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後堀河天皇

索引 後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

235 関係: いく子内親王右大臣吉田定経吉田経俊吉田資経堀川具実堀川通具大中臣能隆大炊御門家嗣大炊御門師経大炊御門冬忠大日本史天子摂関御影天皇の一覧天皇陵天福 (日本)太上天皇太政大臣女院姉小路実尚姉小路実世姉小路実文姉小路公宣宮内庁治定陵墓の一覧守貞親王安貞寛喜寛喜新制尊号尊性法親王尊性法親王 (鎌倉時代)尾張兼時山陵志岡屋関白記左大臣中山兼宗中御門流中納言局中納言局 (平知盛の娘)中院通成中院通方三左衛門事件三条実平三条実親三条実房三条公俊三条公親三条公泰三条公房三条有子...一条実経一条実有九条基家九条しゅん子九条道家九条教実平知盛平頼盛久我通平久我通忠久我通光二条定輔二条為氏二条良実広橋経光広橋頼資五代帝王物語五辻雅継仁科神明宮仲恭天皇伏見天皇似絵体子内親王御師 (音楽)徳大寺実基徳大寺公継後堀河院民部卿典侍後嵯峨天皇後冷泉天皇後鳥羽天皇待宵の小侍従土御門定通土御門顕定土御門顕親土御門通行土御門通持北畠雅家北条義時北条泰時園基氏園家ワサビ利子内親王嘉禄やぐら冠嶺神社円浄内大臣八十島祭八条実俊六代勝事記元号一覧 (日本)元仁光徳寺 (柏原市)勅撰和歌集国母四辻実藤四条天皇四条隆衡四条隆親四条房名皇室の系図一覧皇位継承玄輝門礼子内親王 (後鳥羽天皇皇女)神宮式年遷宮神積寺秋夜長物語粟田口良教紫式部日記絵巻義経 (NHK大河ドラマ)随心院花山院定雅花山院宣経花山院忠経花山院通雅鎌倉時代の人物一覧道助入道親王道尊 (以仁王王子)菅原為長衣笠家良飛鳥井教定褰帳西園寺実材西園寺公基西園寺公経西園寺公相西園寺倫子覲子内親王観音寺 (京都市東山区)証空高倉天皇譲位貞応貞永鷹司院帥鷹司院按察近衛家実近衛家通近衛道経近衛長子藤原基良藤原孝範藤原定季藤原定家藤原家隆 (従二位)藤原宗平藤原仲経藤原公世藤原公清藤原知家藤原範継藤原経通 (鎌倉時代)藤原為家藤原隆祐藤原資季藤原雅隆藤原殖子藤原有子藤原有能藤原成親藤原房教藻璧門院少将藻璧門院但馬葉室光俊邦子内親王長講堂領院政暉子内親王東大寺の歴史正親町三条実蔭正親町三条公氏武田信時武臣政権水田天満宮水無瀬信成河内十七箇所治天の君治部卿局法性寺雅平泉涌寺源師季源輔通源雅具源雅親源雅言源雅清源通氏源氏絵源泰光滋野井実宣滋野井公光持明院持明院基家持明院家行持明院統持明院陳子戒光寺斎宮新勅撰和歌集新長谷寺日野家宣日野家光日野光国日本の中世文学史日本の皇后一覧摂関政治摂政摂政・関白の一覧承久承久の乱1207年1212年1220年代1230年代1234年1286年13世紀2月18日 (旧暦)3月22日7月29日7月9日 (旧暦)868月31日8月6日 (旧暦) インデックスを展開 (185 もっと) »

いく子内親王

昱子内親王(いくし(てるこ/あきこ)ないしんのう、寛喜3年(1231年) - 寛元4年8月15日(1246年9月26日))は、鎌倉時代中期の皇族。後堀河天皇第3皇女、母は藤原兼良の女。伊勢斎宮。 嘉禎3年(1237年)11月24日、四条天皇即位に伴い7歳で斎宮卜定。暦仁元年(1238年)9月8日、左近衛府へ初斎院入り。同月22日、野宮に入る。延応元年(1239年)9月16日、伊勢へ群行。仁治3年(1242年)1月11日、四条天皇崩御により13歳で退下。寛元4年(1246年)8月3日に落飾し、15日に16歳で薨去。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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吉田定経

吉田 定経(よしだ さだつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権大納言吉田経房の長男。母は平範家の娘。従三位・参議。.

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吉田経俊

吉田 経俊(よしだ つねとし)は鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。参議・吉田資経の次男。後嵯峨上皇の側近として活躍。経俊の子孫からは坊城家・中御門家が出た。.

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吉田資経

吉田 資経(よしだ すけつね)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。参議吉田定経の長男。『平家物語』の作者にも擬せられている。.

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堀川具実

堀川 具実(ほりかわ ともざね)は鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。大納言・堀川通具の次男。岩倉内大臣と号す。.

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堀川通具

堀川 通具(ほりかわ みちとも)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の人物。公卿、歌人。正二位大納言。堀川大納言と号す。内大臣右大将源通親の次男。堀川家の祖。.

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大中臣能隆

大中臣 能隆(おおなかとみ の よしたか)は平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。伊勢神宮祭主。大中臣親隆の三男。伊勢神宮祭主を28年にも亘って務め、朝廷幕府双方と良好な関係を築いた。.

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大炊御門家嗣

大炊御門 家嗣(おおいのみかど いえつぐ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、右大臣・大炊御門師経の子。官位は正二位・内大臣・右近衛大将。嵯峨と号す。.

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大炊御門師経

大炊御門 師経(おおいのみかど もろつね)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の子。官位は右大臣・正二位。大炊御門家4代当主。.

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大炊御門冬忠

大炊御門 冬忠(おおいのみかど ふゆただ、建保6年(1218年) - 文永5年9月9日(1268年10月16日))は、鎌倉時代中期の公卿。主に後堀河天皇(86代)から亀山天皇(90代)の五朝にわたって仕えた。内大臣正二位。大炊御門または香隆寺と号す。父は内大臣大炊御門家嗣。母は持明院基宗の娘、従三位宗子。異父兄は滋野井公光。妻は藤原長宗の娘、二条資季の娘。子に太政大臣大炊御門信嗣がいる。 寛喜3年(1231年)に叙爵。侍従・周防介・左近衛少将・左近衛中将を経て、暦仁2年(1238年)に従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言・権大納言を経て、建長2年(1250年)に正二位、弘長元年(1261年)に大納言、右近衛大将となった。さらにその翌年に左近衛大将。文永2年(1265年)から文永4年(1267年)の間には内大臣となった。しかし文永5年(1268年)には腫物・痢病により出家し、以降は香隆寺入道と称されるようになった。同年のうちに薨去。享年51。.

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大日本史

『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.

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天子摂関御影

天子摂関御影(てんしせっかんみえい)は、平安時代後期から鎌倉時代に及ぶ天皇・摂関・大臣の肖像を描き連ねた画巻(絵巻)。似絵の主要作品の1つ。曼殊院門跡に伝来したが、明治11年(1878年)皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。全4巻。各巻ともに紙本着色で、縦幅は約29cm。天皇摂関大臣影(てんのうせっかんだいじんえい)とも。.

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天皇の一覧

天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.

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天皇陵

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵) 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。.

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天福 (日本)

天福(てんぷく)は、日本の元号の一つ。貞永の後、文暦の前。1233年の期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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太上天皇

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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姉小路実尚

姉小路 実尚(あねがこうじ さねなお、1211年 - 没年不明)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の三男。.

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姉小路実世

姉小路 実世(あねがこうじ さねよ)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の長男。姉小路家2代当主にあたる。.

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姉小路実文

姉小路 実文(あねがこうじ さねふみ。生没年不明)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の次男。.

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姉小路公宣

姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は鎌倉時代初期の公卿。左大臣・三条公房の次男。姉小路家の祖。初名は公信。姉小路に住み姉小路大納言と号す。.

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宮内庁治定陵墓の一覧

宮内庁治定陵墓の一覧(くないちょうじじょうりょうぼのいちらん)では、宮内庁が治定する陵墓の一覧を示す。.

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守貞親王

守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。.

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安貞

安貞(あんてい)は、日本の元号の一つ。嘉禄の後、寛喜の前。1227年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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寛喜

寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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寛喜新制

寛喜新制(かんぎしんせい)とは寛喜3年11月3日(1231年11月28日)に制定された新制。全42条。建久新制・文永新制と並んで「三代制符」の1つとされる。.

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尊号

尊号(そんごう)とは、君主およびその祖先とその一族、貴族や高僧など、その国家や社会においてその遺徳の顕彰や哀悼の祈念を込めて贈られる尊称のこと。.

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尊性法親王

尊性法親王(そんしょうほっしんのう).

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尊性法親王 (鎌倉時代)

尊性法親王(そんしょうほつしんのう、建久5年(1194年)-延応元年9月3日(1239年10月1日))は、鎌倉時代の法親王。守貞親王(後高倉院)の第一皇子で、母は持明院基子(北白河院)。後堀河天皇の同母兄にあたる。通称は綾小路宮。 承元3年(1209年)3月に出家して、妙法院の実全の元に入る。後に一身阿闍梨・権大僧都になる。承久3年(1221年)に弟の後堀河天皇の即位に伴って親王宣下を受け、貞応2年(1223年)に二品親王となる。実全から譲り受けた綾小路房を綾小路小坂殿と称する御所とした。 嘉禄元年(1225年)、慈円(九条家出身)が没すると彼が持っていた四天王寺別当の後継問題が浮上した。延暦寺(山門)は慈円の甥である良快(九条兼実の子)を推挙し、園城寺(寺門)は慈円の大甥である良尊(九条良経の子、良快の甥)を推挙して争った。ところが、後堀河天皇は両方の要求を斥けて自分の兄である尊性を後任に補任したのである。続いて、安貞元年(1227年)には天台座主に補任されている。 寛喜元年(1229年)、尊性が延暦寺の内紛から天台座主を辞退すると、かねてから尊性の別当補任に不服を抱く四天王寺の僧侶が尊性の排除を図って放火未遂を起こし、更に同寺の絵解法師が同寺の仏舎利を奪って失脚を図ろうとした。同寺の混乱は寛喜3年(1231年)に山場を迎えた。藤原定家の日記『明月記』の同年9月3日条にその様子が詳しく書かれており、関白の九条教実(良快にとっては大甥、良尊にとっては甥)が四天王寺の混乱を鎮圧するように鎌倉幕府に要請したところ四天王寺が戦場になって被害が出るのを恐れた幕府がこれを断って尊性が一旦辞退してほとぼりが冷めた後に復帰する案を出したこと、それを聞いた尊性は教実の父で当時の朝廷の最高実力者であった九条道家(良快にとっては甥、良尊にとっては兄)が自分を辞めさせるために幕府に進言していると疑ったこと、これに対して道家は良快も良尊も自分の身内でありどちらにも味方できないのに(尊性続投が望ましいのに)疑われる事態になって困惑している状況が記されている。最終的には尊性は12月13日になって幕府の意向に沿う形で良快に譲ることになった。 ところが、翌貞永元年(1232年)2月に入ると関白九条教実と六波羅探題北条重時の間で尊性を天台座主に復帰させることが協議されて本人も受諾、天福元年(1233年)には四天王寺別当に再任されている。尊性は後堀河天皇の兄であることから、天皇及び天皇を支持する鎌倉幕府・六波羅探題に対して積極的な政治工作を行って自らに有利な立場を築くことに努めた。特に自らの拠点であった妙法院の立て直しに尽力し、同院を天台宗の有力門跡に育て上げた。尊性が弟の後堀河天皇に充てた自筆書状103通は法親王の薨去後にそれらを裏紙にして法華経を摺り写したことから、紙背文書として現存している(重要文化財「尊性法親王消息飜摺法華経」として南真経寺・北真経寺が共有)。尊性が幕府と密接でなおかつ自身も一定の武力を持つ権門の一員であったことは、藤原定家が彼を「兵を好む」と評している(『明月記』天福元年2月20日条)ことからもうかがえる。また、琵琶の達人でもあった。 暦仁元年(1238年)、天台座主を退き、翌延応元年(1239年)に46歳で薨去した。.

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尾張兼時

尾張 兼時(おわり の かねとき、生没年不詳)は、平安時代中期の官人・楽人。官職は左近衛将監。.

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山陵志

『山陵志』(さんりょうし)は、江戸時代後期に蒲生君平が著した書物で、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料である。 特に、この書物の中では「宮車説」を記している。.

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岡屋関白記

岡屋関白記(おかのやかんぱくき)は、鎌倉時代の関白近衛兼経の日記。 宇治にあった別業「岡屋殿(おかのやどの)」に居住していたことに由来する。散逸が激しく、貞応元年(1222年)から建長3年(1251年)のうち、一部分が残るのみである。特に自筆本は陽明文庫所蔵の建長元年(1249年)春の部分のみである。貞永元年(1232年)冬の部分は後堀河天皇の譲位について書かれていることで知られている。 Category:鎌倉時代の日記 Category:13世紀の書籍.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中山兼宗

中山 兼宗(なかやま かねむね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。内大臣・中山忠親の長男。官位は正二位・按察使、権大納言。中山家2代。.

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中御門流

中御門流(なかみかどりゅう)は、藤原北家の流れを汲む公卿の一門。御堂流摂政藤原道長の子・右大臣頼宗の子孫。松木家(中御門家)を宗家とする。.

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中納言局

中納言局(ちゅうなごんのつぼね).

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中納言局 (平知盛の娘)

中納言局(ちゅうなごんのつぼね、治承5年(1181年) - ?)は、鎌倉時代前期の女官。平家一門の平知盛の娘。母は治部卿局。後堀河天皇の内裏女房。藤原範茂の妻。子に範継、女子(藤原隆親妻、のちに離別)。 治承・寿永の乱の最中に誕生し、間もなく生家である平家一門は安徳天皇を擁して都を落ちる事となり、父母と共に西走した。兄知章や父知盛は合戦の中で討ち死に・自害を遂げ、母治部卿局は生き延びて娘と供に都へ戻った。建久7年(1196年)、同母兄の知忠が謀反を起こして梟首されている。 承久3年(1221年)6月の承久の乱では、夫範茂が後鳥羽上皇方の首謀者として処刑された。16歳であった子の範継は助命された。 乱の後、鎌倉幕府の意向により、母治部卿局が乳母を務めた後高倉院の子である後堀河天皇が擁立される。中納言局は後堀河天皇の内裏女房として仕え、『明月記』(嘉禄元年(1225年)5月13日条)に「権勢の女」と記されている。.

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中院通成

中院通成(なかのいん みちなり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。中院、または三条坊門と号す。大納言源通方の子。中院家2代当主。.

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中院通方

中院 通方(なかのいん みちかた)は、鎌倉時代前期の公卿、故実家で歌人。正二位・源通親の五男。中院家の祖とされている。土御門通方とも。.

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三左衛門事件

三左衛門事件(さんさえもんじけん)は、源頼朝急逝直後の正治元年(1199年)2月、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件。「三左衛門」とは、捕らえられた後藤基清、中原政経、小野義成がいずれも左衛門尉であったことに由来する。.

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三条実平

三条 実平(さんじょう さねひら)は鎌倉時代前期の公卿。非参議正三位左中将。太政大臣三条公房の二男。母は内大臣中山忠親の娘。右大臣に至った三条実親の同母弟である。.

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三条実親

三条 実親(さんじょう さねちか)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。従一位右大臣。白川、又は後三条と号す。太政大臣三条公房の長男。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条公俊

三条 公俊(さんじょう きんとし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。三条家(転法輪三条家)3代、左大臣・三条実房の子。官位は従二位・非参議。.

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三条公親

三条 公親(さんじょう きんちか)は鎌倉時代の公卿。後三条入道内府または白川前内府と号す。正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の女。.

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三条公泰

三条公泰(さんじょう きんやす)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権中納言。右大臣三条実親の二男。母は太政大臣西園寺公経の娘。内大臣三条公親の同母弟である。子には共に参議に至った実盛と実永、権中納言に至った公雅、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、女子(後二条天皇後宮、祐助法親王母)がいる。.

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三条公房

三条 公房(さんじょう きんふさ、治承3年(1179年) - 建長元年8月16日(1249年9月23日))は鎌倉時代の公卿。左大臣・三条実房の長男。官位は従一位・太政大臣。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。.

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三条有子

三条 有子(さんじょう ゆうし、藤原 有子(ふじわら の ゆうし)、建永2年(1207年) - 弘安9年2月6日(1286年3月2日))は、鎌倉時代の後堀河天皇の皇后。三条后。女院号は安喜門院(あんきもんいん)。.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一条実有

一条 実有(いちじょう さねあり)は、鎌倉時代前期の公卿。父は准三宮西園寺公経。清水谷家祖。正二位権大納言左近衛大将。一条を号す。子の公持と公藤は共に正二位権大納言に至った。.

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九条基家

九条 基家(くじょう もといえ)は、鎌倉時代中期の公卿・宮廷歌人。正二位内大臣。後九条内大臣、または鶴殿と号す。摂政太政大臣九条良経の三男。九条道家の異母弟。.

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九条しゅん子

九条 竴子(くじょう しゅんし/よしこ、承元3年旧5月22日(1209年6月25日)- 天福元年旧9月18日(1233年10月22日))は、鎌倉時代の后妃、国母、女院。後堀河天皇の中宮で、四条天皇と皞子内親王の母。女院号は藻璧門院(そうへきもんいん)。父は摂政関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経女・掄子(綸子)。摂政関白左大臣九条教実、二条家の祖となった関白左大臣二条良実、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経、一条家の祖となった摂政関白左大臣一条実経らは同母弟にあたる。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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九条教実

九条 教実(くじょう のりざね、承元5年1月5日(1211年1月21日) - 文暦2年3月28日(1235年4月23日))は、鎌倉時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。通称に洞院摂政(とういん せっしょう)、洞院殿など。.

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平知盛

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。.

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平頼盛

平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。.

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久我通平

久我 通平(こが みちひら)は、鎌倉時代前期の公卿。源氏で2人目の太政大臣となった久我通光の長男。母は権大納言藤原宗頼の娘。.

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久我通忠

久我 通忠(こが みちただ)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・久我通光の次男。官位は正二位大納言右近衛大将。久我右大将と号す。.

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久我通光

久我 通光(こが みちてる)は、鎌倉時代前期の公卿・歌人。内大臣・源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受ける事になった。範子の連れ子で異父姉の承明門院が土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられている。官位は従一位・太政大臣。後久我太政大臣と号す。新三十六歌仙の一人。.

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二条定輔

二条 定輔(にじょう さだすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。坊門中納言藤原親信の長男。母は官女半物阿古丸。官位は正二位権大納言、大宰権帥。二条大納言、また二条帥入道と号す。初名は親輔。妙音院相国藤原師長の琵琶の高弟として知られる。.

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二条為氏

二条 為氏(にじょう ためうじ)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。藤原北家御子左家の嫡流で、権大納言藤原為家の長男。和歌の家である二条家(二条派)の祖。.

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二条良実

二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。.

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広橋経光

広橋経光(ひろはし つねみつ)は、鎌倉時代中期の公卿。勘解由小路 経光とも。正二位民部卿、権中納言。日記『民経記』の記者。勘解由小路と号す。勘解由小路中納言藤原頼資の長男。母は従五位下源兼資の娘。.

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広橋頼資

広橋 頼資(ひろはし よりすけ)は、鎌倉時代前期の公卿。権中納言藤原兼光の五男。民部卿藤原光範の後を継いだとされる。広橋家の祖。四辻・勘解由小路とも称する。 儒学に明るく、近衛家に近い立場を取った。元仁元年12月17日(1225年1月27日)に参議に任ぜられ、翌年に権中納言に昇る。嘉禎元年11月7日(1235年12月18日)に出家して翌年に薨去した。熊野信仰に厚く、承元4年(1210年)・建保4年(1216年)・寛喜元年(1229年)の参詣などは日記『頼資卿記』に詳細に残されているほか、公私合わせて20回以上の熊野参詣が知られている。.

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五代帝王物語

『五代帝王物語』(ごだいていおうものがたり)は、鎌倉時代後期に書かれた編年体の歴史物語。『五代記』・『五代王記』・『五代帝王記』などの異名がある。作者は未詳である。 題名の「五代」とは、後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山の各天皇を指す。『六代勝事記』の後を継ぐ形式で執筆されているが、実際には最初の2代の天皇の記事が少なく、最後の亀山天皇の記事も後嵯峨法皇の葬儀に関する一連の行事とともに終えていることから、後嵯峨天皇(法皇)の側近による作品だと言う説もある。また、のちに伏見天皇となる熈仁親王の存在(後深草天皇の子、亀山天皇の皇太子(後宇多天皇)の即位後、後深草上皇の働きかけで皇太子に立てられた)を知りながら、その存在を過小に書いていることから、著者を亀山天皇とその子孫である大覚寺統を支持していたと見る向きもある。 なお、のちに『増鏡』が執筆された折に『五代帝王物語』を参照して描かれたと考えられる部分が存在する。 Category:歴史物語 Category:鎌倉時代の歴史書 Category:鎌倉時代の文学.

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五辻雅継

五辻 雅継(いつつじ まさつぐ)は鎌倉時代初期の公卿。非参議正三位。中納言五辻家経の二男。母は権大納言藤原成親の娘。.

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仁科神明宮

仁科神明宮(にしなしんめいぐう)は、長野県大町市にある神社。1872年(明治5年)より郷社、1876年(明治9年)より府県社、1893年(明治26年)より県社となる。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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伏見天皇

伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。 後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。.

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似絵

似絵(にせえ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語。.

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体子内親王

体子内親王(たいし ないしんのう、寛喜3年(1231年) - 正安3年旧12月17日(1302年1月16日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族。後堀河天皇の第二皇女で、母は持明院家行の娘。女院号は神仙門院(しんせんもんいん)。正字体は體子內親王。 建長8年(1256年)2月6日、内親王宣下。2月7日には准后、即日女院となり、神仙門院と号した。弘長元年12月28日(1262年1月20日)に出家して妙智覚と号した。71歳で崩御。 『増鏡』第十「老いの波」には、後嵯峨天皇との間に生まれた皇女がおり、その皇女は弘安4年(1281年)夏に薨去したことが語られている。「後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり」とあり、皇女は後嵯峨天皇に鍾愛されていたと記されているが、『増鏡』以外の当時の諸記録にはこの皇女のことは記されていない。このため、体子内親王と後嵯峨天皇との関係は公的な入内ではなく、いわゆる私通だったと考えられる。なおこの皇女の死は乳母子との子を妊娠、流産したことによるものとあるので、弘安4年時点で皇女は成人に達していたとも考えられる。.

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御師 (音楽)

御師(おんし)とは、天皇や皇太子・太上天皇他諸皇族に楽器演奏など音楽を教えた者のこと。 史料によっては「御師」の他に「御〇〇師」(〇〇は楽器名)、「御師匠」「御師範」「侍読」などが別称として、用いられた。なお、「侍読」の語は音楽が儒学などの学問と同一に扱われていたことによると思われる。 日本の天皇は代々楽器の演奏を好まれたが、その背景には中国の礼楽思想の影響があったこととに加え、儀式や宴会の場で楽人だけでなく貴族の中にも楽器を嗜む者が多く、彼らとの交流の必要性から天皇自らが楽器の習得に励んだとみられている。ただし、奈良時代の天皇は楽人らの曲を「見る」側にいることが多く、天皇の演奏に関して具体的に知られるようになるのは桓武天皇以降のことになる。嵯峨天皇は琴・笛・琵琶のいずれも通じたとされ、以降の天皇は主に琴を重んじたが、円融・一条天皇が笛の達人として知られて以降は笛が重んじられた。後鳥羽天皇以降は琵琶が、両統迭立期には持明院統では琵琶が大覚寺統では笛が重んじられ、後光厳天皇以降は笙が重んじられた豊永聡美「後光厳天皇と音楽」(初出:『日本歴史』567号(1998年)/所収:豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P130-151)。なお、後醍醐天皇は音楽面でも皇統の統一を意図して笛だけでなく琵琶の習得を励んだとされ、後光厳天皇は持明院統の嫡流である兄・崇光天皇流(伏見宮家)に対抗するために琵琶ではなく笙を習うという政治的意図があったことも指摘されている。 平安時代前期より天皇が演奏に優れた貴族から琴や笛を学ぶことはあったが、楽器演奏の習得が帝王学の一部として組み込まれると、平安時代後期の堀河天皇以降幼帝もしくは皇子の教育の一環として「御楽始」の儀式が行われ、その際に楽器演奏を教える御師の任命が行われるようになった。 御師には大きく2種類あった。1つは正式な御師として、御楽始の儀の際に宣旨や院宣によって任命され、病気や死去などで務められなくなるまで長期にわたって楽器演奏を教授した(御師が空席になった場合には後任が任じられる形となる)。天皇に教授する立場上、(できるだけ高貴な)昇殿が可能な殿上人であることが望まれ、堀河天皇の笛の御師として最初に任じられた源政長は当時の摂政藤原師実の側近であった。鎌倉時代には西園寺実宗が守貞親王(皇位には就かなかったが、後に後堀河天皇の実父として太上天皇となる)の琵琶の御師になり、曾孫の西園寺公相は後深草天皇の琵琶の御師に任じられ、以後の西園寺家は関東申次と琵琶の御師を兼ねて政治面のみならず文化面でも大きな影響力を行使した。もう1つは天皇や太上天皇が特定の人物のみが知る秘伝の曲の伝授を希望した場合や自身の御師が属する流派以外の曲の伝授を希望した場合に宣旨や院宣によって一時的に御師の待遇を受ける者、言うなれば「正式な御師」に対する「特別な御師」と称すべき人である。こちらは殿上人ではなく地下人の楽人であっても任じられる可能性があった(その際に昇殿も合わせて許されることになる)。鎌倉時代後期の後嵯峨天皇の頃からこうした特別な御師が増加することになる。 この他に本来であれば天皇に近づけない地下人の楽人が北面武士などの天皇に近侍する資格を持って非公式に天皇に対して教授した者がいた。こうした者は本来御師には数えられないが、説話物や後世の編纂物によって御師の扱いをされ、また現実においても前述のように鎌倉時代後期には地下人の楽人であっても特別な御師に選ばれるようになり、後光厳天皇の時代には本来琵琶の御師を務めるべき西園寺実俊の代わりに彼の推挙する縁戚の地下官人(琵琶西流師範家)藤原孝経が正式な御師を務めることになり、同じく新たに導入された笙の御師には同じく地下出身の豊原龍秋が任じられた。 古くはなるべく貴顕であることが望まれた御師に地下人が選ばれる背景としては、天皇自らが主体的に音楽を習得する風潮が強まるにつれて、音楽の演奏・教授を家業とする重代の楽家が重んじられ、その対象となる楽家が堂上家のみならず、地下家にまで広がっていったことによって可能になったとみられている。また、堂上家の中でも代々琵琶の御師を務めた西園寺家の楽統が同家と分家の今出川家に分裂して家業が停滞したのに対し、むしろ秘説の伝授を受けた天皇や太上天皇の方が次の天皇や殿上家の当主に伝授する現象が起き始めていたことも、殿上家が御師の立場を維持できなくなった一因と考えられる(光厳天皇は父の後伏見上皇から直接琵琶の秘曲の伝授を受けて、それを崇光天皇や側近の正親町忠季に伝授している。また、崇光天皇も忠季や今出川公直に秘曲を伝授している)。.

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徳大寺実基

徳大寺 実基(とくだいじ さねもと)は、 鎌倉時代中期の公卿。従一位太政大臣。徳大寺相国、又は水本太政大臣と号す。左大臣徳大寺公継の次男。母は白拍子の五条夜叉。.

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徳大寺公継

徳大寺 公継(とくだいじ きんつぐ、安元元年(1175年) - 嘉禄3年1月30日(1227年2月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。後鳥羽天皇(82代)・土御門天皇(83代)・順徳天皇(84代)・仲恭天皇(85代)・後堀河天皇(86代)の五朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は公嗣。父は左大臣徳大寺実定。母は上西門院女房備後(『尊卑分脈』公継条)。室は三条実房の娘。子に太政大臣徳大寺実基、徳大寺実嗣がいる。野宮左大臣と号す。日記に『宮槐記』がある。 寿永2年(1183年)12月に叙爵して以降累進して、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将などをへて、建久元年(1190年)参議となり、公卿に列する。公継の兄二人は早世し、自身も病気がちとなった父の実定が自身の左大臣辞任と引き換えに残された公継の参議任官を後白河法皇や九条兼実らに乞うて認められたものという。建久6年(1195年)後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となる。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などをへて、建仁2年(1202年)には皇太子守成親王(のちの順徳天皇)の春宮権大夫となる。同年、正式な中納言となる。元久元年(1204年)に権大納言、さらに建永元年(1206年)大納言となった。さらに正式な春宮大夫となる。承元元年(1207年)右近衛大将に任じられる。承元3年(1209年)、正二位内大臣となる。承元4年(1210年)に右近衛大将を辞し、建暦元年(1211年)右大臣となり、建保3年(1215年)に辞職した。承久3年(1221年)に更任、貞応3年(1224年)、一上となし、ついで左大臣に任じた。嘉禄元年(1225年)、従一位に叙され、同3年(1227年)、薨じた。 『古今著聞集』の情報源として、徳大寺公継のサロンが大きく関わっていたと言われている。.

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後堀河院民部卿典侍

後堀河院民部卿典侍(ごほりかわいんのみんぶきょうのすけ、1195年(建久6年)- 没年不詳)は、鎌倉時代前期の歌人である。藤原定家の娘、藤原因子(ふじわらのいんし/よるこ)。母は藤原実宗の娘。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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待宵の小侍従

小侍従の顕彰碑(中央)と供養塔(右奥)- 大阪府三島郡島本町 小侍従(こじじゅう、生没年不詳:1121年(保安2年)頃 - 1202年(建仁2年)頃)は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。女房三十六歌仙の一人。石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。太皇太后藤原多子の女房として出仕したため太皇太后宮小侍従あるいは大宮小侍従と呼ばれ、また『平家物語』等に記されたエピソードから待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)として知られる。『源平盛衰記』では、高倉天皇の在位中は阿波の局と名乗っていたとする。.

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土御門定通

土御門 定通(つちみかど さだみち)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。源通親の四男。村上源氏土御門家の祖。.

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土御門顕定

土御門 顕定(つちみかど あきさだ)は鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。土御門定通の長男。父は後嵯峨天皇の擁立者であり、顕定も後嵯峨天皇に親しく仕えるが官職の不満から出家し、天皇を大いに歎息させた。.

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土御門顕親

土御門 顕親(つちみかど あきちか)は、鎌倉時代前期から中期の公卿。源定通の二男。.

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土御門通行

土御門 通行(つちみかど みちゆき)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権大納言。内大臣源通親の六男。母は承明門院尾張。初名は通継。 妻は正三位侍従源師季の娘。子には参議に至った土御門通持がいる。.

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土御門通持

土御門 通持(つちみかど みちもち)は鎌倉時代中期の公卿。参議、従二位。父は権大納言土御門通行、母は正三位侍従源師季の娘。子には共に参議に至った通尚と通宣の他、実性、顕空、顕豪、実顕、信顕、道縁、定誉がいる。.

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北畠雅家

北畠 雅家(きたばたけ まさいえ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。北畠家の祖。大納言・源通方の子。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

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園基氏

園 基氏(その もとうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。権中納言・持明院基家の三男。園家の祖。初名は家教。若くして辞官出家したがその後も行事等にて包丁芸を披露する事があり、園の別当入道と称された。官位は参議・正三位、右兵衛督、検非違使別当。.

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園家

園家(そのけ)は、日本の氏族。公家・華族の家柄。公家としての家格は羽林家。華族としての家格は伯爵家だった。藤原北家持明院の庶流。家業は雅楽、神楽(琵琶)、生花。生花は青山流(青山御流、園家御家流、青山御家御流とも)宗家である。家紋は、杏葉(ぎょうよう)。.

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ワサビ

ワサビ(山葵)は、アブラナ科ワサビ属の植物。日本原産。食用。 強い刺激性のある香味を持つ。.

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利子内親王

利子内親王(としこないしんのう、建久8年(1197年) - 建長3年旧1月2日(1251年1月25日))は、鎌倉時代の皇族。伊勢斎宮、四条天皇の准母・皇后宮、女院。院号は式乾門院(しきけんもんいん)。法名は真性智。父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家女・持陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母妹に邦子内親王(安嘉門院)がいる。.

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嘉禄

嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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やぐら

やぐらは、鎌倉の周辺で鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。 現在では土砂崩れや宅地開発で潰れたものも多く、残ったやぐらも風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華であった。火葬骨のほか多くの副葬品が収められていた。.

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冠嶺神社

冠嶺神社(さかみねじんじゃ)は、福島県南相馬市にある神社である。 陸奥国延喜式式内社百座のうち行方郡にある八座の一座である。鹿島区上栃窪と原町区信田沢に鎮座する二社が主な論社とされている。.

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円浄

圓淨(えんじょう、文治5年(1189年) - 建長8年4月19日(1256年5月15日))は平安時代後期から鎌倉時代中期にかけての天台宗の僧。近衛基通の子。円満院僧正と称された。 恒恵のもとで受戒し、円満院に入る。建仁2年(1202年)5月17日に権少僧都から権大僧都に昇進。その後権僧正に進み、安貞2年(1228年)11月、後堀河天皇の護持僧となる。貞永元年(1232年)10月2日、僧正に任ぜられ、園城寺の長吏となる。嘉禎2年(1236年)10月7日には四条天皇の護持僧に補され、寛元5年(1247年)平等院執印となった。建長8年(1256年)4月19日、68歳で入寂。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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八十島祭

八十島祭(やそしままつり/やそじままつり/やそじまのまつり、八十嶋祭/八十島神祭)は、平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として難波津で行われた祭祀。現在は廃絶している。.

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八条実俊

八条実俊(はちじょう さねとし)は鎌倉時代前期の公卿。非参議従三位。参議従二位藤原公清の長男。母は権大納言源資賢の娘。.

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六代勝事記

『六代勝事記』(ろくだいしょうじき、ろくだいしょうしき とも)は、日本の鎌倉時代前期に書かれた編年体の歴史物語である。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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元仁

元仁(げんにん)は、日本の元号の一つ。貞応の後、嘉禄の前。1224年の期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条泰時。.

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光徳寺 (柏原市)

光徳寺(こうとくじ)は、大阪府柏原市雁多尾畑にある真宗大谷派の寺院。 本堂は別称「雁林堂」(かりんどう)とも言い、「雁多尾畑」の地名の由来ともいわれる。  .

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勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).

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国母

国母(こくも/こくぼ)は、東アジアにおいて天皇や皇帝、国王の生母を指して用いられた呼称。また、「国の母」、「国民の母」の意で、皇后・王妃や国家指導者(国民の父)の配偶者等を指して使われることもある。.

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四辻実藤

四辻 実藤(よつつじ さねふじ)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・西園寺公経の四男。母は舞女(実材母として知られる)。官位は正二位・権大納言。薮内と号す。室は一条実有の娘、大外記中原師朝の娘等。子には共に参議に至った公重と実為、従二位に至った公行、公具、公有、公信、公秋、守誉、良圓、有助、良誉、女子、女子。.

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四条天皇

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.

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四条隆衡

四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら))は、鎌倉時代の公卿。藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。元名は長雅。正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。鷲尾大納言といわれる。.

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四条隆親

四条 隆親(しじょう たかちか)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿・歌人。大納言・四条隆衡の二男。官位は正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。.

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四条房名

四條 房名(しじょう ふさな)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。大納言・四条隆親の長男。.

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皇室の系図一覧

皇室の系図一覧(こうしつのけいずいちらん)では、日本の皇室(天皇および皇族)、並びに皇室を祖とする氏族に連なる人物のうち、日本史上の主要な人物を配した系図の一覧を示す。神話上の人物も、実在の人物とする説はあるので記載する。.

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皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

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玄輝門

平安京内裏諸門図 玄輝門(げんきもん)は、平安京内裏の内郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。「玄暉門」「宮北面僻仗内門」ともいった。.

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礼子内親王 (後鳥羽天皇皇女)

子内親王(れいし(いやこ)ないしんのう、正治2年(1200年) - 文永10年(1273年)8月2日)は、鎌倉時代前期の皇族。後鳥羽天皇の第三皇女、母は内大臣坊門信清女・坊門局。同母兄弟に道助入道親王、頼仁親王がいる。土御門・順徳両天皇朝賀茂斎院、のち女院。院号は嘉陽門院(かようもんいん)。 元久元年(1204年)6月23日、5歳で内親王宣下、准三宮、ならびに斎院に卜定。元久2年(1205年)4月28日、左近衛府へ初斎院入り。建永元年(1206年)4月19日、紫野院へ入る。建暦2年(1212年)9月4日、13歳で病により退下。建保2年(1214年)6月10日、院号宣下。承久2年(1220年)5月21日出家(戒師は同母兄道助入道親王)、法名は真如性。文永10年(1273年)8月2日、74歳の高齢で薨去。 幼少時は祖母・七条院殖子のもとで養育されたらしく、『業資王記』に七条院で「姫宮」の戴餅や御魚味祝を行った記録が見られる。斎院退下後は『明月記』によると四条壬生の御所にあり、後堀河天皇がしばしば行幸したことが知られ、また母方の坊門家の行事にも七条院らと共に臨幸していた。その後承久の乱で父・後鳥羽院と同母弟・頼仁親王は乱の後それぞれ隠岐国と備前国へ配流され、また母・坊門局(西御方)も後鳥羽院に同行したが、礼子内親王は京に留まり、嘉禎2年(1236年)頃は仁和寺御所にいたとの記録がある(『如願法師集』)。 なお承久の乱による混乱等のため、以後賀茂斎院は卜定されず廃絶、礼子内親王が歴代最後の斎院となった。.

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神宮式年遷宮

宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)のことである。.

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神積寺

積寺(じんしゃくじ)は、兵庫県神崎郡福崎町東田原にある天台宗の寺院。播磨天台六山の一つとされる。山号は妙徳山、本尊は薬師如来。通称は「田原文殊」。.

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秋夜長物語

『秋夜長物語(あきのよながものがたり)』は、僧侶と稚児との男色を主題とする稚児物語の代表作。男色本の初めとも言う。1巻。著者、成立年代ともに不詳。『庭訓往来』と同作という説もあるが不明。柳亭種彦は天正以前(16世紀後半)の古写本を持っていたと言う。 後堀河天皇の時代、瞻西上人がまだ叡山で桂海律師であったころ、花園左大臣の子三井寺聖護院の稚児梅若とちぎりをむすぶ。瞻西上人は実在したが、西行の『撰集抄』内の事実を潤色したものか。 刊本は次の4.

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粟田口良教

粟田口 良教(あわたぐち よしのり)は鎌倉時代中期の公卿。藤原良教とも。従一位、大納言、兵部卿。父は権大納言基良、母は従三位皇太后宮大夫藤原隆雅の娘。.

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紫式部日記絵巻

紫式部日記絵巻(むらさきしきぶにっきえまき)は、紫式部によって記された『紫式部日記』を元に制作された絵巻物。「紫式部日記絵詞」( - えことば)ともいう。.

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義経 (NHK大河ドラマ)

『義経』(よしつね)は、2005年1月9日から12月11日に放送された44作目のNHK大河ドラマである。原作は宮尾登美子で、脚本は金子成人が手掛けた。.

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随心院

藥医門 随心院(ずいしんいん・ずいしんにん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。.

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花山院定雅

花山院 定雅(かざんいん さだまさ)は鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・左近衛大将。花山院忠経の三男。粟田口入道右大臣、または後花山院入道前右大臣と号する。.

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花山院宣経

花山院 宣経(かざんいん のぶつね、建仁3年(1203年) - ?)は、鎌倉時代前期の公卿。五辻家経の三男。母は高階泰経の娘。伯父である花山院忠経の養子となる。.

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花山院忠経

花山院 忠経(かざんいん ただつね)は平安時代末期から鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・右近衛大将。花山院右大臣と号する。左大臣藤原兼雅の長男。.

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花山院通雅

花山院 通雅(かざんいん みちまさ)は、鎌倉時代中期の公卿。右大臣花山院定雅の長男。後花山院太政大臣と号す。.

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鎌倉時代の人物一覧

鎌倉時代の人物一覧では、鎌倉時代の主要な人物を一覧で示す。.

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道助入道親王

道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう、建久7年10月16日(1196年11月7日) - 宝治3年1月15日(1249年2月28日))は、鎌倉時代前期の入道親王。父は後鳥羽天皇、母は坊門信清の娘。名は長仁。.

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道尊 (以仁王王子)

道尊(どうそん、安元元年(1175年)‐安貞2年(1228年))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守高階盛章の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。 治承4年(1180年)父以仁王の挙兵に際して平家に捕らえられる。その後、宮の処置をめぐっては、平清盛と宗盛の間で紛糾したというが、旧皇族(以仁王は平家の圧力で「源以光」として臣籍降下させられていた)という出自もあり、死罪に処するわけにもいかず、結局仁和寺において出家させることとなった。殷富門院亮子内親王(後白河天皇第一皇女)は自らの御所を仏寺とした蓮華光院に道尊を引き取り養育したことから、同院の開基は道尊とされた。 建久4年(1193年)一身亜闍梨に補され、元久元年(1204年)5月法印に叙され、12月には権僧正に任じられる。建永元年(1206年)には東大寺別当、翌承元元年(1207年)7月には東寺長者。更に12月には仁和寺別当になった。建永3年(1209年)に僧正に就任した。承久3年(1221年)には大僧正に昇進した。安貞2年(1228年)8月に入寂した。土御門天皇・順徳天皇・後堀河天皇の3代に渡る護持僧を務めた。 category:平安時代の男性皇族 Category:鎌倉時代の男性皇族 Category:平安時代の僧 Category:鎌倉時代の僧 Category:真言宗の僧 Category:1175年生 Category:1228年没.

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菅原為長

菅原 為長(すがわら の ためなが)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。.

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衣笠家良

衣笠 家良/藤原 家良(きぬがさ/ふじわらの いえよし)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿、歌人。大納言・粟田口忠良の次男。衣笠内大臣(内府)と号す。新三十六歌仙の一人。.

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飛鳥井教定

飛鳥井 教定(あすかい のりさだ)は、鎌倉時代の公卿・歌人。参議・飛鳥井雅経の子。飛鳥井家2代当主。二条を号す。.

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褰帳

褰帳(けんちょう)は、即位、朝賀など大礼の時に高御座の御帳を褰げ開くこと、またはその役の女官のことで褰帳命婦の略である。帳上げ(とばりあげ)ともいう。.

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西園寺実材

西園寺実材(さいおんじ さねき)は鎌倉時代中期の公卿。正二位中納言。太政大臣西園寺公経の五男。母は『権中納言実材卿母集』の作者として知られる舞女(実材母として知られる)。権大納言四辻実藤の同母弟。.

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西園寺公基

西園寺 公基(さいおんじ きんもと)は、鎌倉時代の公卿。右大臣正二位。京極、または万里小路と号す。父は太政大臣西園寺実氏。弟に太政大臣西園寺公相がいる。姉西園寺公子は後深草天皇の中宮。.

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西園寺公経

小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.

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西園寺公相

西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。冷泉相国と号す。太政大臣西園寺実氏の二男。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。.

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西園寺倫子

西園寺 掄子(さいおんじ りんし、建久3年(1192年)-建長3年3月11日(1251年4月3日))は、鎌倉時代前期の摂関・九条道家の正室。父は太政大臣西園寺公経。母は一条能保の娘・全子。九条教実・二条良実・一条実経・九条頼経・円実・慈源・法助・九条竴子・九条仁子・九条佺子を生む。教実・良実・実経は摂関に、頼経は将軍に、法助は仁和寺門跡に、竴子は後堀河天皇中宮に、仁子は近衛兼経正室に、佺子は四条天皇(竴子の子)の尚侍となった。.

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覲子内親王

覲子内親王(きんしないしんのう、養和元年10月5日(1181年11月13日) - 建長4年6月8日(1252年7月15日))は、平安時代後期の皇族、女院。後白河天皇の第六皇女で、女院号は宣陽門院(せんようもんいん)。母親は高階栄子(丹後局)。.

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観音寺 (京都市東山区)

医聖堂 観音寺(かんのんじ)は、京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称される。山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。西国三十三所第十五番札所、神仏霊場巡拝の道(神仏霊場会)百二十二番(京都四十二番)霊場、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、泉山七福神巡り3番(えびす神)札所。.

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証空

証空(しょうくう・證空、治承元年11月9日(1177年11月30日) - 宝治元年11月26日(1247年12月24日))は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖。法然の高弟であり、はじめ解脱房、のちに善恵(善慧)房と号した。諡号は弥天、鑑知国師。一般には西山国師(せいざんこくし)あるいは西山上人という。 血はつながらないが、道化禅師の長兄にあたる。最近の研究によれば、叔父ともされる。.

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高倉天皇

倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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貞応

貞応(じょうおう)は、日本の元号の一つ。承久の後、元仁の前。1222年から1223年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時、泰時。.

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貞永

貞永(じょうえい)は、日本の元号の一つ。寛喜の後、天福の前。1232年の期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇、四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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鷹司院帥

鷹司院帥(たかつかさいんのそち、生没年不詳)は、鎌倉時代に活躍した歌人である。藤原北家高藤流右大弁藤原光俊(葉室光俊・法号真観)の娘。共に勅撰歌人である大僧都定円、尚侍家中納言(藤原親子)は兄弟姉妹。 鞘堂.

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鷹司院按察

鷹司院按察(たかつかさいんのあぜち、生没年不詳)は、鎌倉時代の歌人である。後鳥羽院側近として承久の乱により処刑された葉室光親の娘。葉室光俊(真観)や定嗣は、異母兄弟。兵衛督とも呼ばれた。.

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近衛家実

近衞 家実(このえ いえざね)は、鎌倉時代前期の公卿。関白近衛基通の一男で、母は坊城顕信の女・顕子。子には兼経・鷹司兼平などがいる。晩年六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことに因み、猪隈関白(いのくま かんぱく)と呼ばれた。.

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近衛家通

近衛 家通(このえ いえみち)は鎌倉時代初期の公卿。関白・近衛家実の長男。官位は正二位・左大臣。.

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近衛道経

近衞 道經(このえ みちつね)は、日本の平安時代から鎌倉時代にかけての公卿。.

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近衛長子

近衛 長子(このえ ながこ、建保6年(1218年) - 建治元年2月11日(1275年3月9日))は、鎌倉時代の女院。後堀河天皇の中宮。猪熊関白近衛家実の女。母は修理大夫藤原季信の女。女院号は鷹司院(たかつかさいん)。法号は蓮華性。.

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藤原基良

藤原基良(ふじわら の もとよし)は鎌倉時代前期の公卿。粟田口基良とも。正二位権大納言。葉川殿と号す。大納言藤原忠良の長男。母は権大納言滋野井実国の娘。子に良教、房教、教嗣、がいる。.

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藤原孝範

藤原 孝範(ふじわら の たかのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。藤原南家貞嗣流の文章博士・藤原永範の養子。実父は藤原北家の斎宮次官・藤原利永。官位は正四位下・大学頭。.

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藤原定季

藤原 定季(ふじわら の さだすえ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家道綱流、権大納言・藤原定能の次男。官位は正三位・非参議。.

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

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藤原家隆 (従二位)

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。.

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藤原宗平

藤原 宗平(ふじわら の むねひら)は鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。左近衛中将・藤原宗経の長男。.

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藤原仲経

藤原 仲経(ふじわら の なかつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。権中納言、正二位。坊門中納言藤原親信の二男。母は官女半物阿古丸。二条定輔の同母弟である。 兄定輔のように琵琶に秀でていたわけではなく、かといって弟親兼の子信成のように後鳥羽院から菩提を弔うよう仰せがあったりしたわけではない。一門が後鳥羽院政下で重用された一環として仲経も昇進できたと考えられる。.

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藤原公世

藤原公世(ふじわら の きんよ)は鎌倉時代の公卿。非参議従二位侍従。従三位八条実俊の二男。母は春華門院大進(佐々木判官定綱の娘)。山階左大臣洞院実雄の猶子。『尊卑分脈』には「箏一流正統」と注記がある。 全くの傍流に過ぎなかった公世であるが、長命であったこと(生年は不明だが、叙爵から死去まで75年であった)、箏に秀でていたことなどから従二位に至ったと考えられる。.

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藤原公清

藤原 公清(ふじわら の きんきよ)は平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。権大納言・滋野井実国の次男。八条または風早二位と号した。.

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藤原知家

藤原 知家(ふじわら の ともいえ)は、鎌倉時代前期の公家・歌人。藤原北家末茂流、正三位・藤原顕家の子。官位は正三位・中宮亮。大宮三位入道等とも呼ばれる。新三十六歌仙の一人。.

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藤原範継

藤原 範継(ふじわら の のりつぐ)は、鎌倉時代前期の貴族。従三位参議・藤原範茂の子。官位は従四位下・左馬頭。.

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藤原経通 (鎌倉時代)

藤原 経通(ふじわら の つねみち)は平安時代末期から鎌倉時代の公卿。正二位権大納言。高倉大納言と号す。父は権大納言按察使藤原泰通、母は権大納言藤原隆季の娘。子は氏通、成恵、女子(藤原高実の室)がいる。家門として氏通以後は続かなかった。.

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藤原為家

藤原 為家(ふじわら の ためいえ)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。.

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藤原隆祐

藤原 隆祐(ふじわら の たかすけ)は鎌倉時代前期から中期にかけての貴族、歌人。歌人として名を挙げた従二位・藤原家隆の子。はじめ歌人として将来を嘱目されたが、宮廷歌壇では恵まれずに大成しなかった。.

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藤原資季

藤原 資季(ふじわら の すけすえ)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。二条資季とも。藤原北家道綱流、左中将・藤原資家の長男。官位は正二位権大納言。二条と号す。.

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藤原雅隆

藤原 雅隆(ふじわら の まさたか)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・藤原光隆の長男。.

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藤原殖子

藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日(1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号は七条院(しちじょういん)。.

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藤原有子

藤原 有子(ふじわら の ゆうし、ふじわら の ありこ).

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藤原有能

藤原 有能(ふじわら の ありよし)は鎌倉時代の公卿。従三位・藤原範能の子。.

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藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。.

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藤原房教

藤原 房教(ふじわら の ふさのり)は、鎌倉時代中期の公卿。葉川殿と称す。非参議正二位侍従。権大納言藤原基良の二男。母は皇后宮大夫藤原隆雅の娘。従一位粟田口良教の同母弟。子には房通、房家らがいる。.

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藻璧門院少将

藻璧門院少将(そうへきもんいんの しょうしょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期に活躍した女流歌人。新三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人。勅撰歌人・藤原信実の次女。弁内侍(後深草院弁内侍)と後深草院少将内侍の姉にあたる。 朝を告げる雄鶏の鳴き声に一夜を共にした男女のしばしの別れのつらさを代弁させた「己が音」の恋歌が絶賛されたことでその名を馳せた。この代表作によって彼女は己が音の少将(おのがねの しょうしょう)の異名を取るにいたった。 なお二字目の「ヘキ」は「完璧」の「璧」(下のつくりが「玉」)が正しい字だが、「岸壁」の「壁」(下のつくりが「土」)を用いた「藻壁門院少将」とした文献も古来より非常に多く見られるため注意を要する少将が女房として仕えたことからその女房名の一部として用いられるようになった女院・藻璧門院の院号は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつ藻壁門(西中御門)の名称に由来するものだが、藻が絡みついた土壁を想わせるその字面は不気味で女院の院号としては不吉ではないかということで、あえて「壁」を別字ながら同音でしかも形もよく似た「璧」(意味は「宝石」)に差し替えたという経緯がある。したがって門の名称としては「藻壁門」正しく、女院の院号としては「藻璧門院」が正しい。そしてその女院に仕える女房が女院の院号を自らの通称に冠することで独自の呼称とした女房名も、やはり「藻璧門院少将」が正しい。しかし時代と筆写を重ねるごとに、草書体ではその判別が難しい「璧」と「壁」の二字は混同され、その結果数多くの権威ある文献においてすら藻璧門院少将の名は藻壁門院少将と記されて今日に伝わることになった。なお「藻壁」か「藻璧」かについては、そもそもその女院の院号定めの時から相当の混乱と混同があったことが藤原定家の日記『明月記』の中にも記されている(天福元年四月廿五日條)。→ 詳細は「九条竴子」項を参照。。.

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藻璧門院但馬

藻璧門院但馬(そうへきもんいんのたじま、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の歌人である。父は『新古今和歌集』の撰者の一人でもある勅撰歌人の源家長『新古今和歌集』に3首、『新勅撰和歌集』に8首、『続後撰和歌集』に7首、『続古今和歌集』に2首、その他の勅撰集に計15首、都合35首が勅撰集に入集している。、母はやはり勅撰歌人の後鳥羽院下野『新古今和歌集』に2首、『新勅撰和歌集』に2首、『続後撰和歌集』に6首、『続古今和歌集』に6首、その他の勅撰集に計14首、都合30首が勅撰集に入集している。。 なお、二字目の「ヘキ」は「完璧」の「璧」(下のつくりが「玉」)が正しい字だが、「岸壁」の「壁」(下のつくりが「土」)を用いた「藻壁門院但馬」とした文献も古より非常に多く見られるため注意を要する但馬が女房として仕えたことからその女房名の一部として用いられるようになった女院・藻璧門院の院号は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつ藻壁門(西中御門)の名称に由来するものだが、藻が絡みついた土壁を想わせるその字面は不気味で女院の院号としては不吉ではないかということで、あえて「壁」を別字ながら同音でしかも形もよく似た「璧」(意味は「宝石」)に差し替えたという経緯がある。したがって門の名称としては「藻壁門」正しく、女院の院号としては「藻璧門院」が正しい。そしてその女院に仕える女房が女院の院号を自らの通称に冠することで独自の呼称とした女房名も、やはり「藻璧門院但馬」が正しい。しかし、時代と筆写を重ねるごとに、草書体ではその判別が難しい「璧」と「壁」の二字は混同され、その結果数多くの権威ある文献においてすら藻璧門院但馬の名は藻壁門院但馬と記されて今日に伝わることになった。なお、「藻壁」か「藻璧」かについては、そもそもその女院の院号定めのときから相当の混乱と混同があったことが藤原定家の日記『明月記』の中にも記されている(天福元年四月廿五日條)。→ 詳細は「九条竴子」項および「藻璧門院少将」項を参照。。.

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葉室光俊

葉室 光俊(はむろ みつとし、1203年(建仁3年) - 1276年7月21日(建治2年6月9日))は、鎌倉時代に活躍した歌人である。新三十六歌仙の一人。父は藤原北家高藤流権中納言葉室光親。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。同腹の兄に後嵯峨院の院司葉室定嗣がいる。子に大僧都定円、娘に尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。.

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邦子内親王

邦子内親王(くにこないしんのう、承元3年(1209年) - 弘安6年9月4日(1283年9月26日))は、鎌倉時代の皇族、女院。後堀河天皇准母、皇后宮。院号は安嘉門院(あんかもんいん)。法名は正如覚。父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家の女・御息所陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母姉に利子内親王(式乾門院)がいる。 八条院領の大部分を含む膨大な荘園群を父から譲られ成立した安嘉門院領は、この後亀山院、後宇多院、昭慶門院(憙子内親王)を経て、後醍醐天皇に伝わった。.

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長講堂領

長講堂領(ちょうこうどう りょう)は、中世荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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暉子内親王

暉子内親王(きしないしんのう、安貞2年(1228年) - 正安2年5月3日(1300年5月22日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族。後堀河天皇の第一皇女で、母は持明院家行の娘(『女院小伝』)、異説に九条竴子(『本朝皇胤紹運録』)。幼名は持明院宮。女院号は室町院。 歴代の女院中、不婚で后妃にも准母にもならなかった内親王が女院とされた唯一の例である。.

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東大寺の歴史

この項目では東大寺の歴史(とうだいじのれきし)について解説する。東大寺は、奈良県奈良市にあり、現在では華厳宗の大本山の、奈良時代から続く歴史ある大寺院である。奈良の大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ)があることで有名である。.

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正親町三条実蔭

正親町三条実蔭(おおぎまちさんじょう さねかげ)は鎌倉時代初期の公卿。参議従三位備中権守。初名は実茂。父は三条大納言正親町三条公氏、母は按察使藤原泰通の娘。子には公貫、公行、公蔭、公種がいる。.

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正親町三条公氏

正親町三条公氏(おおぎまちさんじょう きんうじ)は、鎌倉時代の公卿。正二位権大納言。三条大納言と号す。左大臣三条実房の三男で、正親町三条家の祖。三条の他、嵯峨および西郊とも称す。兄に三条公房、姉小路公宣らがいる。子に正親町三条実蔭等。 なお、明治維新後に正親町三条家は本家の三条家(転法輪三条家)と区別するために家名を「嵯峨」と改称したが、これは公氏の別号に由来している(公氏のもうひとつの別号である西郊を称する公氏の子孫の公家もかつてあった)。.

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武田信時

武田 信時(たけだ のぶとき、承久2年5月17日(1220年6月19日) - 正応2年2月9日(1289年3月2日)「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信時項の傍注による。)は、鎌倉時代中期の武将。甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。 父は第6代当主・武田信政。母は大内惟義の娘と伝わる。兄弟に政綱(五郎三郎)。子に武田時頼、武田政頼、武田時綱、武田信実などがいる。.

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武臣政権

武臣政権(ぶしんせいけん、무신정권(ムシンヂョングォン)、武人政権とも書く)は、朝鮮半島における高麗王朝の統治下、1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間にわたり、国王や文臣ではなく武臣が朝廷の政治を掌握していた時代、およびその政権形態を指す。この期間のことを「武人時代(ぶじんじだい、ムインシデ)」ともいう。.

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水田天満宮

水田天満宮(みずたてんまんぐう)は、福岡県筑後市にある菅原道真を祭神とする神社(天満宮)。境内末社の恋木神社(こいのきじんじゃ)も縁結びの神社として有名。.

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水無瀬信成

水無瀬信成(みなせ のぶしげ/のぶなり)は鎌倉時代前期の公卿。参議正三位左中将。養父は権大納言坊門忠信。実父は権中納言藤原親兼。母は宜秋門院女房備前。妻は参議吉田定経の娘。長男である親成は終生無位無官であった。二男信氏は従四位下侍従に至った。他に子として任快、親源、信弁がいる。.

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河内十七箇所

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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治部卿局

治部卿局像 赤間神宮所蔵 治部卿局(じぶきょうのつぼね、仁平2年(1152年)- 寛喜3年9月11日(1231年10月8日))は、平安時代末期、鎌倉時代前期の女性。平知盛の正室。後高倉院(守貞親王)の乳母。子に平知章、平知忠、中納言局。.

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法性寺雅平

法性寺 雅平(ほっしょうじ まさひら)は、鎌倉時代中期の公卿。藤原北家室町家、正三位・室町家信の二男。官位は従二位・左近衛中将。.

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泉涌寺

泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。真言宗十八本山8番札所。洛陽三十三所観音霊場20番札所。京都十三仏霊場6番札所。泉山七福神巡り番外(楊貴妃観音)札所。.

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源師季

源 師季(みなもと の もろすえ)は、鎌倉時代前期の公卿。源定房の子である右少将・源定忠の子。官位は正三位・侍従・周防権守。 『尊卑分脈』には「赤松流」と注釈があり、その子孫として赤松家範・則村へと系譜が引かれていることから、播磨守護大名となった赤松氏の祖とする説がある。.

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源輔通

源 輔通(みなもと の すけみち)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。左近衛少将・源具親の子。.

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源雅具

源 雅具(みなもと の まさとも)は鎌倉時代前期の公卿。権中納言、正二位。本名は重能。父は正三位権中納言源兼忠、母は不詳。大納言源通具の子となる。 白河院、鳥羽院からの信頼が厚かった源雅兼の子孫である。雅兼、雅頼、兼忠、といずれも権中納言に至った。雅具も最終的には権中納言に至り家門を維持できたのであるが、父祖たちとは異なり、前半生はかなり不遇であった。 承元3年(1209年)1月13日、侍従に任ぜられる。この時、従五位上。建暦2年(1212年)11月11日、承明門院の御給により、正五位下に昇叙。承久2年(1220年)1月22日、左少将に任ぜられる。承久3年(1221年)1月13日、出雲介を兼ねる。同日、従四位下に昇叙。 同年閏10月、承久の乱により土佐国に配流となった土御門院に同行する。その後の動向は定かでないが、1231年の土御門院崩御後、1235年頃には中原師員の婿となり、勢いを得ていたという。 嘉禎3年(1237年)1月24日、従四位上に昇叙。暦仁2年(1239年)1月24日、治部卿に任ぜられる。仁治元年(1241年)11月12日、嘉陽門院の御給により正四位下に昇叙。仁治3年(1242年)6月16日、復任。寛元3年(1245年)6月26日、62歳にして蔵人頭に補せられる。治部卿が蔵人頭に補せられることは極めて珍しかった。同年10月29日、従三位に叙せられる。治部卿は元の如し。寛元4年(1246年)2月23日、加賀権守を兼ねる。宝治2年(1248年)11月2日、治部卿から大蔵卿に遷る。 建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。建長3年(1251年)1月22日、遠江権守を兼ねる。建長4年(1252年)12月4日、権中納言に任ぜられる。建長5年(1253年)4月8日、従二位に昇叙。建長6年(1254年)1月13日、権中納言を辞し、代わりに息男右少将雅言を右少弁に挙任する。正嘉元年(1257年)閏3月27日、正二位に昇叙。同年8月21日、出家。法名は蓮円。 子に大納言に至った雅言、左少将に至った親頼がいる。.

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源雅親

源 雅親(みなもと の まさちか)は鎌倉時代の公卿。正二位大納言淳和奨学両院別。唐橋と号す。父は正二位権大納言淳和奨学両院別当源通資。母は従三位藤原長輔の娘。.

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源雅言

源 雅言(みなもと の まさとき)は鎌倉時代中期から後期の公卿。正二位権大納言。権中納言源雅具の長男。母は土御門院播磨局(花山院家の家司・高階業国の娘)。.

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源雅清

源 雅清(みなもと の まさきよ)は鎌倉時代前期の公卿。参議正三位左中将備中権守。父は正二位権大納言淳和奨学両院別当源通資、母は従三位藤原長輔の娘。源雅親の同母弟である。.

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源通氏

源 通氏(みなもと の みちうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。正二位大納言・源通方の長男。.

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源氏絵

源氏絵(げんじえ)とは、『源氏物語』を題材とした絵画のこと。ただし江戸時代には、柳亭種彦作の合巻『偐紫田舎源氏』を題材とした浮世絵の事も称した。.

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源泰光

源 泰光(みなもと の やすみつ)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。大納言・源師頼の孫、右京権大夫・源師光の長男。.

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滋野井実宣

滋野井 実宣(しげのい さねのぶ)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。参議・滋野井公時の長男。日記に『実宣卿記』がある。.

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滋野井公光

滋野井 公光(しげのい きんみつ)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・滋野井実宣の二男。.

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持明院

持明院(じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。現在の京都市上京区安楽小路町の光照院の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、持明院統の由来となる。邸宅を持明院殿、また寺院を安楽光院(あんらくこういん)・安楽行院(あんらくぎょういん)とも称す。.

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持明院基家

持明院 基家(じみょういん もといえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。大蔵卿・藤原通基の三男。初名は通基。後堀河天皇の外祖父。官位は正二位・権中納言。持明院家3代当主。.

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持明院家行

持明院 家行(じみょういん いえゆき)は鎌倉時代前期の公卿。非参議・持明院基宗の次男。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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持明院陳子

持明院 陳子(じみょういん ちんし/のぶこ、藤原 陳子、承安3年(1173年) - 嘉禎4年10月3日(1238年11月10日))は、平安時代・鎌倉時代の女性。後高倉院の妃で、後堀河天皇の生母。父は正二位権中納言持明院基家、母は平頼盛の女(宰相局、後高倉院乳母)。同母兄に持明院保家がいる。准三宮。女院号は北白河院(きたしらかわいん)。法名は如律。 承久3年(1221年)、彼女所生の後堀河天皇が即位しているが、その背景として彼女の従兄弟が源頼朝の妹婿である一条能保であったこと、彼女が平治の乱で頼朝の命を救った池禅尼の曾孫にあたり、鎌倉幕府から好感が持たれたとする見方がある。 貞応元年(1222年)4月13日、従三位、准三宮となり、同年7月11日、院号宣下をうけた。同年出家し、如律と号する。嘉禎4年(1238年)10月3日、66歳で薨去した。 嵯峨清凉寺の寺宝の牛皮華鬘は、陳子にまつわる伝承を持つ。陳子所生の安嘉門院が夢で、母が牛に生まれ変わったことを知る。女院はその牛を探し出し、購入して厚遇するが、「慳貪の罪で畜生に生まれ変わった者の苦役をとどめれば、贖罪がかなわない」との釈迦のお告げを得て、泣く泣く元の飼い主に引き渡した。その後まもなく死んだ牛の革で華鬘を作ったという話である。.

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戒光寺

戒光寺(かいこうじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、丈六さんとも称される。山号は東山または泉山。本尊は釈迦如来。京都十三仏霊場3番札所。泉山七福神巡り2番(弁財天)札所。.

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斎宮

斎宮の復元擬態(斎王まつり)三重県明和町 斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。.

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新勅撰和歌集

『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)は十三代集の最初、通算で第九勅撰和歌集。別名、宇治川集など。 貞永元年(1232年)6月13日、後堀河天皇の下命を受けた藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、四条天皇代の文暦2年(1235年)3月12日、完成し奏上。仮名序も定家筆。20巻、伝本によって歌数が違うが、1370首強ある。部立は四季(春秋二巻、他一巻)・賀・羇旅・神祇・釈教・恋・雑(恋・雑共に五巻)の順に並び、従来の二十巻の勅撰集において独立した巻を持った哀傷・離別の項目が無く、それぞれ雑歌・羇旅に吸収されている。 最多入集歌人は藤原家隆(43首)で、九条良経(36首)、藤原俊成(35首)、西園寺公経(30首)、慈円(27首)、源実朝・九条道家(共に25首)、飛鳥井雅経(20首)がそれに次ぎ、定家が庇護を受けた九条家・西園寺家の貴顕(公経は定家の義弟にして、関白九条道家の岳父である)の入集が目立つ。ほかに北条泰時ら武家歌人の歌もある。承久の乱以後、流刑地にあった大歌人後鳥羽院と順徳院の歌を除外したのは、他ならぬ幕府への配慮であるが、藤原家隆・源実朝を高く評価する傍ら、自身の歌の入集を最小限に抑えた定家の態度は興味深い。 新勅撰集は華やかな新古今調から一転して平明枯淡な趣向に走り、定家晩年の好みを伺わせる。その保守的な歌風は二条派に「実」として尊重され、中世和歌の手本となった。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:藤原定家 Category:13世紀の書籍 Category:13世紀の詩.

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新長谷寺

新長谷寺(しんちょうこくじ)は、岐阜県関市にある真言宗智山派の寺院である。山号は吉田山。 山号より通称「吉田観音(きったかんのん)」という。正式名称より通称で呼ばれることが多い。本尊は十一面観世音菩薩。三重塔、本堂など、重要文化財が多く、美濃の法隆寺の別名がある。 美濃四国第二十二番。美濃三十三観音霊場第三十三番札所。美濃七福神(毘沙門天).

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日野家宣

日野 家宣(ひの いえのぶ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。中納言・日野資実の長男。.

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日野家光

日野 家光(ひの いえみつ)は鎌倉時代初期の公卿。権中納言・日野資実の三男。.

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日野光国

日野 光国(ひの みつくに)は鎌倉時代の公卿。権中納言・日野資実の四男。.

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日本の中世文学史

日本の中世文学史(にほんのちゅうせいぶんがくし)は、中世(およそ鎌倉時代から安土桃山時代まで)の日本文学の歴史である。.

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日本の皇后一覧

日本の皇后一覧(にっぽんのこうごういちらん)は、日本の皇后の一覧。.

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摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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摂政・関白の一覧

日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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1207年

記載なし。

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1212年

記載なし。

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1220年代

1220年代(せんにひゃくにじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1220年から1229年までの10年間を指す十年紀。.

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1230年代

1230年代(せんにひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1230年から1239年までの10年間を指す十年紀。.

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1234年

記載なし。

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1286年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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2月18日 (旧暦)

旧暦2月18日は旧暦2月の18日目である。六曜は先勝である。.

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3月22日

3月22日(さんがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から81日目(閏年では82日目)にあたり、年末まであと284日ある。.

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7月29日

7月29日(しちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から210日目(閏年では211日目)にあたり、年末まであと155日ある。誕生花はサボテン、エキザカム。.

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7月9日 (旧暦)

旧暦7月9日(きゅうれきしちがつここのか)は、旧暦7月の9日目である。六曜は先負である。.

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86

86(八十六、はちじゅうろく、やそじあまりむつ)は、自然数、また整数において、85 の次で 87 の前の数である。.

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8月31日

8月31日(はちがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から243日目(閏年では244日目)にあたり、年末まであと122日ある。8月の最終日である。.

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8月6日 (旧暦)

旧暦8月6日(きゅうれきはちがつむいか)は旧暦8月の6日目である。六曜は先勝である。.

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