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ジョチ・ウルス

索引 ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

202 関係: 君主奴隷中央アジアミンガンママイ (キヤト部)マムルークマムルーク朝ノムガンノヴゴロド公国マー・ワラー・アンナフルノガイノガイ・オルダチャガタイ語チンギス・カンハンガリーハーンバヤン (バアリン部)バラク (チャガタイ家)バラク (ジョチ家)バルハシ湖バルカン半島バトゥバイバルスポーランド・リトアニア共和国ポーランド分割ムガル帝国ムスリムモンケモンケ・テムルモンゴルのポーランド侵攻モンゴルのルーシ侵攻モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻モンゴル帝国モンゴル帝国帝位継承戦争モンゴル語モスクワモスクワ大公国ヨーロッパリトアニアの内戦 (1431年-1435年)リトアニア大公国リプカ・タタール人ルーシロシア帝国ロシア・ツァーリ国ロシア革命ロシア語ヴォルガ川トルイトビリシトダ・モンケ...トゥラ・ブカトカ・テムルトガントクタトクタミシュトクタキヤブハラ・ハン国ブルガリアブルガールヒヴァ・ハン国テムル・ブカ (淮王)テュルク系民族ティムールティムール・メリク (ジョチ家)ティムール朝ティーニー・ベクフメリニツキーの乱フレグフィン・ウゴル系民族ドナウ川ドイツ騎士団ベルディ・ベクベルケ呪いアバカアリクブケアルタイ山脈アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)アイン・ジャールートの戦いアストラハン・ハン国アゼルバイジャンイルハン朝イヴァン1世イヴァン3世イヴァン4世イスラム教ウラクチウラジーミル・スーズダリ大公国ウルスウクライナ語ウズベクウズベク・ハンエルティシ川エディゲエジプトオルドオルダオロスオゴデイカラコルムカイドゥカザン・ハン国カザフカザフ・ハン国カザフステップカシモフ・ハン国カスピ海ガザン・ハンキプチャクキプチャク草原キエフキエフ大公国クラ川クリミア半島クリミア・ハン国クリルタイクリコヴォの戦いクーデタークトクトゥクビライゲル (家屋)コンギラトコーカンド・ハン国コーカサスシバン (ジョチ・ウルス)シャイバーニー朝シュヴィトリガイラシリギシビル・ハン国シベリアジャーン朝ジャーニー・ベクジョチジョージア (国)ジェノヴァスーフィースーフィー朝ステップ (植生)タンネンベルクの戦い (1410年)タタールタタールのくびきタタール語サマルカンドサライ (都市)サルタク元 (王朝)青水の戦い親征黒海英語雲南集史日本語1206年1224年1225年1235年1240年1242年1243年1253年1256年1260年1262年1264年1266年1267年1277年1280年1282年1287年1291年1299年1328年1342年1357年1359年1362年1376年1377年1378年1379年1380年1395年13世紀1410年1423年1431年1459年1465年1480年1481年14世紀1502年1569年15世紀16世紀1783年1804年18世紀1942年2005年 インデックスを展開 (152 もっと) »

君主

フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.

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奴隷

鞭打ちによる傷跡のある黒人奴隷(米国1863年) 奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。 1948年に国連で採択された世界人権宣言では、次のような宣言がある。.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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ミンガン

ミンガン(、)とはモンゴル語で「千」を表す単語であり、転じてモンゴル帝国時代には千人の軍隊を供出する軍事・政治上の行政単位及びその長官をミンガン(千戸、千人隊/千戸長、千人隊長)と称した。 十進法区分に基づいた軍隊の編成自体は紀元前より遊牧国家で行われている伝統的な制度であるが、チンギス・カンの創設した「千人隊」は旧来の氏族的紐帯を解体し、自ら(カーン/大ハーン)に絶対的な忠誠心を有する親兵たちを千人隊長に任命して編制された点に特徴があった。このため、千人隊を基盤とするモンゴル軍は氏族間のしがらみに囚われずカーンの命令に絶対服従する軍団として機能し、モンゴル帝国による諸国征服の大きな原動力となった。 また、千人隊は軍制上の単位としてだけではなく、行政単位としての側面も持っていた。千人隊長は各自遊牧民と遊牧地(nutuq)を割り当てられ、これに征服戦争で得た捕虜を加えて新たな部落(アイマグ)を形成した。千人隊長は千人隊の軍事上の指揮官であると同時に部落の長・領主であり、千人隊長は自らの部落(アイマグ)を統治し常時千人隊を供出することができるよう維持することを義務づけられた。 千人隊長はモンゴル帝国の根幹を為す高官であり、モンゴル帝国を統治する貴族層(Noyanノヤン)と位置づけられていた。千人隊長たるノヤンと被征服民出身の官僚との間には厳然たる区別があり、ノヤンは帝国の重大事項(カーンの選出など)を決定するクリルタイへの出席を許されるなど種々の特権を有していた。.

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ママイ (キヤト部)

ママイ(Mamai、? - 1380年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の軍人・政治家。キヤト部の出身川口「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、286-287頁。現在のウクライナ南部・クリミア半島に渡る地域を支配していた。 史料ではウズベク・ハンの即位に功績があったキヤト族の貴族イサタイの甥、またベルディ・ベク・ハンの女婿と伝えられる。.

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マムルーク

マムルーク(単数形: مملوك mamlūk, 複数形: مماليك mamālīk)は、イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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ノムガン

ノムガン(Nomuγan, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。漢字表記は那木罕、『集史』などのペルシア語表記では نوموغان Nūmūghān などと書かれる。世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの四男。 モンゴルの末子相続の制度により、両親の財産を最も多く相続できる立場にある嫡子中の末子であったことから、クビライの有力な後継者候補であった。1266年に北平王の称号を与えられて、父クビライの北方方面における代行者となり、モンゴル民族の本土であるモンゴル高原に駐留、高原における全遊牧民軍団の兵馬を統括した。ノムガンの王府は旧都カラコルム近郊の牧地を遊牧移動し、チンギス・ハーンの4大オルドで執り行われるチンギス・ハーンの祭祀を管理した。 ノムガンの主要な軍事的任務は、アルタイ山脈の西にあるオゴデイ家とチャガタイ家のウルス(国)に対して軍事的圧力をかけて、大ハーンの影響力を伸ばすことにあり、1275年にクビライの中央政府の高官である中書右丞相アントンを附属されて、中央アジア遠征に進発した。ノムガンは高原の諸王族を率い、当主の座をめぐってチャガタイ家に混乱が続くのに乗じてチャガタイ家のウルスの本拠地イリ川渓谷に侵入、その中心都市アルマリクに駐留した。しかし翌1276年夏、従軍していたノムガンの従兄弟シリギらが軍中で反乱を起こし、ノムガンとアントンは捕らえられて、アルマリクに駐留する北平王軍は瓦解した。 ノムガンはシリギによってジョチ・ウルスに引き渡され、中央アジアで虜囚生活を送った。しかしシリギの期待に反して、ジョチ・ウルスはノムガンの身柄を受け取ってもシリギに対する援助を行わず、クビライに表立って反抗する姿勢をとらなかったため、その反乱はクビライによって鎮圧された。1282年、ノムガンは釈放されて父クビライのもとに帰ることができた。 帰国後、ノムガンは北安王の称号を与えられて、再びモンゴル高原での駐留を命じられたが、モンゴル高原方面の主力は中央から派遣されてきたバヤン率いる軍隊になっており、ノムガンはその後のカイドゥとの戦いにほとんど活躍しないまま、数年のうちに没した。ノムガンに子はなかったので、北安王家は1代で断絶し、その軍隊は1291年に晋王に封ぜられた甥のカマラに引き継がれた。 Category:元の皇族 Category:クビライの子女 Category:クビライ家 Category:生没年不詳.

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ノヴゴロド公国

ノヴゴロド公国(Новгородская республика、Новгородская земьля)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。 「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。.

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マー・ワラー・アンナフル

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。 アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁川口『ティムール帝国』、116頁。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。 「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。 「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。 7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた川口『ティムール帝国』、115-116頁。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。.

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ノガイ

ノガイ(Noqay, Noγai, ? - 1299年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の有力者。チンギス・ハーンの長男ジョチの血を引く王族で、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子、すなわちジョチの曾孫である。『集史』などのペルシア語資料では نوقاى Nūqāy と表記されている。.

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ノガイ・オルダ

ノガイ・オルダは、15世紀から16世紀にかけて存続したジョチ・ウルスの継承政権のひとつ。カフカス北部からカスピ海北岸を中心としてキプチャク草原の一角を支配した。 ジョチ・ウルス東部の有力者であったマンギト(マングィト)部のエディゲとヌラディン(ヌールッディーン)の父子が実質上の建国者である。「ノガイ」の名は他称であって、彼ら自身は支配者の部族名を取ってマンギトと称した。ノガイの名の由来は確実ではないが、普通には13世紀後半にジョチ・ウルス右翼(西部)の有力者であったジョチの曾孫ノガイに関係していると見られている。.

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チャガタイ語

チャガタイ語は中央アジアのテュルク系言語を基礎とし、それにペルシア語やアラビア語の語彙語法を加えた言語。チャガタイ・トルコ語とも呼ばれる。現在は死語である。 15世紀のティムール朝の時代を中心に中央アジアとイラン東部で発達した文語で、20世紀まで中央アジア、南ロシアなどの地域で使用された間野「チャガタイ語」『新イスラム事典』、336頁。13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在したチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)に住む遊牧民の総称である「チャガタイ」に由来する濱田「チャガタイ語」『岩波イスラーム辞典』、633頁。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペスト。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。首都のブダペストにはロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バヤン (バアリン部)

バヤン(Bayan, 1236年 - 1295年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。.

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バラク (チャガタイ家)

バラク(Barāq、? - 1270年もしくは1271年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第7代当主(1266年 - 1271年)。漢語表記は八刺。ペルシア語資料では براق (Barāq)。チンギス・ハーンの次男チャガタイの長男であったモエトゥケンの三男イェスン・トアの次男である。チャガタイの曾孫にあたり、伯父にブリ、叔父に第2代当主カラ・フレグ、従兄弟に第6代当主ムバーラク・シャーがいる。.

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バラク (ジョチ家)

バラク(Baraq/Burak/Borak、? - 1428年頃長峰「「カザク・ハン国」形成史の再考『東洋学報』90巻4号、08頁クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、76頁)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の君主(ハン、在位:1419年 - 1482年頃)。1370年代のジョチ・ウルスのハンであるオロスの孫にあたる。 バラクの父であるクユルチュク(クイルチャク/コイルチャク)はジョチ・ウルスのハンの地位を窺ったが権力の奪取に失敗し、父の跡を継いだバラクもハン位を求めた。1419年5月にバラクはティムール朝統治下のサマルカンドを訪れてサマルカンドの支配者であるウルグ・ベクに援助を求め長峰「「カザク・ハン国」形成史の再考『東洋学報』90巻4号、06頁、ウルグ・ベクから王と同様の厚遇を受けた。 キプチャク草原に帰還したバラクは、トカ・テムル家のフダーイダード、ウルグ・ムハンマドらハン位を巡る競争者に勝利を収める。1422年9月にバラクはヴォルガ川流域でフダーイダードに決定的な勝利を収めクシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、75頁、1423年にはヴォルガ川を越え、モスクワ南方のオドエフに侵入した。1424年にウルグ・ムハンマドを破り、1424年末から1425年初頭にかけての時期にバラクはウルグ・ベクの元に使者を派遣し、ハン位を宣言した。バラクの使者は白隼と駿馬を携え、ウルグ・ベクは返礼として高官、職人、献酌人、楽人を付けて使者を送り返した。 後にバラクはウルグ・ムハンマドによって首都サライを奪われ、1426年頃にウルグ・ムハンマドはハンへの復位を宣言する。1427年にはバラクが東のキプチャク草原、トカ・テムル家のデヴレト・ベルディがクリミア半島、ウルグ・ムハンマドがサライ周辺を支配する、ジョチ・ウルス内の構図が成立していた。 西方での勢力拡大に失敗したバラクは東方への進出を試み、同盟者であるマンギト部の指導者マンスールを殺害する。1426年/27年に「祖父のオロスがこの地に住み、建物を作り上げた」ことを根拠として、かつてオロスが支配していたスグナクの領有権を主張し、ウルグ・ベクと対立する。満足のいく返答を得られなかったバラクはスグナクとその近辺を略奪し、ティムール朝の総督アルスラン・ホージャ・タルハンはウルグ・ベクに援助を求める。バラクはスグナク近郊の丘陵での戦闘でウルグ・ベクを破り、マー・ワラー・アンナフルの一部とテュルキスタンを略奪してキプチャク草原に帰還した。草原に戻って間もなく、バラクはマンギトと同盟したクチュク・ムハンマド・ハンとの戦闘で落命したと考えられている。.

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バルハシ湖

バルハシ湖の衛星写真 バルハシ湖(Balqash Köli、Озеро Балхаш)は、カザフスタン東部にある湖。中央アジア最大の湖である。 面積は16,996km2で、かつてはアラル海のほうが広かったが、アラル海の縮小・分裂により、バルハシ湖が中央アジア最大となった。アジアではバイカル湖に次ぎ2位、世界では14位。近年では流入量の減少、水質汚染が危惧されている。 長さ605km、最大幅74km。標高342m、貯水量122km3、平均水深5.8m、最大水深25.6m。湖の西半分は淡水だが、東半分は塩湖。 流れ込む川はイリ川などがある。流れ出す川はなく、内陸湖である。11月~4月中旬の間は氷結する。 周辺にはバルハシ、サルイシャガン、レプスイなどの町がある。 Category:内陸湖 Category:塩湖 Category:カザフスタンの湖 Category:カザフスタンのラムサール条約登録地.

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バルカン半島

バルカン半島(バルカンはんとう、Balkans、Balcania)は、ヨーロッパの南東部で、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ(スレム、バチュカ、バナト)及びトルコのヨーロッパ部分(ボスフォラス海峡以西)からなる地域である。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア(1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない(バルカン山脈に詳しい)。オスマン語でバルカンは森林山脈を意味する。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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バイバルス

バイバルス・アル=ブンドクダーリー(الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁/28年佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁/33年 - 1277年6月30日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁/7月1日牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(君主。在位:1260年 - 1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもあるヒッティ『アラブの歴史』下、641頁。即位名によりアッ=ザーヒル・バイバルス(الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。.

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ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国、国内ではジェチュポスポリタ(Rzeczpospolita、共和国)と呼ばれた。また、二民族の共和国という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である。歴史学では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。 16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった. Retrieved March 19, 2006: At its apogee, the Polish-Lithuanian Commonwealth comprised some and a multi-ethnic population of 11 million. For population comparisons, see also those maps:,. 。.

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ポーランド分割

ポーランド分割(ポーランドぶんかつ、Rozbiór Polski・Rozbiory Polski、Lietuvos-Lenkijos padalijimai、Падзелы Рэчы Паспалітай、)は、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。その後、ウィーン会議により改めて4度目の分割も行われた。.

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ムガル帝国

ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول、Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラなど。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンケ・テムル

モンケ・テムル(Mängü-Temür, Möngke-Temür, ? - 1280年?)は、ジョチ・ウルスの第6代宗主(ハン)である。(在位:1267年-1280年?) バトゥ(チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男)の次男の次男であり、バトゥの孫に当たる。モンケ・テムルは中世モンゴル語発音で、テュルク語発音でマング・ティムールとも呼ばれている。漢語資料では忙哥帖木兒、蒙哥鐵木と表記され、ペルシア語資料では مونككه تيمور Mūnkka Tīmūr と表記される。.

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モンゴルのポーランド侵攻

モンゴルのポーランド侵攻(モンゴルのポーランドしんこう)は、「バトゥの西征」()のうち、1240年後半から1241年にかけての「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「レグニツァの戦い」、「モヒの戦い」等のシロンスク公ヘンリク2世率いるキリスト教騎士修道会とポーランド軍を壊滅させた諸戦闘の総称である。.

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モンゴルのルーシ侵攻

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。.

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モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻は1223年に始まった。この時はモンゴルを退けたヴォルガ・ブルガールであったが、1236年のバトゥによる征西軍による攻撃では主要都市を破壊され大打撃を受けた。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル帝国帝位継承戦争

モンゴル帝国帝位継承戦争(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、1260年 - 1264年)は、モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)モンケの死後に、その一つ下の弟・クビライと、一番下の弟・アリクブケの兄弟が共に大ハーン継承を宣言したことから起きた内乱。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め名実共に第5代大ハーンとなった。 古来「アリクブケの乱」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。このことから、クビライこそが当初は反乱者であり、「アリクブケの乱」という名称は勝者クビライによって後に捏造されたと考えられる。.

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モンゴル語

モンゴル文字で書かれた「モンゴル」 モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル語を含むモンゴル語族は、テュルク語族及びツングース語族とともにアルタイ諸語と呼ばれる。 第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語に規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語でなされるが、バヤン・ウルギー県では学校教育をカザフ語で行うことが認められている。こうした地域の人々の中にはモンゴル語を全く解さない者もいる。モンゴル国外には10万人以上のモンゴル国民が居住(日本国内にも合法・不法合わせ数千人が滞在しているものと推定されている)しており、かれらの母語でもある。 モンゴル諸語のうち、どこまでを「モンゴル語」と呼ぶのか明確な定義はないが、一般的にはモンゴル国や中国の内モンゴル自治区でも話されているものがモンゴル語とされる。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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モスクワ大公国

1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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リトアニアの内戦 (1431年-1435年)

1431年から1435年にかけてのリトアニアの内戦は ヴィータウタスが1430年に後継者を残すことなく没した後に勃発したリトアニア大公国の公位を巡る争いである。この内戦は、ドイツ騎士団と同盟したシュヴィトリガイラと、ポーランド王国の支援を受けたジーギマンタス・ケーストゥタイティスとの間で行われた。争いはクレヴォの合同で締結されたポーランドとリトアニアの同君連合を破壊する恐れがあった。シュヴィトリガイラの同盟者であるドイツ騎士団総長パウルス・フォン・ルスドルフはポーランド・ドイツ騎士団戦争を開始したが、シュヴィトリガイラのために勝利を確保するのに失敗した。 1432年にシヴィトリガイラが成功をおさめることでリトアニアの権力を掌握すると、リトアニアは2つの勢力に分裂して3年に及ぶ国土を荒廃させる争いが始まった。ドイツ騎士団のよるシュヴィトリガイラへの支援の継続を中断させるためにポーランドは1434年のフス派によるプロイセン侵攻を支援した 。争いは1435年9月に行われたパバイスカスの戦いでシュヴィトリガイラとその同盟者であるリヴォニア騎士団の決定的な敗北で終了した。シュヴィトリガイラは1437年に最終的に降伏した。ジーギマンタスは1440年に暗殺されるまでたった8年間統治しただけであった。.

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リトアニア大公国

フ県などが置かれた地域)を獲得した。 合同により、現在のウクライナにあたる地域がポーランドの領土となっている。 ヤン・マテイコ画『リトアニア大公国の洗礼』(1387年) リトアニア大公国(リトアニアたいこうこく、、)は、13世紀から1795年のあいだにリトアニアを中心とした地域を支配した国家である。その全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。このルーシ人は、のちのベラルーシ人やウクライナ人の先祖に当たり、やがてリトアニア人とあわせてと呼ばれるようになった。 リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、小さな異教国家(非キリスト教国家、Romuva)であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域(すなわちヴォルィーニ公国やハールィチ公国の地域)も徐々に広く包含するようになると、そういった地方の支配層も取り込むようになったため結果として大公国全体で徐々に正教徒の東スラヴ人が政治的に優勢となった。原リトアニアでも東スラヴの文化を広く受け入れるようになり、大公国の唯一の公用語として教会スラブ語が採用された。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としたが、正教徒の信仰も認められた。1430年以後、ポーランド王国と実質的な同君連合となり(ポーランド・リトアニア合同)、支配階層のポーランド文化への同質化が進んだ。1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国との連合政体であるポーランド・リトアニア共和国を形成した。.

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リプカ・タタール人

リプカ・タタールの国旗 リプカ・タタール人(Tártaros de Lipka)は、14世紀初頭にリトアニア大公国に移住してきたタタールを起源とする民族集団。.

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ルーシ

ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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ロシア・ツァーリ国

ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.

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ロシア革命

ア革命(ロシアかくめい, Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ, Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。 「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。.

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ロシア語

ア語(ロシアご、русский язык )は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語とも略される。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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トルイ

トルイ(モンゴル語:、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān) 、モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(大ハーン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイ、ツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。 幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギスの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。.

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トビリシ

トビリシ(グルジア語: თბილისი, Tbilisi 、略称TBS)は、ジョージア国(グルジア)の首都。ときにティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされている。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。人口は約110万人。 ジョージア国東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。.

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トダ・モンケ

トダ・モンケ(Tödä-Möngke, Töde-Mängü 生没年不詳)は、ジョチ・ウルスの第7代宗主(ハン;在位1280年?-1287年)。バトゥの孫。バトゥの次男トクカンの三男にあたり、先代のモンケ・テムル・ハンの同母弟である。中世モンゴル語発音ではトデ・モンケ。漢語資料では脱脱蒙哥、脱脱忙哥と表記され、ペルシア語資料では تودا مونككه Tūdā Mūnkka と表記されている。 彼とモンケ・テムル・ハンの母はオイラト部族のカルチュ(またはクチュ)・ハトゥンである。カルチュ・ハトゥンの父はチンギス・ハンに帰順したオイラト部族の首長クドカ・ベキの息子でトレルチという人物であった。カルチュ・ハトゥンには他に姉妹がおり、モンケ・カアンの第2の正妃(ハトゥン)で大ハトゥンと称されていたオグルガイミシュ皇后(グユクの妃とは別人)と、フレグの第4正妃であったオルジェイ・ハトゥンが知られている。 1280年頃、第6代ハンであるモンケ・テムルが死去した後は、彼の息子が後継者となるはずであったが、ジョチ家の最有力王族である右翼諸軍つまりバトゥ・ウルスの代表ノガイと、左翼諸軍、オルダ・ウルスの統帥コニチの両首脳によって擁立された。トダ・モンケはモンケ・テムルの同母弟であり、バトゥ家の実質的な最長老格であった。1280年頃はシリギの乱によってクビライの皇子ノムガンとココチュが兄モンケ・テムルの許に拘留されており、この時バヤンの西方派遣で中央アジアの国際情勢は緊迫していたため、ジョチ・ウルスは困難な問題に直面していた。このためジョチ家のノガイ、コニチ両首脳はこれらの情勢にモンケ・テムルの嗣子たちでは対応が難しいあろうとの判断によってトダ・モンケを擁立したと考えられる。1282年にシリギがバヤンに降伏し、トダ・モンケ・ハン、ノガイ、コニチの三者は協議の結果、クビライの両皇子を大元ウルスへ送還している。 しかし、この即位に不満を持っていた、モンケ・テムル、トダ・モンケの異母兄で父トクカンの長子あったタルブ(タルトゥ)の息子トレ・ブカとその弟コンチェク、モンケ・テムルの長子アルグイとウズベク・ハンの父である十男トグリルチャの4人の王族たちが、トダ・モンケがイスラーム神秘主義に傾倒していることを理由に分別を失ったと称して、1287年にサライでクーデターを起こし廃位してしまった。 この後このトラ・ブカをハンとしコンチェクを共同統治者とする4王族によるジョチ・ウルス中央の支配と、アルグイの同母弟トクタ、トクタを保護したノガイらによって権力闘争が始まる。 甥のトレ・ブカたちによる廃位後のトダ・モンケの消息は良く解っていない。 彼には正妃であるハトゥンが2人おり、コンギラト部族出身のアルカチとアルチといった。側室もひとり知られておりトレ・クトルグと称した。息子も3人知られており、アルカチからウズ・モンケが生まれ、トレ・クトルグからチェチェクトゥが生まれた。もうひとりトベデイという息子がいるが、母は判明していない。 マムルーク朝側の資料である14世紀前半の歴史家ヌワイリーの記録によれば、トダ・モンケは兄のモンケ・テムルと同じくイスラームに帰依する敬虔なムスリムであったと伝えられている。彼は即位の後も自ら国政に携わらずにイスラーム神秘主義の導師(シャイフ)やファキーフ(ダルヴィーシュ、托鉢修行者)たちと交際してこれを保護し、イスラームの定める斎戒を遵守していたという。 Category:ジョチ・ウルスの君主 Category:中央ユーラシア史.

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トゥラ・ブカ

トゥラ・ブカ(Tula-Buqa, Töle-Buqa ? - 1291年)は、ジョチ・ウルスの第8代宗主(ハン:(在位1287年-1291年)。バトゥの次男トクカンの長男ダルブゥ(?)の長男。バトゥの曾孫で、モンケ・テムルとトデ・モンケの甥に当たる。弟にゴンチェクという人物がいた。中世モンゴル語発音ではトレ・ブカ。ペルシア語資料では تولا بوقا Tūlā Būqā と表記されている。 1287年に彼は弟のゴンチェクと、先代のモンケ・テムル・ハンの遺児アルグイとトグリルチャと謀って、ジョチ・ウルス右翼の最有力者ノガイと左翼オルダ・ウルスの統帥コニチによって擁立されていた叔父トデ・モンケ・ハンを廃位した。トレ・ブカはサライを中心とするジョチ・ウルスの中央部を掌握してハン位に即き、クーデターを決行した四者による協力体制によって独裁政治を行なうようになり、さらにクーデターに参加せず、自らのハン位を脅かす存在であったトクタ(マング・ティムールの五男でアルグイの同母弟)の存在を疎ましく思い、これを殺害を企てた。クリミア方面に所領(ウルス)を有していたトクタは、ドナウ川囲河口部一帯のジョチ・ウルス西部境域を鎮撫していた有力王族ノガイと手を結んだ。ノガイは仮病を使ってトレ・ブカらクーデターを実行したゴンチェクと、アルグイ、トグリルチャの他にトレ・ブカに同調したアルグイの兄弟ムラガン、カダアン、クトカンら王族たちを自らの陣営におびき出し、そこで待ち伏せていたトクタに襲撃させた。こうして1291年にトクタによってトレ・ブカは兄弟もろとも殺され、位も奪われてしまったのである。 Category:ジョチ・ウルスの君主 Category:中央ユーラシア史 Category:1291年没.

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トカ・テムル

トカ・テムル(Tūqā Tīmūr/Tūqāy-Tīmūr/Tūqāy Tīmūr、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・ハーンの長男ジョチの十三男。.

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トガン

トガン.

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トクタ

トクタ(Toqta, Toqtay, ? - 1312年)は、ジョチ・ウルスの第9代ハン(在位:1291年 - 1312年)。第6代ハン・モンケ・テムルの五男。漢語資料では脱脱として表れ、アラビア語資料では توقتا Tūqtā、ペルシア語資料では توقتاى Tūqtāy とも。母は、トルイ家の王女ケルミシュ・アカ・ハトゥンとジョチ家所属のコンギラト部族の首長サルチダイ・ノヤンとの娘オルジェイ・ハトゥン。同母兄弟にはモンケ・テムルの長男アルグイがいる。バトゥの曾孫のひとり。.

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トクタミシュ

トクタミシュ(Toqtamish, ? - 1406年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン(在位:1377年、1378年 - 1406年)で、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫である。ペルシア語・チャガタイ語資料ではトクタミシュ・ハン توقتاميش خان Tūqtāmīsh Khān と表記され、ロシア語ではトフタムィシ(Тохтамыш; Tokhtamysh)と表記される。ジョチ・ウルス左翼(東部)の小王族からティムール朝の援助を受けてハン位に立ち、分裂していたジョチ・ウルスの再統合と再編を果たすが、のちにティムールと対立し、敗れて没落した。.

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トクタキヤ

トクタキヤ( توقتاقيا Tūqtāqiyā ? - 1377年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン(1377年)。ジョチ家トカ・テムル家出身のオロス・ハンの長男。後にカザフ・ハン国の始祖となったケレイの祖父にあたる。一部資料によっては単にトクタ(オロス・ハンの子トクタ) توقتا بن اروس خان Tūqtā b. Urūs Khān とも書かれる。15世紀の『ムイーン史選(Muntakhab al-tavārīkh-i Muʿīnī)』の著者ムイーヌッディーン・ナタンズィーなど後代の歴史家によって、白帳(āq ūrda)ハンの第6代とされる。また、ティムールの伝記であるシャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『勝利の書(Ẓafar Nāma)』では、トクタキヤはジョチ・ウルスの当主としてはジョチから数えて第21代。16世紀初頭だがホーンダミールの歴史書『伝記の伴侶(Ḥabīb al-Siyar)』では同じく第22代に数えられている。 14世紀半ばにジョチ・ウルスの二つの根幹であったバトゥ家、オルダ家が相次いで断絶し、ジョチ・ウルスは宗主位を巡って激しい後継者紛争が続いていた。トクタキヤの父オロス・ハンはオルダ家が統率していたジョチ・ウルス左翼を構成するジョチ裔トカ・テムル家の王族のひとりで、オルダ家断絶後のジョチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現し、ウルスの再編を行っていた。その過程でオロスと対立・刑死したかつてのマンギシュラク(カスピ海東岸)の長官で同じトカ・テムル家の王族であったトイ・ホージャの遺児トクタミシュは、マー・ワラー・アンナフルのティムールのもとに亡命し、たびたびティムールの支援を受けてジョチ・ウルスへ軍を侵攻させていた。最初の侵攻では弟のクトルク・ブカが迎撃に出てトクタミシュを撃退する事に成功したが、クトルク・ブカは戦死してしまった。2度目の侵攻ではオロスの長子であるトクタキヤが迎撃に出たが敗北してしまった。しかし、トクタミシュを負傷させ軍も撤退に追い込んだ。3度目の侵攻にはティムール自身が出陣したものの冬の到来によって両者は休戦し、翌年1377年春には4度目の侵攻で再びティムールが侵攻して来た。これにオロス・ハン自身も迎撃に出たが、会戦前にオロスは病死してしまった。 1377年、トクタキヤは父オロス・ハンの死で跡を継ぐが、即位後約3か月S.G.クシャルトゥルヌイ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、72頁で死去した。著者不明の歴史書『テュルク諸族系譜(Shajarat al-Atrāk)』によると、「公正で優しい」君主だったという。.

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ブハラ・ハン国

ブハラ・ハン国(ブハラ・ハンこく、)は、16世紀初頭から20世紀初頭まで、ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。基本的に「ブハラに首都を置き、ハンを推戴する国家」の総称なので、歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、の3王朝を指す。このうちマンギト朝はハンからアミールへ君主号を変えたので、ブハラ・アミール国とも呼ばれる。.

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ブルガリア

ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。.

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ブルガール

ブルガール.

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ヒヴァ・ハン国

ヒヴァ・ハン国(-こく、Xiva Xonligi)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる本田「ヒヴァ・ハン国」『アジア歴史事典』8巻、1-2頁堀川「ヒヴァ・ハン国」『中央ユーラシアを知る事典』、439-440頁。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもあるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、245頁。.

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テムル・ブカ (淮王)

テムル・ブカ(Temür buqa,,,1286年 - 1368年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの孫で、モンゴル帝国の皇族。大元ウルスの末期に有力皇族として叛乱鎮圧に功績を挙げ、最後には大都陥落とともに戦死したことで知られる。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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ティムール

ティムール(تيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した羽田「ティームール」『アジア歴史事典』6巻、422頁。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。.

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ティムール・メリク (ジョチ家)

ティムール・メリク( تيمور ملك Tīmūr Malik ? - 1378年)は、ジョチ・ウルスのハン(1377年 - 1378年)。ペルシア語、チャガタイ語資料によっては、テムル・ハン تيمور خان Tīmūr Khān、テムル・ベク تيمور بيك Tīmūr Bīk、テムル・マリク・オグラン تيمور ملك اوغلان Tīmūr Malik Ūghlān とも書かれる。 ジョチの十三男トカ・テムルの末裔であるが、彼の出自については依拠する資料によって2つの説がある。トカ・テムルの子息たちのうち、キン・テムルの子アバイの子ノムカンを祖父とし、クトルク・テムルを父であるとする説、あるいはキン・テムルではなくキン・テムルの兄ウルン・テムルの後裔であるオロスの子でトクタキヤの弟とする説である。15世紀初頭のシーラーズの歴史家ムイーヌッディーン・ナタンズィーの『ムイーン史選(Muntakhab al-tavārīkh-i Muʿīnī)』によると、「飲酒に耽って常に酩酊し、政務を放棄した」人物だったというS.G.クシャルトゥルヌイ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、72頁。 1376年から1377年にかけてのティムール攻撃に従軍した際、脚を負傷した記録が残る。即位後にハンの地位を欲するトクタミシュと交戦し、一度は勝利するが、部下たちは泥酔して昼間から眠っていた彼に愛想を尽かしてトクタミシュの側に寝返った。1378年にカラタルの戦いでトクタミシュに敗れて戦死し、王位を奪われた。.

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ティムール朝

ティムール朝(、)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。.

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ティーニー・ベク

ティーニー・ベク(تينى بيك خان, Tīnī bīk Khan, ? - 1342年)は、ジョチ・ウルスの第11代当主(ハン、在位:1342年)で、先代のウズベク・ハンの息子。ティニベク・ハンとも呼ばれる。次代のジャニベク・ハンの同母兄弟で、母はウズベク・ハンの4人いた正妃(ハトゥン)のうち第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラ(タイトゥグリー)であった。バトゥの6世の子孫にあたる。資料ではタナー・ベク、ティニベク・ハンなどとも書かれる。 1334年頃にウズベク・ハンの宮廷を訪れたイブン・バトゥータの旅行記には、両兄弟について述べられており、ティーナ・バク تينه بك Tīna bak と書かれている。それによると、ウズベク在世中金曜礼拝のときには、父やその妃たちが座す玉座の段に下、右側に第一王子としてティーニー・ベクが、左側に第二王子として弟のジャーニー・ベクが座していたという。バットゥータが伝えるところによると、ティーニー・ベクは容姿秀麗な人物で、父ウズベクから次代ジョチ・ウルス当主として後継者に指名され、敬意を表される地位にあったという。後の伝聞として、父の死後に当主として即位し、しばらくジョチ・ウルスを統治していたが程なくして殺害され、その後をジャーニー・ベクが継いだという。 マムルーク朝の歴史家シュジャーイーの年代記によると、ヒジュラ暦742年(1341年 - 1342年)にウズベクはチャガタイ・ウルスへ大軍とともにティーニー・ベクを派遣したが、同年シャッワール月(1342年3-4月)にウズベクはサライで亡くなり、宮廷にいたジャーニー・ベクは策略を巡らして弟のヒドル・ベクともども兄のティーニー・ベクを殺害させ、即位したと言う。後の文献では、在位年月日が短いためか父ウズベクと弟ジャーニー・ベクの間から省かれる場合がある。 名前の「ティーニー」とは、ペルシア語で「身体」「肉体」を意味する「タン」(تن tan)から派生した「肉体の」「有形の」という意味の単語「タニー」(تنى tanī)に由来しており、弟のジャーニー(「魂の」の意味)と対になる意味の単語である。.

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フメリニツキーの乱

フメリニツキーの乱(フメリニツキーのらん、、フメリヌィーッチナ)は、1648年から1657年までの間、ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナにおいて、ウクライナ・コサックのヘーチマン(将軍)ボフダン・フメリニツキーが起こしたコサックの武装蜂起である。この蜂起はウクライナ対ポーランドの大規模の戦争に発展し、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を引き起こす一方で、ウクライナ・コサックによるヘーチマン国家の創立と、戦争に介入した隣国ロシア・ツァーリ国の強化という結果をもたらした。フメリニツキーの乱は、東ヨーロッパの政治地図を大きく切り替え、17世紀半ば以降当地域に住む多数の民族の運命を決めたので、東ヨーロッパ史上の最大の軍事衝突の一つだったと考えられている。 ウクライナ史学においてのフメリニツキーの乱は、ウクライナ民族解放戦争、コサック・ポーランド戦争、あるいはコサックの革命とも呼ばれる。日本における歴史学研究では多くの場合、ポーランド語風にフミェルニツキの乱と書いたり、ロシア語風にフメリニツキーの乱と称している。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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フィン・ウゴル系民族

ーミ人男性とサーミの伝統的なテント フィン・ウゴル系民族(フィン・ウゴルけいみんぞく、Finno-Ugric peoples)とはウラル語族フィン・ウゴル語派の言語を話す民族の総称である。.

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ドナウ川

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.

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ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

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ベルディ・ベク

ベルディ・ベク(? - 1359年)は、ジョチ・ウルスの第13代君主(1357年 - 1359年)。ベルディベク・ハンとも呼ばれる。 第12代君主のジャーニー・ベクの子。 1355年にジャーニー・ベクがチョバン朝の支配下にあったアゼルバイジャンを占領した際、アゼルバイジャンへの駐屯を命じられた。本国に帰還した父が重病に罹った報告を受けると、ベルディ・ベクはアミール(貴族)のアヒジャクにアゼルバイジャンの統治を委ねて本国に戻った。 遂には殺害して王位を奪った。 しかし父だけでなく、を殺害するなど反対派への粛清を徹底したことから、1359年に弟のクルナによって暗殺された。 ベルディ・ベクの死後、ジョチ・ウルスは大混乱となり、各地に君主が乱立することになった。.

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ベルケ

ベルケ(Berke, ? - 1266年?)は、バトゥの弟で、ジョチ・ウルスの実質の第5代君主(在位:1257年-1266年)。ジョチの三男で、母はスルターン・ハトゥン(エミン部族)。漢語表記では別児哥、ペルシア語資料では بركاى Barkāy または بركهBarka と綴られる。.

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呪い

呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。 特に人が人を呪い殺すために行うものは、古来日本では呪詛(じゅそ/ずそ/しゅそ)、あるいは調伏(ちょうぶく/じょうぶく)と言われることもあった。.

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アバカ

アバカ(Abaqa/阿八哈、اباقا خان Ābāqā khān、1234年2月27日 - 1282年4月1日)は、イルハン朝の第2代ハン(1265年 - 1282年)。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。.

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アリクブケ

アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。.

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アルタイ山脈

アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも。.

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アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)

アブル=ハイル・ハン(Abū'l-Khayr Khān、1412年 - 1468年)は、遊牧集団ウズベクの指導者であり、ウズベク・ハン国(ウズベク・ウルス)の初代ハン(在位:1428年 - 1468年)。チンギス・カンの長男ジョチの第5子であるシバンの一族であるが、テュルク系ムスリムである。.

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アイン・ジャールートの戦い

アイン・ジャールートの戦い(英:Battle of Ain Jalut)は、1260年9月3日、シリア・パレスチナのアイン・ジャールート (عين جالوت ‘Ayn Jālūt) で行われた会戦。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。.

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アストラハン・ハン国

アストラハン・ハン国は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川下流域、カスピ海北岸にあったトルコ(タタール)系の国家。首都はアストラハン。.

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アゼルバイジャン

アゼルバイジャン共和国(アゼルバイジャンきょうわこく、)、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。北はロシア、北西はジョージア(グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。首都はバクー。アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。.

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イルハン朝

14世紀のフレグ・ウルスとその周辺国 イルハン朝(ペルシア語: ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年 - 1335年/1353年)。首都はタブリーズ。.

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イヴァン1世

イヴァン1世ダニーロヴィチ(, ? - 1340年3月31日)は、モスクワ大公(在位:1325年 - 1340年)、ウラジーミル大公(在位:1328年 - 1340年)。モスクワ公ダニール・アレクサンドロヴィチ(? - 1303年)の子。イヴァン・カリター(, Ivan Kalita)とあだ名される。カリターとは「金袋」の意味。 息子にはセミョーン、イヴァン2世、アンドレイがいる。.

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イヴァン3世

イヴァン3世ヴァシーリエヴィチ(ロシア語:Иван III Васильевич;ラテン文字転写の例:Ivan III Vasilevich, 1440年1月22日 - 1505年10月27日)は、モスクワ大公(在位1462年 - 1505年)。 ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。.

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イヴァン4世

イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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ウラクチ

ウラクチ(Ulaqchi, ?-1257年)は、ジョチ・ウルスの第4代宗主(ハン)である(在位:1257年)。ペルシア語資料では اولاقچى Ūlāqchī と綴られる。モンゴル皇帝モンケの命によってバトゥ、サルタクに継いでジョチ・ウルスのハン位を継いだ。彼は先代のサルタクの息子または末弟と言われている。 1256年にバトゥがヴォルガ川河畔のオルド(サライ)で没した時、後継者に指名されていたサルタクは同年春にモンケが開催したクリルタイに出席するため父であるバトゥの命により名代としてモンゴル本土に派遣されていた。しかし、開催地オルメクトに到着する直前に父の訃報が届いたため、モンゴル本土に一時留まってモンケの宮廷に伺候した。モンケはこの知らせを聞くと、サルタクとバトゥの家族たちに弔辞と最大限の敬意をもって彼を迎え入れ、あわせてサルタクにバトゥの地位を継いでジョチ・ウルスのハン位に即く事を命じて送り出した。サルタクはこうしてジョチ・ウルスの本営に帰還の途についたが、その旅中に彼もまた病没してしまった。モンケは改めてバトゥ家の后妃たちや王子たちに多大なる贈り物を下賜して彼らを慰撫し、ウラクチにジョチ・ウルスのハン位を継がせるよう勅命を下した。ただ、ウラクチはいまだ幼年であったため、彼が成人するまでバトゥの第一正妃ボラクチン・ハトゥンに摂政として監督するよう命じた。 しかし、そのウラクチも数カ月後に夭折してしまったため、バトゥの次弟であったベルケがこれに代わって即位するところとなった。 彼の出生については、1260年に擱筆されたジュヴァイニーの『世界征服者史』はサルタクの息子としているが、半世紀後に編纂されたラシードゥッディーンの『集史』ではこれを修正してサルタクには嫡子がおらず、ウラクチはバトゥの四男で末子であったと述べている。このため後世の記録ではウラクチのサルタク息子説と末弟説が入り乱れ資料ごとに混乱するようになった。さらに1254年にサルタクのオルドを訪れたルブルクのギヨーム修道士は、サルタクには「6人の夫人がおり、彼と一緒にいた長子にもまた2、3人の夫人がついていた」と述べてさえいる。 現在の説ではウラクチはバトゥの息子で、幼年でしかも末子あったためサルタクのオルドでサルタクの長子の待遇で養育されていたが、サルタクの死によって主人を失った彼のオルドごとボラクチン・ハトゥンの管理下に置かれたのではないか、と考えられている。しかし、ウラクチについての具体性が高くしかも同時代性も高い資料は現在のところ上記の『世界征服者史』および『集史』のみであり、しかも情報量自体がわずかである。このためこの説も憶測の域をでない。.

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ウラジーミル・スーズダリ大公国

ウラジーミル・スーズダリ大公国(ウラジーミル・スーズダリたいこうこく)は、ルーシの公国の一つ。12世紀後半以後は大公国。現在のスーズダリ・モスクワなどを含む地域で、当時の辺境地であった北東ルーシに位置した。首府はウラジーミル。.

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ウルス

ウルス(中世モンゴル語: 、 現代、オルス)は、モンゴル語で「国家」「人々」を意味する単語である。原義は「人の渦」。遊牧民であるモンゴル人にとっては、国家とはすなわち人々の集合体であったことから同義語となっている。.

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ウクライナ語

ウクライナ語( )は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派の東スラヴ語群に属し、キリル文字を使用する言語である。ウクライナの公用語である。ウクライナ国外においても、諸外国に住むウクライナ人によって使用されている。本国での話者人口は3680万人。本国以外に、ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、ポーランド、カナダやアメリカ合衆国などの南北アメリカ、オーストラリアなどにも話者がおり、それらを合計すれば約4500万人になる。スラヴ語派においてはロシア語、ポーランド語に次いで第3位の話者人口である。11月9日はウクライナ語の記念日となっている。.

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ウズベク

ウズベク(O‘zbek, Узбек, Uzbek)は、西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族で、容貌的にはモンゴロイドを基本としてコーカソイドが濃厚に入り混じっている。 民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したマー・ワラー・アンナフル地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。.

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ウズベク・ハン

ウズベク・ハン(Özbek Khan, غياث الدين محمد اوزبك Ghiyāth al-Dīn Muḥammad Ūzbak, ? - 1342年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)(在位:1313年-1342年)である。ウズ・ベクとも書かれる。バトゥの玄孫に当たり、『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男で末子であったと思われるトグリルチャが父である。ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知られている人物で、同時代のアラビア語資料などではスルターン・ムハンマド・ウーズベク・ハーンなどと称されている。漢語資料では月即別と表記される。.

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エルティシ川

ルティシ川(エルティシがわ、Irtysh River, Иртыш, Ertis/Эртiс, İrteş/Иртеш, 额尔齐斯河/額爾齊斯河、日本語でイルティシュ川、イルティッシュ川、イルティシ川、イルチシ川とも表記)はアジアの川で、オビ川の主要な支流のひとつ。主な支流にトボル川、エシム川、オミ川がある。長さは4,248km。流域面積は1,643,000km2。.

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エディゲ

ディゲ(Edige/Edigu, ? - 1419年)は、14世紀末から15世紀初頭にかけてジョチ・ウルス右翼(西部)で活動したアミール(将軍)。彼とその子孫が率いた部族連合はノガイ・オルダと呼ばれる。 名前は、古いテュルク語で「良い」を意味するイディギュ(idigü)に由来しており、ロシア語ではエディゲイ (Едигей; edigey)と綴られ、日本語では「エディゲ」と慣用されている。「エディゲイ・ハーン」と書かれることもあるが、彼は生涯ハーン(ハン)には即位していないため誤りである。エディゲはチンギス・ハーンの血を引いていなかったので、ジョチ・ウルスの慣習ではハンに即位することができなかった。.

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エジプト

プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.

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オルド

ルド/オルダ(古テュルク語: 𐰇𐱃𐰀 転写: uta、、転写: ordo、中:斡魯朶/兀魯朶)とは、契丹・蒙古などのモンゴル・テュルク系民族におけるカンや后妃の宿営地のこと。日本語訳では、行宮・宮帳・幕営と表記する。ゲル(パオ(包)、ユルト)とほぼ同義語である。.

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オルダ

ルダ(اورده.Ūrda/Hurdū、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・カンの長男ジョチの長男。ジョチの正室でコンギラト部族出身のサルタクを母に持つ志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、744頁。 父のジョチの死後、弟のバトゥと父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)を形成した。.

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オロス

(Urus, ペルシア語: اوروس خان Ūrūs Khān 〜 اُرس خان Urus Khān、生没年 ? - 1377年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン(在位 ? - 1377年)で、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫である。15世紀の『ムイーン史選(Muntakhab al-tavārīkh-i Muʿīnī)』の著者ムイーヌッディーン・ナタンズィーなど後代の歴史家によって、白帳(āq ūrda)ハンの第6代とされる。また、ティムールの伝記であるシャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『勝利の書(Ẓafar Nāma)』では、オロスはジョチ・ウルスの当主としてはジョチから数えて第20代。16世紀初頭だがホーンダミールの歴史書『伝記の伴侶(Ḥabīb al-Siyar)』でも同じく第20代に数えられている。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カザン・ハン国

ン・ハン国 (カザン・ハンこく、Qazan xanlığı、Казанское ханство (Kazanskoe khanstvo)) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する小松「カザン・ハーン国」『ロシアを知る事典』、134頁。.

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カザフ

フ(Қазақ, Qazaq, Казахи, Kazakhs, 哈萨克族)は、中央アジア西北部のカザフステップに広がって居住するテュルク系民族。カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部に約130万人が住む。新疆では哈薩克族(ハザク族、カザフ族)と呼ばれ、中国の55少数民族のひとつに数えられており、イリ・カザフ自治州はカザフ人の自治州となっている。その他、アクサイ・カザフ族自治県、バルクル・カザフ自治県、モリ・カザフ自治県といった自治県が存在する。モンゴルでは最西部のアルタイ山脈周辺に分布し、バヤン・ウルギー県はカザフ人の自治州となっている。 カザフ人のほとんどは元来遊牧民で、20世紀初頭までは人口のほとんどが遊牧生活を行っていたが、ソ連で1930年代に大規模な定住化が政策として行われた結果、現在は都市民・農耕民となっている。しかし、定住化と近代化を経てもカザフ人のジュズ、部族、氏族に対する帰属意識はよく残っている。.

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カザフ・ハン国

フ・ハン国(カザフ・ハンこく、قازاق حاندىعى、Қазақ хандығы、Qazaq xandığı、Казахское ханство、Kazakhskoye khanstvo)は、15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスのトカ・テムル家の子孫が建てた。.

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カザフステップ

フステップもしくはキルギスステップとは、カザフスタン北部よりロシア南部までの広い草原地帯の事で、ポントス・カスピ海草原の東側、ドルビルジン・バレー平原の西側に存在し、ユーラシア・ステップの一部である草原である。カザフ草原、カザーフ草原とも。同時に中央アジア北部のことを漠然とさす。.

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カシモフ・ハン国

モフ・ハン国(ロシア語: Касимовское ханство)は、15世紀から17世紀にかけて、モスクワ大公国の主権下において存在したタタール人ムスリム(イスラム教徒)の政治体である(1452年 - 1681年)。首都はオカ川流域の都市、カシモフ(現ロシア連邦リャザン州)。 モスクワ大公国によって、タタールと自国の間に建設された緩衝国で、当初は自治を行っていたが、のちには首都カシモフの市政に至るまで、全てがロシア人の影響下に置かれた。.

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カスピ海

ピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である カスピ海(カスピかい、、)は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」دریای خزرと呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」دریای مازندرانとも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名でHazar Deniziと呼ばれる。中国語では現在に至るまで「裏海」(りかい)と呼ばれる。.

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ガザン・ハン

ン・ハン(ペルシア語:غازان خان Ghāzān khān, 1271年11月4日 - 1304年5月17日)は、イルハン朝の第7代君主。第4代君主アルグンの長子で、第8代君主オルジェイトゥの兄に当たる(在位:1295年11月3日 - 1304年5月17日)。『元史』などにおける漢字表記は合贊。 1291年に父アルグンが没した後、父の弟であるガイハトゥが後を継いで君主となったが、失政を続けた結果、1295年に従兄弟に当たるバイドゥに殺害された。ガザンはその半年後、バイドゥに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第7代君主として即位することになったのである。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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キプチャク草原

プチャク(欽察)草原の範囲(カザフ語) キプチャク草原(キプチャクそうげん)は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの歴史的呼称。ペルシア語のダシュティ・キプチャーク(دشت قپچاق、Dasht-i Qipchāq)の訳語で、この地域に11世紀から13世紀にかけてテュルク系遊牧民キプチャク(別名クマン、コマン、ポロヴェツ)が活動したことからこのように呼ばれるようになった。ラテン語の記録では「クマニア」(Cumania)・「コマニア」、古東スラヴ語・ルーシ語の記録では「ポロヴェツ草原」(Половецкая степь)と呼ばれる。中国語の記録では欽察草原(きんさつそうげん)と呼ばれる。.

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キエフ

フ(Київ キーイウ、Киев )は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。.

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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クラ川

ラ川(トルコ語:Kura, グルジア語:მტკვარი - Mtkvari, アゼルバイジャン語:Kür)は、カフカス山脈から流れる川である。トルコ東部に水源を持ち、ジョージアを経由してアゼルバイジャンに入る。アゼルバイジャンで支流であるアラス川と合流し、カスピ海に注ぐ。 名前は、大キュロスのペルシャ語表記であるKuroshに由来している。西洋の古い記録によれば、「キュロス」の名で知られていた。グルジアではクラ川は「ゆっくりな」を意味するMtkvariという名前で呼ばれている。クラという名前はロシア人が最初に採用し、その後ヨーロッパの地図製作者たちも使用するようになった。 流れが遅く浅いためトビリシまで航行可能である。水力発電所もある。トビリシやルスタヴィなどの工業都市による排水で川の汚染が問題となっている。 クラ川はアラス川を支流としている。流域面積はクラ川の86,000km2よりもアラス川の102,000km2の方が広いが、クラ川の方が標高が高いため合流後の名前はクラ川になっている。.

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クリミア半島

リミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(Crimea, Крым, Крим, Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。 1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。.

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クリミア・ハン国

リミア・ハン国(クリム・ハン国とも。Qırım Hanlığı, Кримське ханство, Крымское ханство、1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。 クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。.

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クリルタイ

リルタイ(モンゴル語:, Хуралдай, Khuruldai; トルコ語: Kurultay))は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽鄰塔、『集史』などのペルシア語資料では قوريلتاى Qūrīltāī などと表記される。 『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。 モンゴル皇帝(カアン)の命のもとに広く召集された王族および有力諸部族の首長、重臣たちからなる遊牧国家の最高の政治会議である。その役割は、第一に皇帝候補者の選定と即位、第二に諸外国への遠征計画、第三に法令の制定、などが含まれていた。開催時期は春期や夏期が多く、大河の水源地域など牧草地や水情に恵まれた土地が開催地として選ばれた。また回数も、皇帝一代のうちでせいぜい2、3回程度で、皇帝のオルドの近傍で定められ、国政についての様々な討議ののちに、場合によっては1週間以上にもわたる長い祝宴(トイ toi )が常に伴った。 モンゴル皇帝や皇族たちがウルスの方針を決めるために主催するこれらのクリルタイは、特に大クリルタイ(Yeke Qurilta、 ペルシア語では Qūrīltāī-yi Buzurg)と呼ばれた。その他の集会をジェルゲ(jerge)と呼んでいたが、現在のアフガニスタンにおいて国会に相当するローヤ・ジルガの「ジルガ」はこのモンゴル語のジェルゲに由来する。.

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クリコヴォの戦い

リコヴォの戦い(ロシア語:Куликовская битваまたはБитва на Куликовом поле)は、1380年、モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦いドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。。 なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」が採られている。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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クトクトゥ

トクトゥ(Qutuqtu,,, ? - ?)は、チンギス・カンの息子トゥルイの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では忽覩都/忽都禿、『集史』などのペルシア語史料ではقوتوقتوQūtūqtūと記される。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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ゲル (家屋)

モンゴルのゲル thumb thumb ゲル(гэр、 転写:ger、満州語: 転写:boo)は、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ(包)という名前で呼ばれることも多い。 テュルク語では古くから「ユルト、あるいはユルタ(يورت)」と呼ばれたもので、現在でもテュルク系遊牧民のカザフ人やキルギス人が用いるユルトはほぼ同じ形状である。緩やかな草原地帯に適しており、より乾燥し起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。.

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コンギラト

ンギラト(Qonggirad)とは、モンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族である。モンゴル帝国-元朝時代を通じてチンギス・カン家に多くの后妃(ハトゥン)を輩出しており、最も有力な姻族として繁栄した。「翁吉剌」という表記からオンギラト(ウンギラト)、現代モンゴル語発音からホンギラト(フンギラト)と記されることも多い。.

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コーカンド・ハン国

ーカンド・ハン国(ウズベク語: Qo'qon xonligi)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。 ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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シバン (ジョチ・ウルス)

バン(Шибан、? - 1266年)はチンギス・カンの孫、ジョチの子、バトゥの弟にあたる人物である。モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻(en)時の軍事司令官の一人。.

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シャイバーニー朝

ャイバーニー朝(シャイバーニーちょう、、、)は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国、ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝、とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。また、ホラズム地方のウルゲンチを首都とした政権もシャイバーニー朝であるが、こちらはウルゲンチのシャイバーニー朝、もしくはヒヴァ・ハン国と呼んで区別する。シャイバーン朝とも表記される。.

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シュヴィトリガイラ

ディミナス朝の紋章 (''Gediminaičių stulpai'') シュヴィトリガイラ(Švitrigaila、1370年頃 - 1452年2月)は1430年から1432年にかけてのリトアニア大公。生涯の大半を従兄弟のヴィータウタスおよびジーギマンタス・ケーストゥタイティスとの支配権争いに費やした。.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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シビル・ハン国

ビル・ハン国(シビル・ハンこく)は、15世紀から16世紀末まで西シベリアに存在した、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の系統に属すテュルク系国家。ジョチ・ウルスが分裂して、成立した4つの国のうちの一つ(ほかにカザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国)。.

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シベリア

       シベリア連邦管区        シベリア        広義の(歴史的)シベリア シベリア(Siberia 、Сибирь )は、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域である。漢字表記で西比利亜又は西伯利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 一般的には極東分水嶺(サハ共和国東縁)より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域(極東ロシア)は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の共和国・自治管区は存在するが、独立国家は存在しない。主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ヤクーツクがある。広義のシベリアはさらに、エカテリンブルク、ハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。現在ではロシア語話者が人口の大半を占めるが、サハ語などのテュルク諸語や、ウラル語族に属する言語が多く分布している。.

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ジャーン朝

ャーン朝(ジャーンちょう、英語:Janid Dynasty)は、17世紀から18世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。創始者であるジャーニー・ムハンマドの名からジャーン朝と呼ばれるが、彼の一族の出身地であるアストラハンからアストラハン朝とも呼ばれ、ブハラを首都としたため、先のシャイバーニー朝、次のとともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。.

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ジャーニー・ベク

ャーニー・ベク(جانى بيك خان, Jānī bīk Khan, ? - 1357年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第12代当主(ハン、在位:1342年-1357年)。ジャニベク・ハンとも呼ばれる。先々代のウズベク・ハンの息子。先代のティーニー・ベク・ハンの同母兄弟で、母はウズベク・ハンの4人いた正妃(ハトゥン)のうち第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラ(タイトゥグリー)であった。バトゥの6世の子孫にあたる。 名前の「ジャーニー」とは、ペルシア語で「魂」「親愛さを」を意味する「ジャーン」جان jān から派生した「霊」「精神」という意味の単語「ジャーニー」(جانى jānī)に由来しており、兄のティーニー(「肉体の」「有形の」の意味)と対になる意味の単語である。 1334年頃にウズベク・ハンの宮廷を訪れたイブン・バットゥータの旅行記には、両兄弟について述べられており、ジャーニ・バク جان بك Jāni bak と書かれている。敬虔なムスリムとして知られた人物で、異教徒たちの寺院を破壊し、モスクやマドラサを建設して父ウズベクが推進していた国内のイスラーム化に尽力したという。バトゥータによると、彼のイスラームについての教育はサイイド・シャリーフ・イブン・アブドル=ハミードという人物だったようで、バットゥータは宮廷では彼らジャーニー・ベク配下のムスリム高官たちから主人ジャーニー・ベクの方が人格的により好ましいからと勧められ、彼の帳戸に滞在していた。.

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ジョチ

ョチ( Jöči、現代モンゴル語:Зүчи 、1177年,1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。 漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān と綴られる。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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ジェノヴァ

ェノヴァ(Genova)は、イタリア共和国北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約58万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県の県都である。 リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業・金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代においてもミラノ、トリノなど北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。コムーネ人口は全国6位(2011年現在)。.

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スーフィー

ーフィーの集会 スーフィー(صوفي. Ṣūfī)とは、おもにイスラムの唯一神アッラーとの我執を滅却しての合一(ファナー فناء fanā')を目指し、清貧行を主として様々な修行に励む人々を指す。「スーフィー」の語源については、一般的に羊毛(スーフ)のぼろ着をまとって修行に励む人であることとされるが、他にも「(信仰の)清浄さ」(サファー ṣafā' )に由来するというものや、預言者ムハンマドの傍近くに陪席した高弟という意味で「ベンチ(ソファー)の人々」(アフル・アル=スッファ ahl al-ṣaffa )などのアラビア語による語源説、ギリシア語で「智恵、叡智」を意味するソフォスに由来するなども異説もある。.

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スーフィー朝

ーフィー朝は、かつてホラズム地方に存在していたテュルク系の国家であるBosworth, 1064頁。 王朝が存在していた期間は1361年から1379年までと短かったが、滅亡後にスーフィー朝の王族はティムール朝の下で存続し、1505年にホラズム地方がウズベク系国家のシャイバーニー朝の支配下に入るまで、断続的にホラズム地方の知事を務めた。 王朝の君主たちは過去にホラズム地方に存在した国家の君主と異なり、「ホラズム・シャー」の称号を名乗らなかった。.

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ステップ (植生)

テップ(ロシア語:степь stepʹ、ウクライナ語:степ step、英語:steppe)は、中央アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味。ステップは植生や気候によって定義される。.

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タンネンベルクの戦い (1410年)

タンネンベルクの戦いあるいはグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村と村の間にある平原で戦われた。この戦いで勝利をおさめたポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の版図をもつ強国として最盛期を迎えることになる。.

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タタール

18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.

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タタールのくびき

タタールの軛(タタールのくびき)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、Монголо-татарское иго、Tataro-Mongol Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。.

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タタール語

タタール語は、ロシア連邦に属するタタールスタン共和国の公用語。特にカザン・タタール語とも呼ばれる。タタールスタン共和国の外にも、ウクライナやトルコ、中国など広い範囲に話者が分布している。ロシア連邦内の話者は約530万人(2002年)。.

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サマルカンド

マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.

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サライ (都市)

ライ(バトゥ・サライ、旧サライ、 Sarai Batu、 Old Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray) は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。 都市の名はペルシャ語で館・宮殿・オアシス・故郷などを意味するサラーイ(sarā(i))から来ている。漢字では「薩来」と表記される。.

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サルタク

ルタク(Sartaq, ? - 1257年)は、ジョチ・ウルスの第3代宗主である(在位:1256年-1257年)。『元史』では撒里答(sālǐdā)大王、『集史』などのペルシア語史料では سرتاق(Sartāq)と綴られる。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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青水の戦い

青水の戦い (Бітва на Сініх Водах、Mūšis prie Mėlynųjų Vandenų、Битва на Синіх Водах) は、1362年の9月24日から12月25日の間にかけて青水の川(シニュハ川)にてリトアニア大公アルギルダス率いる軍勢とタルゴヴィッツアの要塞 (現ウクライナ キロヴォフラード州ノヴォムィールホロド付近の村)近くのポジーリャを治めるタタール軍との間で行われた会戦である。 ジャーニー・ベク・ベルディ・ベク父子の非業の死によって生じたジョチ・ウルス内部の混乱を利用してアルギルダスはタタールの地への遠征を組織した 。 リトアニア人とルーシ人はムラド・ハーン傘下の3人の領主に対して決定的な勝利をおさめた。戦いの結果、人口希薄なポジーリャと黒海の北部地帯をも含む現在のウクライナの大部分とキエフ(1324年のイルピン川の戦い後の段階で既にリトアニアに帰属していた)がリトアニア大公国の支配下となったことが明白となった。キエフ占領後のリトアニアはモスクワ大公国と直に隣接して競合するようになった。アルギルダスはキエフの統治を息子のヴラディミラスに委ね、ポジーリャを会戦に参加した弟カリヨタスの息子で甥にあたるアレクサンドラス、ユルギス 、コンスタンティナス及びテオドラス に与えた。.

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親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.

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黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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雲南

雲南(うんなん).

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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1206年

記載なし。

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1224年

記載なし。

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1225年

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1235年

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1240年

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1242年

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1243年

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1253年

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1256年

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1260年

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1262年

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1264年

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1266年

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1267年

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1277年

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1280年

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1282年

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1287年

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1291年

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1299年

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1328年

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1342年

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1357年

記載なし。

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1359年

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1362年

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1376年

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1377年

記載なし。

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1378年

記載なし。

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1379年

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1380年

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1395年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1410年

記載なし。

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1423年

記載なし。

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1431年

記載なし。

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1459年

記載なし。

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1465年

記載なし。

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1480年

記載なし。

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1481年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1502年

土曜日から始まる。.

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1569年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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1783年

記載なし。

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1804年

記載なし。

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1942年

記載なし。

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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