338 関係: とめはねっ! 鈴里高校書道部、側款、十時梅がい、印章、印籍、印譜、印材、即非如一、千葉皓史、協同組合短期大学、古河市、只野真葛、名古屋市立保育短期大学、吾丘衍、墨 (書道雑誌)、壬生水石、大城石農、大網白里市、天賞堂、太平書屋、太政官印、奚岡、奈良教育大学の人物一覧、宮後浩、官印、宗方俊彦、安吉県、安部井櫟堂、宋カク、寿山石、富取益斎、封泥、小俣蠖庵、小倉一郎、小林斗アン、小曽根乾堂、小曽根星海、尾崎散木、山口県立図書館分類表、山田寒山、山田喆、山田正平、山東京山、山本竹雲、岡本椿所、岩倉具選、川内伯豊、川越市、川林泱雲、工藤平助、...、巴林石、巴樹穀、巴慰祖、丁敬、帝室技芸員、中井敬所、中国の篆刻家一覧、中国の書道史、中国の書論、中田勇次郎、中田粲堂、中西石焦、中村蘭台 (2代)、中村蘭台 (初代)、中村水竹、中本白洲、丸山暁鶴、丸山楽雲、市河米庵、市河恭斎、三井親和、三雲仙嘯、三村竹清、久留米工業学園短期大学、二松學舍大学の人物一覧、二村楳山、今井順斎、伏見冲敬、張大千、張燕昌、佚山、佐藤隆介、何紹基、何震、余延年、徐三庚、御璽、修水県、北大路魯山人、北方心泉、園田湖城、包世臣、トウ石如、トウ散木、周亮工、呉世昌、呉北渚、呉咨、呉熙載、呉春、呉昌碩、カービング、ギン州区、円山大迂、元禄文化、前川虚舟、前橋市立工業短期大学、勝間龍水、国璽、矢吹璋雲、石崎融思、石井雙石、玉林堂、王常、王シ、王冕、王石経、王概、現代の名工、琴棋書画、福井端隠、禅林墨跡、秋山白巌、秋山書店、稲毛屋山、程邃、立原翠軒、笠間日動美術館、篠崎小竹、篠田芥津、篆刻美術館、篆書体、米フツ、糸印、細合半斎、細川林谷、細井九皋、細井広沢、紀止、綾南町、綾川町、羽倉可亭、羅王常、真鍋井蛙、終南浄寿、産経国際書展、田辺玄々、甘暘、無形文化遺産、牧夏嶽、独立 (曖昧さ回避)、独立性易、益田勤斎、益田遇所、白崎秀雄、隠元隆き、銭君トウ、銭選、銭松、花押、韓天寿、遊印、華雪、菅原石廬、菅原道真、菅南涯、青田石、青田県、頼春水、顧従徳、行徳玉江、街道てくてく旅、館柳湾、西川寧、西レイ印社、角屋七郎次郎、訃報 2007年8月、訃報 2017年11月、読売書法展、高玄岱、高畑常信、高芙蓉、高松第一高等学校、高泉性敦、谷舜英、象牙、豆腐百珍、趙古泥、趙叔孺、趙之チン、趙之謙、趙陶斎、黄士陵、黄賓虹、黄檗美術、黄易、黙子如定、鼎春嶽、茅原基治、胡唐、胡震、胡钁、都賀庭鐘、蘭谷元定、蘇 (姓)、蘇宣、赤松眉公、間宮壽石、藤井尚治、藤貞幹、藪井星池、董洵、葵雋卿、葉ろう石、葛子琴、蒋仁、蔀関牛、臨池居、自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧、里東白、長尾雨山、長崎市立浪平小学校、長崎派、長谷川延年、長沼直兄、陳衡恪、陳豫鐘、陳鴻寿、TRONプロジェクト、柳沢淇園、柴田政太郎、林十江、林皋、林煥章、李宝嘉、李尹桑、東京理科大学諏訪短期大学、東皐心越、松丸東魚、松木松年、松本駝堂、松浦静軒、杜俊民、杜澂、桃澤如水、桑名鉄城、梁チツ、森川竹窓、植田華亭、楊カイ、榊原篁洲、模刻 (曖昧さ回避)、殷璽、水野恵 (篆刻)、永田耕衣、江馬天江、池永道雲、汪啓淑、汪関、汪肇龍、河井せん廬、河井章石、沈兆霖、沈鳳、沙孟海、淡海槐堂、源伯民、源惟良、滋賀県出身の人物一覧、滋賀県立短期大学、木島桜谷、木下逸雲、木庵性トウ、木村卜堂、木村竹香、木村蒹葭堂、末永節、朱簡、有栖川宮熾仁親王、戴煦、昌化石、易熹、浜村蔵六、浜村蔵六 (三世)、浜村蔵六 (二世)、浜村蔵六 (五世)、浜村蔵六 (初世)、浜村蔵六 (四世)、新興蒙所、新潟県立新潟高等学校の人物一覧、文人、文彭、斉白石、日展、日本の篆刻史、日本の篆刻家一覧、日本の書道史、日本十進分類法、日本書道学院、旧草嶺トンネル、悟心元明、手芸、書家、書道、書道用語一覧、曽谷学川、曽根寸斎、11月25日、1310年、1359年、1497年、1605年、1703年、1736年、1755年、1778年、1782年、1798年、1820年、1828年、1833年、1837年、1843年、1887年、1916年、1918年、1月1日、2月23日、3月10日、3月24日、6月15日、6月16日、6月9日、8月15日、8月18日、8月9日、9月11日、9月16日。 インデックスを展開 (288 もっと) »
とめはねっ! 鈴里高校書道部
『とめはねっ! 鈴里高校書道部』(とめはねっ! すずりこうこうしょどうぶ)は、河合克敏による書道を題材とした日本の漫画。書道監修は武田双雲。 『週刊ヤングサンデー』(小学館)2007年2号より2008年35号まで変則連載され、同誌の休刊に伴い『ビッグコミックスピリッツ』(同)に移籍し、2008年41号から2015年16号まで隔週連載されていた。 NHKで同名でテレビドラマ化され、2010年に放送された。.
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側款
側款(そくかん)とは、篆刻において、印材側面に刻まれた作者の署名(落款)のことであり、辺款、印款、旁款とも言う。あるいは印跋を含めていう場合もある。.
十時梅がい
十時 梅厓(ととき ばいがい、寛延2年(1749年) - 享和4年1月23日(1804年3月4日))は、江戸時代中期の南画家、儒学者で、書や篆刻も能くした。儒官として伊勢長島藩に仕えた。大坂生まれ。 姓は十時、名を業のちに賜(しゃく)、字は季長のちに子羽とした。号は梅厓の他に顧亭、清夢軒、天臨閣、通称 半蔵と称した。.
印章
印章(いんしょう、)は、木、竹、石、角、象牙、金属、合成樹脂などを素材として、その一面に文字やシンボルを彫刻したもので、個人・官職・団体のしるしとして公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すことにより、その責任や権威を証明する事に用いるもの。印(いん)、判(はん)、印判(いんはん)、印形(いんぎょう)、印顆(いんか)、印信(いんしん)、ハンコ(判子)ともいう。 しばしば世間一般では、正式には印章と呼ばれるもののことをハンコ、印鑑(いんかん)と呼んでいるが、厳密には印章あるいはハンコと同じ意味で「印鑑」という語を用いるのは正確ではない。古くは、印影と印章の所有者(押印した者)を一致させるために、印章を登録させた。この印影の登録簿を指して印鑑と呼んだ。転じて、印鑑登録に用いた印章(実印)を特に印鑑と呼ぶこともあり、更には銀行印などの登録印や、印章全般もそのように呼ぶ場合もある。.
印籍
印籍(いんせき)とは、篆刻に関する書籍全般を差す。印書・印本ともいう。 印籍は印譜、印論、印人伝に分類できる。印譜は印影を中心にその研究あるいは美術的鑑賞を目的とする。 印論は更に印章論、篆刻論、印籍論に分けられる。日本においては曽之唯『印籍考』がユニークな印論として特筆できる。曽之唯は別に印文、印語を集めた『印語纂』を著している。 代表的な印人伝としては、中国では周亮工『印人伝』・汪啓淑『続印人伝』、日本では中井敬所の遺稿『日本印人伝』や伏見冲敬編『印人伝集成』などが挙げられる。.
印譜
印譜(いんぷ)とは、印籍の一種で、鑑賞や研究を目的として印章の印影および印款を中心に掲載した書籍である。原印を直接鈐した原鈐本と、模刻した印を鈐した鈐印本、木版などに写した翻刻本がある。中国や日本の近世・近代に文人や篆刻家によって盛んに刊行された。 最初の印譜は、中国北宋の大観年間に楊克一が出版した『集古印格』とされる。続いて宣和年間に徽宗が撰した『宣和印譜』とされるがこれは伝存していない。宋・元を通じて16種の印譜が出版されたがいずれも翻刻であった。 原鈐本が伝わる最古の印譜は明代の隆慶6年(1572年)に出版された、顧従徳の『集古印譜』である。初版は僅か20部であり、秦・漢の古印の印影を1700方余り集めている。現存しているのはこのうちの1部(1帙5冊・欠1冊)である。万暦年間に王常の協力を得て翻刻し、最終的には4000方近くにまでの印影を集めた。増刷の過程で複数の異なった書名となり、『顧氏芸閣集古印譜』・『顧氏印藪』・『王氏秦漢印統』などがある。篆刻芸術の黎明期と重なり、多くの篆刻家がこの印譜の啓発を受けている。 内容で分類すると、古銅印譜と近人印譜に分けられる。古銅印譜は、古代の主に青銅製の印(古銅印)を収集して押した印譜である。近人印譜は、明時代以降(日本では江戸時代以降)、文人による篆刻が盛んになった情勢下に編集された、篆刻家の印(主に石材の印)の印を押したものである。後者には、篆刻家自身の編集によるもの、コレクターが編集したもの、画家や書家が使用した印を集めたもの(自用印譜)などがある。.
印材
印材(いんざい)とは、印章(判子 (はんこ) 、スタンプ、落款、印鑑、図章)を彫るための素材である。.
即非如一
即非如一(そくひ にょいつ、万暦44年5月14日(1616年6月27日)- 寛文11年5月20日(1671年6月26日))は、江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏。字は即非。.
千葉皓史
千葉 皓史(ちば こうじ、1947年(昭和22年) - )は、俳人、篆刻家、デザイナー。俳号は同じ字で読みは「こうし」。東京都生まれ、早稲田大学卒業。卒業後は文具店に勤務。 1978年「泉」に入会、俳句を石田勝彦、綾部仁喜に師事。1985年泉賞受賞。1989年、大木あまり、長谷川櫂とともに「夏至」創刊に参加。1991年第一句集『郊外』により第15回俳人協会新人賞を受賞。代表句に「裸子がわれの裸をよろこべり」など。「泉」「夏至」同人を経て現在は結社無所属。俳人協会会員。また篆刻を菅原石廬に学び、日展篆刻部入選、読売書法展篆刻部秀逸などを受けている。 1987年、和文具・和雑貨のブランド「GENRO (ゲンロ)」を創業、以後オーナー兼デザイナーとして活動。ラバースタンプ「四季の印」がヒットし、2005年には杉並区上井草の社屋一階に自社商品を置いたカフェ「茶・いぐさ」を開店。2008年に「genro & cafe」に改称し現在は息子が経営を続けている。同店は2005年に杉並区商店コンクール優秀賞、2006年には第9回杉並「まち」デザイン賞を受賞した。 任意団体「まちづくり上井草」代表として同地の町づくり活動にも取り組み、上井草商店街発行のフリーマガジン『Vinci(ヴィンチ)』の編集にも携わっている。.
協同組合短期大学
学生募集は1968年度まで1971年度受験用『全国短期大学案内』(梧桐書院)133頁より。。 1973年6月28日 廃校。現在、廃校キャンパス跡は食品スーパーに転用され、敷地の片隅には石碑がある。.
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古河市
古河市名の由来となった万葉歌碑「麻久良我の 許我の渡りの韓楫の 音高しもな寝なへ 兒ゆゑに」 古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する市である。人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。 近隣の栃木県野木町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。.
只野真葛
只野 真葛(ただの まくず、宝暦13年(1763年) - 文政8年6月26日(1825年8月10日))は、江戸時代中期・後期の女流文学者で国学者。父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明批評家杉本(1977)p.32-40や女性思想家と評されることもある。『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の娘で、別号は綾女。本名は工藤あや子(綾子)、または単にあや(綾)。「工藤真葛」、「真葛子」、「真葛の媼(おうな)」とも称される。只野は婚家の姓。読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評をたのんだ経世論「独考(ひとりかんがへ)」、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。.
名古屋市立保育短期大学
学生募集は1995年度まで、1997年3月31日廃止平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』250頁。現在は、名古屋市立大学の一部となっている。ちなみに、短大のキャンパス跡地は現在、尾張旭市が所有しているが、活用方法を検討中である。.
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吾丘衍
吾丘 衍(ごきゅう えん、1272年 - 1311年)は、中国元代初期の著述家、文人である。中国最初の篆刻理論書を著して篆刻芸術の指針と示した。 呉衍ともいう。字は子行、号は竹房、貞白居士。浙江衢州に生まれ、杭州に住んだ。.
墨 (書道雑誌)
『墨』(すみ)は、芸術新聞社発行の隔月刊書道専門誌。 1976年7月に創刊(発行人は小針代助)され、2009年9月で200号を迎えた。現在の発行人は相澤正夫。タイトルロゴは米フツの「墨」の字。.
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壬生水石
壬生 水石(みぶ すいせき、男性、寛政2年9月1日(1790年10月8日) – 明治4年10月22日(1871年12月4日))は、江戸時代後期の日本の画家・篆刻家である。 姓は壬生以外にも王・児玉・岩山など。名は弘文・長庚・戚・戍・撲・朴など。字は無名・子文・仲礼・叔治など。通称八十郎だが他にも詩摩介・志摩など。号も水石以外の別号が夥しくある。 土佐の出身。.
大城石農
大城 石農(おおぎ せきのう、男性、生卒年不詳)は、江戸時代後期の日本の画家・篆刻家である。 名は養、字は君頥、石農は号で他に繍水・松筠館・風道人など。通称源四郎。長崎の人。.
大網白里市
大網白里市(おおあみしらさとし)は、千葉県の県央にある市。太平洋(九十九里浜)に面し、九十九里平野の南西部に位置する。通勤率は、千葉市へ18.8%・東京都特別区部へ11.7%(いずれも平成22年国勢調査)。千葉県内において名前が漢字4文字の市は現在では唯一。.
天賞堂
天賞堂(てんしょうどう)は、日本の宝飾・時計・鉄道模型の販売店である。 なお、青森県弘前市にも「天賞堂」という同業の店舗(株式会社弘前天賞堂が経営)が存在するが、当項目で扱う店舗との関係はない。.
太平書屋
太平書屋(たいへいしょおく)は、国文学専門の出版社で、代表者は浅川征一郎。 川柳書、漢詩文書、江戸風俗書、軟派珍書、狂歌狂詩などを対象に、稀少本の複製本、書下ろし解説書、研究書などを刊行している。漢詩文と絵本を主とした影印・複製本の叢書「太平文庫」で知られる(なお同文庫の判型は文庫判ではなく、同一でもない)。.
太政官印
太政官印(だじょうかんいん)とは、太政官の公印。天皇御璽を「内印」と称したのに対して、「外印(げいん)」という別称が用いられた。 太政官印.
奚岡
奚 岡(けい こう、男性、1746年 - 1803年)は、中国清朝 嘉慶道光期の篆刻家・書家・画家である。西泠四家に加えられる。 初名は鋼、字を純章、号は鉄生・蘿龕・鶴渚生・蒙泉外史・蒙道士・散木居士。浙江銭塘の人。.
奈良教育大学の人物一覧
奈良教育大学の人物一覧は奈良教育大学に関係する人物の一覧記事。.
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宮後浩
宮後 浩(みやご ひろし、1946年1月 - )は、日本のデザイナー。芸術学博士。株式会社コラムデザインセンターならびに株式会社コラムデザインスクール代表取締役。 建築パースを中心に、店舗、工場などのデザインから企業CI(コーポレートアイデンティティ)のデザインコンサルティングなど幅広く手がける。 関西での手描き建築パース制作の第一人者として、建築デザインの実践的教育をめざし教育業務にも力を入れている。.
官印
官印(かんいん)とは、中国や日本において身分証明・公的証明のために官吏・役所に配られた官製の印章。元は純粋な実用印であるが、宋代頃からその美術性の高さが評価されるようになり、蒐集・鑑賞の対象、篆刻の参考資料として使用されるようにもなっている。.
宗方俊彦
宗方 俊遃(むねかた としゆき、1933年3月7日- )は、日本の教育者。元都立高等学校生物学の教員、教頭、学校長を歴任。.
安吉県
安吉県(あんきつ-けん)は中華人民共和国浙江省湖州市に位置する県。.
安部井櫟堂
安部井 櫟堂(あべい れきどう、男性、文化2年(1805年) – 明治16年(1883年)9月16日)は、近代日本の篆刻家である。 名はカイ?(大+介)、字は大介、号は芥舟。通称音門のちに音人。はじめの姓は岡氏。近江彦根の人。.
宋カク
宋珏(そう かく、男性、1576年 - 1632年)は、中国明代の篆刻家・詩人・書家・画家である。中国篆刻の一派莆田派の祖とされる。 字を比玉、号は茘枝仙。福建莆田の人。.
寿山石
寿山石(じゅざんせき)は、篆刻の主要な印材。彫刻素材にも利用される。主成分は葉ろう石。中華人民共和国福建省産。 田黄(中文)、高山凍、杜陵坑、善伯洞など良質で美しい材が知られる。安価な切り石が大量に輸入されているが、近年の産は粗悪なものも多い。青田石同様、篆刻初心者向けの石材である。色は茶系が多い。.
富取益斎
富取 益斎(とみとり えきさい、男性、生年不詳 – 文政5年2月10日(1822年4月1日))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 本姓は富取氏。名鴻、字を公範、益斎は号。富益斎と中国風に修され、また益斎富鴻と称されることもある。越後の人。.
封泥
封泥(ふうでい)とは古代の西アジアや中国において、重要物品を入れた容器や公的内容を記した木簡・竹簡の束を封緘するとともに、責任の所在を示す証明書として用いられた粘土の塊のこと。封緘、保管、輸送などを担当する責任者を記す記号や文字が刻まれたり、印が押捺されているのが普通。中国のものは印章と同様に蒐集・鑑賞、篆刻の参考資料として研究されている。.
小俣蠖庵
小俣 蠖庵(おまた かくあん、男性、明和2年(1765年) – 天保8年7月9日(1837年8月9日))は、江戸時代中期の日本の篆刻家・書家・画家である。 名は孟寛のち孟奬、字を子猛のちに名六と改める。号は蠖庵の他に栗斎、晩年には眯翁とした。本姓は藤原氏。自ら修して符と称している。通称次郎兵衛。家名を襲名し7代目茂四郎となる。伊勢の人。.
小倉一郎
小倉 一郎(おぐら いちろう、1951年10月29日 - )は、鹿児島県出生()の俳優である。日本大学豊山高等学校中退。大判社所属。.
小林斗アン
小林 斗盦(こばやし とあん、1916年2月23日 - 2007年8月13日)は、日本の書道家、篆刻家である。埼玉県生まれ。本名は庸浩(こうよう)、号は斗盦(斗庵)。全日本篆刻連盟会長。篆刻家初の文化勲章受章者。勲三等瑞宝章。 篆刻家・河井荃廬、書家・西川寧に師事。.
小曽根乾堂
小曽根 乾堂 (こぞね けんどう、文政11年5月2日(1828年6月13日) - 明治18年(1885年)11月27日)は、江戸時代末期から明治時代の日本の事業家・書家・文人画家・篆刻家である。明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことで知られる。また、坂本龍馬のよき理解者であり財政面を支えている。 幼名を六郎太、六朗。諱を豊明、字を守辱、乾堂は号で室号を鎮鼎山房・浪平釣叟とした。通称は栄。長崎の人。.
小曽根星海
小曽根 星海(こぞね せいかい、嘉永4年(1851年)5月 – 明治37年(1904年)6月5日)は、明治時代の実業家・書家・篆刻家である。 星海は号。通称は晨太郎(しんたろう)。長崎の人。.
尾崎散木
尾崎 散木(おざき さんぼく、元禄16年(1703年) – 安永5年2月5日(1776年3月24日))は、江戸時代中期の日本の書家・篆刻家である。 名を樗、散木は字。南龍と号した。浪華の人。.
山口県立図書館分類表
山口県立図書館分類表『新現代図書館学講座10 資料組織概説』、220頁。(やまぐちけんりつとしょかんぶんるいひょう)とは、山口県立山口図書館が1909年(明治42年)に定めた図書分類法である。山口図書館分類表とも。.
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山田寒山
山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年(1856年) – 大正7年12月26日(1918年))は、明治期の日本の篆刻家である。曹洞宗の僧侶であり詩書画にも堪能であった。 名は潤子、号が寒山。名古屋の人。.
山田喆
山田 喆(やまだ てつ、本名:山田 徹秀、1898年9月10日 - 1971年5月3日)は、新潟県三条市生まれの日本の陶芸家である。前衛陶芸団体走泥社の創始者の一人、山田光は息子にあたる。.
山田正平
山田 正平(やまだ しょうへい、明治32年(1899年)2月1日 - 昭和37年(1962年)8月16日)は、新潟県出身の篆刻家。「昭和の代表的篆刻家」。.
山東京山
山東 京山(さんとう きょうざん、明和6年6月15日(1769年7月18日)-安政5年9月24日(1858年10月30日))は、江戸時代後期の戯作者。本名は岩瀬 百樹(いわせ ももき)。字は鉄梅。号は覧山・涼仙。山東京伝は兄。.
山本竹雲
山本竹雲 (やまもと ちくうん、男性、文政2年(1819年) – 明治21年(1888年)4月27日)は、明治期の日本の篆刻家・茶人である。 名は戈または勇、字は中立、竹雲は号で堂号に深竹軒、夢硯堂などがある。備前児島郡味岡の人。.
岡本椿所
岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、生年不明 – 昭和8年(1933年))は、近代日本の篆刻家である。 名は義邦、字は叔礼、椿所は号。津山の人。 東京に出て明治28年に中井敬所の菡萏居社に入門し篆刻を学ぶ。同門に岡村梅軒・郡司楳所・田口逸所・増田立所・井口卓所などがいる。三村竹清に印を売り、その後交渉している。明治40年には河井荃廬・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・山田寒山らと丁未印社を結ぶ。.
岩倉具選
岩倉 具選(いわくら ともかず)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・柳原光綱の末子。官位は従三位。岩倉家9代当主。.
川内伯豊
川内 伯豐(かわうち はくほう、1983年2月12日 - )は、日本の書家、篆刻家、研究者。本名、。伯豐は号。別に伯豐道人、尚友齋の号あり。東京都港区出身。.
川越市
川越市(かわごえし)は埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を擁し、中核市と業務核都市、保健所政令市に指定されている。旧武蔵国入間郡。.
川林泱雲
川林 泱雲(かわばやし おううん、1899年(明治32年)3月9日 - 1975年(昭和50年)1月22日)は、日本の篆刻家・書家。 二世中村蘭台に師事。名は寛治郎。号ははじめ「寛」、のちに師蘭台より「紫緑」(しろく)、「泱雲」(おううん)、を拝命した。.
工藤平助
工藤平助(くどう へいすけ、享保19年(1734年) - 寛政12年12月10日(1801年1月24日))は江戸時代中期の仙台藩江戸詰の藩医で経世論家。『赤蝦夷風説考』の筆者で、若き日の林子平に影響を与えた人物。医師としては工藤周庵(くどうしゅうあん)、還俗後は平助を名乗った。名(諱)は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)で、万幸、晩幸とも表記する。.
巴林石
巴林石(ぱりんせき、ばりんせき)は、篆刻の主要な印材。中華人民共和国内蒙古自治区産。比較的新しく知られるようになった印材であり、産出量も豊富。鶏血石を含む多様な色彩がある。.
巴樹穀
巴樹穀(は じゅこく、男性、1767年 - ?)は、中国清朝中期の篆刻家である。字を孟嘉・藝之・辛祈、号は秋農・義サイ(齋+皿)・西塍・曙谷、室名に還香室・山外山閣。安徽歙県の人。 巴慰祖 の長男であり新安印派の最晩期の篆刻家である。弟に巴樹烜(字を煦齋)、従兄の胡唐とよく交わり篆刻を研鑽した。.
巴慰祖
巴慰祖(は いそ、男性、1743年 - 1793年)は、中国清朝中期の篆刻家・書画家である。新安印派の程邃・汪肇龍・胡唐らと「歙四家」と称揚される。 字を予藉・子安、号は雋堂・晋堂・連舫。安徽歙県の人。.
丁敬
丁 敬(てい けい、男性、1695年 - 1765年)は、中国清朝後期の篆刻家・書家・詩人である。中国篆刻の二大流派のひとつである西泠印派(浙派)の祖となる。 字を敬身、号は鈍丁・硯林・硯叟・玩茶叟・龍泓外史など。浙江銭塘の人。.
帝室技芸員
帝室技芸員(ていしつぎげいいん)は、戦前の日本で宮内省によって運営されていた、美術家や工芸家の顕彰制度である。日本の優秀な美術家・工芸家に、帝室からの栄誉を与えてこれを保護し、更に斯界の奨励、発展を図ろうとした。1890年(明治23年)設置、1947年(昭和22年)廃止。 「技芸員」の名称通り任命された作家の分野は多岐にわたり、日本画家や西洋画家、彫刻家の他、金工、陶工、漆工、刀工といった諸工芸作家に加えて、写真家なども任命されている。.
中井敬所
中井 敬所(なかい けいしょ、天保2年6月25日(1831年8月2日) - 明治42年(1909年)9月30日)は、明治時代の篆刻家である。篆刻家としてだけでなく日本印章学の基礎を築いた学者としても知られる。 名を兼之、字を資同、敬所は号。江戸本所に生まれる。.
中国の篆刻家一覧
中国の篆刻家一覧(ちゅうごくのてんこくかいちらん)とは、中国の主な篆刻家を時代区分した上で諸流派毎に区分した一覧である(※流派の関係から一部の人物が重複する)。.
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中国の書道史
『蘭亭序』(部分)王羲之 中秋帖』王献之書 中国の書道史(ちゅうごくのしょどうし)では、有史以来、清代までの中国における書の歴史について、その背景・書体の変遷・書風・筆跡・書人・書論など書に関連した事跡を記す。.
中国の書論
功宣禮楽。妙擬神仙。猶挺埴之罔窮西林 P.57。 中国の書論(ちゅうごくのしょろん)では、中国における書論の概要と歴史を記す。.
中田勇次郎
中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、明治38年(1905年)1月7日 - 平成10年(1998年)10月23日)は、日本の文学者、大学教授である。主に漢文学、書道史を専攻した。号は有廬(ゆうろ)、書斎を心花室(しんげしつ)と称した。.
中田粲堂
中田 粲堂(なかだ さんどう、男性、明和8年(1771年) – 天保3年7月20日(1832年8月15日))は、江戸時代後期の儒者・漢詩人・篆刻家。 本姓は藤原氏であったので修して滕と称することもあった。名は正博、字は学古、粲堂は号で別号に二水万竹楼・粋竹・雲湖などがある。通称平助、晩年は平右衛門。江戸の人。.
中西石焦
中西石焦(なかにし せきしょう、 享保18年(1733年) – 文化4年1月21日(1807年2月27日))は、江戸時代中期後期の日本の画家・篆刻家である。 名は万(よろず)、字を公世、石焦は 号。通称与一右衛門。中万(なかよろず)と修した。.
中村蘭台 (2代)
二代 中村 蘭台(にだい なかむら らんたい、1892年(明治25年)10月11日 - 1969年(昭和44年)7月4日)は、近代日本の篆刻家。東京都出身。 初代中村蘭台の次男。名は秋作。号ははじめ蘭石(らんせき)、のち初代の名を名跡として襲名し蘭台とした。初代の拓いた木印の技術を習得し優れた作品を遺した。1961年(昭和36年)に篆刻家としては初めて日本芸術院賞を受賞した。.
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中村蘭台 (初代)
初代 中村 蘭台(しょだい なかむら らんたい、蘭臺、安政3年(1856年)- 大正4年(1915年)11月)は、近代日本の篆刻家。諱は蘇香、字は伯表、通称に稲吉、号は蘭台の他に香艸居主人など。東京の出身。.
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中村水竹
中村 水竹(なかむら すいちく、男性、文化3年(1806年) – 明治5年(1872年)1月6日)は、江戸時代末期の日本の篆刻家である。 幼名を名霄もしくは天祥、名は元祥、字は爾祥・夢竜、号は水竹の他に酔茗軒。通称は主馬もしくは播磨介。京都の人。.
中本白洲
中本 白洲(なかもと はくしゅう、1948年8月6日 - )は、日本の書家。書道教育家。篆刻家。本名は中本恒夫(なかもと つねお)。愛媛県松山市(旧 温泉郡中島町畑里)出身。.
丸山暁鶴
丸山 暁鶴(まるやま ぎょうかく、1934年2月13日 - 2014年8月6日)は、昭和・平成期の日本の書家・篆刻家。.
丸山楽雲
丸山 楽雲(まるやま らくうん、1948年 - )は篆刻家。 長野県安曇野市生まれ。長野県中信地方を拠点とし、書画、篆刻の世界では数々の実績を残し本場中国では三絶と称される。安曇野市内はもとより、同県の中野市、松本市、及び各町村に散在する寺院に収蔵されている書画、篆刻、印などの制作を手掛けている。また、木額、石碑、山号額、幟旗などの揮亳、更には、会社名や商品タイトル、ロゴマーク、パッケージや包装紙の書画、書籍の題字などにも活躍の場を広げている。.
市河米庵
市河 米庵(いちかわ べいあん、安永8年9月16日(1779年10月25日) - 安政5年7月18日(1858年8月26日))は、江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。 名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。.
市河恭斎
市河 恭斎(いちかわ きょうさい、寛政8年(1796年) – 天保4年6月27日(1833年8月12日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は三千、字を桃翁、恭斎は号で他に古学道人・学古庵がある。讃岐の人。.
三井親和
三井 親和(みつい しんな、元禄13年(1700年) – 天明2年3月7日(1782年4月19日))は、江戸時代中期の日本の書家・篆刻家である。 字は孺鄕、号に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。通称は孫兵衛。信濃国諏訪藩主諏訪忠晴の弟にあたる旗本諏訪盛條の家臣三井孫四郎之親(ゆきちか)の子。深川に住んだので深川親和とも称された。.
三雲仙嘯
三雲 仙嘯(みくも せんしょう、男性、明和6年(1769年) – 弘化元年12月14日(1845年1月21日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は 孝、字を 子孝、号は仙嘯以外に僊嘯・仙嘯人ある。通称は中書。京都の人。.
三村竹清
三村 竹清(みむら ちくせい、本名清三郎、明治9年(1876年)5月4日 – 昭和28年(1953年)8月26日)は、日本の書誌学者。 竹問屋を営んでいたことから、竹清と号した。別号に奛(あきら)・安岐羅。東京京橋の出身。終生を市井の学者として過ごした。また篆刻に巧みであった。.
久留米工業学園短期大学
学生募集は1975年度まで。1976年度より久留米工業大学の設置により短期大学は学生募集を停止し、1979年6月5日正式廃止平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』293頁より。。なお、自動車整備士養成課程は1977年に設置された久留米工業大学別科に格下げされた。.
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二松學舍大学の人物一覧
二松學舍大学の人物一覧は、二松學舍大学に関係する人物の一覧記事。.
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二村楳山
二村 楳山(ふたむら ばいざん、男性、宝暦9年(1759年)– 天保6年(1835年))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は公忠(きんただ)、楳山もしくは梅山と号し別号に隣居がある。美濃郡上の人。.
今井順斎
今井 順斎(いまい じゅんさい、万治元年(1658年) – 享保3年8月(1718年))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 名を健、字を元昌、順斎は号。はじめ松浦姓を名乗ったが今井姓に復した。長崎の人。.
伏見冲敬
伏見 冲敬(ふしみ ちゅうけい、1917年 - 2002年8月24日)は、日本の書家、篆刻家、中国文学者。 現在の静岡県静岡市清水区興津生まれ。比田井天来・桑原翠邦・高石峰・石田幹之助・小林高四郎に師事。國學院大學等の講師を経て、大東文化大学教授。1988年定年退任。翻訳家の伏見威蕃は息子。.
張大千
張大千(Zhāng Dàqiān, Chang Ta-Chien, Chang Dai-chien, 1899年5月10日 - 1983年4月2日)は中国・近代の書画家である。書、篆刻、詩の分野でも活躍した。彼はまた多くの専門家に贋作者の1人として知られている。 出生時の名は正権、後に爰に改めた。大千は号である。祖籍は広東省番禺県。清朝時代、1899年(光緒25年、日本では明治32年にあたる)5月10日(旧暦4月1日)の四川省内江に生まれ、若い頃より伝統的な中国画の技法の修行を積む。また1917年、19歳の時に日本の京都へ留学し、京都芸術専門学校で3年間染色を学んだ。1920~30年代には上海等での個展で認められ、南張(南に張あり)とたたえられた。楊継仁著『張大千伝』(文化芸術出版社、1985年)によれば、1931年に「唐宋元明中国画展」代表として日本を短期訪問している。1933年には中央大学芸術専攻教授を務め1936年に上海中華書局が「張大千画集」を出版、徐悲鴻が序を書き500年に1人の画家と称賛される。 1940年から約2年7ヶ月に渡り敦煌の莫高窟に住み込み、壁画の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。ちなみに敦煌莫高窟における最初の模写を行ったのは、大千であるとされる。1942年にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まる事になった。この時、共に莫高窟に赴いた書画家の謝稚柳(1910年 - 1997年)が「敦煌石室記」「敦煌芸術叙録」という記録を残している。 国共内戦が始まった後の1948年に香港に移り、以降はブラジル、アメリカなど国外に20年以上滞在する。1951年にアルゼンチンに移り、1953年にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。ピカソに面会しに行ったこともあり、写真が残っている。1957年、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。1959年にはかねてからの眼病の治療のため渡米するついでに日本に立ち寄り、在英の中国人作家・凌叔華(1900年~1990年)と画家の王済遠(1893年~1972年)と鎌倉旅行を行っている。1974年にアメリカ・カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を授与される。1978年に台湾に移住。晩年は台北に住み、水墨画に専念。1982年、中華文化の特別芸術家として中正勲章(→勲章>12 中国・台湾の勲章>12.4 台湾)受賞。1983年4月2日8時15分、同地で心臓病により没。享年84。没後、遺族が四合院式の住居を台湾の国立故宮博物院に寄贈し、張大千紀念館(台北市士林区至善路二段三百四十二巷二号)として現在一般公開されている。 2011年現在、オークションで彼の作品は高値で取引されている。例えば2010年5月17日、1968年制作の作品でオーストリア西部、チロル州にあるアーヘン湖(アッヘン湖)を描いた絹本色彩「愛痕湖(この作品は2003年ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された大型の中国近代芸術展《2つの文化の間》(Between Two Cultures)で展示された事がある)」が1億80万元(2010年当時日本円にして約13億円)で落札(この時中国の近現代書画で初めて億元の大台を突破した)、2011年5月31日、香港蘇富比拍売公司(サザビーズ)主催のオークションで、1947年制作の作品「嘉耦図」が1億9100万香港ドル(2450万米ドル、2011年当時日本円にして約20億円)で落札、2016年4月5日にはやはり香港蘇富比拍売公司(サザビーズ)主催のオークションで、1983年制作の作品「桃花春」(Peach Blossom Spring)が2億7070万香港ドル(3491万米ドル)で落札されている。 代表作に「廬山図(台北国立故宮博物院所蔵)」「撥墨荷花図」「中郎授女図」「渓橋行船図」などがある。 山水画の他に花卉の描写を得意とし、とりわけ蓮の花の画題で独自性を発揮した。彼の画風は優雅で、連綿と続く中国の伝統を強く感じさせる。晩年は水墨画に専念し、潑墨という技法により絵に動きを出したり色彩のコントラストを強めたりする等、力強く気韻に満ち溢れた作品を生み出した。古典的な中国画の技法と現代の新しい技法を融合させたと評価されている。 非常に猿が好きだったとされる。.
張燕昌
張 燕昌(ちょう えんしょう、男性、1740年 - 1814年)は、中国清朝中期の篆刻家・書家である。 字を芑堂、号は文魚・金栗山人。浙江海塩の人。.
佚山
佚山(いつざん、男性、元禄15年(1702年) – 安永7年2月24日(1778年))は、江戸時代中期に活躍した曹洞宗の僧侶、書家・篆刻家・絵師である。今体派の篆刻の一派である初期浪華派に数えられる。印籍を多く刊行した。 森本氏。名は時敏、字は脩来(修来)、号は正蔵、常足道人。元文3年(1738年)の出家後は佚山と名乗り、法諱は黙隠。大坂の人。.
佐藤隆介
佐藤 隆介(さとう りゅうすけ、1936年〈昭和11年〉 - )は日本の文筆家。雑文製造処「鉢山亭」主人。 東京大学教養学科(フランス科)卒。広告代理店のコピーライター、編集者を経て、池波正太郎の書生を10年間務めた。 現在は酒・食・器など、食卓に関わる物のみにテーマを絞った文筆活動を行っている。 趣味は篆刻。 屋号の「鉢山」はかつて住んでいた町の名で、自身の苗字がありふれた物であるため、電話をかける際「鉢山の佐藤です」と名乗っていたことに由来する。.
何紹基
何 紹基(か しょうき、He Shaoji、1799年 - 1873年)。字は子貞、号は東洲、晩号は蝯叟。清の詩人・学者・能書家。 湖南省道州出身。父の何凌漢は戸部尚書を務めた。若い時に阮元・程恩沢の門下生となった。1836年に進士となり、翰林院編修や文淵閣校理などの職を歴任した。1852年に四川学政となったが誹謗を受けて解任された。その後は済南や長沙の書院で主講を務めた。諸書を収集し、特に『小学』に通暁していた。書では顔真卿を基礎として篆書と隷書の風格を併せもった書風を確立した。また篆刻も善くした。 Category:中国の儒学者 Category:19世紀の学者 Category:中国の詩人 Category:中国の能書家 Category:中国の篆刻家 Category:清代の進士 Category:清代の人物 Category:永州出身の人物 Category:1799年生 Category:1873年没.
何震
何震(か しん、男性、1541年(推定) - 1607年)は、中国明代中期の篆刻家である。文彭を継承しながら篆刻を発展させ、新安印派の開祖となった。 字は主臣・長卿、号は雪漁山人。安徽婺原(現在の江西省婺源県)の人。.
余延年
余 延年(よ えんねん、 延享3年(1746年) - 文政2年 4月19日(1819年5月12日))は、江戸時代中期から後期の日本の篆刻家。 本姓は山口氏、通称は九郎左衛門。百済の余璋王の後裔であることから修して余と称している。字を千秋または君寿、号は墨山・魯台・風塵道人等がある。山口耕軒は長男。.
徐三庚
徐三庚(じょ さんこう、男性、1826年 - 1890年)は、中国清朝末期の篆刻家である。 字を袖海・辛穀、号は金罍山民・井罍山民。浙江上虞の人。.
御璽
御璽 御璽(ぎょじ)とは、いくつかの国において、皇帝(または天皇)が公式に用いる印章(璽)を指す語。具体的には、.
修水県
修水県(しゅうすい-けん)は中華人民共和国江西省九江市に位置する県。鄱陽湖へ流れる大きな河川・修水が通っている。.
北大路魯山人
北大路魯山人生誕地 石標(京都市・上賀茂) 北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。.
北方心泉
北方 心泉(きたがた しんせん、嘉永3年4月28日(1850年6月8日) - 明治38年(1905年)7月29日)は真宗大谷派の僧侶。書家としても知られる。心泉は号、俗名は蒙(きざし)。.
園田湖城
園田 湖城(そのだ こじょう、男性、明治19年(1886年) – 昭和43年(1968年))は、近代日本の篆刻家である。 名は耕作、字は清卿、号は湖城の他に平盦がある。滋賀県出身。.
包世臣
包 世臣(ほう せいしん、男性、1775年 - 1855年)は、中国清朝嘉慶・道光期の学者・篆刻家・書家である。字を慎伯・誠伯、号は惓翁。北宋の米芾に因んで書室を小惓遊閣と名付けた。安徽涇県の人。.
トウ石如
鄧 石如(とう せきじょ、男性、1743年 - 1805年)は、中国清朝中後期の最も傑出した書家・篆刻家である。書家としては篆隷に新しい境地を開き、碑学派の開祖とされた。また篆刻でも復古主義の旧習を打破し鄧派(新徽派・後徽派)の開祖となる。 初名を琰といったが、嘉慶帝の諱である顒琰を避けて字の石如を名とし、字は頑伯とした。号は古浣子、完白山人。安徽懐寧県集賢関(現在の安慶市宜秀区、大観区の境界付近)の人。.
トウ散木
鄧 散木(とう さんぼく)は、近代中国を代表する篆刻家・書家である。 名は鉄、字を純鉄、号は散木のほかに糞翁・一足・夔(き)など。上海の人。.
周亮工
周亮工(しゅう りょうこう、1612年 - 1672年)は、明末清初の中国の文人。蔵書家としても知られ、特に印章を好んだ。 字は元亮、号は櫟園、減斎。河南省祥符県(現在の開封市)に生まれ、南京に住んだ。.
呉世昌
呉 世昌(オ・セチャン、ご せいしょう、1864年旧暦7月5日 – 1953年4月16日)は、朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト。芸術分野においては多方面で造詣が深い書家としても知られている。雅号は葦滄(ウィチャン、위창)、天道教で受けた道号は間菴(ハナム、한암)。本貫は海州呉氏。.
呉北渚
呉北渚(ご ほくしょ、 寛政10年 10月11日(1798年11月18日) – 文久3年 9月4日(1863年10月16日))は、江戸時代後期の日本の書家・篆刻家である。頼山陽にその人柄と書・篆刻を三絶と称賛された。 名は篇策または策(篇は譲り字)、字を成章・子方・文英・君易・易矦・元馭、号は北渚の他に烏舟・藻亭。斎室名に鳴葭堂・習静斎・自怡堂・暢襟室がある。通称又之助のちに備前屋又兵衛を襲名。浪華北浜の人。.
呉咨
呉咨(ご し、男性、1813年 - 1858年)は、中国清朝後期の篆刻家・書家・画家である。 字を聖俞・哂予、号は適園。江蘇武進の人。.
呉熙載
呉熙載(ご きさい、男性、1799年 - 1870年)は、中国清朝後期の篆刻家・書家である。 元の名を廷颺、字は熙載だったが53歳以後は熙載を名とし字を譲之とした。さらに64歳以後には譲之を名とした。号は言菴・方竹丈人・晩学居士・譲翁、堂号を師慎軒・珍賀軒・震天咎斎。本籍は江蘇儀徴だが揚州で生まれ育つ。.
呉春
呉春(ごしゅん、 宝暦2年3月15日(1752年4月28日) - 文化8年7月17日(1811年9月4日))は江戸時代中期の絵師である。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称を文蔵(ぶんぞう)、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転(かてん)、允白(いんぱく)、存允白、孫石(そんせき)、軒号に百昌堂、蕉雨亭など。初期の画号・松村月渓も広く知られる。.
呉昌碩
呉 昌碩(ご しょうせき 、1844年9月12日 - 1927年11月29日)は中国の清朝末期から近代にかけて活躍した画家、書家、篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家と評価が高い。 初めの名は俊(しゅん)、のちに俊卿(しゅんけい)、字をはじめ香圃。1912年(中華民国元年)、69歳から昌碩とする。別字に蒼石、倉石、倉碩。号に缶廬(フロ)、苦鉄、破荷、大聾、老蒼、石尊者、石人子、石敢当、破荷亭長、蕪青亭長、五湖印丐など。.
カービング
ービング (Carving) とは、彫刻のこと。一般的に趣味の木工芸彫刻を指すことが多いが、この項では彫る素材・対象によって名称が異なることを考慮し、素材・対象別に記述する。大まかには、素材名をつけて三次元的に装飾を施すためのカービングと、対象名をつけて対象物を立体的に真似て模型を作るカービングに大別できる。.
ギン州区
鄞州区(ぎんしゅう-く)は、中華人民共和国浙江省寧波市の管轄下にある市轄区。.
円山大迂
円山 大迂(まるやま たいう、天保9年(1838年) – 大正5年11月5日(1916年))は、近代日本の篆刻家である。 名は真逸。名古屋の人。.
元禄文化
尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした深谷(2000)pp.80-89。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。 元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51小澤(1993)pp.60-69。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。 なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている1964年に政治家福田赳夫が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。。.
前川虚舟
前川 虚舟(まえかわ きょしゅう、男性、生卒年不詳)は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は利渉、虚舟は字。号は石鼓館。通称一右衛門または清三郎。浪華の人。生卒年不詳であるが享保末年(1735年)頃に生誕し66歳まで生存が確認されている。.
前橋市立工業短期大学
学生募集は1996年度まで。1997年度より前橋工科大学の設置により短期大学は学生募集を停止し、2000年3月31日廃止平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』246頁より。。.
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勝間龍水
勝間 龍水(かつま りゅうすい、生没年不詳)とは江戸時代の浮世絵師、俳人。.
国璽
国璽(こくじ)とは、国家の表徴として押す璽(印章または印影)である。外交文書など、国家の重要文書に押される。.
矢吹璋雲
ムネイル 矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年)9月21日)は、日本画家。.
石崎融思
石崎 融思(いしざき ゆうし、明和5年(1768年) - 弘化3年2月28日(1846年3月25日))は江戸時代後期の長崎派の絵師。唐絵目利として漢画・洋風画を折衷させた写実的洋風画を確立。 幼名慶太郎、融思は通称。字は士斉。鳳嶺と号し、後に放齢と改める。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。長崎の人。.
石井雙石
石井 雙石(いしい そうせき、 明治6年(1873年)4月1日 - 昭和46年(1971年)10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡 (千葉県)四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。.
玉林堂
玉林堂(ぎょくりんどう)は、大阪市中央区のはいからほり商店街にある文具販売店。創業は文化年間。.
王常
王常(おうじょう).
王シ
王 禔(おう し)は清末民初の篆刻家・書家である。原名は寿祺、後に禔と改名。字を維季、号を福庵(福厂とも)・屈瓠・羅㓼・江民・印傭、70歳以降は持黙老人とした。.
王冕
王 冕(おう べん、1310年 - 1359年)は中国元代末期の画家・詩人・篆刻家。字は元章、号は煮石山農・会稽外史・梅花屋主など。諸曁(現在の浙江省)の出身。 科挙試験を受けたものの合格せず、その後印綬を帯びること(.
王石経
王 石経(おう せっけい)は清末民初の篆刻家・書家である。 字を君都、号を西泉・甄古斎主。の人。.
王概
王 槩(おう がい、1645年-1710年以後)は、清の康煕年間に南京で活躍した文人、画家。詩文・画・篆刻にすぐれ、画は大幅の山水画を得意とし、人物・花鳥画も善くした。絵画教本『芥子園画伝』を弟二人とともに制作したことで最も知られる。初名は王匄。字は東郭、または安節。.
現代の名工
代の名工(げんだいのめいこう)とは、卓越した技能者表彰制度に基づき、厚生労働大臣によって表彰された卓越した技能者(卓越技能者)の通称である。.
琴棋書画
棋書画(きんきしょが)とは、文人、士大夫が嗜むべきとされた芸。四芸。.
福井端隠
福井 端隠(ふくい たんいん、男性、享和元年9月1日(1801年10月8日) – 明治18年(1885年)8月22日)は、幕末から明治の日本の篆刻家である。 名ははじめ武煕、福井氏を継承してから末影と改名。字は孔影、端隠は号で他に凹隅・雨洗・緑雪書屋などがある。通称は帯刀。伊勢の人。.
禅林墨跡
圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝) 虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝) 与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝) 宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝) 禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧の真跡のこと。印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟・墨迹とも書く。 墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風を禅宗様という(本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す)中西慶爾 p.595峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128小松茂美 pp..26-27。.
秋山白巌
秋山 白巌(あきやま はくがん、元治元年2月20日(1864年3月27日) - 昭和29年(1954年)2月23日)は、日本の書家。諱は純、通称は隆道、白巌は号で、別号を碧城・探淵という。晩年、白巌と号し、碧城でも名が通っている。飯島春敬 P.4.
秋山書店
有限会社 秋山書店(あきやましょてん)は、東京都武蔵野市にある日本の出版社。.
稲毛屋山
毛 屋山(いなげ おくざん、男性、宝暦5年(1755年) – 文政6年7月13日(1823年8月18日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は直道、字は聖民、屋山は号、別号に息斎・燕々居がある。通称官右衛門。高松の人。.
程邃
程邃(てい すい、男性、1607年 - 1692年)は、中国明末清初の篆刻家・書家・画家である。 字を穆倩(ぼくせん)、号は垢区・垢道人・青溪朽民・野全道者・江東布衣。華亭(現在の上海市西部)に生まれ(本籍は安徽歙県)、晩年に揚州に移った。.
立原翠軒
立原翠軒像稿 渡辺崋山筆 個人蔵 重要美術品 立原 翠軒(たちはら すいけん、延享元年6月7日(1744年7月16日) - 文政6年3月4日(1823年4月14日))は、江戸時代中期から後期の水戸藩士。学者として5代藩主徳川宗翰、6代治保の2代にわたって仕える。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。仮名は甚五郎。諱は万。字は伯時。号は東里。致仕後に翠軒と号する。父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所、孫には幕末の志士・立原朴次郎や閨秀画家の立原春沙、子孫には昭和初期の詩人、建築家・立原道造がいる。.
笠間日動美術館
間日動美術館(かさまにちどうびじゅつかん)は、茨城県笠間市にある美術館である。1972年(昭和47年)11月に東京・銀座にある日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により、創業45年と金婚式を記念し、長谷川家ゆかりの地である笠間に創設された「あいさつ」「序」『笠間日動美術館名作選』 笠間日動美術館、2010年。日本を代表する画商の系列美術館であり、更に2000年には山岡孫吉(ヤンマー創業者)が収集した洋画コレクションも加わり、西洋の近代、日本の近・現代の巨匠が描いた絵画を中心に3千点を超す所蔵品がある。 その中でも、国内外の著名画家が愛用したパレット画コレクションは、長谷川が親交を深めた画家たちから譲り受けた340余点という世界に例のない美術史的にも貴重なコレクションとなっている。.
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篠崎小竹
崎 小竹(しのざき しょうちく、男性、天明元年4月14日(1781年5月7日) – 嘉永4年5月8日(1851年6月7日))は、江戸時代後期の日本の儒学者・書家。 本姓は加藤氏。幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、小竹は号で別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。通称は長左衛門。.
篠田芥津
芥津(しのだ かいしん、男性、文政4年(1821年) – 明治35年(1902年))は、明治時代に京都で活躍した日本の篆刻家である。 名は徳、字は六吉、直心、崇夫、芥津は号である。美濃芥水村の人。.
篆刻美術館
刻美術館(てんこくびじゅつかん)は、茨城県古河市にある美術館である。篆刻の魅力を紹介する日本初で唯一の専門美術館として、平成3年(1991年)3月に開館した。建物は大正9年(1920年)に建てられた商家の石蔵を改修・利用している。.
篆書体
書体(てんしょたい)は漢字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。 公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。.
米フツ
米 芾(べい ふつ、皇祐3年(1051年) - 大観元年(1107年)生卒年に異説あり。『宋史』に「卒,年四十九。」とある(宋史列伝(米芾))。)は、中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。 初名は黻、字は元章(げんしょう)、官職によって南宮(なんぐう)、住拠によって海岳(かいがく)と呼ばれ、号は襄陽漫仕(じょうようまんし)・海嶽外史(かいがくがいし)・鹿門居士(ろくもんこじ)などがあり、室名を宝晋斎といった。子の米友仁に対して大米と呼ぶ。湖北襄陽の人で、後に潤州に居を定めた(現在の江蘇鎮江)。 呉江舟中詩巻』(部分)米芾書.
糸印
糸印(いといん)は、明代の中国で造られ、戦国時代から桃山時代までに日本にもたらされた、鋳銅製の印章のことである。.
細合半斎
細合半斎像 桑山玉洲筆 細合 半斎(ほそあい はんさい、享保12年(1727年) - 享和3年11月6日(1803年12月19日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・漢詩人である。 名を離または方明、字を麗王、号は半斎の他に、学半斎・斗南・白雲山樵・太乙・武庫居士、通称は八郎右衛門または次郎三郎。伊勢の人。.
細川林谷
細川 林谷(ほそかわ りんこく、男性、寛永9年(1780年) – 天保14年6月19日(1843年7月16日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家・漢詩人である。 本姓は広瀬氏、名は潔、字は痩仙・氷壺、林谷は号で他に林道人・忍冬葊・三生翁・白髪小児・天然画仙・不可刻斎・有竹家などと号している。通称は春平。讃岐の人。.
細井九皋
細井 九皋(ほそい きゅうこう、正徳元年(1711年) – 天明2年 5月6日(1782年6月16日))は、江戸時代中期の日本の書家・篆刻家である。 名は知文、字を天錫、号は九皋の他に籀斎・沢雉道人がある。通称文三郎。江戸の人。.
細井広沢
細井 広沢 (ほそい こうたく、万治元年10月8日(1658年11月3日) - 享保20年12月23日(1736年2月4日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。.
紀止
紀止(きし、男性、生年〈1753年±10〉 - 卒年〈1799年以降〉)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 字は子基または仲敬、号に鹿銜・三学がある。通称は西村敬三。京都の人。.
綾南町
綾南町(りょうなんちょう)は、香川県のほぼ中央に位置していた町。2006年3月21日に綾上町と合併して「綾川町(あやがわちょう)」となった。 うどん発祥の地として知られる。のどかな田園地帯が広がり、町域西部には綾川が北流する。 町内には約60基の古墳や推定200基以上の窯跡がある。また、平安時代の讃岐国の国司だった菅原道真ゆかりの滝宮天満宮では、滝宮念仏踊りが有名である。町内の神社では、全国的にも珍しい親子獅子舞が奉納されている。 堤山(羽床富士) 滝宮付近を流れる綾川.
綾川町
堤山(羽床富士) 滝宮付近を流れる綾川 山田上付近の綾川 綾川町(あやがわちょう)は、香川県中部に位置する町。讃岐うどん発祥の地として知られる。のどかな田園地帯が広がり、町域を綾川が北流する。 町内には約60基の古墳や推定200基以上の窯跡がある。また、平安時代の讃岐国の国司だった菅原道真ゆかりの滝宮天満宮では、滝宮の念仏踊が有名である。町内の神社では、全国的にも珍しい親子獅子舞が奉納されている。.
羽倉可亭
羽倉 可亭(はくら かてい、男性、寛政11年(1799年) – 明治20年(1887年)8月12日)は、江戸時代後期の日本の書画家・篆刻家である。 名は良信、字は子文、号は可亭の他に亦可草堂がある。.
羅王常
羅王常(ら おうじょう、1535年 - 1606年+)は中国明代の墨匠(製墨家)・篆刻家である。安徽歙県の人。 羅龍文(号:小華)の子で元の名を南斗といった。父龍文が権勢家の厳嵩・厳世蕃の不正事件に連座し北京にて処刑されると、戸籍を捨て上海松江(海上)に逃れ父の友人顧従徳に匿われた。その後、姓名を王常(おう じょう)と偽り、字を延年または幼安、号を懶軒・青羊生などと改称した。事件後、40年経過してようやく本姓を復し、羅王常と名乗ったという。 父から引き継いだ製墨を業としていたが、逃亡後は篆刻家として著名になる。浙派に属する。また骨董を商い詩文に長けたという。 顧従徳に請われて印譜『集古印譜』の編纂に携わる。その後、この『顧氏集古印譜』を呉伯張とともにおよそ20年にわたってを増補・編纂し続けた。この書籍は羅王常没後、呉伯張によって『秦漢印統』として刊行されている。 後年、従孫の羅公権は『秋間戯銕』を編しているがこの印譜は江戸時代初期の日本に伝わり篆刻界に大きな影響を与えた。.
真鍋井蛙
真鍋 井蛙(まなべ せいあ、1955年(昭和30年)5月6日 -)は、日本の篆刻家・書家。 本名は昌生。号は井蛙、別号は休庵。室号は斉平樓。五風十雨亭、掬風亭、惜墨斎と号する。中国西泠印社名誉社員。上海・韓天衡より陳天刃の中国名を贈られている。.
終南浄寿
終南 浄寿(しゅうなん じょうじゅ、 宝永7年(1710年) – 明和4年 8月22日(1767年))は、江戸時代中期の黄檗宗の僧侶で書家・篆刻家である。 俗称は小島氏。法諱は浄寿、字を天年、終南は法号で、他に介石と号した。 伊勢松阪の人。.
産経国際書展
産経国際書展(さんけいこくさいしょてん)は、産経新聞社と産経国際書会が主催する書の公募展である。日展、毎日書道展、読売書法展と並ぶ“書の四大展”の一つ。.
田辺玄々
辺 玄々(たなべ げんげん、男性、寛政8年(1796年) – 安政5年12月18日(1859年1月21日))は、江戸時代後期の日本の書家・篆刻家である。 名は祐憲または憲、字は伯表、号は玄々の他に尚松竹楓園・東田居などがある。通称は飛騨。京都の人。.
甘暘
暘(かん よう、男性、生卒年不詳)は、中国明代万暦年間の篆刻家・書画家である。印譜『印正』は著名。字を旭甫・旭父、号は寅東。江蘇江寧(現在の江蘇省南京市)の人。.
無形文化遺産
無形文化遺産(むけいぶんかいさん、)は、民族文化財、フォークロア、口承伝統などの無形文化財を保護対象とした、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の事業の一つ。2006年に発効した無形文化遺産の保護に関する条約に基づく。無形文化遺産に対して、ユネスコの世界遺産は建築物など有形文化財を対象とする。関係して2001年から3回行われた傑作宣言による90件を引き継いて含まれる。 これまでに対象とされた無形文化遺産は、各国の音楽、舞踏、祭り、儀式のほか、インドのヨーガ(2016年)、日本の和紙(2014年)、和食(2013年)など伝統習慣、工芸など多岐にわたる。.
牧夏嶽
牧 夏嶽(まき かがく、生年不詳 – 宝暦13年 8月22日(1763年))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 名は世儀、字を升菴、夏嶽は号で室号に積小館がある。通称周平。.
独立 (曖昧さ回避)
立(どくりつ).
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独立性易
立性易(どくりゅうしょうえき、万暦24年2月24日(1596年) - 寛文12年11月6日(1672年12月24日))は、中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画、篆刻を伝えた。 その書の識見は高く中国伝統の本流の書を日本に示し、のちの唐様流行の基となった。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性偀とともに長崎桑門の巨擘と称賛される。篆刻においても日本篆刻の祖として称揚される。 俗姓を戴、諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易(どくりゅうしょうえき)と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一閒人(てんがいいっかんじん)、天間老人、就庵などを号とした。文人・書家などからは戴曼公と称されることも多い。 浙江省杭州仁和県の人。.
益田勤斎
勤斎(ますだ きんさい、明和元年(1764年) – 天保4年 5月23日(1833年7月10日))は、江戸時代中期から後期の日本の篆刻家である。 名は濤、字を万頃、号は勤斎の他に雲遠・浄碧がある。通称重蔵。江戸の人。.
益田遇所
遇所(ますだ ぐうしょ、男性、寛政9年(1797年) – 万延元年3月16日(1860年))は、江戸時代後期に江戸で活躍した日本の篆刻家である。 本姓は山口氏であったが益田家の養子となる。名は粛、字は士敬、遇所は号で別号に浄碧居がある。江戸の人。.
白崎秀雄
白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年5月25日-1992年2月22日)は、作家、美術評論家。福井市出身。 法政大学修了。1966年「真贋」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。.
隠元隆き
元隆琦の上陸地に建つ記念碑(右) - 京都府宇治市 隠元 隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。.
銭君トウ
銭 君匋(せん くんとう)は中国近現代の代表的な篆刻家・書家・画家である。 原名は玉堂のちに玉棠と改名。君匋は字で通名とした。 号は豫堂。浙江桐郷県(現在の浙江省海寧)の人。.
銭選
銭選(せんせん、男性、生没年不詳)は、宋末元初の文人画家、篆刻家である。生年は1235年前後、卒年は1301年以降と推定される。呉興(浙江省湖州市)の人。 字は舜挙、号は玉潭・巽峯・清癯老人・習懶翁・霅谿翁など。.
銭松
銭松(せんしょう、? - 1860年)は、中国清朝中期の篆刻家である。西泠後四家に加えられる。男性。 字を叔蓋、号は耐青・鉄廬・未道士・西郭外史。浙江銭塘の人。.
花押
花押(かおう、華押)は、署名の代わりに使用される記号・符号をいう。 元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。.
韓天寿
韓 天寿(かん てんじゅ、男性、享保12年(1727年) – 寛政7年3月23日(1795年5月11日))は、江戸時代中期の日本の書家である。また画・篆刻も巧みであった。 本姓は青木氏。名の天寿は、本来「たかかず」と読む。字は大年、号は酔晋斎、三岳道者。百済の余璋王の後裔であることから韓を名乗り韓天寿と称する。通称中川長四郎。伊勢の人。.
遊印
遊印(ゆういん)は、姓名や雅号、商号や屋号など特定の個人や法人に帰属しない文字を印文にした印章のことである。詞句印ともいう。文学や思想などを表現した語句が選ばれることが多く、篆刻家が好んで作印する。 なお、遊印に対立する印章を恒操印という。.
華雪
華雪(かせつ、1975年 - )は、京都府生まれの女流書道家。 1998年、立命館大学文学部心理学専攻卒業。幼い頃から書と篆刻に親しみ、10歳の時に「日本書道学舎 響誌上展」で特別賞を受賞。高校、大学在学中から個展を開くなど、若手書道家として注目を集めた。 書家として活躍する一方、デザイナーとしてもその才能を発揮し、「京都よろず屋」の店舗ロゴや、阪急百貨店梅田本店にある「パティスリー “五感 GOKAN”」の商品ロゴなども担当している。集英社創業85周年特別企画「戦争×文学」の題字も担当している。 現在、京都精華大学の公開講座で講師を勤めるほか、東京、京都、大阪を中心に個展を開くなど幅広い活躍をみせる。彼女の女性らしい作風は、これまでとは違った層のファンを惹き付けている。.
菅原石廬
菅原 石廬(すがわら せきろ、1934年 - 2010年11月13日)は、日本の篆刻家・彫刻家。篆刻を小林斗盦、彫刻を朝倉文夫に師事。本名、一廣(かずひろ)。字、大伯。石廬は号。斎号に鴨雄緑齋、憙研室あり。神奈川県出身。.
菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.
菅南涯
菅 南涯(かん なんがい、生卒年不詳)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 清水氏。本姓が菅原氏であったので中国風に修して菅とした。名は周監、字を子文、南涯は号である。通称志水勝右衛門。京都の人。 高芙蓉に就いて篆刻を学ぶ。源惟良が編集した『芙蓉山房私印譜』にその刻した印が掲載される。自らの印譜に『南涯印譜』2巻がある。.
青田石
青田石(せいでんせき)は、篆刻の印材。主成分は葉ろう石。「燈光凍」、「魚脳凍」と名づけられる上質なものから、練習用と評される「図書石」まで様々あるものの総称。中国浙江省青田県産 。王冕が発見した花乳石(かにゅうせき)がこれにあたるとされる。青田県季井嶺の図書洞から産出する。篆刻では初心者向けの石とされ、安価である。色は淡緑灰色、淡い青色、薄い緑などと表現される。 青田駅の駅前には入場料無料の青田石彫博物館があり、素材や彫刻作品が展示されている。.
青田県
青田県(せいでん-けん)は中華人民共和国浙江省麗水市に位置する県。 篆刻で使用する青田石の産地、季井嶺・図書洞がある。.
頼春水
春水筆 頼 春水(らい しゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日)は、江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。 幼名は青圭、諱は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で、江戸では霞崖と称した。別号に拙巣、和亭がある。通称は弥太郎。安芸の人。.
顧従徳
顧従徳(こ じゅうとく、生没年不詳)は中国明代の著名な収蔵家である。字は汝、上海の人。 史上初の印譜『集古印譜』を出版したことで知られる(詳しくは印譜を参照のこと)。篆刻の黎明期であり、何震をはじめ多くの篆刻家がこの印譜の啓発を受けた。 また宋代の写本を元に『黄帝内経素問』を模刻し出版した。 Category:明代の人物 category:中国の文人 Category:上海出身の人物 Category:生没年不詳.
行徳玉江
行徳 玉江(ぎょうとく ぎょくこう、 文政11年5月(1828年) - 明治34年(1901年)6月22日)は、幕末から明治期の日本の漢詩人・書家・画家・篆刻家である。 名は直貫(直は譲り字)または貫、字を仁卿、号は玉江の他に檜園・九柳十橋逸士。 通称元慎。浪華の人。.
街道てくてく旅
街道てくてく旅(かいどうてくてくたび)とは、NHKBShiで2005年11月に放送開始された旅番組である。正式な番組名はシリーズによって異なる。海外でもNHKワールドを通じて放送された。街道てくてく旅はシリーズ化されており、旅人と旅程を変えたシリーズが2010年まで断続的にNHK-BSで放送された(総合テレビでも1週間のハイライトを放映している)。.
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館柳湾
柳湾(たち りゅうわん、宝暦12年3月11日(1762年4月5日) - 天保15年4月13日(1844年5月29日))は、江戸時代後期の日本の漢詩人・書家である。 本姓は小山氏、養子となって館を名乗る。名を機、字は枢卿、通称を雄次郎。柳湾の号は、故郷である信濃川河口の柳のある入り江に因んでいる。別号に石香斎・三十六湾外史などがある。.
西川寧
西川 寧(にしかわ やすし、1902年(明治35年)1月25日 - 1989年(平成元年)5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。.
西レイ印社
西泠印社(せいれいいんしゃ)は、中国浙江省の杭州市郊外、西湖に浮かぶ島・孤山の麓にある篆刻を中心とする学術団体、及び関連企業・庭園の名称である。「西泠」の名は対岸との間にかかる橋「西泠橋」の袂に本社があることによる。「冷」と間違われやすいが「にすい」ではなく「さんずい」である。.
角屋七郎次郎
角屋 七郎次郎(かどや しちろうじろう)は、伊勢商人・角屋家当主が代々名乗った名前(2014年8月14日閲覧。)。角屋は屋号。本姓は松本。寛永年中には「角谷」とも号する。 なお、代数は、角屋七郎次郎秀持を初代とする場合と2代目とする場合があるが、『角屋家文書』等の文献を見ると歴代の当主たちは秀持を初代とカウントして代々名乗り活動している。このため、本項目では当人たちに従い秀持を初代として記載する。.
訃報 2007年8月
本項訃報 2007年8月は、2007年8月中に物故した人物の一覧である。.
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訃報 2017年11月
訃報 2017年11月(ふほう 2017ねん11がつ)では、2017年11月に物故した、または物故が報じられた人物をまとめる。.
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読売書法展
読売書法展(よみうりしょほうてん)は、読売新聞社と読売書法会が主催する書の公募展。古典と伝統に基づいた書の継承と発展を図り、最高水準の公募展を目指して、1984年に第1回が開催された。 例年、4月から作品の募集がされており、公募・会友作品、評議員以上の役員作品、合わせて25000点近い出品がある。部門は「漢字」「かな」「篆刻」「調和体(漢字系、かな系、篆刻系)」の4部門に分かれている。 審査は7月下旬に東京・池袋のサンシャインシティで行われ、その後、8月から12月にかけて東京展、関西展、中部展、中国展、九州展、東北展、北海道展、四国展の8会場に分かれ、それぞれ入賞・入選作品が順次展示される。また、会場では席上揮毫・席上篆刻会や作品解説会などのイベントが催されることもある。 日本における書の公募展では、日展、毎日書道展、産経国際書展と並ぶ「四大書道展」の一つである。.
高玄岱
岱(こう げんたい、男性、慶安2年2月15日(1649年3月27日) - 享保7年8月8日(1722年9月18日))は、江戸時代前期の儒学者、書家・篆刻家である。 字を子新・斗瞻、 号を天漪・婺山、通称を新右衛門と称した。姓が深見氏であったので深見玄岱とも呼ばれる。また玄岱は元泰とも書く。長崎の人。.
高畑常信
畑 常信(たかはた つねのぶ、1941年〈昭和16年〉2月 - )は、日本の中国文学者である。東京学芸大学名誉教授、徳島文理大学教授。主に中国の思想・哲学および書法・篆刻を研究。.
高芙蓉
芙蓉(こう ふよう、享保7年3月15日(1722年4月30日) - 天明4年4月26日(1784年6月13日))は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。 苗字の高は出身地の甲斐国「高梨郡」(後述)に因んで自ら名乗ったもので、本来は大嶋である。名は孟彪(もうひゅう)、字を孺皮(じゅひ)、号は芙蓉、その他に三嶽道者、中嶽画史、氷壑山人、富岻山房など。室名は菡萏居(かんたんきょ)。本姓が源であることから、源孟彪と称することもあった。通称を大嶋逸記(いつき)、近藤斎宮(いつき)と称した。.
高松第一高等学校
松第一高等学校 (たかまつだいいちこうとうがっこう、英称:Takamatsu Daiichi High School)は、香川県高松市に所在する市立高等学校である。愛称は「一高(いちこう)」・「高一(たかいち)」。 本校はスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定されている。.
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高泉性敦
泉性敦(こうせんしょうとん、崇禎6年10月8日(1633年11月9日)- 元禄8年10月16日(1695年11月22日))は、江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県東閣の出身。俗姓は林氏。号が高泉で、法諱が性敦である。また、法諱は性潡とも書く。.
谷舜英
谷 舜媖(たに しゅんえい、女性、安永元年(1772年) - 天保3年5月16日(1832年6月14日))は、江戸時代後期の女流画家(文晁派)。名は志夫子、字を小香、舜媖は号、別号に秋香。 谷文晁の実の妹であり、篆刻家 中田粲堂の妻。父は田安家家臣で漢詩で著名な谷麓谷、妹は紅藍。 画技を兄の文晁から習得し、山水画などを得意としたとされるが、現存作は極めて少ない。また琴を能くした。 享年61。.
象牙
全形象牙。ほぼ全ての国で取引が禁止されているが、日本では自宅の押し入れや床の間から出てきた「押し入れ象牙」「床の間象牙」などの名目で流通しており、新作の根付や印鑑など幅広く活用されている 象牙(ぞうげ)とはゾウの長大に発達した切歯(門歯)である。.
豆腐百珍
『豆腐百珍』(とうふひゃくちん)は、天明2年(1782年)に出版された料理本。100種類の豆腐料理の調理方法を解説している。 醒狂道人何必醇(すいきょうどうじん かひつじゅん)の戯号で著されているが、その正体は大坂で活躍した篆刻家の曽谷学川だと考えられている。版元は大坂の春星堂藤屋善七(しゅんせいどう ふじやぜんしち)。この本が好評を博したため、『豆腐百珍続編』、『豆腐百珍余録』などの続編が出版され、さらには蒟蒻・鯛・甘藷の百珍本も世に出るといった流行を起こした。.
趙古泥
趙 古泥(ちょう こでい)は、清末民初の篆刻家・書家。諱は石、字を石農、号を古泥、晩年に泥道人と名乗った。.
趙叔孺
趙 叔孺(ちょう しゅくじゅ)は清末民初の篆刻家・書家・画家である。名を時棡、字を紉萇、叔孺は号で晩年は二弩老人と称した。.
趙之チン
趙 之琛(ちょう しちん、男性、1781年 - 1852年)は、中国清朝中期の篆刻家・書家・画家である。西泠後四家に加えられる。 字を次閑・献父。号は献甫・宝月山人、室号は補羅迦室。浙江 銭塘の人。.
趙之謙
趙 之謙(ちょう しけん、Zhao Zhiqian、1829年7月9日 - 1884年10月1日)。字は益甫または撝叔、号は冷君、悲盦、梅庵、无悶、憨寮など。清末の書家、画家、篆刻家。近代芸術家の呉昌碩・斉白石をはじめ後世に大きな影響を与えた。.
趙陶斎
趙 陶斎(ちょう とうさい、正徳3年(1713年) - 天明6年4月20日(1786年5月17日))は、江戸時代中期の書家である。 名は養、字を仲頤、号は陶斎、他に息心居士、枸杞園、清嘩閣等がある。長崎生まれ。.
黄士陵
士陵(こう しりょう、男性、1849年 - 1908年)は、中国清朝末期の篆刻家 ・書家である。 字を牧甫・穆父・穆甫、号は黟山人・倦叟。安徽黟県黄村の人。.
黄賓虹
賓虹(こう ひんこう)は、中国の近代山水画家である。名は質、字を樸存・樸人、号に予向・虹廬・虹叟、中年以降は賓虹と称した。祖籍安徽省歙県潭渡村。.
黄檗美術
檗美術(おうばくびじゅつ)とは、黄檗宗に関連した美術をいう。主に隠元隆琦が渡来した江戸時代前期より日本に将来された中国明清の美術様式で、書・画・彫刻・工芸などに及ぶ。 隠元隆琦らの渡来僧によってもたらされた黄檗美術は、古黄檗のある中国福建一帯の美術様式であるだけではなく、当時中国の中心地であった江南一帯に流行した先進文化であった。この伝播の期間はおよそであるが隠元が渡来し宇治萬福寺が開創した17世紀中頃から、第21代住持大成照漢が没する天明4年(1784年)までとすることができる。その間萬福寺では異国情緒あふれる環境が維持され、全国51カ国一千ヵ寺といわれる黄檗寺院にこの美術様式が受用された。鎖国体制にある江戸時代においてこのように広く長く海外からの文化が伝播したことは極めて異例であった。 急激に日本に広まった黄檗美術は、その初期の段階から和様化が進み江戸文化に深く浸透しその形成に重要な要素となった。特に絵画や書に顕著な影響が認められ、伝統的な様式を刷新する原動力となった。.
黄易
易(こう えき、男性、1744年 - 1802年)は、中国清朝 嘉慶道光期の篆刻家・書家・画家である。西泠四家に加えられる。 字を大易・小松、号は秋影庵主、小蓬莱閣。浙江仁和の人。.
黙子如定
黙子如定(もくす にょじょう、1597年(万暦25年) - 1657年(明暦3年))は、明末清初に来日した中国僧。江西省建昌府建昌県の生まれ。.
鼎春嶽
鼎春嶽(かなえ しゅんがく、 明和3年(1766年) – 文化8年8月13日(1811年9月30日))は、江戸時代中期の日本の南画・篆刻家である。 名は元、字を世宝、浪華の人。.
茅原基治
茅原 基治(かやはら もとじ - 室蘭民報 2011年9月28日(水)朝刊、1885年 - 1942年)は、日本の航海士・船長。.
胡唐
胡唐(こ とう、男性、1759年 - 1826年)は、中国清朝中期の篆刻家である。新安印派の程邃 ・巴慰祖・汪肇龍らと「歙四家」と称揚される。 名は胡唐の他に長庚、字を咏陶・子西・西甫、号はサイ(耳+宰)翁・木雁居士・城東居士。安徽歙県の人。.
胡震
胡震(こ しん、男性、1814年 - 1860年)は、中国清朝中期の篆刻家・書家である。 字を不恐・伯恐、号は鼻山・胡鼻山人・富春大嶺長。浙江富陽の人。.
胡钁
胡钁(こ かく、男性、1839年 - 1910年)は、中国清朝末期に活躍した篆刻家・書家である。 字を匊鄰・老匊、号を晩翠亭長。浙江崇徳の人。.
都賀庭鐘
都賀 庭鐘(つが ていしょう、男性、享保3年(1718年) – 寛政6年(1794年)?)は、江戸時代中期の読本作家・儒学者・医師である。書・画・篆刻にも巧みであった。読本『繁野話』はそれまでの浮世草子とは異なり中国の影響の濃い原典がはっきりわかる内容だった。この新鮮味に上田秋成が啓発され『雨月物語』を執筆したと言われる。このため近世読本作家の祖とされる。.
蘭谷元定
蘭谷 元定(らんこく げんじょう、承応2年(1653年) - 宝永4年5月1日(1707年5月31日))は、江戸時代前期の黄檗宗の和僧。法号が蘭谷で、法諱が元定である。画・篆刻・彫刻に秀でた。.
蘇 (姓)
蘇(そ)は、漢姓の一つ。.
蘇宣
蘇宣(そ せん、男性、1553年 - 1626年+)は中国明代の篆刻家である。 字を爾宣・嘯民・郎公・号は泗水、眉山蘇宣あるいは大鄣蘇宣と署している。安徽歙県の人。.
赤松眉公
赤松 眉公(あかまつ びこう、 宝暦7年(1757年?) – 文化5年(1808年?))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である(生卒年は不確かで生年・卒年ともにそれ以前であったかもしれない)。 名は龐、字は眉公・麋公、 号に亀園・魚石、斎室名に清虚閣がある。水野尾正珉と通称される。浪華の人。.
間宮壽石
間宮 壽石(まみや じゅせき、1937年8月22日 - は、日本の書道家、篆刻家である。東京都生まれ。本名は晢(あきら)、号は壽石。石井雙石の孫弟子。2007年(平成19年)現代の名工受章。2011年(平成23年)黄綬褒章受章。.
藤井尚治
藤井 尚治(ふじい なおはる、1921年 - 1997年)は、日本の医学者。医師。法学博士。.
藤貞幹
藤 貞幹(とう ていかん、享保17年6月23日(1732年8月13日) - 寛政9年8月19日(1797年10月8日))は、江戸時代中期の有職故実研究家。諱は藤原 貞幹(ふじわら さだもと)。字は子冬。通称・叔蔵。号は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古など。京都の佛光寺久遠院院主玄煕(権律師、日野家出身)の子。日本の文献学・目録学の祖とも言われている。なお、姓を「藤井」と称したとする説もあるが、誤伝によるもので事実ではない。 父親と同様に僧侶になるべく育てられ、11歳で得度する。だが、仏教の教えに疑問を抱いて18歳で家を飛び出して還俗、日野家の本姓である藤原を名乗った。宗家の日野資枝から和歌を、高橋宗直から有職故実を、持明院宗時から書道を、後藤柴山・柴野栗山から儒学を、高芙蓉から篆刻を学んだほか、雅楽・篆書・草書・金石文などに精通し、韓天寿や上田秋成とも親交を有した。後に水戸藩彰考館に招かれて『大日本史』編纂にも関与している。日野資枝の実弟で宝暦事件で逼塞していた裏松固禅と意気投合してその家臣となり、『大内裏図考証』の執筆を助けた。だが、その一方で発掘された出土品などを吟味して厳密な考証の必要を唱えて記紀の記述と言えども無条件でこれを支持すべきではないと主張し、神武天皇の在位を600年繰り下げて神代文字の存在を否定した『衝口発』を著すが、これが国学者達の反感を買い、特に神武天皇や素戔嗚尊(その正体を新羅の国王であるとした)の問題については本居宣長が『鉗狂人』を著して貞幹の考証が杜撰であると主張し、逆に上田秋成が貞幹を擁護して宣長の姿勢を非難するなど激しい「日の神論争」等の論争を招いた。他にも『百官』・『国朝書目』・『逸号年号』・『伊勢両大神宮儀式帳考註』・『古瓦譜』など自著多数がある。.
藪井星池
藪井 星池(やぶい せいち、寛延元年(1748年)– 文化13年閏8月23日(1816年10月14日))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 名は千秋、字を子長、星池は号。中国風に修して藪星池と称した。伏見の人。.
董洵
董洵(とう じゅん、男性、1740年 - 1812年)は、中国清朝中期の篆刻家・書家・画家である。 字を企泉、号は小池・念巣。浙江山陰の人。.
葵雋卿
葵 雋卿(あおい しゅんけい、1978年4月27日 - )は、日本の書家・アーティスト・芸術家である.
葉ろう石
葉ろう石(ようろうせき、葉蠟石、pyrophyllite、パイロフィライト)はろう石鉱物で、層状ケイ酸塩鉱物の一種である。化学組成は Al2Si4O10(OH)2。軟らかくてロウ感がある。 一般に熱水変質を受けた岩石中に産し、カオリナイトやセリサイト(絹雲母)など葉ろう石と似た鉱物、あるいは石英などと共に産することが普通であり、これら鉱物より成る岩石は「ろう石」と総称される。このように、ろう石中には似た鉱物が多く含まれるので、肉眼や顕微鏡でそれぞれを区別するのは難しい。X線粉末分析(XRD分析)や蛍光X線分析(XRF分析)が、それぞれの種類や量比を求める手段として用いられる。 岡山県備前市の三石地区の台山(だいやま)を中心に点在するろう石鉱床が、ろう石の生産量規模としては日本最大である。 広島県庄原市の勝光山では、青灰色のコランダムと共生しているものを「とら石」、淡紫色のダイアスポアと共生しているものを「ふじ石」と呼んでいる。.
葛子琴
葛 子琴(かつ しきん、男性、元文4年(1739年) – 天明4年5月7日(1784年6月24日))は、江戸時代中期の日本の漢詩人・篆刻家である。天賦の才を持った詩人と評され、一方篆刻では高芙蓉の高弟として活躍。 苗字は橋本氏、通称が貞元だったので橋本貞元と称された。名ははじめ湛また耽と称しのちに張、子琴は字、号は螙庵(とあん)、室号を御風楼・小園叟とした。本姓が葛城氏であったので中国風に修して葛子琴と名乗った。浪華の人。.
蒋仁
蔣仁(しょう じん、男性、1743年 - 1795年)は、中国清朝嘉慶道光期の篆刻家・書家である。西泠四家に加えられる。 元々は名を泰、字を階平といったが、入手した漢印に「蔣仁」と刻してあったことに因んで改名した。 号は山堂・吉羅居士・女牀山民・罨画渓山院主。浙江仁和の人。.
蔀関牛
蔀 関牛(しとみ かんぎゅう、生没年不詳)とは、江戸時代中期の大坂の浮世絵師。.
臨池居
臨池居(りんちきょ)とは、江戸時代中期から明治時代まで存在した、越中国(現在の富山県)の代表的な寺子屋・私塾。小西塾、小西屋とも呼ばれた。.
自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧
自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧(じさつ・じけつ・じがいしたにっぽんのちょめいじんぶついちらん)では、自ら命を絶った日本の著名な人物または自ら命を絶ったとされる著名な人物を一覧する。.
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里東白
里 東白(り とうはく、男性、正徳5年(1715年) – 安永9年(1780年))は、江戸時代の延享・宝暦年間に活躍した日本の篆刻家である。 本姓は里見氏。中国風に里と修した。 号は東白のほかに雛鳴菴がある。 泉南の人。安永4年(1775年)版の浪華郷友録に作印名家として掲載されて篆刻史において新興蒙所の流れを汲む初期浪華派のひとりに数えられる。.
長尾雨山
長尾 雨山(ながお うざん、元治元年9月18日(1864年10月18日) – 昭和17年(1942年)4月1日)は、明治期の日本の漢学者・書家・画家・篆刻家である。狩野直喜(君山)・内藤湖南とともに中国学を開花・進展させたひとりに挙げられる。 名は甲(こう)、字を子生、号は雨山の他に石隠・无悶道人・睡道人、斎室名に无悶室・何遠楼・思斎堂・艸聖堂などがある。通称は槙太郎。.
長崎市立浪平小学校
長崎市立浪平小学校(ながさきしりつ なみのひらしょうがっこう, Nagasaki City Naminohira Elementary School)は、かつて長崎県長崎市南山手にあった公立小学校。2007年(平成19年)に、統廃合で閉校した。 北大浦小学校・南大浦小学校との3校統合の上、同年4月に長崎市立大浦小学校が新設された。.
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長崎派
長崎派(ながさきは)とは、江戸時代の鎖国体制下において唯一外国(オランダ・中国)との交渉があった長崎で生まれた様々な諸画派の総称である。 この諸画派は、漢画派(北宗画派)・黄檗派・唐絵目利派(写生派)・南蘋派・南宗画派(文人画派)・洋風画派・長崎版画の7つに大別できる。これらに共通の主張や特定の様式があるわけではない。 長崎を通じて外国から流入した新様式が上方や江戸の中央画壇に広まり新興の絵画芸術を生む契機となった。とりわけ南蘋派の影響は大きく、近世絵画に写実性を追求する姿勢が芽生えた。 なお、篆刻にも源伯民を祖とする長崎派が登場する。こちらも同様の歴史的背景から中国黄檗僧によってもたらされた工芸美術であるが画派とはいえず、ここには分類されない。.
長谷川延年
長谷川延年(はせがわ えんねん、享和3年(1803年) – 明治20年(1887年)3月7日)は、江戸時代後期から明治期の日本の随筆家・目録家・篆刻家。道教を信仰し伝来する経典を渉猟。模刻して施本した。 名は真人、初名を庸敕(つねとら)としたが後に長庸と改名。字を守真・士樸・子惇、延年は号で他に如一・山隠・楓洞、斎室名に鞱光斎・博愛堂・洞玄閣・幃間居など。通称式部。河内八尾の人。.
長沼直兄
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は日本語教育者。.
陳衡恪
陳 衡恪(ちん こうかく)は清末民初にかけて活躍した篆刻家・画家である。 字は師曽、号は槐堂・朽道人。父は詩人の陳三立で、祖父は湖南巡撫の陳宝箴。歴史学者の陳寅恪は弟。.
陳豫鐘
陳豫鐘(ちん よしょう、男性、1762年 - 1806年)は、中国清朝中期の篆刻家・書家・画家である。西泠後四家に加えられる。 字を浚儀、号は秋堂、室号は求是斎。浙江銭塘の人。.
陳鴻寿
陳 鴻寿(ちん こうじゅ 1768年 - 1822年)は、中国清朝 中期の篆刻家・書家・画家である。西泠後四家に加えられる。 字を子恭、号は曼生・曼寿・種楡道人。浙江銭塘の人。.
TRONプロジェクト
TRONプロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健による、リアルタイムOS仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。プロジェクトの目指す最終的到着点のグランドイメージとして「HFDS」(Highly Functional Distributed System: 超機能分散システム。「どこでもコンピュータ」などとも)を掲げている。1984年6月開始。.
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柳沢淇園
柳沢 淇園(やなぎさわ きえん、元禄16年7月18日(1703年8月30日) - 宝暦8年9月5日(1758年10月6日))は、江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。 幼名は権之助、名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、字は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。.
柴田政太郎
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると、昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持ち、古文献に基づき鎌倉時代前後に絶滅した水素還元法に合致した鍛刀法を復活させた。栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。.
林十江
林 十江(はやし じっこう、安永6年12月17日(1778年1月15日) – 文化10年9月19日(1813年10月12日))は、江戸時代中期・後期の日本の南画家・篆刻家である。通称長次郎、名は長羽、字を子翼・雲夫。十江は号で、他に十江狂人、風狂野郎、水城俠客、草巷販夫、印禅居士、懶惰山老など数多い。水戸の人。.
林皋
林皋(りん こう、男性、1658年 - 1726年+)は、清朝前期の篆刻家である。 字を鶴田・鶴顛。福建莆田に生まれ、江蘇常熟に住んだ。.
林煥章
林 煥章(りん かんしょう、生卒年不詳)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 名は魏、字を成功、煥章は法号。 京都の人。.
李宝嘉
李 宝嘉(り ほうか、Li Baojia、1867年 - 1906年)は清末の小説家・ジャーナリスト。字の伯元でも知られる。 江蘇省武進出身。3歳で父を喪い、伯父の李翼清に養われた。1892年、李翼清が官を辞すると、李宝嘉も伯父の任地の山東省から常州に戻った。若いころより書画篆刻・金石学・音韻学の分野で才人として知られ、また宣教師から英語も学んだ。第一位で秀才となったが、郷試には生涯合格することができなかった。 30歳より上海で『指南報』『遊戯報』『世界繁華報』といった新聞を次々と創刊し、『繡像小說』という小説誌の主筆も務め、「タブロイド紙の祖」と称された。 代表作には『儒林外史』に倣って官僚・胥吏の習性や腐敗を描いた『官場現形記』がある。『官場現形記』は1903年から『世界繁華報』に連載され、2年にわたって連載されたが、作者が肺病によって死去したため、友人の欧陽鉅源(ペンネームは茂苑惜秋生)が補筆して完成した。その他の作品には『活地獄』があるが第39回まで書かれたところで病のため中断し、第40回から第42回まで呉趼人が補筆した。『海天鴻雪記』『中国現在記』も未完に終わっている。.
李尹桑
李尹桑(り いんそう、男性、1880年 - 1945年)は、中国清朝末期から近代に活躍した篆刻家・書家・画家である。 元の名は茗柯、号を鉥斎・壺甫。江蘇呉県に生まれ広州に移住。 黄士陵の門弟。古鉥を基本として活き活きとした作風だった。また花卉画を得意とし、篆書・隷書に優れた。晩年は生活に窮した。.
東京理科大学諏訪短期大学
学生募集は2001年度まで。2002年度より諏訪東京理科大学の設置により短期大学は学生募集を停止し、2003年11月5日正式廃止平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』274頁より。。.
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東皐心越
東皐心越(とうこう しんえつ、崇禎12年(1639年) - 元禄9年9月30日(1696年10月25日))は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧。 俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある。 詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる。.
松丸東魚
松丸 東魚(まつまる とうぎょ、男性、明治34年(1901年) – 昭和50年(1975年)6月9日)は、日本の篆刻家である。 名は長三郎。東京日本橋の魚問屋に生まれ、25歳で篆刻をはじめた。最初、新間静邨などに学ぶ。後に秦漢古銅印の研究に尽力。鄧石如・趙之謙・呉昌碩に私淑し独学でこれを学んだ。 知丈印社を主催し後進の育成に尽力し、また白紅社を設立し、書跡や印譜の出版も手掛けた。門弟に關正人や初の女流篆刻家河野晶苑などが育っている。 日展評議員、毎日書道展諮問委員を歴任。東方書道会特別賞を受賞している。収集した印譜などは古河市にある篆刻美術館に収蔵されている。.
松木松年
松木 松年(まつき しょうねん、男性、天保14年(1843年) – 大正6年(1917年)12月28日)は、幕末から近代日本の画家・篆刻家である。 名は偉彦(くすひこ)、字は子温、松年は最初の号で後に香雲・五峰などと称した。伊勢度会の人。.
松本駝堂
松本 駝堂(まつもと だどう、延宝元年(1673年) - 寛延4年1月15日(1751年2月10日)(2014年8月8日閲覧。)は、江戸時代中期の外科医、本草学者。駝堂は字。本姓は佐々木。名は元活。号は松本六郎次郎賓秋。松本駄堂ともされる。 第8代徳川吉宗の治める享保年間、当時の医薬不足の解消、薬効研究のため、江戸幕府の命のもとで医薬となる植物を求めて諸国を巡り、薬草を調査・採取した。熊野では天然の和人参を採取した。 次男は禅僧・画家・篆刻家の悟心元明。.
松浦静軒
松浦 静軒(まつうら せいけん、男性、生卒年不詳)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 本姓は今井氏。名を忠高、静軒は号。通称は松浦七郎左衛門。.
杜俊民
杜 俊民(と しゅんみん、 宝暦4年(1754年) – 文政3年 8月23日(1820年9月29日))は、江戸時代中期から後期の日本の篆刻家である。 本姓は森嶋氏。字は用章、号に石斎・南畝等がある。通称嘉四郎または千吾。伊勢の人。.
杜澂
杜 澂(と ちょう、寛延元年1748年 – 文化13年 5月13日(1816年))は、日本の南画家・篆刻家・出版家である。 中江姓。字を澂公・師叔、号に松窠・華亭・看雲子・五適・琴史・陶古・真賞斎(塾名)などがある。京都の人。.
桃澤如水
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。.
桑名鉄城
桑名 鉄城(くわな てつじょう、元治元年(1864年) – 昭和13年(1938年))は、近代日本の篆刻家である。 名は箕、字は星精、号は鉄城・大雄山民。富山の人。.
梁チツ
梁袠(りょう ちつ、男性、生没年不詳)は、中国明代の篆刻家である。 字は千秋。江蘇揚州に生まれ南京に住んだ。 梁袠は、何震に師事し最も忠実に師法を遵守した。万暦28年(1610年)に印譜『印雋』を出版している。新安印派(黄山派・徽派・皖派)のひとりであり、その支流とみなされる雪漁派に属する。周亮工『印人伝』に略伝がある。.
森川竹窓
森川 竹窓(もりかわ ちくそう、宝暦13年(1763年) – 文政13年11月2日(1830年12月16日))は、江戸時代中期後期の日本の書家・画家・篆刻家である。 名は世黄もしくは修亮、字を離吉もしくは子敬、 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊、室号に柏堂がある。通称曹吾、大和の人。.
植田華亭
植田 華亭(うえだ かてい、男性、生卒年不詳)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 名は通央、字を伯仲、華亭は号で他に思斎・釆真堂の斎室名を号としている。通称は文蔵・文敬。江戸の人。.
楊カイ
楊 澥(よう かい、男性、1780年 - 1850年)は、中国清朝中期の篆刻家・書画家である。元の名を海、字を竹塘、号は龍石・石公山人、晩年に野航と号する。江蘇呉江の人。 金石学と考証学を究めた。篆刻は浙派に属し、秦・漢の古印を原点に装飾性を抑えて素朴な味わいの作風だった。.
榊原篁洲
榊原 篁洲(さかきばら こうしゅう、明暦2年(1656年) - 宝永3年1月3日(1706年2月15日))は、江戸時代前期の儒学者。名は玄輔、字を希翊、号は篁洲のほかに惕々子、勃窣散人。通称は小太郎、のちに元輔。和泉の生まれ。.
模刻 (曖昧さ回避)
模刻(もこく)とは、.
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殷璽
殷璽(いんじ)とは、中国の殷墟(河南省安陽市殷都区)から出土したとされる古銅印である。もしその通りならば中国最古の印章となるが、その出土状況が不明であるため殷(商)代の作品とすることに疑義を唱える学者が多い。.
水野恵 (篆刻)
水野恵(みずの けい、男性、1931年1月(昭和6年) - )は日本の篆刻家。京都生まれ。.
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永田耕衣
永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日 - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。本名軍二(ぐんじ)。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。.
江馬天江
江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日(1825年12月12日) - 明治34年(1901年)3月8日)は書家・漢詩人・医師。幕末から明治期の京都を代表する文人。 本姓は下阪氏。名は聖欽。字は永弼、のちに正人。近江の人。.
池永道雲
池永 道雲(いけなが どううん、延宝2年(1674年)- 元文2年7月19日(1737年))は、江戸時代中期の書家、篆刻家。榊原篁洲・細井広沢とともに日本の文人篆刻の先駆けとなった。 名は栄春、字を道雲、号は一峰のほかに市隠・山雲水月主人など。通称有右衛門。江戸の人。.
汪啓淑
汪啓淑(おう けいしゅく、男性、1728年 - 1800年)は、中国清朝中期の古印や名印の収蔵家・蔵書家・著述家である。生涯のうちに27種もの印譜を編集・出版し篆刻芸術の発展に尽くした。 元の名は華国でのちに啓淑と改名。字は愼儀、号は秀峯・訒庵・悔堂・秋室・槐谷・退斎居士。居室は、春暉堂・飛鴻堂・琴硯楼・一泓斎・開萬楼。篆刻を好み、印癖先生と称する。安徽省 歙県の人。.
汪関
汪関(おう かん、男性、生没年不詳)は、中国明末清初の篆刻家である。 新安印派に新風を興した。 元々は名を東陽、字を杲叔といったが、漢代の「汪関印」を入手したことに因んで汪関と改名し、字も尹子(いんし)とした。安徽黄山に生まれ、のちに江蘇婁東(現在の太倉市)に住んだ。.
汪肇龍
汪肇龍 (おう ちょうりゅう、男性、1722年 - 1780年)は、中国清朝中期の篆刻家である。新安印派の程邃 ・巴慰祖・胡唐らと「歙四家」と称揚される。名の肇龍は肇隆また肇リュウ(氵+隆)とも署す。字を稚川、号は松麓。安徽歙県の人。 程芝華の『古蝸篆居印述』(1824年)に巴慰祖とともに模刻がある。.
河井せん廬
河井 荃廬(かわい せんろ、男性、明治4年4月28日(1871年6月15日) - 昭和20年(1945年)3月10日)は、近代日本の篆刻家である。中国に渡り呉昌碩に師事し、金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くした。 本来、姓は川井であったが戸籍の記帳ミスから河井となる。名は仙郎であるが、修して遷とも署した。幼名は徳松、のちに師の篠田芥津の諱を避けて得松または得とした。号は木僊、のちに荃楼、荃屢、荃廬と改号した。別号に迂仙・蟫巣・九節丈人・知幻道人、堂号に忘荃楼・忘荃屢・六不刻庵・継述堂・宝書龕などがある。京都の人。.
河井章石
河井 章石(かわい しょうせき、男性、明治9年(1876年) - 昭和31年(1956年))は、京都で活躍した篆刻家である。 本来、姓は川井であったが戸籍の記帳ミスから河井となる。京都府京都市出身。.
沈兆霖
沈 兆霖(しん ちょうりん、Shen Zhaolin、1801年 - 1862年)は、清末の官僚。字は尺生、号は朗亭または子滎。浙江省銭塘出身。 道光16年(1836年)に進士になり、翰林院編修となった。咸豊2年(1852年)に吏部侍郎に抜擢され、江西学政となった。翌3年(1853年)、太平天国軍が武昌から九江に侵攻した時は南昌へ援軍に駆けつけた。その後も度々江西省・安徽省の軍事について上奏し、多くが容れられた。 咸豊9年(1859年)、左都御史に昇進。翌10年(1860年)、兵部尚書としてアロー戦争で徹底抗戦を主張した。和議がなると戸部尚書に遷り、咸豊11年(1861年)に発生した辛酉政変で西太后・東太后・恭親王奕訢らを支持、同治帝が即位すると軍機大臣上行走となった。同治元年(1862年)に陝甘総督代理となり、西寧のサラール族の反乱を鎮圧した。同年死去。太子太保と文忠の諡号が贈られた。 経学・史学に通じ、詩・篆刻などを善くした。著作に『沈文忠公集』『広印人伝』がある。.
沈鳳
沈鳳 (しん ほう、男性、生卒年不詳)は、中国清朝中期の篆刻家・画家である。 字を凡民、号は補蘿。江蘇江陰の人。.
沙孟海
沙孟海(さ もうかい)は、中国近現代の篆刻家・書家。名は文瀚のちに文若と改名。孟海は字で通行名とした。号は沙邨、蘭沙、石荒、決明。.
淡海槐堂
淡海 槐堂(おうみ かいどう、文政5年12月1日(1823年1月12日) - 明治12年(1879年)6月19日)は勤王家・文人。漢詩人の江馬天江は実弟。 本姓は下坂氏。名は緝、字は敬天。号は槐堂のほか、重涂・頑山史。近江の人。.
源伯民
源 伯民(げん はくみん、正徳2年(1712年) – 寛政5年(1793年)5月)は、江戸時代中期の篆刻家。今体派篆刻の一派である長崎派の代表的印人である。 本姓は清水、名は逸、字を伯民といい、頑翁と号し、堂号は養和堂といった。清水伯民もしくは清水頑翁でも知られる。長崎の人。.
源惟良
源惟良(げん いりょう、男性、生卒年不詳)は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。 字は顕哉、号に東壑・泐石。通称森礼蔵。一時伊藤姓を名乗る。京都の人。.
滋賀県出身の人物一覧
滋賀県出身の人物一覧(しがけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する滋賀県出身の人物の一覧表である。旧近江国の出身者も合わせて記述する。.
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滋賀県立短期大学
学生募集は2002年度まで。2003年度より滋賀県立大学に全面改組されたため短期大学は学生募集を停止し、2005年4月26日をもって正式廃止平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』250頁より。。.
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木島桜谷
木島 桜谷(このしま おうこく、明治10年(1877年)3月6日 - 昭和13年(1938年)11月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した四条派の日本画家。本名は文治郎。字は文質。別号に龍池草堂主人、聾廬迂人。 四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された画家。.
木下逸雲
木下 逸雲(きのした いつうん、寛政12年8月1日(1800年9月19日) – 慶応2年8月4日(1866年9月12日))は、江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大家とされる。 幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。諱を相宰。逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。.
木庵性トウ
木庵性瑫(もくあん しょうとう、万暦39年2月3日(1611年3月16日)- 貞享元年1月20日(1684年3月6日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。福建省泉州府晋江県の出身。勅諡号は慧明国師。.
木村卜堂
木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1975年8月9日)は、栃木県足利市生まれの書家。本名は信太郎、卜堂は号。木村東道は長男。.
木村竹香
木村 竹香(きむら ちっこう、男性、明治元年(1868年) – 昭和18年(1943年 1月28日))は、近代日本の篆刻家である。篆刻界で有名な『羅漢印譜』を編集・刊行したことで知られる。 名は政平、竹香は号で斎号に酔古堂がある。 新潟県新潟市の人。山田正平の実父。.
木村蒹葭堂
『山水図』 紙本淡彩 木村 蒹葭堂(きむら けんかどう、元文元年11月28日(1736年12月29日) - 享和2年1月25日(1802年2月27日))は、江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔恭(孔龔)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世肅、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称 坪井屋(壺井屋)吉右衛門。 蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。.
末永節
末永 節(すえなが みさお、明治2年11月12日(1869年12月14日) - 1960年(昭和35年)8月18日)は、日本の政治運動家・大陸浪人・武道家。 玄洋社社員、肇国会(ちょうこくかい)会長、全日本少林拳武徳会初代宗家。号は狼嘯月(ろうしょうげつ)、晩年は無庵。.
朱簡
朱簡(しゅ かん、1570年 - ?)は、中国明末期の篆刻家。字は修能、畸臣。安徽休寧の人。新安印派に属する。.
有栖川宮熾仁親王
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。 有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫のニ・ニ六事件76-77頁。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。主旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。 明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。.
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戴煦
戴 煦(たい く、Dai Xu、1805年 - 1860年)。字は鄂士、号は鶴墅。清末の数学者。 浙江省銭塘(現在の杭州市)出身。戴熙の弟。貢生となり、数学の研究に没頭した。数学の著作に『四元玉鑑細草』『勾股和較集成』『船機図説』『求表捷術』などがあり、中国近代数学の先駆とみなされている。また書・画・篆刻の分野でも知られていた。1860年、杭州が太平天国軍に占領された際、戴熙が投水自殺したと聞くと、戴煦もまた井戸に身を投げて自殺した。数学以外の著作には『陶淵明集集注』『鶴墅詩文草』などがある。.
昌化石
昌化石(しょうかせき)は、篆刻の主要な印材。中国浙江省産。鮮血のように鮮やかな赤を発色する鶏血石。.
易熹
易熹(えき き)は清末民初の詩文・書画・篆刻・音楽などに長けた多芸多才の文人である。 最初、名を廷熹、字は季復、号を魏斎としていたが、後に名を孺、字を大厂(だいがん)、号を韋斎とした。その他に別号が多く、侍公・屯老・念翁・不玄などがある。.
浜村蔵六
浜村蔵六(はまむらぞうろく)とは、江戸時代中期から明治時代にかけて5代に亙って篆刻家として活躍した浜村家が名乗った名跡である。蔵六とは亀の異名とされ、初世が亀鈕の銅印を所蔵していたことから号とした。この銅印は代々宝印として伝えられ現在は東京国立博物館に所蔵されている。.
浜村蔵六 (三世)
三世 浜村 蔵六(さんせい はまむら ぞうろく、男性、寛政3年(1791年) – 天保14年8月18日(1843年9月11日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は籍、字は子収、号は初め南渓、晩年は訥斎・亀禅とした。はじめ小林姓だったが、のち金山を称した。江戸の人。.
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浜村蔵六 (二世)
二世 浜村 蔵六(にせい はまむら ぞうろく、安永元年(1772年) – 文政2年7月18日(1819年9月7日))は日本の篆刻家である。 本姓は橘氏、幼名は仙吉。名は参、字は秉徳、号は蔵六のほかに賁斎がある。通称は六蔵。橘秉徳とも称される。江戸の人。.
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浜村蔵六 (五世)
五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。.
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浜村蔵六 (初世)
初世 浜村 蔵六(はつせ はまむら ぞうろく、男性、享保20年(1735年) – 寛政6年11月4日(1794年11月26日))は、江戸時代中期の日本の篆刻家である。5代に亙って篆刻家を輩出した浜村家の祖。 本姓は橘氏、名を茂喬、字は君樹、蔵六は号。通称浜村六蔵。橘茂喬とも称される。武蔵国葛飾生まれ。.
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浜村蔵六 (四世)
四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年(1826年) - 明治28年(1895年)2月24日)は、明治期の日本の篆刻家である。 正本氏、後に塩見氏を名乗る。名は観侯、字は大澥、蔵六を号し、別号に薇山・雨村。通称参蔵。備前岡山(岡山県瀬戸内市)の人。.
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新興蒙所
新興 蒙所(にいおき もうしょ、男性、貞享4年(1687年) – 宝暦5年11月25日(1755年12月27日))は、江戸時代前期の書家、篆刻家である。篆刻において大坂にて初期浪華派を起した。 本姓は菅原姓。はじめ堀蒙園と名乗るが後に新興とした。自ら修して興と称している。名は光鍾、字は中連、蒙所は号である。江戸に生まれ大坂に移った。.
新潟県立新潟高等学校の人物一覧
新潟県立新潟高等学校の人物一覧(にいがたけんりつにいがたこうとうがっこうのじんぶついちらん)とは、新潟県立新潟高等学校の主な出身者・関係者の一覧である。.
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文人
文人(ぶんじん)とは、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問を修め文章をよくする人」の意である。.
文彭
文彭(ぶん ぽう、男性、弘治10年(1497年) - 万暦元年(1573年))は、中国明代の書家、画家、篆刻家である。明代四大家のひとりである文徴明の長子であり、文嘉は弟にあたる。特に篆刻に優れた業績を遺した。江蘇蘇州の人。 字は寿承、号は三橋、漁陽子、三橋居士。南京国子監博士・北京国子監博士を歴任したので文国博と称された。.
斉白石
斉 白石(せい/さい はくせき)は清末から中華人民共和国の画家 ・書家・篆刻家である。現代中国画の巨匠と評される。 原名は璜であったが字の白石で知られる。字は他に瀕生。号は非常に多く、三百石印富翁・寄萍堂主人・借山吟館主者・杏子塢老民などがある。.
日展
日展(にってん)は官展の流れを汲む日本最大の総合美術展覧会である。名称の意味は「日本美術展覧会」であることが公式サイト上で説明されている。 また同展覧会を年1回で通年主催する団体名が展覧会通称と同じ日展の名を冠するため、ここでは開催団体の歴史的変遷と美術展覧会の開催歴を合わせて解説する。.
日本の篆刻史
日本の篆刻史(にほんのてんこくし)とは、日本における篆刻および印章の歴史である。.
日本の篆刻家一覧
日本の篆刻家一覧(にほんのてんこくかいちらん)とは、日本の主な篆刻家を時代区分した上で諸流派別にした一覧である(※流派の関係から一部の人物が重複する)。.
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日本の書道史
日本の書道史(にほんのしょどうし)では、有史以来、現在までの日本における書道の歴史を記述する。この記事では時代ごとに、その背景・書風・筆跡・書人・教育など書に関連した事跡を記す。.
日本十進分類法
日本十進分類法(にほんじっしんぶんるいほう『日本十進分類法 新訂10版 本表・補助表編』、標題紙裏。、Nippon Decimal Classification; NDC)は、日本の図書館で広く使われている図書分類法である。最新版は新訂10版(2014年12月発行) - 日本図書館協会 JLA出版物。もり・きよし(森清)原編、日本図書館協会分類委員会改訂。.
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日本書道学院
日本書道学院(にほんしょどうがくいん)は、東京都新宿区に本部を置く書道団体。所在地は東京都新宿区早稲田町五丁目。.
旧草嶺トンネル
旧草嶺トンネル(きゅうそうれいトンネル、きゅうカオリントンネル、舊草嶺隧道)は台湾新北市と宜蘭県境にある全長2,167メートルの単線非電化の鉄道トンネル。日本統治時代の1924年(大正13年)10月9日に台湾総督府鉄道(現台湾鉄路管理局、以下台鉄)宜蘭線上に開通し、当時は東南アジアで最長の鉄道トンネルだった。複線電化に伴う新ルート開通後は旧草嶺自転車道(舊草嶺自行車道)というサイクリングロード)として再活用されている。.
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悟心元明
悟心元明(ごしん げんみょう、正徳3年(1713年) – 天明5年7月27日(1785年8月31日))は、江戸時代中期の日本の禅僧・画家・篆刻家である。 悟心は道号、元明は法諱、別号に懶庵・夢幻叟・有荷庵・一雨庵・九華などがある。伊勢松阪の人。.
手芸
手芸 手芸(しゅげい、Crafts)とは、個人的に行う裁縫、刺繍、編み物などの創作活動をいう。 基本的に経済活動を伴わない家庭内での生産活動を指し、余暇活動の趣味の場合は特に「手芸」とされる。しかし生産物に価値が認められ、高値で取引される場合や、個人の趣味として始まった生産活動が地場産業に発展するケースもあり、その場合は経済価値があるため手芸の範疇からやや逸れる。 裁縫に限れば、日本では伝統的に和服の修理、丈の調整など日常に家庭で繕い物をすることが極めて多く、古くは花嫁修業の習い事のひとつとして和裁の習得が勧められていた時代もあった。ただし、同じ裁縫であっても、豪勢な打ち掛けなどの値段やクオリティの高い和服の衣裳を腕のある和裁士が手掛ける場合は工芸品として扱われる。 服飾関連の裁縫が手芸としてはおおむね代表的とされ、狭義の手芸はこれらを指すことが多い。しかしカルチャーセンターなどの設備が整った現在では、以前は難しかった彫金・彫刻、七宝焼きなどの美術工芸ですら、素人でさえ製作に手を出すことができるように発展したため、美術工芸を含めて手芸と捉えられることが多くなった。それゆえ広義において、一部の工芸を手芸に含む場合もあり、昨今では新たな手芸も続々と派生しており、分類は難しくなっている。.
書家
『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。.
書道
京都・東寺蔵 『蘭亭序』(部分)王羲之 書道(しょどう)または書(しょ)とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。カリグラフィーの一種。中国が起源であるが、日本語圏においては漢字から派生した仮名、ベトナム語圏では同じく漢字から派生したチュノムやローマンアルファベットを使用するクォック・グーなどでも創作活動が行われている。2009年に中国の書道が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。 本項では主に中国語圏及び日本語圏の書道について述べる。その他の文字・地域における書道は他の文字による書道を参照。.
書道用語一覧
書道用語一覧(しょどうようごいちらん)は、書道に関する用語の一覧である。.
曽谷学川
曽谷 学川(そだに がくせん、元文3年(1738年) - 寛政9年10月20日(1797年12月7日))は、江戸時代中期の篆刻家である。また戯号の醒狂道人 何必醇で著した料理本『豆腐百珍』の著者とされる。 字は応聖、号は学川の他に仏斎居士、曼陀羅居、読騒菴、通称は忠助、後に宇作に改める。諱が之唯であったので師の高芙蓉が中国風に修して曽之唯と名付けた。京都の人。.
曽根寸斎
曽根 寸斎(そね すんさい、 寛政10年(1798年) – 嘉永5年 9月2日(1852年10月14日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。 名は政醇または隼、字を翔卿、号は寸斎の他に印禅居がある。通称定左衛門。本姓は林氏。江戸の人。.
11月25日
11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.
1310年
記載なし。
1359年
記載なし。
1497年
記載なし。
1605年
記載なし。
1703年
記載なし。
1736年
記載なし。
1755年
記載なし。
1778年
記載なし。
1782年
記載なし。
1798年
記載なし。
1820年
記載なし。
1828年
記載なし。
1833年
記載なし。
1837年
記載なし。
1843年
記載なし。
1887年
記載なし。
1916年
記載なし。
1918年
記載なし。
1月1日
1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.
2月23日
2月23日(にがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から54日目にあたり、年末まであと311日(閏年では312日)ある。.
3月10日
3月10日(さんがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から69日目(閏年では70日目)にあたり、年末まであと296日ある。.
3月24日
3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。.
6月15日
6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.
6月16日
6月16日(ろくがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から167日目(閏年では168日目)にあたり、年末まであと198日ある。誕生花はチューベローズ、カンパニュラ。.
6月9日
6月9日(ろくがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から160日目(閏年では161日目)にあたり、年末まであと205日ある。誕生花はノバラ、ゴデチア。.
8月15日
8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。.
8月18日
8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。.
8月9日
8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。.
9月11日
9月11日(くがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から254日目(閏年では255日目)にあたり、年末まであと111日ある。.
9月16日
9月16日(くがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から259日目(閏年では260日目)にあたり、年末まであと106日ある。.
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