の全てが禁止され、そのためにスパルタはテルモピュライの戦いにおいて全軍を出動させることができず、レオニダス王とその親衛隊300人しか動員できなかった。.

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ガリア人

リア人(Gallī ガッリー、フランス語:Gaulois ゴルワ)は、ケルト語派を話すいわゆるケルト人のうち、ガリア地域に居住してガリア語あるいはゴール語を話した諸部族の人々を指す。 古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリア人」 (Gall&#299)と「ケルト人」 (Celtae) をおおむね同義として扱った。しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジアに移住したケルト人(ガラティア人)やブリテン島の諸部族に対してガリア人は明らかに区別することができる。.

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ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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クセルクセス1世

ルクセス1世(古代ペルシア語: 𐎧𐏁𐎹𐎠𐎼𐏁𐎠 - Hašayārašā - ハシャヤーラシャー, Xerxes I)は、アケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前486年 - 紀元前465年)。.

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コリントス地峡

リントス地峡(Ισθμός της Κορίνθου; Isthmus of Corinth)は、ギリシャの本土とペロポネソス半島とをつなぐ地峡。コリンティアコス湾とサロニコス湾(エーゲ海)に挟まれており、幅は約6km。コリントス運河によって二つの海が結ばれている。.

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シモーニデース

のシモーニデース(Σιμωνίδης ο Κείος,, 紀元前556年頃 - 紀元前468年)は、古代ギリシアの抒情詩人である。長母音を省略してシモニデスとも表記される。ケオス島(現ケア島)のIoulisの生まれ。ヘレニズム期アレクサンドリアの学者たちは、シモーニデースをサッポー、ピンダロスらと一緒に9歌唱詩人の一人に数えた。甥のバッキュリデースも詩人である。.

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シケリアのディオドロス

リアのディオドロス (Διόδωρος Σικελιώτης, Diodooros Sikheliootees, ディオドロス・シケリオテス, ラテン語名 Diodorus Siculus, ディオドルス・シクルス, 紀元前1世紀)は、シケリア(シチリア)島で生まれた古代ギリシアの歴史家である。.

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ジャック=ルイ・ダヴィッド

ャック=ルイ・ダヴィッド(、1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。.

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スパルタ

パルタ(: Σπάρτα / Spártā スパルター、Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。自らはラケダイモーン(Λακεδαίμων / Lakedaimōn)と称した。 古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られる。.

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スパルタ総攻撃

『スパルタ総攻撃』(スパルタそうこうげき、原題:The 300 Spartans)は、1962年制作のアメリカ映画。.

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サラミスの海戦

ラミスの海戦(サラミスのかいせん、Ναυμαχία της Σαλαμίνας、英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前480年9月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。 この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。.

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紀元前480年

紀元前480年はローマ暦の年である。.

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重装歩兵

古代ギリシアの重装歩兵 重装歩兵(じゅうそうほへい, heavy infantry, hoplite)は、兜、胴、脛当て、盾による重装備の防御を施した歩兵。世界各地に発生して活躍した。ラテン語ではホプリテス(hoplites 重装歩兵)、剣闘士の場合はとくにホプロマクス(Hoplomachus 重装剣闘士)と呼称される。.

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歴史 (ヘロドトス)

''Historiae'' 『歴史』(れきし、, ラテン文字転記: (ヒストリアイ))は、ハリカルナッソスのヘロドトスが記した歴史書である。この書を著したことにより彼は「歴史の父」と呼ばれる。 紀元前5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間の戦争(ペルシア戦争)を中心的主題とし、ペルシアの建国および拡大、オリエント世界各地の歴史、風俗や伝説をちりばめた地誌でもある。紀元前443年、アテナイによる南イタリア(マグナ・グラエキア)のトゥリオイ市の殖民にヘロドトスは参加し、この地で記した。イオニア方言で記述されている。 ヘロドトスは古代世界を旅し、各地の話を集めて行ったと思われる(それゆえか疑わしい話も少なからずある)。10世紀後半に東ローマ帝国で編纂されたスーダ辞典によれば、ヘロドトスは統治者へのクーデターへ参加した為にハリカルナッソスから追放されたとある。旅はこの機会に行われたと見られている。 ギリシアとペルシアの諍いの原因として、ヘロドトスは、絶対的権力を持つペルシア王と民主的行政府を持つギリシアのイデオロギーの相違が原因であると言及している。有名なマラトンの戦いは第6巻に含まれている。.

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海(うみ)は、地球の地殻表面のうち陸地以外の部分で、海水に満たされた、一つながりの水域である。海洋とも言う。 海 海は地表の70.8%を占め、面積は約3億6106万km2で、陸地(約1億4889万km2)の2.42倍である。平均的な深さは3729m。海水の総量は約13億4993万立方キロメートルにのぼる理科年表地学部。ほとんどの海面は大気に露出しているが、極地の一部では海水は氷(海氷や棚氷)の下にある。 陸地の一部にも、川や湖沼、人工の貯水施設といった水面がある。これらは河口や砂州の切れ目、水路で海とつながっていたり、淡水でなく塩水を湛えた塩湖であったりしても、海には含めない。 海は微生物から大型の魚類やクジラ、海獣まで膨大な種類・数の生物が棲息する。水循環や漁業により、人類を含めた陸上の生き物を支える役割も果たしている。 天体の表面を覆う液体の層のことを「海」と呼ぶこともある。以下では主に、地球の海について述べる。.

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300 (コミック)

『300』は、1998年の漫画作品。原作・作画:フランク・ミラー、着色:リン・バーリー。 このコミックは、テルモピュライの戦いとスパルタのレオニダス1世の逸話を脚色したストーリーである。ミラーが少年期に見た1962年の映画『スパルタ総攻撃』の影響を受けているフランク・ミラー, 300 #3 (1998年6月),"slings & arrows" letters page, ダークホースコミックス。2007年、ザック・スナイダー監督により製作された同名映画が公開された。.

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300 〈スリーハンドレッド〉

『300 〈スリーハンドレッド〉』(原題: 300)は、2006年のアメリカ映画。フランク・ミラー原作のグラフィックノベル『300』を元にペルシア戦争のテルモピュライの戦いを描いた作品。 日本ではR15+指定。.

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