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コトル

索引 コトル

トル(モンテネグロ語・Kotor/Котор,Kotor,Càttaro,Acruvium,Ἀσκρήβιον)は東ヨーロッパ・モンテネグロの都市および基礎自治体。コトル湾の静かな場所に位置している。.

113 関係: 基礎自治体古代ローマ属州中央ヨーロッパ時間世界遺産地中海ナポレオン・ボナパルトナポレオン戦争ペストマケドニア人マジャル人ハンガリーポドゴリツァ空港ムスリムモンテネグロモンテネグロの基礎自治体モンテネグロ人モンテネグロ社会主義共和国モンテネグロ語ユーゴスラビアユーゴスラビア人ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユスティニアヌス1世ラグサ共和国リアス式海岸ルネサンスロマローマ化ロシア人ヴェネツィアヴェネツィア共和国ボゴミル派ボシュニャク人ボシュコ・ヴクサノヴィッチヘクタールプレスブルクの和約ツェティニェティヴァト空港フランシスコ会フランス帝国フランス第一帝政フィヨルドドミニコ会ドイツ人ダルマチアダルマチア語アルバニア人アルバニア・ヴェネタアッシュカリーアドリア海...イリュリア州イリュリア人イタリア人イタリア王国 (1805年-1814年)ウィーン会議オーストリア大公国オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国オーストリア=ハンガリー帝国海軍オプシュティナオスマン帝国カンポ・フォルミオ条約クロアチアクロアチア人コンスタンティノス7世コトル湾スループスロベニア人セルビアセルビア人セルビア正教会セゲドサムイル (ブルガリア皇帝)サラセン人前弩級戦艦国際連合教育科学文化機関第一次ブルガリア帝国軽巡洋艦都市国家東ヨーロッパ東ローマ帝国東ゴート族1002年11世紀13世紀1420年14世紀1538年1563年1571年1572年1657年1667年1699年1797年1805年1806年1810年1814年1918年1941年1943年1945年1979年1981年1991年1月5日2003年3月3日4月15日535年840年9月1日 インデックスを展開 (63 もっと) »

基礎自治体

基礎自治体(きそじちたい)は、国の行政区画の中で最小の単位で、首長や地方議会などの自治制度があるものを指す。 基礎自治体の名称は国によって異なる。日本の市町村のようにいくつかの種類に分かれている国もあれば、フランスのコミューンのように人口に関係なく同じ名称で呼ばれる国もある。.

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古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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属州

属州(ぞくしゅう、)は、古代ローマの本国以外の領土を指す。.

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中央ヨーロッパ時間

中央ヨーロッパ時間(ちゅうおうヨーロッパじかん、Central European Time - CET)は、協定世界時 (UTC) を1時間進ませた標準時である (UTC+1) 。日本標準時との時差はマイナス8時間。 3月最終日曜日の午前2時(夏時間では午前3時)から10月最終日曜日の午前2時(夏時間では午前3時)までは、夏時間の中央ヨーロッパ夏時間 (Central European Summer Time) が使用される。 第二次世界大戦以前の1920年から1940年までの間は、リトアニアでも使われていた。戦時中にドイツが自国の占領した区域に導入させた後、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクではそれがそのまま残った。戦後、モナコ、スペイン、アンドラ、ジブラルタルも中央ヨーロッパ時間を導入した(スペインについては、カナリア諸島はUTCを採用、スペイン本土より1時間遅れ)。 現在、中央ヨーロッパ時間を使用している国の中には、実際の経度がUTC+1のタイムゾーンから外れている国もあり、スペイン、フランスなどは、国土のほとんどがUTC+0のタイムゾーンにあたる経度に位置している。特にスペインガリシア地方西部には、UTC-1のタイムゾーンにあたる経度に位置するところもある。 アイルランド、UKでも、1968年から1971年までの間、試験的に導入されたことがあったが、暗い冬の朝に通学する子供の交通事故が増加するなどしたため、すぐに元に戻された。また、ポルトガルでも、1966-1976年、1992-1996年の間、導入されていたことがある。 Category:標準時 Category:ヨーロッパの時間.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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地中海

地中海(ちちゅうかい、Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。海洋学上の地中海の一つ。.

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ナポレオン・ボナパルト

ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(グランダルメ)と名付けた巨大な軍隊を築き上げてナポレオン戦争を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。.

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ナポレオン戦争

1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国 ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、Guerres napoléoniennes、Napoleonic Wars、Napoleonische Kriege)は、1803年にアミアンの和約が破れてから、1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に敗北するまでの期間を通して行われた戦争である。 ナポレオンⅠ世率いるフランス帝国とその同盟諸国から動員された大陸軍(グランダルメ)が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強諸国を中心にして結成された対仏大同盟の諸軍隊と交戦した。.

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ペスト

ペスト(, )とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。黒死病(, )とも。.

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マケドニア人

マケドニア人(マケドニアじん、、)は、マケドニアに住む人々のことをさす。時代によって定義は異なる。.

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マジャル人

マジャル人の分布及び割合 ルーマニアにおけるマジャル人の割合 マジャル人(マジャルじん、Magyarok)は、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。マジャール人(Magyár)とも呼ばれる。.

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペスト。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。首都のブダペストにはロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。.

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ポドゴリツァ空港

ポドゴリツァ空港(Aerodrom Podgorica/Аеродром Подгорица、Podgorica Airport)は、モンテネグロの首都ポドゴリツァにある空港。モンテネグロ航空の本拠地である。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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モンテネグロ

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。首都はポドゴリツァ(憲法上はツェティニェ)。ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国(1992年-2003年)およびセルビア・モンテネグロ(2003年-2006年)を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。 南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアのドゥブロヴニクとボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアのサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。.

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モンテネグロの基礎自治体

モンテネグロの基礎自治体(モンテネグロのきそじちたい、セルビア語・モンテネグロ語・ボスニア語:Општине Црне Горе / Opštine Crne Gore、アルバニア語:Komuna në Mal të Zi)では、モンテネグロの行政区分について述べる。モンテネグロは国土全体が23の基礎自治体(オプシュティナ општина / opština、アルバニア語ではコムーナ komuna)に分けられている。このうち、首都のポドゴリツァには2つの区(градска општина / gradska opština)が含まれている。.

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モンテネグロ人

モンテネグロ人はモンテネグロを主に構成する南スラブ人である。.

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モンテネグロ社会主義共和国

モンテネグロ社会主義共和国(モンテネグロしゃかいしゅぎきょうわこく、セルビア・クロアチア語:Socijalistička republika Crna Gora, Социјалистичка република Црна Гора)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国で、2006年に独立したモンテネグロの前身である。 第二次世界大戦中の1943年、枢軸国の支配に抵抗していたパルチザンによってモンテネグロ人民解放国家反ファシスト委員会の第1回会合が開かれ、その中で終戦後には連邦国家とする予定のユーゴスラビアの構成国として、モンテネグロ国家の設立が決定された。1963年7月7日以降、「モンテネグロ社会主義共和国」が正式な呼称となるが、それ以前の呼称はモンテネグロ人民共和国であった。国名の変更は、1963年のユーゴスラビアの憲法の変更と、モンテネグロの独自憲法の制定によって定められた。モンテネグロはセルビア・クロアチア語を公用語とし、ユーゴスラビア憲法によるところの「主要民族」(narod)に基づかない国家であった。 1991年、初の自由選挙を経て、モンテネグロ共産主義者同盟はその党名をモンテネグロ社会民主党へと改め、国名からも「社会主義」の語が外された。1992年にこの国名変更は発効し、モンテネグロ共和国となった。.

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モンテネグロ語

モンテネグロ語(Crnogorski jezik / Црногорски језик)は、モンテネグロで話されている言語であり、2007年から同国の公用語となっている。南スラヴ語群の中央南スラヴ語に分類される。現在モンテネグロ語を話す人口は半数がセルビア人を占めている。セルビア語、クロアチア語、ボスニア語とは、方言程の差しかなく、従来は一般にセルビア語の方言とされていたが、20世紀末からモンテネグロ語という呼び名が用いられるようになった。文字はラテン文字とキリル文字のアルファベットが併用される。.

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ユーゴスラビア

ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。 国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年に解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する。(詳細は#国名の項目を参照)。 なお、ユーゴスラビアの名は解体後の現在においても政治的事情により、構成国のひとつであったマケドニア共和国の国際連合等における公式呼称である「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存している。 その国際的位置から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。.

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ユーゴスラビア人

ユーゴスラビア人(ユーゴスラビアじん、Југословени)とは、.

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラヴィアの表記もある。(ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語・セルビア語・クロアチア語・ボスニア語・スロベニア語スロベニア語における「社会主義」の語の形容詞形は「Socialistična」であり、公式国名の最初の語にある「Socijalistička」とは異なる。スロベニア語では、後者のスロベニア語を用いた表記もされた。・マケドニア語:Socijalistička Federativna Republika Jugoslavijaガイ式ラテン・アルファベットによるラテン文字表記。スロベニア語およびセルビア・クロアチア語の西部標準形(クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナを主体とする)ではラテン文字が用いられた。キリル文字による表記と完全に対応している。 / Социјалистичка Федеративна Република Југославијаセルビア語キリル文字およびマケドニア語キリル文字による表記ラテン文字における表記と完全に対応している。)は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。.

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ユスティニアヌス1世

ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.

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ラグサ共和国

ラグサ共和国(ラグサきょうわこく、,,, )は、現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニク(イタリア語名:ラグーザ Ragusa)にあった都市共和国である。1358年にハンガリー王国から独立し、15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎えた。1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、ナポレオンのイタリア王国に併合された。ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議では、オーストリア帝国の国力回復を目指す外相メッテルニヒが議長となっていたこともあり、ラグサ共和国の再独立は認められず、オーストリア領ダルマチア()の一地方として、オーストリア帝冠領に併合された。以後、再独立することなく現在に至っており、1991年以降はクロアチア領となっている。 現在、ドゥブロヴニクにはラグサ共和国時代の城壁やその他の建物がほぼそのまま残っていて、世界遺産にもなっている。.

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リアス式海岸

リアス式海岸(リアスしきかいがん、Ría、ria coast)は、せまい湾が複雑に入り込んだ沈水海岸のこと。リアス海岸、あるいはスペイン語でリア(単数形)、またリアの複数形を用いてリアスともいう。.

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ルネサンス

レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.

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ロマ

マ(Roma、次節も参照、単数はロム)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり舟木譲「」『』第11号、2007年3月。、ロマでない集団との関係は不明である。.

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ローマ化

ーマ化(Romanization)は、地中海世界やガリア・ブリタニア・ゲルマニアの一部を征服したローマ人が、領内の蛮族(非ローマ人・非ギリシャ人)に自文化を浸透させて同化を図った事を指す。「ローマ人の民族文化」が実質的にラテン人の文化と同義である事から、ラテン化(Latinization)とも呼ばれる。 現代の定義ではこうした同化政策は一種の民族浄化に相当する行為であり、ガリア人の末裔を自任するフランス人の民族主義者からはガリア固有の文化を滅ぼしたと批判される一方、同じ征服された民族でもダキア人がローマ化によってラテンの末裔を自任するに至ったルーマニア人の民族主義者からは、自らの文化の出発点とする評価もあり、その評価は現在に至るまで錯綜している。.

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ロシア人

ア人.

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ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。.

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ボシュニャク人

ボシュニャク人(男性単数: Bošnjak/Бошњак 、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。 バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。.

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ボシュコ・ヴクサノヴィッチ

ボシュコ・ヴクサノヴィッチ(Boško Vuksanović、1928年1月4日 - 2011年4月4日)は、ユーゴスラビアの水球選手。ユーゴスラビア王国コトル(現在のモンテネグロ)出身。 1952年のヘルシンキオリンピックにユーゴスラビア代表として出場し、銀メダルを獲得した。.

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ヘクタール

ヘクタール(hectare、記号:ha)は、メートル法における面積の単位のひとつであり、10 000 平方メートルである。 SI単位ではなく、「SI単位と併用される'''非SI単位'''」である「SI単位と併用される非SI単位」には、他に、時間の分・時・日、リットル、トンなどがある。。.

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プレスブルクの和約

プレスブルクの和約(プレスブルクのわやく、、)は、ナポレオン戦争中の1805年12月26日に、オーストリア領内のプレスブルク(現・スロバキア共和国の首都ブラチスラヴァ)において、フランスとオーストリアとの間で結ばれた講和条約である。プレスブルク条約(プレスブルクじょうやく、、)とも呼ばれる。.

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ツェティニェ

大統領宮殿 ツェティニェ(Цетиње、ラテン文字表記:Cetinje)は、モンテネグロの都市。イタリア語の名はチェッティーニェ(Cettigne)トルコ語の名はチェティネ(Çetine)。モンテネグロの歴史的な首都であり、現在でも憲法上の首都。2003年時点での人口は1万5千人程度。.

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ティヴァト空港

ティヴァト空港(モンテネグロ語:Аеродром Тиват)とは、モンテネグロティヴァトに所在する国際空港。ティヴァトの中心部より4km程離れた地点に所在する。80km離れた地点には主要空港が二つ所在するので、通常は国内線営業をしない。よって、国内運用はチャーター便若しくはゼネラル・アビエーションに限定されている。 行先は主にヨーロッパの主要都市であり、夏季には多くのチャーター便が世界各地に飛んでいる。とは雖も、多いのはベオグラード・ニコラ・テスラ空港行であり、それ以外の便は減少方向にある。.

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フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

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フランス帝国

フランス帝国(フランスていこく、Empire français)と呼ばれたものとしては、フランス史上、フランス第一帝政、フランス第二帝政、フランス植民地帝国の3つが存在した。前2者はフランスにおける政体の1つを指す。後者はフランスの植民地の集合体を指し、本国の政体・王朝に関わりなくこのように呼ばれる。.

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フランス第一帝政

フランス第一帝政(フランスだいいちていせい)は、1804年から1814年および1815年まで存続した、皇帝ナポレオン1世が支配する強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権。大陸軍(グランダルメ)と命名された巨大な陸軍組織が国家の柱石だった。.

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フィヨルド

フィヨルド(ノルウェー語等:fjord、異称:峡湾、峡江)とは、氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江のこと。ノルウェー語による通俗語を元とした地理学用語である。湾の入り口から奥まで、湾の幅があまり変わらず、非常に細長い形状の湾を形成する。 グリーンランド東海岸の衛星画像、下の大きな入り江がスコルズビ湾 ノルウェーのフィヨルド フィヨルドに掛かる雲海(ノルウェー、ダレスニッパ展望台より).

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ドミニコ会

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.

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ドイツ人

ドイツ人(ドイツじん、)は、ドイツを中心としてヨーロッパに分布する住民の定義である。文脈により以下の三つの定義を有する。.

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ダルマチア

濃紫の部分がダルマチア ダルマチア(ダルマツィア、クロアチア語: Dalmacija, イタリア語: Dalmazia, セルビア語: Далмација)は、クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと。中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方で、現在のクロアチア共和国の一部。.

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ダルマチア語

ダルマチア語(ダルマチアご、Dalmatian language)は、クロアチアのダルマチア海岸とモンテネグロのコトル(Kotor、イタリア名Cattaro)南部で使用された、ロマンス語の一種。既に絶滅している。 ダルマチア語を話す人々は ザダル、トロギル、スプリト、ドゥブロヴニク、コトル湾の海岸沿いの町に住み、それぞれの町ごとに異なる方言があった。またクルク島、ツレス島、ラブ島などダルマチア諸島の島々にもその話者が住んでいた。14世紀に成立したラグサ共和国ではダルマチア語のラグサ方言が公用語とされていたが、スラブ民族の拡大に伴い廃れ、16世紀には既にほとんど絶滅状態となった。 最後の話者だったのはトゥオネ・ウダイナで、リエカの沖合にあるヴェリア島(クルク島)に生まれた彼はダルマチア語のヴェリア方言を理解できた。爆弾により亡くなりダルマチア語が絶滅した前年の1897年、ウダイナを訪れたイタリアの言語学者であるマッテオ・バルトリが約2800の単語や文章、ウダイナの人生を書き留め、これは単語・発音・文法などでほぼ唯一の完全なダルマチア語の研究資料となった。バルトリの研究成果はドイツ語により1906年に出版されたが、イタリア語で書き留められた彼のノートは失われ、イタリア語での出版は2001年まで行われなかった。.

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アルバニア人

アルバニア人(アルバニアじん、アルバニア語:Shqiptarët)は、主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。.

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アルバニア・ヴェネタ

アルバニア・ヴェネタ (Albania Veneta)は、1420年から1797年まで存在した南ダルマチアのヴェネツィア共和国領。最初は、現在の北アルバニアとモンテネグロのアドリア海沿岸のことを指した。しかしアルバニアと南モンテネグロは1571年にオスマン帝国に奪われた。.

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アッシュカリー

アッシュカリーまたはアッシュカリーヤ (Ashkali, Aschkali, Hashkali, Ашкалије (Aškalije), Хашкалије (Haškalije)) は、ヨーロッパの民族集団。コソボとその周辺の国々、セルビア、モンテネグロ、アルバニア、マケドニア共和国などに住み、アルバニア語を話す。 ロマとアルバニア人の混血、もしくは、アルバニア化されたロマとされることもあり、アッシュカリーが住む多くの国では「ジプシー」に相当する語でロマと共に一括される。しかし、アッシュカリー自身はロマと同一視されることを好まない。 特に、アッシュカリーの中には、自分たちをアレクサンドロス3世(大王)のエジプト人部隊の子孫だと主張し、エジプト人(エジプシャン)と自称する人たちがいる。彼らは、自分たちがインド系のロマと同起源であることをはっきりと否定する。なお、彼らを本来のエジプト人と区別するため、コソヴォ・エジプシャンとも呼ぶ。 このようにロマとの同一視を避ける一因は、ロマに対する人種差別や民族浄化を回避するためだと言われる。ただし、決してアッシュカリーがそれらを避けられたわけではない。 本来はコソボが主要な居住地域だったが、コソボ紛争とそれに伴うアルバニア系住民などによる民族浄化により、コソボのアッシュカリーの約半数(正確な統計は無い)が難民ないし避難民となり、コソボの外で生活している。 Category:バルカンの民族 Category:コソボの民族 Category:セルビアの民族 Category:モンテネグロの民族 Category:エジプトの民族 Category:マケドニア共和国の民族 Category:アルバニアの民族 Category:ロマ.

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アドリア海

アドリア海(Adriatic Sea; Mar Adriatico; Jadransko more)は、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。.

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イリュリア州

イリュリア州またはイリリエンヌ州 (Provinces illyriennesプロヴァンス・イリリエンヌ、Ilirske provinceイリルスケ・プロヴィンツェ、Ilirske pokrajneイリルスケ・ポクライネ, Province Illiricheプロヴィンチェ・イリリケ)は、アドリア海北岸から東岸にかけフランス帝国が設置した州。名称はナポレオン帝政下の南スラヴ人州という意味合いで、古代のイリュリアの名を冠していた。 日本ではイリュリア諸州、イリリア諸州との表記も見られるが、以下の文ではイリュリア州で統一する。.

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イリュリア人

イリュリア人の居住範囲 イリュリア人(Ἰλλυριο,llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、西はアドリア海、北はドラーヴァ川、東は大モラヴァ川、南はヴョセ川河口までの範囲である。.

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イタリア人

イタリア人(イタリアじん、italiani)は.

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イタリア王国 (1805年-1814年)

イタリア王国(イタリアおうこく、Regno d'Italia)は、ナポレオン戦争中の1805年から1814年に、イタリア半島に存在した国家の1つ。ナポレオン1世により設立された。イタリア中東部と北部を含み、首都はミラノであった。.

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ウィーン会議

Jean-Baptiste Isabey画 ウィーン会議(ウィーンかいぎ、Wiener Kongress、Congrès de Vienne、Congress of Vienna.)は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。 オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。.

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オーストリア大公国

ーストリア大公国(オーストリアたいこうこく、Erzherzogtum Österreich、洪語: Osztrák Hercegség、Rakouské arcivévodství)は、神聖ローマ帝国内の領邦の一つで、現在のオーストリア共和国の前身。1457年の成立から1806年の神聖ローマ帝国の解体まで、ハプスブルク家、のちその後身のハプスブルク=ロートリンゲン家が統治した。いわゆるハプスブルク帝国の中核をなし、オーストリア帝国の成立以後もその重要な構成国となった。 元来のオーストリア公領に含まれない領域であっても、オーストリア・ハプスブルク家が支配した地域を合わせて「オーストリア(エスターライヒ)」と呼称することが多いため、本項ではその部分も含めて記述する。.

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オーストリア帝国

ーストリア帝国(オーストリアていこく、Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。 前身の、オーストリア大公国やボヘミア王国・ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。 厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。.

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オーストリア=ハンガリー帝国

ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.

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オーストリア=ハンガリー帝国海軍

ーストリア=ハンガリー帝国海軍 (;) は、オーストリア=ハンガリー帝国の海軍である。帝国が解体される1918年まで存在した。 ドイツ語呼称の とは の略号であり、「(オーストリア)帝国と(ハンガリー)王国」を意味する定冠詞である。これを省略して単にKriegsmarineと表記すると、ナチス時代のドイツ海軍を指す言葉となってしまうので、注意が必要。.

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オプシュティナ

プシュティナは、スラヴ圏の国々にみられる行政単位である。多くの場合、各国のオプシュティナは最小の行政単位(基礎自治体)であり、ドイツのゲマインデ(Gemeinde)、イタリアのコムーネ(comune)、フランスのコミューン(commune)、日本の市町村などに相当する。各国の言語によって呼称は若干異なるが、同根の語で表される。その中のオプシュティナとはセルビア語の名称である。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カンポ・フォルミオ条約

バーゼル条約およびカンポ・フォルミオ条約後のヨーロッパ カンポ・フォルミオ条約(カンポ・フォルミオじょうやく、Traité de Campo-Formio, Treaty of Campo Formio, 1797年10月18日〈革命暦6年ヴァンデミエール27日〉)は、フランス革命戦争の講和条約の1つ。カンポ・フォルミオの和約(カンポ・フォルミオのわやく、Peace of Campo Formio)とも呼ばれる。この条約によって、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国が消滅した。.

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クロアチア

アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.

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クロアチア人

アチア人(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。 クロアチアのサヴァ川、ドラーヴァ川流域、それらの地域より南のダルマチア地方沿岸部に居住する柳田「クロアチア」『世界民族事典』、240-241頁。1991年当時のクロアチア共和国ではクロアチア人の人口はおよそ3,736,000人で総人口の78%を占めていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナには約760,000人のクロアチア人が住み、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチンなどの地域にクロアチア移民が生活している。.

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コンスタンティノス7世

ンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”(ギリシア語:Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος, Kōnstantinos VII ho Porphyrogennētos, 905年? - 959年11月9日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:913年 - 920年、944年 - 959年 共同皇帝:920年 - 944年 )。「ポルフュロゲネトス」は「緋色の産室生まれ(皇帝の嫡子)」を意味するあだ名(後述)。帝国史上随一の文人皇帝で、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を築いた。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス7世“ポルフィロエニトス”」となる。.

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コトル湾

トル湾 (セルビア語: Бока которска、Boka kotorska; クロアチア語: Boka Kotorska; Bocche di Cattaro)は、モンテネグロ南西部にある、アドリア海に面した曲がりくねった湾の総称である。湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっている。モンテネグロの重要な観光地である。 古代から湾内には人が定住し、中世からの町が良い状態で保存されている。コトル、リサン、ティヴァト、ペラスト、ヘルツェグ・ノヴィといった美しい町がその美しい自然環境とともにあり、主要観光地となっている。 湾周囲の陸には信仰の遺産がある。数多くの正教会とカトリック教会らキリスト教教会、そして修道院がある。観光地である一方、主要巡礼地の一つでもある。 モンテネグロ政府は、コトル湾にヴェリゲ橋という橋を架ける計画を持っている。.

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スループ

ループ(、)とは、.

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スロベニア人

ベニア人の旗 スロベニア人(スロベニアじん、スロベニア語: 複数形:Slovenci、双数形:Slovenca、単数形:Slovenec、女性複数形:Slovenke、女性双数形:Slovenki、女性単数形:Slovenke)は、スロベニアの大部分を占める南スラヴ系の民族であり、南スラヴ語系のスロベニア語を公用語とする。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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セルビア人

ルビア人(セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。.

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セルビア正教会

ルビア正教会(セルビアせいきょうかい;セルビア語 Српска православна црква スルプスカ・プラヴォスラヴナ・ツルクヴァ、略称 СПЦ セペツェ)は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。 正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。.

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セゲド

ド(ハンガリー語:Szeged、ブルガリア語:Сегет、クロアチア語:Segedin、ドイツ語:Szegedin/Segedin、ラテン語:Partiscum、ルーマニア語:Seghedin、セルビア語:Сегедин, Segedin、スロバキア語:Segedín、トルコ語:Segedin)は、ハンガリー南部に位置する都市。2014年当時の人口は約162,000人南塚、鈴木「セゲド」『東欧を知る事典』新版。ハンガリー大平原南部最大の都市で、チョングラード県の県都に定められている。 町の名前はハンガリー語で「突起」「突出物」を意味する「セグ(szeg)」に由来し、ティサ川の屈曲部に建つことからこの名がついたと考えられている中島「セゲド」『世界地名大事典』5、1639-1640頁。.

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サムイル (ブルガリア皇帝)

ムイル(ブルガリア語:Самуил, 958年 - 1014年10月6日)は、(第一次ブルガリア帝国)の皇帝(ツァール、在位:997年 - 1014年(976年から997年までと共同統治))。ラテン文字では Samuil, Samuel, Samoil などと表記される。母はアルメニア人だったと伝えられる。.

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サラセン人

ラセン人()とは、中世ヨーロッパ世界でイスラム教徒を指した言葉。 アラビア半島北西部の遊牧アラブ人を指して使われたギリシア語のサラケーノイ(Sarakēnoi)、ラテン語のサラケニ(Saraceni)に由来する。古い例では2世紀に、プトレマイオスが地理書の中でこの語を用いている。"Sarakenoi"は、エウセビオスの『教会史』の中のデキウス帝によるキリスト教徒迫害に関する箇所で、「アラビアの山中で、蛮人'sarkenoi'に奴隷にされた」とアレクサンドリアのディオニシオスが記していると語られている。『ローマ皇帝群像』にもペスケンニウス・ニゲルが"Saraceni" に攻撃されたとの記述があり、古典作家は、これらの遊牧民を意味する語として使用したと考えられる。 7世紀にイスラム勢力が台頭すると、ヨーロッパ人はこの古典に登場する名をアラブ人に対して使うようになり、十字軍などで東西交流が活発になった中世以降には、もっぱらムスリム一般を指す呼称となった。なお、ムスリム側は西欧人を総称してフランク人と呼んだ。 日本においてすらヨーロッパ中心史観的な立場で歴史記述がなされてきた影響で、初期のムハンマド自身や彼の後継者であるカリフ達に指導されたイスラム共同体(ウンマ)政権は、中世以来ヨーロッパ人が用いてきたこの呼称に倣って、サラセン帝国と呼ばれていた。しかし、近年ではヨーロッパを中心に歴史を解釈する姿勢が好まれなくなり、実情に沿ったものとして提案されたイスラム帝国と称されるのが通例である。現代の日本では、サラセン人、サラセン帝国といった語彙が、歴史学史的な文脈以外で、アラブ人やイスラム教徒に対して使われることは稀である。 ちなみに、イタリア車のアルファロメオのエンブレムには人を呑み込む大蛇の図柄が描かれているが、大蛇はミラノ公・ヴィスコンティ家(十字軍)を、大蛇に飲み込まれている人は聖地を冒涜(侵略)したサラセン人を表しており、「十字軍がサラセン人を退治していることを表している」とも言われている。.

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前弩級戦艦

三笠(1905年頃) ブレニュス(1889年建造)。 テキサス(1892年建造)。(1898年頃の着色写真) オーシャン。前弩級戦艦の典型。 前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん、Pre-dreadnought battleship)とは、戦艦の初期の形態を指し、1890年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した1906年までの期間に建造された。 1870-1880年代の装甲艦に代わって主力艦として登場したが、弩級戦艦の登場によりその地位を譲った。.

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国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭園(日本庭園) 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2016年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国(22%)、2位は日本(9%)である(米国は拠出金支払いを全額停止しているため、実質的に最大の拠出国は日本であるなおアメリカは2018年12月31日付でのユネスコ脱退を表明している。)。.

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第一次ブルガリア帝国

一次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Първа българска държава;英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパのブルガリアに栄えた帝国。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。.

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軽巡洋艦

軽巡洋艦(けいじゅんようかん、Light Cruiser)は、軍艦の一種。.

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都市国家

都市国家(としこっか、City-state)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体や文明としてひとつとなり、まとまった形態をなす小国家を表す。明確な要件・定義はないが、現代ではシンガポール・モナコを指す。.

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東ヨーロッパ

中東 東ヨーロッパ(ひがしヨーロッパ)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。時代によって「東欧」の概念は大きく変わる。広義には、かつてのヨーロッパのソ連型社会主義圏を指して「東欧」と呼んでいたが、狭義にはロシア(のウラル山脈以西)・ウクライナ・ベラルーシの三国を指す。以下は「東欧」という概念の大まかな変遷を説明する。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東ゴート族

東ゴート族 東ゴート族(ひがしゴートぞく、Ostrogoths)は、ゲルマン人の一派。.

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1002年

記載なし。

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1420年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1538年

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1563年

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1571年

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1572年

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1657年

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1667年

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1699年

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1797年

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1805年

記載なし。

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1806年

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1810年

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1814年

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1918年

記載なし。

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1941年

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1943年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1979年

記載なし。

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1981年

この項目では、国際的な視点に基づいた1981年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1月5日

1月5日(いちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。誕生花はミスミソウ。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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3月3日

3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。誕生花は花桃。.

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4月15日

4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.

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535年

記載なし。

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840年

記載なし。

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9月1日

9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。.

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