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宝蔵王

索引 宝蔵王

宝蔵王(ほうぞうおう、生年不詳 - 682年)は、高句麗の第28代・最後の王(在位:642年 - 668年)。姓は高、諱は臧、または寶臧。先代の栄留王の弟の大陽王の子で、642年に栄留王を弑逆した淵蓋蘇文によって王位に即けられた。彼を最後に高句麗は滅亡したため諡されず、諱のまま宝蔵王と呼ばれる。子には、男福・徳男・任武・徳武・連などの名が文献にみられる。.

25 関係: 南陽房氏報徳国大王の夢大祚榮 (テレビドラマ)太王安東都護府善徳女王唐の高句麗出兵元鏡剣と花百済遣新羅使高句麗高句麗の軍事史高麗氏淵男生淵蓋蘇文淵蓋蘇文 (テレビドラマ)朝鮮の君主一覧房季弘文武王日朝関係史扶余豊璋682年7世紀

南陽房氏

南陽房氏(남양방씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は京畿道華城市である。2000年調査では、27454人である。 中国の唐朝の太宗時代の宰相である房玄齢の次男である房遺愛(房俊)が643年に高句麗の宝蔵王の要請で、高句麗に唐朝の八学士の一人として派遣された。その房遺愛の子孫の房季弘が南陽房氏の始祖である。.

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報徳国

報徳国(ほうとくこく)は、7世紀後半に百済・高句麗が滅んだ後に、新羅が唐に対抗するため名目的に高句麗遺民を冊封した傀儡政権。報徳の語義について『三国史記』新羅本紀の分注では、帰順を意味するものか、あるいは地名なのか、不明であるとしている。 7世紀中頃の新羅は、西方は百済、北方は高句麗から圧迫されて滅亡寸前まで追い込まれていたが、武烈王の対唐外交が成功し、唐と協力して660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼすことができた。しかし、唐は新羅の半島統一を援けるために百済・高句麗征討を行なったわけではなく、百済の故地に熊津都督府(現在の扶余郡)、高句麗の故地に安東都護府(現在の平壌市)を置き、それぞれの遺臣を用いて統治させる羈縻政策を用いようとしていた。新羅に対しても詔勅によって国全体を鶏林州都督府としており、新羅を含めて朝鮮半島全体を唐の支配下に置こうとしていたことが明らかであった。 このような状況下で670年に、高句麗の最後の王である宝蔵王の娘の子、あるいは末期の権臣淵蓋蘇文の弟の淵浄土の子とされる安勝を担ぎ上げた高句麗遺民集団が新羅に亡命してきた。そのため、新羅の文武王は彼らを藩屏として扱い、高句麗遺民集団を旧百済の領域であった金馬渚(現在の全羅北道益山市金馬面)に居住させた。さらに670年8月1日に安勝を高句麗王に冊封し、674年9月に報徳王に封じた。 こうした新羅による報徳王の冊封は、唐に対して高句麗の旧民を支配していることを誇示し、朝鮮半島の自治を勝ち取る目的と、旧高句麗領域の住民を新羅の支配下に穏やかに取り込むための方策として行なわれたと見られている。680年には文武王の妹が報徳王の安勝に降嫁し、さらに683年には安勝に蘇判(官位3等官迊飡の別名)の官位とともに新羅王と同じ金姓が与えられ、王都金城(慶州市)に移された。 しかし684年11月になると、安勝の一族の将軍の大文が金馬渚にて反乱を起こし、高句麗旧民が集団となって新羅の官吏を殺害して回るという出来事が起こった。神文王は軍を派遣して乱を鎮圧し、この地の住民をより南方に移住させることとした。安勝に対してどのような処遇があったのかは明らかではないが、その後は報徳国・報徳王の名は現れなくなった。.

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大王の夢

『大王の夢』(だいおうのゆめ)は、2012年9月8日から2013年6月9日まで放送された韓国KBSのテレビドラマ。全70回。新羅第29代王、武烈王を主人公とした歴史ドラマ。 日本では、同年10月からCSのKBSワールドにて『大王の夢 〜王たちの戦争〜』の邦題で放送。2013年11月5日から2014年2月17日までBS朝日で『大王の夢』の邦題で放送していた。.

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大祚榮 (テレビドラマ)

大祚榮(テジョヨン、朝鮮語:대조영)は、2006年9月16日から、2007年12月23日の間、韓国のKBSテレビで放送された時代劇ドラマである。全134話。.

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太王

太王(たいおう、태왕)は、神王(신왕)、聖上(성상)などと一緒に高句麗の君主を称える称号である。新羅でもこの称号を使用した痕跡がある。.

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安東都護府

安東都護府(あんとうとごふ)は、唐朝が高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)後、現在の朝鮮半島北中部から満洲南部に相当する高句麗旧域の管理を目的に設置した統治機構。唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林州都督府として、半島全域を藩属国に変えて羈縻州としたため、一時的に朝鮮半島に国はなくなった。.

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善徳女王

善徳女王(ぜんとくじょおう、生年不明 - 647年2月17日(旧暦1月8日))は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。新羅初の女王。 姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は水月葛文王朴欽飯。 3人姉妹(善徳女王は「三国史記」では長女として記録され、「三国遺事」と「花郎世記」では次女とされている。天明公主は「三国史記」で次女、「三国遺事」では娘、「花郎世記」では長女。三女の善花公主は「三国史記」と「花郎世記」では存在が伝わっていない)であり、男兄弟はいない。 先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。.

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唐の高句麗出兵

唐の高句麗出兵(とうのこうくりしゅっぺい)は、644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。攻められた高句麗軍は最初の十数年は善戦し、淵蓋蘇文などの活躍により太宗によるを阻んだ。663年に百済が滅亡すると、唐は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。内紛と離反で弱体化していた高句麗は、王都平壌が攻略されて滅亡した。 唐の高句麗出兵は三国時代の終わりを位置づけ、朝鮮半島は統一新羅の時代となった。また、この戦いで手に入れた領土を巡る唐・新羅戦争を引き起こした。.

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元鏡

元鏡(원경)は、中国の唐朝の翰林学士であり、朝鮮の氏族の原州元氏の始祖である。 中国の唐朝の太宗から高句麗に八学士の1人として派遣された。元鏡は、中国の原城出身であり、元々の名は元慶である。 元鏡は、唐朝の金紫光禄大夫と平章事だったが、唐朝と高句麗の国交回復と宝蔵王を冊封するために、佐命功臣として高句麗に派遣された。.

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剣と花

『剣と花』(けんとはな、朝鮮語:칼과 꽃, 英語:The Blade and Petal)は、2013年7月3日から2013年9月5日まで韓国のKBSで放送されたテレビドラマ。全20話。歴史ファンタジードラマ。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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遣新羅使

遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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高句麗の軍事史

476年頃の高句麗の最大版図 高句麗の軍事史(こうくりのぐんじし)には三国時代の百済や新羅、 歴代の中国の王朝、遊牧国家および民族や、 倭国等の対外戦争が含まれる。 高句麗は軍国主義国であり 、帝国としても東アジアにおいて強い影響力を持った。有力な武将・淵蓋蘇文の死後の内部紛争などにより衰退した668年に新羅と唐の連合軍に滅ぼされた。.

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高麗氏

麗氏(こまうじ、こまし)は、日本の氏族のひとつ。「狛」や「巨萬」とも表記されることがあった。.

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淵男生

泉男生(せん だんせい、ヨン・ナムセン、634年 - 679年1月29日)は、高句麗の政治家・軍人。淵蓋蘇文の子。兄弟間の争いのために唐に服属した。字は元徳。.

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淵蓋蘇文

淵蓋蘇文(えん がいそぶん、生年不詳 - 665年(宝蔵王24年))は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。.

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淵蓋蘇文 (テレビドラマ)

『淵蓋蘇文 』(えん がいそぶん、ヨン・ゲソムン)は、韓国SBSで2006年7月8日から2007年6月17日まで毎週土日に放送されたテレビドラマである。日本では、KNTV、BS朝日で放送。全100話。.

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朝鮮の君主一覧

朝鮮の君主一覧(ちようせんのくんしゅいちらん)は、古代の朝鮮半島(一部現在の中国東北部を含む・民族は中国系朝鮮系等特定の民族を指したものではない)で出来た国々の王、皇帝などを扱う。.

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房季弘

房季弘(방계홍)は、高麗の文官であり、朝鮮の氏族の南陽房氏の始祖である。 中国の唐朝の太宗時代の宰相である房玄齢の次男である房遺愛(房俊)が643年に高句麗の宝蔵王の要請で、高句麗に唐朝の八学士の一人として派遣され、その房遺愛の子孫として生まれた。 高麗時代に、三韓壁上功臣、三重大匡輔國公を歴任した。.

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文武王

文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月21日(旧暦7月1日))は、新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。.

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日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。.

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扶余豊璋

扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある鈴木靖民「七世紀中葉の百済の政変」『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館 2011年 ISBN 9784642024846。 倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。.

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682年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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