23 関係: 執事、中関白家、一条長成、平安時代の人物一覧、平親宗、平業忠、平時忠、平時信、年預、信濃国、藤原家忠、藤原家範、藤原師実、藤原師通、藤原忠隆、藤原忠教、藤原信頼、藤原信通、藤原経実、藤原能実、藤原長忠、藤原成通、院近臣。
執事
執事(しつじ)とは、役職名であるが、使用された時期や場所によって意味合いが異なってくる。.
中関白家
中関白家(なかのかんぱくけ)は、藤原北家の中の、平安時代中期の関白藤原道隆を祖とする一族の呼称。.
一条長成
一条 長成(いちじょう ながなり)は、平安時代末期の公家。白河院・鳥羽院の近臣であった参議・藤原忠能の次男。母は参議・藤原長忠の娘で、その姉妹はやはり鳥羽院近臣の藤原基隆に嫁ぎ、忠隆を生んでいる。源義経の養父。極官は大蔵卿で、邸宅が一条大路沿いにあったことから一条大蔵卿と号した。藤原北家道隆流(水無瀬流)であり、後の摂関家一条家とは別系統。また同時期の権中納言一条能保(中御門流、源頼朝の妹婿)や、一条忠頼(甲斐源氏)とも別である。.
平安時代の人物一覧
平安時代の人物一覧(へいあんじだいのじんぶついちらん) ここでは、平安時代の人物を集めた。.
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平親宗
平 親宗(たいら の ちかむね、天養元年(1144年) - 正治元年7月17日(1199年8月10日))は、平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、贈左大臣・平時信の次男。高倉天皇の外叔父。官位は正二位・中納言。.
平業忠
平 業忠(たいら の なりただ、永暦元年(1160年) - 建暦2年8月16日(1212年9月12日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の院近臣。成忠とも表記される。大膳大夫・平信業の子。母は藤原基隆または藤原家範の娘。官位は正四位下・大膳大夫。.
平時忠
平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。また、平家の滅亡後も生き延びている。なお、いわゆる「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である(詳細は後述)。.
平時信
平 時信(たいら の ときのぶ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。.
年預
年預(ねんよ)は、中世日本に置かれた役職の1つ。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
藤原家忠
藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。.
藤原家範
藤原 家範(ふじわら の いえのり)は、平安時代後期の貴族。藤原北家隆家流、右中弁・藤原師家の子。官位は正四位下・大膳大夫。.
藤原師実
藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.
藤原師通
藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.
藤原忠隆
藤原 忠隆(ふじわら の ただたか)は、平安時代後期の公卿。藤原基隆(藤原家範の子、師家の孫)の長男。.
藤原忠教
藤原 忠教(ふじわら の ただのり)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の五男。官位は正二位・大納言。難波家の祖。.
藤原信頼
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。.
藤原信通
藤原 信通(ふじわら の のぶみち)は平安時代後期の公卿。権大納言・藤原宗通の長男。.
藤原経実
藤原 経実(ふじわら の つねざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政藤原師実の三男。官位は正二位・大納言、贈正一位、太政大臣。二条天皇の外祖父。大炊御門家の祖。.
藤原能実
藤原 能実(ふじわら の よしざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の四男。官位は正二位・大納言。.
藤原長忠
藤原 長忠(ふじわら の ながただ)は平安時代後期の公卿。内大臣・藤原能長の次男。.
藤原成通
藤原 成通(ふじわら の なりみち、承徳元年(1097年) - 応保2年(1162年))は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原宗通の四男。初名・宗房。法名・栖蓮。正二位・大納言。蹴鞠・今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。.
院近臣
院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。.