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長谷信成

索引 長谷信成

長谷 信成(ながたに のぶなり、1841年2月18日(天保12年1月27日)- 1921年(大正10年)11月26日『平成新修旧華族家系大成』下巻、234-235頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。子爵。.

7 関係: 参与廷臣二十二卿列参事件皇后宮職神道大教阿野公誠長谷家長谷信篤

参与

参与(さんよ)とは、事務・職務に参画する意。参預、賛与とも。.

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廷臣二十二卿列参事件

廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)は、慶応2年8月30日(1866年10月8日)に発生した公家による騒擾事件である。 孝明天皇は朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し大政を委任していたが、これに不満を持つ尊皇攘夷派公家の跳梁跋扈に悩まされていた。やがて尊攘派と天皇の対立は顕在化し、八月十八日の政変などを経て尊攘派の公家は朝廷から追放されていった。 しかし、慶応2年(1866年)の長州征討が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなっていった。こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件が発生する。しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せていることを示した。 なお、この事件の背後には岩倉村に蟄居中の岩倉具視の策謀が有ったとされ、これは後に岩倉による天皇暗殺疑惑へと繋がる伏線をなしている。だが、この疑惑は珍説の部類に属するとされている。 対象公家は下記の通り。 ※東京大学史料編纂所データベース:維新史料綱要データベースより採取。小玉正任監修「幕末公家集成」新人物往来社も参照。.

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皇后宮職

皇后宮職(こうごうぐうしょく、こうごうぐうしき)は皇后の家政機関を指す。日本の宮内庁においては宮内庁侍従職が天皇と皇后に関する事務をあわせて担当するため、現在はおかれていない。.

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神道大教

道大教(しんとうたいきょう)は、教派神道の一つ。 明治政府が明治5年に神道の総本山とすべく設けた大教院が元であり、神道十三派と呼ばれる各教派神道の母体となった。初代管長は、稲葉正邦である。 祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命、天照大神、天神八百萬神、地祇八百萬神。.

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阿野公誠

阿野 公誠(あの きんみ、1818年4月22日(文化15年1月7日)- 1879年(明治12年)6月1日『明治維新人名辞典』31頁。)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。麝香間祗候。.

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長谷家

長谷家(ながたにけ)は桓武平氏高棟王流で、西洞院時慶(従二位・参議)(1552年 - 1640年)の五男長谷忠康(正三位・民部大輔)(1612年 - 1669年)を祖とする堂上家。 後水尾天皇の側近だった西洞院時直(従二位・参議)(1584年 - 1636年)及び平松時庸(従二位・権中納言)(1599年 - 1654年)を兄とし、交野家の祖交野時貞(大膳大夫)は弟にあたる。 家格は名家、従二位・参議を極官とする。 江戸時代の家禄は30石。明治維新後は信篤が子爵に叙せられた。.

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長谷信篤

長谷 信篤(ながたに のぶあつ、文化15年2月24日(1818年3月30日) - 明治35年(1902年)12月26日)は、幕末・明治期の公卿・華族(子爵)・政治家。京都府知事(初代)、元老院議官、貴族院議員などの要職を歴任した。長谷信好の子。母は猪熊慶礼の娘(正室)。後の正室は坊城俊政の娘梓子。子に長谷信成がいる。.

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