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イヴァン・モスクヴィチン

索引 イヴァン・モスクヴィチン

イヴァン・ユリエヴィチ・モスクヴィチン(イヴァーン・ユーリエヴィチ・モスクヴィーチン、Ива́н Ю́рьевич Москви́тин, ローマ字表記の例: Ivan Yuryevich Moskvitin, 生没年不詳))は、17世紀のロシアのコサックで探検家。偵察隊を率いてオホーツク海に至り、ロシア人として初めてシベリアを横断してオホーツク海および太平洋側に達した人物となった。 イヴァン・モスクヴィチンの名が登場するのは1626年のことで、西シベリアのトムスクに住むコサックの一員としてであった。モスクヴィチンはコサックのアタマン(首領)、ドミトリー・コピロフ(Dmitry Kopylov)とともにシベリアを川船で横断して東シベリアの拠点ヤクーツクに向かった。1638年7月28日、コピロフ一行はレナ川の支流アルダン川の岸に小さな要塞を築き拠点とした。翌1639年の春、アルダン川東方での毛皮の徴収、ならびに銀鉱山の探索のため、コピロフはモスクヴィチンに20人のトムスク・コサックと29人のクラスノヤルスク・コサックを指揮させて東方への探検を命じた。当時、東方のチルコルという大河(Чиркол、アムール川)では銀が採れるという噂があった。 モスクヴィチン一行はアルダン川からその支流マヤ川へと船で進み、その上流の山を越えてウリヤ川を下り、9月半ばに大きな海へ出た。これがロシア人がオホーツク海を見た最初であった。モスクヴィチンとコサック一行はウリヤ川のオホーツク海河口に越冬のための小屋を築き、この地の先住民たちから南方に大きな川(おそらくアムール川)があることを聞いた。翌1640年の春、一行は船でオホーツク海を海岸沿いに南下してアムール川河口へと向かい、その帰りにシャンタル諸島に立ち寄っている。 1645年、トムスクで、モスクヴィチンとコピロフはロシア・ツァーリ国のヴォエヴォダであるシチェルバトフ公に対して地理的発見について報告している。翌1646年、モスクヴィチンは首都モスクワに向かい、東方の大洋についての報告を行った。モスクヴィチンは1647年にトムスクへ戻りコサックのアタマンとなったが、その後については明らかではない。.

33 関係: 太平洋マヤ川モスクワヤクーツクレナ川ロシアロシア・ツァーリ国ヴァシーリー・ポヤルコフヴォイヴォダトムスクアムール川アルダン川アタマンウリヤ川エロフェイ・ハバロフオホーツク海コサックシャンタル諸島シベリアシベリアの河川交通生没年不詳探検家毛皮1626年1638年1639年1640年1645年1646年1647年17世紀7月28日

太平洋

太平洋(たいへいよう)は、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる、世界最大の海洋。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。.

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マヤ川

マヤ川(Maya、Майя / Мая)は、ロシア・シベリア東部のハバロフスク地方からサハ共和国にかけて流れる川である。レナ川水系の一部で、アルダン川の右支流である。10月末から5月にかけて凍結する。アルダン川合流点から500km上流までは航行可能である。最大の支流はユドマ川(Yudoma)。 マヤ川上流の山地で、レナ川水系は太平洋(オホーツク海)に最も接近している。このためマヤ川は、ジュグジュル山脈を越えてオホーツクの港に向かう商人や軍人たちが使う経路となり、シベリアの河川交通の重要な一部となってきた。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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ヤクーツク

ヤクーツク(Якутск, Yakutsk, Дьокуускай (ジョクースカイ))はロシア連邦に属するサハ共和国の首都。レナ川に面する河港を持つ。人口は217,800人(2006年)。 1632年に建設された要塞を起源とする。北東連邦大学(1956年に開設 旧:ヤクーツク国立大学)などの高等教育機関や、ロシア科学アカデミーの支部がある。.

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レナ川

流域 レナ川(Лена, Lena, サハ語: Өлүөнэ, Ölüöne)は、ロシア連邦シベリア東部のイルクーツク州とサハ共和国を流れる川である。世界で10番目に長い川で、流域面積の広さは世界9位である。流域は北半球でも有数の低温の極寒地域であり、大規模な都市が少なく貴重な自然が残っている。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア・ツァーリ国

ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.

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ヴァシーリー・ポヤルコフ

ヴァシーリー・ダニーロヴィチ・ポヤルコフ(ポヤールコフ、Васи́лий Дани́лович Поя́рков, ローマ字表記の例: Vassili Danilovich Poyarkov, 生年・没年不明)は、17世紀のロシアの探検家。ロシア人として初めてアムール川流域を探検した人物である。.

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ヴォイヴォダ

ポーランドの伝説に現れる「12人のヴォイヴォダ」 ヴォイヴォダ (voivoda, voivode, voyevoda, vaivode) は、中世・近世のスラヴ・東欧で使われた称号である。 元来は軍司令官の称号だったが、県・郡規模の領主の称号に変化した。.

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トムスク

トムスク(Томск, Tomsk)はシベリア西部に位置するロシア連邦の都市。シベリア連邦管区に属するトムスク州の州都。人口は488,800人(2004年)。シベリア最古の町のひとつで、2004年には建設400周年を祝っている。.

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アムール川

アムール川(アムールがわ、、ラテン文字転写: Amur)、あるいは黒竜江(こくりゅうこう、、、満州語:或いは、転写:sahaliyan ula或いはhelung giyang)は、ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位、流域面積は185万5500km2で世界10位である。.

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アルダン川

アルダン川(Aldan、ロシア語: Алдан)は、ロシア・シベリア東部を流れる川である。レナ川の右支流で、長さは2,273km、流域面積は72万9,000km2ある。レナ川の支流の中ではビリュイ川に次ぎ二番目に長くレナ川の水量の30%以上を集める。.

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アタマン

アタマン、アタマーン(атаманアタマーン)は、コサック共同体で選出される指導者の称号。この称号は、14世紀頃に出現した。ウクライナ語では「отаман」(オタマーン)となる。従って、ウクライナのコサックに関してはオタマンあるいはオタマーンと書く方が適切である。.

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ウリヤ川

ウリヤ川(Улья, ローマ字表記の例: Ulya)はロシア極東のハバロフスク地方北部を流れる川である。長さは325km、流域面積は15,500平方km。 ウリヤ川はジュクジュル山脈に発し、東の方にあるオホーツク海の海岸と平行に北東へと流れ、やがて東に向きを変えてオホーツク海に注ぐ。河口はオホーツクの町から南西に100kmほどの位置にある。10月末には凍結し、5月までは氷が残る。 1639年、コサックの探検家イヴァン・モスクヴィチン(Ivan Moskvitin)率いる探検隊は、レナ川支流のマヤ川からジュクジュル山脈を越えてこの川を下り、ロシア人として初めてオホーツク海に達した。彼らは河口にキャンプを建てて越冬している。1646年にはヴァシーリー・ポヤルコフ(Vasili Poyarkov)もこの地に至り、モスクヴィチンの建てた小屋を使って越冬している。 Category:ロシアの河川 Category:ハバロフスク地方の地形.

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エロフェイ・ハバロフ

フェイ・ハバロフの記念碑 エロフェイ・パヴロヴィチ・ハバロフ(エロフェイ・パヴロヴィチ・ハバローフ=スヴャティツキー、Ерофей Павлович Хабаро́в-Святитский, ローマ字表記の例: Yerofey Pavlovich Khabarov (Svyatitsky), 当時の記録ではヤロフェイ Ярофей とも表記、1603年頃生まれ - 1671年頃没)は、17世紀ロシアの商人・探検家。アムール川流域を本格的に探検し、その植民地化を図った人物として知られている。ロシア極東の大都市ハバロフスク、およびアムール州のシベリア鉄道沿いの町エロフェイ・パヴロヴィチは彼の名にちなんでいる。.

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オホーツク海

ホーツク海とその周辺地図。 オホーツク海(オホーツクかい、ロシア語:Охотское море、英語:Sea of Okhotsk)は、樺太(サハリン)、千島列島、カムチャツカ半島等に囲まれた海で、北海道の北東に位置する。 太平洋の縁海であり、カムチャツカ半島・千島列島によって太平洋と、また、樺太・北海道によって日本海と隔てられている。.

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コサック

ック・ママーイ。コサックの理想像。 コサック(козак、哥薩克)は、ウクライナと南ロシアなどに15世紀以降に帝政ロシアの農奴制から逃亡した農民や没落貴族で形成された独特の軍事的共同体、またはその共同体の一員である。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などを行った。.

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シャンタル諸島

ャンタル諸島(シャンタルしょとう、露:Шантарские острова)はオホーツク海西部にあるロシア領の諸島。行政区分としてはハバロフスク地方に属する。.

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シベリア

       シベリア連邦管区        シベリア        広義の(歴史的)シベリア シベリア(Siberia 、Сибирь )は、ロシア連邦領内のおよそウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域である。漢字表記で西比利亜又は西伯利亜とも書く。かつては日本語でシベリヤという表記も多くみられた。シベリアの名称はシビル・ハン国に由来する。 一般的には極東分水嶺(サハ共和国東縁)より東の日本海・オホーツク海など沿岸地域(極東ロシア)は含まないが、広義には含めることもある。ロシア連邦所属の共和国・自治管区は存在するが、独立国家は存在しない。主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ヤクーツクがある。広義のシベリアはさらに、エカテリンブルク、ハバロフスク、ウラジオストクを含む。人口最大の都市はノヴォシビルスク。現在ではロシア語話者が人口の大半を占めるが、サハ語などのテュルク諸語や、ウラル語族に属する言語が多く分布している。.

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シベリアの河川交通

ベリアの河川交通(シベリアのかせんこうつう)では、ロシアを中心とするシベリア地域における河川交通について解説する。 1730年代にシベリア道路の建設が始まる前のシベリアでは、河川が主な交通手段として用いられていた。 シベリアの河川は広大なシベリアにおけるロシアの探検や植民の過程において重要な役割を果たした。 シベリアを流れるオビ川、エニセイ川、レナ川の3つの大河はいずれも北極海に注ぐ。 そこで、主な問題は東西方向に流れる支流とそれらを結ぶ陸路を見つけることになる。 シベリアは比較的平坦なので、陸路は通常短い。 このことと、シベリアの民族の抵抗が弱かったことで、コサックは短期間のうちにシベリア横断と征服を達成した。1582年にイェルマークに率いられたコサックがウラル山脈東側のシビル・ハン国と戦ってから、1639年にコサックのイヴァン・モスクヴィチンが太平洋岸に到達するまでには、57年しか経っていない。.

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生没年不詳

生没年不詳(せいぼつねんふしょう)とは、歴史上の人物の生没年がともに不明であることを示す。 生没年(せいぼつねん)は、ある個人の生まれた年(生年)、死亡した年(没年)をあわせた名称であり、伝記を記述するに当たって重要な要素の一つである。.

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銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.

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探検家

探検家(たんけんか)とは、探索すべき余地が残されている未知の領域に直接に赴くことにより調査する人々を指す。広義の意味において、冒険家(冒険者)や宇宙飛行士を含むこともある。 探検の目的には軍事・商業・学術・旅行・宗教、およびそれらのルートの開拓などが挙げられる。たとえば、カルタゴの将軍ハンニバルやアケメネス朝ペルシアの大王ダレイオスが行った遠征も探検と呼べるので広義の意味では彼らは探検家である(また組織として行動したヴァイキングも個々においては、探検家や冒険家であった。例:赤毛のエイリーク)。 彼らについては歴史的な観点から別項で記述されるであろうから、ここでは狭義の意味での探検家、すなわち軍事以外を主目的とした探検家について述べるが、以下の探検家の中には本来軍事・植民地支配の目的で派遣されたが、その目的を果たせず、結果的に探検家として評価されている人々も含まれている(例:張騫)。.

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毛皮

ポッサムの毛皮 毛皮(けがわ、英: fur)とは、体毛がついたままの獣皮のことブリタニカ百科事典。 本物の動物の毛皮を使用しない「フェイクファー」や「エコファー」などという呼び方との対比で、本物の動物の毛皮のことを「リアルファー」とも言う。 現代の毛皮の85%以上は野生由来ではなく、毛皮用の動物養殖農場から生産されている.

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1626年

記載なし。

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1638年

記載なし。

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1639年

記載なし。

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1640年

記載なし。

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1645年

記載なし。

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1646年

記載なし。

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1647年

記載なし。

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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7月28日

7月28日(しちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から209日目(閏年では210日目)にあたり、年末まであと156日ある。誕生花はオシロイバナ、グロリオーサ。.

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